家原寺
(えばらじ)

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.古寺巡訪MENU

1.所在地
  堺市西区家原寺町1−8−20
家原寺三重塔
2.宗派
  高野山真言宗 本尊:文殊菩薩
3.草創・開基
僧・行基、母逝去後その家を寺を建立
この家原寺の地には行基の生家がありましたが、慶雲元年(704)、行基37歳のとき「生家を掃き清めて仏閣となす」(行基菩薩年譜)と記載されており、家原寺は行基が建立した最初の寺院です。

なお、この行基菩薩年譜の記事は、「続日本紀」天平20年2月2日の項に「二月二日、大僧正の行基和尚が遷化した。和尚は薬師寺の僧である。俗姓は高志(こし)氏で和泉国の人であった」とあり、また「大僧正舎利瓶記」には「天智七年(668)河内国大鳥郡に於いて生(誕)まれる」ともあることから、信憑性は高いと考えられています。

(注)「続日本紀」天平20年2月2日の項に記載されている行基の「畿内、四十九カ所」建立寺院には含まれず別格とされています。

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4.その後の変遷
(!)草創後詳細は不明
当寺院の草創後の正史や寺伝は、一切残されておらず詳細は不明です。
奈良時代の大寺の多くが、平安遷都後、朝廷の保護が薄弱になるとともに急速に衰退したのと同様に当寺院も衰微し荒廃していったのではないかと考えられています。
(2)鎌倉時代、西大寺の僧・叡尊が再興
鎌倉時代の寛元3年(1245)西大寺を再興した僧・叡尊が、荒廃していた当寺院を再興 しました。
その後、南北朝、戦国時代の度重なる兵火によって堂宇の焼失・再建を繰り返しましたが、江戸時代に入って世が治まり慶安元年(1648)に現本堂が再建され順次伽藍も整備されて行きました。
(3)明治初期の廃仏毀釈で荒廃する
・しかし、明治時代に入って廃仏毀釈の狂気が当寺院にも襲いかかりました。
・当寺院は当時の国粋主義者のてによって伽藍そのものが大きく破壊されました。
・そしてその混乱の中で、当寺院の南大門を守っていた阿吽の金剛力士像が、何者かによってフランス人
  美術商の売り飛ばされしまいました。この金剛力士像は、運慶・快慶の作といわれ我が国の貴重な美術品
  でありました。
・そしてその後の調査で、この像は、現在、米国ワシントンののフーリエ美術館にあることが確認されて
  います。
・まことに明治新政府の国粋主義者による日本固有の建造物や美術品の破壊略奪が如何にすさまじいもので
  あったのか、ここでも知ることができます。

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5.特記事項
  • 当寺院の本尊が智恵文殊菩薩であることから古くから智恵を授かるを転じて受験生の成就祈願で有名です。
  • 受験生が成就祈願を本堂の扉、壁、柱に書き立てたため「落書き寺」との別名でも呼ばれています。
  • また、当寺院は、西国薬師第十五番霊場 です。

   ※ 行基については、下記ののページをご参照ください 。
       日本メモ 行基   喜光寺  東大寺  大野寺・土塔  水間寺  孝恩寺  久米田寺

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6.現在の境内

南大門 境内
家原寺南大門 家原寺境内
家原寺で最も旧い建造物とされるが詳細は不明 左が鐘楼、正面は本堂、右は水かけ地蔵堂
本堂・文殊堂 三重塔と水かけ地蔵堂
家原寺本堂・文殊堂 家原寺三重塔
江戸時代初期の慶安元年(1648)再建された 本堂前の境内から東側に三重塔がある
     
経堂    開山堂 
家原寺経堂   家原寺開山堂
小堂ながら経堂らしく漆喰で練り固められている   行基、弘法大師、叡尊を祀る
薬師堂(西国薬師第十五番霊場) 行基菩薩御影堂
家原寺薬師堂   家原寺行基菩薩御影堂
   
行基塚石碑    三重塔 
家原寺行基塚石碑    家原寺三重塔
「行基菩薩生誕塚」と彫られている   平成元年建立された仏塔
     
仁王像(西)   仁王像(東) 
家原寺仁王像     家原寺仁王像
   当寺院のホームページには上記の像二体は本来のものではなく、本来の像は明治初年の廃仏毀釈によって
   「フランス人美術商に売却され、現在は米国ワシントンのフーリエ美術館にある」と記載されている。
   なお、この本来あった像は運慶・快慶の作であるとも記載されている。   

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7.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2011/11作成 2016/1補記改訂 2017/04補記改訂
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