喜光寺(菅原寺)
(きこうじ・すがわらでら)

喜光寺
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.古寺巡訪MENU

1.所在地
   奈良市菅原町508
2.宗 派
   法相宗  本尊 阿弥陀如来像
3.草創・開基
  • 養老5年(721)寺史乙丸という者の旧邸宅の寄進を受け、行基が創建したと伝わる。「行基年譜」
    寺史乙丸は菅原氏の祖先で、喜光寺の一帯は古くから菅原氏の支配する地域であった。菅原氏とは垂仁天皇の時、土師臣の姓を受けた名族から分立した氏族で、有名な菅原道真はこの氏族の出身である。
  • 上記の創建説に対して、喜光寺は菅原氏の氏寺・菩提寺として霊亀元年(715)に創建されたいう説もあり、この説も捨てがたい。なお、この喜光寺の東奥に隣接して菅原氏の祖を祭神とする菅原天満宮があり、この神社の創建は喜光寺創建以前と伝わる。
    菅原天満宮鳥居 本殿
    菅原天満宮 菅原天満宮本殿
    菅原(土師)氏の三祖先(天穂日命・野見宿禰命・菅原道真)を祭神する。
  • また、寺史乙丸寄進説によれば、行基が霊亀3年(717)4月23日、朝廷(元正天皇)より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧されてから僅か4年後に寄進したということになる。朝廷の意に反して名族である菅原氏の一族が邸宅の寄進や氏寺を行基に提供することができたであろうか。この点が少々疑問である。
  • 従って、私見ながら、当寺院の創建は、むしろ他の行基建立の寺院と同じく当地が奈良時代の主要街道に近いことから布施屋から発展的に小規模な寺院となり、行基が朝廷から認められる頃から菅原氏の寄進等があって拡充していったのではないかと思う。
  • 寺院規模は、創建時は小規模であったが、行基の名声の高まりとともに順次拡張されていったのであろう、平安時代中期の古文書には四丁六段(約4800坪)とあり、広大な寺域を誇ったことが記録されている。
    平城京大寺の所在地
  • 寺名は本来菅原寺である。「喜光寺」の由来は寺伝によると「天平20年(748)に聖武天皇が当寺を参詣された際、ご本尊より不思議な光明が放たれ、そのことを喜ばれた天皇より「喜光寺」という寺号を賜った」とされている。
  • なお、行基は、その聖武天皇が参詣された翌年の天平21年(749)2月2日、82年の波瀾万丈の生涯を当寺院で閉じ、遺命に依って弟子達によって惜しまれつつ火葬に付され、生駒山丘陵地にある竹林寺に埋葬された。

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4.その後の変遷
  • 当寺院の変遷は記録が無くよくわかっていないが、前述のとおり平安時代中期の古文書には四丁六段(約4800坪)とあり、広大な寺域を誇ったことが記録されている。
  • 室町時代中期の明応8年(1499)12月に焼失し、室町時代末期の天文13年(1544)ごろ再建された(現在の本堂はこのときのもの)。
  • 室町時代以降には興福寺一乗院の末寺となり、その庇護の下法灯を護った。
  • 徳川幕府となった慶長7年(1602)8月、家康から菅原村の寺領30石の朱印地が安堵される。
  • 享保15年(1730)当寺院住職寂照によって木造行基御影像が再興されているが、現在この像は西大寺に安置されている。
  • 平成22年、南大門が写経勧進などによって再建される

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5.特記事項
  • 喜光寺は行基が入寂した寺としてよく知られており、続日本紀に記載されている行基建立四十九寺の一つである。
  • 現在、喜光寺は薬師寺が実質管理されているようで、住職も薬師寺管長の山田法胤氏である。
  • 行基のことは、日本史メモ「行基」に詳しく述べたのでそちらを参考にしていただきたいが、行基は、仏教が人々を苦しみから救済するという本来の信仰としての仏教よりも、鎮護国家のためのものであるという認識が大勢を占める世にあって、多くの困難や権力側からの弾圧にも屈せず、大乗仏教の菩薩道である利他行を生涯を通じて実践し、本来の仏教徒としての己を貫いた僧である。彼にとって社会事業は、社会的な矛盾に立ち向かうなどの思想や観念によりものでは無く、あくまで己の仏教僧としての修行そのもの以外なにものでもなかった。そういう意味で私は、仏教伝来から今日まで数多くの名だたる仏教僧がおられるが、行基はそのなかでも最も注目されてしかるべき僧だと考えている。

    ※ 行基については、下記の各ページをご参照ください。
         日本史メモ「行基]   東大寺  大野寺・土塔  水間寺  孝恩寺  家原寺  久米田寺

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6.現在の境内

南大門 境内全景
喜光寺南大門 喜光寺全景
平安遷都1300年にあたる平成22年に再建された。その資金は多くの人々の写経等を通じての寄進によって集められた 当寺院の前の阪奈道路にかかる歩道橋の上から撮影した。境内に整然と置かれているのは蓮の大きな鉢で6−7月が見頃だとのこと
石仏群 釈尊初転法輪像
喜光寺石仏群 釈尊初転法輪像
本堂の右手にこのように多数の石仏が安置されている。これらの石像は、境内に散在していたものをここに集められたということで、全部で47体あり、造られたのは江戸時代であるという 初転法輪とは釈迦が初めて仏教の教義を人々に説いたことをいい、この石像はその姿を造形化したもの。肝心の仏足石が写っていないが、平成8年にインド、ブッダガヤの仏足石を模写し、安置されたという
     
本堂
喜光寺本堂    創建当時の本堂は、東大寺大仏殿を試作するために10分の1の大きさで建てられたと伝わり「試みの大仏殿」と呼ばれたいう。行基は天平15年(743)に大仏建立勧進役に任ぜられて以降深く東大寺大仏建立に関わっており、試作建築として建てられたと言うことはあったかも知れない。
  しかしその創建時の本堂は、室町時代の明応8年(1499)に焼失しており現存のものは、室町末期の天文13年(1544)に再建されたものである。
     
     
本尊 阿弥陀如来像 観自在菩薩
喜光寺本尊阿弥陀如来座像

平安時代末期の作と推定されており寄木造り
漆箔で造られ重要文化財に指定されている
  喜光寺観自在菩薩

勢至菩薩
喜光寺勢至菩薩
行基座像
喜光寺行基菩薩座像     南都古社寺辞典(吉川弘文館刊)によると「享保15年(1730)12月住持寂照により木造行基御影像が再興され、現に西大寺に移安されている」とある。
  なお、左の当寺院の行基座像は、行基入寂1250年を記念して唐招提寺所蔵の行基座像(鎌倉時代)を複製されたものである。
 
  行基の詳細については
                  日本史メモ「行基」 をご覧下さい。
弁天堂
喜光寺弁天堂
  喜光寺弁天像
本堂の裏側に弁天堂ある。堂内にかわいらしい弁天さんの立像が安置されていた。さらに奥にはご神体である「宇賀~王」が祀られている。このご神体は毎年7月中旬に特別開扉されるとのことだ。
 弁財天は、梵名(ぼんめい)をサラサバティーといい、もともとヒンドゥー教の神で、音楽・芸術・増益(富)を司り、後に仏教に取り入れられた女神である。一方「宇賀神」は日本固有の神で五穀を司る神がいつか財宝の神に転じた言われている。平安時代から盛んになる神仏習合によってこの二つの同じ性格を持つ神が習合されたといわれる。
 法相宗の寺院に弁天堂という違和を感じたが、その反面、民衆に入って仏道に励んだ行基の寺に、こうした現世利益を望む民衆の堂があっても不思議ではないのかも知れないとも思った。
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7.古寺巡訪MENU
<更新履歴>2011/12作成 2016/1改訂 2020/11補記改訂
喜光寺