参道1 |
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参道2 |
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有里町は生駒山東麓の丘陵地にあり住宅が立て込む坂道を上っていくと突然左手にこの石標がある |
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石標からのなだらかな坂を上がっていくとさらにこの階段があり、これを登り切った所に竹林寺がある |
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本堂・文殊堂 |
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庫裡(庫裏) |
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1998年に落慶された本堂 |
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瀟洒な庫裡が本堂の左手前にある |
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顕彰碑 |
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結界石 |
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行基の業績とその徳を顕彰する文が刻まれている。造立時期は不詳であるが、行基信仰が高まった鎌倉時代ごろではないかと考えられている。顕彰碑の横の説明文には『利生のために降誕し、人の世にありて八十二年なり。仏場を建つること四十九なり。菅原寺にこれ圓寂を唱し生馬山を点じ、真骨を留めて…』と記載されている。 |
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結界石とは、境内と俗界を区切る標石のことである。
この標石には『大界外相 勧進沙門入西』(正面)『生駒之霊峯十方如来所化道場也 悉往還之男女可致一札竟域之懐 □□之徳篤示一等□□□建支提□』(背面)」と刻まれ、僧入西〔にゅうさい〕が造立したことがわかる。造立時期は、無量寺(注1)の鎌倉時代の嘉元2年(1304)銘の五輪塔地輪と同時期頃の作と考えられている。 総高115.0cm 石造 |
(注1)無量寺:生駒市壱分町東にある浄土真宗の寺院。境内に同じく入西という僧が建立した五輪石塔残欠がある。この残欠に、建立者、入西、嘉元2年2月等と記された銘文が残されている。 |
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行基墓 |
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行基墓 |
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墳丘の上に、クマザサであろうか茂っているために分かりづらいが、一辺約10mの方形の墳丘である。大正10年に国の史跡に指定されている。
この墳丘が築かれたのは『竹林寺略記』(唐招提寺)によれば、文歴2年(1235)年8月25日に、唐招提寺の僧寂滅がこの墳丘から舎利瓶を掘り出し、土壇を築き、塔廟を建て埋め直したとある。発掘された時の舎利瓶の状態については、「八角石筒の中に銀筒を納め、その中に「行基菩薩遺身舍利之瓶」の銀札を付した銀製舍利瓶が奉安されていた」という。なお、現在その一分の破片のみしか残されておらず、その破片は現在、奈良国立博物館に所蔵されている。 |
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忍性墓 |
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忍性墓近くに点在する墓標 |
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忍性は行基に深く帰依したことは前述の通りであるが、嘉元元年(1303年)鎌倉の極楽寺において87歳で逝去。 そして遺骨は忍性の遺命によって大和国額安寺と、ここ竹林寺に分骨された |
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僧・忍性の墓の近くにはこのような墓が点在している。これの多くは、忍性の徳を慕った関東等の信者たちの墓だと伝わっている |
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竹林寺古墳 |
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竹林寺古墳 |
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この古墳は、竹林寺への参道への石段に至る直前にある。
発掘調査の結果、 前方部が宅地開発によって一部削られているが、全長約60m・高さ約8m・後円部径約45mの前方後円墳で、築造時期は、古墳時代(4世紀後半)であることが判明している。また埋葬されているのは、生駒谷を支配した豪族・平郡氏の族長であろうとも推定されている。なお、発掘時に鏡,、鉄剣・鉄釘や大型の家形埴輪・円筒埴輪などが出土している。 |