竹林寺
(ちくりんじ)

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.古寺巡訪MENU

1.所在地
   奈良県生駒市有里町211−1
竹林寺本堂
2.宗派
   律宗
3.草創・開基
  • 行基は下記の「大僧正舎利瓶記」によれば、天平21年(749)2月2日に喜光寺(菅原寺)で逝去し、遺命に依って生駒山東陵で火葬され同地に埋葬され、舎利を器に納めて多宝塔を建てたとある。この行基の墓所が当寺院の開基である。

  • なおこの地は、行基が孝養のために母と過ごした「生駒仙房」があったとという説が現在、有力である。

    生駒仙房とは、下記のとおりの記載が「行基年譜」にある仙房である。
    「行基40歳の頃の慶雲元年(704年)に生駒山に入り、生駒山の東麓の草庵『生馬(いこま)仙房』で母への孝養をつくし「草野(かやの)仙房」に住した」

  • その理由は、
     果たしてこの「生馬仙房」と「草野仙房」が同じものであるのか否かは不詳であるが、この地が行基にとって母と過ごした忘れがたい特別な地であったからこそ、行基自身がその遺命に依って選んだのではないかと考えられている。
    <参考>大僧正舎利瓶記
    「和上は、行基と一に号す。(中略)寿八十二、(天平)二十一年二月二日丁酉之夜、(中略)右京の菅原寺に奄(にわかに)に終わる。(中略)二月八日、大倭の国平群郡生駒山の東陵に於いて火葬す。是れ、遺命に依る也。(中略)此の器の中に故に蔵して、頂礼の主と以て為し、彼の山上に界して、多宝之塔を以て慕う。天平二十一年歳次巳丑三月二十三日沙門真成」
    (頂礼:仏や尊者の前にひれ伏し、頭を相手の足につけて拝むこと。 天平二十一年は西暦749年)

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4.その後の変遷
  • 行基墓所とする竹林寺であったが開基して僅か24年後の宝亀4年(773)に、下記の通り続日本紀には荒廃している寺の一つとしてピックアップされるほどの衰微した寺院となっていた。しかしこの光仁天皇の勅によって一定の経済的基盤が確保され、その後の法灯は守られたようである。
    <参考>続日本紀宝亀4年(773)11月20日条
    「天皇(光仁)は次のように勅した。
    故大僧正の行基は法師は、持戒・修行ともに充分であり、智と徳を兼ね備えていた。(中略)その修行院(道場)は全てで四十余カ所ある。その内、ある院は先朝の時に施入された田地があり(中略)充分に供養することができる。ただし、そのうちの六院については、まだ田地の施入に与っていない。これでは寺が荒廃して、再び住持する僧もいなくなり、精舎は荒涼として空しく座禅の跡を残すのみとなろう。(中略)そこで、大和国の菩提院・登美院・生駒院・泡遅刻の石凝院・和泉国の高渚院の五院に、それぞれその郡の田三町を喜捨し、河内国の山崎院には二町を喜捨せよ」
  • そして再興されたのは、なんと直近の平成9年(1997年)になってからである。
  • 江戸時代初期に智教が再興したが、明治に入って吹き荒れた廃仏毀釈によって当寺院は廃絶となってしまう。
  • しかし、各地で土一揆が勃発し、戦国の世となった室町時代の明応7年(1498)8月、当寺院は兵火によって炎上し、以降、衰退する。
  • 永仁6年(1298)には、鎌倉幕府の将軍家祈祷寺三十四カ寺の一つ数えられるほど復興を見せている。
  • その中でも忍性は行基の菩薩道に深く帰依した僧である。忍性が、行基が実践した利他行、即ち社会事業を活発に展開したのはそのあらわれである。
  • その後、円照、良遍、忍性、凝然らの高僧が本寺院を住持または参詣し、次第に堂塔が整う。
  • 仏教の高揚期を向かえた鎌倉時代には行基の菩薩信仰への関心も深まり、文暦2年(1235)8月25日に、唐招提寺の僧寂滅によって、行基の墓所の発掘が行われ、前述の309字からなる「墓誌」が刻まれた舎利瓶が発見される。唐招提寺『竹林寺略記』

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5.特記事項
  • 忍性の墓である五輪石塔が当寺院にある。忍性は行基に深く帰依したことは前述の通りであるが、嘉元元年(1303年)鎌倉の極楽寺において87歳で逝去した。
  • そして遺骨は忍性の遺命によって大和国額安寺と、ここ竹林寺に分骨されたものである。
  • なお、忍性は嘉暦3年(1328年)後醍醐天皇より忍性菩薩の尊号を勅許されている。
  • 行基については、日本史メモ「行基」をご覧下さい。
  • 当サイトの行基に関連するページは以下の通りです。ご参照下さい。
    喜光寺  東大寺  大野寺・土塔  水間寺  孝恩寺  家原寺  久米田寺

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6.現在の境内
参道1 参道2
竹林寺入口 竹林寺石段
有里町は生駒山東麓の丘陵地にあり住宅が立て込む坂道を上っていくと突然左手にこの石標がある 石標からのなだらかな坂を上がっていくとさらにこの階段があり、これを登り切った所に竹林寺がある
本堂・文殊堂 庫裡(庫裏)
竹林寺本堂 竹林寺庫裏
1998年に落慶された本堂 瀟洒な庫裡が本堂の左手前にある
     
 顕彰碑    結界石
顕彰碑   結界石
  行基の業績とその徳を顕彰する文が刻まれている。造立時期は不詳であるが、行基信仰が高まった鎌倉時代ごろではないかと考えられている。顕彰碑の横の説明文には『利生のために降誕し、人の世にありて八十二年なり。仏場を建つること四十九なり。菅原寺にこれ圓寂を唱し生馬山を点じ、真骨を留めて…』と記載されている。   結界石とは、境内と俗界を区切る標石のことである。
  この標石には『大界外相  勧進沙門入西』(正面)『生駒之霊峯十方如来所化道場也 悉往還之男女可致一札竟域之懐 □□之徳篤示一等□□□建支提□』(背面)」と刻まれ、僧入西〔にゅうさい〕が造立したことがわかる。造立時期は、無量寺(注1)の鎌倉時代の嘉元2年(1304)銘の五輪塔地輪と同時期頃の作と考えられている。 総高115.0cm 石造
(注1)無量寺:生駒市壱分町東にある浄土真宗の寺院。境内に同じく入西という僧が建立した五輪石塔残欠がある。この残欠に、建立者、入西、嘉元2年2月等と記された銘文が残されている。 
     
行基墓   行基墓
行基墓   行基墓
  墳丘の上に、クマザサであろうか茂っているために分かりづらいが、一辺約10mの方形の墳丘である。大正10年に国の史跡に指定されている。
  この墳丘が築かれたのは『竹林寺略記』(唐招提寺)によれば、文歴2年(1235)年8月25日に、唐招提寺の僧寂滅がこの墳丘から舎利瓶を掘り出し、土壇を築き、塔廟を建て埋め直したとある。発掘された時の舎利瓶の状態については、「八角石筒の中に銀筒を納め、その中に「行基菩薩遺身舍利之瓶」の銀札を付した銀製舍利瓶が奉安されていた」という。なお、現在その一分の破片のみしか残されておらず、その破片は現在、奈良国立博物館に所蔵されている。
   
忍性墓    忍性墓近くに点在する墓標
忍性五輪石塔墓 竹林寺境内の墓
忍性は行基に深く帰依したことは前述の通りであるが、嘉元元年(1303年)鎌倉の極楽寺において87歳で逝去。 そして遺骨は忍性の遺命によって大和国額安寺と、ここ竹林寺に分骨された   僧・忍性の墓の近くにはこのような墓が点在している。これの多くは、忍性の徳を慕った関東等の信者たちの墓だと伝わっている 
     
竹林寺古墳    竹林寺古墳 
竹林寺古墳1   竹林寺古墳
  この古墳は、竹林寺への参道への石段に至る直前にある。
  発掘調査の結果、 前方部が宅地開発によって一部削られているが、全長約60m・高さ約8m・後円部径約45mの前方後円墳で、築造時期は、古墳時代(4世紀後半)であることが判明している。また埋葬されているのは、生駒谷を支配した豪族・平郡氏の族長であろうとも推定されている。なお、発掘時に鏡,、鉄剣・鉄釘や大型の家形埴輪・円筒埴輪などが出土している。
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7.古寺巡訪MENU
<更新履歴>2012/1作成 2013/4 加筆・改訂 2016/1補記改訂
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