122年前の白河日食
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観測に携わった偉人たち

ディビッド・ペック・トッド氏(1855.3.19-1939.6.1) David Peck Todd
トッド博士はアメリカ合衆国の天文学者であった、コロンビア大学、アマースト大学を卒業後アメリカ海軍天文台、アメリカ編暦局助手を勤めアマースト大学在職中の1887年日食観測のため来日しました。当時最新鋭の望遠鏡、写真機材、技術者を同行させ6月9日にボストンを出発、バンクーバーからは汽船「アビシニア号」に乗船し7月8日に横浜に到着、国内各地を見学したのち日食の4週間前に白河に到着、観測機器の設置と入念なリハーサルを実施、当時日本の写真技師の第一人者であった小川一眞氏、通訳兼協力者の蘆野敬三郎氏(当時学生)の協力にて観測準備を完璧に整えたが、観測当日は曇天に阻まれ結局日食観測は失敗に終わってしまった。その後、トッド氏は1896年に北海道へも日食観測のため来日している。
                写真は Wikimedia Commons より


市川方静(1834-1903) いちかわ ほうせい
市川方静は白河藩主に仕える市川家に生まれた。測量や天文に関して早くから関心を示し特に測量術を習得し「市川儀」と名付けた測量器を開発販売している。日食当日、午前八時、甲乙二班に分かれての観測体制を決断、トッド氏と共に小峰城址で観測する方静甲班と、水神原荒野に集合した乙班に分かれた、先述のように小峰城址での観測は生憎の曇天でかなわなかったが、水神原の乙班(彼の息子市川多橘、塾生千葉亀吉等)は、このように報告している「午後3時41分 風静まり陰々たる気みなぎる。気象正順になれば変化に興味あり、この時太陽月体に消ゆ、月体の周囲きらきらたる光は波動の如きも、周囲の赤き火えんの動くこと異常を感じたり、円きものなり、この変化は二三十秒と覚ゆ忽ち消えたり、地上の風肌に沁む、寒暖計ますますさがる、五十六度」「午後三時四十五分 皆既初期となす、南より西へ高度三十四度余、方七十九度(南方をこれに移す)、寒暖計五十度弱、四方真黒」と観測成功を収めた。     
          写真は NHK出版より   


小川一眞(1860.9.29-1929.9.7) おがわかずまさ
小川一眞氏は埼玉県行田市に藩士の子として生まれ、米国にて写真技
術を習得し、帰国後(明治18年)多くの撮影を手がけて活躍している。そ
の高度な写真技術をトッド博士にかわれ、日食観測隊からの要請を受け
写真を担当することとなった。白河での日食は天候に影響され残念な結果
となった。小川氏は多くの写真を撮影し記録として残している。氏は当時日
本屈指の写真師であった。本ホームページの随所にある白河日食観測設
備関連写真は小川写真製版所]創業紀念三十年誌掲載のものである。



阿部正功(1860.2.14-1925.9.11) あべ まさこと
阿部正功は、白河藩主・阿部正耆(あべまさひさ)の次男として生まれ。棚倉藩第二代藩主となった。その後明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となった後、明治4年(1871年)に廃藩置県で免官される。その後、東京に移住。日食当日は、午前4時に東京の自宅を出て、5時40分発の臨時列車に乗り白河に来られる。トッド博士の観測所である白河城跡はかつて阿部氏の居城であったことから、日食当日に立ち入りを特別に許可され、菊池大麓(きくちだいろく)帝国大学教授、蘆野敬三郎理学博士、市川方静氏等と現場にて観測を行ったと、 学習院大学所蔵の阿部家文書「日食観望記」に
記録されている。  写真は白河市ホームページより、、

菊池大麓(1855.1.29-1917.8.19)  きくち だいろく
数学者、後に帝国大学総長、文部大臣、京都帝国大学総長を務め
る。当時は帝国大学教授、トッド氏観測者の一員として協力した。その
後、1896年(明治29年)8月9日の北海道皆既日食も観測している。ト
ッド氏のレポートによれば、初代帝国大学総長の渡邊洪基(わたなべもと
ひろ)氏が協力、学生であった蘆野敬三郎氏も城壁北西角にて観測した
とのことです。
                   写真は「近代日本人の肖像」より


菊池大麓氏左の写真は、国立国会図書館 
国図企090105004-*-**号の許可を得て掲載しているものです。他サイ
トへの転載、複製をする場合は国立国会図書館の許可が必要です。

柳楢悦(1832.10.8-1891.1.15)やなぎならよし
柳楢悦は津藩の下級武士の長男として東京(江戸)に生まれた海軍水
路部長、海軍少将、米国観測隊の協力者、観測所(司天台)の責任
者であったと思われる。観測当日も入城し観測に同行した。観測のためト
ッド氏から3インチBECK望遠鏡を借り受けたと、トッド氏の「Amerian
eclipse expedition toJapan,1887」に記載されている。

                   

三嶋 通庸(1835.6.1-1888.10.23)みしま みちつね
当時は初代警視総監、過去には福島県令(知事)を勤める。当日は、西白河郡役所にて観測したと思われる。阿部正功氏の日記より鹿児島生まれ、官僚。家は鹿児島藩の鼓の師範。尊王攘夷運動で活躍、鳥羽・伏見の戦後東北を転戦した。明治4年(1871)東京府に出仕、酒田・鶴岡県令を経て9年(1876)から15年882)まで山形県令。15年(1882)1月から福島県令を兼任(同年7月より福島県令専任)。翌年10月より栃木県令を兼ねた。17年(1884)内務省土木局長に転じ、翌年警総監に就任。積極的に地域開発を進める「土木県令」として知られる一方、強権的な手法で自由民権運動と対立、福島事件や加波山事件を誘発した。 通庸の息子三島弥太郎(後に日銀総裁となる)は当時アマースト大学に留学しており、トッド氏帰国直後に会っており、トッド家との交流があった
                      写真は「近代日本人の肖像」より

左、三島通庸氏の写真は、国立国会図書館 
国図企090105004-*-**号の許可を得て掲載しているものです。他サイ
トへの転載、複製をする場合は国立国会図書館の許可が必要です。


折田 平内(1846.12-1905.5.7)おりた へいない
折田平内は当時の福島県知事(官選)、三島通庸氏同様、薩摩藩士
多くの官選知事を歴任、当日は三島氏と西白河郡役所にて日食を観測
したようです。



      写真は北海道大学北方資料データベースより


藤岡市助(1857.4.8-1918.3.5) ふじおか いちすけ
藤岡市助は1857年山口県岩国市に藩士の長男として生まれた。若くし
て電信技術、電気技術を習得、日本初のアーク灯点灯実験に参加し見
事成功を収めた(これを記念し電気記念日となった)1884年にはアメリカフ
ィラデルフィア万国電気博覧会を視察、かのトーマスエジソンに会っている。
日食当日はトッド博士一行の小峰城での観測は知りつつも日本理学会
会員の清水鉄吉氏とともに、旅宿の縁側から皆既日食を観測、後日、コ
ロナ、プロミネンスの模様をスケッチし理学協会雑誌に雑記として発表して
いる。     写真は 東芝ホームページより