122年前の白河日食
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当時の日蝕講義の様子

明治20年皆既日食の起こる前、帝国大学院講義室にて、理科大学教授寺尾寿氏が日蝕についての講義を行った。その講義の内容です。口語を当時の仮名遣いで記録していますので今の時代では大変読み辛いですが、最低限の編集にどどめ当時の表現を尊重しました。また、現代からみれば適切でない表現や言い回しも多々ありますがご理解、ご了承をお願いいたします。

寺尾寿氏 明治20年当時 帝国大学理科大学教授
1855年 福岡藩士の長男として生まれ、東京外国語学校にてフランス語を修め、その後東京大学理学部を卒業、官費でフランスへ留学、パリ天文台にて天文学を研究しカリブ海での金星太陽面通過観測にも参加、その後、米国の天文台を見て回り1883年に帰国、東京物理学校の初代校長、東京大学理学部星学科教授に就任、1888年つまり日蝕の翌年には東京天文台の初代台長、1908年には日本天文学会を創立し初代会長に就任した。
「日蝕観測実記」より
「日本帝国大学院講義室に於いて理科大学教授寺尾寿氏の日蝕の話」


当年の8月19日に日本に日蝕がある筈(はず)で、是れは丁度只今から百年ばかり前に日本で見えた外、今日まで見えたことのない日蝕がまわりまわって見えるのであるから、世間でも頻(しき)りに取沙汰をします、それで。いつもと違い其話をしたらちょいと面白かろうとみんなの勧めに私もそそのかされて今日日蝕の御話しをすることになりました。
先ず日蝕とは何のことかと云うことから説明しましょう。大抵この話しを聴きに御出なさった御方は御存じでも有りましょうがひょっとすると私の言う所の日蝕と諸君の思って居らる、日蝕とは違って居るかも知れないよってちょいと漢学の先生風で日蝕という字義から説きましょう、日と云うのは太陽のことで触と言うのは虫偏に食の字。是は虫を食うのやら虫が食うのやら分からんが太陽が虫を食うと言う訳は無い。おおかた虫が太陽を食うということだろう。どんな虫だか知らないが太陽かなにかに食われるということと見えます。
 現に春秋という支那の難しい書物の中に「日有食之」とあって太陽に何か来て食ったものが有ると云うことが書いてある。是が今日云う日蝕であります。昔は日食と書いたものでありましょうか日蝕の模様は丁度桃の葉を虫が喰うのと同じようなものだから日蝕という字にしたのでありましょう尤も昔は食という字も蝕という字も同じ字であったのか後世に至り開化か進んで万事が煩雑に成るに従って漢字までが進化して唯食うのは食虫の食うのは蝕と
二つの字になったのかもしれません。是迄が日蝕の字の字議の講釈で、ずっと進まない頃の中学校の講義なら最早是きりでよいか今日は中々其れではいかない

さて、この日蝕と云う現象はどのようなもので有りますかと云うに私もあんまりたんと見たことは無い、多々書物に書いてあることや又考へました所によって見ますと太陽がキラキラとして天の上に光って居ると、ちょっと汚い喩(たと)えだが人間が脱疸をわずらったように端の方にちょいと黒いいやなものが出来る。初めには僅かのが油断をして居ると段々足に来て脛(すね)に来、股に来、胴中に来ると死するというように、段々此の黒いものが太陽にかぶさって来て今にもくらやみになろうかと思う位で、時とすると幸いにいつの間にやら黒いものが段々に減ってとうと元の通りになってしまいます。是は申さば軽症の日蝕で天文家は之を部分日蝕と云います(第一図)時としますと其の黒いのが段々に深くなって実に太陽の真ん中の部分が真っ黒くなって僅かに太陽の端の部分が蛇の目の形の様に残る、是を金環蝕と云います(第二図)。金環とは金の蛇の目と云う事でよほど綺麗と見えて金の字をお負に付けたのであります。部分蝕よりも金環蝕よりも珍しい奇妙なのは皆既蝕であります(第三図)皆既蝕とは彼の黒いものが段々段々に深くなって太陽の全体が残らず真っ黒になってしまうのです。丁度蚕が桑の葉を端から喰っていって段々に喰って喰ってとうとうまるで喰ってしまうと同じ様な按配です。
実は昼で有りながら夜同様に暗くなってしまう、実に不思議です。何か来てするのか知らないが、晝(ひる)の間に不意に夜を拵える、これが日蝕皆既の有様であります

当年有りましょうと云うのは即ち此種類日蝕でそれで大騒ぎをするのでありますこと通りに不思議の現象でありますから、昔はよほど人の怖かったもに違いないです。私なども子供の時に聞いたのをかすかに覚えて居ますが、日蝕の時には外に出るもので無い。目がつぶれるなどと云いました。支那人は何が来て太陽を食うたのと心得て居たとみえます。インド人なども黒い龍が太陽を食うのだと思って居たということです。今日でもアメリカ土人などは日蝕及び月蝕は太陽なり月なりが人間に向かって怒ることがあってするのだと云うて居るそうですが、

日本でも天照大神が起こって天の岩窟に隠れられたと云うのは恐らくは日蝕の事を云ったものであろうと思われます。また西洋の方の昔の人は色々に妙なことを考えたものでギリシャの昔の人などは月蝕のあったときには魔法使いが月を袂(たもと)の中に入れてしまうとか、どこにか持ってゆくと云うように考えて居たりします。
1564年に大変な日蝕がありました。其のとき理屈を知った天文学者は何月何日頃に日蝕があると触れて居った。其れならば恐ろし事は無い筈で有りますが、人間と云うものはどうけたものです前から知って居ながら矢張怖くてたまらずと云う騒ぎでありました。
再びノアの時の様に大洪水が有ると云うのもあり、中には地球が焼けてしまうだろうと云い、一番気に掛けないという人で「なーに何でもない、大方コレラ病の流行ぐらいで済むだろう」と云うて居りました。て有りますから少しは心得ている者までが文盲人の中へ巻き込まれるくらいで有りました。
中には医者に駆けつけて何か日蝕についての衛生法が千金方が傷寒論にても書いては有るまいかと云うと、医者の云うに「我々の考えには先ず穴蔵這入って火を燃やして香でも焼いて居たら少しは日蝕の害を受けることが少なかろう」と云い、また坊さんの方では、今度は屹度(きっと)彼の世界の終わりに相違ないと云うので寺へ懺悔に出かけたるものが大勢あったです。
この懺悔と云う事は新教にはないそうですが、●教の方では死ぬ前とか或いは不断でも時を極めて坊さんの前で是迄犯した罪を懺悔せねばならぬ、そこで此度日蝕の時が世界の終わりだと思って居るから皆懺悔に出掛けたのです、これはウソでも何でも無いフランスの学者のプチーと云う人の書いた書物の中にありますか、其の頃毎日毎日懺悔に行く者が多くて坊さんの方ではうるさくて仕方がないと云う有様でありました。
其れで或る坊さんが一策按じまして「日蝕は15日ほど御延引きとなった」と触れまわし固より坊さんの云う事があるから誰一人疑う者はなし其れならばと云って少しゆっくりになったと云うことであります。

先ず其の位に昔の人は恐れて居ましたもので有りましたが、苟(いや)しくも天文学を少し知った者は驚きはしませぬ。中には自分ばかり知って居て御神の御使か何かのように思いはせて人を欺(あざむ)いた者があります。
かのキリストツフ、コロンブスがジャマイク島に於いて土人に囲まれた時、前以て月蝕のある事を知っていたので土人に向けて「おれに兵糧を呉れないと月を取ってしまうぞ」と云った。はじめは信じなかったが段々月が真っ黒になるものだから大いに驚き、是は大方御神であろうと云って、兵糧を沢山に持って来たと云う事です。
これは1504年の3月1日でありました。其の外昔の戦の時に、日蝕によって或いは味方を騙し或いは敵に気を落とさせて勝利を得た人もずいぶんありました。

さて日蝕はどうして起こるものであろう、これは多分諸君の御存の事と思います、けれども今日日蝕に付いて色々のお話をすることは先ず日蝕の起こる原因をお話するが順序であります。
私の国に日蝕に良く合う例があります。其れは宝満隠しと云うものであります。其れは日蝕よりは幾分わかり易いから其から説明しましょう、私の国に宝満山と云う山があります。余り高い山でもありませんが筑前は山が少ない国で有りますから鳥なき郷の蝙蝠(こうもり)と同じく山なき国の宝満では誰も星の親玉は日、山の親玉は宝満山と心得て居る位で有ますが其れで彼の有名の大宰府の近所にあるので天満宮への参詣する者が皆往来に之を眺めます。
其道端に小山と云う程でもない地瘤(じこぶ)が有ります。尤も東京では飛鳥山さえ山の内に入れて有りますから其れも山と云うて良いでありましょう。偖(さて)此地瘤の側へ行くと宝満が見えなくなり少しいくと又みゆるようになるです。其れで之を宝満隠しと云うのであります。此の宝満隠しの現象は丁度日蝕とよく似て居ります。先ず太陽が宝満で宝満隠しが月。で有ります。
太陽は非常に大きなものでさしわたしたけていっても地球の百倍余りもあります。立積でいうと百倍の千倍即ち百万倍の余りになります。月は之に比べると非常に小さな物で其直径が地球の直径の11分の3ばかり外ありません。だから地球を一寸の球としますと月は唯2分7厘ばかりの球で太陽は1丈あまりの球にあたります。偖(さて)距離はというと先ず地球から太陽までの距離はざっとした調べで地球の半径の23300倍ばかり、それで地球の半径をざっと1600里としましても3700満里余りという距離です。
月までの距離は地球の半径の僅か60倍まずざっと9600里ばかりでありますから。ちょいと見た所では月も太陽も同じ位の大きさに見えますが実は今いったとおり月は太陽よりも非常に小さいものであります此小さい物が大きな太陽の前に来ることがあると宝満かくしが、宝満の前に立ち塞がったように見えなくなる其れが日蝕殊に皆既日蝕の有様であります
其れだけの事はご存知てありましょか色々疑いが起きて来るです。月が太陽を隠す事が出来る為には殆ど地球と月と我々と一直線にならなければならないか。そういうことが出来るかという疑があります。其れは出来るのです。太陽のまわりに地球が回って居るので有ります。其れはとういう証拠があるかと云う事はちょっとお話し申す事は出来ませぬ。其地球のまわりを月が回る、そこで回り合わせによっては太陽と地球との間に月がはさまる事か有ります。しかしはさまる度に一直線になりはしない。月の運動して居る道と地球の運動して居る道とが同じ平面の上にはない。言わば此紙の中に地球が回っているとすると之に幾らかはすかけになった紙の上につきが回って居るです。それだからして地球と太陽との間に月が来るといっても太陽を隠すと云う訳にはいかない二つの平面の重なり合っている処に来てはさまったときだけ日蝕が起こります。
また太陽と地球の間に月が這入っても太陽の一部分だけしか隠さぬ事分あります。其れが部分日蝕の場合で有ります。時とするとまるで隠す時があります。其れが皆既日蝕の場合ですまた、地球の軌道も月の軌道も楕円と申しまして少しいびつになった円のようなものでありますから、太陽と地球との間に月が這入た時距離の遠いこともあり近いとこともあるが遠い時には真中の部分だけしか隠しおおせぬことがある。これが金環蝕の場合であります。

これを成るだけ分かり易いように図を持って説き明かしましょう。ここにかいて有ります此の大きいのが太陽で(第四図)真ん中に小さいのがあるこれが月でこっちの半分黒く半分白いのが地球です此の始めの図が金環蝕の場合であります。
此の場合では月と地球の間の距離が遠すぎるので太陽から月が照らされて居るときに出来る影の中に我々が這入ることが出来ないです。ここに(イとニの間)に観測者が居るとすると太陽の真ん中の部分だけは月から隠されて居りますから端の方は見ゆるです。
乙の図の方がこれから皆既日蝕の時の有様で有ります。これは月が地球に近いものだから表面のタと云う所に観測者が居ると見ますと月の端をかけて線をひくと太陽の外に出てしまうのでまるで太陽が月から隠されてしまうこれが皆既日蝕の有様であります。
この皆既蝕になる時と難も金環蝕になる時と難も始め終わりには必ず部分蝕になるもので有ります。
月も太陽も動いて居ますから申さば太陽も地球もじっとして居て月だけが動くようなもので其の月の影が地球の表面に止まって居るものでは無い。丁度晴天の日に窓の外を鳥が飛ぶとすると其鳥の影が窓の障子にうつる此鳥の影が絶えず障子の上をあるくと同様に月の影が地球の表面の上をあるくです。そこで此影が丁度我々の居る所に来れば皆既日蝕を起こすか其の前か少し後は部分蝕になる。此図でタというところより外の所から太陽を見ますと一部分は月の為に隠されても外の一部分が見えます。
だからつい脇の方には皆既蝕があってもさ様な所では未だ皆既にならないとか或いは既に済んで今は部分蝕になって居るです。今度は金環蝕でもなく皆既日蝕でも無く始めから終わりまで部分蝕の場合が有ります。
其れは太陽と月とを結び付ける直線と月と我々とを結び付ける直線とが卒法になって居る時です。其の時分には月の影が我々の所に来ることが出来ない。だから太陽の一部分は隠されますが。他の部分は隠されることが出来ませぬ。此のように分って見れば日蝕も決して怪しむに足らないもので有ります。
この日蝕の事をお話しますと序(つい)でに月蝕のことをお話したくなります。これも同じようなもので、満月の時に限ってある事です。これは黒いものが来てつきを蝕うように見えて其れきりでしまう事もあり。またまるで無くなることも有る。即ち月蝕にも部分蝕や皆既蝕がある。金環蝕はありません。偖(さて)月蝕はどんなものかというに極簡単なもので先ず月は地球と同じように太陽から照らされて光っているものです。又月の後ろに影が出来ると同じように地球の後ろにも影がある。偖(さて)その影の中に月が少しでも這入り込むと。一部分だけなりと太陽から照らされることが出来なくなる。もし全く這入ってしまえば全く光を失ってしまう。其れから月蝕というのであります。
でありますから月蝕と日蝕とは現象は似てて居ますが其原因は全く違います。日蝕は太陽が唯観測者の為に見え無くなる。ただ、或る人の為に見えなくなるだけ。月蝕のほうは月が本当に光を失ってしまう光を金に例えてみると太陽は月の金主であります。其の金主からの仕送りの道を絶たれてしまうからいけなくなるのです。
そうしますと月蝕と日蝕とは地球全体に付いて言うと月蝕より日蝕が多いです。其故をお話することが出来ましょう。今此の図(第五図)をかりて解き明かしますと地球と太陽とを包み廻していたる蝉取り袋のような錘のような形をしたもの、左側の部分に月が這入り込むと日蝕が有るです。
そうすると太陽の一部分だけなりと是非月から隠されるから地球の表面のところで必ず日蝕がある又此の右の方の部分に月が這入ると是非月蝕が起こる。然るにご覧の通り此の錘形のものは左の方即ち太陽と地球との間に在る処は太くして右のほうは細い、だからして月が左の方に這入ることが右の方に這入るよりも多い。即ち月蝕より日蝕が多くなければならない。
然るに暦を前から心がけてご覧になった方はわかりますが日本では月蝕より日蝕が少ない其れはどんな訳でありましょうと云うと月蝕はある度に世界の半分から同時に見ゆるけれども。日蝕は同時に世界のところから見ゆるもので無くどこかに有っても見えないといっては本当では無い日本人の為めには日蝕がないのです。
また日蝕の中でも部分蝕は割合に沢山ありますが金環蝕又は皆既蝕は少ないです。今度地理局の人に調べて貰いましたに今から一番近い日蝕にあったのが天明六年(即ち西暦1786年)の正月朔日で丁度今から101年前です。其の後1852年即ち嘉永五年の11月1日に京都で九分九厘五毛の日蝕が見えました。
金環蝕は天保年中に一度ありましたそうです。其後明治16年の10月31日で有りましたが不幸にして大抵の所に見えなかったです。有って見えなかったと云うのはなぜかというと曇ったり雨がふったりしたからで有ります。
其次が当年の8月19日の皆既蝕でありますて己に世間でも取沙汰をします。天文学などを専門にして居るもの
は其のことに付いて忙しがって居るからでが。此のことに付いて忙しがって居るのも無理は無いのです。
ここに当年の日蝕は世界のどの辺りから見ゆるとうことを図に現してお目にかけましょう。これは地中の表面の一部で(第六図)これが北極であります此まわりに有ります線は丁度日の入りの時に日蝕が始まるとか或いは日の出るととたんに日蝕が起こるとかいう所であります。此線の外からは全く日蝕が見えない此線の内ならば少くも部分蝕なりとも見えます。
其れから真ん中に線が二本引いてありますのは皆既の限りの線で此の二つの間に在るからはどこか皆既蝕が見え其外からは見えないのです。そこでこの廣い地球の表面の全体に於いて帯のような幅の狭い場所に居合わして居なければ皆既蝕を見ることが出来ない。
其狭い場所の中に日本の一部分があるから貴重なのです。迚(と)てもの事に東京が此の場所の中だと猶(なお)よいが不幸にして此の線の外に東京があるのです。
東京では九分九厘ばかりの日蝕でもう少し東北に行きますと皆既蝕になるのです。此線は佐倉熊谷高崎などを通って居ますからそこらにゆくとやっと見えます、
岩城国白河が大方此二本の線の真ん中のところに在る。ここの方は新潟より要南に寄ったほうになります。
さてこれまで申さば日蝕の幾可学上のお話であります。これからして日蝕の物理学上のお話をしましょう。
近世の星学家は日蝕のある部分は大騒ぎして観測をし皆既日蝕は殊更きちがいのようになって観測に従事する其れはどういう利益のあることか其訳をお話しますには先ず太陽の物理学上の研究のことをお話ししなければならない。太陽の物理学上の研究の起こりましたのはつい此の頃の事で其れまでは太陽の運動はどういう者でどんな時に出てどんな所にひっこんで、いつはどの所に居るということだけ外分かりませんでした。間には太陽はどんなものであるといる事に就いて説を立てた者があっても望遠鏡の無い時分までは見てから想像説て取るに足らなかったです17世紀の始めに至りまして彼の有名なイタリヤのガリレオーが望遠鏡を以て太陽を見ました。又同時にドイツのシャイネルと云う坊さんが太陽の表面に斑紋(イギリス語(テスポッツ)というものが有ると云うことを発見しました。
これが太陽でありますが(第七図以下図略す)この中にボツボツした黒いようなものがある、是が斑紋です。此斑紋を見出す前には誰も太陽は一面に光つて居るものと思った。純粋なることと云えば太陽を例に引くくらいで就中(なかんずく)の哲学者アリストートルなどは無庇の物無垢の物といへば太陽が極點だと云いました、それでシャイネルが斑紋を発見したとき其宗旨の管長とでもいうべき人に其事を話ました所が「其れはいけないおれは随分アリストートルの書をよく読んだものだが、そんな事はどこにも書いていないから、おまえ見たと云うのは必ず何かの間違いであろうと」と云ってその事について書物を出版することはよせとまで言って、止めたと云う事があったそうであります。そう云ったのも其頃アリストートルの説と云えば我国の二三十年前孔子の説と同じことで有ったからです。しかし望遠鏡で見えるから仕方が無い今までは太陽の面は立派なもので有ると思って居たのにこんな黒い変なものがひっついて居ると云うことがしれて来たのも時節到来でもはや致し方は無い。その上に太陽の表面と云うものは斑紋の外はどこでも同じようだと思うとこれも誤りです。諺に夜目遠目ということがある遠目で見るとちょっと綺麗だがそばによって見ると随分案外なことばかりであります端の方に来ますと斑紋のある所の近所はことさら明るい所が有ります。これは日本でまだ訳がついていませぬが「ファキュラ」と云うものでまだ其の外にも一体太陽に全面が同じように明るいもので無く明るい所と暗い所と有ります。太陽を手に取って(尤も取ることは出来ませぬが)よく見るとソバカスが出来たりアバタが出来たりして居ます。(若しお差合が有ってたら御免を蒙ります)さて其のソバカやアバタがガレリオーの時シャイネルの時に一所に知れました。先ずこれが太陽の物理学上の研究の手始めであります。
 今の図ばかりではお分かりになりますまいから「ファキュラ」や斑紋ばかりを図にしたのをお目にかけましょう。先ずこれが斑紋の図ですが(第八図)これはいづれも太陽の一部分だけを出したのです斑紋。は皆こんなに中が黒くて其のまわりは薄黒く時としては其線に光の強い処彼の「フアキュラ」でも無いところです。是はフランスのジャンセンという人の取った写真にあると同じで、其写真は菊池学長が幸いに貰ってこられたので天象台に有りますが、此の通りに明るい処と暗い所と有って、申さばブツブツが有ります。
此のことが大変大切でこれからして太陽の表面は一様に固まったものでは無い固形体や流動体で無く雲のようなものが気体の中に浮かんで居る其れが光を放つのであうということが分かって来ました爰(ここ)で明るく見える処が一番光って居る所で暗い処も全く光りの無いのでは無いが昼間桃提を燭したと同じで非常に明るいもの、側に居いるから暗いように見ゆるのであります。
其れからさっきお目にかけました斑紋はまだ小さすぎました。今度は斑紋及びぐるりのぶつぶつして居るのを見て写しましたので有ります。(第十図)これはちとよすぎるから想いが像をと入っては居るまいかと疑はれるです。尤もこれを写したのはラングレイと云う人でラングレイ氏は有名な人ですからまさか誤りはありますまいがちと綺麗すぎるようです
 今度は稍(やや)規則たった形をしている煩悶をお目にかけましょう。(第十一図)これはよほど規則だっています。ココが核でここが半かげと云い升(半かげと云う字は不都合な字で有り升)一体斑紋というものは最初出来たときには不規則な形をして居るのが段々と此様に規則だって来るのです斑紋というものはこんなに変化して大きくなったり少さくなったりするもので、腫物と云てはいけないが出来ものには違い無いちょいと出来て次第に大きくなって二つにも三つにもなったりしてとうと後には消えてしまうものです。
どうして太陽の表面にそんな怪しな者が出来るであろうか此が解ると他の事の疑いが解けそうですが又他の現象を照合せて見れば斑紋の性質も分かるで有りましょう。其れには日蝕の観測抔(など)が必要です今日迄太陽の研究の進歩したも日蝕観測の結果と云ってもよい位であり升。
 今度は今の斑紋と同じような現象に「ファキュラ」と云うものの図であります。(第十二図)これは端の方が無ければ滅多に見えませぬ又これは真中にあるものでしょうが一体太陽の端の方は脇から見ると余程先りが薄いから殊に「ファキュラ」が良く見ゆるのであります。
この端の方にゆけばゆくほど光の薄くなると云うことを考えてみます、太陽のまわりは雰囲気のようなものが有って、太陽の表面から発する光を多少吸取するのであろうという考えが起こります。いかにもそうすると、端の方からくる光は雰囲気を通って来る間の道が長いから吸収されることが甚しいそれで薄暗くなる道理であります太陽に雰囲気のあことは此通り端の方が明かりが薄くなると云うことだけからし推しても分かるけれども此のことは皆既日蝕の観測によって益々明らかに知れて来たので有ります、

さて今度は近世に至って皆既日蝕の観測が大切なこととなりましたから競って天文学者が観測することになりましたが従って随分丁寧な観測もあり、非常に面白い結果も出来たです。
 まず1842年12月にヨーロッパの大陸において日蝕はフランスにおいてはフランス人、が観測をし、イタリアに於いてはイギリス人、オーストリアではトイツ人が観測しました。就中イギリス人のベーリーと云う人がイタリヤに於いて観測した日記が有りまして見たことを有りのままに書いていたのですがよほどよく出来て居るのです天文学のはやりになったのも此の日記が興って力があるのかも知れないです。其日記の中に書いてありますには「自分が日蝕の観測をしようと思って其用意をして居た所が、ぐるりに人が取りまいて(物見だかいのはどこでも人情であると所へ天文学者が日蝕を見ると云ったので)日蝕が始まって来てもガヤガヤ言うのが騒がしくて時計のキチキチいう音が聞こえかねて困って居たが、いよいよ皆既蝕が始まるという際になったら沢山の人が寄って居るに係らず静かになって来た。
 自分も初めて観測するのだから自ら動悸がうって来た。偖(さて)全く皆既になってしまって太陽が残らず消えてしまうと其跡には俄(にわ)かに黒いものが現われて其まわりに五光と云う様なものが見えだした、自分の兼ねて想像して居ったのとは大そう違った立派な物であった、書物で兼ねて読んで居って多少覚悟はして居たがこんな立派な五光がさそうとは思はなんだ。あまりのことだから、ただそのまま、見物して居たが其れではいけないと気を付けて望遠鏡を覗くと、又妙な面白いものが見えた。彼の真っ黒な物の縁に処々赤いものがついて居た。実に何だか分からない妙なもので自分も驚いた。其は一体何であるだろうか、よくよく研究して見ようと思って居るうちつい太陽の端の方に明かりが現われるかと思うと忽(たちま)ち黒いものも赤いものも五光も何も消え失せてしまったのだ、何だかほしいものを得ようとする段になっていて其れを取られたと云うような有様であった」と云うことが書いてあります。
 此日記の中にある五光のようなものというのが即ち今日所謂(いわゆる)「コロナ」(是もまだ訳なし)其れから1860年に又日蝕皆既が有りましたこれも矢張欧羅巴洲の中イスパニヤから見えました。この時分に始めて写真術を適用して日蝕の図を取ることが起こりました。(第十三図を看よ)この頃からして彼の紅焔(こうえん)のようなものは処々にあるばかりでなく太陽のまわり一面に赤いものがあると云うことが知れまして見ると太陽を目で見たとき端にあたる処にばかり有る筈は無いから太陽はなんでも赤いような色をした球のようなもので取巻かれて居るに相違ないです、此球を今日では彩球と云います。
 此の前に太陽のまわりに雰囲気があるように見ゆると云いましたが此の彩球が即ち其雰囲気だと見ゆるです。けれども彩球の性質は1860年頃までは知れなかったです。其頃ドイツのフンセンとキルショップという人が有名な「スペクトル」分析ということを発明しました此の「スペクトル」分析ということの委しいお話しとう御座いましたが図も間に合いませぬししましたからただ結果だけをお話し申しましょうが「スペクトルスコップ」という目鏡で光を放つものや光を吸収するものを見ると其れが如何なる物体であるということが分かるものです是で太陽の光を見まして其表面に水素とか鉄とか「マグネシウム」とか云うものが有ると云うことが分かりました。そこで太陽の雰囲気は此等の金属の蒸気で出来ているということが分かったです偖(さて)彼の彩球というものが即ち此等の蒸気の聚(あつま)りであるということが追々にしれて来ました、尚此のことについて委しく御話しするには今少し日蝕の歴史を御話しなければならない
 太陽の平常の「スペクトル」の分析も出来るが紅焔の分析をもして見たいと言って居た処に折りよく1868年、69年、70年、71年と四年続いて日蝕が有りました。中に68年の8月18日の日蝕はよい日蝕で全くの皆既の間が6分と25秒有りました。当年の日本であろうと云う皆既の始まって終りまでが3分とちょっととて随分あっけない話ですそれの丁度二倍余りの時間ですから大騒ぎをしました。
 時の中央線はオーストラリの北からインドにかけて居ました。其時に当たっては政府は非常の金を費やす事を厭(いとう)はず天文学者は旅の疲れを厭)はずして観測に従事しました。其時の「スペクトル」の分析によって考えて見ると紅焔はおもに水素瓦斯であって其下の方にはその他種々の蒸気がある其中から水素瓦斯が噴出してさっきのように太陽の端に赤みがかったものを現すので有ると云うことを発見しました。フランスのジャンセントという人は金星経過のときに日本に来た人で其の人は太陽のことは其専門で非常に巧者な人でありますが、其の人が「スペクトル」を見て居たとき大層あかるかったからこれは日蝕の時に限らず何の時でも太陽の縁の処に「スペクトロスコプ」あてて見たら必見ゆるであろうと思って日蝕が済んでから見ようとしたが生憎其日は天気が悪かったから翌朝太陽のこぐちに此器械をあてて見た所が果たしてはっきりと見えましたこれはジャンセンばかりでない、ロッキヤルと云って諸君御存知の中学教科書を書いた人が道理から推して屹度(きっと)平常でも紅焔や彩球の「スペクトル」も見ることが出来るということを証明しました。妙なのは合わせてロッキャルの発明の報告とジャンセンの手紙とが同じ日にフランスの「アカデミー」に到着しました。一つは理論から一つは実験からして同時に大変な発明をしたもので有ります。此発明が非常に大切な訳というは其れからして其後はふだんでも「スペクトロスコップ」を用いて紅焔や彩球を観測することが出来ることになったので」今日はどこの所の部分どんな紅焔があると云うことが日々に研究の出来るようになりましたです。ここに出します図が第十四、十五、十六図箇線様にしえローマのシェッキーが取りました紅焔の図の中から抜いたのでありまし。
 しかし日蝕の時に見なければならないものも沢山ありますから一方からはふだん観測して一方からは日蝕の時にやることにします。
其れから1869年八月の北アメリカの日蝕其の次は1870年の日蝕でドイツとフランスの戦争をやっている最中、フランスの政府はさすが、ヨーロッパ人だけ有りましていくさて弱って居ながら是非天文学者を観測に出すと云うので彼の有名なジャンセン氏が風船に乗って忍んでパリスの城を出た。
 これはあちらの国では政府も学者も学術に熱心して居ると云うことの一つの証拠であります。しかし此の時は不幸にして天気が悪くて思わしく有りませんでした。
 幸いにして其次の年即ち1871年12月12日のインド海及び大洋洲から見える日蝕は天気がよかったから非常に好い結果がありました。しかしながら日蝕観測の御蔭で紅焔のこと、彩球のことは段々と分かって来ましたが未だ「コロナ」のことがさっぱり分かりませぬ。まず其形が妙で其上に「スペクトル」を取ってみますと瓦斯体も一部分は雑で居り、煙みたような物も混ざっているに違いないと、どうもなんだか想像の出来にくい物で今申しましたローマの天象台のシェキーと云う学者が毎日毎日紅焔の図を取りましてそうして、紅焔と太陽の斑紋と「フェアキュラ」との関係を調べたです。
 所がどうもはっきりとは知れませぬけれども紅焔の或種類のものは斑紋及び「ファキュラ」と密着な関係を有って居るらしい即ちシェッキーの説によりますと紅球を形つくって居る種々の瓦斯の中から水素瓦斯が爆発して来る、其れが紅焔で有る。此の爆発して斑紋も起こり「フェアキュラ」も起こるというのです。
 一体に此シェッキーの説は至極綿密ではありますがどうも信じ難い処もあります、第一太陽にも南極北極だの赤道だのがある、其南北極の処に斑紋は先ずないに極つたものですが。紅焔の或る種類のはあるですが見ると紅焔と班點(はんてん)とが皆同じ原因から生ずるとは言えないようです。又フランスのファイーなどはシェッキーの言うのとは違って斑紋は颶風(ぐふう)が太陽の表面に絶えず吹いて居るので其れから起こるのだといいます。すべて液体でも気体でも其各部分に少しでも速度の違いがあれば渦巻きを生ずる物だということは慥(たしか)ですそれで川の井堰の下のほう或いは水が岸に突き当る所には必水が渦を巻くさて其渦を巻いて居る所は漏斗なりに凹んで水が下に向かって這入る、そこに塵か何か持って行っておくと巻きこまれて行きます。
 地球の表面の上に於いても其の通りで即ち空気が渦巻をし始める事がある、それが颶風(ぐふう)で其れを地球の外に居て見たら渦のように見えるだろういうのです。偖(さて)ファイーの説は太陽の表面にも此の渦巻きがある。其渦の為に上の方にある光線を吸収する所の物体が中の方に吸いこまれる。其れで其処が暗くなる。
 其が斑紋であるというのですこれは面白い説で有ります。尤もいよいよ其れに違いなければ上のほうから見たときに少しは渦巻くと同じくねじねじになった処が見えなければならぬが滅多にそんなに見える斑紋はないです、だからファイー氏の説も十分には分からないです。
右の通り斑紋の事についてはシェッキーとファイー氏との大家の説が分かれて居ります位でまだねっから分かりませんが、其れが解けたら色々の事が分かってきましょう、それとしても「コロナ」のことはどうしても解けませぬ、其れというも此事に限って日蝕皆既の時に観測に出かけなければ見えないからです。紅焔のようにふだんでも見えるのだとようが光の大変薄いもので有るから日蝕の皆既の時に観測するより外に今日まではまだ手だてがないで有ります。其故に当年の皆既日蝕の時にも出かけようと云うことになって居りますしかし私のような薄識の者が出かけていっても、うまくいかないかも知れない所では無い、いかないのは分かって居るです。
 シェッキー氏も日蝕皆既をうまく観測しようと云うには幾度目かで無ければならないと言われましたから、今度は学生に見せるだけでとても直打のある研究をすることは出来ますまい。しかし大勢行きますから某甲はこれ某乙これと手分けをして見ましたらいくらか面白い結果があるかも知れませぬ。若し面白い結果が有りましたらまた其時お話をいたしましょう。さて今日は講釈師のように見て来たような(法螺(ほら)ではないが)ことばかり申し上げましたが、今度は見て来たようなことで無く本当に見て来たことのお話をすることが出来ましょう。しかし天気のことはあてにならぬことで有るから若し明治16年の時のように雨でも降ったら諸君も不幸であるが私も亦(また)不幸であります。



いやどうも長い間静聴を煩わしました(完)