惣門 |
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東門 |
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建築年代は不詳。なお、惣門と本堂の間に楼門礎石が残っているが、この楼門の建築は元禄14年(1701)ごろとある。 |
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この東門は創建時位置を踏襲しているのか不明だが 、創建時の戒壇院は観世音寺向かってのみ開かれていた。掲げられている扁額に「西戒壇」とあるのはその名残か。 |
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本堂 |
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寛文9年(1669)黒田藩家老鎌田昌勝が再建、延宝8年(1680)、豪商天王寺屋浦了無が改築。さらに寛保3年(1743) 境内にあった観音堂を引移し、方5間の本堂とし、現在に至る。
本堂には、方約5mの石戒壇が設置され、その北奥に
本尊:木造盧舎那仏座像 脇侍:木造文殊菩薩像・木造弥勒菩薩像が安置されている。 |
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本堂前の楼門礎石 |
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鐘楼 |
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楼門は元禄14年(1701)に造立された、今はその礎石のみが残っている |
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吊されている梵鐘は福岡で酒造業で財を成した白木玄流が元禄14年(1701)寄進した。梵鐘はその制作技術・デザインとも江戸時代有数のものとして評価され、県指定文化財とされている。 |
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天王寺屋浦了無供養塔 |
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鑑真和上供養塔 |
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天王寺屋浦了夢(了無)は福岡の豪商で、延宝8年(1680)、本殿を改築するなど戒壇院の再建に多大な貢献した。貞享2年(1685)建立。高さ3.5m |
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左の石塔(変形宝篋印塔)には「奉納 山崎勝重」「天明7年7月18日」、右の五輪塔には「開山大唐国」との刻印がある。 |
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境内の大樟(天然記念物) |
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← 樹木前に立てられている説明文には「樹齢は1000年とも1500年ともいわれ大正11年国の天然記念物に指定された。高さ39m。 」と 記載されている。
もし樹齢1500年であれば、太宰府創建前からこの地にあったこととなる。白村江の戦いに敗れ、いつ唐が侵攻してくるかという緊迫した情勢のなか太宰府はこの地に移設され、水城、大野城などの防衛網整備がなされた。そしてその危機も遠ざかり、大伴旅人、山上憶良、紗弥満誓などに代表される「筑紫歌壇」などの華やかな文化を形成し、「天下有数の都会」として太宰府は発展をみせた。しかし、それを支えた律令制度が内部から崩壊する共にやがて太宰府は衰退し荒廃の道を辿る、こうした太宰府の歴史をこの巨木は時には兵火に見舞われながらも静かに見守ってきたのである。 |
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