戒壇院
(かいだんいん)


Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.創建時の伽藍配置
5.その後の変遷
6.特記事項
7.現在の境内
8.古寺巡訪MENU

1.所在地
 福岡県太宰府市観世音寺5−7−10
戒壇院全景 
2.宗派
 臨済宗妙心寺派  本尊 木造盧舎那仏座像
3.草創・開基
(1)戒壇院とは
戒壇院とは僧尼の登壇授戒の場であり、同時にその道場でもある。戒壇院は先ず東大寺に天平勝宝6年(754)に鑑真和上によって設けられた。続いて天平宝字5年(761)に下野薬師寺と筑紫観世音寺に設けられ、下野薬師寺は東海道足柄坂以東および東山道信濃国坂以東の国々の僧尼が、筑紫観世音寺は西海道諸国の僧尼が授戒する場とされた。このため下野薬師寺戒壇は東戒壇、筑紫観世音寺戒壇は西戒壇とも呼ばれた。
(2)鑑真と戒律制度の整備
こうした戒律制度の整備を進めたのは言うまでもなく鑑真である。鑑真は、度重なる苦難を乗り越えて天平勝宝5年(753)12月20日に来日を果たした。そして同年12月26日には観世音寺で日本初の授戒を行い、翌年2月に平城京に入り、聖武太上天皇、孝謙天皇に歓呼をもって迎えられる。以降、東大寺に住して本格的に日本に於ける戒律制度整備を開始したのである。従って当戒壇院も開基を鑑真とされている。
(3)筑紫戒壇院は「天下の三戒壇」の一つ
この三寺院の戒壇院は「天下の三戒壇」としてその権威を誇った。なお、弘仁13年(822)に比叡山延暦寺に戒壇院が設置されて以降は四戒壇となる。これが現在の戒壇院の創建である。

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4.創建時の戒壇院
観世音寺復元模型
(1)観世音寺の子院として創設された戒壇院
戒壇院は、観世音寺の子院として、観世音寺境内の西南角に建立された。現在の戒壇院本堂はこの創建当時の位置をほぼ踏襲していると推定されている。(右の写真は観世音寺復元模型)
(2)創建時戒壇院伽藍の概要
建物は、北側に戒壇堂(本堂)、南側には礼堂の二棟で構成されていた。戒壇院の門は、創建当時は観世音寺境内に向かってのみ開かれており、現在の南門は江戸時代に入ってから造られたものである。

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5.その後の変遷
(1)戒壇院の中世頃の詳細は資料が乏しく不詳。
戒壇院は観世音寺の子院として置かれた寺院。従ってその盛衰は観世音寺に全て委ねられていたと考えられ、その詳細は観世音寺のページを参照願いたい。
(2)戒壇院の復興
戒壇院は、観世音寺が元禄元年(1688)福岡藩三代藩主黒田光之が豪商天王寺屋等に命じて講堂を再建するなど復興に尽力し、一応の寺観を整えたように、江戸時代元禄期から本格的な復興が成された。
・寛文9年(1669)、黒田藩の家老鎌田昌勝が本堂を再建
・延宝8年(1680)、豪商天王寺屋浦了夢(了無)によって増改築。
・元禄16年(1703)、藩命によって博多禅宗四ケ寺の管理下に置かれる(観世音寺からの独立)。
・寛保3年(1743)、境内の観音堂を本堂に引移して方五間に増改築。
・明治6年(1873)、博多聖福寺の末寺となる。

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 6.特記事項
(1)観世音寺の西海道管内仏教界支配に貢献した戒壇院
東大寺戒壇は十師によって授戒を執り行ったが、東西の戒壇は五師による執行と定められた。そしてこの五師の上位に戒師が置かれ、その戒師は観世音寺の寺務統括者が兼任した。即ち、これは正式な僧(官僧)となるために必要不可欠な登壇授戒を観世音寺が掌握したことを意味した。この結果、観世音寺は太宰府の庇護による「府の大寺」に加えて、西海道管内の仏教界を統括支配する大きな力をこの戒壇院設置によって得、太宰府の西海道管内支配の一翼を担うまでに興隆することとなったのである。
(2)太宰府に関連するページは以下のとおりです。ご参照ください。
観世音寺    太宰府の歴史    太宰府年表    太宰府政庁跡    玄ム    水城     鑑真  

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 7.現在の境内

惣門 東門
戒壇院惣門   戒壇院東門
建築年代は不詳。なお、惣門と本堂の間に楼門礎石が残っているが、この楼門の建築は元禄14年(1701)ごろとある。   この東門は創建時位置を踏襲しているのか不明だが 、創建時の戒壇院は観世音寺向かってのみ開かれていた。掲げられている扁額に「西戒壇」とあるのはその名残か。
     
本堂  
戒壇院本堂   寛文9年(1669)黒田藩家老鎌田昌勝が再建、延宝8年(1680)、豪商天王寺屋浦了無が改築。さらに寛保3年(1743) 境内にあった観音堂を引移し、方5間の本堂とし、現在に至る。
本堂には、方約5mの石戒壇が設置され、その北奥に
本尊:木造盧舎那仏座像 脇侍:木造文殊菩薩像・木造弥勒菩薩像が安置されている。
     
本堂前の楼門礎石   鐘楼
戒壇院楼門礎石跡   戒壇院鐘楼
楼門は元禄14年(1701)に造立された、今はその礎石のみが残っている    吊されている梵鐘は福岡で酒造業で財を成した白木玄流が元禄14年(1701)寄進した。梵鐘はその制作技術・デザインとも江戸時代有数のものとして評価され、県指定文化財とされている。
     
天王寺屋浦了無供養塔    鑑真和上供養塔
 天王寺屋浦了無供養塔   鑑真和上供養塔 
天王寺屋浦了夢(了無)は福岡の豪商で、延宝8年(1680)、本殿を改築するなど戒壇院の再建に多大な貢献した。貞享2年(1685)建立。高さ3.5m   左の石塔(変形宝篋印塔)には「奉納 山崎勝重」「天明7年7月18日」、右の五輪塔には「開山大唐国」との刻印がある。
     
境内の大樟(天然記念物)     
戒壇院樟木    ← 樹木前に立てられている説明文には「樹齢は1000年とも1500年ともいわれ大正11年国の天然記念物に指定された。高さ39m。 」と 記載されている。
 もし樹齢1500年であれば、太宰府創建前からこの地にあったこととなる。白村江の戦いに敗れ、いつ唐が侵攻してくるかという緊迫した情勢のなか太宰府はこの地に移設され、水城、大野城などの防衛網整備がなされた。そしてその危機も遠ざかり、大伴旅人、山上憶良、紗弥満誓などに代表される「筑紫歌壇」などの華やかな文化を形成し、「天下有数の都会」として太宰府は発展をみせた。しかし、それを支えた律令制度が内部から崩壊する共にやがて太宰府は衰退し荒廃の道を辿る、こうした太宰府の歴史をこの巨木は時には兵火に見舞われながらも静かに見守ってきたのである。
   
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8.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2012/8作成 2016/2補記改訂 2018/10補記改訂
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