太宰府政庁跡
(だざいふせいちょうあと)

Contents
1.所在地
2.太宰府とは何か
3.太宰府政庁建設の歴史
4.条坊制が布かれていた太宰府
5.太宰府の終焉
6.特記事項
7.現在の太宰府政跡
8.古寺巡訪MENU

1.所在地
福岡県太宰府市観世音寺4−6−1
(行き方)西日本鉄道大牟田線都府楼前駅から北東に徒歩10分、福岡県道76号筑紫野太宰府線沿いにある。
無料駐車場が、政庁跡史跡入口の向かって左に有る。
2.太宰府・太宰府政庁跡とは何か 
 2-1太宰府とは古代大和朝廷の地方統治機関
太宰という名称の文献上での初見は『日本書紀』推古17年(609年)の筑紫大宰であるが、当時、太宰は、筑紫だけではなく東国・播磨・吉備・周防という大和朝廷にとって地方統治上で必要な要衝に置かれていた。その役割は、地方の豪族の国々を監視し、かつ大和朝廷の意向に沿って統治することにあった。しかし、大和朝廷の力が増し律令制的な国司制が推し進められるとともにその役割を終え、ついに701年の大宝律令制定によって、筑紫太宰府を除き、他の全ては正式に廃止された。

 2-2なぜ筑紫太宰府だけが残されたか
では何故筑紫太宰府だけが残されたのであろうか。それは大和朝廷に於ける筑紫という地に全ての理由があった。筑紫は朝鮮半島に最も隣接した地で、古来より大陸の政治・文化・宗教そして人などあらゆるものが、この地を通して伝わってきた。その逆もあった。古代よりこの地は大和朝廷の朝鮮半島政策のための外交・軍事上、重要な拠点でもあったのである。

即ち大和朝廷にとって筑紫は、東アジア諸国との外交・貿易・軍事上、極めて重要な地であり、ここを大和朝廷の直轄地として押さえ、特別な権限を持たせた軍事・行政機関を置くことは当然の帰結であったといえる。

このように筑紫太宰府は、東アジア諸国に最も隣接するという立地故に生じる役割、即ち辺境の防衛と外交・交易窓口という、他の太宰府とは全く異なった役割を担っていた故に存続どころか、さらなる強化が人・物両面においてはかられたのである。

そして今ひとつは、大和朝廷にとって、西海道九国三島は、過去から磐井の乱、隼人の抵抗などの歴史的背景を持つ地域であり、このために他の地方より強力な権限を持たせた軍事・行政機能を持たせた機関を置く必要が依然として残っていた。そのため他の地方統治機関・太宰府が廃止される中であえて存続させる必要があったといえる。

 2-3「白村江の戦い」の敗戦によってさらに高まった筑紫太宰府の役割
筑紫太宰府の重要性を決定的にしたのは、大宝律令が制定された時の38年前に遡る663年の「白村江の戦い」での大敗であった。その敗戦によって大和朝廷(天智天皇)は、東アジアの巨大国家・唐による侵攻=大和朝廷の壊滅という、かつて経験したことのない恐怖の極みに立たされたのである。

その恐怖が如何に大きいものであったかは、敗戦の翌年から始まる矢継ぎ早の対馬、玄海、有明海への広範囲にわたる防衛網の構築、さらに4年後には飛鳥から近江大津へ遷都までもが行われたことが、何よりも物語っている。

その防衛網の最前線の統合参謀本部として役割を担ったのが筑紫太宰府である。そしてその太宰府の政務を執行する館として置かれた場所が現在の政庁跡地である。 こうして大和朝廷にとって筑紫太宰府の重要性はこの時頂点に達したのである。

<目次へ戻る>

3.太宰府政庁建設の歴史----創建以降、二度、建て直されていた太宰府政庁
この太宰府政庁跡は、発掘調査の結果、創建時を含め三回の建て替えが行われたことが判明している。そして、われわれが現在、見学している太宰府政庁跡の礎石等は、この最後の三回目のものであることが明らかになっている。

この三回の建て替えが行われた時期と使用期間について「図説 日本の史跡 第4巻 古代」(1991/5/20 紀行社刊)では次の通りであったと述べられている。

第一期 太宰府政庁創建期 7世紀後半〜8世紀初頭 堀立柱建物群 
第二期 朝堂院形式創建期 8世紀初頭〜10世紀中葉 礎石建物
第三期 朝堂院形式整備拡充期 10世紀中葉〜崩壊まで 礎石建物

 3-1 第一期(創建時)太宰府政庁
現在地に最初に、後にいう「太宰府政庁」を置いたのは天智天皇である。 当時、大和朝廷の朝鮮半島・唐等との外交・国防と西海道諸国の支配のための出先機関として、博多湾岸に「那津官家」が置かれていた。天智4年(665)、天智帝はこの「那津官家」を現在地に移した。

移転の原因となったのは、天智2年(663)「白村江の戦い」での大敗である。天智帝は戦勝国である唐・新羅がその勢いに乗って、朝鮮半島に最も近い西海道(九州)に来襲することを想定し、これを恐れた。このため敗戦後直ちに、天智帝は防人の配置など防衛網構築を矢継ぎ早に推し進めるが、この防衛網構築の一環として戦略上脆弱な地にあった「那津官家」を、防御強固な地理的条件が備わったこの太宰府の地を選定し移したのである。これが太宰府の草創である。

この草創期の遺構と思われる建物跡が現在の政庁跡の最下層から出土し、これら建造物は全て堀立柱式であったことが明らかになっている。(しかし残念ながら建物配置などの全体像は不明)

この創建時太宰府政庁は、8世紀初頭までその機能を果たした。そして、この第一期政庁は、造営理由が物語るとおり、大和朝廷の辺境防衛を担う総督府というべき極めて軍事的性格の色濃い政庁であったと考えられている。

 3-2 第二期太宰府政庁
  3-2-1第二期太宰府政庁と律令国家の成立
乙巳の変(大化の改新)に示されるとおり倭国(日本)は天皇を中心にした強力な中央集権国家を目指していたが、「白村江の戦い」の大敗でそれは国家の危急存亡に関わる喫緊の課題となった。そのため天智帝は、対馬、筑紫、周防など要衝に朝鮮式山城を築き防人を配置するなど国防を強化する一方で国内では強靱な天皇を中心とする中央集権国家構築を押し進めた。

天智帝没後、壬申の乱で天皇の地位を奪取した天武帝もこれを引き継ぎ、内戦の勝利者という圧倒的な力を背景に、東アジアに於ける最先端の国家統治制度である律令制度に基づく国家建設を急いだ。それは天武帝没後も、持統・文武・元明・元正天皇と四代の天皇に受け継がれた。即ち、飛鳥淨御原令の施行を経てわが国最初の都城・藤原京建設、さらにはわが国初の本格的な律令法典である大宝律令の策定・施行と平城京遷都へと結実する。

こうした律令制度に基づく近代国家建設に邁進した倭国(日本)であるが、東アジアに於ける国際情勢は、朝鮮半島では新羅が統一国家を樹立するなど刻々と変貌し続けていた。この間、唐や新羅の使節、商人が太宰府に来航したし、その逆もあった。その人・物・金の全てがこの太宰府を往来した。太宰府は日本の玄関口であった。まさに天智帝が草創した太宰府は東アジアに向け開かれた窓口としての役割をますます高まっていたのである。

従って、東アジア諸国の役人や商人が日本を訪れて最初に出会う玄関口・太宰府は、その先進性と国力を誇示する場でなければならなかったのである。こうした国家的要請に耐えるものとして計画され第二期太宰府政庁は着工されたのである。

  3-2-2 第二期太宰府政庁は、超一級のエリート官僚・粟田真人が主導
太宰府政庁復元図第二期太宰府政庁建設を主導したのは、和銅元年(706)、太宰帥に任じられた中納言粟田真人である。粟田真人は、大宝律令の編纂に参加した後、大宝元年(701)に遣唐執節使として唐に渡り慶雲元年(704)に帰国している。この真人等の遣唐使達が持ち帰った唐・長安の最新情報が、当時進められていた平城宮の造営に大きな影響を与えたと考えられている。このように粟田真人は当時の唐の先端建築技術に造詣があり且つ律令制度に精通していた実務家であり、遣唐執節使として唐に渡った経験も持ち、外交にも精通していた、大和朝廷の正に一級の官僚であった。この粟田真人を大和朝廷は太宰帥として送り込んだのである。これを見ても大和朝廷がいかに第二期太宰府政庁建設を重視していたかがわかる。

  3-2-3 新生律令国家日本の窓口に相応しい壮麗な第二期政庁
新しい政庁は、右の政庁復元図のとおり、それまでの堀立柱様式から礎石建ち瓦葺き建物となり、左右対称に建物を配置する朝堂院形式に建て直された。これは平城京の大極殿を中心とする平城宮と同一の様式である。まさに唐や新羅をはじめとする東アジアの外交窓口を担う政庁として相応しい堂々たるものであった。
 なお、これら建設工事は、出土した鎮壇具や軒先瓦から、和銅年間(708-715)に造営が開始され霊亀年間(715-717)には完成していたのではないかと推定されている。またその広さは東西約111.6m、南北約211mであろ。(参考)藤原宮の広さ:東西約925m,南北約907m
 (注)図は太宰府展示館「太宰府政庁復元模型」により作成しており、大きさ・構成比は正確ではありません
 3-2-4 太宰府を天下有数の都会と「続日本紀」も伝える
こうした政庁を中心に条坊制に基づく多くの官衛・居館が整然と建ち並ぶ近代都市・太宰府は、その後も人・物・金が集積し発展していったのであろう。その様子を、続日本紀は、神護景雲三年(769)十月条に「この府は人や物が多く賑やかで天下有数の都会」と伝えている。

 3-3 第三期太宰府政庁
  3-3-1 第二期政庁の焼亡
第二期政庁が造営されてからおよそ二百数十年を経た天慶4年(941)に、藤原純友によって焼き討ちされ焼亡する。これは、発掘調査によって、第二期と第三期の層の間には火災による灰が検出され、天慶3年(940)に起こった藤原純友の太宰府焼き討ちによって政庁が焼亡した後に第三期目の太宰府が再建されたことも確かめられている。
第三期朝堂院形式[太宰府政庁復元模型]
太宰府政庁復元模型
  3-3-2 再建(第三期)はどのように行われたのか
では、この再建はどのように行われたのであろうか。この藤原純友の乱に際して山陽道追捕使に任じられていた小野好古は同年、博多津で純友軍を壊滅させ、藤原純友は根拠地の伊豫の日振島に敗走、同地にて伊予警固使の橘遠保に討たれてその生涯を閉じる。そしてその4年後の天慶8年(945)に、小野好古は太宰大弐として太宰府に赴任している。従ってこの再建を主導したのは小野好古であろうと考えられるが、その財政的負担は平安京の中央政権によって行われたのか、あるいは海外交易で巨大な富を蓄えつつあった博多を中心とする商人達によってなのか、これら再建にかかる具体的なことは史料がなく、よくわかっていないのが現状である。

<目次へ戻る>

4.条坊制が布かれていた太宰府
太宰府条坊復元図
  4-1 太宰府条坊説の登場
このように太宰府政庁は、壮麗なものへと変貌を遂げた。しかし変貌を遂げたのは政庁だけではなく、太宰府全体を、政庁を北限とする整然とした条坊制が布かれた新生律令国家日本の玄関口に相応しい近代都市化もなされたのではないかという説が登場する。昭和12年の「太宰府の遺跡と条坊」という論文で、後に九州歴史資料館初代館長を務められる鏡山猛氏がこれを唱えられた。

  4-2 鏡山猛氏の太宰府条坊制説
鏡山猛氏の復元図によれば、太宰府は右の図のように、南北22条(2.4Km)、東西各12坊(2.6Km)のほぼ正方形の街区を持つ都市であった。
その後、鏡山氏の説を裏付ける形で、発掘調査が繰り返され、一区画の東西幅が約90m(南北は不詳)であった可能性があるなど修正があるものの、同氏の提唱した太宰府に条坊制が布かれていたことはほぼ確実視されつつある。

このように太宰府が「遠の朝廷」と呼ぶに相応しい整備が行われていた頃、大和では遷都後僅か16年の藤原京から平城京へ遷都が行われようとしていた、或いは平城京遷都直後であろう。平城京はよく知られるように唐の長安に倣って造営された。しかし、同時期のこの太宰府の方が、その規模は小さいものの長安の街区により近いことに驚かされる。

いずれにしても太宰府は外交を担う政庁が存在する都市である。国家の威信を誇示するためには、こうした整然とした街区を持つことは是非とも必要なことであったと考えるのが自然である。今後の発掘調査進展に大いに期待したい。

<目次へ戻る>

5.太宰府の終焉
再建後と思われる天徳2年(958)大宰大弐・小野好古が安楽寺天満宮で曲水宴を、康保1年(964)同じく安楽寺で「残菊の宴」を行うなど記録が残り、この頃までは太宰府は朝廷の西海道を治める府として権威と権力を保持していたのであろうと推定されている。

しかし、太宰府を根源的に支えていた律令制度そのものが実質的な崩壊が進んでいたこの時代に在って太宰府の終焉はもう間近であった。

寛仁3年(1019)、高麗の北方のツングース系民族・女真が北九州一帯に来襲し、一部記録されているものだけでも、殺害された者・数百人、連れ去られた者・千余人など甚大な被害を受ける事件が発生する。「刀伊の入寇」である。結果としては太宰権師・藤原朝臣隆家らの奮戦で撃退するものの、太宰府はこれ以降急速に衰退に向かったのではないかと考えられている。

だが、果たして、太宰府が何時ごろまで存続していたかなど定かなところは、確実な史料が無いなど研究は進んでおらず、残念ながら不明である。

<目次へ戻る>

6.特記事項
(1)今後に期待したい太宰府政庁跡研究
現在の太宰府政庁跡は史跡公園として整備され、正殿の巨大な礎石をはじめ政庁の全体を基壇跡や遺構、加えて解りやすい説明パネルによって容易に知ることができるようになっている。

太宰府は、わが国の朝鮮や中国の先進文化の受け入れ窓口として、そして何よりも国防・外交上で大変重大な役割を担っていたところである。その太宰府の歴史を知ることは古代日本の政治・外交・軍事・文化を知ることに直結するといっても過言ではないと思う。ところが、この政庁跡の発掘調査が開始されたのは太平洋戦争敗戦後23年も経った昭和43年からだということに驚きをもって今回知った。

日本史の科学的な研究は、この30から40年前に本格的に始まったと、ある歴史学者が仰っていたのを聞いた、その時は少し乱暴な意見だと思ったものだが、こうした太宰府の例を見ればあながち先生の意見は極論とは言えないかもしれない。

しかし、これは逆に考えれば、古代史に興味を持つ者にとって、様々な所で発掘調査が進めば新たな発見が今後、大いに期待できるということでもある。実際、現在も太宰府では各地条坊跡、蔵司地区の発掘調査が現場の研究者の方々によって地道に続けられている。この努力に深く感謝するとともに、今後も新たな発見があることに期待したい。

(2)当サイトの太宰府に関連するページは以下のとおりです。ご参照下さい。
太宰府の歴史   太宰府年表  水城   観世音寺   玄ム  戒壇院

(3)「太宰府」と「大宰府」の表記について
太宰府の漢字表記には「大宰府」と「太宰府」の二通りあり、正式には地名の固有名詞は「太宰府」、歴史的な事柄に関する場合は「大宰府」と漢字表記を使い分けられております。しかし、本ページでは、筆者自身の不注意による誤用を避けるためにこれを無視し、いずれの場合でも「太宰府」に統一しておりますのでご了承下さい。

<目次へ戻る>

7.現在の太宰府政庁跡
  正殿基壇跡に立てられている石碑
 
     
太宰府政庁跡入口 太宰府政庁南大門跡
太宰府政庁跡 太宰府政庁南大門跡
太宰府政庁中門跡 太宰府政庁東脇殿礎石
太宰府政庁中門跡 太宰府政庁東脇殿礎石
東廻廊跡   後殿跡から見た政庁跡の全景
太宰府政庁東回廊跡   太宰府政庁後殿礎石
     
<目次へ戻る>
8.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2012/5作成 2013/4加筆・改訂 2016/1加筆・改訂 2018/1改訂  2018/10加筆・改訂 2020/1改訂 2020/11改訂
太宰府政庁跡