1.太宰府の前身は「那津官家」 |
- (1)「筑紫君磐井の乱」
- 継体天皇21年(527)に「筑紫君磐井の乱」が起こり、その翌年に平定される。これに懲りた大和政権は、北部九州の支配確立と、同時にその対処が急速に高まっていた流動化する朝鮮半島政策を担う拠点として、現在の福岡市南区三宅付近とされる所に、「那津官家(なのつのみやけ)」という出先機関を置いた。
(「日本書紀」宣化天皇元年(536)五月の条)
- (2)「那津官家」の機能強化
- この「那津官家」は、その設置後も大和朝廷にとって、その政治・軍事・外交・経済等のあらゆる点でその重要性が増していったことは、当時の目まぐるしく変動する東アジア情勢と、いつ反乱が勃発するか気の抜けない九州の政治状況をみれば容易に想像できる。
「日本書紀」では、これら「那津官家」の機能強化拡充について具体的に記述が無いが、以下の事例からその様子が窺い知ることができる。
即ち、推古天皇十六年(608)四月の条に「小野臣妹子が大唐から帰国した。(中略)大唐の使人・裴世清と十二人とが、妹子臣に従って筑紫に到着した」とあるが、その翌年の推古天皇十七年(609)四月の条に「筑紫太宰が奏上して・・・」とあり、少なくともこれ以前の時期に「筑紫太宰(つくしおおみこともち)」という大和政権の正式な官司が置かれ、「那津官家」が出先機関として、その機能・権限の拡充が図られていることがわかる。
※注1 筑紫太宰という官位はこの推古天皇十七年(609)四月の条に登場するのが初見である。
※注2 筑紫太宰とは後の令制に基づく太宰府の最高位者である太宰帥(だざいのそち)にあたる。
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2.白村江の戦の敗北により「那津官家」は現在地に移される |
- (1)白村江の戦いの敗北と「那津官家」
- 斉明6年(660)百済が新羅・唐によって滅ぼされたその三年後の663年に白村江において百済再興を目指す倭の派遣軍と新羅・唐の連合軍が激突し、倭は大敗を期してしまう、「白村江の戦い」である。
この敗北によって大和朝廷は、勢いに乗った唐または新羅が自国に攻め入ってくるであろうと、かつて経験したことの無い強い恐怖心を抱いたことは容易に想像できる。まさにこの恐怖心がもたらしたのであろう、敗戦後、なり振り構わず、矢継ぎ早の各種防衛策を実行したのである。その防衛網構築の中心を担ったのが、朝鮮半島に最も近い「那津官家」である。結果、「那津官家」は新羅・唐連合軍襲来に備える大和朝廷の最前線司令部へと一変したのである。
- (2)「那津官家」の移設
- この時、「那津官家」は、博多湾に近いところに置かれていた。博多湾は新羅・唐連合軍の侵攻の可能性が最も高いところである。天智4年(665)、より内陸部に入った防備がしやすい現在の太宰府政庁跡の地に移設される。
なお、この移設は「那津官家」の機能のうち政治・軍事機能のみであり、外交使節の饗応、各国との貿易などの管理機能はそのまま那津の地に留め置かれたと考えられている。これら留め置かれた機能の内、後年には外国使節の宿泊・饗応機能は、さらに分離強化され、那津の地より博多湾岸に近い場所に「筑紫館(ちくしのむろつみ)」などの名称で置かれ、外国使節や遣唐使往来時の宿泊・饗応施設へと発展していくこととなる。
※注 「日本書紀」持統三年二月の条に「霜林(新羅の使節)らを筑紫館で饗応し、・・・」とある
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3.「白村江の戦い」敗北後の大和朝廷による防衛網構築の概要 |
- (1)対馬、壱岐、筑紫沿岸の防備
- 襲来が予想されるルートは、対馬、壱岐、筑紫である。そこで天智3年(664)、その襲来に備えて対馬、壱岐、筑紫の各沿岸に防人を駐屯させ、更に唐・新羅の襲来をいち早く朝廷のある飛鳥に通報するための烽台を各地に設置した。
- (2)最前線司令部「太宰府」防衛の強化
- 大和朝廷の武官は、唐・新羅軍が太宰府に攻撃を仕掛けるとすれば、玄界灘、博多湾側から、その次は有明海側だ、だが博多湾、有明海の二手同時に攻め入ってくることも想定しておかねばならない、と考えたのであろう。実際にその想定通りに、以下のように水城、土塁、古代朝鮮式山城が築造されている。
先ず、博多湾からの敵軍侵入には水城大堤をはじめてする土塁を築き、そして万一、水城が破られた時は、籠城し援軍到着を待つための城として、天智4年(665)に太宰府の後方の四王寺山頂上に大野城を築いた。そして有明海側からの攻撃に対しては、同じく天智4年(665)に、佐賀県三養基郡基山町にある基山・坊住山の山頂部に基肄(椽)城と、その周辺には下図の通り土塁を築いたのである。
太宰府の防衛網 |
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@水城大堤 A上大利土塁 B春日土塁(推定) C大土居土塁 D天神山土塁 Eとうれぎ土塁 F関屋土塁 |
海鳥社刊 森弘子著「太宰府発見」より |
※注 「日本書紀」天智四年(665)八月の条
「達率 答本春初(とうほんしゅんそ)を遣わせて、城を長門国に築かせ、達率
憶礼福留(おくらいふくる)、
達率 四比福夫(しひふくふ)を筑紫国に遣わして、大野及び椽の二城を築かせた。」とある
なお、達率とは、百済の官位。達率は、百済の最高官位である「佐平」(一品官)に次ぐ高官である。
@水城の築造(664)
水城は、大野城跡に連なる丘陵を次々と結び、博多湾に接する福岡平野への太宰府の開口部を塞ぐ
土塁である。その規模は全長約1km、幅約40m、高さ約13mもの長大なものである。さらに
福岡平野側には幅約60m、深さ約4mの濠を掘り水を満たすという強固なものである。
水城跡 |
A大野城の築造(665)
大野城は太宰府政庁の真北の標高約410m四王寺山の頂上に築かれた古代朝鮮式山城である。山腹に
土塁と石塁によって鉢巻状に城壁を築き、その総延長は8kmを超える巨大な城である。そして城壁
内には約70棟の穀物貯蔵用の倉庫と思われる礎石建物群があったことがわかっている。
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上の写真は太宰府政庁正殿跡であるが、その後方の山が大野山(四王寺山)
である。この頂上に大野城は築かれていた |
B基肄城(きいじょう)の築造(665)
基肄(椽)城は、有明海からの敵の侵入を防御するために、佐賀県三養基郡基山町にある標高約
400mの基山・坊住山の山頂部に築かれた古代朝鮮式の山城である。山頂からは博多湾、有明海が
一望できる。大野城と同様に山腹に土塁と石塁によって鉢巻状に城壁を築き、その総延長は
約4.4kmあり、その内側には40軒を超える礎石建物群、天水溜めなどがあった。
- (3)大和に通じる街道・沿岸沿いの防衛強化と近江への遷都
- しかし、その後も唐・新羅との緊張関係はさらに予断を許さない状況が続いていたのであろう、三年後の天智六年(666)三月、中大兄皇子(天智天皇)は大和の飛鳥から近江の大津に遷都、そして同十一月には、現在の奈良県生駒郡に高安城、讃岐(香川県)に屋嶋城、対馬に金田城を築き、さらに防衛網を整備強化している。
- (注1)日本書紀天智三年(664)の条
- 「この歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国などに、防人と烽とを置いた。 また、筑紫に大きな堤を築いて水を貯えさせ、これを水城と名付けた」
- (注2) 日本書紀天智六年(667)三月の条
- 「都を近江(大津宮)に移した。」
- (注3) 日本書紀天智六年十一月の条
- 「倭国の高安城、讃吉国の山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築いた」
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4.太宰府創建以降の歴史 |
※ 制作中 |
5.特記事項 |
- (1)太宰府の漢字表記について
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※注
太宰府の漢字表記には「大宰府」と「太宰府」の二通りあり、正式には地名の固有名詞は「太宰府」、歴史的な事柄に関する場合は「大宰府」と漢字表記を使い分けられております。
しかし、本ページでは、筆者自身の不注意による誤用を避けるためにこれを無視し、いずれの場合でも「太宰府」に統一しておりますのでご了承下さい。 |
(2)当サイトの太宰府に関連するページは以下のとおりです。ご参照下さい。
- 太宰府歴史年表 太宰府政庁跡 水城 観世音寺 玄ム 戒壇院
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6.古寺巡訪MENU |
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<更新履歴>2012/5作成 2016/2補記改訂 2018/10加筆改訂 |