1.所在地 |
福岡県太宰府市水城1−1
県道574と同112号が交わる水城3交差点に水城展望台が有り水城跡を一望することができます。
また展望台には駐車場があります。 |
2.水城とは何か |
水城とは、博多湾から侵攻が予想される敵から太宰府を護るために、土塁と水堀によって築かれた巨大な防御壁である。
その敵とは、唐と新羅である。
即ち、斉明6年(660)に朝鮮半島では、百済が新羅・唐によって滅ぼされた。そしてその三年後の663年に、白村江において百済再興を目指す倭の派遣軍と新羅・唐の連合軍が激突し、倭は大敗を期してしまう、「白村江の戦い」である。
この敗北によって大和朝廷は、勢いに乗った唐または新羅が自国に攻め入ってくるであろうと、かつて経験したことの無い強い恐怖心を抱いた.。まさにこの恐怖心がもたらしたのであろう、敗戦後、なり振り構わず、矢継ぎ早の各種防衛策を実行した。
なお、「水城」という名の由来は、下記のとおり日本書紀にある。
(注1)日本書紀天智三年(664)の条
「この歳、対馬嶋(つしま)、壱岐嶋、筑紫国などに、防人と烽とを置いた。また、筑紫に大きな堤を築いて水を貯えさせ、これを水城と名づけた。」 <目次へ戻る> |
3.水城が構築された場所 |
(1)博多湾に接する福岡平野への太宰府の開口部を塞ぐために築造された
水城は、土塁と水堀によって下の( 図1)のように大野城跡に連なる丘陵を次々と結び、博多湾に接する福岡平野への太宰府の開口部を塞ぐために築造されたのである。即ち、これは大野城がある四王寺山の裾野にあたる国分の丘から南西の方向に対面する吉松丘陵を直線で結ぶものであった。
(図1)太宰府と水城との位置関係
海鳥社刊森弘子著「太宰府発見」より |
(2)現地説明文「水城跡」について
このように太宰府防衛のため、太宰府の博多湾への開口部を巨大な土塁と水堀で結ぶ形で構築されたのが水城である。この水城について、現地説明文「水城跡」に下記のとおり解りやすく記載されていたので参考にしていただきたい。
「水城は664(天智3)年、福岡平野からの外敵を防ぐため、吉松丘陵と国分の丘陵を塞ぐように築かれた土塁です。土塁のほとんどは人工の盛土で、全長1.2Km 、幅77m、高さ9mを測ります。土塁には内濠から外濠(博多側幅60m)への導水施設である木樋(もくひ)が数カ所設置されていました。また、土塁を通過する官道には東西それぞれに城門がありました。 大野城市から春日市にかけても狭量の谷間を塞ぐように、上大利(大野市旭ヶ丘)、大土居(春日市昇町)、天神山(春日市天神)などの小水城と呼ばれる土塁があり、水城とともに防衛線を形成していました。」
また、この説明文の他に、土塁の平面図(図2)が、下記のとおり掲載されていた。
(図2) |
太宰府側 |
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福岡平野(博多湾)側 |
※ 上の画像を拡大した物を下記の <6.その他>に掲載しておりますのでご参照下さい ※
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4.水城の構造 |
この水城の構造は、博多湾側に幅60mもの水濠を掘り、さらにその内側に高さ9mもの土塁を築くという大がかりのものである。
下の(図3)は現地の説明文にあった水城の断面図である。これを見ると土塁のそのものの幅は77mあり、外濠の水面から土塁の最高部までは9mであることが解る。なお、ここには明示されていないが外濠の水深は約4mあったことも判明している。また土塁は質が異なる土を交合に突き固める版築工法が用いられている。
しかし先述したことではあるが、人馬だけが頼りのこの時代に、敗戦の翌年の天智三年(664)にはもうこの水城は築かれているのである。果たしてこれだけの巨大な土木工事がこのように短期間に短期間に築造することが可能であったのか否か、どうかぜひ知りたいが確実な史料も無く今なお歴史の闇に隠れたままである。
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5.その後の変遷 |
(1)天智天皇が恐れた唐からの侵攻は無く水城が活用されることは無かった
天智天皇が恐れた唐・新羅の侵攻はなかった。唐は白村江の戦いに勝利するとその矛先を日本では無く、高麗へと向かったのである。そしてこれを滅ばしてからは、朝鮮半島を統一するために何とかして唐の覇権を排除したい、かつての盟友新羅と対立関係に入り、日本への侵攻など考えられる情況では無くなってしまうのである。この朝鮮半島の変化に助けられ、水城が戦場となることはなかった。
(2)奈良時代中期の対新羅外交の緊張によって再び脚光を浴びる水城
ところが天平期にはいり、新羅との関係が急速に悪化し、さらに、唐(玄宗皇帝)では、「安禄山の乱」が勃発して政情が混乱し、再び朝鮮半島・大唐に最も近く、日本の玄関口である筑紫・筑前の防衛が重大な課題としてクローズアップされるのである。この様子を「続日本紀」では以下のように伝えている。
- 天平勝宝8年(756)6月22日の条
- 「始めて怡土城を築いた。太宰大弐吉備朝臣真備に当たらせた」
- 天平宝字2年(758)12月10日の条
- 「遣渤海使小野朝臣田守、戸の安禄山の変を報告。淳仁天皇、太宰帥船王と大弐吉備真備に勅する。よろしくこの度の状勢を理解して、予め優れた策を建て、たとえ禄山が来寇しなくても、準備は怠ることがないようにせよ、立案した上策と準備の詳細は一々具体的に記録して報告せよ」
- 天平宝字3年(759)8月6日の条
- 「太宰帥・三品の船親王を香椎廟(香椎宮。仲哀天皇を祀る)に遣わして、新羅を伐つ事情を奏上させた」
- 天平宝字3年(759)9月19日の条
- 「船500艘を造ることになった。(中略)三年以内に完成させることとした。新羅を征討させるためである」
- 天平宝字4年(760)9月16日の条
- 「新羅国が級きん(第九位の官位)金貞巻を派遣して朝貢した」 (使者の身分が低いとして追い返す)
- 天平宝字5年(761)正月9日の条
- 「美濃・武蔵二国の少年それぞれ30人宛てに新羅語を習わせた。新羅を征討するためである」
- 天平神護元年(765)3月10日
- 「太宰大弐・従四位下の佐伯宿禰今毛人を怡土城(いとじょう)造営の専知官(専任者)に、太宰少弐・従五位下の采女朝臣浄庭(きよにわ)を水城を修理する専知官に任じた」
もしこの新羅討伐が実施されておれば、太宰府は日本の最前線の統合参謀本部となり、それを護る水城は軍事的に重要な役割を担ったはずである。だが、対新羅強硬派の太政大臣恵美押勝(藤原仲麻呂)がその後ろ盾であった光明皇太后が760年に死去してから、4年後に道鏡の台頭を巡って孝謙太上天皇とも対立するという窮地に追い込まれ、遂にそれを打開するために起こした軍事行動は吉備真備が率いる孝謙太上天皇軍に敗れ殺害されるという事件が勃発した。この結果、強硬に推し進める中心人物を失った新羅討伐は中止され、水城は再び戦場となる危惧から免れることができたのである。
なお、怡土城は768年に完成している。(神護景雲2年2月28日の条 「筑前国の怡土城が完成した」)
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6.その他 |
(1)史跡「水城跡」を訪ねて史跡保護が如何に困難であるか痛感させられた。
上記の(図2)を解りやすく易くするために、これを3分割し拡大表示してみたのが以下の@〜Bであるが、これを観ると史跡「水城」が、何事も経済効率を最優先させるという明治以降の近代日本の政治・社会風土の下で、如何に無残に破壊されて来たかがよくわかる。以下、この絵図に副ってその状況を説明してみたい。
@ 水城は、下の@-A図のとおり御笠川を挟んで更に南西に延びているが、残念ながら国道3号線、九州自動車道、西鉄天神大牟田線が横切り遺跡は、大きく損なわれている。
(図2)−@
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(図2)−A
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Aそして、御笠川から更に南西に延びる水城だが、今度は下図BのとおりJR.鹿児島線によって分断破壊されている。
(図2)−B
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(2)当サイトでの水城跡と関連するページ は以下のとおりです。ご参照ください。
太宰府政庁跡 太宰府の歴史 太宰府歴史年表 玄ム 観世音寺 戒壇院 <目次へ戻る>
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7.現在の水城跡の状況 |
左は、 国分の丘にある展望台から水城を撮影したもので、左側が太宰府、右側が博多湾側である。手前の道路付近が東門があった場所である。 |
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東門の礎石が、上の展望台の下に石碑とともに保存されている。なお、この礎石は、実際にあった東門の場所とは位置が異なっていることが発掘調査の結果判明している。 |
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水城の博多湾側から撮影したもので現在、田となっているところが幅60mの水濠があったとされる。 |
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8.古寺巡訪MENU |
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<更新履歴> 2012/6作成 2016/1補記改訂 2018/10補記改訂 2020/11補記改訂 |