(20.03.22)

 父ありき  (1942年 昭和17年)



監督:小津安二郎
脚本:池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎
主演: 笠智衆(堀川周平)、佐野周二(良平)、 津田晴彦(良平少年時代)、他  DVD



 太平洋戦争中に公開された小津安二郎監督の古い映画です。 妻に先立たれた父親がその子供を立派に育て導いた様子を描く圭作とされています。 大人になった良平と老いかかっている父親との心の交流が見所です。







 この映画を始めて見たのは40年近くも昔でした。 有楽町か新宿にあった昔の映画ばかりを上映する小さな映画館だったと思います。 その時私は次のように感じました。

 これは自分が成しえなかったことを息子良平に期待してその未来を縛る父親を描いた作品。 良平はどこか割り切れなさを持ちながらも表向きは従順に従っている。 導いてくれる父親亡き後、良平は人生をうまくハンドリング出来るのだろうか?

 若かった私はこの父親をどちらかと言うと否定的に見ていたのです。 しかし今思うと、家長制度が強かった戦時中に父親を否定するような映画が許されたはずがありません。 当時は検閲があったのです。 それだけでも誤っています。



 「父ありき」を改めて見て、 明治生まれの男はなぜこうも確信を持って子供を導くことができるのだろう、 二十五歳にもなった息子を叱咤激励することができるのだろうと思います。 わが身と比べてもあまりにも違いすぎます。

 私は大人になった自分の子供にあのような確信をもって話したことがありません。 何が正しくて何が正しくないのか、 どんな人生が幸福なのか私にはよく分からないからです。 親としては無責任かもしれませんがそれが現実です。

 先日亡くなった父親は、私が高校生になるころからやはり何も言わなくなってしまいました。 進路とか生き方とかその類のことは父親からは聞いたことがありません。 その理由は最後まで分かりませんでしたが、今の私と同じだったのかも知れません。



  それにしても父親役の笠智衆のセリフ、 棒読みのようでいてそれがどこかふんわかとした包容力を感じさせます。 いつもはにかんでいるような息子役の佐野周二と、 子供時代役の津田晴彦がそっくりなのが笑えます。







(20.02.23)

 武蔵野夫人  (1951年 昭和26年)



原作:大岡昇平
監督:溝口健二
主演:田中絹代(秋山道子)、森雅之(秋山忠雄)、山村聡(大野栄治)、轟夕起子(大野富子)、片山明彦(宮地勉)、他  DVD



 前回「ムツェンスク郡のマクベス夫人」 ”Lady Macbeth of the Mtsensk”を取り上げましたが、 古い邦画で似た題名があったのを思い出しました。 それは田中絹代主演、溝口健二監督の「武蔵野夫人」”The Lady of Musasgino”です。 両映画ともその重要なテーマが「姦通」なのです。

 姦通とは夫がある女性が他の男性と肉体関係を持つことで、昭和二十年代までは「姦通罪」という犯罪でした。 なお、妻のある男性が女性とそうなった場合はこの罪には問われません。 「姦通罪」は男尊女卑の法律といわれるゆえんです。







 主な登場人物は以下の5人です。 主演田中絹代演じる秋山道子は、フランス文学研究家である夫秋山忠雄とともに都心から武蔵野にある道子の実家に戻ってきます。 アメリカ軍の空襲によって都心の家が焼けてしまったからです。 近所には道子のいとこで工場を経営している大野栄治とその妻大野富子が住んでいます。

 戦争が終わってから3年後、道子の若いいとこ宮地勉がシンガポールでの捕虜生活から解放されて帰郷します。 大学に復帰した勉は道子にほのかな思慕を抱くようになります。 あまりうまくいっていない秋山夫妻にさざ波が立ち始めます。



 この5人について書いてみます。

 まず秋山道子。
道子は表向きは貞淑な妻を演じていますが、その心は勉に大きく傾いて夫の事など愛してはいません。 そして肉体的に清潔ならば道徳的にも許されると思い込んでします。

 しかし、それとは反対の考えかたもあります。 特に男性にはこう考えている人も多いです。 つまりプロの女性と肉体的に浮気しても心が浮いていなければ道徳的に許されるという考え方です。 心が浮くことこそ「浮気」なのだと。 (これについてはこれ以上触れません。)

 また道子は亡くなった父母や祖先との誓いにとらわれています。 「家」を守り「家名」汚してはいけない、と。 しかし、道子のそれは「人に後ろ指をさされない」外面的な行動をすることとほぼイコールで、 内面は誓いにが含まれていないのです。

 道子は夫に離婚されて「家名」汚すこととなりました。 さらに担保に入った「家」をも他人に取られることを防ぐために道子が選択したのは死でした。 家を守れなかった人として生きるよりも、家を守った人として死んだのです。 江戸時代の武士の掟がまだ生きていたのです。



 次に秋山忠雄。
忠雄はスタンダールをはじめフランス文化に心酔していています。 時の政府による「姦通罪」の廃止を歓迎し、 日本もフランスのように男も女も未婚既婚にかかわらず自由に恋愛するべきだとの考えを公にしています。 その考えのもと富子にアタックしています。

 しかし勉が妻道子に思慕を抱いていることを知ると忠雄は猛烈に嫉妬します。 普段口にしていることとはまるで反対です。 映画では忠雄が浅いフランスかぶれの小心者であることをううまく描いています。



 大野栄治は一つの典型的な日本人の男です。 商売がうまくいってリッチななれば芸者遊びをし妻から疎まれる普通の男です。 それ以上でもそれ以下でもありません。

 富子のような女性はそんなに少なくはありません。 寂しがりやで人懐こくて隙が多いので男が近寄ってきます。 (「ドン・ジョヴァンニ」の「ツェルリーナ」のよう) しかし、富子のような女性と不義に付き合っても男はまず幸せになれません。

 しかしそれが分かっていてもそんな女に近づきたがるのがフツー男で、男は馬鹿なのです。 怖がりながらも河豚のキモを食べたがるのが男です。

 勉には特に際立った個性は与えられていません。 若いがゆえに直情的な男 (「薔薇の騎士」の「オクタビアン」のよう)として描かれています。 道子に拒絶されたと思い込み、富子の誘惑に負けたりする普通の若い男です。





 さて映画「武蔵野夫人」の舞台は現在の立川市付近、時は昭和23〜24年と思われます。 翌年に朝鮮戦争があり戦後初の好景気に沸き立ちます。 それから数年後には高度経済成長も始まりました。

 工場を経営している大野栄治はさぞ儲かったことでしょう。 芸者遊びも堪能できたことでしょう。 富子にも経済的な恩恵が及んだことでしょう。 栄治に不満を持ちながらも、もしかして富子は工場経営の有能なパートナーになれたのかも知れません。



 秋山忠雄は道子のことは忘れて学者としての栄達を目指したことでしょう。 勉も秋山ほどドライではなくても社会的な成功を手にしようとするでしょう。 たまの帰郷時に勉は墓参りをして昔を回想するのです。 (その後には妻子がいるのかもしれません)

 新たな時代に古い価値を守って亡くなった道子は、 勉にとっていつまでも美しい「武蔵野夫人」のままなのです。永遠(とわ)に。

 





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