(06.07.15)
ベニスに死す ワーナー DL-11060
(DVDビデオ)
製作:1971年 イタリア
監督:ルキノ・ビスコンティ
音楽:グスタフ・マーラー
出演:ダーク・ボガード、ヒョルン・アンドルセン、ジスバーナ・マンガーノ
老いの哀しさ、死の淋しさ、そして若さと運命の残酷さ、
水の街ベニスの美しい映像と、異様に美しく退廃的なマーラーの音楽。
ゆっくりした時間の流れと共に渾然と融和して、リリックな
一大交響詩を奏でる、ビスコンティ監督の大傑作。
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「ベニスに死す」はみる人によって、いや正確にはみる人の年齢によって、
著しく評価が割れる作品といわれています。
若い人たちの多くにとって、この映画は「退屈であり、男が男を追いかけるなんて
気持ちが悪い」というだけの感想になります。
しかし、ある年齢以上になると、この映画には、老いに悲哀、若さの残酷さが
きわめて美しく巧妙に描かれていることが分かります。
あらすじを少し記しましょうか。
1911年(作曲家グスタフ・マーラーが51才で亡くなった年に
あたります)の夏、ドイツ在住の著名な作曲家アッシェンバッハは、
心臓病の静養のため訪れたベニス・リド島で、ギリシャの彫刻を思わせるポーランド人の
美少年タージオの虜になってしまいます。
美しいタージオはアッシェンバッハに、初老を迎えた自分への嫌悪感、
芸術家としてなかなか大成できなかった頃の苦悩、
また友人との美についての白熱した議論などを思い起させます。
一方のタージオは、アッシェンバッハの気持ちを薄々知ってか、
冷笑を浮かべて心を惑わそうとします。
このままでは、破滅に導かれるとわかっていても、アッシェンバッハは
タージオを追いかけることを止めることが出来ません。
そしてベニスにもコレラが流行していることをアッシェンバッハは
知ることになります。
しかし、魂をタージオに奪われてしまっているアッシェンバッハは、
ヴェニス・リドを立ち去ることが出来ませんでした。最後には、若返ると称して
ピエロのような化粧をしたまま、アッシェンバッハはコレラに倒れてしまいます。
なお、この物語の原作は、トーマス・マンです。
マンは1875年ドイツ生まれの作家で、「ヴェニスに死す」の他には
「トニオ・クレーゲル」、
「魔の山」などがあります。
監督はルキノ・ヴィスコンティ。イタリア映画を代表する巨匠です。
実家はミラノ有数の名門貴族ですが映画界に入り、1942年
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』でデビューしました。初期には下層社会の苦しみを
捕らえた作品が多く、後期の上流社会の崩壊を捕らえた
作品まで、鋭い視点と完全主義を貫きました。
『ベニスに死す』のほかの代表作品は『地獄に堕ちた勇者ども』
『山猫』などです。
ところでちょっと前、少し酔っ払って冗談に、会社の若い(といっても30代前半)人に、
「もし仮に、オレと君の年齢をお金で交換できとする、君ならいくらなら
OKなの?」と妙な質問をしました。すると彼の答えは、「1.000万円ぐらいかな?」
でした。私は「買った!」といいました。
彼と私の年齢差は12才です。
彼はこの差をわずか1.000万円の価値としか見ていないのです。
可能ならば、2.000万円出して24才若くなりたいと思います。
とても安い、安すぎます。今の楽天(4755)が6.210円(現在62.100円)で
買えるよりも遥かに安いと思います。
若いということはそれだけで価値があります。お金などなくても、
どうでもいいのです。お金を稼ぐ時間はいくらでもあります。
一方、未来が少ないというだけで、人は暗澹たる気分になります。
年をとれば残った時間がないので、人の時間をお金で買って、自分の時間が減らないように
するしかありません。そのためには年寄りにはある程度の財力、もしくは
権力うち少なくても1つが必要です。
時間がないということは、これまでの自分を否定することが
難しくなり、したがって新しい出発ができないことになります。
そしてもうひとつ残酷なのが、容貌と体力の衰えです。
しかし、美しい容貌や肉体はその後のことを思うと、逆に残酷さを
感じてしまいます。美の頂点は衰退の始まりでもあります。
さて、タージオのその後の運命はどうだったのでしょうか?
この映画の時は1911年、欧州の平和は最後の黄昏のような時期です。
これから数年あとに欧州中を巻き込んだ第一世界大戦が始まります。
若いポーランド人、タージオ(実在の人物と仮定して)は成人して
おり、同胞とともに祖国を守るために、銃をとった可能性があります。
第一次世界大戦が終わって、激しいインフレとデフレに見まわれた後、
ポーランドはナチス・ドイツとソビエト社会主義連邦の軍靴によって、
真っ二つに分断されてしまいます。その頃タージオはたぶん40才ぐらいです。
自分の家族もいることでしょう。もし、タージオがソビエト側に住んでいたのなら、
貴族または富豪である彼と、彼の家族の運命はさらに過酷だったのでしょう。
しかし、ヒットラーの
側がそれより良かったなどとは、とてもいえません。
そして、まもなく欧州を崩壊に導いた、第二次世界大戦が始まります。
ポーランドはナチスに全面的に占領され、そして後にソビエトに占領されて
戦争はやっと終わりました。中年期になっているポーランド人、タージオは
どうやって生き延びたのでしょうか?
まだまだ悲劇は終わりません。ポーランドにとってその後、
ますます過酷な運命が待っていました。
ソビエトによって、ポーランドには強制的に社会主義革命が起こってしまいました。
その頃、タージオが生き延びていたら、ちょうどあの頃のアッシェンバッハの
年齢です。革命によってすべての財産を剥奪されたであろうう
タージオにも、老いの哀しさ、死の淋しさ、そして若さと運命の残酷さ
がひしひしと分かることでしょう。
ポーランドが社会主義の暗黒から開放されて自由になったのが、つい最近の1989年、
タージオが生きていたら100才近い年齢です。100才の元美少年タージオ、
ギリシャの彫刻を思わせたタージオ、
想像できるでしょうか。美とは残酷です。
この映画の音楽には、交響曲第5番第4楽章「アダージェット」を中心として、
他にもマーラーの作品の断片(交響曲4番など)が出てきます。
マーラーの音楽はモーツアルトやブルックナーのような深みや陰翳はありませんが、
世紀末的な退廃美で溢れています。そして、この「アダージェット」は異様に
美しく、この映画の主題にぴったりだと思います。
トーマス・マンの「ベニスに死す」とグスタフ・マーラーの「アダージェット」を
結びとけたビスコンティ監督の慧眼には頭が下がります。映画からも次第に
抜けられなくなりそうです。
(05.07.23)
雨に唄えば ワーナー DLT-50185
(DVDビデオ)
製作:1952年 米国
監督:ジーン・ケリー、スタンリー・グリーン
音楽:ナシオ・ハーブ・ブラウン
出演:ジーン・ケリー、デビー・レノルズ、ドナルド・オッコーナー、ジーン・ヘイゲン、シド・チャリーシ
梅雨も明け、雨の季節も終わりになりました。
しかし、今年は梅雨の季節に「雨に唄えば」に出会いました。
おかしな言い方かも知れませんが、感動的なぐらい楽しい作品です。
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今回は多くは語りませんが、とにかく楽しい作品とはこのことを言うのでしょう。
数々のダンス・シーンの素晴らしさ!! ユーモアに溢れ、テンポのいい演出、ノスタルジック
な音楽、キャラクターの魅力、サービス精神も満点、どれをとっても「雨に唄えば」は
本当の傑作なのでしょう。ハリウッド映画の粋を集めたような
ミュージカルです。
笑い楽しむことは人だけに許されている最も高度な所作なのです。
底抜けに楽しい良質の笑いが「雨に歌えば」にはあります。
1952年に製作されたこの古い映画は時代を超えて人々を楽しませることでしょう。
そして、私達がいる世界には、まだこのような楽しいもの
が沢山隠されているのです。
♪♪雨に唄えば
弾む心よ
よみがえる幸せ
黒い雲に笑いかければ
心には太陽
愛が芽生える…
♪♪GODD MORNING! GOOD MORNING!
夜を語り明かした、おはよう!
GODD MORNING! GOOD MORNING!
夜更かしは楽しい、おはよう!
バンドの演奏に 星が輝き…
♪♪彼は彼女を抱きしめる
あなたは?
彼は優しく彼女にささやく
あなたも?
二人はただの友達だった
でも、物語が終わるまでには
きっと…
(05.03.12)
吉田拓郎ライブ コンサート・イン・つま恋’75 GT MUSIC
MHBL 6 (DVDビデオ)
僕の歌はサヨナラだけ(リハーサル) ああ、青春 春だったね
今日までそして明日から 夏休み
襟裳岬 三軒目の店ごと
されど私の人生 君去りし後 洛陽 人間なんて
先日見つけたこのDVDによって30年振りに、「つま恋コンサート」と再会
しました。
1975年夏のある日、静岡県つま恋多目的広場に5万人の若者(後の団塊の世代)が集まり
ました。
そのコンサートは西日が照りつける中「ああ、青春」で始まり、
夜を徹して行われました。そして東雲をバックに「人間なんて…」の絶叫と大合唱で
大きな感銘を残して幕を閉じました。
このコンサートを機に「若者文化」はアンダーグランドからオーバーグランドへ
変質していきました。そしてコンサートには行けなかった一人の高校生にとっても、心の
大きな支えになりました。
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高校時代は色んな意味で「不遇の時代」でした。
何が何やらわからないままに貴重な三年間を空費して過ごしてしまいました。
それまでの大人が敷いた世の中のレールにに乗りたくても上手く乗れないし、
しかしそのレールを外れて生きるほどの才覚も度胸もなく、悶々とした三年間だったと思います。
「青春」という言葉に騙された思いがします。
そんな中、大きな共感を覚えるアーティストが吉田拓郎でした。
彼の奔放な言動や自由な人生の歩み方にも惹かれるところが大きく、
その思い入れはこのつま恋コンサートでピークに達しました。
当時、AMラジオから録音したつま恋コンサートを、何度も何度も繰り返して
聴いたものです。
ところで余談ですが吉田拓郎、井上揚水、あるいは当時新しい音楽と考えられていた
「荒井由美」などの
情報源は、友人同士の口コミの他には主にラジオの深夜放送でした。
今話題のニッポン放送(オールナイトニッポン:現社長の亀淵氏も深夜放送の
ディスクジョッキーでした)、文化放送(セイ・ヤング:有名になる前のタモリ氏)、
TBS(パック・イン・ミュージック:まだ売れない時代の久米宏氏)などに加え、
吉田拓郎、南高節、あるいは山本コータロー等、アーティスト自身も積極的に
ラジオ放送のパーソナリティをしていました。
さて、高校に入学してまもなく学校の勉強について行けなくなりました。
同級生は約400人でしたが、大して程度が高い高校ではないのに、
一時は下から100番に入るぐらいまで成績が下がってしまいました
(当時は成績順に名前を壁に張り出すので、誰がどのぐらいかはお互いに知っていました)。
また「赤点」をもらい、二年生になれるか否かの追試も受けました。
今思うとこうなった理由には思い当たるふしがあります。
@ESSAY BOOKS 02/01/06 にもあるように、中学3年で受験勉強をほとんどしなかったこと。
A「なぜ生きるのかなど」根本的な悩みに取りつかれ、勉強に対するモチベーションを失っていたこと。
B春と秋に長期にわたって花粉症(当時は風邪だと思っていた)になり、授業やテストに
まったく集中できなかったこと。
しかし、ナイーブな高校生にはこんな冷静な分析などできるはずがなく、
短い人生で始めての出来事に、ただおろおろするばかりでした。
また放課後には毎日陸上部(短距離)で練習に汗を流していましたが、これも中途半端な
感じでした。100Mでも都道府県レベルの試合でやっと決勝(8人)に残れるかどうかぐらいの実力で、
全国大会レベルの同級生には常に劣等感を持っていました。
勉強は冴えず、
さほど特徴のない一生徒に周囲はそれほど興味がないのは当たり前で、
先生には歯牙にもかけられず、女生徒には持てず(もしかしたらこれが一番か?)、
同級生にも人受けせず、
なぜこうなってしまたのだろうと悩むばかりでした。
そんな中、こんな曲が心に沁みるように好きになったのは当然かもしれません。
人間なんて (吉田拓郎 作詞)
人間なんて、ララララ…、ラララ…
何かが欲しい おいら
それが何だか わからない
だけど 何かが 足りないよ
今の 自分も おかしいよ
空に浮かぶ 雲は
いつかどこかへ 飛んで行く
そこに何かが あるんだろうか
それは誰にも わからない
人間なんて、ララララ…、ラララ…
今日までそして明日から (吉田拓郎 作詞)
私は今日まで 生きて来ました
時には誰かを あざ笑って
時には誰かに おびやかされて
私は今日まで 生きて来ました
そして 私は今思っています
明日からも こうして 生きていくだろうと…
されど私の人生 (斎藤哲夫 作詞)
もうどうでも いいのさ
つまらぬことは 考えないで
ここからの道を急ぐのさ
それがもっとも 肝心さ
長く暑い 一日が終わり
振り帰る時は すべてが灰色に
心の中は 荒れ果て尽きて
先を見ることさえ 苦しみを覚える
かわる かわる 目の前が
かわって それで おしまいさ
されど私の人生は
されど私の人生は…
もし仮にの話ですが、
こうした音楽を知らなかったか、あるいは家庭が崩壊したりのどちらかであったら、
たぶんあのまま「車輪の下」に押しつぶされていた可能性が強いと思います。
吉田拓郎をはじめとする当時のフォークミュージックは、悩める一人の高校生の心がクラッシュするのを
踏み留めてくれました。
さて、高校二年の始めに悪材料が出尽くしたのか、成績だけは
底打ち反転になりました。3桁台だった順位も
冬頃には2桁まで上がり、三年生の春頃にはついに1桁になり、
最後にはトップにかなり接近しました。
こうなると先生方の態度も変るし、同級生にも教える立場になったり、
ガールフレンドが出来たり、三年生の年明け以後のわずかな期間だけですが、
学校が少しだけ楽しかったのを覚えています。
結果的には最悪の事態までには陥らずに、大人が敷いたレールに最後には
復帰することができました。
しかし、人生は実験も出来ないし繰り返す事も出来ないので、それが良かったのか否かは
最後までわからないと思います。学校の成績などにこだわらずに独自の道を行けばよいかった
のかも知れません。しかし、あの時はそれは無理でした。