(09.02.28)

60分聴くだけの成功諭「富」 (ウォレス・D・ワトルズ)   DHC    (CD)



 これは今から約100年前の1910年にウォレス・D・ワトルズによって書かれた、 ”The Science of Getting Rich(富を得る科学)”を元にして作られたCDです。 それは元祖「成功哲学」とも言われています。なお、ウォレス・D・ワトルズは1860年生まれ、 1911年没ですから、作曲家のグスタフ・マーラーとまったく同じです。

 またこのCDでは、単なる朗読ではなく、人の脳からα波が出やすいような音響処理が 施されています。そのためか聴いていてなんとなく心地よく、 クルマを運転しながら繰り返し繰り返し聞くにはよいCDです。なお、朗読は かなり早口、一度聞いただけではよく理解できないと思います。







 まず、このCDでは、富を得るための最初のステップは、
「欲しいもののイメージを”原物質”に投影すること。自分の欲しいものが必ず 手に入るのだという信念をもつこと」といいます。なお、”原物質”という聞き慣れない 言葉は、宇宙にあまねく広がっているすべての源になるもの、という意味です。 このCDの中では、この”原物質”の理解が唯一難しいのですが、 「神」と置き換えてもいいと思います。

 やっぱり、富を得るための最初のステップは、「強くイメージすること、信念を 持つこと」なのです。世の中にはいろんな成功哲学で溢れていていますが、これらの 最初のステップはみんなほぼ同じです。曰く、

「ヴィジョンを持つこと」
「自分の潜在意識に働きかけること」
「毎日繰り返し声に出すこと」
「紙に書いて繰り返し見ること」
「志を立てること」
「瞑想や黙想をすること」

 言い方や方法はそれぞれ異なりますが、上のどれも「強くイメージすること、信念を 持つこと」なのです。イメージと信念、これなくしては成功の道を歩み始める ことはできないと言えます。逆に言えば、イメージも信念も到底もてないようなこと (例えば、50歳になってから100Mを10秒で走るなど)を、 望んでも、結局はそれを得られないのです。

 成功へのイメージもって、また徐々に信念を強めながらも、 多くの人は現実とのギャップに意気消沈するかもしれません。 しかし、このCDでは、「まずは現実から、今の仕事から始めなさい」と言います。 今の仕事が好きでもまた嫌いでも、 出来るだけ効率的に、また完全にやり遂げるようにすることです。 そうすれば、やがてチャンスが巡ってくるといいます。

 成功への強い信念を持つようになれば、その人は少しつづ変わっていきます。 周囲の人はやがて、その人に「増加」や「進化」の印象を持つようになります。 俗な言い方をすれば、「この人と一緒に仕事をすればうまくいきそうだ」 「この人に投資をすれば何倍もリターンがありそうだ」 ということです。



 さて、一般的に世の中で成功している人は、ほぼ例外なくこのような方法を用いていると言われて います。天性の才能があって無意識にそうしている人もあるでしょうし、努力して 意識的にそうしている人もあるでしょう。いずれにしても、この方法は成功への 王道のように思います。

 こざらし2は日経新聞最終面の 「私の履歴書」を20年以上も読んでいますが、やはり例外なくこのような方法を用いて 成功している、と思わざるを得ません。今日連載が終わったドトールコーヒー 名誉会長の鳥羽氏もそうです。また、こざらし2自身もこれまでの人生の中で、 明確なビジョンを持ったものは得ることができているし、そうでないのは 得られていないような気がします。



 さて、詳しくは記しませんが、このCDではその他にも、「競争的ではなく、創造的であれ」 「感謝をしなさい」「意志の力を使って自分をコントロールしなさい」 「貧困について考えてはいけない」 「失敗はやがて成功に導かれることもある」 「ゆくゆくは最もやりたい仕事をするべき」 など、が語られています。

 なお、このCDとほぼ同内容の本が角川文庫からも出ています。 ”富を「引き寄せる」科学的法則 ”(角川文庫 ワ 5-1) です。 ネットでこの本を検索すると、この本のことを「トンデモ本」だと記している人もいますが、 その人はきっと成功からほど遠いかも知れません。

 ウォレス・D・ワトルズは世の中を注意深くかつ巧に観察して、成功するための 法則を見出したのだと、こざらし2は思います。その方法は成功者にとっては ごく当り前のことなのかも知れません。しかし、その当り前のことを信じて 継続して実行することが、凡人にはかなり難しいだけのです。 そうでなければ、世の中が成功者で溢れかえっているはずです。






(07.11.03)

小林秀雄講演【第一巻】〜【第七巻】 (講演:小林秀雄)   新潮CD講演    (いずれも2CD)

【第一巻】 文学の雑談

【第二巻】 信ずること考えること

【第三巻】 本居宣長

【第四巻】 現代思想について

【第五巻】 随想二題-本居宣長をめぐって

【第六巻】 音楽について

【第七巻】 ゴッホについて / 正宗白鳥の精神




 再び小林秀雄氏を取上げます。 私は、この講演のCDは主にカーステで聴きます。一枚のCDを3週間から4週間を費やして、 クルマの中で聴いています。その間一枚のCDを、たぶん5回から10回ぐらい繰り返して 聴くことになります。

 よく知られているように、小林秀雄氏の文章はそうとうに晦渋であり、 いったい何を語ろうとしているのかまるでわからないほど難しい、と 言う方もいます。それに対して、 氏の講演は、文章ほど難しくはないものの、 何を言おうとしているのかわからない部分も多いのも事実です。 わからないものをわかるようになるには、 繰り返して聴く以外にはありません。

 話は変わりますが、クルマの中は電車の中と同様に、 音楽を聞く場としては最悪に近く、 クラシックやジャズのように繊細な音楽、ダイナミックレンジが広い音楽 は満足に聴くことは出来ません。例えば、信号の変わり目に音楽 がppp(ピアノ・ピアニシモ)からfff(フォルテ・フォルテシモ)へ突然変わったら、 びっくりして事故を起こしてしまうかも知れません。 そこでクルマの中では主に、単調なロックや ポップスを聴くことにしていました。

 しかし、今年になってからこの小林秀雄氏、三島由紀夫氏の講演、あるいは 日本の古典などをクルマの中で聴くようになりました。そこで気が付いたのは、 これまで十数年、クルマの中でただ漫然と音楽を聴くことによって、膨大な時間の損失を 重ねてしまったの ことでした。「損したなあ…」という思いです。 よく知っている道を一人だけで移動する場合、クルマ の中は講演や朗読を繰り返して聴く場に、最もふさわしいとやっと気が付きま した。







 先日から私は【第七巻】の2枚目、「正宗白鳥の精神」をカーステレオに インサートしています。重鎮正宗白鳥氏と若き小林秀雄氏との やりとり、これがまだ実に面白いです。聴衆も笑いっぱなしです。 はじめて聞いたときに私は、あまりの面白さに クルマを空き地に止めて聞きいったほどです。 まさに、小林秀雄氏のユーモアの側面、サービス精神の発露です。

 こんな話があります。 ある人がパーティに遅れていったら、会場が爆笑の渦に包まれていたそうです。 その人は、「あれ、なんでここに志ん生が来ているのだろう」と思ったら、 小林秀雄氏が講演していたそうです。落語家と間違えられるぐらい、 小林秀雄氏は名調子なのです。

 同じ【第七巻】の1枚目、「ゴッホについて」は感動的です。 本題への導入として、ルソーの「告白」について触れます。 この著作こそがロマン派芸術運動のさきがけだったことを証します。 そして、ロマン派とはまったく関係なく、最もロマン派らしい 活動をしたのがゴッホです。

 ゴッホの数々の絵は、彼の個性を克服するために描いた、壮絶な戦いの軌跡だった のです。ゴッホにとって絵は生命を維持していくための必然であり、 絵を通じて個性から普遍を創作していったのです。 (詳細は、CDを買うようお勧めします)



 ところで、私が初めて小林秀雄氏の文章に触れたのはまだ学生だった1980年 ごろです。それはあの著名なエッセイ「モオツァルト」でした。 「モオツァルト」は短いので、たぶん20回や30回、それ以上 繰り返して読んだと思います。 それでもわからない部分は多かったのですが、わかるところは 心からよいと思いました。

 少し引用します。

 「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには 美しすぎる。空の青さや海の匂いのように、「万葉」の歌人が、 その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。 こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない。」

 ”ああ、なんてかっこいい書き方なんだろう。 モーツァルトのように洗練されていて、まるで音楽を 奏でるように流麗に流れていく文章…”
私は心から感動しました。 それまで私は、モーツァルトは本質的に悲しい音楽だと、漠然とあるいは、 言葉に出来ないような曖昧模糊とした感じを持っていました。 しかし、小林秀雄氏のこの文章で、私は目を開かれたような衝撃を受けました。

 「美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方を する様だが、普通一般に考えられているよりは実は遥かに美しくもなく愉快でも ないのである」

  ”うんうん、これならわかる。本当に美しいものは、一般的に言われている 美しいとか綺麗とはまるで違うと思う”
などと、学生時代の私は、まだ純な心で考えたものでした。

 しかし、同じ文庫本に入っていた、著名な「無常という事」は、ほとんど歯が 立たず、全く理解出来ませんでした。わずか5ページ足らずの短いエッセイ なので、数回繰り返して読んだのですが、引用されている「徒然草」や 「古事記伝」もよく知らないし、要するに何もわからなかったのでした。 その他、「光悦と宗逹」なども、まったく理解の外でした。



   ところが、小林秀雄氏の講演CDをほぼ全部聞いてから、氏の文章の 方に挑戦してみました。そしたら、 よくわかる部分が少なからずあるので驚きました。二十数年の歳月を、 私は無為に過ごしたのではなく、怠惰を食んでいたのではないのです。 上に記した「無常という事」は実に味わい深く私の心に滲み込みました。 そして、小林秀雄氏の他のエッセイや評論も読んでみたい、 私そうした思いを強くしました。

 そこで、「小林秀雄全集」を買おうとこの秋、仕事の外出の帰りに神保町で物色 してみました。まずは、大手のK書店の入り口近くに、16巻(背革装)の全集が8万円で おいてありました。立派な装丁の全集で、私は「ぜひ欲しい」 と思いました。しかし私は欲張って他の店でもっと安く置いてないか、 探しに出てしまいました。しかし、16巻(背革装)は結局K書店にしか ありませんでした。引き返すと、K書店はもう閉まっていました。

 少し日にちを置いて、K書店にいったら、あの小林秀雄全集があった場所だけが 空いていました。前日に売れたそうです。 他の店でも探しましたが、1万円ぐらいのチープな版、あるいは 未刊だったベルクソンに関する論文が入った最新刊を8万円で 見つけました。しかし、一番欲しかった16巻(背革装)はもやは どこにもありませんでした。

 人生とはこんなものです。欲しいときに手に入れなければ、 次に手にいれようとしても困難を極めるのです。 手に入らなくなると余計欲しくなるのが人の常で、 私はあの版で小林秀雄を読みたくてしょうがありません。 新品を買うという選択もありますが、やっぱり16巻(背革装) の全集が欲しいです。書棚を空けてまで待っていたのに…。






(07.02.24)

信ずることと考えること (講演:小林秀雄)   新潮CD講演    (CD)

CD-1
1:ユリ・ゲラーの念力
2:ベルグソンの哲学
3:近代科学の方法
4:魂について
5:文学者・柳田国男

(1974年8月 鹿児島県霧島にて収録)

CD-2 略

(CD-1では便宜上5つの標題がついていますが、当日の公演では、異なる5つのお話が あったのではありません。CDにトラックを入れるために、一連のお話の一部に 、仮に標題をつけたに過ぎません)



 小林秀雄氏のお話は、最初はなんだか頼りなく始まります。 言葉の輪郭もはっきりしないので聞き取りにくいです。
しかし、だんだん興が乗ってくると、言葉は熱を帯びて機関銃の 如く早口になります。 そしてさらには言葉に怒りが乗ってきます。 何に対して怒っているのか、それは当時のインテリゲンチャ (いわゆる知識人、文化人、マスコミなど)に対してです。

 インテリゲンチャの日常のスタンスは日和見で、発した言葉に無責任、 ただ浮ついてるだけと告発しています。こうした告発対象が、 マルクス、実存、左翼右翼といった用語を使わないことを除けば、 小林氏のお話は現代でもまったく変わっていないい、 ということになります。

 実際のニュアンスはCDを実際に聞いて味わってください。 小林氏は「です」「ます」の断定的な言い方が多いのですが、 それは自説に絶対の自信があるからでしょう。 ある時は急流のように流れ、あるときは陽だまりのようにリラックスする、 小林秀雄氏の名調子に引き込まれること請け合いです。







 小林秀雄氏は当時(1970年代前半あたり)に流行っていた、 ユリ・ゲラーの超能力の話からはじめます。 ユリ・ゲラーが全世界に超能力を 送ると宣言した当日、小林氏は、仲間数人を集めてスプーン曲げなど試みた そうである。その結果、仲間のうち一人の女性がスプーンを曲げることが出来、 また小林氏自身も含め壊れた時計がいくつか動いたそうである。

 小林氏はスプーン曲げなどの念力に対して、こう結論づけます:

 ユリゲラーの超能力はインチキ(後で手品とわかった?)だったかもしれないが、 仲間の一人がスプーンを曲げたのはこの目で確かに見たので事実である。 私の壊れた時計が動いたのも事実である。

 しかし、人間にはそのぐらいの能力があることは昔から知られているので、 こんなことはどうっていうことはない。念力が存在するのは不思議ではない。 特に子供にはそんな能力があることが多いが、 大人になればだいたい消えてしまう。

 そんなこと言うと、現代にあってなんて非科学的な、 と考える人が今では大部分であると思う。しかし、それは間違いです。 みなさんは、科学という言葉に騙されているのです。

 また問題だと思うのは、 あの時多くの家庭でスプーンが曲がり、また時計が動いたはずなのだが、 それに関してまじめに議論しようとしなかったことです。 そんなことは「非科学的」ということで、インテリゲンチャは 議論さえしようとしない。ベルグソンの態度どは大違いです。 (省略しますが、ベルグソンの話も面白いですよ)



(補足)
実は当時、壊れた置時計(ぜんまい式)が動いたのは私も経験しています。 (ユリ・ゲラーの番組を見ながら、時計よ動け、と念じると) 何年も止まったままだった古い時計が突如動いたのです。 しかし、スプーンはどうしても曲がりませんでした。科学少年だった私は、 スプーンが曲がらなかったことが残念だったと同時に、妙に納得し妙に安心しました。 科学の法則では、スプーンは曲がってはいけないのです。そして、 壊れた時計が動いたのは、みんなで触ったので偶然ゼンマイがほどけて 動いたのだろう、と解釈しました。

 「事実の方が科学法則通りであってほしい」と願っていた少年時代の 私は、まさに「科学という新興宗教」を信じていたわけですね。これは学校や 親、マスコミなどが少年時代の私を「教育」した成果なのですね。しかし、 「事実の方が科学法則通りであってほしい」と願うことは、実は「科学的態度」 ではない、と後に私は知るようになりました。

 「科学的態度」とは、科学法則を事実に当てはめるのではないのです。 あくまでも事実を客観的に見て、科学法則は懐疑的に見るべきなのです。
過去には科学も幾多の誤りを犯し、そのたびごとに誤りは新しい法則に置き換え られてきた歴史があります。ですから、現代の科学を、そのまま事実と 鵜呑みするのが危険なのです。「まずは疑え」の態度ですね。
この態度は株式投資にもそのまま当てはまりますね。



 小林氏はさらに語ります:

 「科学」はたかだかここ300年ぐらいまえから普及しはじめた考えかたです。 歴史の初めから科学があったわけではない。現在科学が成功している理由は、 その扱う対象をきわめて狭く限定したからです。科学はとても狭い道を行ったので、 物質をあつかうことに関しては確かに成功しているのである。



(補足)
科学が扱うことができるのは、「実験や観測が行える」対象です。そして、
・誰が実験・観測を行っても同じ結果が得られること
・実験や観測を何度行っても同じ結果が得られること

 確かにこの世の中、上の範疇に入らないことは身近にも多いですよね。また、 「同じ結果」を「統計的に有意な結果」に置き換えれば、科学の対象は もっと広がります。(社会科学はすべてそうしています)
しかし、社会科学は全体的に、自然科学ほどの厳密性を放棄した体系を採用している 結果、必然的に言葉の定義がアイマイです。その結果社会科学には 自然科学ほどの自明性がなくなってしまいます。 社会科学では論争の終いには、「その言葉の解釈は 最終的に最高裁判所が決める」、なんて非科学的な場合にさえなります。



 小林氏は熱く語ります:

 したがって科学のような狭い考え方では人間の精神は扱うことがきない。
科学によって確かに生活は便利になったが、 人間の精神を向上させることは出来ないし、 科学は人間の精神の向上には役立っていない。
現代社会では、精神が荒廃していくばかりである。

 人間に魂があるのは常識である。私はそれを(科学的に) 証明することができないが、魂は確かに存在する。魂にかかわる馬鹿馬鹿しい (あまりにもありふれた、という意味)話はたくさんあるし、 私も何度も経験している。
そんな馬鹿馬鹿しい話を「非科学的」というのは狭い考えの持ち主である。 みなさんは、そのことをきちんと知らなければならない。



(補足)
「証明できないものは存在しない」
「証明できないものは扱わない」
このような態度は最も避けたいものです。

 また、長く生きていると、周囲にも科学で扱えないものの方が多く なりますね。 ずっと若い頃、明快な科学の世界を離れたくなかった訳が、 今頃になって分かってきました。科学は明快で曖昧さがなく、その中にいると 不安が取り除かれとても安心できるのです。

 しかし、小林氏が「科学では扱えない」としている分野が今後もずっと 科学では扱えないかというと、そうも思えません。科学は扱える分野を 少しずつ拡大しているからです。小林氏の主張するように、「昔のキツネ憑きを、今は ノイローゼという」のような簡単なことではないでしょう。
ただし、科学の方法を用いて、この世界のずべてが理解できるか-遠い将来には、 と問われれば、私はそうは思えません。

 小林氏が主張されるように、科学の方法も、とても多くの方法の中の ひとに過ぎないと思うからです。科学があまりにも人間に対する作用が 大き過ぎるために、なにか科学が万能の方法のように、人々は勘違い しているのです。
私見ですが、科学の方法のうち最もネックになるのは実験ないし観測が必要で あるということです。この「観測」がクセモノです。 ある種のイベントはこの「観測」と不確定性原理に似た 関係を持っているのではないかと、私は推測しています。

 不確定原理は現代物理学の基本的な概念で、すこし物理をかじった方なら ご存知と思います。例えば、「エネルギー」と「時間」といったペアの 物理量があります。この関係は常識からは奇妙な関係です。すなわち、 「エネルギー」をきちんと観測しようとすれば「時間」を決めることができず、 逆に「時間」を厳密に決めれば「エネルギー」を決めることが出来ない、 という関係にあります。 他にも幾つか、これと同じペアの物理量があり、 いずれもペアの両方の量を決めることが原理的に不可能です。

 そして、「まだ未知のある種のイベントは、ある種の観測を 厳密にしようとすればするほど、 明確に現れ難い」という関係がありそうなのです。 研究機関などでも精神活動だとか超能力を測定しようとするのですが、 厳密にやろうとしたら突然いまくいかなくなった、ことも多いと聞きます。 TV番組でも、スタジオで四方八方にカメラを据え付け厳密に観測すると、 突然超能力を発揮できなくなる、といったことはよくあります。 観測を行った場合と、行わなかった場合に、イベントの結果が異なる のは不確定性原理とそっくりです。 やかり何か、未知の不確定性原理があるのではないかと、私は思います。

 ※まだこのような説を聞いたことがないのですが、どこかで発表されているとしたら、 教えてくださるよう、御願いします。