所 在 地 |
|
奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873 地図の表示 法隆寺の北東約3キロの位置にあり、近くには法輪寺もある |
宗 派 |
|
聖徳宗 本尊 十一面観音菩薩立像 |
草創・開基
|
|
この地は聖徳太子が推古30年(622)に法華経を講説した伝えられる岡本宮があったところである。(飛鳥の岡本宮ではない) 草創は、聖徳太子が、長子である山背大兄皇子に岡本宮を仏教寺とするよう遺言したのが始まりとされ、その後、舒明10年(638)に福亮僧正が金堂を建立し、天武14年(685)に恵施僧正が宝塔建立を発願し慶雲3年(706)に完成し、伽藍を整えたいう。
当寺院には様々な呼称がある。「岡本寺」「岡本尼寺」「池後寺」「池後尼寺]などである。なお、天平期の古記録には「池後尼寺」とあり、当時尼寺であったと考えられている。
なお、当寺の草創については、「聖徳太子伝私記」に三重塔露盤銘文(ろばんめいぶん)が記録されており、その銘文に記載されていた当寺の草創が根拠となっている。この記録の信憑性について幾多の論争があるが、ここではこの記文に従って記載した。
|
伽藍配置( 法起寺式伽藍配置 ) |
|
当寺院は昭和35〜36年に発掘調査が行われ、創建時の伽藍配置は右の図のとおりであったことが判明している。
当寺院の伽藍配置は、基本的には法隆寺式伽藍配置である。しかし大きく異なるのは金堂と塔の配置が逆になっている。この伽藍配置をもつ寺院では創建時期が最も古い等から、法起寺式伽藍配置と呼称されている。
なお、この伽藍配置に最も近い事例として、670年前後の創建と推定されている 太宰府観世音寺 がある。金堂、塔の配置は同じである。しかし観世音寺の金堂と塔は対面して建立されており、法起寺とは大きく異なっている。 |
|
|
当初建立寺院に変更が加えられていた法起寺 |
|
昭和43年、昭和47-50年に相次いで行われた解体修理事業で、三重塔の下から建物遺構が発見された。そして、この遺構は現三重塔の方位とは異なっていることから、法起寺伽藍建築は次のような経過を経たのではないかと推定されるに至っている。
即ち、三重塔露盤銘の記文がいう舒明10年(638)に福亮僧正が建立に着手したが、天武14年(685)に当初建立寺院が未完のまま(?)、上記の伽藍配置で再度設計変更され建立されたと考えられている。
しかし、なぜこうした設計変更が行われたのであろうか、発見された遺構の方位が法隆寺前身寺若草伽藍の方位と一致していることも併せて是非知りたいところであるが、私の拙い勉強ではこの疑問を解消してくれる文献には未だ出会っていない。 |
三重塔について |
|
- 日本最古の三重塔
- この塔の建立時期は先述の通り706年ごろとされ、現存する三重塔としては日本最古のものと考えられている
- 法隆寺五重塔との密接な関係
- この塔の初層・二層・三層は法隆寺の初層・三層・五層とその大きさがほぼ同じで、建築年代も重なっていることから、何らかの関係の下に両塔は建立されたのではないかと考えられている。
(法隆寺五重塔は和銅年間(708〜715)と推定されている)
- 露盤銘文について
- 「聖徳太子伝古今目録抄」にある「法起寺塔露盤銘文」には(1)聖徳太子が山背大兄王子に岡本宮を寺院とするように遺命した(2)舒明10年(638)に福亮僧正が弥勒像を造り金堂を建てた(3)天武14年(685)に恵施僧正が塔を建て、慶雲3年(706)露盤をあげた、という三点が記載されている。なお、この三点についてもその原文が解読しづらいものであるために異論もあるなど、果たしてこの銘文は信頼できるものなのか否か、様々な研究・論議がなされている。しかしこの銘文以外に何ら確定的なものがないところから、法起寺の創建、三重塔の建立など語る場合にはこの銘文が根拠とされているのが現状である。
(「聖徳太子伝古今目録抄」は法隆寺の僧・顕真が、鎌倉時代中期の1242年著した)
|
その後の変遷 |
|
寺伝によると奈良時代には相当栄えた寺院であったというが、その後衰微し江戸時代初期には三重塔を残すのみまでに荒廃した。それ以降、寺僧の再興努力によって浄財をを集め、元禄7年(1694)に講堂再建、文久3年(1863)に聖天堂建立し、現在の寺観となったという。 |
そ の 他 |
|
当寺の伽藍は法隆寺式配置であるが金堂と塔が正反対の位置となっているのが異なるというが、当寺を訪れたのが法隆寺の次であったためか、再建された講堂は質素で小さく、寺院全体も法隆寺とは比べようのない小ささで、どうも法隆寺式配置といわれてもピンとこなかった。
しかし、その小ささ、質素さが法隆寺では感じられなかったものを当寺では感じることができた。というのは、寺僧がこつこつと村々を回り、信心深い村人がそれに応えて貧しいながらもそれぞれが背いっぱいの浄財を寄せて再建したのだいう情景が目に浮かび、何か爽やかな気持ちにさせられたのである。 |
特記事項 太子建立七大寺 |