女の瞳は私を見つめたままだった。話し言葉ではなく、心の奥底を見通そうとしているようだった。
「気丈に振る舞っていますが、この世界に踏み込んだときから、あなたの心はずっと震えています。それはこの部屋に入って椅子に腰をかけ、私の審問が始まってからも続き、今は心に宿る炎がより大きく揺れ動いているのが見えます。我々が人間の信仰などアテにしていないことは、この世界に踏み込んですぐに理解できたはずです。中間の世界の突き通すような無機質を、肌で感じることが出来たはずです。自分の信仰心の薄さを騒ぎ立て、過剰に興奮する理由は何です? あなた自身が我々を神にも等しい特別な存在だと認めているからではないですか? あえて自分の非を話し、神罰さえ気にしないのであれば、何をそんなに恐れているのですか? 自分の思想すらさらけ出して高笑うのであれば、それ以上強固にあなたを震えおののかせるものは何です? 我々の心は永遠の記憶。我々の目は永遠の水晶です。見えないものはなく、考えられないこともなく、人間どものちっぽけな行動のすべては証明され、この世界では否応なく人生のすべてが暴かれます。あなたの秘密など、子供にも知られる小動物の生態のごときです。何を知られるのが怖いのですか? 人生の中に置き去りにしてしまった何かがあるのですか?」
女性はすべてを見通すかのようにそう言った。
「誰にだって秘密はあります。見晴らしのいい、丘の上の道の途中で起きた小さな事件(幼子が転んで怪我をしたとか)に、小さな罪の意識を感じていても、それをいちいち言葉にしないように。知性ある人間ならば、自分のせいではないと自分の主張を強く言い張った後の、心の動揺はなるべく他人に見せないものです」
私はそう言い返すのが精一杯だった。
「その秘密をここで話していきませんか? あなたに隠し事があるからこそ、主はここへ呼ばれたのです」
女は威圧的ではなく、慰めるようにそう言った。
「あなたがたの前では隠し事はできますまい。それに、この秘密を隠したまま次の世界に行けるとも思いません。自分の中に自分でも見えないような秘密を作り、それを誰にも見せずに隠し通して来たことが、私の人生の過ちのすべてだったのかもしれません。私は自分の過去に、それも子供時代に一つの大きな傷を持っています。生前、きっとこのままでは済むまい。誰かにこの秘密を暴かれる日が来るだろうと、そう思いながら、他人の目を気にしながら生きてきましたが、自分が死ぬまで、結局この秘密は暴かれぬままでした。叔母や両親から、疑いの目さえ感じることはありませんでした。他人の興味の目を避け、孤独を耐えて生きてみれば、過ぎ去る時間も山間を流れる小川のように淡々としていて、長くは感じませんでした。他人と酒を酌み交わして大騒ぎし、褒め合い、讃え合うことよりも、一人部屋の中で人生の哀愁を感じながら煙草を吸い、コーヒーを口に含むことだけを喜びに感じてきました。自分より年配の人間が次々と世を去り、私の子供時代をまったく知らない者だけが後に残されると、余計に安心感は膨らみました。ここに来て、他人に心許しても心配はないでしょうが、中年以降も私は孤独を通しました。他人を寄せつけない習慣がついていました。不心得者が凶器を持って徘徊し、野犬の遠吠えが響く夜の道を怖いと思ったことはありません。もちろん、心についた傷は時間の経過に連れて次第に小さくはなりました。死ぬ直前は無に帰る恐怖よりも、秘密を隠し通した安心感の方が大きかった気さえしました。『なんだ、これほど重大な秘密も、結局誰にも渡さずに済んだじゃないか。警察も裁判官も何をやっているんだ。結局のところ、俺は逃げ延びたぞ。人道を外れた、どんな悪さも、誰にもばれなければ無罪放免だ。病人ならば赤子と同じだ。すでに尻尾はつかめまい。人間なんてちょろいものだ』そう思っていました。しかし、この審問の世界に着いてみて、異世界の慣れない空気に身を委ねているうちに、秘密を誰にも打ち明けずに人生を終えたことは、本当に正しかったのかと思うようになりました。自分のしてしまったことに何らかの責任があるのなら、生前に償っておく必要があったのではと思うようになりました。生前の記憶のほとんどを失ってしまった今の状態でも、私の心の深くにある傷は生き続けていて、早く白状しろ、告白して楽になれと私をせかしているようです。この傷は、私が自分からその事件を打ち明ける日を待っているのかもしれません」
「あなたの持つ秘密は心の奥深く、記憶の泉の底にまで沈んでしまっていて、もう我々でもそれを引き上げることは出来ません。告白をしたいのであれば、あなたの知力でそれを引き戻してもらう他はありません」
「何も頭を抱えて思い出す必要はありません。私は幼少期に行った自分の悪行について、しっかりと覚えています。生前、まだ幾らかの仲間がいた頃、どんなに楽しい思いをしている時でも、心の井戸の片隅では、自分は罪を犯した人間なのだ。これからどれほどの善行を積み重ねても、あの世での刑罰は免れないのだと、そう思いながら暮らしてきました。私は現世での多くの時間を孤独の中で過ごしてきました。家族や友人が嫌いだったわけではありません。他人と談笑し、心穏やかに過ごしているときに、ふと、自分の犯した罪、自分が殺してしまった人間の顔が思い出され、私の顔に突然現れる不安や恐怖の影を、他人に見透かされるのが嫌だったのです。孤独に生きていれば、他人の目からは逃れることが出来ましたが、それでも、少し気を抜いた瞬間に、自分の背後に顔面を血に染めて立ち尽くしている、昔の友の姿が浮かび上がるような気がして、安堵感を感じることは出来ませんでした。私はその幻影と向き合いながら、心で過ちを悔やみながら一生を送ってきました」
女性は私の話をそこで中断して、口を挟んできた。
「お待ち下さい。今、友人を殺したとおっしゃいましたが、私の調べたところでは、あなたが生前、他の魂を害したという記録はありません。それは本当のことですか?」
「まあ、お聞きなさい。遠い昔のことです。果たして、どのくらい正確に話せるでしょうか。まだ5歳の頃、私にはAという友人がいました。すぐ生家のすぐ近所に住んでいましたが、彼は私より裕福な家庭に生れついていました。親同士が仲が良かったことから、私とAはいつも一緒に遊んでいました。私はたいして腕もない大工が安い賃金を我慢して建てたような、木造の小さな家に住んでいましたが、Aの家は二階建ての一見城のような、立派な現代建築だったので遊びに行くのが楽しみでした。大抵の人間は幼い頃は、家系や資産のことなど気にしないものですが、私はまだ恋も知らない頃から、自分の家と彼の家、お互いの生活を比べあっていましたので、庶民の間にも、財産の量には大きな差があることを知っていました。他人への嫉妬や妬みという感情を、誰にも教えられることもなく知っていました。彼の家の広い庭には、揺れる木馬やお洒落な細工が施されたシーソーがあり、家の中には可愛い動物が描かれたパズルや、ダーツなどの遊び道具がいっぱいでした。私が遊びに行くと、彼は庶民が滅多に口に出来ないような、食べ物やお菓子をくれました。しかし、私の家は貧しかったので、彼が遊びに来ても喜ばせるようなものは一つもありませんでした。それでも、Aは嫌な顔をせずに来てくれ、夕日が落ちるまで、一緒にボールを蹴って遊びました。裕福な家に生まれることが出来なかった私は、心のどこかに負い目を持っていました。一緒に遊んでくれるAをとても頼りにしていましたが、Aの方はどう思っていたのでしょう? いつも一緒にいても、他人の心は容易によめず、不安に思うこともありました。家が近いから友達になれただけで、地理的に他の選択肢があれば、彼は私のことは選ばなかったでしょう。おそらくは、彼の心のどこかで、私のことを足手まといと思っていたことでしょう。
 時は進み、7歳にもなると、二人とも学校に通うようになりました。多くの生徒と接することとなり、私にもAにも自分たち以外の多くの友人が出来るようになりました。周囲の大人、両親や教師の目から見れば、それは良いことでしょう。出会いや競争を続けることで、子供たちの世界が拡がっていくのです。ただ、私の心のどこかには、このAという友人を、自分だけで独占したいという思いがありました。自分たちだけの世界に、他人を入り込ませたくなかったのです。私は自分に新しくできた友人たちの誘いも断ってAの家に遊びに行くことがありました。しかし、その頃にはAにも私の知らぬ新しい友人が出来ていて、彼の家にこれまでは居なかった見知らぬ顔が出入りするようになっていました。Aは私のことを他の友人たちに紹介してくれましたが、彼らは魅力のあるAと遊びたいのであって、私には興味はないという顔をしていました。その頃から、私とAの間の距離が少し広がったように感じました。私は自分に心許せる友人が出来ないのは、家柄が悪いからだと思うようになりました。私にも豪華な家やたくさんの遊具があれば、もっと他人から好かれるはずだと思っていました。そんな思いを抱き続けながらも、私とAは時間を見つけて遊ぶようにしていました。しかし、私の心には不信感が渦巻いていました。Aは幼少の頃からの義理で私との時間を仕方なく作ってくれていますが、本当はもう私から離れて、他の金持ち連中と付き合っていきたいのではないかと。私は毎夜布団の中でそれを思うと、悔しくなりました。私とて、生れつき顔立ちや家柄が良ければ、もっと恵まれた人生を歩めたかもしれない。私はAとの友人関係を続けながらも、心のどこかでAを憎むようになりました。彼が私に見せる笑顔一つ、優しさ一つにしても、内心の同情から投げ掛けられているのだと思いました。彼と私は住む世界が違うのだと思うようになりました。私は自分の方からAと別れる決心をしました。」
 そんなある日、夏の盛りの頃でしたが、町内会の主催で夕涼み会という催しがありました。夜、町の片隅にある小さな集会場に子供たちを集めて、様々なゲームが行われるというものです。私をこの会に誘ってくれる友人はおらず、自分から参加するつもりもなかったのですが、誰もが開催を知っているイベントに参加しないで家に引きこもっていては、母に心配をかけることになるかと思い、意地を張って参加することにしました。ええ、そうです。私には自分の本当の思いとは逆の行動に走る癖がありました。
 会場ではコマ廻しやトランプゲーム、絵合わせパズルなど一通りのゲームに参加しましたが、ろくに友人のいない私には何の楽しみも見出だせませんでした。子供たちはAを中心にしてグループを作り、ゲームの点数に何か動きがあるごとに手を叩いて喜び、大きな笑い声を発して楽しんでいました。私はなかなかその輪に加わることは出来ませんでした。自分が邪魔物のように思われていると感じました。いつも学校で感じているのと同じ疎外感を感じていました。ゲームがすべて終わっても、他の子供たちは余韻が冷めないようで、まだ雑談に花を咲かせていましたが、私は孤独に耐えてまで、その場にいるのが辛くなったので、誰に声をかけることもなく会場を離れ、一人夜道を帰ることにしました。町で目についた建物や動物や看板のキャラクターなどのすべてが、自分をせせら笑っているように感じました。このまま家に着いても、自分の寂しい気持ちを両親に話すことは出来ません。友人の出来ない、情けない子供と思われたくないからです。親はいつの世もこう言うものです。『自分の力で友達も作れないなんて、まったく困った息子だ、いったい誰に似たんだろう?』
 頭に浮かぶのは自分以外の子供たちの楽しそうな姿だけで、誰にぶつけていいかわからない憤りを感じていました。何か軽い物音が聴こえた気がして、ふと振り返ると、暗がりの中を後ろからAが追いかけて来るのが見えました。私は嬉しいような苛立たしいような複雑な心境になりました。実のところ、彼を待っていたのだと自分で認めるのが嫌だったのです。まだ、彼の友達でいたいのかと、もう一人の自分に尋ねられるのが嫌だったのです。二人で肩を並べて、まるで人気のない商店街を歩きました。いつもなら、すでに寝付いている時間です。すべての店のシャッターが下ろされていて、街はすっかり寝静まっていました。こんなに暗く蒼い世界を見たことはありません。野良猫がゴミ袋をひっくり返す音。遠くの民家から微かに聞こえてくる笑い声。感覚に入ってくる全てが、昼間とはまるで違う世界に思えました。上空には満月が輝いてこちらを伺っていました。まるで、これから私がすることを見ているかのようでした。 「なんで、今日は楽しそうじゃないの? ずっと、何も話さなかったね」 Aの方から話しかけてきました。彼もきっかけを探していたのでしょうか。私はもう彼に話すことはないと思っており、下を向いて黙って歩き続けました。彼が嫌いになったわけではなく、自分の器量に絶望していました。幼少の頃からくすぶっていた嫉妬心を、あえて友人に話すわけにもいきません。しばらくの間、彼にぶつける言葉を探していました。
「僕はこれからは一人で生きる。もう、君とは遊ばない」
私の方からそう告げました。Aは目を見張って驚きを表しました。
「どうしたの? 何か嫌なことでもあったの?」
「自分の人生の何もかもが面白くないんだ」
私は思いきってそう言いました。彼がそれを聞いて何を思ったか、どんな表情を浮かべたかはわかりません。返しの言葉を聞くまでもなく、私はすでに暗がりの道を走り出していました。足音が聞こえてきたので、後ろから彼が追って来ているのはわかっていました。
「追ってくるな!」私は夢中になって大声で叫びました。
 一度も後ろを振り返ることもなく、私は息を切らせながら、安全の確認もせずに大きな道路を渡りました。遠くからヘッドライトを照らして黒塗りの自動車が走って来るのが見えました。
「待ってよ」
そう言いながら、Aが私に次いで道路を渡って来るのが見えました。走る速さはAの方が上なので、いずれ追いつかれることはわかっていました。その時、私にどんな感情が沸いたのでしょう。ここで立ち止まり、いまさら話し合ったところで何もわかりあえないのに。それを思うと、余計に辛くなり腹が立ちました。Aが私に追いつこうとしたその時、私は振り向いて、Aの身体を力任せに突き飛ばしました。この瞬間に後悔はあったのでしょうか? 自分の行為は誤りだと気づいていたでしょうか? 今はもう何も思い出せません。Aの身体は道路の真ん中に転がっていき、走ってきた自動車に跳ねられました。彼の身体はゴムマリのように跳ねて、ガードレールを乗り越えて歩道まで飛ばされました。その車は子供を轢いたことをまるで気づかないように、減速もせず、そのまま走り去りました。時間が止まったように感じました。我に帰ると、恐る恐る彼の方に近づいてみました。Aは目を閉じていて頬をピッタリと地面につけており、身体中血まみれでした。もう助からないことは一目でわかりました。周りを見回しても、今起きたことを見ていた人間はいませんでした。現場からほど近い、普段は人通りの多い十字路も、事件の後とは思えないほど静まり返っていました。私は身体が燃えるように熱くなっていました。目撃者がいないことは幸いで、今夜のことを、神が許してくれたと解釈することにしました。私はそこから脇目も振らず、全力で家まで走りました。両腕は恐怖でずっと震えていました。上空には先ほどから一向に変わることなく満月が輝いていました。
 翌日、Aの死体が発見され、やがて自動車の運転手も逮捕されて追及され、犯行を自供しました。しかし、私には何の疑いもかかりませんでした。夕涼み会の会場で、私とAが遊んでいたところを見ていた人間はいなかったからです。確かに、会場の中では私とAは一度も口をききませんでしたし、二人の位置はずっと離れていました。私がみんなと違う時間に帰ったことも、Aが私を追ってきたことも知っている人間はいませんでした。あの夜の帰り道でのことを叔母に聞かれても、一度だけ家まで尋ねてきた警官に尋ねられても、私は平静に嘘を答えることが出来ました。一人で夜道を帰ってきたから、Aには出会わなかったと、素知らぬ顔で答えてやりました。私の話を疑う者はいませんでした。逆に、多くの知人が友人を失って傷心した私を慰めてくれました。何日も思考が停止したような状態が続きました。勉強にも遊びにも、まるで身が入りませんでした。周りの人間の話しかける言葉が、自分に関係ない他人の言葉のように軽く感じました。大切な宝物を無くしてしまったときのように、頭の中が真っ白になりました。心の動揺を短期間で静めるのは容易ではありません。ただ、絶対に真実を語るまいと子供心に誓っていました。
 今となっては、彼の葬式のことも、直後の学友たちの反応も思い出せません。幼年時代ゆえの残酷さでしょうか、一人の人間が消えても、それまでと同じように行事は消化されていきました。日々の忙しさの中で、Aを殺してしまったことは、少しずつ記憶から消えていきました。ふとした瞬間に、Aという存在を思い出したときは、事故という判断を下した周囲の人間たちの反応を思い出して、そうだ、あれは事故だったのだと思い込むことにしました。心の傷は、時が経つにつれて小さくなっていきましたが、完全に消えることはありませんでした。どんなに慎重に生きても、心浮かれる局面はあります。他人と打ち解けて長話をする場面はあります。私は何かの弾みで秘密が口から飛び出してしまうのではないかと思うようになり、他人と会話をすることが怖くなりました。そして、ますます孤独になっていきました。私は生涯、誰にも心を許すことが出来ませんでした。
 さあ、もういいでしょう。これが全てです。私の一生の全てです。生前、友人を殺害したことを隠し通していました。今思えば、それは間違いだったのかもしれません。あの時に正直に告白していれば、例え、厳しい叱責や処罰が待っているにせよ、私はいずれ立ち直り、別の人生が開けていたのかもしれません。もっと明るい道を歩むことが出来たのかもしれません。ここで明かして、ようやく心が晴れ晴れとしました。今は誰に責められても罵られても怖くありません」
「本当にご自分が殺人を犯したと思っておられるのですか?」
話が途切れるのを待っていたかのように、女はそう問いかけてきた。その声には疑念がありありと篭っていた。
「もちろんです。私が話したことが全て事実なのです。あの夜の正しい記憶は、私の心の中にだけあるのです。当時の関係者の証言が残っていても、それは全て間違っています」
「あなたをお呼びすることを決めてから、当時の地球の記録を何度も調べているのですが、警察や司法局の記録でも、その一件は交通事故となっています」
「ほら、見なさい。みんな私の演技に騙されてしまったのです。当時の私は涙ながらに、自分は何も関与していないと語ったはずです。純真な子供の涙を、健気な証言を、誰が疑うでしょう? ですが、流した涙は偽りです。心中では、自分の犯罪を認めながら、助かりたかっただけなのです。未来に汚点を残したくなかったのです。私は臆病な人間でした」
私は半ばやけになってそう訴えた。今では犯罪を犯したことを認める方が、かえって清々しい気分になるほどだった。私は人生を終えてから、ようやく他人と本心で向き合っているのだ。
「しかし、残された証言の全てが、そのような殺人行為はなかったと言っているのです。殺人があったことを知っている人間はいないのです。あなたの犯罪をどのように証明したらよいのですか?」
「それは簡単なことです。私はAを殺した直後、何度も何度も後ろを振り返りました。何者かが私の行いを陰から見ていて、親族や警察に告げ口して罰してやろうと、追いかけて来ると思ったからです。恐怖に脅えていたのです。人影は見えませんでしたが、上空には金色に輝く月があって、ずっと後ろからつけてくるように思えました。あの月はきっと知っていました。私がいつの日か罪を告白する日が来ることを。あの神々しい月はあの日だけのものです。あの美しい月の色を、私は今でも覚えています」
「わかりました。そこまでおっしゃるのでしたら、当人から話を聞く他はありますまい。そのAという人物の魂に語りかけてみます」
「なんですって! Aの魂はまだ消されないでこの世界に残っているのですか?」
「本来ならば、次の世界へと向かう魂を引き留めたりはいたしませんが、あなたのことがありましたので、主が特別に消さないで残しておいたのです」
その言葉の直後、本当に驚くべきことが起こった。私より50年も早く生を終えたはずのAの身体が、私が座っている椅子の真横に浮かび上がってきたのだ。彼は子供のままで、服装も死んだ夜のままだった。私は彼の横顔に見入りながら、あの夜に引き戻されたような感覚に陥った。言うべき言葉を知らず、どんな表情をすればよいかもわからず、しばらくの間言葉を失った。Aは私の方に顔を向けると穏やかに微笑んでいた。私はこうなったからには、彼に対して何か言わねばと必死に脳を動かしたが、何も思い浮かばずもどかしかった。今更、あの事件のことを謝罪したところで許してもらえるわけはない。すでに、数十年の時が経過し、過去の友人として会うことも出来なかった。思い出は忘却の彼方である。今はただの加害者と被害者であり、私はとにかく頭を垂れて許しを乞おうと思った。
「Aさん、目の前にいるこの方のことを覚えていますか?」
不意に審問者の女性が話し始めた。彼女の氷より冷たい声は、動揺する私の心中を全く思いやってくれていないようだった。この審問の世界では感情など思いやる人はいない。真実だけが重要なのだ。私は後ろめたい思いでAから目を逸らして下を向いた。Aはもう一度私の顔をはっきりと確認すると、子供らしい元気な声で、「はい」と答えた。
「その方は、あなたが子供の頃の友人だったそうですが、ある催し物の帰り道、嫉妬による発作からあなたを車道に突き飛ばし、自動車にぶつけて殺してしまったと供述しているのですが、それは本当のことですか?」
女は続けざまにそう尋ねた。Aはそれを聞くと即座に真剣な顔になった。
「いいえ、そんなことはありません。僕らは出会ってから、ずっと仲の良い友達でした。どんなことも許せる間柄でした。どんなに時が経ってもそれは変わりません。僕が死んでしまったのは、運悪く交通事故に遭ったからです。あの偶然の事故さえ起きなければ、僕らはずっと仲の良い友達のままでいられたのです」
Aは自信に満ち溢れた口調ではっきりとそう答えた。私は彼の言葉を聞いた瞬間、彼に伝えなければならない幾千万の言葉を思い出したが、それはすべて言葉にならなかった。自分を怨んで死んでいったと思っていた友人の一言が、自分の心の奥底で凍りついていた人間らしい気持ちを溶かしてくれた。だが、何を言えばいいのだろう? こんな時、凡庸な想像力しか持たないただの人間に、どんな言葉が言えるというのだろう? 生前もこれほど焦り、混乱したことはなかった。
「ねえ、僕たちはずっと友達だよね」
Aはそう呼びかけてくれた。私の心を見透かしていたのだろうか? 事件以来、数十年も封印していた本当の心を。私はせめて彼の方に手を伸ばして抱き寄せようとした。今は、彼の魂にずっと寄り添っていたかった。しかし、それを待たずに証言を終えた彼の姿は、急に薄ぼんやりとなり、やがて消えてしまった。私の心の奥に生前からずっと積まれていた重い石の塊はいつの間にか消えており、ようやく自分の本当の心、子供の頃からずっと隠していた本心を知ることが出来た。
「ごめんね…」
立ちすくんだまま、その言葉だけをようやく発した。私は自分にとって、一番尊い人間の許しを得ることができた。
「あなたの無実は証明されました。それなのに、なぜ、泣くことがあるのですか?」 さすがの審問者もその声には動揺があった。事実、私の目から透き通った水晶のような光の粒が溢れ出てきて、次々と床にこぼれ落ちていった。
「私はようやく人生を締めくくることが出来ました。なぜ、この世界に呼ばれたのか、ようやくわかりました。私は自分の心も知らずに、ただ人形のように生きていただけで、自分の人生を真に完結することが出来ていなかったのです。ただ、今のこの清々しい透き通った気持ちを、人の心を持たないあなたがたに説明しても無駄でしょう。確かに、この世界の主は完璧かもしれない。地球より優れた星は無数にあるのかもしれない。ただ、私は地球で人生を終えてよかった。やっと、そう思えたのです」
私はその言葉を残して女に背を向けて扉に手をかけた。
「次の世界に行かれるのですか?」
後ろから無機質な声でそう尋ねられた。
「ええ、あなたには世話になりました。この世界に来られてよかった。最も貴重な時間を過ごすことが出来ました。もう話すことはないでしょう。本当に人生が終わったのですから。すでに、この身体も記憶も惜しくはありません」
私は人間以上のものに進化したような気持ちでそう答えた。もう、この空間にも、この世界の住民にも敬意を払う必要はなかった。
「人間とは不可解です」
間を置かず、後ろからそういう言葉が聞こえてきたが、私はすでに館の外に踏み出していた。この世界での数時間は人間の一生に迫るほど濃密だった。だが、ようやくすべてを終えた。もう何も必要ない。すべてを消されてもいい。今はそう言える気分だった。
「人生は二回だけ。しかし、すべての人生は素晴らしい」
この空間中に響くようにそう叫んだ。あの女の耳にも、創造主の耳にも届いているだろう。相変わらず庭を徘徊していた黒猫は驚いたように振り返った。あの女が言っていた通り、生前の記憶は少しずつ薄れていった。もう、自分の名前も生まれた故郷も思い出せない。だが、自分を許してくれた友人の名は、我が身が消える瞬間まで残るだろう。
 私の身体は大地を離れ、ゆっくりと宙に浮かび上がっていった。まるで、星々が呼んでいるようだった。周りには、今、人生を終えたばかりの無数の魂が浮かんでいて、それぞれがまばゆい光を放っていた。私は地上を振り返った。しかし、先程の館もバラの花も黒猫も、すでに見えなくなっていた。さあ、宇宙に帰る時だ。私の身体は次第に星の海に紛れるように白く溶けていった。
 次の世界はどこだ? どんな生活を、どんな出会いを提供してくれるんだ? もう今にも消え去る瞬間、私の身体から一筋の光が飛び出して、それが分散して七色の虹となり四方八方に飛び散っていった。
「地球からは見えるだろうか?」
最後にそう思ったとき、私も星の一つだった。
                     了
<2012年3月22日>



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