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(2018.11.30)

 

フィンランドの初等中等教育制度

 

【はじめに】

 OECDが2000年に行った15・16歳の生徒を対象にしたPISA,学習到達度調査でフィンランドが各項目で上位を獲得して世界の注目を集めた。次回2003年の結果発表後からは日本では文科省がそれまでのゆとり教育を見直し,学習内容の量的拡大を行った契機となった。
 この頃の新聞報道やその後続々と刊行されたフィンランド教育事情書をざっと見渡すと,フィンランドの好成績は1998年から出来た新しい基礎教育学校(Peruskoulu)に関する法律(Perusopetuslaki:基礎教育法)が施行され,同法の成立を推進した若い教育大臣Olli-Pekka Heinonenのリーダーシップの影響ではないかという論調が目立った。
 しかしフィンランドの好成績は一朝一夕に成し遂げられたものではなく,フィンランドの教育界が第二次大戦後60年以上営々と築き上げてきた教育改革の努力の結果である。このページはフィンランドのたゆまない教育改革の流れを解き明かそうとするものである。その前にこの国の教育の歴史について言及しなけばなりません。少々冗漫な説明に感じると思いますが改革の過程を見る上で必要ですのでお付き合いください。

 日本では年齢に応じて児童・生徒・学生と呼び名を変えるが,フィンランド語では学習者(oppilasまたはopiskelija)という言葉しかない。この文章の中では理解しやすいように児童・生徒・学生と学習者を混在させることがある。

 

【1-1中世の名残】

 フィンランドは,12世紀から19世紀の初めまで約650年に亘ってスウェーデン王国の一部であった(今でもフィンランド語とスウェーデン語が公用語として使われているのはこの歴史を引きずっているためである)。
 16世紀に,スウェーデン王,グスタフ・ヴァーサはフィンランドにも国教会としてルター派教会を設立した。ルター派の教義は,人々が自分の言語でバイブルを読むという理想があったので,20世紀の初めまで
庶民教育は教会学校が担ってきた。
 読み書きが出来,キリスト教教義を理解した者にのみ結婚できる資格を与えたため親も子供たちも必死であった。歳を重ねて何度も合格しなかった者には,みせしめとして教会の門前でさらし者にされた。教会学校のない寒村では教会の教員が定期的に回ってくる巡回学校が地域の子供たちを有力者の家に集めて開かれていた。従って学校とはいうもののその内容は宗教色に偏り,人として必要な科目を満遍なく履修するという近代学校の普通教育学校とは遠くかけ離れたものであった。

 

【1-2民衆学校時代−教会立から公立学校へ−】

 1809年には,フィンランドがロシア帝国の大公国となり,自由が大幅に拡大した。でもこの頃はまだフィンランドの公用語はスウェーデン語であり,フィンランド人にとって他人の家に居候している感覚はこの後もずっと続いた。(1863年フィンランド語を公用語に認める法令が発布されたが実際にはいろいろな面でスウェーデン語優位が百年以上も続き,その間お互いの言語を対等に扱うことの「言語闘争」は1990年代まで続いた。)

 1800年代中葉,ヨーロッパの先進諸国では教会立学校に代わって行政立学校が誕生し,進んだ教授法を基にした学校が現れた。当時はロシア領であったアラスカ・シトカやロシア・サンクトペテルブルグの教会で教会学校教員として務めていた一牧師,ウノ・シュグネウスはフィンランドの遅れた学校制度に心を痛め,1通の投書をきっかけにフィンランドの学校制度を教会の手から行政に移行させる改革を行った。1866年(日本では慶応2年に当る)の民衆学校法(Kansakoululaki)発布からのことである。フィンランド語を教育言語とする民衆学校とスウェーデン人が多く住む地方にはスウェーデン語を教育言語とする民衆学校が作られた(ウノ・シュグネウスの教育改革の経緯はこちら)。

 新設された民衆学校には,一人でも多く労働力として使いたい農家では子供を通わせることは出来ず,貴族や大商人の子弟は依然として家庭教師教育が中心で,また貧乏人と同席することを嫌った。この頃の民衆学校は,義務教育でもなかったため,通う子供の数は限定的で一挙に増えることはなかった。フィンランドが6年制の民衆学校を法的に義務化したのはロシアからの独立(1917年)後の1921年(日本では大正10年に当る)のことである。

 義務化したとはいえ巡回学校はまだ1930年代半ばまで残っていた。1920年代中頃15歳に達した少年の読み書き能力は70%,逆に言えば30%の少年は読み書きができなかった。学齢8〜15歳の90%が学校教育を受けるようになったのは1930年代中頃(昭和でいうと10年頃)のことである。それでもまず初等教育においては,教会が一手に握っていた庶民教育学校=教会学校を地方行政機関に移管することに成功した。とはいうものの一方では大学進学を目指す普通高校教育,中学校教育や職業学校教育では私学教育が幅を利かせ,その後も1960年代まで学校数は増加して行った。

 

【2-1公立学校の改革−複線型学校制度の行き詰り−】

 1930年代末期にはソビエトの領土侵略(冬戦争 1939〜1940)とその後の継続戦争(1941〜1944)によって,教員を含む多数のフィンランド人兵士の死,敗戦による領土の割譲と賠償金の支払い等々で国は疲弊したが1952(昭和27)年ヘルシンキ・オリンピックを開催するまでに立ち直った。

 第2次世界大戦後,日本と同じようにベビーブームが起こって子供たちは急増した。民衆学校生の数は義務教育に移行した1920年代初めでは約27万人,1930年代では42万人であったが1950年代終わりには60万人にも上った。 (表1.参照) また,戦争は教員の養成計画を狂わせ,多くの教員が不足した。同時に教員の給与は低く抑えられたままだったため,なり手も少なかった。民衆学校教員養成所,ユヴァスキュラ高等師範学校以外にもヘルシンキ,トゥルク,オウルに臨時の教員養成学校を開設した。教員の不足はその後10年以上も続き,粗製濫造で力のない教員が続出した。

 1954年民衆学校法(Kansakoululaki)が改正され1958年(昭和33年に当たる)8月1日施行された。これは6年制の民衆学校の上に継続教育機関として修業年限を2年(後に3年)の市民学校〔kansalaiskoulu〕を創設した。この改正は著しい社会の進展に子供たちがついていけるよう親たちの要望を入れたもので,男子には農林業,商業,工業など,女子には家政,商業などの教科の初歩を教授した職業学校であった。しかし従来からそうであったように教師中心主義,知識注入主義,一斉授業などから即座に離脱できず,児童中心主義からは程遠い学級運営が新法発布後になっても続いた。

 学校は教会の手から離れ,義務教育制になって貧富の差なく,男女共に学齢児童全員が就学する名実ともに整った学校制度となったのであるが,民衆学校,市民学校の生まれながらに背負っていた大きな問題がここにあった。それは,ヨーロッパの多くの国々でそうであるように初等教育学校の途中から11歳試験で中学・高校・大学へと続く,エリートコース(多くは私学)へ進む経済的に裕福な家庭の子供たちがごそっといなくなることであった。  またこの問題とは別に1958年の民衆学校法では地方公共団体が公立の中学校を民衆学校に併設してよい(授業料無料)ことになったが私学の横槍でそう多くは認可されなかった。1930年代200校だった中学校は進学者数が急増したにも拘らず許可されず,1950年代で300校程度であった。そしてそのほとんどが私学であった。

 複線型学校制度は行き詰り,1960年代社会の不満は爆発寸前であった。

 

【3-1基礎教育学校時代―単線型学校制度への改革―】

 行き詰った複線型の民衆学校,市民学校を社会的身分,経済的地位,門地などによって差別されない,開かれた学校の設立を望む声は1940年代から出始めていた。

 第2次世界大戦後,義務教育学校の根本改革が始まった。社会の成長が重要な要素となったのである。教育知識や教授法,心理学の教育への試みが改革を後押しした。戦後,社会はこれまで通りの授業科目ばかりでなく,とりわけ中等教育では外国語などがもっと必要になってきた。生活水準の上昇は多くの親にとって子供たちにそれまで上流階級の子供に生まれながらに備わっていたそれと同じ幅広い向上の機会,開かれた基礎教育,中等教育を望んでいた。このような状況で根本的な欠点であった複線型学校体系を廃止して民衆学校を再構築することになった。民衆学校の教育水準はクラス中一定レベル以上に達している者はほんの僅かという状態で大きなばらつきがあったり,地方の学校の教育水準も都市の学校のそれにまで極力引き上げる格差解消も重要な点であった。

 社会の各階層,各年齢層から選ばれた人々から学校教育に関する意見を収集して教育省内で学校教育改革プロジェクトを発足させた。これを主導したのは教育大臣も勤めたレイノ・オイッティネン(Reino Oittinen)である。彼は1950〜72年には教育省の事務局長も兼務し,事務局長時代に彼の残した最も重要な業績は1967年の春に成案となった基礎学校に関する法案を国会に上程し,1968年基礎学校根幹法を成立させたことである。

 この法律の画期的なことは,初等教育から前期中等教育の学校教育を11歳試験で横道にそれることなく,男女全児童生徒が普通教育を統一して学習することである。前期中等教育が終わった段階で各自の希望で後期中等教育から高等教育,または職業教育から就職に進んでいくのである。【図2 単線型学校体系参照】

 複線型学校体系が単線型に変わり,高等教育を受けようとする生徒が急増した。特に女子の伸びが目覚ましい。 (表2.参照) (表3.参照)

 

【3-2古い教員の扱い】

 基礎学校根幹法(laki koulujärjestelmän perusteista(467/1968))は1968年5月21日成立し,1972年から1977年にかけてラップランド地方から順次南に向かって施行され,1977年のヘルシンキのあるウーシマー県で全ての民衆学校,市民学校,中学校を統合して基礎学校として出発した。初等教育6年間を下級(ala-aste),次の前期中等教育に当る3年を上級(yläaste)とし,この時多くの私学が公立化された。

 ここで問題になったのは教員の扱いである。民衆学校,市民学校,文法学校の3つの学校を1つに統合したとしても,初等教育免許しか持たない者,職業教育免許だけの者,中等教育免許(教科免許)しか持たない者が混在して,受け持ち時数の過不足が生じたり,第2次世界大戦後の教員不足からどの学校の教員も粗製濫造で生まれた教員で,指導力が劣っているという資質問題が表面化した。劣っているにも拘らず権利意識だけは人並み以上で,これらの教員達は制度改革の反対に回った。いかに制度が良くても教員の質が悪ければ絵に描いた餅である。そこでレベルの低い教員養成所や高等師範学校を廃止して各大学に教員養成課程を設置し,修士課程修了者に対してのみに免許を出すことに免許法を厳しく改正した(1974年)。既に教員となっている者に対しては,長期休暇を利用した講座,通年の夜間コースなどで修士資格を取得させた。特に私立学校教員のレベルアップのため公立化した私学の授業料無償化を推し進め,同時に教員の待遇も一定レベルに平準化して不満を言う教員の口をつぐませた。フィンランドでは教員の夏季休暇が2ヶ月半と長いのは,既得権を持っていた教員の側になびいた結果である。

 

【3-3法制上の不備】

 全ての国民に開かれた単線型学校体系(yhtenäiskoulujärjestelmä)が完成したのであるが,歴史はいつも前のやり方を引きずるもので,法制上すべて国家教育委員会が決定し,現場の学校長・教員はこれに一律に従え,という教条主義であった。現場もまた教師中心主義,知識注入主義,一斉授業などから一気に抜け出しきれないでいた。また,基礎学校根幹法は教育省令で運用しているため憲法では昔の民衆学校法がまだ生きていることになっていて,法的矛盾もあった。このようなことから基礎学校法(Peruskoululaki (476/1983))を1983年5月27日成立させると同時に民衆学校法や中学校法および基礎学校根幹法関連省令を廃法にして1984年8月1日から施行した。

 

 基礎学校法(Peruskoululaki)を実際に運用してみると例えばきっちりした学区制度や学習者の進度に合わない授業内容,カリキュラムや時間割等々,いろいろな矛盾が出て,地方教育委員会や現場教師の裁量権を縛り,意欲のある教員のやる気を削ぐ,がんじがらめの法律であったりして教育現場から不満が噴出した。

 一方,通信や交通機関分野の急速な発達,経済のグローバル化,社会全体の変化速度の高速化で世界は大きく変わった。学習した知識や技術も短時日のうちに陳腐化するスピードの速さは,誰もが感じているところであるが,学校という閉鎖社会はなかなかそのスピードに乗れないものである。

 

【4-1基礎学校法から基礎教育法へ改正】

 これらの問題を調査して改正に向けて主導したのは29歳で教育大臣に抜擢されたオッリ−ペッカ・ヘイノネン(Olli-Pekka Heinonen)である。改正教育法(基礎教育法 Perusopetuslaki (628/1998))は1998年8月21日成立して1999年1月1日施行された。もうこの時代には粗製濫造の戦後教員は一掃され,修士課程を終えた高学歴の教員となっていた。

 基礎教育法に改正した主な要点の1つは,国が決定し施行する範囲は必要最小限とし,実際に子どもに教える教材やカリキュラム,時間割など細かな権限は地方教育委員会と学校現場に委譲したことであった。例えば別表4.【科目と時間配分】を参照して下さい。表の1行目にある「母語と文学」は最初の2年間で14時間,次の3年間で14時間,そして次の4年間で14時間学習する。学年が上がるにつれ時間数が減少するがその度合いは地方教育委員会または学校毎に違っても差し支えない。同様に,学区も取り払われた。これにより学校間の競争も熾烈になった。教員は漫然と日を送ることは許されなくなった(規制緩和と引き換えに自己点検,自己評価が一人一人の教員にまで課せられるようになった) 。教科書の採択も各学校の代表者から成る選考委員会の提言を元に地方教育委員会毎に採択できるようになった。 フィンランドの基礎教育学校の教育は,@費用対効果の良い学習成果,Aその成果がいつもOECD国中で平均以上である。このことから多くの外国からモデル事業として見做されている。

 一方基礎教育法の制定は,社会の急激な変化に対応するための施策を含んでいる。基礎教育は子どもの一生の基礎となるもので,問題を発見し,解決できる知識と能力を高め,そのように生涯を切り開いていける資質を養うこと,即ち生涯学習のスタートという位置付けをしたことである。これと共に後期中等教育,高等教育,社会人職業資格教育など生涯に亘る学校制度をシステムアップした。

 中等教育では高校法(Lukio laki,1998年8月21日(法629))と職業教育法(Laki ammatillisesta koulutuksesta,1998年8月21日(法630))に改正して基礎教育法との整合性を持たせ,その上の高等教育とも職業高等専門学校法(Ammattikorkeakoululaki,2003年5月9日(法651))及び大学法(Yliopistolaki,2009年7月24日(法558))とで整合性を持たせた。

★ 諸学校が複線型だった1960年代の学校毎の学生数と単線型になった2008年のそれとを 比較した統計をご覧ください。制度的に民主化し,それに加えて授業料の無償化や手厚い支援策が功を奏したフィンランドの教育の現状が見て取れます。

 

【4-2現在の基礎教育学校教育】

 フィンランドの学年は8月1日に始まり翌年7月31日に終わる。基礎教育学校(初等教育と中等教育を一貫して教育する9年制の学校)へは満7歳に達した秋(通常,8月中旬)に1年生として入学する(日本では,「子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから」入学するとなっており,約1年早い)。1学年は190日で,2012年の場合は5月最終週で学年末となり,その後2ヵ月半の長い夏休みに入る。従来の基礎学校法では最初の6年間を下級,その後の3年間を上級としていたがその区分けを廃止して9年一貫教育としている。また9年間で十分習得できなかった子,またゆっくり学習したい子には10年目をすることも出来る。就学前教育は基礎教育学校入学年齢の1年前に基礎教育学校で受けることも出来るし,幼稚園(päiväkoti)で受けることも出来る。国外からの移入者(難民,移住者,商社マンの子弟など3ヶ月以上の滞在者の子弟)のために基礎教育学校に進むための準備教育を半年間提供している。

 学習義務は教育を受ける権利と表裏一体のものである。基礎教育法第25条では「通常フィンランドに居住する子どもは学習義務を負う」と言っており,国外からの移入者も含めて学齢期にある子どもは学習義務を負う。学習義務は7歳の入学から数えて10年間で終了する。

 基礎教育法(Perusopetuslaki,1998.8.21,法628)では基礎教育学校は「生涯学習」の入り口であると位置付けており,これ以降の学校制度ならびに成人のキャリアアップ教育の整合性を整えた。

 この法律の条文にはそのようなことが一切触れられていないが,触れる必要のないほど当たり前になっている。基礎教育学校から大学/各種職業の資格取得教育まで自己研鑚ができるシステムとなっており,基礎教育学校が生涯学習の入り口であると位置付けている。(第2条 教育の目的)。

★  新しい知識・技術は10年20年の短いスパンで陳腐化するのでいつも時代の要請にあった知識・技術が得られるよう成人教育が低料金で用意されている。毎年成人教育は全国400の機関で25-64歳の成人のうち約半分が受講している。

 

【教科とその時間配分】

 教科は基礎教育学校9年間を通じて「母語と文学,外国語,数学,環境学,生物学と地理学,物理学と化学,健康科,宗教または人生観,歴史科と社会科,音楽科,絵画科,手工科,体育科,家政科,カウンセリング」の15科目である。9年間合計で週に222時間履修し,年間38週であるので,総計8,436時間学習することになる。

 

【言語教育】

  母語教育と外国語教育は,こちらをご覧ください。

 

【支援教育】

 OECDが行うPISA調査でフィンランドは毎回各項目で上位を占めている。これは成績上位の者と下位の者との差が小さく,全体に上位にあるためである。下位の者の成績を底上げするためには教員の日々の努力が欠かせない。その一つに基礎教育法では教員に「支援教育」を義務付けている。

(1) 支援教育の目的は,(病欠または理解不足などで)居残りが必要な者または特に支援を必要とする学習者に対して行う,としており「落ちこぼれ」を出さない教育を教員に課している。

(2) その方法としては,
  @学習の遅れや理解不足を察知した時,できる限りスピーディーに支援教育をし始める,
  A支援教育をするときはいつも学習者を教えている担任教員が実施する,
  B支援教育は保護者の了解の下に実施計画を立て,支援教育の段取りを事前に知らせておく,
  C支援教育は学習者の授業の進み具合を見て授業時間内にするか放課後かいずれかにする,
  D学習者を一人でさせるか小さなグループでさせるかは時間を調整しておき,

(3) そして事後は,報告書を作成し記録を残す。この記録は教育資源として学年毎に学校年次計画の中に明確にし,

(4) 実施にあたっての留意点としては,支援教育は学習者本人の必要性に注意を払いながら(必要性を自覚させる)行う教育の一環である(学習者の教育を受ける権利)。それは普通教育の中でも特殊教育の中でも人格形成の教育として用いるものである。支援教育では学習者は自分のすべきものとして捉えるものである。

 この支援教育は,基礎教育法では明記されているが実は明記のなかった基礎学校根幹法(laki koulu järjestelmän perusteista(467/1968))が完全実施された1978−79年ごろから既に現場レベルで始まっていたのである。
 これは教員組合が問題を発見し,その解決に向けた熱意で国会を動かし,立法化させたものである。フィンランドはPISA第1回調査までの約20年の間にこういう努力によって徐々に成績を上げて来たのであって,PISAテストのために成績を上げようとしてきたものではない。これはあくまでも子どもの「教育を受ける権利」に教員や学校が応えようとした結果なのである。

 

 


 

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