博物館の中の学校 ヘルシンキ市立博物館発行 |
手元にヘルシンキ市立博物館発行の「博物館の中の学校」という単行本があります。
この本の中にフィンランドの公教育制度がどのように発達してきたか,中世〜現代までを簡潔に概観しています。
なお,翻訳とWeb掲載に当って快くご承諾いただいたサウリ・セッパラ氏に厚く感謝いたします。
Paljon kiitoksia japaninkieleen kä&äntämisen ja web-sivustolleni laittamisen luvasta Sauli Seppälälle.
サウリ・セッパラ(ヘルシンキ市立博物館)
フィンランドでは中世にトゥルク(Turku)修道学校,ヴィープリ(Viipuri,現在はロシア領)修道学校ならびにポルボー(Porvoo)市学校,ラウマ(Rauma)市学校で教育され始めた。トゥルクカトリック学校は既に1200年代に創立され,この頃教育の重要な改革期にあった。これらの学校ではフィンランド人学生ばかりでなく,スウェーデン人やドイツ人学生も学んでいた。カリキュラムは7学芸を基本にしたものであった。カリキュラムの最初は三学即ち文法,修辞法,弁証法を教授し,この修了後,四学即ち算術,幾何,天文学,音楽を教授した。普通は最初にラテン語を教授し,その仕上げに歌唱を教授した。また,時計算法や暦法,聖書も教授した。
大聖教会は管理者に校長を置いてカトリック学校を監視した。聖歌隊の牧師たちが校長を補佐し,時には生徒の中の有能な者が補佐した。通学費は安くはなく,そのためほとんどの生徒は学びながら自由時間に歌を唱って金を得るようになっていた。もし興味とラテン語の才能があれば海外の大学へ送り出すようになっていた。パリ大学で学び,修士になった最初のフィンランド人は1313年にいたと記録されている。
学則は厳しく,課業は長時間に亘った。教授法は模倣させることが主であり,形式陶冶であった。本やその他教材は乏しく,ただ神の教えに従って機械的に鵜呑みする考えが支配的であった。スコラ哲学もまた中世の教育思想に強く影響していた。この考えは人々に神の道,無限の真理を教えるものであった。1500年代の宗教改革の時代,グスタフ・ヴァーサ王はヴェステロース(Vasteras)議会の決定で教会権力を縮小し,その富を王室へ移管させた。王室の為政はカトリック教会に対して疑心の目をもってし,僧侶は永久にカトリック教が続くものと信じて疑わなかった。グスタフ・ヴァーサ王の信奉者らは王権をもって教会の富を分割し,このためにまた,全国的に解決しがたい状況が生まれた。
宗教改革時代の最初の学校教育法は,1571年ローレンティウス・ペトリ(Laurentius Petri)の制定したもので,1595年にはシェーデルケピン(Soderkopin)議会でより厳格に作られた教会法の中にあった。この頃公教育がドイツのフィリップ・メランクトン(Philip Melanchton)のラテン語学校をモデルに改善しようと熱望され始め,学校は3〜4年制で誰でも通学でき,平均2年間通った。必修科目はラテン語,宗教,コーラスであった。選択科目は弁証法と修辞学であった。学校の最重要課題は牧師教育であった。本来の学校教育法の外側ではカトリック教会学校やブルジョワ階級の創った計算学校(都市学校とも言う)があった。また,宗教改革によって閉鎖されたカトリック修道院でも1500年代後半のカトリックの終焉までこの学校は存続した。
スウェーデン王国は学校をすばやく拡大させることに注意を払った。同時にフィンランドにその後200年にも亘って学校教育法は信任された。グスタフ2世アドルフは,王国拡大の後すぐ,1611年に教育の改革を行った。自然科学の教育をより多くすることを意図していた。学校を卒業した学生達は高度に発達した行政府や経済界から引く手あまたであった。最も注目すべきはフィンランドの一般的学校水準を基礎に,ピエタリ・ブラーヘ(Pietari Brahe)総督時代にトゥルク・アカデミー創立や三学学校のフィンランド湾沿岸都市への急速な拡大などがあった。
最初の学校教育法は,1620年に制定され,全王国に布告されたがクリスティーナ女王の学校教育法として知られる教育法は戦争のために1649年に改正された。この法律ではどの都市にも,時には牧師の私費で地方にも設立された教育所で読・書・算の初歩が教育された。教育水準は教師の技量で千差万別で,通学期間は特に定められていなかった。最初の中等学校は8年制で4学級の三学学校であった。フィンランド最初の三学学校はトゥルク,ポリ(Pori),ウーシ・カウプンキ(Uusi Kaupunki),ヘルシンキ(Helsinki)に設立された。この上級学校は,大学進学準備のためのギムナジウムと呼ばれた3年制の高校(リセー)であった。フィンランドただ1つの高校は1630年トゥルクに設立された。1646年トゥルク・アカデミー(大学)が出来て高校はヴィープリに移転され,大いなる怒りの時代の領土明渡しの後,1721年にポルボーに移された。それにもかかわらず政府は学校を存続させ,教会はさらに授業や教育内容で答えた。教育言語はラテン語であり,その補助言語はスウェーデン語と決められていた。
ボヘミア人,ヨハン・アモス・コメニウス(Johann Amos Comenius, ヤン・アモス・コメンスキー Jan Amos Komensky )もまた公教育の発展に寄与した。コメニウスはスウェーデンを訪れ,そこで王国の学校のために学習書を著した。その学習書は叢書となった。コメニウスの業績は,クリスティーナ女王の学校教育法の中に中央ヨーロッパのヒューマニズムの息吹が吹き込まれたものとして見ることができる。この学校教育法によって学校の雰囲気は信心深く,高潔なものの考え方となり,ラテン語,ギリシャ語,ヘブライ語に長け,また好奇心に富んでいた。
宗教改革思想は1600年代初期,フィンランドに定着した。教会での説教は長く,教化を目的としていた。そのやり方は,国民にキリスト教の信仰生活と権力者へ敬意を払うことを植え付けようとするものであった。すべての人は教会に通うことを義務とされた。教区書記は算術の初歩または少なくとも教理問答のやり取りを機械的に教えた(訳者注:民衆教育をキリスト教会が担った)。年に1回堅信礼が行われ,ここで牧師は学んだことを尋ねた。怠け者は公共の辱しめの場で足かせにつながれるようになった。
ゲゼリウス司教の時代(1665-1712),国民教育は強化された。フィンランド語話者のための国民教育の基礎は1600年代末ヨハンネス・ゲゼリウスの親がやった仕事で,聖餐式のための巡回学校法にある。いくつかの教区は1つの巡回学校区にまとめられ,巡回学校は校区の家を持ちまわりで巡回して開校された。アルファベートや教理問答が国民の間に広がり,堅信礼学校が教育を急速に拡大させ,最終的にキリスト教の重要部分を読めるようにさせた。それはまた結婚の前提となるものであった。この正統派の教育故に学校内の宗教の位置は高められ,人道主義の裏で引き上げられるようになった。
学校に通うことは身分制社会における普通の人が上の階級に登るほとんど唯一の道であった。身分階級間の違いは,それでも通学に影響した。貴族階級は他の社会から排除された教育すべき人々を改善した。算術や書き方がその身分に合わせて家で教えられた。しかし多くの卓越したフィンランド人少年にとってスウェーデン語が上の身分に登る障害となっていた。
1809年スウェーデンは対ロシア戦の後,フィンランドをロシアに割譲した。1812年には,旧フィンランド地方,即ちヴィープリ県をフィンランド自治国に併合した。(相互に関係なく,)全く別物のように作られていたこの時代の学校教育法は,1840年代初めまで存続した。フィンランド自治国教育行政の重要な点は,ヴィープリやサヴォンリンナでカタリーナ2世時代から続いてきた女学校であった。女学校はこの時代,まだ十分に知られていなかったがロシアとの国境の西側にあった。旧フィンランドの中等学校はフィンランドの他の地域のものと同様に教会の影響下にはなかった。教育言語はドイツ語であった。旧フィンランドはタルト(Tarto, 現エストニア)大学行政下に属していた。学校での雰囲気はスウェーデン側よりも人間味に溢れていた。褒美で持って生徒を刺激し,教育は生徒を喜ばせようと試みられた。
1830年代フィンランド自治国において三学学校に付属した私学の初等教育学校が生まれたが,教育水準は高く,しかも学費は高額であった。1843年の学校教育法では,最終的に旧三学学校は下級小学校と上級小学校に変わり終了した。
トゥルク・アカデミー入学試験の始まりは高等教育課程と連携して1852年に第1回を行った試験であった。この頃年間の学士卒業生数は70人であった。クリミア戦争後自由主義やナショナリズムが国家改革の根本思想となっていった。アレクサンデル2世はロシア帝国振興政策をとったすぐ後,フィンランドの商業,海運,工業の改革策などや学校教育に関する重要政策など全帝国に関する改革策に取りかかった。帝国の改革策は1856年3月24日印刷され,国民を教育する学校を地方にまで普及する方法をうまく取るように義務付けられていた。
改革策に対応したフィンランド自治政府は,公教育計画に取り組み始め,この改革への提案を一般から募集した。最もすばらしい提案はピエタリで教員をしていたウノ・シュグネウス(Uno Cygnaeus)のもので,それは幼稚園から始まり,全国を覆う学校教育法制定を希求するものであった。1858年自治政府が出した国民教育法に関する宣言は第1次改革,即ち地方の学校建設に国家助成を約束すること,加えて師範学校の建設を決定したことであった。宗教は牧師が教えるが他の教科は後日明確にすることとした。読み書きなど学習の初歩は入学前に各家庭で準備すべきものとした。
ウノ・シュグネウスは,自治政府の仕事として国内と中央ヨーロッパ諸国の学校の状況を調べるため民衆学校設立計画立案のための旅行をスタートさせた。旅行で収集したレポートは後日出版され,最終案を1861年自治政府に提出した。そこには学校の教会監視からの解放,師範学校の設立など民衆学校設立に関する諸施策を決定する高等教育行政府の設立が含まれていた。ウノ・シュグネウスの考えは,民衆学校教育は物質的,道徳的教育を強調し,加えて民衆学校終了後には生徒を職業教育に向かわせるようにすべきものとしていた。使用した教材は生徒の改善に最も良いものばかりであった。また,女の子にも通学を保障するようになった。海外の学校教育制度を調査して重要な点は例えばベルリンの学校教育制度やベッチンゲン師範養成所の師範教育制度を参考にした。
ウノ・シュグネウスの提案をもとに1866年民衆学校法が施行された。この年がフィンランドにおける民衆学校の創立年と考えられる。この法は各市に学校を建てることを義務付け,学齢を8歳とした。郡部には1898年から同様に義務付けられ,学区法によって全国に学校を設けることとなった。2学年の下等民衆学校では宗教,母語,算術,計測,絵画,体育が教えられた。4学年の上等民衆学校では地理学,歴史,自然科学,手工科,保育,園芸,農業,その他の教科が教えられた。
ウノ・シュグネウスは,民衆学校の普及は実際よりももっと速く進むと考えていた。しかしながら学校を設立することは都市と郡部の話し合いの結果,それほど急には進展しなかった。その理由としては学校教育は,子供達を現状に甘んじない飛びぬけた人間を作ると信じられ,2つ目は1800年代の学校は教員不足の問題があり,教員を目指して勉強する学生達も給与の少なさに教員にとどまろうとする者が少なかった。加えて1870年代には土地を持たぬ子は土地持ちの子より多く通学すると話されていた。学校教育は土地を持たぬ下層民にのみ社会階級から抜け出す可能性を与え,土地持ちの子は親の後を継いで畑地を耕すべきものである,と。
フィンランドにおける民衆学校は1870年代初めには約100校あり,1880年代終わりには約500校となった。1890〜91年度の郡部の巡回学校にはまだ約20万人の子供が通い,民衆学校へは,やっと11万人であった。これは全就学年齢の19%に過ぎなかった。就学人口の70%を越えたのは都市部では1880年代であり,郡部ではやっと1920年代に入ってからのことである。記憶すべきことは,都市部の子供達のうち民衆学校修了者は中等学校や私学教育を既に受けるようになり,ほとんど全就学年齢の子供達が進学するようになっていた。
巡回学校は初等教育提供者として民衆学校と並行して1930年代まで存続した。民衆学校の普及とともに巡回学校の教材は民衆学校と同等の教科書を使用できるようになった。1つ特別なこととしては,北ラップランド地方,東ラップランド地方の記録では1750年代に始まった巡回学校がこの時まで巡回していたことである。国も地方も財政難であり,巡回学校が長い間ラップランド地方の子供の教育を支えてきたのである。
1872年から施行された中等学校教育法を改正し,下級中等学校,上級中等学校を8年制の中等学校,また2学年・4学年の中等学校へと移行した。高校は上級中等学校と中等学校とを一緒にした。民衆学校の修了が中等学校への進学条件となった。中等学校は,これをもって教会監視下から最終的に開放された。大学入試は根本的に変わった。従来大学独自の入試を行っていたがこれを止め,高校が行う筆記試験の後,大学が5・6月または秋に行う口述試験をするように変わった。
フィンランドの独立(1917年)後,学校制度は前にも増して改革された。1921年の義務教育法は全国民が通学する,または就学年齢の者に対して民衆学校教育を受けさせることを義務とした。義務教育法は1923年には民衆学校と上の継続した学校とをきちんと接続させ,民衆学校法形式の設立を完成させた。しかしながら継続教育は法の規定する期間内に申請し,期待に応えるものは特に郡部ではなかった。教育の義務化は法の施行から都市部では5年,地方においては16年の歳月が必要で,完全な義務化は1937年からであった。しかしまだ,いくつかの地方自治体は義務教育化達成のための最終期限をもう少し引き延ばすことは出来ないか尋ねるようになった。
学校間の継続はいろいろな趣味のクラブや学校図書館,スポーツクラブを改善した。知識は子供に別のパターンの改善を引き起こした。知識はより一層子供の改善に寄与した。授業時間は延長され,そのため就業時期が先送りになり,若者文化が立ちあがってきた。第1次,第2次の戦間期には特に普通の教育が批判され,教育は特に注目され,社会を変革する力となるべきものと思われるようになった。
戦後,新政府が誕生して国民を国の思い通りに教育することを改めた。子供の数が急増し,改善された生活はより良く教育された十分な労働力を必要とした。経済的潤いや教育はより強い意志で結ばれた。また,生徒たちへの姿勢は第2次世界大戦後変更された。教育することは知識を得るためのたった1つの利器であると理解され始めた。人は学校で教育されることだけでなく,ほかの価値もあるとも理解されるようになった。
1958年の民衆学校法の中では学習内容はより強化された。教育計画は見直され,教員の職務は新たに編成された。加えて特別の教員を必要とした。1968年の基礎教育学校法が規定された時,就学年齢の半数以上の子供が中等学校へ進学するようになっていた。民衆学校と中等学校は法の規定で下級基礎学校,上級基礎学校,高校へと移行した。この改正は北フィンランドから南に向かって徐々に施行された。最後の地域,ヘルシンキにおいて1977年この基礎学校への移行が完了した(訳者注:複線型学校体系から単線型学校体系への移行)。
基礎学校が出来て,育み,教えることの可能性が大きくなったと信じられている。もうかっちりした教育の技術について話すようなことはなくなり,教育のやり方は全人格的完成と心の健康を促進することであった。学校で学んだことを生活のすべてで活用することであった。
1999年の基礎学校,高校,職業学校を規定する基礎教育法は,それぞれ個別にあった法を統合して一本化することを目的としていた。基礎教育法では,柔軟性があり,自由な選択性があり,個人個人に合わせた教育を引き伸ばすよう目指していた。地方自治体は,例えば最終的に学区制をなくす方向を希望した。これはそれぞれ学校の置かれた立場の議論を呼び起こすこととなった。
将来起こるであろうことは,教育の場面や休み時間や学外などいかなる場面でも起こりうる,子供達のそれぞれの理由による学習の不適応や心の問題である。このため家庭と学校の間の協力関係を構築し,教育上義務を追う者の分担を話し合うことを強固にしたことです。教員の研修,給与,能力は,新しい教育法の目的を達成するための前提として重要なことである。これらは例えば,子供と教員の権利の保護,教育の質の保証,平等の促進,そして生涯に亘る学習や自己研鑚の支援などである。教材の製造・制作において一般社会多方面に影響を与えるものであり,また学校で教えられる重要なことは子供達の一生涯のため文化と生きる基本を強くすることです。これらはすべては将来に向かって可能性が開かれているということを大人になって理解できるであろう重要なことである。
出 典:サウリ・セッパラ氏著 「フィンランドにおける学校制度」ヘルシンキ市立博物館発行「博物館の中の学校」Narinkka 2002 p.10-24 ISBN 951-718-941-9
Lähde:Sauli Seppälä "Koululaitos Suomessa" (Julkaisija : Helsingin kaupungin museo, Toimittaja : Sauli Seppälä, "KOULU MUSEOSSA" p.10-24 Narinkka 2002 ISBN 951-718-941-9)