【 夢のあとさき −弥珊− 】


 ……もう、かれこれ小半一時(こはんとき)にはなろうか?


 弥勒が七宝と共に小造りながらも瀟洒な屋敷に上がり、初めに通された部屋に七宝を残して屋敷の女主と屋敷の奥へ姿を消してから、それくらいの時刻は過ぎたと七宝は思った。

 丁度今、かごめは中間考査とやらで実家(さと)に帰っており、ヘコヘコと叱られるのも判っているのに付いて行くのは犬夜叉。まさしく忙中閑有り、もしくは手持ち無沙汰な残された面々。いや、する事はあるのだけれど、これまた珍しい事に珊瑚が風邪で寝込んでしまった事もあって、完全に小休止と言った態であったのだ。

 そこへ山向こう三つ程離れた町から、薬師としても名高い村治めの巫女・楓の調合した薬が欲しいとの依頼があったのだ。その薬に使う薬草を切らしていた楓は薬が出来次第、こちらから届けると約束をしたのが二日前。その使いに出たのが、閑を囲ってごろごろしていた弥勒と七宝。
 薬を依頼人に届け、さっさと帰路に着けばなんの問題もない訳だが、普段は厳しい監視の目を光らせている女性陣の不在が意味するところは……。


「のう、弥勒。こんな所で道草を食っててもいいのか? 早よう楓お婆の所に帰った方がいいじゃなかろうか?」

 七宝は昼間から酒と酌婦の脂粉の匂いのする店に馴染めず、落ち着かな気に尻をもぞもぞさせている。

「中々こんな町中まで出て来る事はないんですから、七宝 お前も何か欲しい物があったら頼みなさい」
「でも……」
「何、私も少し般若湯を頂いたら帰るつもりですよ。珊瑚も臥せったままですしね、私だけ楽しむのは気が引けますから」

 弥勒の本音を言えば、確かに臥せっている珊瑚の事は気になるが、細身の体に似合わぬ妖怪退治屋として鍛えられた強靭さも知っている。今、暫く休養させれば程なく回復するだろうと確信している。ましてや側にはあの楓が付いているのだから、何の心配も要らない。

 ならば、この機会。
 ほんの少し、羽を伸ばしても許されるのでは……、と。

 そして、本音の本音は ――――

( この七宝さえ、付いて来てなければ――― )
( もう少し、お足があれば ――― )

 そんな事を考えていたのである。

「……遅くなった言い訳は、どうするんじゃ?」
「なに、無体を仕掛けられたやんごとなきお方を助けたお礼に、心ばかりのもてなしを受けた、とでも言えば良いでしょう。お前が心配するほど遅くはなりませんから」

 そう良いながら、手酌で杯を満たし旨そうに口元に運ぶ。

「……それを飲んだら、本当に帰るんじゃな?」
「はい、そのつもりですよ」

 その言葉に七宝も団子の皿を一つ、頼んだ。

 ―――― これで、共犯。

 弥勒は約束どおり、頼んだ銚子を空にすると潔く店を後にした。
 ほんの僅かな内緒事を胸に、さぁ 帰ろうかとしたその時、あまりにもバレバレな弥勒の言い訳そのままの事態に遭遇してしまったのだ。
 しかも、なにやら弥勒と曰くのありそうな婀娜っぽい女人。

   この時の弥勒の台詞が

「……絵僧興義の故事ではありませんが、善行や慈悲は垂れておくものですな。こんな所で助けた魚に出会うとは思いませんでした」

 だったのである。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 何事も無くば、そのまま村への帰路に着くはずだった。心ばかりの羽も伸ばし、弥勒の懐にはもてなしのおすそ分けとの名目で店で買った饅頭を忍ばせている。ところがやがて町外れと言うあたりで、なにやら言い争う声を聞いてしまったのだ。

「あたしの身体にお触れで無いよ! この狸爺っっ!!」

 まだ若い、どこか斜(はす)で艶っぽい女の声。

「何を言う! お前を囲っていた油問屋の色ボケ隠居がワシに金を借りたままおっ死にやがった。お前はあの隠居の持ち物だったんだから、借金のカタにお前もお前の住んでいる家屋敷もワシのモンじゃ!!」
「なっ! 冗談じゃない!! あたしはとっくにあの油問屋の隠居とは縁が切れてるよ! あの家屋敷だって妾奉公していた時に貰った金を元手に商売をして、あたしが自分で手に入れたもんだ! あんたに好きにされるいわれない!!」

 その若い女は、狸爺と呼んだその男とその配下の男達を前にして、見事な啖呵を切って見せる。囲うだの妾奉公だの言葉が示すとおり、そっとその様子を伺い見ると、そこには小股の切れ上がった左目の下の泣きボクロも色っぽい女が、大の男三人を相手にやりあっていた。

「おや、あの若い女は……」

 七宝の耳が、そんな弥勒の呟きを捉えた。

「弥勒、お前まさか、あの女と……」

 弥勒の女好きは、この旅の間によ〜く七宝にも判っていた。女難の相であるのかと言うくらい年頃の娘がいるところ、かならず騒動が巻き起こる。過去に関係のあったような女から、関係の無い女のイザコザまでありとあらゆる災難の種を撒く男、それがこの弥勒と言う男なのだと。

「なんて奴じゃ、お前と言う男は! そうか、この町への使いに出たのも、実はあの女に会うためじゃったんじゃな!」
「七宝、お前何を言って……」
「ああ、こんな奴に騙されるなんて、珊瑚が聞いたら臥せっているのがなお悪くなる!」

 こちらでも揉め事が起きそうな気配。
 その気配を封印された右手で七宝の口を塞ぐ事で押さえ込み、さらに様子を伺う。

「ふん! お前が中々手に負えないはねっ返りのじゃじゃ馬だってのは知っている。だけどなぁ、そんな女を乗りこなしてみたくなるのが男ってもんだろう!」
「よしとくれ! そんな訳の判らない理由で手篭めにされたんじゃ、あたしの体がいくつあっても足りやしないよ!!」

 そんな女の言葉にも、もう男達は耳を貸そうとはしなかった。正直な話、いくらこの若い女が粋がってみても、相手は大の男が三人。腕力で押さえ込まれたら、とても敵うものではない。

「よし、出るか」

 弥勒は一声そう言うと、七宝の口を塞いでいた右手を放した。

「弥勒、まさかあの女を助けるつもりなのか?」
「まさかも何も、御仏に仕える法師たる私があのような無体な目に合っている女人を見捨てるほうが、よほど仏罰ものでしょう」
「それは、そうじゃが……。でも、本当にそれで良いのか? また別の、難儀な事にはならんのか?」

 七宝の目には、鍛えられた妖怪退治屋の珊瑚が獲物である飛来骨で、弥勒の頭を直撃する光景が浮かんでいた。

「……言い訳も、嘘より本当の事の方がずっと良い。それに、これもまた何かの縁だろう」

 さらりとそう言葉を続け、すたすたとその女と男達の前へと歩んで行った。

「これこれ、道の往来で何事かな?」

 落ち着き払って、穏やかな声で女と男達の間に入る。

「すんませんが法師様、ここはお前様の出番じゃねぇです。俗世に塗れた借金の話なんで」
「あたしは、お前に借金なんてないよ!!」
「うるせえぃ!! とにかくあの色ボケ爺が俺に借金を残しやまま死んじまった。死んだ後は、お前からもらってくれって証文もある」
「そんな、馬鹿な!」

 女の顔色が変わる。もし本当にそんな証文を勝手に交わされていたなら、それを覆すだけの手立ては自分には無い。
 ……今に至るまでの自分の生き方のせいで、役人には訴え出る事ができない弱みを持っているからだ。

「証文? それは本物ですかな?」

 あくまでも落ち着き払って弥勒が問い返す。

「ああ、本物だ。嘘だと思うのなら、その目で確かめてみると良い!」

 勝ち誇ったようにその金貸しは懐から、一枚の証文を取り出した。
 その文面にさっと目を通す弥勒。書面の文言は、確かにこの金貸しの言う通り、自分が払えなかった時は、この女から取り立ててくれと書いてあった。そして、その亡くなった隠居の名前が書いてある。

「ほら、どうだ! お銀、ちゃあぁぁんとお前ぇの名前と隠居の名前が書いてあるだろうが!!」
「くっっっ……」

  女は悔しげに唇を噛み締める。

( ……この筆の手、これは全部一人の手によるものだな。勝手に証文を書いて、そのご隠居の名前を書き込んだ偽物。さて、これをどうするか? )

「さぁ、これでいくら法師様でも口出しできんでしょう。これ以上、ごちゃごちゃ言うのなら、仏様に仕えるお身とは言え目を瞑ってもらう事になりますな」

 その金貸しの言葉に、両脇に控えていた用心棒らしき男達が、拳を固めばきりばきりと指を鳴らす。

「判りました。では、私が仕える仏様にこの証文の真贋をお尋ねしましょう。なに、簡単な事です。私は特に仏様より御印を頂いており、この右手を翳すだけで悪しきものを取り去る事が出来るのです。もしこの証文が偽物ならば、たちまちの内に御印に吸込まれ地獄へと送られることでしょう」
「はぁ? 何を言ってるんだ! このクソ法師めが!!」

 今にも殴りかかってきそうな男達の眼の前で、弥勒は右手の封印を解いた。たちまちの内に風穴に吸込まれるその証文。

「おや、これはどうやら偽物だったようですな。ついでにお前達の善悪も観て進ぜよう」

 言うなり、ほんの少し風穴を男達の方へ向ける。男達の周りに激しい気流が生まれ、風穴へと引っ張り込まれそうになる。男達の顔色は、生きたまま地獄に放り込まれそうでもう真っ青だった。そうやって十分脅かした後、弥勒は風穴を封印した。

「今日のところは見逃してあけます。ですが、次はないと覚えておきなさい」

 恐ろしいものを見た男達は、ほうほうの態でその場から逃げ出して行った。

「ふむ、これでよし」
「あ、あの……、弥勒様ですか?」

 ほっとした表情で、そう言った女の顔は若いと言うよりも意外な幼さが滲んでいた。

「ああ、やはり。お前はあの時の娘ですね。確か名は……」
「はい、お銀です。一度ならずも、二度までも助けてもらいました。是非、今度はお礼をさせてください!」

 こんな事情で、弥勒たちはこの女の屋敷に引っ張り込まれたのだった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 
 屋敷の女主から出された茶菓子は食べてしまい、白湯もすっかり温くなってしまった。何よりも、陽が西に傾きかけ影が伸びてきたのが七宝の気持ちを急きたてる。

「……一体何をしておるんじゃろう、弥勒の奴は! 何か訳あり風だったし、まさか、まさか……」

 七宝の小さな頭の中を、悶々とした妄想が駆け巡る。
 見かけは童だが、これでも純粋な妖狐。実際の齢は、決して見かけで判断できるものではないだろう。加えて弥勒の生臭ぶりも知っている、誘った女の媚びたような色香の強さも。お互い気のない風でもなければ、当然行き着く先は……。

( うわぁぁぁ〜〜!! それはまずい! まずいぞ、弥勒!! お前には、珊瑚いう者が居るではないかっっ! こんな所で弥勒の浮気の片棒を担がされたと知られたら…… )

 急に七宝はぶるっと悪寒を感じた。
 そう、殺気の篭った妖怪退治屋の視線を感じたような気がしたのだ。

「そ、そうじゃ! ここでこんな事をしておる場合じゃない!! オラがなんとかせねばっっ! )

 そんな七宝の気持ちも知らぬ気に、その頃弥勒は ――――

「ほぅ、これはまた美味い酒ですな。軽い口当たりで、まろやかな甘みがある。優しい酒です」
「これはあたしが西国から取り寄せた練酒なんですよ。同じ白酒でも辛口の男酒は好みじゃなくてね」

 そう言いながらお銀は、弥勒の空になった杯にとろりとした白い酒を注いでゆく。

「随分と羽振りが良さそうだ。ほんの四・五年前まで宿場町で美人局(つつもたせ)をしていた小娘には見えないな」

 口調を崩し、弥勒はずばりとお銀の過去の悪行を口にした。

「あれは引っかかる方が悪いんですよ。まだ年端もいかない小娘に手を出そうとした、助平親父の方がね」

 にんまりと形の良い赤い唇に笑みを浮かべ、弥勒の手にしていた杯を横から取ると、くいっと中の酒を空けた。

「さっきの男達の様子を見れば、まだ同じ事をしているのか? 以前それで、酷い目に合いそうになったのも忘れて」
「あたしの取り得は、この顔と身体だけですからね。折角親がくれたもの、ちゃんと使わないと冥土の親が泣くってもんです」

 そう、弥勒がお銀と出会ったのは、弥勒が夢酔和尚の下から一人修行の旅に出た頃の事だった。お銀はその頃娘に差し掛かった十一か十二、この戦国の世で既に親は無く、生き抜くためにどんな手でも使うような逞しい娘だった。

「本当に、あの時は犯られるか殴り殺されるかって思っちまいましたからね。あたしと組んだあの青二才がとんだ腑抜けで、助平親父に一発殴られてとっとと尻尾を巻いて逃げだすなんてさ」

 思い出すと忌々しさが蘇るのか、空になった杯に手酌で酒を注ぎぐいっと飲み干す。
 茶屋遊びの帰り、お目当ての愛敵(あいかた)に袖にされた金に物を言わせるような、脂ぎった横幅のある蛙に似た男。こんな相手はこちらが水を向けてやれば、すぐにひっかかる。そう思ってカモにしようと近付いた。ところがその男はよほど虫に居所が悪かったのか、強請りにかかったお銀の相棒を殴り飛ばし、ぎらぎらした眼に凶暴な色と欲を浮かべてお銀の頬を張り倒したのだ。
 人通りの無い物陰に倒れたお銀を引っ張り込み、着ていた着物を剥ぎ取ろうとし ――――

「あんな事をしていても、あの時はあたしもまだ未通女でしたからね。流石に、あんな気持ち悪い助平親父が最初の相手だなんて、冗談じゃなかったですよ」

 そして、その現場に行き合わせたのが弥勒。自分とそう年の変わらない子どもが、人相の良くない大人に絡まれていれば、助けようと言う気になるのもごく自然な事だった。

「あの時も今みたいに、その右手で相手を懲らしめてくれたんですよね。あたしがお礼代わりに好きにしてくれって言ったのに、弥勒様ったらつれなくさっさと行ってしまって……」

 目元を酔いで少し赤らめ、潤んだ艶っぽい視線を投げてくる。

「馬鹿な事を言うな。あの時のお前はまだほんの子どもじゃなかったか。俺はそんな趣味は持ち合わせてはおらん」

 ……そう言う自分も子どもの領分でありながら、茶屋に出入りしていた事は棚上げにしていた。

「でも、今ならなんの問題もないだろ? あたしも今じゃ立派な女だし」

 ますます弥勒ににじり寄ってくるお銀の襟元が少し乱れ、真っ白い胸元がちらりと覗いている。これは、まぁいわば「据え膳」と言う事か?

「ねぇ、弥勒様」

 そんなお銀の思惑を外すように、弥勒は平静さを保ったまま言葉を続けた。

「お銀、お前今は何をしているんだ? まさか、もっとヤバイ事に手を出しているんじゃないだろうな?」

 その一言で、すっと一線を引く弥勒。弥勒の視線はお銀の屋敷内の調度品や、自分の前に並べられた珍しい酒肴に注がれていた。興を殺がれたのか、色っぽく乱れた襟元を調え、お銀が上体を起こした。

「……なんだかつまらないお人になりましたねぇ、弥勒様。あの頃は随分とお若くても、浮名を流しておいでだったのに」
「落ち着いたと言って欲しい。そう言うお前はどうなんだ?」
「ああ、あたし? まぁ、あれからもちょこちょこやってましたよ、美人局。もっとも引っ掛ける相手はよくよく吟味しましたけどね。年寄りならそう無体なことはしませんし」
「年寄りで童女趣味は、もっと性質が悪かろう」

 そこでお銀がふふ、と小さく笑った。

「無理やり美人局をさせられている、哀れな娘を演じたんですよ。年寄りは涙もろいですからねぇ、何もせずにお金を握らせてくれるんですよ」
「お前、本当に悪だな」
「そんな中でもあたしを囲ってくれた油問屋の隠居は、本当に良い爺さんでね。あたしを手元に置いて自分の世話をさせる代りに、いろいろ商売の事なんか仕込んでくれ商売仲間にも顔を繋いでくれて」
「ほぅ……」

 その話をするお銀の顔には、どこか柔らかな表情が浮かんでいた。

「そのせいで、ご隠居はすっかり色ボケ爺なんて言われるようになっちまったけど」
「じゃ、お前妾奉公といっても、本当に体を売ったりはしていなかったんだな」
「ああ、いくらあたしが色っぽく姿(しな)を作って誘いをかけても、ご隠居は笑いながら子どもがそんな真似はするなって、言ってさ」
「そうか。良いお人に出会えたんだな、お銀」
「まぁね。でも、あたしの色香が通じない相手が弥勒様とご隠居の二人もいるのは、ちょっと癪に障るんだけどさ」

 生まれ付いての享楽淫蕩な気のある娘なのだろう。それもまた、その人となり。

「二年位前にそのご隠居から、妾奉公のお暇を出されてまとまった金子を頂いたんです。それを元手に、商売を始めろって。まだ年は若いが、お前なら出来るって言ってくださって」
「商売?」
「ご隠居の伝手で最初は細々と香油などの小商いを。それから櫛や簪などの小間物を扱うようになりましてね、たまたま西国の商人と知り合いになれたんですよ。そうしたらその商人が今度は酒や茶を扱ってみないかと言ってくれて……」

 西国の酒、特に練酒は出陣の際の景気づけに好まれ、茶の湯も武将たちの間に広まりつつあった。嗜好品であっても良い品であれば、かなりの高額での商売が成り立つ時代でもある。秀吉の時代には、小さな茶葉を入れる器一つに日本の国土半分の値打ちを付けた、という話もあるほどだ。
 そんな時代の波に乗り、お銀は商人として成功しつつあった。

「いい話だな、土産話に丁度良い」

 その弥勒の言葉に、お銀がぴくりと反応した。

「おや、誰か弥勒様のお帰りをお待ちの方でも?」
「ああ、まぁな」

 言われてとっさに浮かんだのは、床に臥せっている珊瑚の姿。

「やっぱり。いえね、あの子を見た時、もしや弥勒様はもう身を固められたのではと思ったもんですからね」
「あの子?」
「そう、あの子ですよ。可愛い子じゃないですか、奥方はさぞかし美しい妖狐なんでしょう」

 とんでもないお銀の言葉に、弥勒の眼がまん丸になる。

「なぜ、そこで狐!?」
「そこはそれ、弥勒様は仏に仕える身でもありますから、生身の女を娶る事はないのかもと。そうじゃなければ、ねぇ」

 と、弥勒がお銀を袖にした事を匂わせる。
 よほどその事がお銀にとっては承服しかねる事で、弥勒を特殊な性癖持ちにしたいらしい。

「お狐様は神仏のお使い。まぁ、お似合いではありませんか。あんなに可愛い子まで生ませているんですからね」
「……お銀、お前あの七宝が俺の子だと!?」
「ええ。知ってますよ、弥勒様は行き会う女達に『私の子を産んでくだされ』と口説きまわっていた事は。好みであれば、どんな女でも良かったのでしょ? それが動物でも」
「お銀!!」

 それはとんでもない性癖である。
 そう言いはするが、お銀は半分お遊び気分のからかい口。

 そこへ ――――

「法師様!! 帰りが遅いと心配で様子を見に来てみたら、こんな女のところで引っかかっているなんてっっ!」

 そう言って、座敷の襖を引き明け入ってきたのは、楓の村で臥せっているはずの珊瑚。

「珊瑚、お前…っ! 病で臥せっていたはずでは……」
「あんなもの、半日も寝てれば良くなります! それよりも、楓様の御用の途中でこんなっっ……」
「おや、弥勒様。そのお人は、一体どなたで?」

 最初の驚愕から醒め、お銀が落ち着いてそう尋ねた。

「あたしは法師様と二世を誓った相手だよ! さぁ、とっととここから出るよ!! 法師様!」

 有無も言わせずに、珊瑚は弥勒の手を取ると座敷から引き立てようとした。
 くすくすと、お銀が楽しそうに笑っている。

「これは申し訳ない事をしたねぇ。本当に良く化け…、いや、心配をかけさせてしまったようだね。昔を懐かしがってちょっと楽しもうかと思ったが、お子様同伴じゃ無理みたいだ。ささ、土産を上げるから、早く家にお戻り」

 そう言うと、黒漆の器になにやら詰めて紫の風呂敷に包んだ物を弥勒に差し出した。

「お銀……」
「本当に落ち着かれたんだねぇ、弥勒様。でもまぁ、またその気にでもなったらいつでも訪ねて来て下さいな。あ、ついでにこれも」

 とお銀が奥に戻り、さらに小さな包みを添えた。なにやら温かく香ばしい匂いが立ち上っている。珊瑚の鼻先がひくひくと動く。

「法師様!!」

 体半分座敷の外に出かけている珊瑚が強く弥勒の手を引く。そんな珊瑚の側に寄り、お銀が珊瑚の耳元に囁いた。

「……昔は浮気者でも、今ではすっかりつまらないお人になってしまったよ。それも、お前様のせいだろうねぇ。だから、心配しなくて良いよ。そう伝えておくれ」

 そんな感じで慌しくお銀の屋敷を出た頃には、もうすでに空には一番星が瞬き始めていた。町を出て、村に戻る道筋にあるお堂の近くに来るまで、珊瑚は弥勒の手を強く握ったまま後ろも振り返らずにどんどん歩いていった。そして ――――

「 ―― もう良い、七宝。お前のお陰で、あの場はどうにか抜け出せ。ほら、これは褒美だ」

 そう言うとお銀が後から付けてくれた小さな包みを、自分の手を握り締めている手の上に置いた。少し冷めてしまったが、ほのかに温かく香ばしい油で上げた良い匂い。

 それは、七宝の大好きな油揚げ。

 七宝は油揚げの包みを手にすると、そのままの姿でお堂の向こうの叢に入っていった。こういう好物を目の前にした時の行動は、本能が勝るのか野生の狐と変わらない。それを見送り、弥勒はお堂の中に入っていった。七宝が油揚げを食べ終わるまで、しばしの休息。

「まったく妙なめぐり合わせだな。七宝のせいで、珊瑚が狐妖怪と間違われてなければ良いが。それにしても七宝が俺と珊瑚の子というのは、どうにもな」

 苦笑いとも付かない笑みを浮かべる。
 そう、今はまだ、そんな日が来るのは夢の話。
 でもいつか、この手で掴みたい、叶えたい夢。

 俺と珊瑚と、そして俺たちの子どもと ――――

 何気に残った方の包みを解き、お銀が持たせた黒漆の器の蓋を開けた。中には小間物を扱っていると言っていただけに、香油や柘植の櫛や簪、白粉・紅などが入っていた。それもかなり極上の品、これらで珊瑚が装えばどれほど美しくなる事だろう。

 お堂の扉が開き、珊瑚が入ってきた。

「もう良いのか? ほら、お銀が土産に持たせてくれたものだ。どれも極上品だぞ」
「 ―――― ?」

 弥勒の側に来た珊瑚が、小首を傾げる。

「情けは人の為ならず。回りまわって己が為とは言うが、昔の人助けがこんな形で返って来るとはなぁ」
「昔の人助け?」

 小さくその言葉を珊瑚は繰り返す。

「ああ、そのせいで誘惑されそうになったが、お前の機転で助かった。お銀も目端の利くいっぱしの商人なんだろう。お前が化けた姿を見て、俺の相手がどんな者か気付いたらしい。似合いそうな物をさっと揃えて土産に持たせてくれたからな」
「……あたしに、土産?」
「でも、どうやって渡したものか、それが問題だな。こんな高価なものを買って帰ったとしたら、金の度出所を聞かれるだろうし、本当の事を言えば俺の浮気を疑われそうだ」
「浮気……」

 珊瑚の視線がきらりと鋭くなる。

「いや! 俺はただお銀と一緒に酒を飲んで、昔話をしただけだ。それは七宝、お前も知っているだろう!! と言うか、お前があの場から連れ出してくれたのだし」
「そう……」

 視線の冷たさが消えた。
 すい、と弥勒の手が珊瑚のしっとりとした艶のある黒髪に伸びる。手には土産に持たされた椿の花を象った紅珊瑚の簪。それを珊瑚の髪に挿してやる。

「うん、はやり珊瑚の黒髪にはその赤が良く映える。さて、本当にこれをいつ渡そうか? いっその事、祝言を挙げる時の花嫁道具として渡すか。珊瑚は喜んでくれるだろうか」
「あ、あたしはいつでも嬉しいと思うけど……」

 答えた珊瑚の頬がうっすらと桃色に染まっている。

「おいおい、七宝。そこまで成り切らなくても良い。正体はお前だと判っていても、変な気がしてくるじゃないか」

 笑いながら弥勒はその簪を黒漆の器にしまい、包みを元に戻した。

「じゃ、急いで帰ろう。珊瑚も楓様も待っているからな」
「あ、あのっっ!!」

 意気揚々と立ち上がり、お堂を出てゆく弥勒。その後に続く珊瑚の姿。
 空はすっかり宵闇に染まり、天上に星々が煌き始める。

「あれ? なんで珊瑚がここにおるんじゃ?」

 大好物の油揚げを食べ終わり、元の姿になって戻ってみれば、そこには楓の村で臥せっていた筈の珊瑚の姿。
 びっくりするほどの回復ぶりは、もともと妖怪退治屋として鍛え上げた身体である事と、戦国時代と現代とを行き来出来る犬夜叉から珊瑚の病状を聞き、かごめが持たせた薬類がとても良く利いた結果。
 加えて楓の手違いで弥勒に持たせ忘れた薬草を、元気になった珊瑚が雲母とともに町に届けに来たのが夕刻前。雲母が街道沿いのお堂の近くでみゅうみゅう鳴くので、下りて来てみたら ――――

「オラ、いつ出て行ったら良いんじゃろう?」

 変化を解いた雲母が、七宝の足元で小さくみゅぅと鳴く。

「ま、いいか。なるようになるじゃろう。勝手に勘違いしておるのは弥勒の方じゃし、オラが騙した訳じゃないからの」


 星影に、二人寄り添い歩いてゆく。
 少し離れて、小さな影二つ。


 この奇妙な時が終るのは、さていつの事であろうか。
 それまでは、この幸せな夢を二人で ――――


【終】
2009.11.2




= あとがき =

書き始めから書き終わりまで、かなり間が開いてしまったので、この話を書く「勘」のようなものを取り戻すのに時間が掛かってしまいました。
元ネタは夢ネタの不思議系なのですが、全然夢ネタでもないし不思議系でもないと言う…^_^;
難しいですね、元ネタを完全に消化して二次創作するのって。
勝手に違う方向に行きそうになるのを、頑張って押さえ込んで見ました。






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