【 道  標 ーみちしるべ− 】  … 井戸端草紙 れっかぽん様






 押し当てた掌から、陽光に暖められた木肌のごつごつとした感触が伝わってきた。
 仰ぎ見た大樹は四方に枝を張り巡らせ、淡い色を滲ませる若葉の隙間から穏やかな木漏れ日をちらちらと踊らせている。
 微かに響く自動車の音、線路を走る列車の音。小鳥のさえずりに似せた信号機の歌声が、耳に優しい。
 軽く息を吐くと、俺は背負っていたナップサックを揺すり上げ、ざっと衣服の埃を払った。一張羅と言うには憚りのある、洗いざらしのジーパンにTシャツと木綿のジャケット。ジーパンの膝には、飾りではない穴と擦り切れ。その先に覗くスニーカーも、くたびれてあちこちが綻びている。
 一世一代の挨拶に赴くというのに我ながら酷い格好だとは思うのだが、これしかないのだから仕様があるまい。それに俺の記憶が確かならば、これから会う面々は俺の服装などには頓着したりしないだろう……何しろ最初に会った時は、時代がかった火鼠の衣に白髪犬耳と、これよりももっとぶっ飛んだ格好だった筈なのだから。
 ここまで考えをめぐらせたところで、思わず苦笑がこみ上げてきた。今更ながらの服装チェックは、土壇場の今になってぐずぐずと行動を先延ばしにしたがっている、自分の思い切りの悪さが表れたものだと判っているから。
 しっかりしろよ、と心の中で自分を叱咤し、顔をぐっと上げる。それと同時に、広場の向こうからゆっくりと石段を登ってくる複数の足音が聞こえてきた。
 一つの足音は力強く軽快だが、もう一つは一歩一歩が掠れ気味な上に、合間に硬い木が石をこつりこつりと打ち付ける音が混ざっている。恐らくは、これから訪れる家の家主とその孫息子だろう。
 かつて会っていた頃の二人の姿を瞼裏に思い描き、その彼らと今聞こえる足音との齟齬に、またもや感慨がこみ上げる。あの頃は、爺いは老人ながらもかくしゃくとしていたし、草太はまだほんの子供だった。この土地でも、時間はそれなりに流れているのだ。
 俺は拳を固め、くるりときびすを返した。大樹を背にし、玉砂利の敷き詰められた広場に目を向ける。遠く離れた鳥居の下から、少しずつ二人の声が近づいてきた。


**********


 爺いと草太は、最初俺の正体に全く気づかず、単なる参拝者とでも思っていたようだ。
 目の前まで近づいたところで、草太が初めて俺に目を向けて、怪訝そうにどちら様ですかと聞いた。その声は変声期も半ばの掠れたものだったが、子供の頃の面影は未だに色濃く残っている。爺いはすっかり老け込んで杖に体重を預けている様子だったが、こちらの方が孫よりも察しが早かった。

「犬のボウズか」
「おう……いや、はい。久しぶりだな……です」
「なんじゃい、今更改まって。草太、犬のボウズじゃ……ママさんに伝えて来い」
「え……犬の、兄ちゃん?」

 まじまじと見上げてくる目線が、不審者を見る無機質なものから、ぱあっと色を変えた。
 慣れぬ敬語に格闘する俺の腕を親しみ深く握り、咳き込むように本当に兄ちゃんなのかとたずねてくる。
 応と頷き、俺は自らにかけた変化を解いてみせた。見る間に伸びて背を覆った白髪と、指先に生じた鋭い爪。
 服装こそ変化はないが、容姿は昔とあまり変わらない半妖の姿だ。人間世界で生きていくために変化の術を身につけてから、ずっとこの姿に戻ったことはなかった。今は、なんだかこの姿の方が面映い心地がする。
 顔中をくしゃくしゃにしながら、爺いが再び草太の肘を引く。茫然自失の状態から漸くさめた草太は、転がるように走り出し後ろを振り返り振り返り母屋に駆け込んでいった。ママーと叫ぶ声が、獣と化した耳に届く。
 爺いに促されて母屋の玄関についた頃には、草太と並んだかごめのお袋さんが目に涙を一杯に溜めて俺達を迎えていた。

「犬夜叉くん……」
「え……と、お久しぶり、です」

 ぺこりと一つお辞儀をすると、立派になってと涙声が返ってくる。かごめのお袋さんも以前会った頃より少し老けて見えたが、ふわりと笑う顔は驚くほどに記憶の中のかごめと似ていた。

「兎に角、入って頂戴。 お爺ちゃんと草太も、さあ……」

 そう言いながら、お袋さんの目線がきょろきょろと俺の背後を探る。俺は軽く口端を持ち上げて、俺独りですよ、と囁くように言った。

「そう……そうよね、当たり前よね……」

 そう呟き俯くお袋さんの横で、爺いが大きく鼻をすすった。


**********


 日暮家の食卓に、色とりどりの料理が所狭しと並べられた。有り合わせでごめんなさいねとお袋さんは謙遜するが、どの料理も味わい深くどこか懐かしい。
 爺いは晩酌をちびちびやりながら、普段俺が何をしているのかまともな物を食べているのかと聞いてくる。草太も俺と競うように丼飯を掻きこみながら、興味津々の様子で耳をそばだてていた。
 特に変わったことはしていない。昔のように人を苦しめる妖怪がいなくなったので、もう妖怪と戦ったり退治したりといったことはしていなかった。
 各地を転々とし、日雇いで生活の糧を稼ぐ日々。力仕事などでは重宝されるが、近頃は不況の影響もあり職は少ない。殆ど年を取らないので一つ所に長く住むことが出来ないのは不自由だが、しがらみが少ないのは気楽でもある……。
 晩御飯が終わるまでに、そんな事をぽつぽつと語った。この頃には取ってつけたような敬語も抜け、俺はすっかり昔のままの口調に戻ってしまっていた。

「妖怪はもういないの?」

 お茶の入った湯飲みを手に、草太が視線を向けてきた。こいつは昔、かごめと一緒に現代に現れた妖怪から逃げ回ったことがある。
 俺は肩を竦めて、食堂の壁に目をやった。

「前は偶にちっこいのを見かけたりしたんだが、最近は殆ど見ないな 人里離れた山奥にでも逃げ込んでいるのかもしれないし、俺みたいに人に紛れて生き延びている奴や土地神にでもなって祭られているのも少しはいるかもしれねえがな」
「じゃあ……ずっと独りだったのね」

 ぽつりと落ちた声の方向に目を向ける。お袋さんの悲しげな顔が、俺を真っ直ぐに見つめていた。

「……独りではあったけど、別に独りっきりで閉じこもっていた訳でもねえから」

 穏やかに応えながら、胸の中で五百年の旅路を振り返る。
 世話になった家で、働いた現場で。ふと乗り合わせた電車の座席、蒸し暑い壕の中。焼夷弾から逃げ惑う町の小路、ダンボールハウスの屋根の下……。
 糸のように細く儚いものではあったけれど、長い旅の中で俺はいつも誰かと繋がっていた。時には裏切られ一方的に断ち切られることもあったが、それらを差し引いても俺の過ごした五百年は豊かなものであったと思う。

「……それを教えてくれたのは、かごめだ」

 人を信じる心を、誰かの為に流す涙や笑顔、差し伸べる手の暖かさ……全てかごめが教えてくれた。
 たった独りでは、とても五百年の時を超えて、ここまでたどり着くことは出来なかっただろう。
 かごめの名前が出た途端、食卓の空気が変わった。お袋さんが両手で口元を抑え、草太がその肩にそっと手を添える。爺いが勢い良く酒をあおり、ぐい飲みをダンと食卓に打ち付ける。
 沈黙が落ちる中、俺はおもむろにジャケットの懐を探った。手に触れたものを一瞬強く握り締め、そのまま取り出す。

「今日ここに来たのは、他にも目的がある」

 ……これを、と、続けながら広げた手の中に、家族の視線が集まった。
 出てきたものは、赤ん坊の拳ほどの布包み。薄汚れ綻びかけた紺色の絣布に、ぎちぎちと幾重にも紐が巻きつけられている。

「これは?」

 草太が恐る恐る包みに指を伸ばしながら、俺の顔を覗き込んだ。後の二人は身動ぎもせず、俺の手を凝視している。

「かごめの……遺髪だ」
「……っ」

 包みに触れかけていた指先が、電流を帯びたように跳ねる。俺は包みをテーブルの上に置き、そっと押しやった。お袋さんがそれを両手で取り上げ、胸元でぎゅっと握り締める。

「ずっと……あなたが持っていてくれたの?」

 小さくたずねる声に、無言で頷く。

「これを私たちの元に届けるのは……かごめの遺志?」

 その問いには、ゆっくりと頭を振った。恐らくかごめは、俺が再び自分の家族と会うことすら、考えてはいなかっただろう。
 ――もしも、その時代まで生き延びることができたなら。
 それは、俺が己に課した使命だった。目的も何もなく生きるには、五百年は途方もなく永い。
 これまで肌身離さず持ち歩いてきた、唯一の形見。それを手放すのは身を切られるような思いだったが、同時にこれで良いという達成感のようなものもある。

「これは純粋に、俺の意思だ。俺はずっとお前達に謝りたいと思っていた……だから」

 テーブル越しに、深々と頭を下げる。

「大事な家族を奪ってしまって、すまない」
「……」

 伏せた頭頂に、強い視線を感じる。皆が口を閉ざした中、そっと椅子を引く音がやけに大きく耳を突いた。続いて、肩にふわりと掌が添えられる。

「謝らないで」

 よしよし……と、そんな声が聞こえそうな柔らかさで俺の肩を擦る手から、懐かしい匂いが鼻腔に届いた。続いて、草太ののんびりとした声。

「姉ちゃんはね、自分の意思で兄ちゃんの所に行ったんだぜ」

 顔を上げ走らせた視線の先で、椅子を後ろに傾け後頭部で腕を組んだ草太が俺を真っ直ぐに見返している。その隣では、爺いもうんうんと大きく頷いていた。

「一度こうと決めたが最後、誰もあの姉ちゃんを止められるわけないだろう? もしも姉ちゃんが兄ちゃんから逃げ出す気になったら、きっと無理やり井戸をこじ開けてこっちに帰って来るだろうしな」

(……そうかもしれないな)

 あのかごめならば、きっとそうしただろう。本来ならば、役目を果たし終え本来の世界に留まる運命だった筈の己を、願い一つで戦国に送った彼女ならば。

 でも……それでも、残された者の想いは。

「私達の中ではね」

 黙り込む俺の肩越しに、静かな声が届く。

「かごめは、遠くにお嫁に行ったばかりなの。今頃はきっと、慣れない家事に悪戦苦闘しながら犬夜叉くんと家庭を築いている真っ最中なんだろうな……って、いつも家族で話しているのよ」
「……お袋さん?」
「だって、そうなんでしょう? あの井戸を隔てたここと向こうは、時間も同じ速さで過ぎているって、かごめから聞いたわ」

 だから、今はかごめが嫁いでからまだ一年も経っていないのよね……振り返った俺の顔を、揺ぎ無い瞳が見返していた。

「……ああ、そうだな……」

 すとんと、胸に落ちてきた。ここに並ぶ者達の、強い信念が。
 俺の辿ってきた五百年も、確かな時の流れではある。
 だが、ここ――日暮神社には、枯れ井戸の向こうで穏やかに流れる時間も、確かに存在しているのだ。

「だから、これは」

 卓上に置かれていた俺の手に、お袋さんの手がそっと重ねられる。渡された包みから、かごめの匂いに良く似た彼女の移り香が、淡く届いた。

「いつか……その時が来たら、あらためて私達に渡して頂戴」

 ね……と囁きながら、両手で包むように俺の指を握らせる細い指が、微かな震えを伝えてくる。
 判っているのだ……彼女も彼らも、真実がどこにあるのかは。その上で尚、夢想し続ける。手の届かぬ国に旅立った、家族の幸せを。

(参ったな)

 流石は、あのかごめの家族だ……しなやかな強さを内に秘め、どこまでも前向きで。

「判ったよ」

 馴染んだ手触りをいとおしむように指腹で一撫でし、俺は包みを懐に収めた。一つ息を吐き、ささやくように告げる。

「じゃあ、いつか……その時に」

 ――いつか、その時に。

 懐の奥の定位置に収まった重さに、ほっとした自分がいた。俺の口にした『いつか』を知らぬ家族達は、早々と話題を切り替え、五百年前の『今の暮らし』をそれぞれ口に上らせる。
 病気はしていないか、生活に不自由はないか、夫婦ケンカはどちらが勝つのか……離れて暮らす家族を案ずる疑問の全てに、俺は真剣に訥々と答えていった。
 三人の声が呼び水のように、俺の記憶を引き出してゆく。いつしか、俺自身もあの頃の己に戻っていた。湯飲み茶碗がいつしか大振りの杯に変わり、あちこちに迷走する爺いの説教を酔い半分に傾聴し、湯を貰い床を延べられ……。
 ふんわりと懐かしい匂いの充満する部屋の天井に眼を向け、俺は枕元に乱雑に丸められた衣服の山から手探りで上着の隠しを探した。
 手の中に包んだ守り袋からは、もう何の匂いも感じられない。

「なあ……かごめ」

 鼻下に押し当てた布包みに、そっと囁きかける。

「もう少し……もう少しだけ、待っていてくれないか?」

 そう……あと、もう少しだけ。この暖かな家族に、改めてこの守り袋を託す日まで。
 それまで、もう少しだけ。 俺の旅に付き合ってくれ……かごめ。


**********


 うっすらと開いた目に飛び込んできたのは、隙間だらけの屋根から零れる日差しだった。
 寄りかかった板壁は黴臭く、破れた床板のそこかしこから雑草が丈高く伸びている。
 身に纏っているのは、古びた小袖と袴。後頭部で一つに括られた髪は黒く、幾度も瞬いた目の色も黒い。
 人に化ける術も大分様になり、市井に紛れ込んで目立たぬように生きている今日この頃。こんな廃屋で目を覚ますことは絶えてなかった……筈なのだが。
 暫くの間、現実感を取り戻すのに苦労した。かごめの家族と会ってからの全ては夢だったと理性は諭すのに、体中にこびりついた感覚がそれに逆らって足掻くのだ。

「……大体何だよ。 ダン……なんとかってのは」

 無意識に、ぼやき声が口を付く。口に出すと、ますます違和感がこみ上げた。つい語尾を濁したが、単語ははっきりと頭の中に残っている。

 ダンボールハウス。

 それが家を持たぬ人間が仮に住まう簡易な家を表す言葉だということも、その中の寝心地もカップ酒の味もそれをくれたオッサンの熟柿のような息の匂いも、何もかも。
 夢の中の自分が辿ってきた暮らしの背景は、今の自分の全く知らないものだ。着ていた服も、その昔井戸を自在に出入りした折に、他人の衣装として目にしたこともあるかもしれないが、自分が袖を通したことはない筈なのに。
 腕に足に絡みつく衣服の感触を振り払うように勢い良く立ち上がると、己の体から酒の濃い匂いが立ちのぼった。口を切った大徳利が足元に幾つも転がり、床板にも酒臭い染みが残っている。
 半妖の回復力の賜物か頭にも体にも酒精は残っていないが、同じくらい前夜の記憶もぶっ飛んでいるのはお笑い種だ。懐に仕舞い込んでいた財布の軽さから、これらの酒を正当な手段で手に入れたことは間違いないのだが。
 もっともそれを買い込んだときの己の心境を慮ると、酒屋の主人に銭金以外の被害をもたらした可能性が無きにしも非ずといったところか。
 ……と、ここまで考えたところで、昨夜まで自分が抱え込んでいた筈の鬱屈が綺麗さっぱり抜け落ちていることに気がついた。同時に直前まではっきりと覚えていた筈の夢の内容が、酷く曖昧になってきていることにも。

「ダン……だん。 ん……と、何だったかな……?」

 足元の酒徳利を拾い上げながら、先刻口にしたばかりの単語を舌の上で探ってみる。
 だが、最早言葉を形作る音はおぼろに霞み、耳の中に蘇ってくることはない。ただ、かごめの家族と話をしたという夢の記憶、それだけがくっきりとした輪郭を心の中に残すばかりで。

「なあ……かごめ」

 懐から取り出した布包みを鼻下に押し当てると、ほんの微かな残り香が感じ取れる。 もう、俺の鼻でしか嗅ぎ取ることは出来ない、本当に微かな匂いだったが。
 それが寂しくて辛くて、果ての無い旅路が空しくて、俺は時々酒に逃げる事を覚えてしまった。昨夜も恐らくは、気持ちをどん底まで落ち込ませてしまったのだろう……そして、独り手酌を傾けて。

「なあ……かごめ」

 破れ板の隙間から覗く青空に、目を向ける。神気とも霊力とも、縁の無い身だ。己一人の能力で、あの世の使いだの幽霊だのといった曖昧な存在を感じ取れたためしなど無い。
 だが、かごめならば。
 その存在自体が奇跡を体現していた彼女ならば、もしかしたら。

「夢を見せたのは、お前か?」

 時を越える奇跡を、俺に見せてくれたのは。道を見失いかけていた俺を叱咤し、希望を与えてくれたのは――。
 呟きに応える声はなかったが、それでも構わないと思った。かごめが自分を今も見守っていてくれる……それを感じ取ることが出来たのだから。

「まだまだ長い道のりだけどな……暫くの間、付き合ってくれよ」

 決意を新たに、ボロ小屋の戸口を潜り抜けた。擦り切れた袴の腰に愛刀を差し、左手に酒瓶を持ち懐に右手を差込んだ気軽な姿で、ぶらりと足を踏み出す。
 木漏れ日の落ちる山道の向こうに眼を向け、俺は深々と息を吸い込んだ――。


【終】
2009.9.4拝領






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