【 身も心も −殺りん− 】 sumi様…未完です



「あたしが自分で帰るから… 殺生丸さま」

あの日、りんはそう言った。

「しかし……」

しぶる自分を安心させるように、それでいて譲らない真直ぐな瞳で彼女は繰り返した。

「迎えに来てもらうんじゃなく、あたしが自分の力で殺生丸さまのもとへ帰りたいの。お願いです―」






お世話になった里の人たちに、会いに行きたいとりんが言ったのは秋の始めだった。
殺生丸について遠いところへ旅立つ前に、旧知の巫女や法師たちに暇を告げたいのだと彼女は言った。りんにとって人里は、そう思い入れのあるところではなかったが、彷徨の途中で出会い、折々によくしてもらった彼らは、りんにとって大切な友人だった。

「これから、会いたくなっても早々に会いに行くわけにいかないから……」

その言葉の意味に自ら頬を染めて、りんは言った。
確かに、自分がりんを連れて行こうというのは人間にしてみれば想像がつかないほど遠い処だ。
だが、妖怪の自分にとっては容易い距離である。
しかし、りんが言っているのは、そんな物理的な距離のことではないのだ。
りんが自分に付いて行こうとしている処は、ひとが住まう場所ではない。
かつて、その地に足を踏み入れた人間はいなかった。
父である闘牙王は、犬夜叉の母である十六夜姫の元へ通い、ついに彼女をこの地に迎えることは叶わなかったと聞く。
だが、私は彼女を伴って帰るのだ。
それは殺生丸にとって凱旋でもあった…。だが、りんにとってはどうであろうか?
りんは、ひとの世を捨てることになるのだ。
もちろん、彼女が行きたいといえばいつでも人間界に連れて行ってやるつもりだった。
だがそれは「帰る」ということではなく、「訪ねる」ということである。
りんは彼女なりに決意をもって、自分とかの地に骨を埋めることを決めたのだ。
「早々に会いに行くわけにはいかない」というのは彼女のけなげな決心であり、そんな彼女を愛しく、そして哀れに思う自分だからこそ、ゆっくりと滞在してくるようにと殺生丸は言ったのだ。
だが、その後のりんの言葉は意外だった。
迎えはいらない、自分で貴方の元に戻るとりんは言った。
戻って、そして一緒にかの地に旅立とうと…。

「此処で、待っていてください。殺生丸さま。りんはきっと自分で貴方のもとへ戻ります。」
「だが…」
「りんが戻るのは殺生丸さまの処しかないもの。だから……」

そう言って、りんは笑った。



その夜の月は、下弦に細く欠けていた。
りんが子どもの頃から、いつも「殺生丸さまの月」と呼んでいた、その月の夜に、りんは出立を決めた。

「空で、殺生丸さまが見ててくれるみたい」

そう言って無邪気に笑ったりんは、自分で決めたしばしの別離ながら、やはり寂しさは隠せないようだった。
殺生丸はと言えば…、普段わがままを言わないりんだからこそどんなことでも心よく受けてやりたかったが、今度ばかりは苦い顔をし続けていた。
―迎えには来ないで、自分で貴方の元に戻るから。
りんはそう言った。
彼女の気持ちはわからないではない。
だが、殺生丸はりんの澄みきった真直ぐな瞳に胸騒ぎがしてならなかった。
真摯なその想いが怖いとさえ感じた。
人間とは、このように思いつめた目をするものなのか。
その生命力の弱さを補って余りある情熱は何処から湧いてくるのだろう。
時として死をも厭わないような、その溢れる想いは、彼らが凝縮された生を生きているからなのか。
妖怪である自分から見れば儚い命に、不釣合いな熱い感情のうねり。
殺生丸は、その不均衡さを併せ持つりんが怖かった。
この世に怖いものなど無かった私が……。
殺生丸は含み笑いで、その不安な気持ちを誤魔化していた。




「殺生丸さまとりんが出会った、あの森で待っていてほしいの」りんは言った。
「そうだな」

殺生丸は渋々と答えたが、その場所を新たな旅立ちの拠点に選んだりんの気持ちを嬉しく思った。

「次の、殺生丸さまの月の夜に……」
「…ああ」

暫しの別離は、あっけないほど簡単に始まろうとしていた。
りんが逗留する、巫女の楓の村の入り口に犬夜叉とかごめが迎えに来ていた。
手を振る二人に向って、りんは意を決したように殺生丸に背を向けて歩き出す。
そうしないと泣き出してしまって、せっかく自分が決めたことにくじけてしまいそうだったから…
だったのだが、その、りんの素っ気無い後ろ姿は、りんが自分から離れて行くという実感が湧かずに呆けていた殺生丸を突き動かすに充分だった。
りんが行ってしまう!途端に、彼を先ほどの恐怖が襲った。

「りん!」

自分に背を向けた上に、このような恐怖感を抱かせたりんに対して怒りさえ感じながら、殺生丸は彼女の腕を乱暴に掴み、自分の胸に抱え込む。
感情にまかせて唇をおしつけた殺生丸に、りんは戸惑いながら応え…
おずおずとその唇を開いた。
舌と舌が触れる。
しばらくは共有できない、その甘く狂おしい感触を貪るかのように、二人は抱き合っていた。
いい加減にしろよ、と犬夜叉の舌打ちが聞こえたが、殺生丸は気にとめなかった。




その、人里での暫しの滞在は、りんにとって心安らぐひと時だった。
旧知の彼らは、いつも変わらず優しくて温かで、まるでりんがずっとそこに居たかのように彼女の居場所がいつでも用意されているのだ。
―けれど、ここには殺生丸さまは居ない。
皆の優しさを涙が出るほど嬉しく思いながらも、あるべきもののない空虚さを、りんは身を切られるように思い知った。
思えば、彼とこんなに長い間…
とはいっても、せいぜい月の満ち欠けが一巡りするほどの間なのだが―離れて暮らしたことがない。
滞在の期限が近づくにつれ、殺生丸のもとに戻る日が近づくにつれ、りんは自分が燃え尽きて、翔けていってしまいそうな衝動に駆られるのだった。
身も心も、彼の元へと。


「なあ、やっぱり俺が最後まで送って行ってやるからよ」

犬夜叉は、背中のりんに向って呼びかけた。かごめ以外の女を背負うなぞ、ここ何年も考えもしないことだったが、りんは犬夜叉にとって大切なあずかり物だ。
皆が彼女を歓待し、打ち解けることにもちろん異論などないが、それでも彼にとって、りんは旧知の仲間である前に、殺生丸の大事な大事な女だった。

「おまえに何かあったら、あいつに引き裂かれるくらいじゃすまねえんだよ」

自分の保身を延べているようでいて、それでも相手に対する気遣いが溢れている、
犬夜叉のそんな物言いが、りんは好きだった。
だから思わず微笑んで、言った。

「今回は、どうしてもあたしの力で殺生丸さまの元へ戻りたいの。ううん、戻るって決めたの」

顔は微笑んでいても、その口調には相手に有無を言わさぬ強さがある。

「……わかったよ」

犬夜叉は渋々言った。あいつのことだ、例の森の近くへ行けば、りんに危険が及ばないように結界くらい張ってるだろう……
あいにく自分にはそういった力はないが、森の近くまで送ってやることはできる。
まだ日は高い。
森に潜む、邪悪な妖や人間たちが蠢き始めるのは、日が黄昏始める頃だ。
りんが、殺生丸の待つ域に無事に帰り付けるまで、自分はここで彼女の匂いを辿っていよう。
そう決めて、犬夜叉は森の手前でりんを背から下ろした。
りんは、何度も何度も振り返って手を振り、彼が待つ森へと向って歩いて行った。



だが、ある地点から、彼女の匂いがふっつりと途絶えた。
その、あまりの唐突さに犬夜叉は動揺を隠せない。
途絶えた……いや違う。かき消えたのだ。
何者かが、りんの匂いや気配をそこから切り取ってしまったような感覚だった。
―殺生丸の結界に入ったのか?
いや、何かが違うと犬夜叉は感じた。その気配のなさが、帰って禍々しく感じられて仕方なかった。




「りん!」

その声が相手に届くはずがないとわかっていながらも、犬夜叉は呼びかけずにいられなかった。
「りん!何処行った!りん!」

どうしようもない胸騒ぎを誤魔化すように、犬夜叉はりんの名を呼び続けた。



顔に何か、冷たいものが触れた感覚がして、りんは目を覚ました。
辺りは薄暗い。
やだ…あたし、途中で寝ちゃったんだろうか?
犬夜叉さんと別れたときは、まだ明るかったのに、もう夕方なんだろうか…
まだ覚めきらずに、ぼんやりとした頭を抱えて、りんはその場に起き上がった。
―何だろう?誰かがずっと、あたしを呼んでたような気がする……
薄暗がりに目が慣れてくると、自分のいる此処が、どうやら古寺らしいということがわかってきた。
―何故?何故こんな所に?
自分の置かれている場の不自然さに、りんは恐怖を覚えた。
あたしは、犬夜叉さんと別れて、森に向って歩いていたはずだ。
もしかしたら、何者かにここに連れて来られたんだろうか?
りんは、恐る恐る、自分の体を確かめた。着物の着付け具合や髪の乱れもなくどうやら無体なことをされた様子はなかった。
安堵してほうっと息をついた時、部屋の隅で人影らしきものが動き、りんは再び身構えた。



「よかった。気がついたんだな」

それは、聞き覚えのある声だった。

「琥珀!」

りんは、心底驚いた。

「どうしてこんなところに…」

弥勒と珊瑚の処に滞在していた間も、琥珀は留守だった。
隣の里へ奉公に出ているのだと聞いたが、実はりんは琥珀の不在にほっとしていたのだった。
彼はずっと、りんにとって懐かしい昔馴染みには違いなかったのだが、いつの頃からだろう、彼の自分を見る目に疑いようのない熱が篭るようになり……
初心なりんにも解かるほどにまっすぐなそれは、りんを戸惑わせ、息苦しくさせた。
だが、実際どうしようもなかった……自分はもう、殺生丸しか考えられなかったのだから。

「足を滑らせて、獣を生け捕る穴に落ちたんだ…通りかかってよかったよ。頭を打ったみたいなんで、冷やしてたんだけど」

りんのそんな思いを知ってか知らずか、琥珀は淡々と状況を説明していた。
―では、先ほど冷たいと感じたあれは、頭を冷やしていた布だったのか。
状況が飲み込めてきたりんは、居住まいを正して、改めて琥珀に向き直った。

「ありがとう」
「うん」
「あのね、琥珀…」

何か言わなくちゃという思いに駆られて、りんは言葉を探した。
琥珀と二人で、沈黙の中にいるのは耐えられないとりんは思った。




りんは、琥珀に喋り続けた。
それはもう、自分自身いやになるくらい中味のないことばかりで、彼女自身話題を紡ぐのに疲れ果てていたが、自分たちの間に沈黙が訪れるよりはましだった。
一方琥珀は、りんの言葉の渦に適当に巻き込まれながら、適度に相槌を打ち、適度に自分の言葉をさしはさんだ。
それは、文句のつけようのない反応で、りんにとって非常にありがたかったはずだった…
だが、その様子に、りんはかえって違和感を覚えた。

琥珀って、こんなに大人しかっただろうか?


以前、まだお互いが子どもの頃、二人はこうして他愛のない会話を楽しんだものだった。
りんが殺生丸のことばかり話すと、彼は自分にも話させろとばかりに少年らしく拗ねてみせた。
いつしか、それ自体が重くなってしまって、りんは彼から逃げるようになったのだが…
その頃から培われてきた、自分と琥珀の間に流れる空気感が何か違うのだ。
幼なじみの懐かしい空気が、ちくちくした棘を含んだ息苦しさに変わっても…
一方でずっと変わらなかったものがあったはずなのに。
自分を包む、琥珀の雰囲気はりんが長い時間かけて体感してきたものであり、それは、殺生丸とも邪見とも違う、固有の空気感とも言うべきものだった。


「どうした、りん」

不意に黙り込んだりんの顔を琥珀が覗き込んだ。

「頭が痛むのか?」

目の前にいる、琥珀の姿かたちをした生き物は琥珀の声で言った。
ううん。
声には出さず、りんは首を振った。


違う。
違う。
琥珀じゃない。


「少し話しすぎたんだ。横になるといい」

彼は、りんの腰に手を回す。
横向きに抱きかかえられながら、りんははっきりと悟った。


違う。
琥珀は、あたしに触れない。
絶対に、触れない。
触れないから、あんなにせつない目をしてたんだー






「ひとの心を縛ることはできないからね」

いつだったか、珊瑚が言った。

「でも、あたしは琥珀が可愛いから、せめてわかってやって欲しいと思うよ。琥珀がどんなに…自分を抑えてるかってことをね」

わかってる。
わかってるよ、珊瑚さん。
だから、今あたしに触れてるのは琥珀じゃない。



「琥珀じゃない」



りんは言った。


「あんたは…誰?」




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…このお話はここまでで、作者多忙の為更新目処がついていません。
とても残念なことなのですが、現状のままサイトにUPしています。







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