【 邂 逅 】 … 井戸端草紙 れっかぽん様
山奥に眠る廃屋の上を、飛沫のような雨が絶え間なく濡らし続けていた。
元は物好きな貴族の別荘か何かだったのだろう。 廃屋の大半は崩れ朽ちていたが、豪壮な建物だったらしき痕跡が僅かに残っていた。
破れ放題の板屋根は、雨露を凌ぐ役にはまるで立っていない。 晴れた宵には大穴のそこかしこから月や星を見ることが出来るのだろうが、生憎空は分厚い雨雲の向こうにひっそりと形を潜めている。
尤も、たとえ雲が無くとも、今宵の月を拝むことは誰にも出来はしなかっただろうが。
さて、その廃屋の母屋からほんの僅か離れた一角に、闇を透かして蹲る男の影があった。
二十歳には僅かに足りぬ頃合いか。 ゆったりした衣を纏い古びた刀を肩で支え、一見油断無く中腰を保っているように見える。
だが、ぼろぼろの壁板に持たせ掛けた肩は不自然に落ち、その上にもたげなければならないはずの首もぐったりと項垂れている所がおかしい。
手も足も、あるか無きかの風に踊る雨粒にさえ耐え難い責め苦を負わされているかのように、もうずっと動く気配がなかった。
ざんばらに乱れた黒髪が、暗紅色の衣を纏った肩を越えて腐り放題の板床に渦模様を描いている。
ささくれ立った床板に彩りを与えているもう一つは、座り込んでいる体の下からじわじわと滲み出ている錆色だった。
男は酷い怪我を負っていたのだ。
今から二刻ほど前、男は数人の野盗に追われた末に偶然この建物へとたどり着いた。
折から湧きだしていた霧に重なり、宵闇が近く迫っていた。 男は逃げ道を探る目を塞がれつつあることに焦っていたが、今宵の霧は彼に味方したことになる。
山を己の庭のように見なしていた野盗達さえも、この荒天に方向感覚を狂わされたのだから。
野盗達はそれでも暫くの間は執念深く男を探し続けたが、見交わす互いの顔さえも定かにならぬ濃霧ではどうしようもない。 遠ざかる馬蹄の音を確認すると、男はほっと息を吐き、そのまま崩れるように暫しの眠りを貪ったのである。
……と、そこまでは良かったのだが。
運が悪いことに、夜が更けるにつれて霧は雨に転じた。 男が寒さに目覚めたときは既に遅く、びっしょりと濡れた体からは血液と共に残り乏しかった体力までもごっそりと奪われ尽くしてしまったのだ。
男にはもう、雨を凌げる場所を探し出す気力も、流れ続ける血を止める力さえも無い。 火の気一つない闇の中、暁暗の光だけが彼に残される唯一の希望だった。
だが夜明けは未だ遠く、対して彼の生命力はまるで燃え尽きる寸前の蝋燭のように、ゆらゆらと頼りなく揺れている。
浅い息が白い靄となって、薄く開いた唇から大儀そうに零れていた。
どこからか現れた一匹の蜥蜴が男のやはり暗紅色をした袴の上をちょろりと過ぎるが、やはり指先一つ動かす様子もない。
ただ一つ、細く長い息を吐いたのが、反応といえるかどうか――。
と、その時。
蜥蜴がちらりと頭を上げ、そのまま素早く逃げ去った。
呼応するように男の瞼が震え、うっすらと開く。
茫洋と霞んでいた瞳が、一瞬のうちに狂暴な光を帯びた。
「――っ!」
刀の鯉口を切ろうとして、しかし男の腕には全く力が入らなかった。 それどころか辛うじて保っていた姿勢が崩れ、不様な格好で横倒しになる。
横たわった男は唇を噛みしめながら、せめて己にとどめを刺す相手の姿を焼き付けようと目を凝らした――だが。
彼の前に姿を現した者は、自分を追ってきた凶悪な野盗でも夜に活動する獣でもなかった。
蓑と笠で身を固めた小柄な女が、手燭の向こうからまじまじと男を見下ろしていたのだ。
三十路にはやや足りない頃合いだろうか。
手にした灯りに照らし出された顔はふっくらと白く、分厚い蓑の下から覗く着衣も一目で上等の品だと見て取れる。
どこをとっても、こんな場所には似つかわしくない。
もしや旅人を誑かす妖怪変化の類だろうかと男の警戒心はいや増すが、しかし女から殺気はまったく感じられなかった。
「あ、眩しかった?」
眼を瞬かせた男に気づき、女は突き出していた手燭を慌てて引っ込めた。 ついで小首を傾げながら、男の全身を観察する。 赤黒く光を弾く腹の辺りに目をやった瞬間、その切れ長の目がまん丸に広がった。
「やだ……凄い出血。 ねえ、あんた怪我してるの?」
「……みりゃあ、判るだろ?」
男はぼそりと悪態を返すが、声が小さすぎて届かなかったようだ。
女は地面に燭台を置くと、無造作に彼の前に屈み込む。
「お……おいっ」
今度の声は、流石に耳に届いたようだ……が、女はちらりと上目で男を見やったきり、再び視線を腹に落とした。 両腕が水干の袷に伸びて無遠慮に広げられた瞬間、傷口を擦られる痛みに男の口から呻き声が零れる。
「く……っ」
「うわ……痛そう」
女は顔を顰めると、隠しから竹筒を取りだしその中身を遠慮会釈無く傷口に振りかけた。
液体の正体は只の水だったが、傷を洗われる激痛に男は声も出ない。
「ちゃんと手当しないと大変な事になるんだから、もう一寸我慢してね」
声と被さるように、今度は布を裂く音が響く。 女の着ていた小袖の裾が大きく破かれ、布きれに変じた。
女は更に細く布を引き裂くと、たおやかな見かけにそぐわない荒っぽい手つきで血染めの腹に巻き付ける。
血止めの為にと男の息が出来ぬほどに強く締め上げ、女は続けて隠しから何かの丸薬を取りだした。
「万能薬よ。 飲んで」
「……要らねえ」
「言うこと聞かない我が儘な子供には、鼻を抓んで無理矢理飲ましてあげようか。それとも口移しが良い?」
「な……っ」
あやすような物言いに思わず男が口を開けると、すかさずそこに薬を放り込まれた。
痺れるような苦みに、男の口元が大きく歪む。
「……不味い」
「一寸不味いけど良ーく効くのよ。まだ苦いんだったら、口直しにこの水を呑む?」
次に女の差し出した竹筒を、男は今度は素直に受けとった。 喉を通る水は清らかに甘い。
ふうと一息吐いたところで、男は自分を凝視し続ける女の視線に気がついた。
こんなに近く他人を――しかも多少薹が立っているとはいえ、女を近づけるのは久しく無いことだ。
「……何だよ」
決まり悪げに視線を逸らす男に対し、女の方は全く動じる気配もない。
「ふふ……。 こうして知らない人とお話しするのって、もの凄ーく久しぶりだなって」
にこにこと笑いかける女の表情は、年に似合わず大層若い。 それどころか恥じらいや慎みという仮面を纏っていないだけに、幼いという言葉の方が近い程だ。
男はますます面食らうと、知らず熱くなる頬を薄笑いで誤魔化した。
「知らない男と話せないって、亭主に家の中にしまい込まれているってか?」
「まあ……!」
女は弾かれたように顔を上げ、視線をうろうろと彷徨わせた。 まるで今の会話が誰かの耳にはいることを恐れるかのように。
「あたしがあのお方の妻なんて……恐れ多いわ。ただ、あのお方にお側に付き従って身の回りのお世話が出来る、それだけでも身に余る果報なんだもの」
(つまり、この女は誰かの囲い者というわけか)
権に身を置く男や財を持つ男は、定まった妻の他に幾人もの愛妾を持つのが当然の時代だ。
血なまぐさい戦場にさえ女を引きつれて臨む武将も居ると聞くし、戦に荒れた地を憂いて転地に及ぶ金持ちは、己の側妻を持ち運びの効く財産として携える。
そう思い合わせると、この場にそぐわぬ女の典雅な姿にも納得がいく。
いって同時に、男の顔は曇った。
それが当たり前の時代だのだと、頭では判っているけれど。
「……お前……それで、いいのか?」
急に調子の変わった男の声に、女はきょとんと目を見開いた。
「もしもお前が、こんな生活から足を洗いたいって言うんなら、協力してやっても良いんだぞ」
「それって、あたしを連れて逃げてくれるってこと?」
問われて男は頬を染める。
「や……べ、別に俺がお前に惚れたとか、そういう意味じゃねえよ。……第一、俺には他に」
「へえ、あんたちゃんと女房がいるんだ。それなのに、こんな所で死にかけてるなんて。無茶をして家族を泣かせちゃダメよ」
「女房なんかじゃねえし、今一緒に居るわけでもねえ。ずっと以前に離ればなれになっちまって、そいつと再び巡り会うために俺は旅を……って、なんでこんな話になってるんだよ!」
哀れな女を自由の身にしてやろうという申し出が、いつの間にやら己の昔話に変じていることに気付き、男は熱く染まった頬を持て余すように手の甲で擦った。
まるで世慣れぬ少年のような男の仕草を笑み混じりで見やっていた女だが、やがてその微苦笑は花の咲くような笑顔へと変じた。
「ありがとう、あんた良い人だね。……でもね、気持だけ受けとっておく」
「べ……別に、遠慮なんかいらねえ。俺だってずっと連れ歩ける訳じゃないし、誰か身内がいるんならそいつの所まで届けてやるだけで……っ」
咳き込むように言葉を継ぐ男の口をやんわりと掌で抑え、女は笑顔のまま首を振った。
紅の跡も無いというのに果実のように色づいた紅唇が、甘い秘密を打ち明けるようにうっとりと開く。
「あたし、あの方を心からお慕い申し上げているの。あの方にとって、あたしは取るに足らない者でしかないけれど。こうして胸の内にお姿を住まわせているだけでバチが当たりそうなほど、遠く隔たったお方だけど……」
心から幸せそうな女の声が、夜陰に艶めかしく溶け込んでゆく。
甘い声は男の胸にもゆっくりと染み渡っていった。
……胸が痛くなるほど懐かしい声に、響きを変えて。
頬をなぞり上げる柔らかな指先の感触で、男は自分が眼を閉じていたことに気付いた。
同時に、自身の頬を流れる雨滴とは違う液体の存在も。
「……涙を見るのも、久しぶりだわ」
目尻をなぞる女の手が、慌てて俯く男の動きにしたがって頬を包み込んだ。
そのまま腕は男の肩に回り、頭を胸地に引き寄せる。
久しく覚えのなかった女特有の柔らかな匂いが、男の鼻腔一杯に広がった。
ついで紡がれた掠れ声の甘さが、男の乾いていた心を潤していく。
「……もうずっと、涙なんて忘れていた。あんたと話して、初めて判った。あたしも……ずっと寂しかったんだわ」
「俺もだ……もう何年もたった一人だった」
応える声に湿り気が混じる。
だが、男はもうそれを隠そうとはしなかった。
女の腕の中は、暖かくて優しい匂いに満ちていた。
男は急激に重さを増した体を持て余すように、深々と息を吐く。
「……お前、いい匂いだ」
「それってあたしを口説いてるの?」
「ば……違っ!」
思わず身を引いた途端またもや体中を走った痛みに、男が痛っ……と身を捩る。
「もう……冗談も通じないんだから」
「五月蠅え……そういう冗談は嫌いなんだよ」
歯を食いしばり耐える肩をさする女の手つきは、笑い含みの声を裏切りあくまでも優しい。
漸く体の力を抜いた男の背をぽんと一つ叩き、女は彼の腹に手を伸ばした。
「そろそろ、傷の具合を見てみようか」
「……ああ」
再び布を開いてみると、腹からの出血は大分治まっているのが判る
「大分血が止まってきたみたいね。傷口も思ったより綺麗だし、熱も出ていないわ」
「ああ」
「出血が酷かったのが逆に幸いしたのかな……傷毒を洗い流してくれたようなものだものね」
「……そうだな」
不潔なままに放置された傷は腐りやすく、悪くするとそこから毒が回り死に至る。 女はそれを心配していたのだろう。
ほっと息を吐き、今度はゆったりと布を巻き直した。
「どうなることかと思っていたけど、ひとまず危ない状態は脱したみたいね。 でもまだ安心は出来ないから、一寸外に行って傷毒に効く薬草でも摘んできてあげるわ。ついでに、何か滋養になる食べる物も」
「……なんだって?」
男の眼が大きく見開いた。
今は真夜中で、しかも雨降り。
こんな夜に女が独りで外に出たが最後、迷子の末にそこらへんの獣や妖怪に八つ裂きにされるのがオチだ。
女は男の驚愕を意に返す様子もなく、着ていた蓑を脱ぐと彼の肩にふわりと掛けた。
「……やめておけ」
「平気よ、少しくらい濡れたって。あたし、見かけよりずっと丈夫なの」
「そういう問題じゃなくて……っ」
思わず声を荒げた途端、柔らかな掌が男の口を塞いだ。
女は先刻までとは打って代わった厳しい表情で、立てた人差し指を口元に持っていく。
「し……っ、静かにして。あんたのことを気づかれちゃったら、大変だから」
「お前の主人か。……近くに居るのか?」
緩んだ掌に、男がぼそりと問いかける。
女はこくりと頷くと、背後の闇を伺った。
「こっちの方に隠れていて、運が良かったわ。あたし達は向こうにある母屋に泊まってるの。こっちには、食料を探しにたまたま来てみたのよ」
「食料を探しにって?」
「仕え初めからずっと決まっているの。『自分の食べる物は自分で調達すること』って」
「へ?」
男の口から間の抜けた疑問符が飛び出たのは、無理からぬ事である。 まさかこの女の主人は、自分の側妻に畑泥棒や狩りをさせているというのか?
「……良く判んねえ男だな、そいつ。お前、本当にそんな男が良いっていうのか?」
眉を潜める男に対し、応える女の表情はあくまでも優しい。
「そうね……あんまり身近く過ごしすぎてて気付かなかったけれど、只の人間とはお考えも何もかもやっぱり違うかもね。でもね、気高くて強くて優しい方よ」
どういう意味だと眉を潜める男に向かい、女はうっすらと微笑む。
「もう、外に危険は無いわ。一見無関心そうに装っていらっしゃるけど、あの方はあたしに危害を加えそうな悪いモノはお見逃しにならないから。だから、安心して待っててね」
そう言うと、女はいそいそと立ち上がった。
膝上まで剥き出しになった足が目の前に迫り、彼は慌てて目を逸らす。
男の狼狽には気付かぬまま女はくるりと踵を返し、枠組みだけが残された戸口を乗り越えて行ってしまった。
後には、彼女の残り香らしい甘い香りが漂っている。
不思議な女だ――男は消えた女を目で追いながら、蓑の中にそっと顎を埋めた。
全くもって、不思議な女だ。
姿格好は臈長けている癖に、態度や物言いはやけに幼く掴み所がなくて。
警戒心の欠片もなく真夜中に外をうろつき、手負いとはいえ男の傍にうかうかと近づき。
全くもって浮世離れした女だ……締め上げられた腹に男が手を当てると、筋張って荒れた手指に滑らかな絹地が触れる。
見ず知らずの相手から優しい扱いを受けたのは、本当に久しぶりだ。
その昔、仲間と呼ぶ者達と過ごした日々には、彼らの余光に預かるように他人の優しさに触れる機会も確かに会ったけれど……。
相変わらず霧雨は体を濡らし黎明の気配も遠いけれど、分厚い藁に包まれている今、男の内に先刻までのような追いつめられた気持は消えていた。
あの苦い薬の恩恵だろうか、失われていた体力と気力も随分回復している。
この分なら……このまま何事もなく夜が明けたら。
安堵の息と共に、男は小さく頭を振った……と、次の瞬間。
「……っ」
男の耳に、こちらに近づいてくる複数の乱れた足音が届いた。 頬の筋が痛いほどに強張り、生ぬるい衣の下で冷たい汗が噴き出す。
足音は軽く、言い争う甲高い声がそれに被さっている。
声の片方は先刻の女、そして共に聞こえるもう一つのキイキイと耳障りな声は――。
「……だからっ、ちょっと転んで破いただけだってば! 放って置いてよおっ!」
「何を言っておるっ、どうみても無理に引き裂かれておるではないか! 怒らぬから、誰にやられたのか儂に言うてみよ。くせ者をそのまま放って置くわけにはいかん!」
口論の元は、あの女が破いた小袖にあるようだ。
女の連れならば、進んで身を現しこちらに敵意がないことを示した方が良いのだろうか。
男は咄嗟に腰を浮かせ、しかしそのまま動きを止めた。
漏れ聞こえる相手の声音に、友好的な色はない。
ひとまず身を潜めた方が得策のようだ。
男は意を決し、床に手を突いて半身を浮かせた……が、次く声が耳に届いた瞬間がくりとその場に崩れる。
「もう、邪見様ってばしつこいよ! りんはもう子供じゃないんだから、あんまり五月蠅く構わないで!」
「戯言を申すな! 自分の身もようよう守れぬ小娘の癖に一丁前の口を叩きおって。お前にもしものことがあったら、儂が殺生丸様に叱られるのじゃぞ!」
(殺生丸……だって!?)
なんてことだ! 男の顎ががくりと落ちる。
(俺は殺生丸の縄張りで、暢気にひっくり返っていたというのか!?)
驚愕で真っ白になった男の頭に、かの高貴な妖怪の取り澄ました顔が浮かび上がった。
殺生丸と彼の因縁は深い。
出来うることなら、未来永劫顔を会わせたくない相手だ……こんな風に弱っている今は、特に。
正体が判ってみれば、彼女が浮世離れしているのも肯ける。 男の口端に皮肉気な笑みが浮かんだ。
(殺生丸の奴、結局あの子供を捨てずに居たという訳か)
最後に会った遠い昔、彼女はまだほんの童女だった。
あんな子供の頃から妖怪に連れ回されていれば、人間相手の嗜みなど育つはずもあるまい。
だが、そんな得心も今の緊迫した状況の中では、何の慰めにもならない。
儚い笑いは直ぐに引っ込み、代わりに喉仏が大きく上下する。
普段の自分ならば邪見など指先で捻りつぶせるが、今の状態では奴にさえまるで歯が立たないだろう。
よしんば奴を何とかすることが出来ても、その後にはあの殺生丸が控えているのだ。
今更逃げ出そうにも、奴の結界から簡単に出られるはずは無い。
ギリギリと噛みしめた男の唇から、鉄錆の味が広がる。
けれど、ここで邪見などに負けるわけにはいかないのだ。
男は刀をいつでも抜き放てる形に握りしめる。
使い古され半ば糸のほぐれた愛刀の柄に、己の想いを掛けて。
(俺はこんな所で、死ぬわけにはいかない)
人声と揉み合う気配が、もう直ぐそこまで迫っていた。
りんの小袖と白い足が、入り口の枠から見え隠れする。
飛び散る泥の飛沫を透かして、似た色の直衣と袴がひょこひょことこちらを伺っているのが判った。
(邪見だ)
男の肩に緊張が走る。
爬虫類じみた顔つきの小妖怪が、りんに両肩を押さえられながら喚いていた。
自分よりも遙かに大きな女の妨害に為す術もなく、苛々と足を踏みならしながら。
……いや、体格に差があるから手こずっている訳ではないのだ。
痩せても枯れても、奴とて妖怪。
只の人間の女相手に、後れをとるはずはないだろう。
どんな理由であれ、邪見がりんを傷つけるのは許されていないのだ……恐らくは主の厳命により。
「どけ、どきなさいっ! りんっ!」
「嫌だったら……あっ!」
揉み合う二人の重さに負けて、元々腐りきっていた入り口の枠組みが、音を立ててへし折れた。
たたらを踏んで転がり込んできた二人の前で、男は深い溜息を吐く。
「もう良い……りん。 すまなかったな」
幾ら手負いで弱っているとはいえ、女の庇護に甘えるのは男の矜持が許さない。
だが、りんは尚も諦めず体ごと邪見を押し倒した。
彼女の懐から零れた薬草が、青臭い匂いを辺りに振りまく。
「諦めちゃダメだめよ! あたしが邪見様を押さえているから、早く逃げて!」
必死に促すりんの腕の中から必死に手足をばたつかせ、邪見が漸く頭だけを捻り出す。皿のように大きな眼が男の顔を認めた瞬間、小妖怪の瞼はこれ以上ないほど大きく見開かれた。
「お……お前は、犬夜叉ではないかっ」
「え? 犬夜叉……って、あの?」
りんも目を丸くして、男の顔を凝視する。
「え、でもだって! 犬夜叉って……?」
おろおろと邪見を見下ろすりんの表情は、まるで途方に暮れた幼子のようだ。
それはそうだ。 男の――犬夜叉の口端が微かに歪む。
りんの知っている彼は、獣の耳持つ半妖の姿が全てだ。
今の黒髪を背に流した只の人間があの殺生丸の弟だとは、露程も思っていなかっただろうに。
りんの拘束が僅かに緩んだその隙を、邪見は見逃さなかった。 するりとそこから抜け出すと、慌てて傍から巨大な杖を拾い上げる。
翁と媼の面が対に飾られた妖杖、人頭杖だ。
あの杖の力は確か……岩をも燃やし尽くす業火。
「そうか、今宵は朔。半妖の貴様には命取りの夜であったな。 今のお前相手ならば、殺生丸様のお手を煩わせるまでもないわっ」
片方だけで顔の半分を占める大きな目が、意地悪げに細まる。
「とっとと、その腰の刀を渡すが良い!」
「……」
邪見が小柄な体を精一杯に伸ばして見得を切るその間、犬夜叉の視線は立ちはだかる邪見とその脇に膝を突いたりんの間を忙しなく往復した――そして。
「……ぎゃっ!」
一瞬の静寂を破ったのは、邪見の悲鳴だった。
勝利の確信に小妖怪が胸を張った隙をついて、犬夜叉が体を当てたのである。
諸共に転がって戸口の柱に突き当たった二人の上に、今度はりんが飛びかかった。
邪見の体を抱え込み、その動きを封じる。
まるで先から示し合わせていたかのように、流れるような阿吽の呼吸だった。
「こ……こりゃ、何をする! 離せ、りんっ!」
「逃げて、犬夜叉っ!」
邪見を抱き潰さんとばかりに押さえながら、りんは叫んだ。
彼女は何も考えていなかった。
その行為が、己が主と仰ぎ慕う大妖怪に対する重大な反逆行為だということなど、全く。
犬夜叉と殺生丸の微妙すぎる関係は、りんも重々承知している。
兄弟だからといって、再会を喜びあうことも、互いに相手がどんな事情であろうと攻撃に手心をくわえる筈もないことも。
でも、りんは見たくなかったのだ。
敬愛する大妖怪が、血族の流す血にまみれる姿など。
「早く逃げてえっ!」
鋭い声に押されるように、犬夜叉は鉄砕牙を杖にして外にまろび出た。
去り際に一瞬だけ振り返った刹那、丁度顔を上げたりんとまともに眼が合う。
無意識に、犬夜叉の口角が笑いの形に持ち上がった。
対する女の顔にも、男と同じ笑みが浮かんでいる。
「……すまねえ、りん」
犬夜叉は絡みついた視線を振り解くように、雨幕に視線を転じた。
後はひたすら前だけを見据えて、一歩ずつ足を踏み出す――。
りんは渾身の力を込めながら、よろよろと遠ざかる影を見送った。
体の下でじたばたと暴れる邪見を押さえ付けるのは、女の細腕に余る仕事だ。
痺れが走る腕を持て余しながら、りんは闇の向こうに祈りを飛ばす。
(……逃げて、逃げて犬夜叉!)
願いに気を取られて力が緩んだ隙を、邪見が見逃す筈がない。 両腕に痛みを覚えたと思った瞬間、りんの視界は反転した。
自分を見下ろす邪見様の怒りに燃えた視線に久しく感じなかった恐怖を覚え、彼女の身内に震えが走る。
「だめ、だめだよう。 邪見様……っ」
疲れと怯えに懇願の声が先細る。
尚も指貫の裾を掴もうとするりんの指先を鬱陶しげに振り払い、邪見は脇に転がった杖を手繰り寄せた。
「ええいしつこいっ! 幾ら殺生丸様お気に入りのお前とは言え、犬夜叉めをかばい立てするとは何事じゃ! 儂自らが奴を見事仕留めねば、このままでは殺生丸様に申し開きが立たぬわっ!」
「邪見様ぁ……!」
がっくりと膝を突いたまま動けないりんを後目に、邪見は意気揚々と走り出す――が、何歩も歩かない内に、ぎゃっと悲鳴をあげて前のめりに吹っ飛んだ。
「……邪見様?」
瞬きほどの間に、一体何が起こったのか……?
りんは、暫くの間金縛りにあったかのように動けなかった。 そしてまた、倒れた邪見も彼女と同じく動く様子がない。
何はともあれ彼の様子を見てみようと、りんは倒れている妖怪の元におそるおそる近寄り屈み込んだ。
気絶した邪見の後頭部には、大きな瘤が出来ているようだった。
その傍らには彼の頭ほどもある石が一つ、黒い泥の中で妙に悪目立ちしている。
おそらく邪見は、この礫をまともに受けてしまったのだろう。
……でも、一体誰が?
りんの頭に最初に浮かんだのは、先刻別れた黒髪の青年だった。
だが、彼の怪我は相当酷く、逃げるだけで精一杯の筈だと思い直す。
(犬夜叉じゃないとすると……)
残る相手は只一人。 でも、まさか――!
主の姿が頭に浮かぶのと同時に、りんは弾けるように振り返った。
はたして先刻までりんと犬夜叉が篭もっていた小屋の横手に、背の高い人影を認める。
人影は悠然と歩を進め、座り込んでいるりんの前に立ち止まった。
闇の中でも燐光を放っているかのように白い毛皮の先端が、主の歩みと共にゆらゆらと揺れている。
「殺生丸様……」
続く言葉は、りんの咽奥に貼り付いて出てこない。
邪見相手ならば、たとえ勝てないまでも力ずくで挑むことが出来たが、彼女にとって殺生丸は侵すことの出来ない至高の存在だ。
殺生丸様に犬夜叉を殺させてはいけない――その思いだけが心にひり付いて、しかしりんは尻餅を着いたまま指一本動かすことも出来ない。
「殺生丸様……お願い」
りんの唇が細かく震え、ようよう言葉を形作る。
「……犬夜叉と争うのは、やめて」
りんが彼女の主に何かをねだるのは、これが初めてだった。
初めて口にした願いの重さが、全身にのし掛かってくる。
ぎゅっと眼を閉じた拍子に、目尻に溜まっていた涙が溢れて、ぱたぱたと膝に落ちた。
「泣くな。 りん」
節高くしなやかな指の甲が彼女の目尻に触れ、熱い雫を拭い取る。
りんがはっと顔を上げると、思いがけないほど間近に妖怪の端正な面があった。
「せ……っ」
「奴は、殺さぬ」
あっさりと応える殺生丸の顔は、普段と変わらず湖面のように薙いでいた。
殺生丸が一度口にした言葉は、絶対の重みを持つ。
彼が殺さぬと言うのなら、犬夜叉は生き延びられるだろう。
――だけど。
かつて殺生丸が異腹の弟に対して抱えていた感情は、決して小娘一人の懇願でひっくり返されるような軽いものではなかったはずだ。
それなのに、どうして――?
訝しむりんの耳に届く、低い声。
「奴は、死に時を逃した故に」
……死に時?
「殺生丸様、それどういう……」
「立て、りん」
疑問符を口に乗せようとしたりんだったが、殺生丸は問いかけをはね除けるかのように再び立ち上がった。
慌ててりんも、泥の中から重い腰を上げる。
ずぶ濡れの小袖から泥を払い落とす彼女を見下ろし、殺生丸が口を開いた。
「……人間は、死ねばどこへ行く?」
「え……?」
「いや、愚問だ。 答えずとも良い」
傲然と顔を上げ踵を返す主の背を、りんは呆然と見送る。
あの殺生丸様が、この私に問いを発するなんて……しかも、自らそれを愚問などと貶めて引き込めるとは。
際限なく降り続ける糠雨の中、たった今与えられた問いを胸の中で噛みしめる。
殺生丸が問うた死人の行方は、おそらく内側――魂に対するものなのだろう。
(それならば、とっくに答は決まっている)
「殺生丸様」
溌剌とした声を、りんは遠ざかる背に投げかける。
挑むように、縋るように。
儚い寿命しか持たない自分は、あと数年数十年の後に老い枯れて土に還る定めだけれど。
「人間の魂の行方なんて知らない。 でも、あたしは!」
ゆらゆらと揺らめいていた毛皮の房先が、ふと止まる。
振り返った殺生丸の目に、全身濡れそぼりながらも凛として立つ女の姿は、どう映ったのだろうか。
「あたしの魂は、ずっと――ずっと貴方のお側にっ!」
――たとえ、肉体の絆は時の壁に阻まれようとも。
姿を変えて有り様を変えて。
それでも、恋い慕う心を留めることは出来ない。
その後の互いの運命を、りんも犬夜叉も知らない。
邂逅の記憶をそれぞれの胸に抱き、彼らは彼らの旅路を歩み続ける。
その、終わりの時まで。
−終−
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