【 日 高 川 】



 ―――― やれやれ、一体 殺生丸様はこれからりんをどうなさるおつもりであろうか。

 今ではすっかり懐いてしました『人の子』を、邪見は先行きの見えぬ眼で見詰めた。
 己の主人である殺生丸が気まぐれで拾った、人間の娘。
 いや、拾ったと言うにはあたらぬか。

 ―――― 勝手に付いて来たのだ、りんは。

 この主従が、『人でないもの』と承知で。
 まだ幼い、人の輪の暖かさが恋しいであろう雛の身で。

 それを許した殺生丸の思惑も、邪見には判らない。
 主人の気まぐれはいつもの事。しかし、今回ばかりは気まぐれで連れ歩くには、いささか時が経ち過ぎていると思う。

 その間、一体何があったか。

 神楽に攫われ
 邪なる亡者どもに攫われ 

 その度毎に、殺生丸は ――――

( ……確かに、とんでもない足手纏いなんじゃよなぁ。じゃがのぅ…、しかし ―― )

 とんでもない足手纏いは、またとんでもない物好きでもあった。
 まったく、物好きな話である。『妖−あやかし』に懐く『人間の娘』など。
 そして、奇妙な話でもある。『人間の娘』に懐かれた『妖−あやかし』などと。

 だが、今ではそれが当たり前になってきており……
 それだけに ――――

( もう時期、冬じゃ。冬じゃと言うて、ワシらは留まる事はない。しかし人間の、りんの身では…… )

 ええい、下衆な人間の子の事で頭を悩ますなど忌々しいと思いながらも、何処か真剣にりんの身を案じている邪見であった。
 そう、あまり長くこの状態を続けるのはお互いに取って良くはない、と。

( りんが、『人の世』から離れ過ぎては、帰る場所がなくなってしまうであろう。その事に、気付いておいでか? 殺生丸様 )

 邪見は、物も言わず先を歩く主人の後姿をそっと窺った。



 ……捨てようと思えば、いつでも出来た。


 己でさえ、何故にこうも連れ歩いているのか判らない。
 だが、確かに… 潮時かも知れぬ。
 野に咲く花のような娘でもこのまま野に置けば、凍え枯れてしまうだろう。

 ……なによりも、始末が悪い。

 春先の、りんの身に起こった変事に思いを馳せる。
 あの時。

『土の毒(破傷風)』に冒されたりんの姿に、感じたあれは慄(おのの)きか。私らしくもない。

 所詮は、人の子。
 妖の己とでは、住む世界の違う生き物。

 どこか、あれを捨ててゆける場所を ――――


『私』が『私』である為に!



  * * * * * * * * * * * * * * * * *  



( ……はて? どうした事じゃろうか、殺生丸様。このような、人里近くを巡られて??? )

 妖である以上に人間嫌いでも有る故に、滅多な事では人里に近付かぬ主である。
 それがこの数日、里の様子が窺える丘の上から何やら見下ろし、やがては立ち去る。
 ふと邪見は、自分が思っている事と同じ事を殺生丸も考えているに違いないと思い至った。今までの殺生丸からすればそれは驚くべく事ではあったが、その前にりんの命を天生牙で救った事から始まるこの一連の主の、また自分の変化を思えば、もう驚くには価しない事かも知れない。

 妖と人の子の間に流れる、情のようなもの ――――

 端から見れば、忌まわしいものと見られても仕方のないものであろうが、それと引き換えても構わぬ程の、『なにか』。
 りんのような、無邪気で無垢な、あるものをあるがままに受け入れる事の出来る娘に懐かれる、くすぐったいような喜び。
 人間で言えば、孫娘に懐かれる翁のような心境か。

 だからこそ!

 邪見はりんを人里に帰してやらねば、と思い。
 また、殺生丸は己の中で大きくなって行く得体の知れぬものに、苛立っていた。早くりんを手放さねば、取り返しのつかない事になると、己の中で告げるものがある。


 何よりも、『妖』として!
 何よりも、『己』として!!


 その、矜持にかけて!!!



 人里から立ち昇る煙の数にその秀麗な眉を微かに微かに顰め、踵(きびす)を返す。
 同じ捨て置くでも、りんを拾った村のような所では気が進まぬ。
 しかし、人心荒れ果てたこの戦国の世。
 殺生丸の目には、どの村も荒んで見えた。

( ……名の有る寺社の方がましかも知れぬ )

 殺生丸の頭に浮かんだのは、父・闘牙王の昔馴染みである大巫女の居る社であったが、なぜかそれも気が進まなかった。
 やがて、殺生丸は山間の小さな山寺に目を止めた。 そこは、岩山の少し開けた岩場に立てられた小さな寺。


 人里からも少し離れており、またすぐ側の切り立った崖から轟々と流れ落ちる滝が辺りを清浄なものに清めていた。
 この戦国の世にあって、その場は一種の『聖域』のような趣きさえ漂わせている。白霊山のような、息苦しさを感じさせる悪意に満ちた清浄さではなく、そう例えて言えば太古の昔、まだ人間が他の動物や植物などと意識を共にしていた頃の、『和−なごやかさ−』に満ちた清清しさ。

 殺生丸の好む、古木のような『気』にその地は包まれていた。

「……悪くはない」

 ぽつりと、そう呟くと殺生丸はその場に足を止めた。
 あまり時間はないだろう。
 時期、雪が降る。
 ひやりとした北風の中に、雪華の匂いを感じ空を見上げる。
 何もかもを白く塗りつぶし、その冷たい衣の下で自ら餌食にした獲物の骸を静かに食み、やがて次の『生』へと繋ぐ。
 数限りなく繰り返されてきた営み。
『生きている』と言う事はそういう事なのだと、誰よりも知っているのは己であろう。今まで数多なものを屠り、生きて来た己であれば。

 ……だが、今 この傍らの雛を見る時、その『輪』の中にこれを投げ込む事は…、出来ない。


 この、殺生丸ともあろうものが!



「……ねぇ、邪見様。殺生丸様、どうしちゃったのかな?」
「うん、どうしてじゃ?」
「うん、あのね… りんの気のせいかも知れないんだけど、最近人里の近くばかり歩いてるな、って」
「うむ……」
 邪見は、殺生丸の考えている事を薄々感じとっているので、今それをりんに悟られる訳には行かず、曖昧な相槌を打つ。
「殺生丸様、人間嫌いだよね。だから、どうしてかなぁーって」
 そう言うりんの大きな瞳に浮かぶ、微かな陰。

( ……聡い子じゃ。何か、感づいておるやもしれん )

 りんがこの主従の旅に加わる事になってからこちら、確かに大変さは今までにない程であったが、何か今まで感じた事のない『大切なもの』に触れたような気がするのも、また、『真実‐まこと‐』。

( しかし、これはりんにとっても、我らに、いや、殺生丸様に取ってもそれが良い方法であろう )

 そこには ――――

 殺生丸が戦国一の大妖怪である事は、周知の事実。
 そして、その父・闘牙王の末期の顛末も多くの妖の知る所でもある。
 殺生丸の誇りにかけて、父と同じ轍を踏む訳には行かない。

 そうなのだ。
 それは、『妖』と『人間』であればこそ ――――

 りんの胸には数日来の不安が、さらに大きくのしかかってきていた。
 寒さが厳しくなったその頃から、いつもと違う気配をいつも一緒に居る二人の妖から感じる様になった。 怖いとか、嫌だとかそんな種類のものではなく、なんだか辛い感じのもの。

 そう、それは野盗に家族を皆殺された晩、寝入る時に『おやすみなさい』を言った時に感じた、あの訳の判らない感じに似てる。
 ここ最近、殺生丸が人里を丘の上から見下ろす度に、そこに自分を投げ下ろしそうな気がしてドキドキしていた。

( ……殺生丸様、このお山に何かご用があるのかしら? )

 りんは殺生丸がなぜ旅を続けているか、その訳を知らない。
 ただ以前、自分も攫われた事のある、あの奈落とかいう妖怪を追っている事もあるようだけど、それだけじゃないような気もする。

 結局、りんには解らない。
 殺生丸がこの山で何をしているかなどは。


 ……そう、この岩山に足を止めてすでに三日。
 その間、殺生丸は一部の隙もない程に辺りを吟味した。
 ほんの微かにでも、怪しい気配はないか。天変地異の予兆や、強暴な獣はおらぬか。何よりも、この寺の人間の心根に『邪気』の欠片はないか。

 もとより、風を読み、『気』を読む事に長けている。
 その殺生丸が、断じた。

 ―――― ここより他に、りんを『捨て置ける』場はない、と。

 今だ、このような場があるとは信じられぬほど、その場は清い。
 この寺の住職のその清廉な性格を顕わして、高齢にもかかわらず辺りを圧する程の気迫が満ちている。
 だがそれは、己と異なるものを排斥する為の物ではなく、むしろ『あるものをあるがままに受け入れる為の強さ』のように感じられた。

 他には、この住職の弟子と思われる者が二人程。
 どちらもこの住職を師と仰ぎ、また住職もこの二人の人となりを認めた上での弟子入りであろう。全てが、この場と調和していた。

 ―――― ここならば……

 殺生丸もまた、認めざるを得なかった。ここより他に、もっと相応しい場があるやも知れぬ。だが、もう時間がない。

 それに……
 りんが、気付き始めている。
 確かに、潮時だ。

 夕暮れ間際、殺生丸は帰りを待つりんや邪見の元に戻った。

「お帰りなさいませ、殺生丸様」
「お帰りなさい!! 殺生丸様!」

 私の顔を見て、りんの声が弾む。
 その不安と安堵がないまぜになった思いを表情に滲ませて。

「……明日、ここを立つ」
「殺生丸様?」
「……では、『ご用』はお済で」

 最後の邪見の問いかけには、答えはなく。
 りんの瞳に、不安が大きく揺らいでいる。
 妖の『気』を読む娘など、そうはおるまい。

 ……『それ』を誤魔化す為に、必要以上に言葉を続ける。

「……明日は、早い。もう、休め」
「はい、あの、でも……」

 りんの小さな身体が、小さく震えている。日が落ちて、夜気に忍び込む寒さが強くなった所為ばかりではないだろう。明らかに『予感』しているのだ、この娘は。

 だから…、そうするしか方法(て)はなかった。
 私は身に纏う妖毛を広げ、りんを招く。

「せっ、殺生丸様っっ!?」

 邪見の、飛びはぐれた声。
 不安の代りに、困惑ともう一つ言い得様のない色を浮かべたりんと。

「……今夜は、夜気が厳しい。そのままでは休めまい」

 りんは何事か必死に考えている様で、それからしばらく後、きっぱりとした瞳(め)で、私の元に近寄ると妖毛の端をその小さな手でしっかりと握り締め、横になった。私から背けたその小さな背中がりんの思いを物語る。

 ―――― 最初で最後だ。
 たかが、人間の小娘一人。
 どこに捨て置こうと、私の勝手。

 だが……

( りん。お前の泣いた顔は、見たくない )

 だから……

「えっ!?」

 ぴくり、とりんの背が跳ねた。
 背中からそっと、壊れ物を包む様に胸に抱き込む。

「あっ、あのっっ!?」
「……まだ寒いか。早く、休め」

 どれ程お前が眠らまいと頑張ったとて、疲れとお前を包む温もりに抗える筈もないだろう。睡魔がお前を連れて行く。
 それが長かったのか、短かったのか。

「……眠ったようでございますな、殺生丸様」

 殺生丸の腕の中のりんを覗き込み、邪見が呟く。
 最近では、見かけた事のない不安な色を浮かべた寝顔。出来る事ならば、安らかな寝顔を見たかったもんじゃと呟きかけて邪見は、自分が思った以上にりんに肩入れしている事に気付く。

( いやいや、これでいいんじゃ。これで…… )

 小さく、頭を振る。
 これでまた以前のようにこの主と二人、静かな旅を続ければ良い。

 そう、元に戻るだけ。

 邪見は胸の片隅の、小さなしこりを見て見ぬ振りをした。

「……行くぞ、邪見」

 殺生丸はそう一声言い置き、腕にりんを抱えたままふわりと夜闇に浮かびあがった。

「今からで、ございますか……?」
「……時期を、逸する」

 りんが、眠りながら自分の名を呼んだ事に殺生丸は気付いても、応える事はしなかった。



 ―――― 老住職は、日課である深夜の勤行を終えようとしているところであった。この風雪に晒された山寺での年月が、老住職に常人離れした鋭い感覚を与えていた。

「……うむ。何やら妖しき気配がするが…?」

 その鋭い感覚の持ち主とも思えぬ穏やかな表情で、その気配の近づきつつある方向へと顔を向けた。

 凍てついた冬の夜気に、冴え渡る月の光。
 その月の光を弾いて ――――

 ふわりと舞い降りた者を、老住職は静かに迎えた。
 老住職がここまで落ちついていられたのは、この有り余るほどの妖力を漲らせた者から、不思議な事に一片たりと『邪気』を感じなかった事による。
 また、その神々しいばかりの姿にも ――――

「……さぞ名のある妖の若君とお見受け致します。そのような御方がこのような愚僧に、どのようなご用でしょうか?」

 年輪の刻まれた表情にも、歳経て重みを増した声にも、殺生丸を前にしての怯えはない。あるがままを、あるがままに受け入れるその強さのみの穏やかさ。この腕の中のりんとも近しいその気性。

( ―― 我が目に狂いはないな。ここでならば、りんは…… )


 殺生丸は腕の中のりんに、視線を落とした。
 眠りに落ちながらも、その小さな手で殺生丸のもこもこを握り締めている。

「お連れ様の具合でも、お悪いのか? どれ」

 そう言って恐れもせずに殺生丸に近付く老住職の姿に、側に控えていた邪見は目を丸くした。

( なんとまぁ、恐れ知らずな人間なんじゃ!! この殺生丸様に対し! )

 ……人間とは、りんを始めこの住職のように色々な者がいるものだと、長年生きてきて今 改めてそう思う邪見であった。いやこの住職でさえ、もし、りんと出会う前の殺生丸であれば、おそらく恐れを抱いた事だろう。
 りんはなんの力も持たない、ちっぽけな『人の子』であるにも関わらず、その存在そのもので殺生丸の纏っていた不要な邪気を浄化していたのだ。

「このお子は、貴方様のお子で?」

 住職のあまりに常識離れした問いかけに、邪見は憤慨とも動揺とも判らぬ恐慌状態に陥り、大声で喚いた。

「こりゃっっ!! そこなクソ坊主! りん如き卑しい人間の小娘が、殺生丸様のお子であろう筈もなかろう!! 貴様の目は節穴かっっ!!」

 慌てふためく邪見をほっほっほっと笑み構え、老住職は殺生丸の出方を待った。

「う、う〜ん」
「邪見!!」

 りんが殺生丸の腕の中で身動ぎ、殺生丸は低く鋭い声で邪見を叱責した。
 殺生丸はりんが目覚めぬよう、己の妖毛毎抱かかえ直し落ちつかせる。
 その様を、老住職は慈しみ深い眼差しで見詰めていた。

「……これは、気紛れで拾った娘。足手纏い故、捨て置きたい」
「捨て置くならば、その辺りの野辺でも構いはしますまいに」
「…………………」
「こりゃ、坊主! 貴様、この冬の寒空にりんを放り出せと申すか!!」

 老住職の目には、この『人でないもの』達の姿が眩しく見えた。
 血で血を争い、子が親を、兄が弟を討つような、己が生き長らえる為に、他の者の命を奪う事も是とされる、この戦国の世に。
 目の前の、高貴たらんこの妖とて、血腥い修羅場を数多く潜ってきてはおろう。その腕の中の幼子とて、この妖の主従に同道するに至っては、辛酸を舐めてきてる筈。そうであったとしても、この『清さ』はなんであろうか?
 高貴なる妖の主とその従者。そして、『人の子』。


 不協和にして、妙なる楽の音のような ― 和(なごみ)。


「……承知致しました。そのお子をお預かり申しましょう」

 老住職の皺枯れた、しかしその見かけにはよらぬ力強い腕にりんの身を託す。殺生丸の腕から離れるその時に、りんは無意識に殺生丸のもこもこを力強く握り締めた。握り締めた小さな指を丁寧に解きながら、確認するように老住職は言葉をかける。

「この子は大層、貴方様を慕っておるようです。悲しみましょうな」
「…………………」
「ふん! 仕方あるまい!! 我らとはもともと生きる『世界』の違う者。いつまでも付いて来られては、我らが迷惑!」
「……そうですか」
「それに…、もう冬じゃ。りんが凍えてしまうでな」

 口数の少ない主を補うかのように、口うるさい小妖怪。
 主の名も連れの少女の名も、聞きもせぬのにそれと知れる。
 そう、その思いも。

「……いつか、迎えに来られるのか?」
「……捨て置く、と申した筈」

 殺生丸がそう告げた時には、その足元には妖雲が立ち込め、その姿を宙に浮かせ始めていた。

「では、しかとお預かり致します」

 老住職がりんを抱え軽く頭を下げると同時に、殺生丸はその姿を一陣の風に変えて去っていった。
 差し込む月の光にその面影を残して。

「……妖と人との『分』を弁えた御方であったな。妖にも、あのような者がおるのだな」

 そのような者と出遭えたこの娘は、僥倖を手にしたと言えるのだろうか?
 そうでなければ、おそらくこの娘は疾うにこの時代では珍しくもない路傍の土塊(つちくれ)と化していただろう。

 だが……

( そう、もう二度と見(まみ)える事が叶わぬなら、それはまたどれ程の悲しみであろうか? )

 老住職は、手の中のりんに憐れみの目を向ける。
 この娘の心があの妖の許にあるのならば、その身がいくら人界にあろうとも、もう『人の輪』の中に交わる事は出来ないのではないかと危惧する。
 唯一の救いは、この娘がまだ幼いと言う事。
 成長の過程で、この思いも含め今までの記憶がそれこそ『一睡の夢』となれば、まだ救われようが、と。

( 目覚めたら、思いきり泣かせてやろう。その後で、倫(みち)を解けば聡そうな子じゃ。判るであろう、あの妖達の思いが )

 己の手に託されたりんを、老住職は宝の様に抱きかかえた。

 老住職は己の手に託された、童女と少女の境にあるりんをそっと眺めた。
 この戦国の世の大半の子どもがそうであるように、決して肥え太った体格ではないが、それでも荒んだ村々の子ども達に比べれば、健康そうな艶のある肌をしていた。今までは季節の恵みもあったのだろう。
 人間など、ましてや子どもなど触れた事もないだろうあの妖達にも、そんなこんなでどうにかこの子を養う事が出来たのであろうが、そのまま連れ歩くはこの子の為にならぬと、そう思ったのだろう。

( ……妖であると言うに、なんと慈悲深い事か )

 そう思った時、手の中のりんがぱちっ、と目を覚ました。
 びっくりしたように老住職の顔を眺め、然程広くはない本堂の中を眺め回し、そこに捜している者の姿を見つけられずに、みるみる顔色を変える。

「あ、あの…、ここ、どこ? せ、殺生丸様は? 邪見様も!」

 老住職の手のうちから降りると、そのまま本堂脇の回廊に飛び出し空を見上げる。
 しかし、そこにも捜す者の姿はなく……

「りん」

 びくっ、と名を呼ばれたりんが身を竦ませる。

「あ、あの、どうして、りんの名前…?」
「お前をここに連れて来た妖の連れがそう呼んでおった。お前の名は、りんで間違いないかの?」

 柔和な、穏やかな気を感じさせる老住職である。
 りんの警戒心も、すぐにほぐれた。それでもまだ別な、もっと大きな不安はりんの小さな胸に巣食っている。

「殺生丸様が、りんをここへ?」
「ああ、そうじゃ」

 りんの握り締めた拳が小さくぶるぶると震えている。そうして、殆ど聞き取れない位、掠れた小さな声で呟く。

「…りん、捨て…られ……た…の?」

 りんの大きな黒い瞳には、今にも涙が溢れそうに盛りあがり……

「……いや、そうではない」

 老住職の言葉に、ほんの少しりんの表情が和らぐ。

「そ、それじゃりん、ここで待ってれば、お迎えに来てくれるの?」

 りんの不安と期待に満ちたこの問いかけに、思わず老住職は答えに詰まった。 ここで「そうだ」と言えば、この娘はあの妖が迎えに来るまで、それこそ何年でもこの寺で待つだろう。だが、あの妖がこの娘を迎えに来る事はない。 迎えに来るつもりがあるのなら、最初(はな)からワシ如き一介の老僧に預けるような真似はせず、連れ歩く為の努力を払うだろう。

 老住職はこの娘があの妖達に取って『大事』なものと、そう見て取った。
 この『人間の娘』が大事だからこそ、『人の世』に放そうとそう決めたのだ。

 ……ならば、『嘘』を付いてはなるまい。

 あの妖達の『意』を無にする事になる。
 偽りの希望で、娘の時を無為にしてはならぬ。
 この娘が、どれのほど嘆き悲しもうとも!!

「いや…、それも、ない」

 娘の瞳から、堰を切った様に涙が溢れ出してくる。
 小さく開いていたあどけない唇は、色が変わるくらいきつく噛み締められ、涙に濡れた瞳には強い光が灯る。
 りんが回廊から境内へ飛び降りようとするのと、老住職がりんの腕を捕まえるのとはほぼ同時だった。

「いや!! 離してっっ! りん、殺生丸様の所へ行くのっっ!!」
「りん! 解るんじゃっっ!! どうして、妖達がお前を置いて行ったか!」
「いやっっ!!」
「りんっっ!」

 老住職のりんを掴んだ手に、年齢に似合わぬ力が込められる。
 その痛さに、りんの気が僅かに緩む。
 老住職はりんの気持ちを落ち着かせる様に、静かに穏やかな声で話し掛けた。

「りん、ようく考えるんじゃ。妖達は、お前の為と思えばこそ、お前の身をワシに預けたんじゃ」
「…りんの、為?」
「ああ、そうじゃ。お前のような子どもを、この寒さ厳しい冬の野山に置く事は、お前の為にならんとな」
「りん、大丈夫だもん! 我慢できるもん!! 阿吽の背中だってあったかいし……」
「いや、そればかりではない、りん。りん、お前は『人間』だ。そして、今までお前を養っていた者達は、『妖−あやかし』。越えてはならん、溝があるのじゃ」
「……溝?」
「そう、言い換えれば『分』とも言うか。それぞれの『世界』で生きるが運命(さだめ)。そして、それがまた幸せと言うもの」
「和尚様……」
「お前があの妖達と旅をするに至った訳を、ワシは知らん。だがのう、りん。今のこのご時世じゃ。お前のような孤児はどこにでもおろう。心無い大人に悪し様に扱われる事もの」
「………………」
「しかし、悪しき大人ばかりではあるまい? お前のような幼い者が、人の世を捨ててしまう程、お前の周りの大人達が冷たかったのなら、ワシがあの妖達の代わりにお前を守ってやる」
「でも…、りん……」
「…『人の子は、人の世で、人として生きよ』とあの妖は、お前に伝えたかったのじゃ」

 その言葉をじっと聞いていたりんは、その真っ直ぐで曇りのない漆黒の瞳を老住職に向けた。

「……うん。解るよ、りん。殺生丸様が仰りたい事。でも、解らないんだ。それを、いやだ! って言ってるりんの心が!!」
「りん…」
「ねぇ、和尚様。和尚様は、『死人』って知ってる?」
「死人?」
「うん、あのね一回死んだのに、また生き返った人の事なんだけど……」
「うむ、海の向こうの国にある外法(げほう)で『死人還り』と言う鬼の術があるとは聞いた事があるが…。あれは死んで朽ちねばならぬ肉体に、理(ことわり)を捻じ曲げて死魂を留める術であったな」
「ふ〜ん、色々な方法があるんだ……」

 老住職は、おかしな事を聞くなと思ってりんの次の言葉を待った。

「そういう人達も、【ヒト】なのかな?」
「りん?」

 老住職は、りんの周りから微かに通常と異なる『気』を感じたような気がした。いつの間にか老住職の手はりんの腕を離しており、りんは少しづつ少しづつ回廊の縁に下がっている。

「……やっぱり、りんには殺生丸様だけなんだよ」
「りん……」

 そう言うか早いかりんは、今度こそ老住職の手を振り払い境内に飛び降りると、そのまま夜の闇に向かって走り出した。

「りーんっっ!!」
「りんもねー、そうなんだよ! りんも一回、狼達に食い殺されたんだよ!! そんなりんを助けてくれたのは、殺生丸様なんだ! だから、りん 行くね!!」

 暗闇から、確としたりんの声が返って来る。
 その驚くべき事実を何のてらいもなく告げて。


 りん、と言う少女が何者であるのかと言う事が、老住職にはもう解らなくなっていた。ただ解る事は、あの妖がこの少女を手放すには、すでに時期を逸していたと言う事だけである。

 後はもう、誰も立ち入る事の出来ない、あの妖と少女との ――――

 この不思議な一夜の事を、老住職は時折思い返して見る事はあったが、誰に話す事もなかった。あれからこの二人がどうなったか、考えて見ても解りはしないが、それでもあの少女の強い瞳の色と妖の眸に浮かんだものとに、ふと不思議な熱いものを感じるのであった。



  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 夜目が利く訳ではない。
 耳が鋭い訳でも。
 まして、殺生丸のように索臭出来る訳でもない。

 それでも、りんは夜闇の中を走った。

 どこに居るかなんて解らない。ただ、りんは本能のような物で走り続けていた。漆黒の闇よりも、じっと立ち止まって殺生丸と離れて行く事の方が怖かった。
 何度足元の石や木の根に足を取られ、転んだか。
 木々の小枝や鋭い下草の葉に打ち据えられ、切りつけられ、もうりんの手足はボロボロになっている。滲む涙を歯を食いしばって堪え、見える筈もない闇の先を見据え、怖気もせず。


 凍てついた夜気にりんの吐く激しい呼気が木枯らしのようにひゅうひゅうと響き、流した血の臭いが風に乗る。
 りんの気持ちがどれ程逸ろうと、りんはちっぽけな、なんの力も持たないただの人の子。夜の山道はりんの足を疲労させるだけで、いくばかりも進ませてはいない。


 ―――― その様を、闇越しに金の眸が見ていた。


「―― 殺生丸様……」

 傍らの邪見が、己の主を伺う。
 予想出来た事ではあった。
 りんが目覚めれば、後を追うであろう事は。
 それを、あの老住職に引き留めて欲しかったのだ。りんを…、りんを『人の世』に!
 りんが目覚めたのが朝であれば、りんの耳にも老住職の言葉が入ったやも知れぬ。
 しかし、今は夜。
『妖』の跋扈する、妖の『刻限−とき−』
 その闇の中へ、りんは躊躇いもせず飛び込んだ。

「……このまま、捨て置かれますか?」

 邪見の目にも、泣きもせず後を追おうとするりんの姿は健気で、その分憐れを誘う。これが見苦しいほど泣き喚いているのなら、しょせん下衆な人間の子と愛想を尽かす事も出来るのに、と。

「……………」

 りんを老住職に託し、あまり離れていない所に留まっている己の心根が、殺生丸自身解ってはいなかった。
 風に乗るりんの血の臭いが殺生丸の心をざわつかせ、その耳に届く己を呼ぶりんの声に苛立つ。
 殺生丸が留まっていた古木の高梢からふわりと地上に降り立ち、木立ちの合間からよろばいながら走り来るりんを、鋭い目で睨み据えた。

 りんは、本当はもう泣き出してしまいたかった。
 でもこんな時、泣いてもどうにもならない事も親兄弟を野盗に殺された時に、いやと言うほど思い知らされた。
 だから、りんは走った。走ったからと、殺生丸がりんを捨てるつもりなら、追いつける訳ないと解っている。解ってはいるけど、走らずにはいられなかった。
 そのりんの目の前を、りんの良く見なれた白銀が煌き疾った。

「殺生丸様っっ!!」

 りんが洋々の事で、少し開けた場所に転び出る。
 そこは、あの山寺の裏手にある滝のすぐ側だった。りんにはこの滝に見覚えがあった。殺生丸が三日も足を留めた、あの山だと。自分が連れてこられたのはこの滝の側にあった、あの小さな山寺だったと。
 自分の為に、殺生丸が探し出したりんの為の『居場所』。

 難しい思惑などはりんには解らないけれど、漠然と、そして直感的にそれらの事をりんは感じた。
 りんが捜し求めた殺生丸の姿は、落差のある激しい滝の向こう岸にあった。

 辺りを圧する白銀の妖光。
 その光の帳が、定まらぬ主の心を反映して色を変え、大きく揺らめいている。

「殺生丸様!」

 りんがありったけの声で、殺生丸に呼びかける。
 殺生丸は酷薄とも見える凍てついた視線でりんを睨みつける。

「……寺に、戻れ。りん」

 そう一言、言い置き踵を返し、背を見せる。
 その全てを拒絶する気配に、長年付き従ってきた邪見でさえ、凍てつくほど。りんの目の前から、彼の人の姿が小さくなってゆく。

 りんに躊躇いはなかった。

 誰が、思うだろう?
 それほどの想いを!

 りんは、その落ちて行く水の先さえ見えぬ暗い滝の中に、小さな我が身を踊らせた。

「りーんっっ!!」

 その光景を目にし、邪見が絶叫する!!
 その悲鳴より早く、白銀の光が疾る!

 ただ、崖から落ちただけなら充分に間に合う早さだった。
 しかし、轟々と流れ落ちる滝の水流に激しく叩かれたりんの体は、それこそ殺生丸の指先を掠めて、滝壷に落ちていった。

「ちっ!」

 殺生丸も躊躇いなく、滝壷に飛び込む。
 暗い暗い滝壷の底に。
 その深さ故に、滝の水流の水圧で滝底に叩きつけられるのを免れたりんが落ちている。大した傷は負ってはないようだか、息は止まっていた。


 ―――― 今なら、間に合う。
 ―――― もう、関わるな! このまま、捨て置け!!

 情動に乏しい殺生丸の胸中に、嵐にも似た感情の大波が襲う。


 そして ――――

 音も光もない、真闇の中で……
 殺生丸はりんを抱き上げると、その『命』を繋ぐ為、己の息吹を与えた。


 おろおろと、滝壷の淵で邪見が金壷眼を見開き潤ませ歩き回る。
 主が滝壷に飛び込んで、然程の間はなかった。
 暗い水面に光が差し、手にぐったりとしたりんを抱え殺生丸が滝壷の底から上がってくる。

「殺生丸様っっ!!」

 邪見の声に、手にしたりんの体を足元の岩場に投げ出す。
 投げ出されたりんはそのはずみに、大量の水を吐き出し、苦しそうに咳込む。
 水の中で、殺生丸から与えられた息吹がりんの小さな肺を満たし、息を吹き返すのを容易にした事に邪見は気付いてはいない。

「この、バカ娘がっっ!! 置いて行かれた位で身を投げ様とは……」

 声は怒っていても、転げ落ちそうな大きな目に涙が浮かんでいる。

「ち、ちが…。じゃ、けん…ま」

 小さな身を激しく咳込ませ、苦しそうに言葉を繋ぐ。
 なおも言い募ろうとした邪見の背後で、ひやりとした殺気が揺らぐ。

「…せ、殺生丸様……?」

 長年、この主の供をしてきて敵対する者の悲惨極まりない殺戮絵図を幾度も目にしてきた。その時の主も殺気に満ち、時にはその怜悧な面に残虐な笑みを浮かべている事もあった。心冷える一瞬でもあるが、またその偉大さ強大さを誇らしく思う一瞬でもある。


 だが、今 この場を満たしている殺気はそれらとはまた違う。


 りんを拾ってから、少なくともりんの目の前で晒した事はない毒華の爪が妖光を発す。端正な形の掌から手首にかけ、紫色の文様がくっきりと浮かびあがる。

「……要らぬ命なら、今 この場で切り捨ててくれる」

 押し殺した、凄みを込めた声音。
 辺りのものが、凍りつく。

「……いいよ、りん。殺生丸様が要らないんだったら、りんも要らない」

 まだ苦しげに咳込みながらも、りんの黒い瞳は真正面から殺生丸を見詰めていた。
 ぎりぎりと押しつぶされそうな圧迫感を必死の思いで跳ね返し、この場を取り繕う様に邪見が言葉を絞り出す。

「……何と言う事を! りん! 殺生丸様にお詫び申し上げぬか!! 一度ばかりか二度までもその命、助けて頂いておりながら勝手に要らぬとは!!」
「……邪見様」
「そんな了見だから、簡単に身を投げ様とするんだ! この、バカ娘っっ!!」

 邪見は自分が激しくりんを叱責する事で、殺生丸の怒りを和らげようとしていた。このままでは、本当に殺生丸はりんの首を刎ねかねない。

「……違う。違うよ、邪見様。りん、身を投げ様としたんじゃないよ」
「りん?」
「りん、殺生丸様の後を追っかけようとしただけだよ?」
「追っかけようと…? お前、目の前は滝だったじゃろうに」
「うん。でも!」
「落ちれば、死ぬかも知れぬとは思わなかったのか? これが、火の山の火口や断崖絶壁の大波荒れる海原だったら……」
「それでも、りんは追い掛けるよ」
「……殺生丸様が助けに来ると、高を括っておるのじゃな?」

 言わねば良いものを、その一言でその場の殺気はいや増す。

「ううん。そんな事りん、思ってないよ。りんが、そうしたいから、そうするだけだもん!! りんの命は殺生丸様のもの。そんな粗末な事はしないよ?」
「りん……」


 これが、『幼い』と言う事か。
 これが、『無知』と言う事か。


 何の脈絡もなく、道理も通らず。
 あるのは一途な、その『想い』。



 その『想い』――――


 辺りを満たしていた殺気が薄らぎ、やがて鎮まる。

「邪見」
「はっ、殺生丸様」
「りんが冬を越せるよう、用意を整えよ」
「では…!?」

 出来ない事ではなかった。
 今までの有り様を変えさえすれば。
 ちっぽけな人間の小娘の為に、その歩みを止める。


 何者にも束縛される事のなかったこの大妖の生き様を変えた者。
 それが意味する事は ――――


「……時期を、逸した。今暫らく連れ歩く」


 そう、これが離れぬのだ。
 仕方あるまい。

 暖かくなれば、『道理』が解る程に大人になれば。
 その時まで。



 ―――― また 一つ。 言い訳が増えた。



 殺生丸は、己の胸の内に自嘲めいて、声にならぬ言葉を落とした。



【 完 】
2005.1.8

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