【 春きたりなば… −節分草− 】


 暦の正月も過ぎ、寒さの割には明るさが増してきた。冬至を過ぎれば米一粒ずつほどに日差しが延びてくると、里のお婆が幼い俺に語っていた事を思い出す。
 そんな日差しの伸びで春を思うより、今現実に俺の目の前で繰り広げられている光景こそ、『春』だなと俺は思う。この一冬でりんはすっかり娘らしくなったと思う。甲斐甲斐しく庵の手入れや家事に勤しむ姿は、まるで所帯を持った若妻のよう。

 ああ、勿論『何かあった』訳ではない。

( あの時は、運よく炭焼きの老人の所で分けてもらった竹炭の消臭効果と風下だったのが幸いして、多分気付かれずに済んでいると思うけど )

 昼過ぎから邪見様と二人出かけたあの日、かさばる炭を一旦庵に届けておこうと思い戻った時に見たあの光景。脱衣場の垣根の隙間から見えた、重なった二人の着物。湯煙越しに浮かぶ、重なった二人の姿。見てはならないモノを見た、とその場を後にした俺。

 共に同じ褥で過ごし、殺生丸様がもしりんを求めたとしたら、あの子は逆らうこと無く受け入れることだろう。垣間見た湯の中での触れ合いの時の、あの様子を思い返せば。
 しかし流石にそれはまだ時期尚早と思われたのか、今はまだ夜は同衾して就寝し、たまに一緒に湯に浸かるくらいのもの。まるで拾った子犬か何かを手元に置くかのごとき殺生丸様の振る舞いだ。りんには今の暮らしはままごとの様で楽しそうだが、殺生丸様はこれからどうされるおつもりだろうか? そう、もう春はそこまで来ているのだから。

( 冬の寒さがりんの身に障るからこそ、この場で留まっておられるのだし。暖かくなれば、またりんを連れて漂泊の旅に出られるのか、それとも…… )


 離れがたい二人であろうとは、俺にも判っている。
 だけどこれほど不思議な繋がりを持つものを、俺は知らない。


 だからと言って、そうして一線を越えたとしても、なぜか人の世の色恋沙汰とは違うような気がして仕方がないのだ。互いに信じあい大事なものだと言うことは揺ぎ無い事実だとしても、そこに生々しさのようなものを感じない。
 確かにこの一冬ここに留まり人のような暮らしをしてみたが、それでもやはり殺生丸様は『人で無い者』。りんにしても幼さゆえというよりも、殺生丸様への信の気持ちが大きくて恋情の入り込む隙さえないような気がしている。

 ……人間が持つ欲が、あの二人にないからかもしれない。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「おはよう、琥珀! 琥珀が持ってきてくれた炭、煙たくなくてとって良いね」
「ああ、この前出かけた時に山奥の炭焼き小屋のお爺さんに分けてもらった竹炭なんだ。煙が少なくて、置いておくだけでその辺りの臭いも消してくれるから丁度良いかなって」
「うん、殺生丸様はお鼻が良いからね」

 朝の片付け物の途中なのか、やはり姉さん被りにたすき掛けで手にした桶には朝餉に使った食器が入っている。俺はこう言う物には詳しくはないが、塗りの美しい木の椀と硬い薄焼きの白や薄草色の茶碗や皿や湯のみなど、おそらく大名道具として並ぶような物じゃないかと思うものを事も無げにりんに与えていた。
 りんはそれを毎食後、庵の外の出湯から引いた湯の使える洗い場で丁寧に洗っている。最初は手入れの仕方が判らなくて、焼き物の茶碗は落として割るし塗りの椀は湯に浸け過ぎて塗りが剥げるしで使い物にならなくなった事もあったけど、そんな事には一切お構いなし。足りなくなったと思えば、どこからか持ってこられてりんに与える。そんな事を繰り返して、今ではりんもちゃんと手入れが出来るようになっていた。

( そーゆー所はりんに甘いって言うか、頓着なさらないというか…。そう言えば、こんな事も仰ってたっけ )

 ここに来た当初、殺生丸様は庵を留守がちにされていた。そんな頃、りんが茶碗を割って邪見様に叱られている所に丁度お戻りになって、小言を言うのに夢中で殺生丸様のお帰りに気付かなかった邪見様は殺生丸様に一蹴にされた。
 うなだれて反省しているりんの前に、殺生丸様はりんが割ってしまった茶碗より小ぶりで柄も小花を散らした愛らしい茶碗を差し出した。

「ごめんなさい、殺生丸様。お茶碗、割ってしまって…。木のお椀も綺麗にしようと思ってお湯で洗ったらがさがさになって、本当にごめんなさい!!」
「……構わぬ。形あるものはいつか壊れる。あの茶碗はお前の手には大きすぎた。どうせもう使わなくなる物だ、木の椀ともども捨ててしまえ」
「壊れちゃったお茶碗はもう使えないからごめんなさいだけど、この木の椀は使えるから!」

 殺生丸様の「捨ててしまえ」の言葉に敏感に反応し、その木の椀を胸に抱え込むりん。貧村の物のない暮らしをしてきたりんには、どんな道具であろうと粗末な食材であろうと無駄にする事はできない。昔より殺生丸様と共に旅をするようになって、その暮らしぶりははるかに豊かになったにも関わらず、清貧の心を忘れてはいない。胸にしっかりと抱え込んだ塗りの剥げた木の椀を見、殺生丸様が呟くように言葉をかける。

「……それは邪見にでも使わせろ。お前にはこれを」

 それで先ほど殺生丸様の言われた言葉の意味を理解した。
 りんの為に、りんが使いやすく喜びそうな柄を吟味して持ち帰った焼き物の茶碗と塗りの椀。そのどちらにも同じ小花の柄が描き出されていた。その時のりんの嬉しそうな顔は、冬の寒さを忘れさせるようだった。ここで過ごす日々が重なるほどに、りんの大事なものや嬉しいものが増えてゆく。

 だから俺は思ってしまったのだ。

 りんはここが気に入っている。ここにはおそらく殺生丸様の結界が施されているのだろう、りんにとって危険なモノは立ち入る事は出来ないはず。ならば、りんはここで暮らしてゆく方が良いんじゃないだろうか?
 旅に出れば、危険は付き物。ましてや、あんな風に二人での『時』など持てぬかも知れぬのに。里の物知りに聞いた話だと、都の高貴な身分の殿方は妻の屋敷に通うのが普通だとか。この庵をりんの屋敷と言う事にして、そうした方がこれからは良いような気がして……。
 日差しが伸び春が近まるにつれ俺が思い悩む事は、これからりんにとってどんな暮らし方が一番良いかと言う、ただそれだけ。りんはどう思っているんだろう?

「りんは、ここが好き?」
「うん、好きだよ! だって殺生丸様とずっと一緒だもん!!」
「……でも、殺生丸様はここをお留守にされることもあるよ?」
「あるけど、それでも絶対ここに帰って来て下さるから!」
「それじゃりんは、『待てる』よね?」
「琥珀?」

 俺の言葉の意味が判らなくて、首を傾げる。りんは殺生丸様を信じて疑わない。きっと殺生丸様がここで待て、とお言い付けになればずっと待っている事だろう。
 あれこれ思案する俺の背後から、突き刺さるような視線を感じた。りんが洗い物の桶を手に中から出てきた時に、庵の戸口を開けたままにしていたその奥から。

 外の光が入らない影の中から、金の眸が俺を睨みつけている。
 背中がぞくりとする。

 それでもここから先の一歩をどう決めるのに、あまり猶予はないように俺は感じていた。

「どうしたの? 琥珀」
「俺は少し殺生丸様とお話があるから……」

 俺の緊張がりんにも判ったのか、小首をかしげてりんが問う。

「お話?」
「そう、もうすぐ春だからね」

 俺はそう言うと、その場にりんを残し庵の戸板を後ろ手で閉めた。
 庵の中のひんやりとした気配は、ここにいる殺生丸様の気配。

「……りんに何を言うつもりだ」
「殺生丸様……」

 音を立てないように、小さく息を飲み込む。殺生丸様のお怒りに触れたらどうなるか、それはなるべく考えないようにして、俺は思っている事を言葉にした。

「……春になれば、ここを引き払うおつもりなのでしょうか? 殺生丸様」
「………………………」

 俺の問い掛けへの言葉は無い。その圧倒的な存在感と辺りに放出される冷気の前に険しい雪と氷の峻峰を見上げているようだ。

「ここは殺生丸様がりんの為に用意された場所なだけに、山奥の中とは思えないほどとても安全で暮らしやすい所です。りんも気に入ってます。なら、このままここで暮らしてゆく事は出来ないのでしょうか?」
「この私に、ここに篭れと?」
「いえ、そうではありません。残るのはりんと邪見様です。俺は邪見様に及ばぬとも、殺生丸様の従僕としてお仕えいたします」
「…………………」
「殺生丸様は戦国一の大妖怪。地を駈け天を翔けるお方。俺のような人間如きには計り知れぬ想いをお持ちだと思います。人間の大名やその家臣達でさえ、城や屋敷に篭る事のないこのご時勢なればこそ、旅に出ればいつも危険の只中となります」
「……ここに残すがりんの為、か」
「はい。この先りんの身に不測の事態がいつ起こるか判りません。ここで穏やかな暮らしをさせ、都の高貴な方々のように殺生丸様が通われてはどうかと。殺生丸様のお言い付けならば、りんはここでいつまでも殺生丸様の訪れを待つ事でしょう」

 目の前の氷塊のような殺生丸様から、赤い怒りの気配が立ち上る。

「卑しい人間の真似をこの私にさせるつもりか。りんの不測の事態だと? 下世話な事だな!」

 赤い気配は氷のような冷気を溶かし、さらに膨れ上がろうとしている。

「連れ歩いて、野辺に臥すことにならないとも限りません! 下世話と言われようとも、言わせてください。りんは日々大きくなってゆきます。今までのままでは通らない事もあります! 殺生丸様だってっっ……!!」

 思わず口がすべりそうになって、最後の一言を慌てて押し殺した。

「……あれを拾ったのは、この私だ。お前ごときに口を出される筋合いはない。たとえ、どう扱おうとな」
「りんは人間で、幼い女性(にょしょう)なんです! ぞんざいに扱って、壊れたら取替えが利くような器じゃないんです!!」

 言いたかった事は、それ。
 りんは俺に取っても妹みたいな大切な子だから。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「上手に器の手入れが出来るようになったのぅ、りん」

 洗い場で丁寧に茶碗を洗いながら、閉められた戸板の向こうの不穏な気配を気にし不注意気味になっていたりんに、阿吽と共に里の方に下りていた邪見が背中から声をかける。

「わっ、びっくりした! もうちょっとでお茶碗落とすところだったよ」

 もともと釣り目がちな大きな目をびっくりしたようにさらに見開き、口元を尖らせてそう言うりん。その言葉を聞きながら、なんじゃそんなことと言わんばかりに次の言葉を口にする邪見。

「割っても大丈夫じゃろう。替わりの茶碗を殺生丸様が持ってきてくださるからな」
「う…ん、そうだけど、でもこれは特別。りんの為にわざわざお揃いで作ってくださったものだもの」
「お前に甘いあの殺生丸様の事じゃ。揃いのものが良いのなら、いくらでも作らせる事じゃろう」

 りんは小さく首を横に振り、恥じらいがちに呟いた。

「……初めてのものだから、大切にしたいんだ」

 そう言ってりんは手の中の小花柄の茶碗と塗りの椀を大事そうに見つめる。
 そこへ庵の戸板が勢い良く、中から引き開けられる。無言で戸口を潜り抜けて来たのは、この一行の主である殺生丸。その機嫌の悪さは言うまでもなく、邪見などその気に中てられたのか、もう硬直していた。

「殺生丸様!」

 その後を琥珀が追うとしたが、鋭い一睨みで牽制する。

「あたしが行く!」

 りんは何事か察知したように、固まっている邪見の手に茶碗を乗せ、殺生丸の後を怯えもせずに追いかけて行った。

「りん……」

 邪見の側で立ち止まり、その手に乗せた茶碗を預かりながらぽつりとその名を零した。
 はっと息を吹き返したように、邪見が辺りをきょろきょろと見回す。それから、罰の悪そうな表情を浮かべている琥珀に目を留めた。

「……殺生丸様のご機嫌を損ねたのはお前か! 琥珀!?」

 珍しい事もあるものと、わが身を省みつつ邪見は思う。この琥珀は人間の子どもにしては良く気遣いの出来る性質で、あの気難しい主の下についてからもそうそう自分のような失敗はしないだけに、あそこまで怒らせるとは一体どんな事をやらかしたのだろうかと思う。

「……お気に障る進言だとは覚悟してました。でも、これからの事を考えたら俺はやっぱり ―――― 」
「やっぱり…? やっぱり、なんじゃと言うんじゃ?」
「俺、りんはここに残るべきだと殺生丸様に申し上げたんです。ここなら殺生丸様の結界の力もあるし、邪見様が護衛で残ればもっと安全だし」

 邪見の表情が、訝しいものに変わる。

「なぜ、そんな事を言い出したんじゃ? ここに逗留したのは、冬の寒さでの山野行はりんの身に障るゆえ。春になって暖かくなれば、そんな事もないじゃろうに」
「ここが殺生丸様の帰るべき場所になれば良いと、俺は思ったんです。りんはここが気に入ってます。いくら季節が良くなったって、ちゃんと雨風しのげる屋根の下の方がりんの体に無理をさせないと思うんです」
「なんじゃ、琥珀。お前は人間の貴族のように殺生丸様にりんの元へ通えと言うのか? 人間嫌いの殺生丸様にそんな事を進言すれば、そりゃ機嫌も悪くなろうのぅ」

 やはり妖怪である邪見も、言う事は殺生丸と同じ。琥珀が顔に途方に暮れた色を浮かべる。

「俺の母上と同じになって欲しくないから……、その方がきっと殺生丸様とりんの為なんだ」
「お前の母と? お前の母は病弱で早くに身罷ったとか言う話ではないか。それに比べ、りんはあんなにも元気じゃぞ? どこがりんと同じなんじゃ」
「……俺の母上も、最初から病弱な性質ではありませんでした。仮にも妖怪退治屋の里長の妻にもなるような者です、母上も退治屋としてそれ相応の手慣れでした」

 詳しくは聞いた事のない、琥珀の身内の話。邪見はたかが人間の話と笑い飛ばす事のできない何かを、その琥珀の口調から感じた。

「…そう、そうか。それで、お前の母はどうだったんじゃ?」

 邪見に促され、琥珀は里の薬師のお婆に聞いた話を続けた。

「姉上を産んだ時に、血が止まらなかったそうです。それで少し体を悪くされたのに、俺と言う跡継ぎを産むまでは退治屋としても認められてなければならなくて、少しずつ無理をしてきたのです」
「産むまで退治屋として…? そんな掟があるのか、琥珀」
「親の能力で子は計られますから。母上は本当に父上の事が好きでしたから、どうしても跡継ぎを産みたいと言っていたそうです。退治屋として認められないと言う事は、自分の替わりの者が父上の側に上がる、と言う事になるのです」
「うむうむ、なるほど」
「りんも、同じです。四魂の欠片で命を繋いでいる俺や妖怪の邪見様にはなんら問題はありませんが、りんはただの人間です。ただの人間の身には、殺生丸様の妖力は強すぎるのです。知らず知らずのうちに、りんの身を蝕んで……」
「琥珀っっ!!」

 つい失念していた事を指摘され、邪見も表情を変えた。

「もちろん殺生丸様もそこの所はお判りです。りんの側におられる時は抑えてありますが、あれだけの大妖怪ともなればとても抑え切れるものではありません。そのうえ、この先もし殺生丸様が ―――― 」

 そこで琥珀は言葉を切った。
 邪見もここしばらくの主の行いを見れば、その先はおのずと予測もついてくる。

「もし、りんを抱いたとしたら……」
「はい妖力だけではなく御身に蔵している毒気をも、りんに注ぐ事になるでしょう」

 琥珀の言っている事は道理の通った事である。邪見も殺生丸がりんを拾った最初は、一体いつまでこの人間の小娘を連れ歩くのかと、イライラしたこともあった。あの頃思っていたのは、所詮人間と妖怪では住む世界の違うもの同士。共にあったとしても良いことは無い、という歴然とした事実のみ。それをいつの間にか湧いたりんへの『情』に、忘れていた事を思い出した。

「……お前は殺生丸様とりんとを引き離そうと考えているのか?」

 もしそんな意図をあの主が汲み取ったのなら、それはどれほどの怒りを呼ぶことだろう。
 少し哀しげな顔で、琥珀が首を横に振る。

「それはりんが絶対望みません。『ひと』として生きるのであれば、それが倫−みち−だとしても。ならばせめて、りんに一番無理をさせない方法でと俺は思うんです」

 精一杯りんの為を思う、琥珀の気持ちだった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 自分の後ろから、小さな足音がついてくる。

 いつからこの足音は、私の後を追うようになったのか。
 いつからこの足音の主が、私の中に棲むようになったのか。

 あれほど忌み嫌っていた、虫けらのごとき人間なのに。


 ……今ならまだ、捨て去る事ができるのだろうか?


 りんを。
 この胸の中の苦しさと共に。


 自分の後を追う足音は雪の上を歩く音のみ響かせ、私の名を呼ぶ事もなく言葉もかけずにただひたすらに後をついてくる。無言のまま、雪の上を随分と歩いた。後ろを振り返ることもなく、さりとて天に翔け上がることもせずに、ただただこの真白い世界を二人だけで。

「あっ、痛いっ…」

 雪に隠れていた木の根にでもつまずいたのか、思わず零れたりんの声に歩みを止める。そこは回りを裸木に囲まれた、小さな雪の原。

「どこまで付いてくるつもりだ、りん」
「どこまででも! 殺生丸様の行かれるところなら」

 つまづいた時に顔を雪の中にでも突っ込んだのか、座り込んだまま雪塗れの顔に笑顔を浮かべてそう答える。そのりんの笑顔に捉まり、私は体の向きを変えた。唇は勝手に言葉を紡ぐ。

「……お前は、この場所が気に入っているのか?」
「殺生丸様も琥珀と同じ事を言われるんだね。うん、好きだよ!」

 屈託のない笑顔。
 この雪のように、どこまでも無垢なまま。

 ……そう、お前をここに留めて誰の目にも触れないようにしていれば、それはお前を私だけのものにしたと同じ事なのか?

 時折訪ねて、時を過ごして ――――

 ああ、琥珀が言うのはそう言う事か。
 私に触れる事が少ないほど、りんの身に障る事がないと。
 限りある命であればこそ、少しでも長らえさせる為に。

「ならばお前は、ここに残るか」

 私の言葉に、りんの顔に拒絶の色が浮かぶ。浮かべたその色が消えぬ間に、消え入りそうな声でりんが問う。

「……りんは、お邪魔ですか? りんはいつでも殺生丸様のお側に居たいです。でも、それが殺生丸様のお為にならないのなら、りんは殺生丸様のお言い付けの通りにします」
「りん……」
「りんは人間だし、まだ子どもで出来ない事も沢山あるし、いつも殺生丸様のお手を煩わせてばかりだから……。少しでも殺生丸様のお役に立ちたいと思っているけど、どうして良いか判らない子どもだから、今のりんに出来る事をどうか言い付けてください」

 泣きそうな声で無理に作る笑顔が、私の心を凪ぎさせる。
 琥珀に同じ事を言われた己は怒りを抱き、りんは私の為にと心を砕く。

 答えはもう、喉まで出ていた。



 胸の中を吐き出し立ち尽くす俺の顔を見上げ、邪見様が声をかけてきた。

「琥珀」
「はい、邪見様」
「りんはそれで幸せだろうかのぅ……」

 俺の足元で邪見様は腰を下ろされた。それにつられ、俺もその隣に腰を下ろし殺生丸様の後を追って、冬枯れの森に入って行ったりんの姿を視線で追う。もうその姿は見えなかったけど。何気に邪見様が俺の手からあの茶碗を取り、眺め眇めつしながら誰に聞かせるともなく呟く。

「……大事なものだから、桐の箱にでも入れて蔵に仕舞いこみ、己はその蔵の前で番をする。それでその所有者は嬉しいんじゃろうか、楽しいんじゃろうか?」
「邪見様…?」
「あるいは大事なものだからこそ常に携え肌身外さす持ち歩き、日がな一日眺め愛でる。常に持ち歩けば道に躓き転んで、己が身で壊す事があるかもしれぬが。それでもどちらの情が深くて、どちらが間違いかなんて、琥珀お前に判るか?」
「邪見様……」

 邪見様は手元の茶碗に視線を落とし、それからりんの姿が消えた冬の森に眼差しを向けた。

「……この茶碗のように時が経っても、そのままの姿なら仕舞いこむのも手じゃろうて。じゃが、あれの時間はわしらのようなモノと比べれば遥かに短い。箱から出してみたら骸では、どちらも哀しかろう?」
「邪見様、俺……」

 ひょんな事から同道することになった琥珀だが、その身に負うた宿命からかあまり子どもじみた顔は見せた事がない。それが今、邪見の前で子どもの姿で蹲っている。

「ほんに、余計な事を言いおって! 人間の諺にもあるじゃろう? なんとかの邪魔をする奴ぁ、馬に蹴られて死んじまえって、な。殺生丸様のご機嫌斜めのとばっちりを受けるのはこのワシじゃ。また蹴られてしまうじゃろうが!!」
「……すみません。俺、考えが足りないばかりに ―――― 」
「いや、考えが足りぬのではのうて、考えすぎなのじゃお前は。もう考えるな、どうせ他の忠言などに耳を貸さぬお方ゆえ、やりたいようになさるだけじゃし。りんが笑っているなら、ワシはもうそれで良しとするわい!」

 邪見はよっこらしょと腰をあげ、手にした茶碗などをもって主の居ない庵に入る。それを囲炉裏の側の黒漆に螺鈿で桜と蝶をあしらった膳箱に仕舞う。戸板を丁寧に閉めると、とことこと自分達の寝場所である出湯の側の小屋に戻っていった。戻りがてら、まだそのままな琥珀に声をかける。

「そんなところで蹲っておっては煩わしい。さっさとこっちへ来い、琥珀。まぁ、ワシの思うところでは、なるようになるじゃろう。お前も殺生丸様がお戻りになったら、誠心誠意心を込めて頭を下げることじゃな」
「邪見様……」
「りんがすぐ後を追うたし、お前の言葉も殺生丸様の逆鱗に触れたとは言え、思うところはおありだったのだろう。でなくば、今頃お前は息をしとらんわ」

 伊達に数百年も供に付いていた訳ではなさそうだ。主人の機嫌を損ねる事、星の数ほどの実績から紡がれた言葉でもある。邪見がほんの少し頼もしく見えた一瞬でもあった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「私の為なら、なんでもするんだな? りん」
「は、はい! お役に立てるかどうか判りませんが、力いっぱいお勤めします!!」

 素直な娘だと思う。

   ここに置いて行かれるよりはと、その気持ちがありありと伝わってくる。私の問いに、同行を許されたのかと泣きそうだった顔が太陽に当って開く花のように、ぱっと輝いた。ふと、りんが座り込んだままのその傍らに、りんが躓いた時に雪が払われたのか一輪の花が顔を覗かせていた。
 寒い雪の中、すっと姿勢正しく茎を伸ばし白い五枚の花弁の中に零れた光のようなしべを見せる。

「……お前に出来る事は、この私の傍らに在ること。ただ、それだけだ」
「殺生丸様!!」

 それをりんが望むのであれば。

「私の傍らに在ると言う事は自分の命を削る事になるが、それでもいいのだな」
「命を…?」

 りんにも判りやすいように雪を踊らせ、妖気のゆれを見せてやる。

< 「巫女のように破邪の気を持たぬお前には、この妖気が身を蝕む。お前にもっと深く触れれば、この身に蔵す毒気さえ注ぐ事になるだろう。人並みの長さを生き永らえる事も出来るお前が、おそらく私の元に在り続ければ二十歳を待たずに終わるだろう」

 お前を前に戸惑うその訳を、真実を伝え、それでもお前がそれを望むのであれば。

「りんの命は、あの時殺生丸様に頂いたもの。それをまた、殺生丸様にお返しするだけ。ずっと殺生丸様のお側に居たいというのは、りんのわがまま。そのわがままが叶うなら、りんに出来る事は、殺生丸様の為になることならどんな事でもする覚悟は出来てます」

 にっこりと力強い笑顔で、そしてどこか大人びてりんが答えた。
 ならば私も私の願いを…、いや欲を満たす為、お前の願いを叶えよう。
 お前をその時まで守り抜く、その誓いを胸に秘め。

「りん……」

 雪の上の花のようなりんの前にひざまづき、手を顎にかけ上向かせる。
 陽の光が、花びらに触れるように。

 りんの小さなくちびるに触れたことはある。


 しかし、口付けを交わすのはこれが初めて ――――


 冬枯れの森の中。白い凍てついた木々の枝が陽の光をきらきらと煌かせ、真白い雪の原に光の粒を降らせている。風もないのにりんの傍らの名も知れぬ花が、微笑むように揺れていた。


 この森の木々が芽吹き、今は白骨を思わせる枝々が萌え出た葉に包まれる頃、地表の雪も消え去り人も通わぬこの山奥に分け入る者もあるだろう。雪の下から健気に咲いたあの花は、春に先駆け光を好んで咲く節分草。葉が茂り雪が解け、人が山奥に入る頃には姿を消す人嫌いの花。


 その花のように、一冬ここに咲いた花も人で無いモノも、微かな名残を残すのみ。
 人の輪を外れた「人の子」を胸に抱いて、天翔ける大妖の幻影が光に溶けた ――――


【終】
2008.2.9


花言葉:気品・人間嫌い・光輝・拒絶・ほほえみ


= あとがき =

一年で一番寒さが厳しい季節です。この時期を過ぎれば一歩一歩春に近付きます。
また春は「変化」の季節。色んなものが成長と言う名の下に変わって行きます。
今まであった関係や気持ちすらも。
このシリーズの二人も、全てを受け入れた上で一歩前に踏み出したようです。
恋愛に良く似て、恋愛とは少し違うスタンスの二人をこれからも書いて行きたいと思っています。

 

【 桃花へ 】



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