【 早緑 −さみどり− 】


 夢のような、嵐のような時だった。

 散ってしまった桜に、過ぎた夜を思う。あまりにも色んな事がありすぎて、あたしの頭がついてゆかない。体の疲れも加わって、目の前もぼうぅとしている。
 気が付けば殺生丸様はすでに身支度を終え、いつもと変わらぬ冷ややかなお顔をされている。裸のまま春の日差しの中に座り込んでいたあたしも、着物を着なくちゃと桜の花びらに塗れた着物に手をのばした。手をのばして、あまりの無残さに手が止まる。枯れて茶色になった桜の花びらと泥と、あたしの流した血と ――――

 自分の体を見てみれば、こちらもその着物とそう変わりはない。
 どうしようかと困った顔をして、殺生丸様のお顔を見る。りんの視線に気付いたのか、すっと視線を投げかけ、それからぴくりとご自分の後方を振り返られた。りんが疲れて視界がぼぅとしているだけかと思っていたけど、どうやらこの辺りには殺生丸様が結界を施されているようだった。

「殺生丸様……」

 小さくかけた声は、思いのほか大きく鳴った自分の腹の虫の音に掻き消される。あまりの恥ずかしさに体中を真っ赤にして、ちいさく縮こまり土竜(もぐら)にでもなりたい気分。
 そんなりんを見て、殺生丸様の目元が緩む。

「……腹が減っては、な。どうやら邪見達が戻ってきたようだ」
「えっ…! でも、りん、こんな格好でっっ…!!」

 あたしは慌てて、自分の体を両手で隠すように抱え込んだ。

「安心しろ。誰にも見せぬ」
「でも……」

 殺生丸はあたしの困った具合は関係ないみたいなお顔で、すっと立ち上がりご自分で張られた結界の境目に歩いてゆかれる。ここで殺生丸様が結界を解かれたら、とあたしは目をつぶりぎゅっっと小さく小さく石のように固まった。
 

( ……おかしなものだ )

 殺生丸は背後の、くるくる変わるりんのそんな気配を楽しんでいた。妖ゆえに人間のような些細な情の動きは判らない。それでもこのりんは、己が妻として娶った。ならば夫婦としての営みは当たり前の事。人であろうと獣であろうと、睦みあう営みに変わりはない。
 それが恥ずかしい事だとか、非道な事とは少しも思わぬ。

 色欲に塗れた人間のような手練手管や、享楽さ淫猥さを欲してりんを抱いた訳ではない。
 己の行為に、恥ずべき点など一点もないと自負している。


 ……そして、覚悟もしている。


 りんを娶ると言う事が、どんな意味を持つか。
 これは己が選んだ、己の道。
 一人では歩けぬ、魂の伴侶をともなった旅の始まり。

 だからこそ、二人だけの華燭の典。
 私にはお前だけが、お前には私だけが ――――

 二人生きてゆく為の、その証として。

 契りを交わしたとはいえ、りんはまだ幼い。今感じているこのおかしさが、その幼さゆえだと思えば、それすらも愛おしく感じる。

( ああ、確かに私もおかしいな )

 目をつぶったりんも、結界に阻まれた邪見たちにも、どんな表情を殺生丸が浮かべているか知る事はないだろう。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「邪見様、結界が……」

 三日前、この山桜の地を発った時にはなかった結界を見て、琥珀が微かに不安の色を浮かべる。周りを見回せば、嵐でも吹き荒れたのか山桜の花や枝は風に折られ、散り飛ばされていた。

「春先の嵐じゃろう。殺生丸様が張られた結界じゃ、なんの心配もいらん」

 この地に吹き荒れたのが、本当の春の嵐だったのか、昂ぶる妖気の奔流によるものだったのかは定かではない。ただ判るのは、りんの為に張られた結界であると言うことだけ。
 荒れ狂いほとばしる妖気の害からりんを守る為に。

 事情を知っている邪見には、この有様が全てを物語る。ぼんやりと霞んで先が見えない空間がぐにゃりと歪み、濃い霧の中から抜け出すように殺生丸の姿が現れた。

「殺生丸様……」
「ただいま戻りまして御座います、殺生丸様」

 邪見が恭しく殺生丸の前に頭を下げる。

「首尾は」

 一言、そう声を発する殺生丸。

「はい、流石はご母堂様御下賜の器に御座います。その価値は下賎な人間どもにもよく判るようで、飛ぶように売れてしまいました」
「そうか」
「それから色々と入用なものを手に入れて参りました。まずは何からお目にかけましょう?」

 邪見が琥珀に目で合図をし、阿吽の両脇に取り付けた柳行李の所に行かせる。

「……りんの着替えと、何か食い物を」

 その言葉がこの山桜の下での三日間の、二人の首尾を邪見に知らしめた。

「はい。それでは、これを……」

 ちょこまかと小走りに邪見も柳行李の所に行き、琥珀の腕に京の町で仕立てさせた着物一式と薬種問屋で買った物を包んだ風呂敷と、それから今朝出立する直前に買ったつき立ての餅の包み二つのうちの一つとを積み重ねた。
 琥珀が荷物を運ぼうと結界に向かって歩きかけた時、すいっと琥珀の腕の中の荷物を殺生丸が取り上げた。

「あっ、俺がお持ちします!」

 その声に、どこか冷たい視線を投げかけ、そのまま殺生丸は結界の中に戻って行った。訳のわからない鋭く冷たいものを感じて、琥珀は一瞬足が竦む。邪見はそんな琥珀を横目で見ながら、残ったもう一つの餅の包み手に琥珀に近付いてきた。

「……お前、気が利いているようで、どこか抜けてるのぅ。まぁ、そこがまだお前が子どもだと言う事かのぅ」
「邪見様、それはどう言う意味で……?」

 実年齢は年若くても、経験値や実績ではそうそうそこらの大人には引けは取らないと思っている。こんな風な子ども扱いは、琥珀の矜持を刺激した。

「りんが腹空かせて、着替えがいる状況だと言う事じゃ」
「だから、なに……」
「まだ判らんのか? ほら、お前にも餅をやろう。それを喰って考えろ」

 答えをはぐらかせたような物言いで、琥珀の手にも紅白の餅を乗せる。

「俺、まだ腹減ってません」
「祝いじゃから、腹が空いてなくても喰え」
「祝い?」
「ああ、そうじゃ。なにやら人間のしきたりでは祝い事があると、餅を食う習慣があるようじゃの。よくは知らんが古くは契りを交わした男女が互いに餅を食うしきたりもあるとか。りんは色気より食い気だし、餅は好きだし、まぁ良かろう」
「ちょ、ちょっと待ってください、邪見様! それって、りんが殺生丸様の……」
「ああ、そう言う事じゃ」

 ふっ〜、と肩の荷を下ろしたような溜息をつき地べたに座り込むと、邪見は手元の餅を一つ、ぱくりと口にした。琥珀は餅を手にしたまま、視界の利かない結界の中を見つめている。

「邪見様」
「あ、なんじゃ?」

 琥珀も腰を下ろしながら手にした餅を一口かじり、言葉を続ける。

「邪見様は、その… そーなるのをご存知だったのですか? りんが殺生丸様のお嫁さんになるのを」
「うむ。今までの二人を見ていれば、なんら異存はあるまい? お前だとて、そう思っておったじゃろ?」
「それは、そうですが……。でも、まさか、こんなに早くだとは」

 もう一つ、餅を食らい飲み込んで邪見が言う。

「お前、あの殺生丸様だぞ? あれでも十分、自重なさっておられた。もともとが大妖怪、人間どもの常識と比べるのが間違いじゃ」
「邪見様……」

 邪見は手に付いた餅取り粉を舐めながら、さらに口を開く。

「人間の中には、歳若い娘を好んで閨に引き込むような男もおるらしいが、まさか琥珀、お前も殺生丸様をそんな手合いと同じとは思ってはおらぬだろうな?」
「そんな! 俺っっ……」

 邪見の金壷眼が結界の奥を見つめる。

「……早かろうが遅かろうが、それが殺生丸様にとってどれ程の意味があろう? 共に在れる時の長さなど、殺生丸様からすればほんの一刹那。その僅かな時を、少しでも共に在りたいと言う気持ちを抑えて置けとは、ワシもよう思わんわ」
「邪見様、俺……」

 結界の奥から視線を外し、邪見は琥珀を見据える。

「何があろうとりんは、りんじゃ。じゃが、今はもう殺生丸様の妻であると言う事を忘れてはならんぞ、琥珀」
「はい……」

 飲み込んだ餅が喉に引っかかったような、息苦しさ。妹のように感じていたりんが、急に遠くに行ってしまったような気がした。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 結界の外での事は何も知らず、りんは殺生丸が戻ってくるまで息を潜めていた。

「まるで石のようだな、りん」

 その気配と掛けられた声に、りんの小さな肩がぴくっと震える。

「殺生丸様……」
「新しい着物だ。あれはもう使い物にならぬ」

 続く言葉にりんが顔をあげると、あの二人の釆女が殺生丸の腕からその荷を受け取る所だった。

「りんの身支度を」

 一声そう言い付け、殺生丸は新床の褥としたあの山桜の古木の向かい側に腰をおろした。殺生丸の命を受けた釆女がりんの手を取り立ち上がらせる。りんの体は殺生丸の妖毛を敷いていたとはいえ、獣と同じ土の上の情交で泥まみれ。疲労の色も濃く、至るところに傷がある。憐れとしか言いようがない、その有様。
 そんな扱いを、りんが自分で辛いとか哀れとか思っていないとしても、それは事実。

 りんの小さな体には、この三日間でつけられた鬱血の痕が青黒いものから鮮赤色まで散り荒らされた山桜の花弁のように残っていた。汗と涙と情交の残滓が肌の上に何本も筋を作っている。立ち上がったはずみに、りんの胎内から殺生丸の精とりんの初潮と破瓜の証が溢れ滴り落ちた。自分の身に何が起きたか、りんはまだ知らないでいる。知らないままに、それら全てを受け入れていた。

 りんのそんな様子を、向かいに座った殺生丸が凝視している。いつもと変わりなく思える氷のような表情に、微かに浮かぶものは……。

「あ、あの……」

 りんの手を引き一人の釆女が、大きな風呂敷の上にりんを立たせた。いつの間に出現したのか、その風呂敷の周りには湯浴みに使う道具一式が揃っていた。殺生丸から預かった新しい着物一式は艶やかな黒い大きな衣装盆のうえに置かれている。

 袖を襷かけにした二人の釆女が、りんの傍らに立つ。一人は白木の湯桶と柄杓を持ち、一人は光沢のある袋のような洗い布を手にしていた。一人がそっとりんの身体に柄杓の湯をかける。少し温めの湯温で、疲れきったりんの身体に優しく染み渡る。妖の道具だからだろう、湯桶からいくら湯をくみ出しても、その湯は尽きる事無くりんの身体に注がれ汚れと疲れを流し去る。
 洗い布を手にした釆女が、りんの肌にそっと洗い布を滑らせた。すべらかな肌触りのその布は、絹で出来ていた、中に肌の汚れを落とし肌理を細やかにする糠が詰められていて、りんの肌を拭うたび、滑らかな感触がりんの肌に生まれてくる。それと同時に体の骨の部分に纏わりついているような重たいものが解されてゆくのを感じた。首の下から肩、胸、腹と絹の糠袋はりんの身体を洗い上げてゆく。釆女の手がりんの下肢の間に触れそうになった時、ぴくりとりんは身体を震わせた。

「自、自分で洗います! だから、あのっっ!!」

 さすがに恥ずかしくなったりんが、そう叫ぶ。そんなりんの反応には一切構わず、軽く足を開かせ湯を注ぎ、丹念に洗い上げ磨き上げていく。注ぎ湯に薄赤い筋がひとすじ。

( ……痛かったから、やっぱりどこか怪我をしたんだ )

 流れてゆく殆ど途切れそうな赤い印を見ながら、りんはぼんやりとそんな事を思う。

( 不思議だな。あんなに痛くてきつくて死にそうなくらい苦しかったのに、ちっとも嫌じゃない。それよりも、あんなにも殺生丸様のお側にいられたのが嘘みたいで、嬉しすぎてりん、罰が当りそうだよ )

 釆女の指に触れられた事で、燠火のような鈍い痛みが下腹に宿る。じんじんとするその痛みの中に、殺生丸の存在を感じりんはぽぅと肌を桜色に染めた。
 大地や荒野を駆ける狼や天空高く舞い遊ぶ鶴などが、どれほど睦みあおうと決して愛欲に染まり醜悪になる事がないように、この高貴な獣と小さな獣の番(つがい)もまた同じ。

 妖の風呂敷は不思議なもので、注がれた湯を含むそばから乾いてゆく。辺りが湯びたしになってぬかるむ事もない。
 身体は綺麗に洗い上げられた。今度はりんを風呂敷の上に座らせ、頭を軽く前に垂れさせる。りんの癖のある黒髪に湯が注がれ、髪についた泥と枯れた桜の花びらの欠片が湯に流されてゆく。糠袋を持っていた釆女が、今度は湯桶の中に何かの木の実を入れたものを持ってきた。薄黄緑色の小さな木の実、それを湯の中で揉むと白い泡が立つ。その泡を手に掬い、りんの髪に乗せて髪を洗い始めた。

 とても気持ちが良かった。あれほど疲れ果て、それこそ泥に首まで浸かったような体の重さがすっと軽くなり、伸びやかな感じさえする。こんな風に誰かに綺麗に洗ってもらうような湯浴みなどした事がなく、生まれてこの方髪を川の水以外で洗った事も無かった。

 どれもが、りんにとっては初めての体験。
 殺生丸のりんへの想いの現れ。

 最後に少し熱めの湯を存分に身体中に浴びる。出湯に浸かった訳ではないのに、身体の芯から温まり、疲れはすっかり消え去っていた。ぽかぽかと湯気が立っているりんの身体を手早くきれいに釆女たちが拭きあげる。洗い髪も雫が垂れないよう、大き目の布で包み上げられて。
 邪見と琥珀が京の町で見立ててきた、新しい着物を着付けられる。初めて身に着けるものも多かった。腰巻に肌襦袢、その上に襦袢をつけて本身断ちの着物を着付ける。帯も今までみたいにそれ一本を結べば済むようなものではなく、帯と帯揚げ帯締めと。腰巻の下にも月帯を締めさせられて、息苦しさに大きく胸を喘がせて肺の奥まで息を吸込む。

 最後に洗い髪を良く拭きあげ乾かし、香りの良い香油を髪に馴染ませ目の細い梳き櫛で梳き整える。はねっかえりな癖のあるりんの髪に艶が増し、どこかしっとりとした風情を醸し出す。湯で温まったせいか、息苦しさからか、ほんのり上気したりんの頬は、そのままで十分初々しい美しさ。

「りん……」

 身支度の終ったりんの姿を見、思わずその名が殺生丸の口をつく。

「ありがとうございます、殺生丸様。こんなに綺麗にしてもらって、なんだかりんには勿体無いくらいです」

 はにかみながら、そう礼を述べるりん。
 僅かな時の間に、目まぐるしく変わって行く様に殺生丸は思わずにはいられない。

 初めて逢ったあの時は、本当に薄汚い貧相な娘だった。
 次に会った時は、狼に喉笛を食い千切られた物言わぬ骸だった。

 それを、この手でこの世に呼び戻し ――――

 どこまでも連れ歩いた。
 手離そうと思えば、捨て置こうと思えば、いつでも出来たはずなのに……

 いつしか「守りたいもの」として、己の胸の奥深くに棲みつき、やがて ――――

 妻にした。
 それは僅か、三日前の事。
 妻にするには幼いのは承知で、それでもそれが限界で。

 過ぎ行く時から、お前を守り切れない事を知っている。
 だからこそ、共に在る事をこの身に刻みたかった。

 あるがままを受け入れて、そうしてお前は微笑む。
 三日前は、まだ子どもだったりん。

 りん。
 お前は今、私の妻だ。

「お前の素肌を他の者に晒すくらいなら、いくらでも着飾らせてやる」
「殺生丸様……」

 そのらしくない台詞に、りんは仄かな温かさとも恥じらいとも付かない感情を抱いた。湯浴みの後片付けを終えた釆女がある意味無粋なまでにお役目熱心に、二人の間に毛氈を敷き三方に餅を盛ってりんの前に差し出す。三方の横の器には、仄かに甘い香りを漂わせている茶のようなものを注いでいる。

「腹も空いているのだろう。食え」

 返事の代りに、もう一度りんの腹がなる。
 やはり、まだまだ子ども。
 桜色に上気していた頬が、真っ赤に染まる。

「人心地ついたら、ここを出立する」
「あ、はい!」

 それは早く食べろとの、殺生丸の促し。りんは三方に盛られた小ぶりの紅白の餅を一つ、二つと食べ、甘茶を飲んで喉を潤し、それからまた餅を三つほど食べた。
 子どもの顔で、美味しそうに餅を食べるりんを見ながら、ふと思う。

( ……三日夜の餅、か。三夜契りを交わしたその朝に、ともに餅を食べ、婚姻の証とする人間どもの慣わし。食べぬも三つ以外も破談と言うが、人の世を離れたりんには無用なこと )

 ふぅと腹が満ち、一息入れて満足そうなりんを見て、殺生丸は立ち上がった。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「ふふふ、どうなる事やらと思うたが」

 天空の、四季を問わぬ中庭の池の底を覗きながら、美貌の妖がその顔(かんばせ)に笑みを浮かべた。
 尋常ならざる妖気を地上に感じ、何事かと探ってみても強力な結界に阻まれ状況を確認する事は出来なかった。おそらく根無し草な我が息子が、事に及んだのであろうと察せられたが、その相手が相手。ただの何の力も無い、年端も行かぬ人間の小娘では、そのつもりはなくとも昂ぶる思いに相手を壊し、貫き殺さぬとも限らない。
 仙桃の実の効用は、娘の身体に注がれし妖気や毒気を中和しようが、その前に身体をバラバラにされては効きようもないのだ。

「……しかし、あれは傍迷惑なことだな。娘大事に結界を張るのは良いが、持て余した昂ぶった妖気を結界の外に放出されては、辺りが荒れ放題になる」

 手にした扇をゆらりと優雅に揺らし、池の底の水鏡から視線を外した。

「主様、なにか御座りましたでしょうか?」

 ご母堂付きの新入りの女官が、その様子に気づき控え目に声をかけた。

「ああ、殺生丸が妻を娶ったようじゃ」
「若様が? それはめでたき事にございます。さっそく披露の宴の支度をいたしましょう」

 これは慶事と、女官はすぐにも動こうとその場を離れようとした。そんな女官の背中に、のんびりとご母堂の声がかかる。

「無駄じゃ、無駄。宴を催したところで、あれは絶対ここには来るまいよ。それにお前達にとっても、慶事とは言えまいからのぅ」
「それは、どうのような意味でございましょうか?」

 この国の一、二を争う大妖怪であらせられる、主とその子息。その子息の妻となるほどの者ならば、それに見合ったものであろう。そのたった一人の息子が妻を迎えたというのに、ご母堂のこの反応の無さはなんだろうと女官は思う。もともと親子の情の薄い母子ではあると聞き及んではいたが、婚姻ともなれば一族のありようにもかかる事。

「……あれの妻は、人間の小娘じゃ」
「人間の…? では、噂は本当でござりますのか!?」

 新入りの女官は、実はまだ殺生丸一行を目にした事はない。女官仲間から、この城の若君は物好きが過ぎて、人間の子どもを連れ歩いていると聞かされていた。

( 人間の子ども? ああ、まだ人間でも雛のうちなら美味く食せられるから )

 この城の主の本国である大陸の向こうから来たばかりの女官は、すぐさまそう思った。
 妖怪とは、そうあらねばとの思い。その考えが、今女官の中で大きく膨らむ。

「噂? ほぅ、耳が早いな。そう、その娘よ」

 ご母堂の言葉との、ほんの僅かないすれ違い。

「妖怪の風上にも置けぬ、愚か者。いままで数多の妖の美姫があれに秋波を送り、誘いかけていたと言うにその者等には目もくれず、人間の娘を選んだ痴れ者よ」

 女官の顔に険のある表情が浮かぶ。

「なんと身の程知らずな人間の娘であることか! お許しがあれば、この私が粛清致して参ります」

 憤る女官を前に、ご母堂が呆気に取られた表情を浮かべた。

「そうか、お前は最近大陸から来たのであったな」
「はっ?」

 ぽつりと何気なく、言葉を発するご母堂。

「止めておけ、そんな事をすればお前の首が飛ぶぞ。捨て置け、捨て置け。あれは血筋じゃ、ろくでもないところがあれの父に似てしもうたのじゃ」
「主様!!」

 すっと半眼のまま、はるか遠くを見るような視線を地上へと向ける。

「……変わる時には、変わるものよ。ただ、その時期が巡ってきただけの事。あれは、もとより一族からはぐれていたもの、今更であろう」
「若様を、御諦めになると?」
「力尽くで従わせようとすれば、この城は崩壊するやもしれぬ。放っておけ、人間の命の長さなど、どれ程のものであろう。ひと夏の蝉のようと思えば、何を慌てる事もあるまい」
「主様……」

 そう、全てを承知で殺生丸はりんを ――――

「りんが手綱を取っている間は、あれも少しは大人しかろう。その労に報いてやるのも、器量であろうな」

 そのご母堂の言葉に、新参の女官はその人間の娘がご母堂の気に入りである事に気が付いた。

「あの、それで宜しいので……?」
「ああ、しばらくはあれのお陰で退屈せずに済むからのぅ。それにしても新妻を野山や夜空の下で裸に剥くあれの心根がよう判らぬ。りんにすれば、男は殺生丸が初めての男。されるがままじゃからな」
「……………………」

 ご母堂の手にした扇が、ゆらりゆらりと揺れている。

「閨の支度くらいはしてやるか。確か玉造りの閨が宝物殿にあったはず。あれならば、使わぬ時は掌に乗る玉の大きさじゃから、旅暮らしのあれ達にも荷にはなるまい」

 その言葉は、そのままご母堂の命令。
 側にいた女官は不承不承な気持ちを押し殺し、主の所望のものを宝物殿より持ち来る。そうしてそれは、ご母堂の手から阿吽の横腹に着けられた、りんの為の柳行李の中へと送られる。

 それを見つけた殺生丸の反応は、ここではあえて書きはすまい。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 あれから一月近くが過ぎた。
 近隣の野山のもうどこにも桜の花の影はない。
 良いお天気が続き、野営してもそう困りもしない。

「今日も良いお天気ね」

 阿吽の背に揺られ、りんが晴れ渡った空を見上げて歌うようにそう言う。殺生丸様と邪見様は今夜の宿を定めに行かれている。

「ああ、そうだね。里に居た頃は、そろそろ更衣(ころもがえ)だったな」

 琥珀は阿吽の手綱を引きながら、相づちを打つ。吹き渡る風はからりとした中にもどこか少し熱っぽさを含み、次に来る季節の予兆を感じさせる。空高く囀る雲雀の声が、どこまでも遠くに響いてゆく。

( 更衣(ころもがえ)、かぁ…… )

 ちらりと阿吽の上のりんの姿を覗き見て、その変化振りにどきりとしたあの時の事を思い返す。

 俺や邪見様が京の都に商売に出た間に、りんは殺生丸様の妻になっていた。一緒に出かけた邪見様はその事を含み知っていて、知らぬは俺ばかりなり。
 だから、帰ってきてそうと知らされた時の、あの驚きは今も鮮明に覚えている。

 確かにいずれりんは殺生丸様の元に嫁ぐだろうと思っていた。
 あの頃のりんが、子どもと子どもじゃないものの端境に立っていたのは自分でも感じていた。
 時折見せる何気ない仕草にどぎまぎしていたのは、自分だし。

 単の赤と白の市松模様の着物を着て、見送ってくれたりんの姿。
 そのりんを殺生丸様が、と思うと何か上手く言えないけど、胸の中が粟立つ様な感じがした。

( 邪見様…… )
( なんじゃ、琥珀 )

 あの時、餅を食いながら交わした会話。

( りんは大丈夫なんでしょうか? その、やはりりんには早すぎて、無体なことになってしまったのでは…… )
( さぁな、それはワシには判らん。殺生丸様がりんをどのように扱われたかなど、詮索した事が殺生丸様に知られれば、首を刎ねられかねんぞ )

 ちらりとまだ晴れぬ結界を眺め見ながら、邪見様はそう言う。

( 妖怪と人間、大人と子ども、これほど違えば何がどう起きようと、あってしかるべきじゃろうな )
( そんな! 邪見様っっ!! )

 この感覚の違いは、妖怪と人間だからこそ仕方がない事なのか?

( 間違うなよ、琥珀。何も殺生丸様はりんを苛めたい訳でも貶めたい訳でもない。それどころか今までどんな者にも注ぐ事はなかった『情』を、りんに向けておられるのだ )
( ………………… )

 すっと邪見様が視線を手元に落される。

( そう例えて言えば、獅子が全力で子猫に構うようなものじゃろうか。成るように為る、それしか言えん )

 だから、結界が解けてりんが殺生丸様と一緒に姿を表した時の安堵感は口に出せないほどだった。いや、なによりもりんの美しさに目を奪われた。

( ほぅ、こりゃまた馬子にも衣装かのぅ! いや、よう似合っている )

 口ではああ言っていた邪見様だけど、その言葉声の調子に俺と変わらぬくらいりんの身を案じていた事を知る。すっかり身仕舞いを改め、大人っぽく少し恥ずかしげに殺生丸様に寄り添うりんの姿。その顔には、内側から溢れるような喜びが浮かんでいる。そんなりんを見て、俺は思った。

( ああ、本当にりんは殺生丸様の妻になられたのだな )

 これからはりんを妹のように思い守るのではなく、大事な主君である殺生丸様の奥方として接する事になるのだと。


「日差しが強くなった。日焼けしないように木の陰を歩こう」

 俺は山桜の木陰を選んで、阿吽の手綱を引く。瑞々しい若葉を通して差し込む陽の光がりんの周りで弾けて煌くようにすら見える。りんは今、とても幸せなのだと思う。
 相変わらず殺生丸様は単独行動中だが、少し前とは様子が変わった。りんの側に居られる事が増えた。おれ達からりんだけを連れ出す事も。

 そう、それは大抵は日が暮れる頃。

 今夜の野営地を決め、では夕餉でもと思う頃になるとりんを呼ばれる。そしてそのまま、朝まで ――――

 俺は邪見様に釘を刺された事もあり、それ以上の詮索をするのは止めている。
 したところで、余りにも無意味。

「ねぇ、琥珀。本当にりん、こんな風でいいのかな?」
「えっ、それってどういう意味?」

 殺生丸様の妻になり、日々大人びてきてはいても、その心のうちはまだ幼い。その幼さが、時折りんの不安を煽るのだろう。

「ん、だってりん、こんなに良くしてもらっているのに、なんのお返しも出来てない。綺麗な着物を着せてもらったら、前みたいに泥んこになって食べ物を探したり、山の中を歩いたり出来ないし」

 お姫様のような待遇になっても、りんはりん。
 そんなりんを良く判っていらっしゃるから、殺生丸様は旅を続けれるのかもしれない。

「―――― 殺生丸様へのお返しは、りんがいつも笑っていることかも知れないよ」
「琥珀?」

 そう、そのありのままのりんが、あの殺生丸様を変えたのだから。
 だけどりんには、そうは受け取ってもらえなかったみたいだ。

「……笑っているだけって、それじゃりん馬鹿みたい。りんだって、もっといろいろお役に立ちたい!!」

 ……いや、十分に役に立っているよ、りん。
 むしろりんにしか出来ない事を、軽々とやり抜いている事に気付いていないのかな?

「りんは自分をそんなに役立たずだと、本当に思ってる? じゃ、今みたいじゃなければ、りんはどうするつもり?」

 その問い掛けは、まだどこか自分の胸の中に残っていた『この状況を認めたくない気持ち』の表れだった。

「今みたいじゃなかったら…? それって、りんが殺生丸様のお嫁さんじゃなかったらって事?」

 りんが緑の光の中で、そう尋ね返す。

「ああ、そう言う事になるかな」

 若葉を揺らして、五月の風が渡る。木漏れ日が、りんの上で光の玉を幾つも転がす。

「……やっぱり、お側にいたい。うん、それがダメだって言われて置いてきぼりにされても、きっとりんはどこまでもついて行く。傷だらけになってボロボロになっても、この気持ちは変わらないから」
「りん……」
「そうなったらあたし、いくらでも頑張れるよ! 着る物だって食べる物だって、必要な物は盗んででも手に入れて、この足で追いかける!!」

 その言葉と同時にざぁぁと一陣の風が吹きぬけ、伸びやかな枝を揺らし、柔らかな若葉を翻させた。薄緑の天蓋がはためき、中天に輝く日輪がりんの背中から光を投げかける。

 りんと命溢れる若葉の早緑が、一つに解け合う。

 俺にはもう、なにも言える言葉は無かった。
 気付くと、翻った若葉の影にちいさな桜の実。

 二つ並んだ小さな赤い実は、俺に微かな予感めいたものを思わせた。


 いつの日か、殺生丸様とりんと…、そして二人に似たお子と。


 そんな姿を、今と変わらず見ている俺と邪見様と阿吽。
 命が交わり繋がってゆく、そんな光景をこの目で見たい。

 

 決して終らない、絆の物語を ――――


【終】
2009.6.17


花言葉:小さな恋人 上品 あなたに真実の心を捧げる


= あとがき =

2年前、まだWEB拍手のお礼画面にSSを載せていたころの事です。
月替わりでSSを入れ替えていて、配布されていた「20のお題」をクリアし、次にどうしようかと考えていた時、サイト名ちなんで「月の花」の花言葉をモチーフにしてみようかと思い立ちました。
そうして始めた、「花ごよみ」です。
最終章のラストは、花ごよみ1話めの「紫陽花」に繋がるよう仕上ました。
あの頃のりんちゃんより随分と大人になりました。
まだまだ旅を続ける一行です。



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