【 初花 −さくら− 】


 旅を続ける俺達には、足を止めた場所がその日の宿。昨日の夜は、山裾から平地へ繋がる野原の端で休んだ。森が終わり、木々がまばらな林へと変化するその境界。夜目に白い枝が寒そうに見えた。
 殺生丸様とりんが、ご母堂様の庭から帰ってきて一月ばかりが過ぎた。季節は時折冷え込む事もあるが、もう霜が立つ事もない。糧を得にくい季節が終った事を、俺は朝目覚めた時のうららかな日差しと風に感じていた。
 
「さてと…、この間天空の城から頂いたご馳走はさすがに食べ尽くしたし、そろそろ食糧を探しに行くかな? それとも、あの器を都で売って替わりに何か買い込んできてもいいかも」

 俺は最後のご馳走を手に、のんびりとそんな事を考えていた。ご母堂様がお土産に持たせた天宮料理は妖だけでなく、神仙も食するというだけに日持ちも腹持ちも良かった。少し食べれば腹はくちくなり、気力体力が全身に満ちてくる。そして食べ尽くすまで、その食糧は腐る事もなかった。
 後に残ったのは、それは見事な器が沢山。器自体にも不思議な力があって、空になった水差しや鉢に水や木の実を入れていたが、味が良くなり痛むこともなかった。売るのは惜しいが、旅の空にはこんなに要らない。りんに聞いて気に入りの器だけ残し、後は旅の路銀にした方がきらびやかな器を持って歩いて山賊に狙われるよりはマシだろうと算段する。

( あ〜、でも殺生丸様の事を知って、狙うような馬鹿な山賊もいないかな? 確かに惜しいけど、邪魔って言えば邪魔ってのが本音だし )

 よし、りんに選ばせた後に売りに行くかと、俺は手に持った最後のご馳走を食べた。先に食べ終わったりんが、器を洗いに行った所へと足を運ぶ。川原で着物の裾を少したくし上げ、器を洗っているりんの後姿。引き締まった足首が目に眩しくて、今まで見慣れていたりんの姿がなんだか大きくなったような、大人っぽくなったような気がした。

( りん…… )

 どこか、雰囲気が違う。
 それが何か、俺には上手く言い表す言葉がないのだけれども。

「ん? 誰?」

 俺の気配を感じたのか、器を洗っていた手を止めてりんがこちらを振り返る。器を川原の大き目の石の上に置き、裾を元に戻す仕草に娘っぽさを感じた。

「琥珀、どうしたの?」

 小首を傾げ、声をかけてくるりん。その様子はすっかり見慣れたいつものりんなのに、どぎまぎしている自分を感じる。

「あ、いや…。お土産のご馳走も全部食べてしまったし、空になった器をどうしようかと」
「器? これご母堂様にお返ししないといけないんじゃないかな?」
「どうやって? ご母堂様のお使いが取りに来てくださるか、殺生丸様が返しに行かれるか、どちらかだと思うんだけど」
「……そっか、どちらにしてもお手数かけてしまうんだね。じゃ、どうしよう、これ?」

 思案気に足元に視線を落すりんの横顔や首筋を、思わず綺麗だと見とれてしまう。

「持って歩くのは正直、邪魔だと思う。阿吽の背中の半分が空の器で埋まっているし」
「……そうだね。りんが阿吽の背中を取っちゃって、殺生丸様はご自分の足で歩かれているし。そのせいかな? 最近、良くお一人でお出かけになるのは」

 りんのその言葉は、どこか寂しげに俺の耳に響く。確かにここ半月ほど、殺生丸様はよくお留守にされる。夜風の寒さも和らいできたせいか、りんが眠りにつく時の寒さ避けの妖毛の出番がなくなったとでも言わんばかりに。
 そこが俺にも、少し気にかかっていた。冬の初めに、やはり同じように留守がちにされて、寂しさでりんが夜も眠れないようになったあげく、風邪まで引いて寝込んだ事があるのにと。でも、そんな事を口にしたら、きっとりんの不安を煽ってしまうだろう。

「うん…、何かお考えのある事だと思うよ、俺は。大丈夫さ、りんを置いてどこにも行きはしないって」
「ありがとう、琥珀。りんが不安なのはりんが置いて行かれる事じゃなく、りんがちゃんとついていけるかなんだ」
「りん?」
「あ、ううん! なんでもないよっ!」

 何か言おうとして、口ごもるりん。きっとそれは、俺が立ち入ってはならない事。

「それでさ、その器を都に持って行って売ってこようかと思うんだ。そうしたら荷にはならないからね」
「これ売っちゃうの? その前に殺生丸様のにお伺いした方がいいんじゃないかな」
「それはそうだ。りんが返事を聞いてくれたら、いつでも都に売り行けるよう準備はしておくよ。その前に、残しておきたい器があれば別にしておいて」

 そう言い置くと、俺はりんの側を離れた。
 いつもより、りんを意識して。
 
 お転婆で妹のようにしか見えなかったりんが、とても綺麗に見えた。そして今更誰も、あの二人の間に入れない事を良く知っている俺でさえ、今のりんに惹かれそうな気がして。

 ―――― 男女七歳にして席を同せず

 この言葉の意味を、実感したような気がした。

( あ、だからか…。殺生丸様が一人でお出かけになるのは )

 何となく、すとんと胸の中に落ちるものがあった。

「さてと、折角の極上の妖の器だ。外箱も付けて高く売れるようにするか」

 何か自分で仕事を見つけないと、気になって仕方がないような気持ちがする。箱を作ると言う仕事を自分に課して、上手く枯れた木があれば良いがそうでないなら生木でも燻せば使えるだろうと踏んで、俺は山の中に手頃な木を探しに入った。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 りんは洗い終えた器を手に、邪見や阿吽の待つ昨夜の塒に戻る。戻ってみると邪見はご母堂から頂いた緋毛氈を広げ、その上にご馳走が乗っていた器を広げていた。

「どうしたの? 邪見様」
「あ〜、これをどうにか上手くまとめられないものかと思案しておったんじゃ。これのせいで、ここしばらくワシは阿吽に乗れずにいるのでな」
「あ、そうか…。邪見様もそうだよね」
「荷になるからといって、粗末に扱おうものならあのご母堂様の事じゃ、どんな祟りがあるやもしれん」

 りんは広げられた緋毛氈の前にかがみ込み、手に持っていた器をそこに置き、並べられた器の一つ一つを丹念に見ている。

「あのね、邪見様。琥珀がね、殺生丸様のお許しを頂いて、この器を都に売りに行こうかって言ってるんだ。邪見様はどう思う?」
「器を売る? 殺生丸様がお許しになれば、それは良い案じゃな」

 りんの手が、緋毛氈の上の杯の上で止まった。大きさは差し渡し二寸ほど、水晶でできた薄手の杯。光りに透かすと丁度その曲面が明け方の空に残る有明の月のようで、そっと微笑むとりんはその杯を胸元にしまった。

「りん?」
「ん、琥珀が気に入った器があれば取っておけって。あまり大きな器だと邪魔になるでしょ? この杯なら荷にならないし、もし殺生丸様がお酒を召し上がる事があれば使えるし」
「酒か。そうじゃのぅ、もうそろそろこの辺りも花の見頃になるな。花見酒で一杯やるのも悪くはないのぅ」

 りんの言葉につられ、邪見の顔が緩んでいる。森の端、白い枝々が寒々しいこの林は、山桜の原生林。朝の光の中で見れば、白い枝の先に薄紅の色がちらちらと三分咲きの桜が見えている。

「ねぇ、邪見様。どうして殺生丸様は、最近ずっとお出かけなのかな?」
「あ〜、まぁ、その……。それは殺生丸様のご都合と言うものじゃろう。なに、時期戻って来られようぞ」
「……うん、そうだよね。そうしたら、まだしばらくはここにいるってことかぁ。それなら皆でお花見できたら良いな。りん、何か食べるものを探してくるね」

 くるりと踵を返して、今度は森の中へと駆け込んでゆく。その後姿は、出会った頃の一緒に畑荒らしをしていた頃とは違っていて、柔らかななよやかさが滲み出していた。

「……これも時期じゃったと言う事じゃろうか。それともご母堂様の仙桃の効用であろうか。今のりんは、まるで咲き急ぐ花の蕾のようじゃ」

 ほんの一月前までは、子ども子どもしていたりん。先だっての桃の節句での椿事、りんは人の子が口にする事はない仙桃を食べてしまった。
 
 ―――― 望めば不老不死さえ叶える、天界の仙桃。

 りんが望んだのは、おそらくそんなものではあるまい。たった一つの望みしか言わぬ子だから。

 ―――― 殺生丸様のお側にいたい。

 それがどう言う意味を持つものか、

「りん、殺生丸様が今、お前の側に居らぬのは、お前のせいじゃと言うてもお前には何のことか判らぬじゃろうな。だからこそ、今はお前の側には居れぬのじゃ」

 邪見とて妖の端くれ、ご母堂の持つ仙桃の効用がどんなものか知っている。むしろ、一般的な効用は、『それ』であるのだから。

「……桃を女から男に渡すのは、女の方から契ってくれと言うも同じ。ましてやあの桃の効用は、成熟を促し娘を美しくもする。桃は魔を払いつつ、男であろうと女であろうと互いを魅惑するやっかいなものじゃからな」

 邪見はもう一度、山桜の枝に眼をやった。

「あっという間に咲いてしもうて、あっと言う間に散る花じゃ。りんよ、お前はそうなるな」

 りんを見送る邪見の眼には、翁のような慈父のような妖らしからぬ光が浮かんでいた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 りんも自分の変化を感じてはいた。昨日は手の届かなかった木の枝に、今日は届く。今まで見えなかった物や判らなかった事が、ふっと霧が晴れるように明快になる。着ている単も見幅が狭くなったのかたいして暴れてもいないのに、すぐ襟元が乱れ肌蹴そうになり袖丈も着丈も短くなってきた。
 なによりも、自分の身の内裡が火照ったような熱を帯び、だんだん自分が知っている『自分』ではなくなってくるような、そんな心元の無さも感じていた。

 あの時、天空の庭から地上に戻り、殺生丸様の後を追ったあの時――――

 追いついたりんを見た、殺生丸様の金の眸。赤い妖光が眸の奥で揺れていた。そうして言われた、あの言葉。

( ……お前の望みはとうに知っている。あの雪の原の時より、共にあらんと。時が満ちれば、お前をこの手で―――― )
( 殺生丸様…… )

 殺生丸様の顔を見上げたりんを殺生丸様は抱き寄せ、そして深く口付けた。互いの口の中の桃の香りが混ざり合う。雪の中で交わした口付けよりも、もっと長く熱く、体の芯が蕩けそうになって、気が遠くなる。
 口付けが終っても、体の中の熱さが消えない。ぼぅとしたりんの耳元で、殺生丸様が囁いた。

( ……花が咲けば、もうお前を子どもとは思わぬ。お前も、それを覚悟しておけ )

 そう言われた殺生丸様を、りんは少し怖いと思った。怖いのは、仕方がない。だって殺生丸様は妖怪なんだから、物凄く強くて恐ろしいお方なんだから。そんなのは全部判ってる。でも、この怖さはそんな怖さとは、なんだか違う。

( 覚悟…? りんは何を覚悟すればいいの? )
( もう、この私から逃れられぬと言う事を。お前がどれ程拒もうと、この手を離す事はない )
( 殺生丸様……)

 それはりんが殺生丸様のお側にいられると言う事だよね? 殺生丸様もそれを望んで下さっているって思っていいんだよね?

( りん、殺生丸様になら殺されようが食べられようが、それが殺生丸様のお望みであれば、従う覚悟はとっくに出来ています )

 りんの言葉に、殺生丸様が薄く笑われる。

( ――判った。近いうちに、お前を喰らおう。互いに喰らいあい、一つとなるために )

 そう言われた後、りんはもう一度口付けされた。りんの舌の根に牙を立てられ、りんの口の中で桃の香りと血の臭いが混ざり、ああ本当にりんは殺生丸様に食べられるんだと覚悟した。

 だけど、そんな事はあの時きり。
 それからの旅は、一箇所に留まる事が多くなった。どの塒も先に殺生丸様が乗り込まれて結界を施した後、りん達を呼び寄せる。この場所に来たのは昨日の事だけど、今回は阿吽だけが迎えに来て、いまだ殺生丸様にはお会いしていない。会えなくて不安を感じるよりももっと前に、ただただお会いしたい気持ちが先走る。

 怖いけど、お会いしたい!
 食べられてしまうけど、お側に居たい!!

 思えば胸が痛くなり、あの時点った身体の芯の熱さが戻ってくる。熱さと共に、身体の奥の方からじんわりとした痛みとも重さとも付かない感覚が生まれていた。

「殺生丸様……」

 思わず零れたその呟きは、ほんのりと艶めいて溜息のように森の空気の中に溶けてゆく。

「呼んだか」

 足音も気配もなく、唐突にかかる声。その声はりんの身体を痺れさせ、硬直させる。振り返って見てみれば、冬の森でも葉を落とさぬ樹木が作る陰の中でそこだけ天から光が射したように明るい。そこに――――

「殺生丸様っっ!!」

 お姿を見れば、何もかもかなぐり捨てても良いような気持ちになり、馳せる子兎のような勢いで殺生丸様のもとへと駆け寄った。

「他の者はどうした」
「えっと、琥珀は山に邪見様は阿吽と一緒で……」
「お前は?」
「あ、あたしは何か食べるものを探しに……」
「そうか。なら――」

 殺生丸様がりんの頭越しに右の手を横にすっと払われる。りんの後ろの木の上から、何かが落ちる音がした。

「殺生丸様?」
「拾って来い、りん。皆の所へ戻るぞ」

 さく、ともう歩まれる足音がして、あたしは慌てて音がした方へ走って行った。その木の根元に落ちていたのは、二羽の山鳩。あたしはそれを胸にかかえると、殺生丸様の後を追いかけた。
 あの時見た眸や聞いた声が、幻のようにいつもと変わりのない殺生丸様。あたしはこのままでも良いような、それじゃ落ち着かないようなそんな気持ちを感じていた。元の場所に戻ってみると、もう山から琥珀が帰って来ていた。琥珀の横には糸鋸とノミ、白い木目の綺麗な板が山ほど積んである。ほのかに清々しい木の香りがする。

「香りの良い木だねぇ、どうしたのこれ?」
「ああ、あのあと山に器の外箱になるような木材を探しに入ったら、大熊に襲われかけている人がいて助けたら、お礼にくれた。都に納める家具職人だったんだ」
「お礼に? これ、なんの木?」
「桐だよ。ものすごく上等な木だ。これならご母堂様から頂いた器を収めるのに相応しいものが出来るよ」

 そう話しながらも、琥珀の手は器用に桐の外箱を組み立てるためのほぞとほぞ穴を刻んでいる。蓋になる木材には邪見様が筆で何か書いている。

「邪見様は何をしているの?」
「ああ、これか。無銘よりも銘があったほうが良いかと思うてな。器に相応しい銘をつけているのじゃ」
「ところでりん、聞いてくれた?」

 せっせと手を動かしながら、琥珀がりんに問う。

「あ、ううんまだ。ちょっと聞いてくるね」

 先に戻っていた殺生丸様はその辺りで一際大きく古い山桜の根方に腰を下ろし、そんな二人の様子を冷めた眼で見るとも無しに見ていた。

「殺生丸様、あのご母堂様から頂いたお土産の事なんですけど……」

 ぴくりと、ほんの僅かだが殺生丸様の表情が動く。りんにも、殺生丸様とご母堂様とが仲が良い風には見えないので、恐る恐る話を続けた。

「……旅の道行きに、あの器は荷になります。それで琥珀が都に持って行って売ってこようかと言ってるんです」
「……好きにしろ。どうせ、捨て置いても構わぬものだ」

 りんから聞くまでも無く、その返事は琥珀達の耳にも入る。

「ご許可がおりました、邪見様。準備が無駄にならずに済みましたね」
「ああ、そうじゃのぅ。粗末にするには恐れ多く、かといって持ち歩くには持て余すからの。これで身軽になれるわい」

 邪見様はよっこらせと立ち上がると、殺生丸様の前に近付いた。

「ありがとうございます、殺生丸様。売るとしても折角の器ですので、価値の判る人間に渡したいと存じます。ここより少し遠くなりますが、京の都まで出向きたいと思いますので、阿吽をお借りいたしたく」
「邪見?」
「二日もあれば用意も出来ましょう。それから出かけまして、どのくらいの間で売り切れるものか…。売った代金でりんの食い物なども買い込んで参りますゆえ、戻ってくるのは三日後くらいかと」
「判った。お前に任せる」
「そうそう、りんの着物も新しくせねば。今着ている着物は、もう手足が出すぎてみっともない」
「邪見……」
「これから必要な物を、なにかと見繕って参ります」

 そう言って、邪見様はあたしを見る。殺生丸様も。あたしは邪見様の言われた『みっともない』という言葉に、殺生丸様の前に居るのが恥ずかしくなってきた。恥ずかしさと一緒に、きゅうと身が縮まるような体が重くなるような気もして、くらっと目まいがした。

( あっ、まずい! 倒れちゃう!! )

 倒れそうになった所を殺生丸様の腕で支えられる。あたしの顔を見る殺生丸様の眸の奥に、あの怖いような光があった。

「……時期だな」
「はい、この邪見めもそう思いまする。殺生丸様のように鼻が利く訳ではござりませぬが、あれの今にも綻びそうな様子を見ておりますれば、まず間違いないかと」
「うむ」
「万事、心得ております。その為にも、人里にて入用なものを調達せねばと思うておりました。此度の琥珀の申し出は、ある意味渡りに船かと」

 あたしには、殺生丸様と邪見様が何の事を話しているのか良く判らなかった。ただ、殺生丸様の腕の中で自分の事を話しているのだろうと、ぼんやりと思うだけだった。

「ワシ等が都に出向いている間に、お移りになられますか? もしそうであれば、屋敷の場所をお教えください」
「……いや、あれを囲うつもりはない。私も屋敷に篭るつもりもないゆえ、お前達もここに戻って来い」
「では、まだ旅を続けるおつもりで?」
「ああ」
「では、そのつもりで支度をいたします」

 邪見様はそれだけ言うと琥珀の側に戻り、また筆を手にして蓋に難しい文字を書きつけ始める。あたしは自分の体を支えていた殺生丸様の腕が自分の体から離れた事に気付いて、はっとした。

「……二日後に戻ってくる」

 そう言い残し、殺生丸様は森の奥へと歩んで行かれた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 それからの二日間、あたしの体の具合はあまり良くなかった。身体の重さが取れなくて、ときどききゅっと差し込むように下腹が痛む。鈍い痛みがずっと残っていて、あたしは何か悪い物でも食べたのかと不安になっていた。
 そんなあたしに気づいたのか、琥珀があたしの様子を尋ねてくれた。

「りん、どうした? この二・三日元気がないみたいだけど?」
「あ、うん……。お腹がちょっと痛い感じで、何かヘンな物でも食べたかなぁって」

 そう尋ねられれば今度は反対に、あまり琥珀に心配させたくなくてあたしは自分の不安な気持ちを隠し、たいした事ないような調子で答えた。

「お腹が痛い? ああ、冷えたのかもしれないね。春と言っても夜はまだ冷え込む事もあるし、殺生丸様はお留守がちだし」

 琥珀の答えに、ほんの僅か殺生丸様への非難めいたものを感じて、あたしはあわてて言い加えた。

「殺生丸様はお留守でも、ご母堂様から頂いた緋毛氈に包まって休むから、そんなに寒いことは無いよ?」

 話し込んでいたあたし達の側に、邪見様がずかずかと近付いてくる。

「こりゃ、琥珀! こんな所で何をしておる!! 殺生丸様が戻られ次第、ワシ等は出かけるんじゃから、阿吽の背に荷を積む手伝いをせぬか!」

 あれから二人はせっせと器の外箱を作り続けた。出来上がってみればかなりの大荷物。その大荷物を運ぶ為、今度は竹を編んだ大きな背負いかごを作り阿吽の背中に取り付けた。

「邪見様、りんの具合が……」
「りんがどうした?」
「お腹が痛むとか。見たところ大丈夫だと思うんですが、治まるまで側についていてやろうかと……」
「それは、困る」

 思いのほか、ぴしっと邪見様がそう言い放つ。

「お前が居らぬと商売になるまい。妖の物売りでは、客がつくまいぞ」
「邪見様……」
「ただの冷えじゃろう。この季節、花冷えと言う言葉もあるからのぅ。なに、都でこれらを売って、その金で腹痛の薬でも冷えの薬でも綿の入った着物でも買ってきてやるわい」
「そうですか。りん、邪見様もああ仰るから、大丈夫だね?」

 あたしは二人からそう言われ、きっとそうだとちょっと安心した。それなら温かくしておけば良いし、邪見様が戻ってくれば薬ももらえる。そう思ったら、すっと痛みが遠のいたような気がした。急かす邪見様にしたがって、あたしも荷を積み込む手伝いをする事にした。
 阿吽の背の背負いかごの中に器用に琥珀が木箱を詰め込んでゆく。最後にあの緋毛氈で覆いをして、それを外側から縄でしっかりと背負いかごと阿吽の胴とに括り止めた。

 昼を過ぎた頃、殺生丸様が戻ってこられ邪見様達は出発した。阿吽の飛翔に、八分咲きの桜の花がつられ空に舞い上がる。中天から西に寄り始めたお天道様を追いかけるように、琥珀達の影が小さくなる。その影もすっかり見えなくなって、あたしは視線を空から外した。

 邪見様も琥珀も阿吽も居ない。
 今、ここには殺生丸様とあたしのただ二人。

 少し前まではちらちらと咲き始めていた山桜。今では八分咲きの花があたしたちを取り囲む。あたしはまた、邪見様の言われた『みっともない』という言葉を思い出して、身の置き所の無いような気持ちになっていた。もじもじと、殺生丸様から少し離れて立っている。

「どうした」

 この山桜の中で一番最初の満開を迎えた山桜の古い大木の根方に腰を下ろしながら、殺生丸様が声をかけた。

「あ、あの…。…みっともないって……」
「何を気にする。お前が育っただけの事」

 返って来たのは、その言葉。
 あたしは、ああそうかと納得する。
 そうだ、そうだった。
 殺生丸様はそんな些細な事など気にも止めないお方。

 それでも少し離れた場所にあたしは座った。八分咲きの山桜、最初に咲いた花はひとひらふたひらと花びらを落し始めている。ざざっと風が吹き抜け、花の枝が鳴りはらはらはらと桜が舞う。風の勢いに顔をしかめたあたしが気がつくと、殺生丸様の傍らに、顔を被衣で隠した白い髪のモノが二人立っていた。白の単に白茶の足首くらいまでの袴、丈の短い薄紅の上着を袴の上に出して、その上に袖のない透き通るような薄い白生地の上着を重ね細いあさぎ色の帯を締めている。一人は手に黒く艶のある重箱を抱え、もう一人は朱色の小ぶりの樽を片手に、もう片手に透明な酒器に薄桃色の飲み物のような物を持っていた。

「殺生丸様、あの、これ……」

 あたしの問いの答えの代りに殺生丸様は視線をその者らに流すと、その二人は足音も立てずにあたしの前に重箱を並べ、小さな杯にあの薄桃色のものを注いだ。

「……宴だ。お前と私の。この者らは私の式鬼、これからはお前に仕える釆女だ」
「宴? 釆女?」
「お前の身の回りの事を取り仕切る。必要な時にしか出てこぬから、気にするな」

 あの薄桃色のものの甘くて花のような良い香りがあたしの鼻をくすぐる。ぐぐぐぅとお腹が鳴った。気にされないお方だと判っていても、そんな音を聞かれてあたしの全身は真っ赤になる。

「好きなだけ食べろ。……腹が減っては戦も出来ぬと言うからな」
「殺生丸様……」

 いつもと違う風に戸惑いを感じたけれど、釆女もいる二人だけじゃないと言う思いがぎこちなさを減らした。恐る恐る杯に手を伸ばし、口をつけてみる。甘い香りと桃の味が口の中に広がる。飲み下した途端、お腹の中からかあっと熱くなってきた。

「これ、お酒っ…、りん、まだ子どもだからっっ!」
「構わん。体が温まる、飲んでおけ」

 お酒を飲んだせいか、りんの体はどんどん熱くなってドクンドクンし始めていた。珍しい事に殺生丸様も、あの釆女と呼んだ式鬼にお酌をさせてお酒を飲み始めている。

「本当にお花見なんだ。それなら邪見様や琥珀も一緒だったら良かったのに」
「花見のつもりはないが…、花と言えば花か」

 お酒を飲むためか、それとも少し笑われたのか、殺生丸様の口元が綻んだような気がした。あたしも最初に飲んだお酒の酔いが回ってきたのか、とても良い気分でお重のご馳走をぱくぱく食べ始める。
 時刻はすっかり宵にかかり、山桜の白い花が薄闇にくっきり浮かび上がる。夜風が冷たくなってきたけど、あたしの身体は沢山食べたご馳走と時々口にする桃のお酒ですっかり温まっていた。つい食べ過ぎたのか、ちょっとお腹が痛いような気もしたけど、それさえも今のあたしには嬉しいような気がして、へらへら笑っていた。そして半分とろんとした頭で、あっと思い出す。

( そう言えばりんも殺生丸様のお酌をしたいなって思って、杯を貰ったんだっけ )

 りんの懐にしまったままだった杯を取り出し、殺生丸様の顔を見た。

「……その杯は?」

 目敏くそれに気付いた殺生丸様があたしに声をかける。

「はい。琥珀が気に入った器があれば取っておけって言ってくれたから……。この杯で殺生丸様にお酒を召し上がってもらえたらなって」

 出すぎた事かな、とおずおずとそう答える。

「では、酌をいたせ」

 側にいた釆女をよけ、殺生丸様はあたしを側に呼んだ。あたしは思いのほか、酔いで足元がおぼつかない危なっかしい足取りで、お側にと行く。杯をお渡しし、小ぶりの樽から白木の柄杓でお酒を汲んで、そっと零さないように杯に注いだ。
 よほど香りの良いお酒なのか、殺生丸様は表情も柔らかに香りを楽しまれて一気に杯を空けた。

「香りが変わるだけで、ここまで美味く感じるものか。楽しみだ」
「――――?」

 言われた意味が良く判らなかったけど、殺生丸様が喜ばれているのは判ったので、あたしも嬉しくなった。あたしが空になった杯にお酒を注ごうと、柄杓を手に膝立ちした時だった。

「あっ……!?」

 あたしの中から、なにか生暖かいものが流れたような気がした。

「……花が、咲いた」

 殺生丸様が、手にした杯を地に置かれた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 さすがに阿吽の飛翔力を持ってしても、背中に大きな荷物とただの人間である琥珀を乗せていては、そう早く翔ける事も出来ない。昼過ぎに出立して京の都に着いたのは夕刻間近、暮れ行く朱色に都大路も神社仏閣も染まる頃だった。

「ん〜、今日の商売はもう無理のようじゃな」

 大文字の山の上から碁盤の目のように走る小路を眺め、邪見がそう呟いた。

「……邪見様。出立は明日の早朝でも構わなかったのではないですか? あまり具合の良くないりんの世話を、殺生丸様にお任せする事になってしまいましたが」
「気の利かぬ奴じゃのぅ、琥珀は。折角の桜の宵じゃ、ワシ等はお邪魔じゃろう」
「そうは言っても、まだまだりんは子どもですし。いずれ殺生丸様の元に嫁がれるとしても、今はまだ ―――― 」
「……それは誰が決めるのじゃ? そうではないかも知れぬぞ?」

 邪見の言葉に、琥珀は数日前に感じたりんの大人びた様子を思い出していた。子どもと子どもではないものとの狭間にある、あの危ういような妖しいような艶めいた姿を。なんとなく琥珀は、りんのそんな姿にどきどきした自分の心根を見透かされたようで、もう何も言えなくなっていた。

 次の日、太陽が高く上り大路小路に人が溢れ出す頃合を見計って、邪見と琥珀は店開きをした。洛中に入れば、否が応でも目立つ一行である。年少といえ明らかに、普通の子どもには見えない獲物を腰に携えた琥珀と、一目で妖怪と判る邪見と阿吽。
 恐々と京の人々が、その仕草の一挙手一投足を見つめている。

「なんだか、こんなに人の眼があると恥ずかしいです」
「何を言う。ここで商売をしようと言い出したのはお前じゃろうが! ちゃんと口裏は合わせるんじゃぞ!!」

 遠巻きにした人山を掻き分けて、都の警備の侍が琥珀達に厳しい声をかける。

「おい! そこの小僧と妖怪ども!! 何ゆえ朝っぱらから都を騒がせている!? 禍なす者ならば、即刻その首打ち落としてくれんっっ!」

 見上げるような大男、割鐘のような大音声で怒鳴りつけられたが、こんな普通の人間の脅しなど常に殺生丸の側にいる二人には、怖くもなんともなかった。

「おはようございます、お役人様。初めて京で商売をする者ですから、勝手が判らずに困っていました。本日はここにおります陶匠の、作りました器を売りに参りました」
「陶匠とな? どこをどうみても妖怪にしか見えぬぞ!」
「今は妖怪と成り果てておりますが、人であった頃は俺の祖父でありました。陶芸の道を極めたいと、陶芸名人の妖怪の下に弟子入りしこのような姿になってしまいました」

 まるで見てきたような嘘八百な作り話。それを真面目な顔で、もっともらしく語って聞かせる。

「……本当にお前、元は人間か?」
「ふん! そんな事は忘れたわい!!」

 少し偉そうに胸をそびやかし、邪見は尊大な態度を取ってみせる。

「祖父がその師匠からの皆伝の証に譲り受けたのが、あれにおります良き土を探す手立ての飛竜と窯に使う火を熾すあの杖にございます」

 琥珀の口上に、邪見は小さな焔を人頭杖から吐き出させた。

「う、うむ。ではお前等は、器を売りに来ただけだと申すのじゃな? 禍を起こすためではなく」
「はい。祖父の作りました器を見ていただければ、俺たちの言葉に嘘はないと判ってもらえるかと思います」

 そう言いながら琥珀は、手近にあった平たい大きな木箱の蓋を開けて見せた。中には滑らかな白い肌地に鳳凰と牡丹の絵柄が精妙な筆遣いで描かれた大皿が入っていた。一目でただものではないと判る、その出来栄え。

「……おい、小僧。念を押しておくが、この皿に盛ったものを食すると食したものが中るとか、お前の祖父のように妖怪になるなどと言う事はないのだな?」
「お役人様、お疑いでしたらここで試してみましょう。丁度向かい側で饅頭屋が店を開いたようです。あの店の饅頭を幾つか買ってきてください」

 物珍しげな見世物だと思った野次馬の一人が買いに走り、それを琥珀の手に渡した。琥珀はそれをその大皿の上に乗せ、しばらくしてから自分がまず一つ、それから役人にも一つ、残りを近くで見ていた見物人にも渡した。

「いいですか? 俺が食べてみます。それで大丈夫だと思ったら、皆さんも食べてみてください」

 言い終わるとぱくりと美味そうに手にした饅頭をほうばる。その様子を見て、役人も一口食べてみた。

「ん!? これは…っっ!!」

 役人の反応に、琥珀に饅頭を貰った見物人達がざわめく。
 が、次の瞬間、その役人は残った饅頭を一口で食べてしまった。

「どうですか? いつもより美味しかったんじゃないですか?」
「ああ。あの店の饅頭は良く食うから、味は知っている。今まで食った事のない美味さだったぞ」
「……祖父の信念です。器はそれを盛る物の良さを最大限に引き出すことが、器としての使命。その為の、人に非ずの修行でございました」
「そうか、そうか。そこまでの思いで修行をした成果がこれなのだな。よし判った小僧、その皿はワシが買おう。値は幾らだ」

 とんとん拍子に商売の話が進む。

「はい、このように……」

 と、今度は手にしたその皿を地面に落す。それを見ていた役人があっと声を上げるも ――――

「落しても割れません。世にも稀なる器ですからお値段の方も、それなりに ―――― 」

 勿体ぶった琥珀の口調に役人は一瞬身構えた。この当時、戦で手柄を立てた武将が一国の領土の代りに匠の作った茶碗を所望する時代である。こんな稀有な器なら、どれほどの値を言われる事だろう。

「小判三枚ほどになります。まだ相場が判りませんので、今回は大きな器はどれも小判三枚、中ぐらいで二枚、小さなもので一枚とさせていただきます」

 値が伝えられた瞬間、野次馬が皆競争心丸出しの買い物客に変化した。特にさっきの饅頭屋のような店の主人は、置くだけで数倍美味くなる皿なら何枚でも欲しいと思うだろう。どんなに手荒に扱っても、うっかり買った客が人ごみにぶつかって落しても割れないものだから、皆良い買い物をしたとホクホク顔である。あれほどあった器も、一つ残さず売り切れた。

「なんだ、もう店じまいか」
「はい、おかげさまで」

 器を並べていた緋毛氈の上には、もう何も無い。

「そうか。また良い器が焼けたら持って来い。次は汁物を入れられるような深鉢か何かが欲しいぞ」

 最初は居丈高だった役人が、すっかり得意客のような顔で皿を抱えて帰って行った。器を買いそびれた者が、遠巻きに未練たらしく琥珀達を見ている。その者達に聞こえぬよう、小声で邪見が毒づいた。

「な〜にが恥ずかしいじゃ。ようもああ、ぺらぺらと調子の良い事を並べられるもんじゃの」
「嘘は言ってません。本当にあの器は良いもので、盛った食い物は腐らないし美味くなるし、落しても割れないし」

 店じまいをしながら、そんな話をしている。すっかり空になった阿吽の背中に緋毛氈と余った縄を放り込み、さてこれからどうしようかと二人は考えた。

「これからどうします? 邪見様」
「そうじゃのぅ、まずは腹ごしらえか」

 京は大きな都。見る所も見る物もたくさんあるが、食欲は何よりも勝る。これから京の町には、今までよりも美味い物が出回る事になるだろうしと、自分たちも何か良い事をしたような、そんな気分になっていた。
 懐も暖かく、気候も自分たちが朝いた所より暖かい。春爛漫花絢爛、気持ちも大らかになる。何軒か美味い物を食べ歩き、存外目立つ姿で京の町を闊歩する。そんな二人の背後を怪しい足音が後を付いてきていた。

「邪見様、俺たちついゆっくりしてしまいましたが、こんなに早く商売が終ったんなら仕入れるもの仕入れて、早めに戻った方が良かったのでは?」
「殺生丸様には三日の後とお伝えしたんじゃ。それで良い」

 太陽が、少し山の端に傾きかけていた。

「……邪見様、お気づきですか?」
「おぅ、ずっと付いて来とるな」

 往来での騒動は、町の衆に迷惑だろうと町外れへと誘い込む。向こうはそれを待っていたのか、凶悪な気配が膨らんだ。二人の背後でゆらりと大きな影が揺らめいた。殺気と共にぶんという何かが風を切る音がする。琥珀と邪見はぱっと身をかわすと、相手に正対した。相手は手に大きな太刀を持ち、巨漢さに荒くれ具合が見て取れる男達。

「……妖怪退治のついでに手間賃として、その懐のものを頂いても悪くは無いよな」

 狙いは、器の売上金。しかし、狙った相手が悪かった。

「妖怪退治? なら、俺と腕比べだな」

 琥珀は手馴れた動作で腰の鎖鎌を取り出し、身構えた。

「そんな細っこい身体で、大の大人を相手にする気か!? 大怪我する前に、その懐のものを置いて、とっとと逃げ出せ。さっきの妖怪爺の火吹き杖もどうせ細工か何かあるんだろう!!」

 ……どうやら器を高く売りさばく為の、芝居か何かと思っているようだ。

「邪見様、あいつ等脅かしてやってください。俺はあいつ等の獲物を奪います」

 琥珀の指示に、邪見は人頭杖の翁の頭を強盗達に向けた。

「馬鹿じゃな。何が本物か偽者か見分ける力量も無いくせに、強がるなどとは」

 ぶつぶつと言いながら、一振り杖を振りかざした。先程よりも大きな焔が強盗達の顔面を襲う。炎に気が怯んだ隙に琥珀が強盗達の獲物を鎖鎌の鎖で絡め取り、放り投げていた。焼き殺すと後味が悪いので、直ぐに焔は収めてもらう。その代わり琥珀は自分の鎌の柄で強盗達の後頭部を強打して、打ち倒した。

「本当に馬鹿だな。本職の妖怪退治屋に敵うと思っているのかな」
「馬鹿じゃから、判ってはおらんじゃろ」
「こんなの放し飼いにしたら、都の人が迷惑だね。荷造り用の縄が余ったから、ここに縛り上げて転がしておけば、あのお役人が気付くかな?」
「ああ、じゃろな」

 京の都で商売を終え、ついでに強盗退治もした邪見と琥珀は、その日はもう遅くなってしまったのでそのまま大文字山に戻った。

 そして、次の日。
 昨日上手く商売が済んだので、今日はりんへの土産をと市にある品物を見定めていた。

「着物を選ばんとな。さて、どんな柄が良いじゃろうか?」

 邪見は呉服屋の前を行ったりきたりしながら、あれこれ悩んでいた。

「邪見様、食べ物の方は日持ちの良い乾物や麦や粟、米などを買ってきました。あと、何を買いますか?」
「ちょっと待っておれ。なかなかりんの着物が決まらぬのじゃ」
「りんの着物? りんなら明るい柄が似合いそうだな。ほら、あんな感じの」

 と琥珀が指を指したのは、白地に色とりどりの小花を散らし胡蝶が舞う春らしい柄。

「ああ、あれか。あれはワシも良いなと思っていた柄じゃ、よし、あれに決めよう。急いで仕立てさせねばな」

 邪見はその呉服屋に入ってゆくと、その着物の仕立ての他に襦袢や腰巻、帯や帯揚げなど子どもの着物とは違う装備一式も揃えさせた。仕立てが必要な物が多く、急いで仕立てさせても二日はかかる。その二日間を、邪見と琥珀は京見物に当てることにした。

「綺麗なものや珍しいものがたくさんありますね。こんな事なら、りんも連れて来てあげたかったな」

 川沿いの桜を見ながら琥珀がそう言う。

「またそれか。りんがねだれば、そのうち殺生丸様が連れて来るじゃろう。着物が仕立て上がるまで、もうちっと色々見ておくかのぅ」

 そう言いながら邪見の目は、薬種問屋や小間物屋に視線を走らせている。幾つか見て回った中でも一番大きな薬種問屋に邪見は入って行った。この位大きな店になると、時として変わった相手が貴重な薬種を売りに来る事がある。そう、人間では決して手に入らない、竜の角だとかツバクロの卵とか。だから邪見がその店に入って行った時もそう思われたのだろう。店の奥から目利きの主人が何も言わずに現れた。

「おや、いつもの妖怪じゃないな。お前は新顔か? それとも代替わりか?」
「ああ、やはり。この店には妖怪が出入りしておるんじゃな。いや、ワシは薬種を売りに来たんじゃない。買いに来たんじゃ」

 主人の顔が少し困ったような表情になる。

「妖怪から薬種を買うが、だからと言って妖怪に利く薬はないぞ」
「買うのは人間の薬じゃ。腹痛や熱冷まし、痛み止めなぞが欲しいのじゃが。傷薬もあると良いかもしれん。それとな……」

 邪見は主人の耳に口を寄せると、琥珀の方に視線を走らせ憚るように何事か囁いた。

「あの子の妹の……。人の良い妖怪もいたもんだ。孤児の兄妹を引き取って親代わりに面倒を見るなどと。女手がないのは大変だな」
「備えあれば憂い無しじゃ。旅の途中なのでな、多いほうが助かるのじゃが」

 ちゃりと、小判の音を響かせて金に物を言わせる。

「店にあるさくら紙と絹を全部、月帯も三本程あれば十分でしょう。ひどい時はこの当帰芍薬散を飲ませればよい」

 琥珀には全く判らない会話だった。

 京で商売をし、買い物をする。りんの着物が出来上がるまでの二日間は、邪見や琥珀にとっては良い骨休みになった。かさばる器は減ったものの、りんの身の回りのものが増えたので、阿吽の横腹に行商用の水濡れに強い行李を振り分けて着けた。二人が京の町を出立したのは、四日目の早朝だった。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


( ああ、桜の花も散っちゃった )

 あたしはぼぅとしたまま、殺生丸様の腕の中にいた。あの夜からどれくらい経ったのか判らない。朝も昼も夜も判らないくらい、あたしは……。

 春の嵐。

 殺生丸様の妖気に包まれていたから、嵐の激しい風に煽られる事はなかった。それ以上にあたしは激しい風が山桜の枝を揺らし花々を引きちぎって行った様に、あたしも自分の中に吹き荒れる嵐に揺さぶられ引き千切られた。

( ……殺生丸様が言われた、『りんを食べる』って、こういう事だったんだ )

 体中に牙を立てられたかと思った。
 手足を折られるかと。

 体の真ん中から二つに裂かれて、貪り食われる。
 何度も何度も気を失って、その度に体の奥からの痛みや喉を焼くようなお酒を口移しで飲まされて気付かされる。
 春の嵐で散った山桜の白い花びらの上に、幾つもの鮮赤の花びらが落ちている。

( そしてりんも、殺生丸様を食べちゃったんだ…… )

 痛みと共に満たされたような、この感じ。
 りんの中にある殺生丸様を感じた時、りんは ――――

 離したくないと思った。
 ずっとこのままで良いと思った。

 もっと、もっと!
 ずっと、ずっと!!

 
 ずっと、一緒に――――

 夢のような気がした。
 こんな事があるなんて、信じられなくて。

「りん……」

 花が散り、まだ伸びきらない新芽の間から明るい春の空が透けて見える。暖かい日差しがあたし達を包んでくれる。

「殺生丸様……」
「私が恐ろしいか」

 そう問い掛けながら、優しくあたしを抱き寄せる。あたしは腕の中で小さくかぶりを振りながら、殺生丸様に微笑みかけた。

「ううん。りん、覚悟してたもの。それにどんな事があっても、りんが殺生丸様の事を大好きなのは変わらないもん!!」

 あたしも思いの丈を込めて、殺生丸様を抱き締めた。弾みで掛けてくださっていた妖毛が肌蹴落ちる。全裸のあたしの肌の上に、鮮やかな桜の花が咲いている。


 これから先、散る事のない桜 ――――


 あたしは、これからずっと殺生丸様のお側に居る。
 どれだけの季節が巡ろうと、散っても散ってここ在り続けるこの山桜のように。


 この嬉しい夢から醒める、その日まで ――――



【終】

2009.3.31



= 花言葉 =

ヤマザクラ:あなたに微笑む 夢路の愛情



【 あとがき 】

当地ではすでにヤマザクラは葉桜に変わっています。
久しぶりに、ぎりぎり表に出せる範囲での艶話かと。
どういう事があったのかをつぶさに書けば下世話になり、ギャグかただのエロになりそうなのであえて割愛しました。
書かない美味しさと言うのもあるかと思いますので(笑)
書いていて楽しかったのは、邪見と琥珀の道中ぶりも楽しかったです♪


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