【 月華覇伝 5  】




( ……なんだろう? この子。やっぱり浮浪児の格好をしてるけど、浮浪児じゃない )

 自分を見つめる琥珀を、娘はそう判断した。今まで生き抜く為に鍛えた直感は、琥珀は自分に害を成す相手ではないと知らせている。ならば、なぜこの子はこんなにも自分を見ているのだろう?
 そう考えた娘は琥珀の視線が自分の手元、つまりこの帯に注がれていることに気がついた。

( もしかしたらこの子、あのお方の知り合いかも…… )

 あんなに立派な方のお供が、あのお爺さん一人と言う事はないかもしれない。この子もお供の一人かも知れないと娘は考えた。二人の浮浪児の間に、緊迫した空気が流れる。琥珀はこの娘にどう声をかけようかと言葉を探した。下手な声かけをして、もしこの娘に逃げられたり、あるいはあの追っ手に気付かれたりしては取り返しのつかないことになる。考えあぐねる琥珀を見つめ、その娘は立ち止まっていた。その娘の瞳は怯えの色半分、なにか期待しているような色が半分浮かんでいる。

 琥珀は娘の瞳の光を信じた。

「俺は訳あってこんな格好をしているけど、あるお方のお供をしている。そのお方はあの山の中で俺たちを待っておられた」
「………………………」

 娘は無言のまま、琥珀の言葉を聞いている。琥珀は主を思う真剣な光を瞳に浮かべ、言葉を続けた。

「大雨が上がって、俺たちが山の中を探してみると崖が崩れていた。その瓦礫の下に殺生丸様の沓が……。でも! 俺はそんな事信じていない!! 怪我を負われていらっしゃるだろうが、きっとどこかに身を潜めておられるはずだ!」

 ここで琥珀がその名を口にしたのは、一つの賭けだった。この目の前のみすぼらしい娘が、もしかしたら殺生丸の使いの可能性だってあるのだ。あの用心深い殺生丸が迂闊な事で名乗りをするとは思えないが、それでもこの娘の手には主の帯がある。こんな町で名ばかりの役人であっても、いることはいる。帯を見せ、名を伝えれば救出に動くのは間違いない。それがどんな危険を孕んでいても。
 娘の瞳から怯えが消え、同意と期待の色が溢れてくる。

「あ…、ううぅ あぅ……」

 娘も琥珀に伝えたい事、聞きたい事がある。でも――

「あれ、お前……」

 娘の声を振り絞るような様子と辛そうな表情に、この娘が言葉を喋れないのだと知った。

「俺の言葉の意味は判るんだね?」

 娘が頷く。

「俺はその帯の持ち主を探している。お前はその場所を知っている?」

 またもや娘は頷いた。

「じゃ、俺をその場所に案内してくれる?」

 こくりと頷く。ふと琥珀は心配になった。あまりにも素直な様子に、この娘は誰にでもこうして帯を見せ、反応を示した相手にはその場所を教えようとしたのではないだろうかと。

「この帯の事、その場所の事、誰か他の人にも教えた?」

 今度はしっかりと首を横に振る娘。

「じゃ、教えたのは俺だけ?」

 ぶんぶんと力強く頷く。

「他の人にも教えるつもりだった?」

 ちょっと考えたような顔をして、それから首を横に振る。

「俺だから、教えてくれたの?」

 うん、と頷く。

「どうして?」

 そう問われて娘は、少し困ったようなはにかんだような笑みを見せた。娘の瞳には、琥珀に対しての警戒心は一欠けらもない。娘の勘の良さ、相手を見る眼力の確かさに琥珀は内心驚いていた。殺生丸の侍従である自分だからこそ、教える気になったのだと娘は言っているのだ。琥珀もまた、向けられた笑顔に笑顔で答えた。

「殺生丸様は、怪我をされておいでなのだろう? でも、お前の様子を見るとお命に関わるような怪我じゃないみたいだね」

 確認の為、まだ何か言うおうとする琥珀の手を掴み、娘は山への道を駆け出した。見た目よりも逞しく早い足で駈け続ける娘、その急ぐ様は琥珀の眼には自分同様、主を思っての気持ちの表れの様だと琥珀は感じた。
 娘に連れて行かれた場所は、一晩中自分が頑張っていた瓦礫の山のすぐ近く、藪の下から続く緩やかな斜面を見上げる形になる獣道だった。

「こんなところに、殺生丸様が……?」

 あまりにも目と鼻の先、ほんの少し前まであの得体の知れぬ曲者どもがこの近くで目を光らせていたのだ。そんな琥珀の言葉など構いもせずに、娘はぐいぐいと琥珀を太い老木の下へと連れてゆく。斜面に這うように太い根を張り、岩山の岩盤すらも割ってその巨体を支えている。獣道から見ればそそり立っているように見える老木でも、崖の上からだと斜面に添うように幹の根元は密着している。根元近くの幹周りは下生えの枝や萱や雑草などで覆われていた。
 獣道から丁度娘の眼の高さのあたり、老木の根が割った岩盤の隙間からきれいな岩清水が湧いていた。

「水? いや、大丈夫だ。まだ、喉は渇いていないよ。それよりも早く、殺生丸様のところに案内してくれ」

 娘が指差した湧き水は、ここまで駈けてきた自分への労わりで教えてくれたものだと琥珀は思ったのだ。ここが、この娘の水飲み場。それはあの曲者達も気付いた事ではあったが、あまりにも娘がみすぼらしく、山の獣の様に当たり前に振舞うので、つい見過ごしてしまった事。

「う、ううぅ。あう!」

 違うと言いたげな娘の様子に琥珀は、その岩盤の隙間に顔を近づけた。小さな水音を立てて流れ落ちる岩清水が自然の気をより濃くし、山で修行した事のある琥珀には自分の気まで一体化されそうだと思った。そんな気配に聡いはずの琥珀でさえ、その岩盤の裂け目から藪越しの薄緑色の光に浮かぶ人影を見るまで、その人物の気配にまるで気付かずにいたのだ。

「殺生丸様っっ!!」

 驚きで、小さくその名を呼ぶ。
 薄緑色に染まっているからか、生気を無くして瞳を閉じている姿はまるで美しい彫像の様に見えた。聞き覚えのある声に、その人影が微かに身じろいだ。

「琥珀、か」
「はい! 殺生丸様!! お探したしました。すぐ、そちらに参ります」

 獣道から斜面をよじ登り始めた琥珀の後ろから、帯代わりの麻縄をぐいっとあの娘が掴んだ。

「え、あ、なに?」

 物言えぬ娘は手にした帯を琥珀に渡し、深々と頭を下げるとその場から駆け出していた。

「なんだったんだろう? 今の様子。気になるけど、今はそれどころじゃないや」

 ほっとした表情と少し悲しそうな笑みを浮かべた娘の顔に気付かぬまま、琥珀は藪に隠された入り口を見つけ、無事主従の再会を果たしたのだった。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「遅くなり申し訳ありませんでした、殺生丸様!!」

 歳経た大木の胎内に抱かれるように身を潜めていた殺生丸の姿を認めるや、琥珀はその場に額を擦り付ける様にして主に謝罪した。

「……構わん。それより、辺りにあやつらは居ないのか?」
「はい。俺がこの上の崖の崩落現場に着いた時にはかなりの人数がいたのですが、俺が一晩現場で芝居を続けているうちに、自分たちで探すより俺たちに探させた方が得だと考えたようです」
「探させる…、私の死体をか?」

 淡々と自分の身の上、生死に関してさえ冷めた響き。

「おそらく。俺が現場に残った為に、あいつらは表立って動くことが出来なくなりました。もし俺に気付かれ、事故ではなく暗殺だと知られてしまう事の方を憂慮したようです」
「ふむ……」

 殺生丸は目を閉じて、自分を暗殺しようと企んだ者の顔を思い浮かべていた。一番最初に思い浮かんだのは異母弟の犬夜叉の顔。だがそれは、真っ先に打ち消された。犬夜叉を担ぎ出そうとしている者達は危険極まりないが、犬夜叉自身には、微塵の野望も無い事を知っている。共に流れる父の血のせいか、国を治めるよりも自由に大地を駆け巡りたいと思う気持ちの方が強い気質であった。
 先王闘牙も、自分の良かれと思う気持ちのままに駆け巡った結果がこの国、狛與(こよう)の起こり。国を治めるよりも前線に出て闘い続け、後方の守りは信頼の置ける部下任せであった。

( ……犬夜叉の指図ではないだろうが、その縁者だとすると面倒だな。他にもこの私、狛與国第一皇子殺生丸を亡き者にしたい輩はいる )

 次々に浮かんでは消える、その顔・顔・顔。

 母の国、香麗(こうらい)の大臣の恨みも買っている。道具扱いにしかしなかった後宮の女達の恨みもあるだろう。忍びの旅で行き逢い、斬り捨てた武芸者の縁の者もいるかも知れぬ。合わせて、先代からの国を併合された亡国の遣る瀬無い憤りも。凄みの有る笑みが、殺生丸の面に浮かぶ。

( ……人間とは、己も含めなんと血腥い生き物であることか。野に棲む獣との違いは、嘘を連ねる言葉を持つか持たないかの違いではないか )

 口元に浮かぶ嘲笑は、殺生丸自身に向けられたものでもあった。

「殺生丸様……」

 心配気に琥珀が声をかけた。

「……話を続けろ」
「はい。殺生丸様を亡き者にしようとした一団は、少数の見張りを残して夜明けには引き上げてゆきました。邪見様が早馬で援軍を呼びに行ったの知り、ここでの更なる襲撃は控えたようなのです」
「…………………」
「残った見張りも俺が引きつけて町で足止めしていますから、今はこの辺りに敵はおりません」
「……見つからずに済んだのか。こんな現場から目と鼻の先、気付かぬとは手ぬるいな」

 侮蔑したように、そう言い捨てる。

「……他の者の気配に紛れてしまったからでしょう。ここはあの娘の水飲み場だったのが幸いでした。あの娘が殺生丸様を怖がらなかったのも」

 そう言ってしまって琥珀は、その一言は失言だったと思わず胸の中で首をすくめた。確かに殺生丸の放つ気は、剣呑で近寄りがたく、殺気を纏って怖ろしいの一言に尽きる。それでも殺生丸の本質を知る者には、その氷の様な刃の下の、凄烈なまでの真っ直ぐな気質が息づいている事も知っている。

「あの娘……?」
「殺生丸様が帯を持たせて使いに出されたのでしょう? 物言えぬ浮浪児の娘です」

 そう言いながら琥珀は、あの娘が琥珀に渡した帯を改めて殺生丸の手へと返した。

「……この帯が欲しかった訳ではなかったのか」

 渡された帯を見つめ、険の消えた声音で呟く。

「身なりはボロボロでしたが、賢く勘の良い娘のようでした。人を見る目があるというか……。不思議な話なのですが、あの娘には俺が殺生丸様の家来だと判ったようなんです」
「この帯にお前が反応したからではないのか? 帯に反応を示せば、あの曲者どもを連れてきたかも知れぬ」

 殺生丸が手にした帯は皇族の者にしか使えない禁色を使っている。確かに琥珀でなくとも、そう殺生丸を殺そうとした者であっても、そんな帯を見れば何らかの反応を示すだろう。だが、主に従順な琥珀には珍しく、その言葉に対し静かに反論を述べた。

「いいえ、それはないです。俺の言葉をじっと聞き、俺の顔を見つめて、その後で俺だからと、ここに連れて来てくれたんです。俺が本当に殺生丸様の家来かどうかを見極めたんだと思います」
「あの娘が……」

 殺生丸の脳裏に、心配そうに何度も様子を見に来た娘の顔が浮かぶ。娘は酷く殴られても、怪我をした殺生丸の為にまともな食糧ときれいな布を届けようとしてくれたのだ。それが例え盗品であっても、殺生丸の為に。

「あの娘がここに潜んでいる殺生丸様を怖がっていたら、きっと残っていた見張りにも気付かれていたと思います。でも、あの娘は何が本当かを見抜ける力を持っている。あの娘の目に殺生丸様は、怖いだけのお方には映らなかったのでしょう」

 琥珀の言葉に、帯を投げ与える前の、自分でも持て余しそうな不可解な感情が戻ってきていた。

「あの娘はどこにいる」
「俺にこの帯を渡すと、深々と頭を下げて走り去って行きました」

 そう聞き、あの時もう二度と近付くなと怒鳴ってしまった事を思い出した。
 その言葉通り、娘はもう自分の前には現れないだろうと殺生丸は思い、初めて苦い気持ちになっていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 薄汚い、痩せこけた唖(おし)の浮浪児。まるでこの山棲む小動物のような娘だった。好奇心で近付いてきた獣でも、触れれば温かい。嘘をつかぬつぶらな眸は、見るものの心を癒すだろう。

 ―――― あの娘は、そんな娘だった。

 何をか考えている風な殺生丸を見、琥珀は指示を仰ぐ。

「殺生丸様、このままこの場に留まるのは危険でございます。一刻も早く、別の場所に移動を!!」

 あの謎の暗殺者集団に襲われ、無傷とはいえないまでも辛うじて無事と言えるのは、偶然と幸運が折り重なった結果である。大雨が降らなければ、あの娘がこの辺りをうろつかなければ、邪見や琥珀の的確な行動がなければ、今頃はあの刺客達に止めを刺されていたかもしれない。

「……どこへだ? 琥珀。お前の話では、まだこの辺りを見張っている者がいる。その者らの眼を欺き、なお安全な場所とは?」

 殺生丸の問い掛けに、琥珀は答えに詰まった。命に別状はないとは言え、殺生丸の怪我はかなり深手だ。いつもの様な身のこなしは願うべくも無い。ましてやこの山の中、身を潜めるのなら獣の様に巣穴の様なところに篭るしかない。一番危険なのは、移動の際にその痕跡を残して居場所を知られてしまう事。
 移動した方が安全なのか、それともこのまま邪見が捜索隊を連れて戻るまで息を潜めて隠れていた方が良いのか?
 あれこれ考えを巡らせていた琥珀の耳に、洞の入り口を隠している萱のカサっと鳴る音が聞こえた。萱の間からチラリと見えたのは、ふっさりとした茶金のモノ。

「 ―― !! ―― 」

 身構える琥珀。
 洞の外から聞こえた声。

「おおい! ここじゃ、ここじゃ!! ここにおるぞ!!」

 年寄りめいた物言いに反した、幼い声。

「流石は神狐。頼りになる鼻ですね」

 次に聞こえてきたのは、殺生丸も琥珀も良く知っている声。

「へへ、そうじゃろ、そうじゃろ♪ 伊達に狐妖怪はやってはおらぬ」
「おおよその場所さえ分かれば、七宝の鼻で探すのが一番早い。助かりました、七宝」

 明らかに、殺生丸の態度に安堵の気配が揺れる。 

「……弥勒か」
「弥勒様! どうしてここが……」

 萱を分け、逆光の中で爽やかに笑う弥勒の姿。

「邪見殿の注進でな。殺生丸様が崖の下敷きになったと真っ青になって駆け込んできたぞ。どうせ殺生丸、お前の事だから、そんな潰された蛙のような無様な真似は無いと思っていた」
「……変な風に信頼されたものだな。しかし、早かったな」
「ああ、邪見殿を褒めてやれ、殺生丸。あの老体に鞭打って百五十里余りを一気に駆け抜けて、お前の危機を城に知らせに来たのだ」

 確かにこの場所から、王宮まではかなりの距離がある。邪見は昨日の朝、あの町で馬を買い王宮へと知らせに走った。半日で駆け抜けるのは、かなりの無茶をしないと無理だ。その無理を、主である殺生丸の為に通した邪見である。

「……馬の蹄の音がしなかった。弥勒、お前やお前の背後に控えている者達は徒歩なのだろう? 馬と変わらぬとは、武僧とは人を超えているな」

 殺生丸が言ったとおり、邪見が城で捜索隊を編成している間に弥勒は先遣隊として、いち早く城を出ていた。武僧達だけが知る特殊な通信方法で捜索に長けた者を集め、こうして現場に乗り込んで来たのだ。

「状況を聞くに、一刻を争うようだったのでな。まぁ、もし万が一、お前が押し潰された蛙の様になっていたのなら、また別の問題に対応するため、直ぐに王宮に戻れらねばならなくなる」

 弥勒の事務的な言葉に、殺生丸は冷笑を浮かべた。別の問題、そう自分亡き後の後継者争い。狛與での後継者ならば犬夜叉がいる。犬夜叉を推す動きが無い訳ではないが、当の本人にその気がない以上、第一後継者である殺生丸が存命の間は如何ともしがたいのも事実。もっと複雑になるのは、母の国である香麗の後継者問題。どちらかと言えば母王は狛與は犬夜叉に、香麗は殺生丸にと考えている節があった。香麗こそ、殺生丸が亡き者となれば国内が大荒れになるのが目に見えていたのだ。
 ましてや、狛與の重臣や犬夜叉の縁者の誰かがこの殺生丸暗殺の一端を担っていたとしたら、あの麗しい闘将軍でもある母は、夫の残した国であっても打ち滅ぼすのに些かなる躊躇いも見せはしないだろう。

「想像すると怖ろしいな」
「うむ。あのご母堂様の耳に入る前に、この一件は納めねば」
「では、聞こう。お前ならこの事態、どう仕切る?」
「そうだな。まずは ―――― 」

 辺りを見回し、弥勒は目を光らせた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


  琥珀は弥勒の指示に従い、急いで山道を下っていた。あの娘のお陰で思いがけないほど早く殺生丸と再開でき、今また腕の立つこと、頭の切れる事では王宮内で一・二位を争う弥勒も来てくれた。我が主に、こんな不遜な真似した輩への反撃は、これからだと琥珀も子どもながらに強く思う。
 琥珀の子どもらしい、『まだ見張りに気付いていない演技』に乗せられている刺客達を、最後まで騙しとおせというのが、弥勒が琥珀に出した指示だった。

 油断を誘い、時間を稼ぐ。

 琥珀から状況を聞いて弥勒は、見張りの手緩さに気付いた。自分達の存在を気付かせぬ為とは言え、それなら琥珀がこの現場を離れた時こそが、探索の機会。崩落した崖以外の場所を探して回れば良いものを、琥珀の行動を見張る事にのみ集中してしまった。そう思ったのも、刺客の思惑の十中八九が殺生丸が崩落した崖の下で圧死したものと思い込んでいたからだ。

 でも、もしここで琥珀が身代わりまで使って自分達の眼を欺いた事に気付いたら、どうなる?

 何か有ると気付かれて、身を潜める事も止めて手当たり次第に捜索を始めたら、それはそれでマズイ事になる。そんな状態で双方出逢わせば、互いに切り伏せるまでは決着がつかなくなる。こちらは当然相手に殺されるつもりはない。あいつ等とてこちらの手の内に落ちるようならば、秘密保持の為には自害も辞さない覚悟だろう。
 そうなっては大元の黒幕に繋がる手蔓が切れるばかりでなく、相手に不必要な用心をさせてしまい、追う事が困難になる事を弥勒は警戒していた。

(  ……まだ、大丈夫。あの娘のお陰で、ずっと早く殺生丸様に逢えたし、弥勒様も来てくれた。俺が町を出てからまだそんなに時間は経ってないから、気付かれてはないはず )

 そう頭の中で思いながら、尚も足を急がせる。身代わりの浮浪児を転がしていたお堂の近くで一旦足を止め、様子を伺う。休息している追っ手の姿を確かめ、それから町の様子も確かめる。町の中は、早くも捜索隊の先触れが到着していて、騒然とした雰囲気が漂いだしていた。琥珀が感じた見張りの視線も、先触れの動きを追っているようだ。

( この様子だと、夕刻までには到着しそうだな。山入りはそれから…、それまでは俺があの見張りを引きとめておかなくちゃ )

 町の様子を把握し、荒れたお堂近くに戻った琥珀は、見張りの眼を盗んで堂内に忍び込む。身代わりにした浮浪児は、まだ気絶したままで身動き一つしていない。またも素早く衣服を取り替えると買い込んだ物を手に、まるで今起きたかのように芝居をしながらお堂の外に出る。見張りの気配が一瞬警戒したように強くなり、琥珀の動きを追っていた。それを感じつつ琥珀はまた、町の真ん中へと戻ってゆく。今度は、ここで王宮から来る捜索隊をヤキモキしながら待つ、と言う芝居で見張りを引き止めておこうと考えていた。

 街道が見える割とまともな店の縁台に座り、ちらちらと遠くの方へ視線を向けては手元に目線を戻し、暗い顔をして見せる。荒れたお堂の後からついてきた二つの視線と、町中を観察していた三つの視線が一斉に、そんな琥珀の様子を凝視する。琥珀がここで絶望感に打ちひしがれて動かないほど、奴等はますます確信するのだ。

 殺生丸は死んだのだと。

( ……俺、役者でも食っていけるかもな。弥勒様はこの後邪見様と合流して、現場に戻って来いと仰ったけど、殺生丸様のお身柄はどう隠されるつもりだろう? )

 一人で頑張っていた昨夜と比べ、弥勒と言う強い味方の登場で、琥珀の気持ちは随分と楽になっていた。楽になった気持ちの半分以上は、なんといっても殺生丸の安全が確認出来た事に他ならなかった。

( あ、あの娘にもっとちゃんとお礼を言っておきたかったな。あの娘のお陰で殺生丸様はご無事だったんだから )

 殺生丸と弥勒が話している間、辺りを警戒していた武僧の話を聞くと、何者かがそれは巧みに殺生丸がいる気配や痕跡を消し去っていると話していた。怪我をして崖を滑り落ちたのなら、当然つくはずの痕を捜索に長けた武僧達でさえ、よくよく目を凝らして探さねば分からぬほどに隠してあった。
 自然に隠れ住む事に長けた者の仕業だろうが、そのお陰で殺生丸が刺客に見つからずに済んだのは間違いないと。言葉を持たない野に棲む小動物のような娘だったけど、なぜかは知らないけど酷くぶたれた痕のある娘だったけど、でも琥珀の目には、それは少しも醜いとは思わなかった。琥珀もまた、娘の心の清らかさを感じていたのかも知れない。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 琥珀を送り出した後、弥勒は大木の洞から殺生丸を引き出した。爆風に飛ばされ、崖の斜面に叩きつけられ、擦り傷や打撲の程は酷かったが、幸い一見して不具になるような大怪我ではないと弥勒は見て取った。

「王たる者の資格には、お前の様な悪運の強さも必要なのだろうな」
「ふん」

 身体中痛みで悲鳴を上げているのを気取らせもせず、殺生丸は常なる冷静な顔で弥勒を見返していた。

「ほら、これを飲んでおけ。薬老毒仙様から頂いた痛み止めだ。これを飲んでいれば、折れた足でも走れるし、腹に穴が開いていても泳げると言うほどのシロモノだ」
「毒仙らしい薬だな」
「ああ、それからこれも。滋養強壮栄養補給効果抜群の霊薬。飲み込む事が出来るなら、今にも死にそうな人間ですら生き返るという、とんでもない薬だそうだ」

 無造作に手のひらに零された丸薬を、疑いもなく殺生丸は飲み下した。苦いとも辛いともなんともいえぬ味が口の中一杯に広がり、それから身体中が熱く、腹の底から活力が湧いてくる。

「……疑いもしないのだな、お前は。もし俺がお前を殺そうとした一味の仲間で、薬と偽って毒を飲ませようとしたとは思わなかったのか?」
「お前ほど賢い者が、そんな簡単な方法を取るとは思えん」
「……理詰め、か。信頼されている訳ではないのか」

 そんな性格だと知っていても、どこかがっかり感を感じさせる弥勒の言葉。殺生丸の顔には、言い得ようのない笑みが微かに浮かんでいる。

「で、これからどうする」
「ああ。毒仙様の薬で普通に歩けるし走れるはずだから、法衣を纏って武僧の中に紛れ込め。それならば山の中を歩いていても、見咎められまい。隠し切れない闘気も武僧であれば、な」
「武僧に身をやつせ、と?」
「黒幕を暴くには、お前は死んだ事にするか行方不明の方が事を運びやすい。二度とこんな事件を起こさせない為にも」

 策略家らしい弥勒の言葉。しかし、それは真正面から殺生丸に切って捨てられた。

「……騙し欺き、策に嵌める。それではあやつ等と同類。私の矜持が許さぬ!」

 その剣幕に、もう一つの読みどおりだったと言う顔をする弥勒。

「そう言うと思ったよ。まぁ、なんだ。お前が死んだ事にする話は流しても、お前を安全に城に連れ帰るのは我等の役目。その為の方便とは思ってくれないか」
「………………………」

 殺生丸と弥勒、互いの視線がぶつかる。双方共に、どこかで折れねば話は進まない。

「分かった。今だけだな」
「ああ。取あえずは、お前が王宮に戻るまでの間、追っ手の眼をくらませるだけでいい」

 不承不承了解すると、その場で手早く着替えさせられる。長い銀髪は二本の組紐で上部の髪を上の方で一回結び、更に下の方で、全体を一括りにして結ぶ。泥に汚れ血の染みがついた上衣を修行僧の黄色の衣に取り替え、目深に頭巾を被せて顔を隠す。その姿で弥勒の連れてきた武僧の中に紛れ込ませると、それなりに紛れる事が出来たようだった。

「俺の仲間は、皆一癖も二癖もある腕自慢の者ばかりだが、その中に紛れてもお前の物騒な気配は浮きやすい。出来るだけ、気配を殺しておいてくれ」

 主を主と思わぬ者の物言いも、ここまで来れば清々しい。
 武僧の中に紛れ、山を下りてゆく殺生丸。

 それもまた、運命だったのか?

 武僧の一団が通りかかったのは、ちょうどあの娘の塒の前の道だった。萱や藪を戸板の代わりにして、穴倉の奥に引き篭り、自分が果たした役割と願ったようになった安堵感と寂しさを何度も何度も噛み締めていた娘の耳に、幾人もの足音は、警戒心を沸き立たせて注意させるのに十分だった。

( もしかして、あのお方のお供の方が戻ってきた? でも、山の上から下ってきてる…… )

 あの場所には、あのお方と自分が連れて行った浮浪児みたいなお供の子しかいなかったはず。こんなに大勢の、それも大人の足音になるはずは無い。娘は戸板代わりの藪越しに、そっと外の様子を伺い見る。娘の視界に飛び込んだのは黄色い僧衣を纏った修行僧の一団。

( ああ、お坊さんか。山の中で修行されていたんだな )

 そう納得して首を引っ込めようとした娘の視線が、一人の修行僧の上で止まった。理由は分からない、でも目が離せない。そんな娘の視線に気付いたのか、その修行僧が足を止めこちらへとやってきた。娘は野鼠のように巣穴の奥で身体を縮込めた。藪に手をかけ、修行僧が中を覗く。娘を射抜いた視線は冷たく鋭い、でもどこかそれだけではないものがあると感じさせたあの視線。

( ごめんなさい! ごめんなさい!! 二度と近付くなと言われていたの、ごめんなさい! )

 頭を埋め、ひたすら身体を小さくして娘はそう思う。
 娘が謝る理由など、何一つ無い。
 今、近付いてきたのは殺生丸の方だった。

「……お前のお陰で無事山を下りる事ができた。礼を言う」

 思いもかけない言葉が娘の上に降りてきた。
 両親や兄弟をなくし、野良犬や溝鼠のような暮らしをするようになって、殴られ足蹴にされ罵られることはあっても礼を言われたことは無い。

「あ、ああっ…… あぅぅぅ」

 娘はこの貴人が,自分のような者を『人』として扱ってくれた事が嬉しかった。娘のはれ上がった顔に広がる、嬉しさに溢れた満面の笑み。後宮の美姫達の誰もが見せたことの無い、無心で無垢な、無償の喜びに満ちた笑顔。

 今、殺生丸の凍て付いた心に真心と言う名の小さな石が落ち、静かに波紋を描き出していた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 不意に列を外れた殺生丸が路傍の藪に手をかけ中を覗きこみ、あろうことか中に潜む者に礼をのべる姿を見て、弥勒達の中から驚嘆の声があがった。

「見たか? 弥勒! あの殺生丸が礼を言うとるぞ!!」

 弥勒の懐から顔を出した人型の子狐妖怪・七宝が心底驚いてそう言葉を発した。七宝はその名の通り人々にご利益をもたらす福徳神のお使い狐の中でも、特に神格にある神狐であった。幼く修行中の身ではあるが、修行を積めば神に準じる位にもなる。見た目子どものようにあっても、この横柄な口調はそれ故だった。

「……俺も初めて見た。まさしく晴天の霹靂だな」

 弥勒は驚きながらも、あの殺生丸に礼を言わせたのは何者かこそを知りたいと思う。殺生丸の冷酷非情な面は国内外に広く知れ渡っている。冷酷非情・残酷無慈悲な、そんな面を殺生丸は自分を守る砦として幼い頃から築かずにいられない状況だったのだ。

 その砦の中心にある、本当の殺生丸の姿に気付くものなどほんの僅か。
 気付いた者も、それを表に出すことは無い。出せば、殺生丸は離れてしまう。狎れ合う事を、もっとも忌み嫌ってもいた。そうして常に孤高と共に過ごしてきた殺生丸だったのだ。それが今、殺生丸の方から歩み寄っている。

「ろくに人と話もせずに、聞きもせぬ奴が、一体どんな者に礼を述べているのだろう?」
「本当じゃのぅ。オラも殺生丸がまともに人と話している所を見かけたことが無い。もしかしたら『人』ではないのかもしれん。あれはまるで狸か穴熊の巣穴のようじゃものな」

 少し遠巻きに、殺生丸の後姿を見ながらそんな事を囁き合う。
 そんなざわつきを完全に無視し、殺生丸は娘の笑顔に魅入っていた。殺生丸の手は自然と懐に伸び、あの帯を娘の前に差し出した。今回の働き対する褒美として取らせようと考えたのだ。それを見た娘が、小さな頭を横に振る。娘にすれば、何か褒美が欲しくてした事ではない。

 ……確かに、もし殺生丸が死んでいたら埋葬してあげる代わりに、少しお駄賃を貰おうとは考えていたけれど。

「……これは、要らぬか。では、これをやろう」

 そういうと殺生丸は、再び懐から金紗の巾着袋を取り出した。殺生丸に取ってははした金に過ぎないが、この娘に取っては見たことも無い大金が入っている。

「それでお前の好きな物を腹いっぱい食べるがいい。金を払えば、もう殴られる事は有るまい」

 泥だらけの小さな手にそれを渡されて、ぽか〜んとしていた娘だが、慌てて我に返り必死な顔で首を横に振り続けた。

( そんなつもりじゃない!! そんなつもりで助けようとした訳じゃ……。もう誰も、あたしの目の前で死んで欲しくなかっただけ!! )

 娘の細い首が折れて取れそうなほど振り続ける様を見て、殺生丸の顔に苦笑が浮かぶ。なおも振り続けようとする娘の小さな頭を自分の手の平で止めて、それから厳しく言いつけた。

「受け取れ、娘。お前はそれだけの働きをしたのだ」
「あ…、ううぅ……」

 激しく頭を振りすぎて、目が回ったような娘の顔にもう一度苦笑いを投げかけ、そして踵を返した。
 戻ってきた殺生丸を見る弥勒の目付きが怪しい。

「何があったんだ? 殺生丸。お前らしくないな」
「黙れ、法師。お前には関係のない事」

 殺生丸が弥勒の事を『法師』と呼ぶ時は、距離を置きたい時。この距離感を読み間違えると、手酷い拒絶と共に下手をすると手打ちにされる。

「……障らぬ神に、だな。分かった、この話はここまでだ」

 聡い弥勒が、その距離感を読み間違えることも無い。
 それはそれと割り切って、こらからの行動について打ち合わせる。

「我等は一旦町に戻る。そして密かに琥珀と合流し、今度は逆に奴等を追う」
「追う?」

 歩きながら、小声で交わされる会話。

「武僧の中でも特に諜報に長けた者を三名、選んでいる。その者らを邪見殿が連れてきた捜索隊を囮にして、お前を殺そうとした奴等の後を付けさせる」
「それで」
「お前は残った者達と、そのまま王宮に戻る。頃合を見計って琥珀が邪見殿にお前が無事王宮に戻った事を知らせ、捜索隊を引き上げさせる」
「分かった」

 そう殺生丸が答えた時には、その顔に好戦的かつ冷酷なまでの武人の表情が浮かんでいた。殺生丸の性格からしてあのような謀(はかりごと)で命を狙えば、暗殺者達に待っているのは『死』あるのみ。
 失敗すれば殺生丸自らの手で、もし殺生丸が謀殺されてしまうような事になれば殺生丸の生母・の手によって。愛息を殺された香麗国王は、草の根や蟻の巣穴をひっくり返すような捜索で必ず謀殺者を見つけ出す。暗殺者に下される刑は打ち首や磔のような生易しいものではなく、もっとも怖ろしい極刑。焼けた銅の柱に裸で抱きつかせ、無理やり柱から引き剥がし生皮を剥ぎ、指を一本一本切り落とし、それから手足を落とした後、目を潰し鼓膜を破り、舌を抜き、飢えた獅子の前に餌として投げ出し生きたまま食い殺させる。
 そのくらいの事なら、平気でするだろう。殺生丸の母であれば。

 この二両日の間に起きた事を思い返し、殺生丸の腸(はらわた)はその者等への怒りで煮えくり返っている。しかしその一方で、思いもかけぬところで小さな清らかな泉を見つけ、乾いた喉を潤したようなそんな感覚も覚えていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 
 思いつめたような表情の演技って結構疲れるなと思いつつ、琥珀は町中の見晴らしの利く店の前で街道を見遥かしていた。あの時、弥勒に指示されたのは、ここで見張りを引きつけつつ、邪見が連れて来る捜索隊を待てと言うものだった。その後、自分はどう動けば良いかまでの指示はもらっていない。

(  邪見様が捜索隊を連れてきたら、俺も同行しないとおかしいよな? そうなると当然見張りも……。それまでには弥勒様が殺生丸様を連れ出される手筈なんだろうけど、いつまで見張りを引き付けて置けば良いんだろう? ) 


 夕刻までまだもう少し間が有る。琥珀はその捜索隊の案内人だと話して、店先で待たせてもらっていた。店の主人が気を使って茶や菓子などを出してくれたが、それを口にする事は出来ない。見張りの眼がある今、自分は主人の安否を気遣う従順な従僕を演じ切らねばと、琥珀はそれらを恨めしそうに横目で見るだけ。そんな様子も見張りには効果的だったようだ。

「……よほど主人が心配だと見えるな。自分の力で探すのは諦めて、捜索隊が到着するのを待つ事にしたのは、子どもの体力を考えれば賢明だ。しかし、心配のあまり物が喉を通らないようだな」
「ああ、そうだな。山から下りてきた時には、健気にも休息を取ったらまた一人でも山に戻るかと思ったのだが」

 そう話すのは、琥珀の身代わりとも気付かずに替え玉を見張っていた二人。他の三人は琥珀の姿をこの二人とは反対の方から監視していた。

( ……見張りの数に変わりなし。今のところ大丈夫だな )

 そんな緊迫した状況の中、山の方からざっざっと早足で歩いて来る者達がいた。その速さやまるで小走りで走っているのと変わりがない。

( 来た! 弥勒様達だ。あの中に殺生丸様が? )

 ゆったりとした黄色い僧衣を纏っていても、日ごろから鍛えられている武僧の強靭な体格は隠せない。世俗を絶つ意味もあり、修行中の武僧は顔を頭巾で深く隠し一言も発する事無く足早に通り過ぎてゆく。辺りには鍛え上げられたものだけが放つ覇気の様な物が揺らめくだけである。

「……武僧か。山の方から下りて来たが、まさかあの中に紛れている事はないだろうな」
「馬鹿を言うな。あれだけの爆発に巻き込まれたのだ。無傷な訳はない。手や足の一本や二本折れていても当然の大怪我を負っているはず。あんなに動ける訳が無い」

 暗殺者達が思うよりも軽傷だったとは言え、剣を持つ右腕を庇った為に左半身から爆風を受け、実際左腕は痺れて動かないし左足は折れている。加えて衝撃で内臓も痛めているし絶食状態で力も入らないでいるのだが、それをそう感じさせないのは弥勒が飲ませた薬老毒仙の薬の効き目だ。

「しかし、こんな時に山から下りてきた者をそのまま通す訳にはゆかん」
「止めておけ! 修行中の武僧は修行の邪魔をされると武力でもって対処すると聞く。国からの庇護を受けている連中だ。うるさい事になるぞ」

 仲間が止めるのも聞かず、見張りの一人が武僧達の行く手を遮った。
 残った見張り五人の中で、思慮は浅いが一番の腕っ節の強さを誇る男だからこその暴挙。

「なに用か?」

 落ち着いた口調で弥勒が静かに問う。

「修行中の身とお見受けするが、その中に我等が探しているものが紛れているやもしれん。面を検めさせて頂きたい」

 琥珀の動悸が早くなる。まさか、こんな展開になるとは!!

「……お断り申そう。我等は世俗を絶ち、修行に励むもの。その証として、己の顔さえ捨て去っている。それを曝せというのは、我等への冒涜。許す訳には行かぬ」

 ざわっとした殺気が沸き起こる。
 特に一人の武僧から、それは強く感じられた。

「お主等が断ろうとも、力尽くで曝せば良いだけ!!」
「……愚かな。お前如きが敵う我等ではない」

 弥勒の言葉が終らぬうちに、一人の武僧の右腕が深々と見張りの鳩尾にめり込んでいた。見張りは打ち込まれた衝撃で、血反吐を吐きながら数間殴り飛ばされている。殴った武僧は息一つ乱さず、深く被った頭巾も僧衣も何一つ乱れることはなかった。まるで、殴られた事が気の迷いのようにすら、静かな一撃だった。ただ、その心の臓が凍りつくような強烈な殺気以外は。
 この事態を、どこかで見張っているだろう仲間にも聞こえるように弥勒が言い捨てる。

「……命拾いをしたな。これに懲りたら、二度と我等の行く手を遮るな。次は本当に殺されるぞ」

 弥勒の言葉を聞きながら、見張りの男は怪我人の殺生丸がこんな男達に紛れる事は無理だと理解した。間違っても、今自分を殴り飛ばした武僧は、絶対に違うだろうと。そして、この武僧と変わらぬ気を吐き、同じように行動している者達も。まだ地面に倒れ臥している見張りの男を見下げ、弥勒達は強健を誇るかのようにあっという間に町を出て行った。こうして弥勒は見張りが目を光らせている中、堂々と殺生丸連れ出すことに成功したのだった。

「あ、出ていっちゃったよ。弥勒様」

 ほっとしたのもつかの間、琥珀は大事な事を思い出した。
 自分はこれから、どう動けば良いのか? その指示を弥勒にもらうつもりだったのに。ぼぅと姿が小さくなってゆく街道を見送りながら琥珀は、自分の足元に何かもこもこしたモノが纏わりついているのに気がついた。

「あれ? これは……」

 琥珀は身を屈め、足元にいた子猫を抱き上げる。金毛の縞柄のその子猫は、琥珀の顔を可愛い小さな舌でぺろりと舐めた。そして ―――

「よく聞け、琥珀。弥勒からの指示じゃ。明日の昼過ぎに邪見に殺生丸が城に戻ったと伝えよと。それまでは、必死で瓦礫を掘り返せと」
「明日の昼?」
「ああ、そう言うとった」

 弥勒からの伝言を伝え終えた子猫に化けた七宝も、弥勒のあとを追うように町から出て行った。その七宝の姿と入れ違いに、砂煙を上げてこちらに向かってくる一軍。邪見が連れてきた捜索隊が到着したようだった。

「さてと……。俺も、これからが一仕事だな」

 どこかやれやれといった風情を隠しきれぬ様子で、琥珀は店先を離れた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


  山辺の巣穴の中で娘は、手に乗せられた金紗の巾着袋を恐れ多そうにためつすがめつしていた。貧しい暮らしの娘でも、この巾着袋がとても高級な品だと言う事はよく分かる。金紗に織り込まれた柄は翼の大きな美しい鳥の柄で、鳳凰という名を知らぬ娘でも、とても良い意味の柄なのだろうと理解出来た。
 口を両絞りする為の組紐も、縁起の良い紅白の光沢の有る物が使われていた。赤はそれは鮮やかな真紅色、白は少し金色味を帯びたむしろ白金色。

( 綺麗な色だなぁ。初めて見るよ、こんな色。すべすべしてなんて手触りの良い紐なんだろう )

 うっとりとしたように娘は、その紐や金紗の指触りを楽しんだ。そして、ふっと自分の手を見て、あまりにも汚い事に撫で触る事を止めた。

( 汚しちゃダメだよね。大事にしまっておかなくちゃ。あ、でも…… )

 娘の眼が、巾着袋を縛っている紐の一本に注がれる。

( この赤い紐一本だけなら、良いかな? 汚れてもあまり目立たないよね? )

 そう思うと、遠慮がちに巾着袋から赤い紐を外した。それを使って自分の髪を一房とり器用に縛り上げる。鬱蒼としていた目の前が、すっと明るくなったような気がした。それからそっと巾着袋を開いて見てみると、中には大判の金貨が三枚、中判金貨が五枚、後は小粒金や銀貨がたくさん入っていた。普段金など持ち歩かない殺生丸の為に、旅先で使いやすいようにと琥珀が用意したからだった。
 娘は目を丸くした。金貨など今まで見た事はなく、小粒金だってたまに残飯を漁る店の勘定場で見かけるくらい。家族が生きている頃に見たのは、銀貨どころかせいぜい銅貨くらいなものだった。あまりもの大金に娘は怖くなってきた。

( どうしよう、こんな大金。どうやって使ったらいいか分かんないよ! )

 その時、

 ―――― 金を払えば、もう殴られる事は有るまい

 娘にかけられた殺生丸の言葉を思い出した。

( ……そっか。このお金、今まであたしが盗んだ品物の代金に使えばいいんだ。それから、あたしの欲しい物を買えば ―――― )

 それでも全部を使い切るのは難しいやと娘は思った。取りあえず、今いるだろうと思う分のお金として銀貨の半分と小粒金の少しをボロ布に取り分け、残りはしまっておく事にした。きょろきょろと辺りを見回し、巣穴の奥に置いていた蓋付きの小箱にその巾着袋を入れた。

 わくわくで胸を膨らませ、娘は夕闇に染まる町へと向かう。途中で物々しい雰囲気の一団をやり過ごした。その一団の後を追う只ならぬ気配の五人の男の事も、またその五人を追う武僧の事も、娘には預かり知らぬ事。

 幸運な出会いと、目のくらむような大金が娘の勘を鈍らせていた。
 自分が向かおうとしている町の夜が、どんなに危険であるかと言う事を。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


( あれ……? なんだか、いつもと様子が違う? )

 娘は夕闇に紛れながら、町の様子を伺いそう思った。

 町の者は都からの捜索隊の物々しさや只事ならぬ気配にざわざわしている。普段ならこんな国境沿いの辺鄙な町、しかも無頼の徒がたむろする所を通りかかる旅人などそうはない。同じ国境沿いを行くにしても多少遠回りであっても、もっと治安の良い旅人に安全な町を通ってゆく。
 それなのに、昨日から今日にかけてのこの町を通る者の多さはなんだろう。最初は早い馬を求めたちんくしゃな老人だった。その老人に言い値で役に立たない馬まで買わせてボロ儲けをした馬喰もいた。次は饅頭を蒸籠ごと買い占めた旅の男達。この男達は明らかに只者ではなく、荒くれ者の多いこの町の男達でも迂闊に手を出さない相手だった。正体を確かめようと後をつけた者も、途中で巻かれてすごすごと帰って来た。
 その次は、まるで風のように通り過ぎた修行中の武僧達。この武僧達の姿が見えなくなったと思ったら、今度は都から沢山の兵士がやってきたのだ。

 町の者は、また戦か! と動揺したが、その兵士等はそのままもう夜になろうという山へと入っていった。どの兵士も武器は腰に下げた剣のみで手に手に鶴嘴(つるはし)や十能(じゅうのう・シャベルの事)を持ち、担架や医者らしいものや、数人で天幕を抱えている姿もあった。

「……こりゃ、都のやんごとないお方が遭難でもしたらしいな」

 そんな捜索隊の様子を見て、娘がいつも塵箱を漁る店の主人が呟く。その呟きを、店の常連が聞き止めた。

「やんごとないって、どんな奴だよ?」
「そんな事、俺が知るか。ただ、まぁ生きていても死んでいても、もしあいつ等より先に見つけていれば、たんまり褒美が貰えたかもな」

 そんな言葉に、常連客が目の色を変える。

「そんなら、俺達もあの兵隊達と一緒に山に入ろうぜ!!」

 たんまり褒美の言葉に、もう客の足は浮き足立っている。

「……止めとけ。今からじゃ、もう遅い。俺達町の者に声をかけずに山に入ったって事は、自分たちだけの手で探すつもりなんだろう。そんな所にのこのこ出向けば、荒らしに来たと思われて手酷い目に合うのが関の山だ」
「そうか……。くそっ、折角の儲け話が!!」

 がっかり感で気が荒くなった客が、どんと腰を下し直し残っていた酒を一気に空ける。

「腹を空かせた兵士が飯を食いに来るかも知れん。ちょっと仕入れに行ってくるか」

 そう店の主人が帳場の金入れを開けようとした時だった、その帳場の片隅にきらりと光るものが乗っている。

「ん? なんだ。これ?」

 摘み上げてみれば、それは一枚の銀貨。

「おい、お前。ここに金を置いたか? 銀貨一枚」

 自棄酒を呷っている常連客に、そう尋ねる。

「金? まさか、この町で先払いするような馬鹿はいねぇーだろ? それに手前ぇんとこの酒や料理で、銀貨一枚も払うような馬鹿もな」

 悪態をつく客を睨みつけ、店の主人はその銀貨を不思議そうに見たが、そのままそれを懐に収める。
 この夜、この町のあちらこちらでこんな事が起きていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


( ……これで、全部返し終わったかな? )

 娘はいつもと違う町の雰囲気に首を傾げながらも、塵箱を漁ったり店先の品物を盗んだりした所にこっそりと銀貨を置いて歩いていた。娘が盗んだ品物の総額など銀貨一枚の価値もないものだが、それより小さな金額もなく、どの店にも一枚ずつ公平に娘は置いてきた。

 娘の背にずっと圧し掛かっていた罪悪感が、すっと消えていた。生き抜くためにはどんな事でもしてきた娘だが、それでもやはり『人として恥ずかしい』と言う気持ちを持ち続けてきた。その気持ちは、泥水の中ですっくと花を咲かせる蓮華の様に清らかなものであった。

( えっと、今度は…… )

 娘は腹が減っていた。何か食べたいと思ったが、このままの格好ではあまりにも汚くて店に入れてもらえないだろうと思う。

( 着る物がいるよね。ご飯を食べるのは、身奇麗にしてからの方が美味しいし )

 そうして娘は、今まで足を向けた事の無い町外れの古着屋へ向かった。娘は古着屋の塵箱を漁った事もなければ店先の物をくすねた事もない。小物や布の切れ端では腹は膨れないからだ。

 おずおずと娘は、店じまいしかけた古着屋の前に立った。胸が半分も見えるような下品な着付けをした古着屋の女主人が、娘の薄汚い姿を毛虫でも見るような目付きで睨み付ける。

「なんだい、お前! 物乞いなら他でやっておくれ!! 売り物の着物にお前の臭いにおいがついたら売り物にならなくなるじゃないか!!」

 居丈高に、キンキンした声で怒鳴りつける。娘は身を縮めながら、店の奥に掛かっていた子供用の着物を指差した。

「あれが欲しいのかい? まさかお前、あれをタダで貰おうなんて考えていないだろうね?」

 娘が頷く。

「へぇ〜。お前、そんな身なりのくせして金持ってるってのかい? うちの着物は高いよ」

 金さえ持っていれば、客は客。その金の出所が他所の店から盗んだものだろうが、誰かから巻き上げたり、あるいは殺して奪った金であっても、そんな事には一切構わない女だった。女主人は娘があちらこちらからくすねた金を持ってきたのだと考えた。それならば、その金全部を巻き上げてやろうと、腹の中で舌なめずりをする。
 高いと言われて娘はボロ布に包んだ金の中から小粒金を三つ取り出し、それを店の女主人に渡した。せいぜいこんな小娘がくすねてきた銭など、銅銭の百枚もあれば大したものだと嵩を括っていたものだから、それには驚かずにはいられない。この古着屋の安物着物全部買っても、おつりが来るぐらいの金額である。そして、思う。

「……お前、こんな大金どうしたんだい? まさか ―――― 」

 あの食い物屋の主人と同じ事を考える。山で遭難したらしい都の貴人、この娘はその行方を知っているのかもしれない。でなければ、こんな大金を持っているはずがない。

「知っているんだろ!? あの兵隊達が探しに来た誰かの行方をっっ!!」

 豹変した女主人の形相に、娘は恐怖で目を見開き必死で首を横に振った。
 何も言わない娘の様子を見て、女主人は思いついた事を口にした。

「……お前はこの金を、その誰かから貰ったんだろ? で、金を持ってここにいるって事は、生きてりゃその誰かも山から下りてくるなり、なんなりするはず。動けなけりゃ、お前に伝言を頼むとかね」
「……………………」

 この女主人は、娘が喋れない事を知らない。

「それがないって、事は……。お前、死人から身ぐるみ剥いだね?」

 凄みの有る表情で、女主人は娘に迫る。女主人の眼は、欲で赤く燃えているようにすら娘には見えた。

「おい、どうした? その娘に、何かくすねられたのか?」

 通りかかったあの饅頭屋の主人が、店先で血走った目付きで娘を恫喝している女主人に声をかけた。

「俺のところも今朝、こいつに饅頭をくすねられてなぁ。仕置きするなら、俺も混ざるぜ。口が利けねぇせいか、妙に強情なガキでな」
「口が利けない?」
「店先の簪でもくすねられたか?」
「簪をくすねた? はっ、そんな可愛げのある話じゃないよ。このガキ、都のお偉いさんの死体に追剥ぎを働きやがった」
「なんだ、その話!?」

 ざわっとした空気が、娘を取り巻く。

「その娘の懐を探ってみな。びっくりするモンが出てくるよ」

 饅頭屋の主人が逃げ出そうとした娘を後ろから羽交い絞め、無遠慮に懐に手を突っ込みぼろ布の包みを取り出した。開けて見ると、そこには沢山の銀貨や小粒金が包まれている。

「あれ、この銀貨……」

 饅頭屋の主人が自分の懐に手を入れ、銀貨を取り出す。
 それは、いつの間にか店先に置かれていた銀貨。

「そうか、お前が迷惑をかけた店々に配って歩いていたのか。盗人のくせに殊勝なことだな」

 その言葉に、娘は気が緩みかけた。
 許してもらえるのではないかと言う、淡い期待と共に。

「てぇ、ことは何だ。これの他にもまだたんまり金はあるって事だな? そうじゃなきゃ、こんな大盤振る舞いは出来やしねぇ」
「ああ、そうか。そう言う事だね」

 女主人も相槌を打つ。そこに、あの常連客までやってきた。

「どうした、どうした。この娘、またなにかやらかしたのか?」
「……どうやら一山当てたようだぜ、この娘」
「一山? なんだ、それ?」

 酔っ払って、足元がふらふらしている客が聞き返す。それに古着屋の女主人が答えた。

「お宝持った死人から、身ぐるみ剥ぎやがったのさ。この娘」

 そう聞いて、酔っ払った男の頭に血が上る。いきなり娘の腫れた頬を平手で二・三発張った。口の中が切れ、血の筋が小さな口元から滴り落ちる。頭は真っ白になるほどくらくらしていた。

「上手い事やりやがったのか!! このガキっっ! どこだっ!? どこに、その死体を隠した!?」

 襟首を掴み、窒息しそうなほど締め上げる。

「やだねぇ。酔っ払って忘れちまってるよ。その娘、口が利けないんだろ?」

 女主人の嘲笑混じりの言葉に、へっと吐き捨てながら娘の身体を地面に投げつけた。

「口が利けねぇなら、そこに案内させるまでよ! どうせこのガキ、物の値打ちなんぞ分からずに、金だけ抜いてきたんだろうからさ」
「物の値打ち?」

 怪訝な顔で古着屋の女主人が首を傾げる。

「都から兵隊が血相変えて探しにくるようなお偉いさんだぜ? あったかそうな懐だけじゃなく、身に付けている剣や小物、着物の類まで全部高価な品に決まってるだろうが!!」
「ああ、そりゃいいねぇ。どうせお偉いさんでも、死んじまっちゃ宝の持ち腐れ。生きてる者が良い様に使わなきゃねぇ」

 死者に対する敬虔さも、上位の者に対する敬意もない。酔っ払い客は地面に叩きつけた娘の髪を引っつかみ、身体を起こした。娘は痛さのあまり、ぽろぽろと大粒の涙を零す。

「話は聞いたな? これ以上酷い目に逢いたくなきゃ、さっさとその場所へ案内しろ!!」

 娘は弱々しく首を横に振った。
 案内しろと言われても、どこにも死体などありはしない。
 だけど、と娘は思う。

( ……本当の事を知られたら、きっとあのお方に迷惑がかかる。知られちゃダメだ。知られちゃ!!  )

 朦朧としてきた頭の中で、ただそれだけを強く思う。
 そんな娘の態度が強情に見えたのか、怒り心頭でまだ幼い娘にしか過ぎないにも関わらず、寄ってたかって殴る蹴るの暴行を加えた。小さく軽い身体が大人達の間を大きく行ったり来たりしながら、どんどん血と泥でどす黒く染まってゆく。

「この、クソガキっっ!!」

 酔っ払いの男の蹴りが娘の腹に入り、ゴボっと言う血反吐を吐いて娘はピクリとも動かなくなった。

「ちょっと、ちょっと。やり過ぎちまったんじゃないのかい? 動かなくなっちまったよ」

 少し前まで面白そうに手近にあった鉄の火かき棒で娘を叩いていた女主人が、それに気付き一緒に殴っていた二人に声をかけた。

「ああぁ、あれ? 本当だ、くたばっちまってる」
「ちぇっ! 儲けは、この銭だけかよ」
「それでも、たいした金額さね。どうだい、気晴らしにぱぁと遊びに行かないかい?」

 無慈悲な大人の足元で、娘は無残なボロ布の様な姿になっていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 あの無法者がたむろする町を出、殺生丸達は一里ばかり離れた荒野で足を止めていた。薬老毒仙の薬を飲んだからと言って、本当は怪我人である殺生丸が修行を積んだ武僧の足と対等に移動出来る訳はなかった。殺生丸の言う通り、馬よりも早い健脚ぶりは、全てに秀でている殺生丸にしてもおいそれと真似出来る域ではない。

「こんな所で足を止めてどうするつもりだ」

 疲れも見せず、先を促す殺生丸。

「まぁ、待ってろ殺生丸。月が中空に掛かるのを合図に、俺の相棒がここに来る事になっている」
「相棒?」

 余裕の返事を返す弥勒に、そう殺生丸は聞き返した。

「昔なじみの化け狸でな。こいつは身体を大きくして空を飛ぶ事が出来る。徒歩で行くよりは随分楽だろう」
「今度は化け狸か」

 ちらりと弥勒の袂でうとうとしかけている七宝を見ながら、皮肉っぽい笑みを浮かべた。その七宝が突然がばっと、起き上がる。

「どうした、七宝?」

 何か異変を感じたのかと、弥勒も緊張する。

「……血の臭いじゃ。あの娘の匂いと血の臭いが混じって風に乗っておる」
「……血の臭い」

 殺生丸は、ぽつりとそれだけを口に中で繰り返す。 

「それから、涙の匂いも。これは、もしかするとあの娘……」

 山から下りる途中の、あの椿事。
 あまりにも有り得ぬ出来事だったため、七宝はその嗅覚を使ってそれが何者かを探ろうとした。あの時の娘の匂いが、確かに風と共に運ばれてきたのだ。

 そして、殺生丸の次の行動も有り得ぬ行動であった。

「おい! 殺生丸!! どこへ行く!?」

 思わず声を上げてしまった弥勒。
 くるりと踵を返し、殺生丸はもと来た道を戻り始めた。

「…………………」
「もしかしてお前、あの娘の安否を確かめに行くつもりか?」
「それがどうした」
「どうしたって、お前は一刻も早く城に戻らねばならん身だぞ? それを分かっていて、そう言うのか」

 暗殺者の裏をかき無事ここまで脱出できたのに、またあの町に戻るのは愚かしいほどの危険行為。

「……私のする事に、口を出すな」

 弥勒の諌めも聞かず、歩む足の速度は段々早くなる。

「どうする? 弥勒」
「……仕方が無い。大人数では目立ちすぎる。行くぞ、七宝」
「え? オラもか?」

 弥勒の指名に、ドギマギと聞き返す七宝。
 あの町に戻って危険なのは、何も殺生丸だけではないのだ。

「ああ。いざとなったらお前が化けて、殺生丸を運べ」
「ひぇ〜〜〜、嫌じゃ、オラはっっ!!」
「うるさい、行くぞ!!」

 七宝の拒否の言葉を丸無視して、急ぎ足で弥勒は殺生丸の後を追った。


 殺生丸の探していたものは、町に入ってすぐに見つかった。
 古着屋の前で、ボロ布のようになって打ち捨てられた娘の姿。

「……酷いもんじゃ。この町の奴等は鬼ばかりかっっ!!」

 七宝が子どもらしい大きな瞳に涙を浮かべ、怒りに拳を握り締める。

「……これで気が済んだか、殺生丸。この町の者を制裁するのは、お前が城に帰ってからだぞ」

 このまま暴れだしそうな気配を感じて、弥勒は先に釘を刺す。殺生丸は変わり果てた娘の姿と、倒れていた店とを見比べ小さく呟く。

「身なりを整えようとしたのか。私が与えた金で着物を買って」

 周囲の者を災難に巻き込む、自分の存在を疎ましく忌々しいものと感じていた。
 この娘は、ただひたすらに一生懸命に生きようとしていただけ。
 貧しい身なり、獣以下の暮らしでも、心の清らかさを忘れなかった娘。

 あの一点の曇りも無い笑顔。
 それが、今 ――――

「……弥勒、あの薬を出せ」
「あの薬? あれをこの娘に飲ませるつもりか?」
「ああ」
「あれは毒を飲んでも利かないお前の為に、薬老毒仙様が特別に調合した薬。他の者には毒にもなる劇薬だ」
「構わん。私が止めを刺す事になろうとも、このまま何もせず見捨てるよりはましだ」

 言い出したら聞かない殺生丸。殺生丸の言葉に、娘の様子をよくよく見れば、まだ僅かばかりに息が有る。しかし、あの暴漢達が言ったように、目の前の娘はほとんど死んだような状態で、このままだと確実に死ぬ。

( ……ここまで弱った身体には、この薬は毒にしかならんだろう )

 それでも、と弥勒は思った。

( 他人になんの関心も払わなかった殺生丸を、ここまで必死にさせるとは……。何か起きるかも知れん )

 焦れる殺生丸の手に、痛み止めの忘痛丹と弱った身体能力を一時的に強壮強化する効果のある還生丹を渡す。殺生丸はそれを口に含み噛み砕き弥勒が渡した水筒の水を含み、それから痺れる左腕で娘の身体を抱え起こす。右手でやせた顎をつかんで力を加え少し口を開かせ、そこに口移しで噛み砕いた薬を流し込む。
 飲み込む力も無いのか、娘が窒息したかのように身を捩り吐き出しそうなのを、さらに唇を合わせ息を吹き込み、無理やり飲み込ませた。

「のぅ、弥勒……」
「ああ。皆まで言うな、七宝。俺だって信じられん」

 二人の目の前で繰り広げられているのは、本当に信じられないような光景。
 あの冷酷無慈悲残虐非情とまで言われ怖れられている殺生丸が、人とも言えないような塵芥の様な浮浪児を救うのに懸命になっている。

( ……助かって欲しい。殺生丸の為にも )

 この娘なら、殺生丸を変えて行けるかも知れないと弥勒は思う。
 本当は、上に立つに相応しい者だと知っているだけに。

「ぁ…、ぅぅ あぅ……」

 娘の運の強さか、殺生丸の思いか?
 微かにだが、意識が戻ってきていた。

「……助かりそうだな、この娘」
「ああ」
「で、どうするんだ?」
「城に連れて帰る」

 聞くまでも無い問いだとは思ったが、一応その意思を確かめる。

「そうだな。このままこの町に置いて行く訳にはいかんしな」
「うむ」

 その夜、一人の浮浪児がその町から消えた。
 町の人間から足蹴にされ、野良犬や溝鼠のように扱われてきた娘。
 名さえないまま、町の人間に見返られることもなく。


 今はまだ名も無いこの娘はこの後、殺生丸の下で生まれ変わる事になるのだった。

【覇伝6へ続く】   

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