【 月華覇伝6  】



 娘が気付いた時、最初そこがどこかまったく見当がつかなかった。身体中を何かでグルグル巻きにされていて、身動きが出来ない。顔もグルグル巻きで、目と鼻と口のところが少し開いているだけ。季節が真夏の様に暑い季節だったら、暑さで茹で死んでしまいそうな格好だった。

( ……どこだろ、ここ? なんだか、凄く薬臭い )

 狭い視界に映るのは、白い天上。鼻に押し寄せるのは、色んな薬草や動物の干からびたような臭い。
 耳に聞こえるのは ――――

「どんな具合だ、あの娘は」

( えっ!? 今の、あのお声は…… )

 娘の胸が、どきんとした。
 それから、かぁぁと全身が熱くなる。
 まさか、まさか……

「まだ、気付いてはおらん。まぁ、それでも看護の女官が口元に注ぐワシ特製の水薬を飲み下せるから、じき目も覚めよう」
「そうか、それならば良い」
「あの娘も重傷だが、殺生丸。お前も出歩けるほど、軽い傷ではないのだぞ」

 そう嗜める年取った声は、自分をこんな風にグルグル巻きにした人なのだろうと娘は思った。ここがどこなのか、自分はどうなっているのか、それよりもその人が言った「殺生丸」と言う名が、娘の頭をいっぱいにしていた。

「毒仙、三日もお前の治療を受けていれば、お前の屋敷内を歩き回れるくらいには回復する。私をそこらのひ弱な者どもと同じ扱いにするな」
「よく言うわ! 確かにワシの仁術は天下一品じゃ。ぽっきりと折れたような骨なら一晩でくっつけられるくらいにな。傷付いた腸(はらわた)とて、ワシの煎じた仙薬を飲めば,たちどころに元に戻る。じゃがな、殺生丸!!」

 ずいっと薬老毒仙は殺生丸の眼前に、その萎びた顔を突きつけた。

「そのワシの術を持っても、お前の左腕は動かん! ここに戻る直前までは辛うじて動いていたと言うだけに、なぜ都に戻った途端、動かんようになったのか?」
「……………………」
「爆風に飛ばされた時に出来た裂傷も、叩きつけられた時に受けた打撲も、ほぼ治っておる。骨には別状ない。なのに、動かん。これが重傷でないと言えるのか!!」
「重傷ではないだろう。ただ動かんだけだ」

 何をそんなに息巻いているのかと、殺生丸は薬酒の飲みすぎていつも赤い顔をしている毒仙を醒めた目で見ていた。

「……傷は、目に見えるものばかりではないのだぞ。お前の心の傷が左腕を動けないようにしているとしたら、どれ程の深い傷か察しがつこう」
「心の傷? 笑止。私の心は、傷などつかぬ。この腕が使い物にならぬほど重傷ならば、切って捨ててくれよう」

 殺生丸は腰の闘鬼神を抜くと、左の肩口に刃を当てた。

「あああっ!! ぐっ!!」

 事の成り行きを聞いていた娘は、思わず自分の身体の痛みも忘れて身を起こし、寝台から転げ落ちると殺生丸の足元に縋りついた。

「お前っっ…!?」

 物事にあまり動じることの無い殺生丸でも、この出来事だけは虚を突かれた。
 包帯でグルグル巻きにされた意識不明のモノが、突然奇声を上げ寝台を転げ落ちて自分の足元にしがみついて来れば。

「気がついたのか? そして殺生丸が馬鹿な事をしようとしたのを、我が身の怪我も忘れて止めようとしたのか」

 びっくりしたように、そして半ば感心したような響きを含ませて、毒仙がそう娘に問い掛ける。
 娘には毒仙の問い掛けなど、聞こえていない。
 ただぎらりと光る刃だけを見ていた。
 その刃を殺生丸の左腕に触れさせてはいけないと。

「……闘鬼神を仕舞え、殺生丸。この娘は、動かぬ左腕でも大事にせよと言っておる。ワシもそう思う。この傷だらけの娘の必死さに免じてやれ」

 身体中傷だらけで、動けば激痛がぶり返すだろうに、それでも娘は殺生丸の足にしがみついていた。おそらく、その一言を殺生丸が口にしない限り、離れはしないだろう。

「う、うううぅ……」

 娘の存在そのものが、殺生丸の心を射抜く。ここまで他者を意識した事は、血縁者を除いては滅多にない事。また相手が怪我をした幼い者であることも、常の殺生丸らしい行動を抑制させた。動かぬ自分の左腕にも、不遜にも薄汚い手で触れている娘にも、結局闘鬼神は振り下ろされることは無かった。あまつさえ、あの無口な殺生丸から次のような言葉すら吐かせたのだ。

「分かった。動かぬ左腕だが、そのくらいの枷など何ものぞ。落しはせぬから、その手を離せ」

 殺生丸は、子どもならではの加減の無さでしがみついている娘に向かってそう言った。包帯でグルグル巻きにされた顔の隙間から、娘の黒目がちの瞳が覗き殺生丸の顔を見つめている。

「ほぅ。これはまた、随分と胆の据わった娘だな。お前の顔を正面から見れる者なぞ、幾人もおるまいに」
「変わり者の娘ゆえに、私の姿はどう映っているのか判らぬ。何の力もないのに、この私を助けようなどとした娘だ」

 場の空気が変わった事を察したのか、殺生丸の足にしがみついていた娘は、そっとその小さな手を離すと自分のした事の重大さに気付いたのか、寝台の下に潜りこむと小さく蹲ってしまった。

「あれは「人」と言うより、「獣」に近いのかも知れぬ。野に棲む小さな獣だ」
「お前はそうとう人に嫌われているからな、殺生丸。その上で、獣にまで嫌われては切なかろう。良かったな、少なくとも、あの者はお前の事を嫌ってはないようだぞ」

 ずけずけと、宮中での殺生丸の人間関係を一言で言い表す毒仙。こんな事を口に出来るのも、お互いに信頼関係があるからだ。殺生丸にとって、数少ない「素」の自分を見せられる相手でもあった。

「森に棲む幼獣か雛を拾ってしまったと言う事か」

 意外とその発想が、殺生丸には面白く思えた。

「今は獣でも、意外や美女に化けるかもしれんぞ?」
「美女? そんな者はこの都には山ほどいる。獣なら獣のままの方が面白い」

 そう言って、寝台の下の娘に視線を向けた。
 娘はますます、小さく縮こまる。

「娘の意識が戻ったようなので、私は部屋に戻る。しかし、まるで霊廟の中の襤褸を纏った死体が動き出したようだな」

 そう言った声には、珍しい事にどこか笑いが含まれていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 殺生丸がその部屋を出て行ったあと、毒仙は手伝いの大柄な女官を呼び、寝台の下に隠れてしまった娘を抱え上げさせた。そう、毒仙が言ったとおり娘は、急に動いた事による激痛で身動き出来なくなっていたのだ。

「自分の事より、あいつの事が優先か。あんな冷血漢のどこに、良さを見つけたのやら」

 毒仙の指示で大柄な女官は娘を寝台の上に横たえ、グルグル巻きの包帯を全て取り去らせた。取り去られた包帯には、毒仙特製の軟膏と娘の傷から滲んだ血と浮浪児ゆえの汚れとでなんとも言えない色に染まっていた。

「ふむ。身体を綺麗にするよりも、取あえずは全身の傷と打撲の手当てを優先したからのぅ。全身をワシ特製の軟膏の中に漬けてしまえば、化膿する事もない」

 娘の全身を目診し、回復状態を確認する。あのまま放っておかれたら、間違いなく栄養失調気味の娘の身体は傷が化膿し、見るも無惨な様相を呈していたことであろう。毒仙の診察が終ったのを察した女官が、娘に柔らかい木綿の病衣を着せ掛けた。

「激痛は、身体の中の骨や腸が折れたり傷付いている傷み。可哀想な事じゃ。こんな子ども相手に、どんな仕打ちをしたのか。やせ細った子どもの骨など、枯れ木よりも簡単に折れるだろうに」

 あの時、古着屋の主人達から受けた暴行の数々は、娘の身体中の骨を折り砕き、折れた骨が臓腑に刺さり、あるいは破裂させていた。本当に、先ほどの殺生丸の言葉ではないが、毒仙の屋敷に運び込まれた時の娘の状態は、殆ど死体と変わらなかったのだ。

「そら、これが痛み止めだ。目が覚めた今なら、自分で飲めるじゃろう」

 毒仙は女官に支えられて身を起こした娘の前に、大振りに木の椀に明らかに煎じて作った判る茶色い液体をなみなみと注いだものを差し出した。

「あ、うぅ?」
「最初は一口飲むだけでも全身が痛むじゃろうが、飲むほどに傷みは遠のき骨は繋がり、臓腑の傷も塞がってくる。頑張って飲むんじゃぞ」

 毒仙が差し出した木の椀は看護の女官が受け取り、それを娘の口元に宛がった。
 娘の意識の無い間は傷みだけを抑え、とにかく栄養のある薬液を飲ませていた。今、木の椀に入っているのは、少しでも体力を回復させてからでないと飲ませる事は出来ない劇薬。
 恐る恐る娘が一口薬を口に含み、小さく喉を動かし、飲み下す。途端に苦しそうに咳き込んだ。

「きついじゃろうが、頑張れ! お前は、毒すら効かぬ殺生丸用に調合した薬を飲んで、生き永らえたのじゃ。お前なら、出来る!!」

 毒仙は、娘の顔を見ながら励ました。娘は殺生丸用の薬を飲んだと聞いて、小首を傾げる。

「あの殺生丸が自分の薬を噛み砕いて、口移しでお前に飲ませたのじゃ。あいつの為にも、頑張るんじゃ!」

 そう聞かされた時の娘の顔。まだ傷だらけの軟膏と血糊と汚れに塗れていたお陰か、仄かに赤くなったその顔色を誰にも気付かれずにいた。娘はこくりと頷いて、自分から椀に口を寄せていった。今度はもう少し多めに煎じ薬を口に含み、ごくんと飲み下す。本当に、身体がばらばらになりそうだと娘は思った。それでも、頑張って娘は薬を飲み続けた。随分と時間はかかったが、ようやくなみなみと注がれた煎じ薬を全部飲み終えた頃は、身体の痛みよりもお腹いっぱいの煎じ薬の方が苦しいくらいになっていた。

「よく頑張ったな。どうじゃ? 身体の中の傷みが薄れた気はせぬか?」

 うん、と娘は頷き、その弾みに小さなげっぷをしてしまう。
 行儀の悪さに、娘がばつの悪そうな表情をした。

「腹も膨れたようだ。しばらくしたら、この女官に薬湯に入れてもらえ。少し湯が沁みるかもしれんが、血糊や汚れは落としたほうが薬の利きも良いからのぅ」

 そう指示を出した後、毒仙もまた、その診察室を出て行った。

( ふぅ〜。あ〜、死ぬかと思った。味は苦いし、飲み込めば身体中バラバラになりそうに痛むし。あの方があたしを助けて下さったって聞かなかったら、途中で止めちゃってたかも )

 満腹状態で、お腹は苦しい。
 その代わり、あれほど激しかった全身の痛みはずくんずくんと疼くような鈍痛に変わっている。身体の芯でぽぅと熱いモノが燃えているような、そんな感じも。さっきまでは、息を吸う事さえ苦しくてキリキリキリキリ胸が痛かったのが、息苦しさは残っているものの深呼吸をするようにすれば肺の奥まで息が入るような、それこそ一息ついたという感じ。
 娘のそんな様子を見て取ったのか、看護の女官が娘に優しく声をかけてくれた。

「どうですか? そろそろ、お風呂に入りませんか?」

 そう言われて娘は自分の身なりを改めて見直した。
 あんな目に合う前もそうとう酷い身なりだったが、今は怪我と血糊と泥でこの汚さと比べれば、まだ溝鼠の方がよほどきれいだと思えるほどだと自分でも思ってしまう。
 そんな姿を、あの方の前に晒していたのかと思うと、それこそ恥ずかしさでかぁぁと全身が熱くなってしまった。身体を動かすのはまだ辛いけど、それでも一刻も早くきれいにしたい気持ちが、娘の首を縦に振らせた。

「それでは、湯屋に行きましょうね」

 大柄な女官はにっこりと微笑みかけながら娘の身体を軽々と抱き上げてゆく。そのまま湯屋に行き、この娘に合わせて処方した薬湯に娘を抱えたまま、入って行った。木綿の病衣が薬湯の浸り薄茶色に染まってゆく。
 温めに調整した湯であっても、重傷の娘の身体には刺激が強すぎると、まずは病衣越しに薬湯に馴染ませた。それから湯の中で病衣を脱がせると、女官のふっくらとした柔らかな手のひらで、赤ん坊を湯浴みさせるように優しくゆっくりと娘の全身を洗ってゆく。洗い初めて直ぐに、最初の薬湯は娘の汚れで真っ黒くなった。そうしたら、女官は次の薬湯へと浴槽を変え、最終的に湯の中で娘の身体を洗っても、もう汚れが出なくなるまで六回、浴槽を出たり入ったりしてくれた。
 最後の方になると娘もぐったりとしてしまったが、浮浪児生活で身に染み付いてしまっていた「澱」のようなものが全部洗い流されて、身軽になったような気がした。

 煎じ薬を飲み繰り返し薬湯に入り、その度に女官の優しい手で撫で摩られ、十分な手当てを受けた。最初は口にするのは煎じ薬だけだったのが重湯も取るようになり、それが全粥から五分粥、やがて軟飯へと変わる頃には、煎じ薬の量も減り薬湯の効果か、娘の肌は幼い者特有の肌理の細かさを取り戻していた。

「ほほぅ。殺生丸は獣の仔を拾ったといっておったが、これは中々の拾い物だっかもしんのぅ」

 そう毒仙は、回復した娘の様子を見て、面白そうに呟いたのだった。


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 娘が薬老毒仙の手当を受けて半月、それは見違えるほど元気に健やかな様子に様変わりしていた。家族がいた頃からの貧しい生活のせいで、骨格も肉付きの華奢なのも変わらないが、肌の柔らかさや髪の艶などを見れば、半月前は今にも死にそうなぼろ布のような娘だったとはとても信じられない。
 折れたりひびが入っていた骨は完全につき、傷めた内臓も元に戻っていた。毒仙の薬の効き目の確かさもあるが、何よりもこの娘の生命力の強さの賜物だろう。まだまだ怪我人の範疇であるにも関わらず、痛みが治まり骨がついた頃から、何かと診療所の中をうろちょろしている。辺境の荒んだ町の外れで暮らしていた娘には、初めて見るものも多く好奇心の赴くまま、あれこれと指さしては手伝いの女官に言葉もないまま尋ねている風だった。そして、自分でも出来る仕事を見つけては、進んで身体を動かす働き者でもあった。

「毒仙様、あの娘さんはとても気が利く子ですね。言葉がしゃべれないのが可哀想ですが、そんな事を感じさせないほど元気ですわ」

 あの娘がここに運ばれて来てからずっと面倒を見てきた大柄の女官が、そう毒仙に告げる。

「うむ。相当荒んだ暮らしをし、大人達に酷い目に遭わされて来たというのに、あの娘の精神は少しも歪にはならなかったようじゃ。どこまでもまっすぐに、物事の何が「本当か」を見抜ける目を持っている希有な娘のようじゃな」

 女官も毒仙の言葉にうなずく。
 なぜ、あの人嫌いの殺生丸がこの娘を助けたのか、分かるような気がした。

「ええ、本当に。あの娘さんのおかげで随分と助かってますわ。ですが、そのお手伝いの時もあの病衣のままというのは……」
「そうじゃのぅ。元気になったのならなったで、あの娘の身の振り方を考えねばならんな」

 今も病衣のまま床掃除をしている娘に優しい視線を投げかけながら、さて、この娘の扱いはどうしたものかと思案する。ここに連れてきたのは殺生丸だが、だからと言って生物的欲求処理のための道具に過ぎない後宮の姫君達のような待遇を、とは考えていないだろう。物の弾みで拾って来たようにも言っていた。犬の仔や猫の仔を、育てるような感性など持ち合わせてはおらぬだろう。この娘の身元引受人としては、不的確だと毒仙は判断した。

「お前、後宮取締役である朴夫人にワシが話があると、伝えて来てはくれんだろうか?」
「はい、承知いたしました」

 手伝いの女官は毒仙の前で軽くお辞儀をし、それからすぐ後宮へと向かった。


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 朴夫人と言うのは、その妻であった正妃が香麗国王として即位し狛與を離れる事になった時、そして闘牙王亡き後、次期国王である殺生丸と狛與の政権を託した朴大人の細君である。物静かな立ち居振る舞い、端々までに届く目配り心配り、そして何よりも筋の通った差配で後宮を管理している気丈夫でもあった。

 後宮へ使いにやった女官を従え、にこやかな笑みをたたえて朴夫人が薬老毒仙の許を訪ねたのはそれから間もなくのことだった。

「ごきげんよう、薬老毒仙様。わたくし、お声が掛かるのを今か今かとお待ちしてましたのよ」

 朴大人の夫人であるこの貴婦人は、人当たりの良さも別格であった。若かりし頃は人並みの美貌であったのが年を経る程にその人柄の良さで磨かれ、今では側にいるだけで癒されると、何かと人間関係の難しい後宮内にあって欠かせぬ存在となっていた。

「ほぅ、待っていたとな? して、それはなぜ故に?」

 毒仙が薬茶を淹れながら、そう朴夫人に尋ねた。

「だって初めてですのよ!? あの殺生丸様が、自ら若い娘を都にお連れになったなんて! 後宮中、いったいどんな娘なのかと、その噂で持ち切りですわ」

 ……主が構わぬものだから、退屈が充満している後宮内では愚にもつかない噂話ばかりが横行する。常日頃、そんな噂話など軽く流す朴夫人にしても、今回の出来事は椿事中の椿事であった。

「朴夫人、貴女まで若い姫君や女官のようなはしゃぎぶりとは珍しいのぅ」
「はしゃぎたくもなりますわ。あの後宮中の姫君達を道具を見るような目でしか見ない殺生丸様が、どんな経緯か知りませんが、それでもご自分の意志でその娘を連れてきた。大いに意味のあることです」

 そう述べた朴夫人の目には、殺生丸の身を案じる保護者としての慈しみの光が浮かんでいる。後宮取締役の夫人には、この後宮が殺生丸にとって決して癒しの場ではないことを知っている。殺生丸の妻になるために集まった各地の美姫達を道具のようにしか扱わない殺生丸と、そんな殺生丸を恐れる姫達。情を通わせることのない行為は、姫君達にとってはただの責め、拷問にも等しかった。
 そんな殺伐とした空気しか漂わない場所が、どうして癒しの場になるだろうか?

「……意味があるのじゃろうか」

 ぽつりと毒仙は呟いた。

「国境沿いの町近くの山間で、大雨で崖崩れに遭われた殺生丸様を自分が怪我をするのも顧みず助けた娘なのでしょう? いつもの殺生丸様ならば、褒美の金を与え医者の手配くらいはするでしょうが、ご自分で都までお連れになる事はないでしょう。きっとお側に置いておきたいと、そう思われたに違いありません」
「う〜〜む」

 どうやら噂先行で、「娘」そのものの認識にズレが生じている。
 いや、それだけでなく微妙に情報が混乱しているようだと毒仙は思った。
 どうやら、朴夫人の耳には殺生丸暗殺の経緯は伝わっていないらしい。

( ……おかしいな? 後宮内の重要な情報は朴夫人の耳に入るはずなのじゃが…… )

 殺生丸行方不明の一報が邪見によって宮中にもたらされた時、その場にはあの弥勒と珊瑚がいた。殺生丸に同行していた琥珀からの伝言も聞き、後宮警備主任の珊瑚から朴夫人に連絡が入っているものと毒仙は考えていたのだ。現に自分はそのすぐ後、弥勒から事の経緯を聞き、万が一の場合を考えて殺生丸の為の薬を弥勒に預けた。

( ……後宮内に密偵がいることを案じて、あえて夫人には知らせなかったのか、珊瑚 )

 そう毒仙は考える。

「殺生丸様が、初めてお気に召した娘と言うことになりませんか? 毒仙様。今までの姫君達は、それぞれ政治的な思惑があって、後宮に上がった方々ばかり。そんな柵のない娘なら、とお心が動いたのではないでしょうか?」
「まぁ、確かに柵のない娘ではあるな。じゃが、それがそーゆー意味合いのものかどうかは……。百聞は一見にしかず、じゃ。まずは、朴夫人の目で確かめられるが良かろう」

 毒仙はそう言うと、あの女官に先ほどまで診療所の廊下を磨いていた娘を呼びに行かせた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


「まぁまぁ、これは……」

 朴夫人の目の前に連れてこられた娘を見て、夫人は言葉を失った。
 最初から、後宮に上がって来る姫君のような娘とはこれっぽっちも思ってはいない。殺生丸が事故に遭ったのが国境沿いの荒んだ町の近くと聞いていたので、家柄やなにかも期待してはいなかった。ただ、殺生丸の心を動かすほど美しく優しい、似合いの年頃の娘だとそう思っていたのだ。
 だが、目の前には ――――

 朴夫人の前にいるのは、年の頃ならようやく七つか八つばかりの貧相な娘。美少女と言うのにもほど遠い。

「どうやら親兄弟を亡くした浮浪児らしい。あんな荒んだ町で、ようも生き永らえて来たもんじゃ」
「浮浪児……」
「おまけに、言葉がしゃべれん。いや、馬鹿なのではないぞ? どうやら、よほど恐ろしい目にあって言葉を無くしたようなのじゃ」
「まぁ……」

 娘はじっと夫人の顔を、まっすぐ澄んだ黒い瞳で見つめた。夫人ほどの目利きなら、この娘が性根の曲がった野卑な娘かどうかなどすぐ分かる。いや、そんな娘ならまず、あの殺生丸が連れ帰ることもない。
 夫人は目元を潤ませて、娘の小さな身体をぎゅっと抱きしめた。

「……お前は、まだこんなに幼いのにとても大変な目に逢った来たのですね。でも、その瞳の輝きは失わずに、まっすぐに生きてきた。よく、がんばりました」

 初めてあった貴婦人なのに、自分をこうして抱きしめて、心からの優しい言葉をかけてくれる。娘の瞳からも、嬉しい暖かな涙がぽろりとこぼれ落ちた。

「なぁ、朴夫人。殺生丸の奴が、そんなつもりで連れてきた訳じゃないってこれで分かっただろ? あいつの言い草を借りれば、野に棲む獣の仔を拾ったようなもんだそうだ」
「まぁっっ!!」

 先ほどと同じ言葉だけど、その意味合いは正反対。

「なんて言い草でしょう。獣の仔だなんて!! それでは、なんでしょう? 犬や猫の仔を育てるつもりで連れてきたとでも言うのでしょうか? よく見れば、なかなか愛らしい子ではありませんか」

 今でこそ見られる様になってはいるが、ここに来た当初は、獣の仔と言われても仕方がないほど薄汚れた野生児だった。

「……あれが、そんな事をするような玉じゃないことは、朴夫人だって分かってるじゃろ? この娘をここに連れて来たのは殺生丸じゃが、あいつにこの娘の面倒は見れんじゃろう」
「判りました。この娘の身元引受人にはわたくしがなりますわ。この娘の身の振り方も、わたくしに任せて頂きます」
「そう言ってくれて、ワシも肩の荷が下りるわい。殺生丸の奴、この娘が気づいた時に顔を出したきり、ほったらかしじゃからな」

 そう言った毒仙の言葉が分かったのか、娘が不安そうな顔をした。

「……心配なの? お前をここに連れてきてくれたお方が、お前の事を忘れてしまったのではないかと?」

 娘が小さく頷く。
 夫人の思慮深い瞳が、娘の様子をじっと見つめている。
 貧しく言葉もない娘。あるのは、ただまっすぐなその「心」だけ。

( ……この娘は、殺生丸様の本質を見抜いているのかも知れませんね。だからこそ、自分がついて行きたいお方だと。なのに、自分が忘れられたかもしれないと思って、こんなにも不安になっている )

 朴夫人は、そう娘の心情を推し量る。

「そう…。そうね、お前なら、殺生丸様のお心を開くことが出来るかもしれない」
「って、まさか朴夫人。その娘を後宮に上げるつもりじゃないだろうな?」
「どうしてそう思うのかしら? 毒仙様」

 なにか企んでいるような物言いに、それはヤバクはないかと毒仙が釘を刺す。

「いや、なに、その……」
「後宮に上がると言っても、何も全ての女が殺生丸様の夜伽を勤める訳ではありませんのよ? 後宮の主が毒仙様のようなご高齢な方であれば、それもまた一つの閨房術ではありますが、お若い殺生丸様には必要のないことですわ」

 刺した釘をやんわりと刺され返した毒仙。物静かな物腰であっても、決して甘くはないのである。

「それでは、この娘を連れて帰ります。表で待たせてあるわたくしの馬車へ」

 こうしてこの娘は廊下の雑巾がけをしていた病衣姿のまま、この国の正妃不在の今、女性としては最大権力者である朴夫人の預かりとなり、豪華な馬車の乗客となったのだった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 この娘の事を忘れたのではないか、面倒見の良いとは言えぬ性格だからと、やいのやいのと言われていた殺生丸の方も、動かぬ左腕を別にすればほぼ完治の状態にまで回復していた。
 その一方であの後の事は、弥勒の手はず通り事が進んだ。脱出した殺生丸達と入れ違いで現場に入った兵士達は、崖崩れの土砂の下を必死で捜索する。その作業は一晩中続き、朝にはあらかたの土砂は片付いてしまった。もちろん、そこに殺生丸の姿はない。無かったことに安心した邪見や兵士達に対し、その様子を伺っていた暗殺者達は一瞬、呆然とする。
 しかし、もっと暗殺者達を慌てさせたのは、このまま捜索範囲を広げて作業を続けるだろうと思った兵士達が突然撤収し始めた事であった。予想外の展開に、暗殺者達は二手に分かれた。ぎりぎりまで邪見達の様子を監視する側と、この事態を黒幕である誰かに知らせる側とに。
 自分たちが、監視する側から監視される側に変わっていたことに、まだ気づいていなかった暗殺者達。知らせに走った二人は、弥勒が町外れに残していた僧兵が尾行した。邪見側に残った暗殺者は、顔と気配を知っている琥珀に特定され、都の近くまで来た時に取り押さえられた。

 ここまでは、弥勒の読み通りだった。
 しかし、ここからがそうはいかなかった結果である。

 僧兵と暗殺者、ともに互角の能力の持ち主であった。普段なら気づかれることのない僧兵の尾行に気づいた暗殺者は、相手が少人数なのを確認して反撃してきたのだ。切り結ぶこと、数刻。深手を負った僧兵達は、やむを得ず暗殺者達を斬り殺してしまったのだった。
 それでも、まだこちらには都の近くで取り押さえた暗殺者達がいる。取り押さえてからこちら、弥勒をはじめとする殺生丸の数少ない親衛隊の手で、厳しく取り調べられていた。勝手に死なぬように手枷足枷をかけ、舌を噛み切らぬよう猿ぐつわもかける。絶食による餓死を避けるため、特別な薬液を無理矢理喉に流し込んで命を永らえさせ、それなりの拷問も加えながら首謀者の名を聞き出そうと苦心していた。

 当事者として、また次期国王に対する反逆行為を働いた者を看過するような性格ではない殺生丸も、その場に立ち会っていた。時には、自らの手で暗殺者達を責める事もある。利き手の右手は使える殺生丸は、切れ味鋭い闘鬼神で薄く皮を剥くように暗殺者達の肉を削ぎもした。身体半分、赤くなるまで削いでみたが、暗殺者達の口は堅い。肉を削いだ事で死に至らぬよう止血し手当をした上で、今度は暗殺者の両手首を切り落とした。これでもう、刃を向けることは出来ない。

「まだ、口を開く気にはならぬか。では、次は両足首を落とそう」

 冷たく言い放つその姿は、麗しいだけに凄みを纏って地獄の悪鬼よりも畏れを感じさせる。足首を落としても口を割らねば、次は肘から下を、その次は膝から下、それでもとなれば肩から腕を足の付け根から太ももを切り落とし、達磨になるまで切り刻むことになんら躊躇はしない殺生丸である。
 それを感じ取ったのか、暗殺者達は互いに目配せをし、深く頭を垂れた。

「ほぅ、ようやく話す気になったか。首謀者の名を言えば、命だけは助けてやる。一生、牢獄暮らしだがな」

 殺生丸の投げた言葉に、暗殺者達は頷いた。殺生丸が視線で指示し、兵士の一人が暗殺者の猿ぐつわを外した。

「さぁ、その者の名を言え」
「他の二人の猿ぐつわもとって欲しい。俺が首謀者を守るために嘘をつくかもしれない。同時に同じ名を叫べば、信じてもらえるだろう」

 よほど殺生丸の責めが利いたのだろう。自分たちの言葉を信じてもらうために、進んでそう言った。その言葉を了解し、残りの二人の猿ぐつわも外させてやる。暗殺者三人は、もう一度互いの顔を見合った。

「殺生丸!! 貴様はいずれ心ある者たちの手で切り刻まれて地獄に墜ちる身だっっ!! 先に行って、待っているぞ!!」

 その言葉を残し三人は、舌を噛み切り殺生丸の目の前で命果てた。
 殺生丸は忌々しげに眉をひそめると、その場を立った。自分に向けられる憎悪など、いつも肌に感じている。それが目の前でぶつけられようとも、もう心は痛まぬ。

 そう、痛まないようにしてきた ――――
 
 己が己であるために。
 強いと言うことは、弱者の恨みを買うものだと幼い頃に理解した。
 覇者たるとは、多くの恨みと憎悪すら凌駕する存在でなくてはならない。
 それが、自分が選んだ生き方だ。

 殺生丸の方は、そんな半月を過ごしていたのだった。

 
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 自ら舌を噛み果てた暗殺者達の始末を弥勒達に任せ、殺生丸はこの晴れない気分を持て余し、気がつくと毒仙の治療院の近くまで来ていた。そこまで足を運んで、ようやくあの娘はあれからどうなったのだろうと思い出す。
 まったく野に棲む鼠か狸か猿のような娘だと思う。薄汚く、すばしっこく、物怖じする事を知らない。人に飼われる事を目的に飼育された血統の良い犬や猫などは、同じ獣であっても殺生丸の放つ気に尻尾を垂らし小さくなったり、あるいはその気配を察すると逃げ出してしまうというのに、あの娘はあろう事か食って掛かってくる始末。それも、この殺生丸の身を案じて。

「……面白いものを拾ったのかも知れぬな」

 ぽつりと口をついた、その言葉。口元は、いつにない表情を微かに浮かばせている。
 そうして殺生丸は診療中にも関わらず、毒仙の診療室にずかずかと入り込んだ。

「どうした、殺生丸。まだ、傷が痛むのか」

 毒仙は入ってきた気配で相手が誰を察し、そちらには目もくれずにそう言う。その手には細長い火のついた線香と毒仙が特別に調合した艾(もぐさ)、背中を見せちょこちょこと艾の小さな山を燻らせているのは殺生丸の侍従の邪見。あの早馬の後遺症か、腰の痛みが取れなくて毒仙の手当てを受けていたのだ。

「せっ、殺生丸様っっ!!」

 その名を聞き、慌てて起き上がろうとした邪見の手や足に燃えついた艾が触れて、面白い踊りを披露する。

「煩いぞ、邪見」

 その一言に、ぴゅっと邪見は上着を引っつかみ診療室の戸口で深々と頭を下げると、どたばたとその場を後にした。

「……年寄りは労わってやれ。お前の為に腰を痛めたようなものだぞ?」
「あれが年寄りなのは、私のせいではない。それに、もともと痛めていた腰だ」

 やれやれといった表情を浮かべる毒仙。

「で、今日の用はなんだ? ワシの治療を受けに来たわけではなかろう?」
「ああ」

 用と問われて、答えるような用向きは無い。気がつけばここに足が向いていただけで、そのついでにあの娘の事を思い出しただけだ。生返事を返しながら、殺生丸は鋭敏な耳を傾け診療院内の音を探った。あの木の洞にいた間、何度もあの娘の足音を聞いていた。あの音なら、もう覚えた。
 そんな殺生丸の様子に、毒仙はにやりとした笑みを浮かべた。

「もしかして、あの娘の事を覚えていたのか? 薄情なお前の事だから、もうすっかり忘れてしまっていると思ったぞ?」
「……………………」
「残念だったな。あの娘は、もうここには居らん」
「居らぬ?」
「ああ、ワシが朴夫人に預けた」

 朴夫人、と聞いて殺生丸の表情が動いた。実母が国を離れている今、実質殺生丸の母親代わりも務めているのが朴夫人である。家臣の妻に過ぎないが、それでも頭の上がらぬ相手である事は間違いない。後宮差配、いわば殺生丸の私生活を全て把握されているといっても過言ではない相手。

「そうか」

 もうこれ以上話すことは無いと言わんばかりに、殺生丸は踵を返した。
 
「なんだ。用件はそれだけか?」
「用件などではない」

 もう振り向きもせずにそう言い、毒仙のもとから立ち去った。

( ……面白いと思ったが、朴夫人の下できらびやかな暮らしをすれば、あの娘も飼い慣らされた猫のようになるのだろう。つまらぬ )

 思いのほか失望感を覚えた殺生丸の顔には、嘲笑めいた冷たい笑みが浮かんでいた。そして、この娘の事は、すっかり頭の中から消し去った。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 
 朴夫人の預かりとなった娘は、連れてこられた屋敷の立派さにただただ目を丸くしていた。大きな門構え、館の玄関に続く小路は趣向を凝らした庭を楽しむように緩やかに曲がりくねり、季節季節の花を愛でることが出来る。今の季節なら風除けの中で豪華に咲き誇る冬牡丹に、赤と深緑の艶やかさが鮮やかな椿の築山、同じ色合いで下草代わりに南天の赤い小さな実。やがて館の玄関が見える辺りには一面梅の木が植えられていた。早咲きの蝋梅がぽつりぽつりと光の玉のような蕾を綻ばせ、高貴な香りが微かに漂っている。
 見事な庭の景観に、しばしば足を止める娘に優しい眼差しを投げかけながら朴夫人は声をかけた。

「今日からは、ここがお前の住まいですよ。ですが、お前は『分』と言うものを弁えなくてはなりません。お前はこの屋敷の主筋でもなければ、正客でもない。だから、裏から入っていらっしゃい」

 優しくても、甘くは無い。
 きちんと娘の立場を教えるのも、この娘の為である。
 娘はこくんと頷き、きょろきょろと辺りを見回した。大きな屋敷なので、どこが裏口か解らない。その様子に朴夫人は館内に向かって一人の侍女の名を呼んだ。

「浅黄、浅黄! この娘を裏口に連れていっておやり」

 屋敷の女主人の言葉に、中からまだ年の頃なら十三・四歳くらいの少女が飛び出してきた。その後に朴夫人から屋敷の内向きの事柄を任された侍女頭も迎えに出てきた。

「お帰りなさいませ、朴太太。では、この子を裏口に連れて行きます」
「その子は口が利けないからね。でもちゃんと耳は聞こえているから、ここでの事をお前から教えておあげ」
「はい。解りました」

 浅黄と呼ばれた少女は娘の手を取ると朴夫人に向かって敬礼し、それから広い庭をぐるっと回って館の裏へと消えていった。

「さて、あの子にまず教えなくてはならない事を整理しなくてはね」

 館を取り仕切る侍女頭を従え、朴夫人は自室へ戻る。ついてきた侍女頭は、訝しそうな表情を浮かべていた。

「朴太太、あの娘は一体どういう娘なのでございますか?」
「ふふふ、お前の目にはどう見えますか?」

 と、侍女頭に問い返す朴夫人。

「……病人、でございますか? あまり育ちが良くないように見受けますが」

 屋敷の女主人が連れ帰った娘だ、下手な事は言えないと、世知に長けた侍女頭は暗に意味をかけてそう答えた。

「はっきり言っても、私は怒りませんよ? お前が見て取ったように、あの娘は育ちが悪い。何しろ辺境の地に住んでいた孤児で浮浪児ですからね」
「まぁ! なぜ、そんな娘をこの屋敷に!?」

 侍女頭のびっくりした顔が面白かったのか、朴夫人はさらに悪戯っ気たっぷりに瞳を輝かせ、十分間合いを取ってこう言った。

「しかも、あの娘をこの都に連れてきたのは誰あろう、あの殺生丸様」
「まぁ、まぁ、まぁっっ!!!」

 言葉を無くすというか、鳩が豆鉄砲を食らったというか、とにかく侍女頭の驚きようは一見の価値があった。くくくっと小さく笑う朴夫人の目にはうっすらと笑い涙が光っている。

「殺生丸様が、あんなちんくしゃな娘を? まさか、そんなはずは……。噂では、辺境に居るのが間違いのような、それは美しい娘に怪我の手当てをしてもらい、それで都に連れ帰る気になられたと聞き及んでいます」
「それは噂。噂は噂、真実ではありませんよ」

 はぁぁと、訳が判らないと侍女頭は不思議そうな表情を浮かべた。

「旅先で何があったかは、いずれ知ることが出来るでしょう。そう、なぜ殺生丸様があの娘を都に連れ帰るお気持ちになったかは、ね」
「はぁ、しかし……」

 侍女頭の胸の中は複雑だ。辺境の地で暮らしていた唖(おし)で孤児で浮浪児、本来ならこの屋敷に足を踏み入れる事も叶わない様な者である。侍女頭の気持ちとしては、出来れば屋敷から下がらせたというのが本音だ。
 しかし、そう、しかし。

( 殺生丸様がお連れになったとなれば、ぞんざいな扱いも出来ないのでしょう…… )

「では、わたくしも浅黄の手伝いに行きましょう。念入りに身支度を整えさえ、殺生丸様との謁見に相応しく、少しでも貴族の姫君のように見えるように」
「まぁ、なぜ?」

 今度不思議そうな顔をしたのは、朴夫人の方であった。

「殺生丸様が連れて来られた言う事は、あの者を後宮に召し上げる為ではないのですか? ならば、それに相応しい支度を」
「お前、それ本気で思ってますか? 見れば分かるでしょうが、あの娘のどこをどう見れば、後宮に侍っている姫君達のようになれると言うのでしょう? 見てくれ以前に、まず幼すぎます。殺生丸様には、そんなご趣味はありませんよ」
「いえ、それはわたくしも……。だから、どうしてだろうと」
「ええ、本当に。何をお考えか、掴めぬお方ですものね。あの娘にしても、おそらく連れ帰ってきたものの、その後の事など多分お考えではなかったのではないかと思うのですよ」
「それは、あまりにも……」

 無責任、と続きそうになった言葉を侍女頭は飲み込み、朴夫人の顔を見た。

「それに、あの娘はどれだけ磨いても、お姫様にはなれないでしょう? 分違いですからね。ならば、あの娘に合った身の振り方をつけてやろうと」
「それは一体、どういうものなのですか?」

 そこで朴夫人はまたも、くすりと笑った。

「あの娘の取っても、そして殺生丸様にとっても決して『悪くは無い』方法を考えています」

 そう言ったあと、朴夫人は侍女頭となにやら打ち合わせを始めたのだった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 浅黄と呼ばれた若い侍女は、娘の年恰好を見て自分と同じこの屋敷の下働き見習いで預けられた子だと理解した。ただ、それにしては娘の着ている物が病衣なのが気になった。病気の娘を働かせるほど、この屋敷は人手には困っていない。

「ねぇ、あんた。病気なの? それ、毒仙様の所の病衣だよね?」

 浅黄の問い掛けに、娘は袖や裾をめくり殆ど治った傷跡を見せた。そして、にこっと笑う。

「ああ、怪我をしていたんだ。怪我が治ったから、働く事にしたんだね」

 大きくこっくりと娘は頷く。その様は、栗鼠か野うさぎの様で、何とも言えない愛らしさがある。

「じゃあ、あたしがいろいろ教えてあげるね。まず、あたし達は下働きだから、滅多な事じゃ表に出ちゃダメなんだよ。表に出る時は、今みたいにご主人様方に呼ばれた時だけ。それ以外は、裏で仕事をしなくちゃね」

 うん、と娘が頷く。

「屋敷への出入りも、裏口からだからね。今から場所を教えてあげる」

 浅黄は使用人の分を守って、美しい庭の景観を損ねないよう、庭の端を木立や山に見立てた大岩の影を選んで歩いてゆく。広大な庭を大きく迂回しながらようやく裏口にたどり着くと、そこには玄関先で別れた朴夫人と侍女頭の二人が浅黄と娘が到着するのを待っていた。

「ご苦労様でした、浅黄。お前は当分の間、この娘の教育係を命じます。お前が知っている事を、この娘にも教えてあげなさい」
「はい。承知しました」

 この浅黄と言う娘は歳若い下働きに過ぎないが、見所ありと朴夫人が見込んでいる娘である。侍女頭の補佐として、いずれ奥向きの用件なども任せる事になるだろう。

「それから……」

 と、朴夫人は後ろを振り返り、侍女頭に用意させたものを娘の前に置いた。それは浅黄が着ているものと同じ、この屋敷の下働きのお仕着せであった。ただ違うのは、そのお仕着せの上にきれいに洗われた、あの赤い絹の組紐とその紐の先につけられた小さな銀の鈴。軽いその鈴は少しの動きでも、チリンチリリンと可憐な音を立てる。またお仕着せの帯には四角い皮袋が縫い付けてあり、その中に大き目の土鈴が入っていた。取り出して振ると、ゴロンゴロンと言う重く低い音が響く。皮袋に収めると、多少動いても音は響かない。

「娘や、お前は声を無くした鳥のようなもの。鳴かねば気付かれぬままでしょう。だから、この二つの鈴をあげます。小さな鈴はお前のいる事を知らせ、お前を呼びましょう。お前は返事も出来ぬから、替わりにこの大きな鈴で返事をなさい」

 娘は少し緊張した表情で朴夫人を見つめ、真剣な瞳で頷いた。

「それにしても、名がないのは不便なこと。お前は、今日からこの鈴に因んで『りん』と呼びましょう」

 娘はびっくりしたような顔をしたが、自分でもその名が気に入ったのか飛び切りの笑顔で、さっそく大きな鈴を鳴らした。
 こうしてりんは、浅黄に屋敷での下働きの色々を教えてもらいながら、暮らすようになった。その傍ら、侍女頭ややはり朴夫人付の才のある侍女たちの手隙な時などに、読み書きも教えてもらった。鈴の返事だけでは足りない用件もこの先出てくる事を見越しての、朴夫人の計らいだった。飲み込みの良いりんは、まだ文盲の多いこの時代に少しずつ知識を蓄え始めていた。
 
 知らない事を学ぶ楽しさや、任された仕事をやり終えた達成感など、幼いりんを良い方向に成長させる機会をたっぷり与えられ、りんは持ち前の賢さと快活な性格をぐんぐん伸ばしていった。屋敷に随分慣れたと言っても、最初に朴夫人に言われたとおりきちんと『自分の分』を弁え、狎れる事無く礼儀正しい申し分の無い使用人に成長しつつあった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 あれだけ放浪癖のあった殺生丸はあの暗殺事件からこちら、いつにないほど長期間の王城暮らしをしている。暗殺事件の首魁を手繰る手立ては、残った暗殺者達。それを方や僧兵達は止むを得ない選択で持って切り殺し、此方殺生丸自ら尋問した暗殺者は殺生丸に呪詛の言葉を残して自害した。
 闘犬をけしかけられた時の状況を分析すれば、かなり大掛かりな組織が動いている事は間違いない。あの爆裂する箱といい、見たことも無い大型で獰猛な犬達といい、そしてあの人数。

「心当たりがありすぎて、絞りきれんな」

 弥勒や琥珀が調べてきた書面を読みながら、己を嘲るように呟く。左腕は一年経った今も動かず、それもあって、以前のような気ままな忍び歩きも出来なくなっていた。もう一度、琥珀があの町まで出向き調べてきた書面には、不審な男達の集団が飲食をした際に香麗の貨幣を使ったとあった。その後、その集団をつけた町の者にも話を聞くことが出来、その集団は荒野で三手に別れ、うち一方は香麗に向かったと聞き出してきていた。

「香麗、か。黒幕が香麗にいると見せかけるにはあざと過ぎるほどだが、それすらも計算のうちかもしれん。厄介なことだ」

 そう考えるのは、現在香麗には後継者がいないからである。現国王は、狛與王妃でもある。闘牙王亡き後、王妃は誰とも再婚をしなかった。香麗王家の血を引いているのは殺生丸だけである。どうやら香麗国王の考えは、殺生丸にこの香麗を継がせたいと考えている節があった。

 ここで、もし殺生丸が亡き者となった場合、香麗はどうなる?

 まだ十分若い現国王に、新しい夫を迎えさせ後継者を産ませることは可能だろう。だが、先の叛乱でこの国王を除き、王家の人間が全て殺されたような事情がある。現国王を葬り、一気に国家転覆させる好機となるのだ。
 それだけではない。狛與の次期国王を殺そうとしたなどと国民に公になれば、いくら母の国であっても開戦は避けられない。

「そうなれば、今度は母と合戦をしなくてはならんのか。怖ろしい話だな」

 狛與の王位継承者は殺生丸の他に、第二皇子として犬夜叉がいる。
 犬夜叉が王位を狙っているなら、今回の事件もその周辺を探ればなにか出てくるだろう。だが、あの犬夜叉の事、その周囲で画策するものがいたとしてもおそらく本人は一切関知していない。

「……それでも、もしそれが明らかになれば、犬夜叉の身をそのままにしておく訳にはいかない」

 古代の王位継承争いは、すなわち兄弟での殺し合いに他ならない。
 本人が望んでいなくても、そうなる。

 血腥い風が、強く殺生丸の周辺で吹き荒れ始めていた。
 その風の中、ただ一人で立っている。
 それが王者として生まれついたものの宿命だとしても、あまりにも過酷であった。
 どこにも安らぎのない日々が、殺生丸の本質を歪めてしまう危険さえ孕んでいた。

 コンコン、と後宮内の執務室の扉を叩く控え目な音がした。
 続いて聞こえた、朴夫人の声。

「失礼致します。新しく殺生丸様付きの小間使いとなります者を連れてまいりました」
「小間使い? 要らぬ。琥珀や弥勒で事足りる」

 書面から顔も上げずに、にべもなくそう言って切り捨てる。
 警戒心の強い殺生丸は、側に置く者も限定していた。後宮での乱行が知れ渡ってしまい、普通の宮女や侍女くらいでは怖がって、側使いにならないのだ。後宮に篭る事がなかった今までなら、どうにかやり過ごせていたものも、この一年の王城暮らしで色んな所で差し障りが出始めていた。

「信用ならぬ者を置くくらい、愚かなことはないからな」
「その点でしたらご安心を。よく気が付く、口の堅い娘ですから」
「口が堅い?」

 口が堅いと言う者ほど、口が軽い。
 朴夫人の言う「口の堅い者」の顔を見てやろうと、殺生丸は顔を上げ、にっこりと笑っている朴夫人の方へ鋭い視線を向けた。

 その朴夫人の背後に、控えた小さな影。

 大きなつり目がちの黒い瞳、少し癖のある艶やかな髪、桜色に上気した幼い曲線の頬。

「お前は……」
「りんと申します。幼いながら良く気が付き、口の堅さは言うまでもありません。りんは殺生丸様のお側に仕える事を、なにより喜んでおります」

 その言葉に偽りがないのは、りんの嬉しそうな様子が雄弁に物語っていた。
 後宮宮女の大人っぽい装束を小さく作り直し、動きやすいように工夫したものを着込み、頭は片側だけを赤い組紐で結い、腰には四角い皮袋と硯石で作った石版を下げている。

「確かに、口は堅いな」
「はい。お側に居る時には、この小さな鈴の音が知らせます。離れた所から呼ばれた時には、この大きな鈴で返事とします」

 朴夫人はそう説明しながら、りんの腰につけた皮袋から大きな土鈴を取り出した。

「鈴の返事で事足りない時は筆談も出来ますので、この石版に書かせるようにいたしました」
「文字が書けるのか?」

 殺生丸はつい意外に思い、そう尋ねていた。

「頑張ったのですよ、りんは。本当に賢い子です」

 朴夫人の言葉にりんが顔を赤らめ、そしてほんの少し誇らしそうな様子を見せた。
 殺生丸は荒涼とした風景の中、上を向いて力強く咲いている名も知らぬ野の花を見つけたような、そんな心持ちがしていた。

 

 
【へ続く】   

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