【 月華覇伝 2 】



 言葉を無くした娘が目覚めたのは、いつもと違う臭いを感じたからだった。野鼠のように穴倉のほとんど地べたと言ってよい所で寝ていたその娘の鼻先を、雨で湿った空気と一緒に焦げた臭いと生臭い臭いが掠めた。

( あれ? なんだろう、この臭い。夕べ聞いた雷の音に関係してるのかな? )

 その時、ぱっと娘の頭に閃いたのは雷に打たれた森の動物の死体があるんじゃないかと言う事だった。今まででも何回か、背の高い木の上に雷が落ちるのを見たことがある。大抵もの凄い音がしてそのあとに、焦げ臭い臭いが辺りに漂っていた。もしかしたらうまい具合に、雷に打たれ倒れた木の下敷きになった動物がいるかもしれない。あまり大きすぎると困るけど、自分にでもどうにか出来るくらいの獲物だったら……。
 娘の瞳が生き生きと輝きだした。狸や狐なら自分でも捌けそうだ。肉は炙って、当座の食糧に。皮は綺麗に洗って干して、羽織れるように工夫したら寒さを凌げる。

( よし! 急がなくちゃ!! 他の森の動物達に横取りされないうちに )

 野に住むうちに鋭敏になった嗅覚で、娘はその臭いの元を手繰った。


 臭いを追って娘が着いた場所は、崩れた崖のところだった。崖の上から崩壊した大岩や土砂が小山のように積もっていた。どうやらこの崖の先に、雷が落ちたようだと娘は思った。そっと辺りを伺いながら、娘はその現場を良く観察した。土砂に押し潰されている生き物は最初、娘の眼には狼のように見えた。狼は仲間意識の強い群れを作る。それなら他の生き残った狼たちが近くにいるはず。迂闊に近づいて、こちらがやられてはたまらない。

( ……ん、なんだか変だな。狼じゃないみたいだ。犬にしちゃ見たことない種類だけど、遠くからきた山犬の群れかも。でも、それなら獲物を取りにきた他の動物達がいないのはどうして? )

 娘は小さな頭を傾げた。人間である自分でさえ気がついたのに、他の森の動物達が近くにいないのが気になった。焦げた臭いの種類もなんとなく、雷が落ちた時とは違うような気がする。

( あの死体、山犬かな? 山犬の皮って温かいのかな。肉は食べられそうな気がするけど、なんだかあそこはヤバイ、って気がするからやめておこう )

 娘はここに長居をしてはなんだかまずい場所のような勘がして、その場を離れた。はりきって出かけて来ただけに、帰り道の娘の足はがっかり感で重い。まだ雨は残っていて、今日は町に出るのも億劫だ。

( まっ、いっか! 昨日はちゃんとごはんにありつけたし、今日は水でも飲んで過ごそう )

 そう娘は決めると、その足で娘だけが知っている森の奥にある古木の洞の中に湧いている綺麗な湧き水の所に向かった。ここの湧き水はとても美味しくて、夏は冷たく冬は温かい。谷川の水のように雨が降ったら濁って飲めなくなる事もないし、からからに干上がりそうな時でもこの湧き水だけは枯れる事はなかった。

「雨降ってるし、泥だらけになるのは嫌だもんね。残念だな、雷に打たれたのが山犬じゃなくて崖だったんて」

 この娘の判断の正しさは、娘が立ち去ってまもなく現れた怪しげな者達の会話から知ることが出来た。つまりは ―――― 


「命拾いしたな、あの娘」
「はい、もしこの場に踏む込もうものならば切って捨てて、森の動物の餌になるところでした」
「雨が降ってなければ、そうなっていたな」

 娘の足音に気付いた曲者集団は、あの時岩陰から娘の行動を見張っていたのだ。そして、もし獲物欲しさにここに足を踏み入れていたら……。
 しばらく娘の去って入った様子を伺っていたが、戻ってくる様子は感じられなかったので男達は今までの作業を再開した。崩れた崖の岩や土砂を動かして犬の死体から何かを外し、目的の死体の有無を確認しては、また元に戻す。ぬかるんだ地面に自分達の足跡が残らないように、慎重に細心の注意を払いながら。

「刹那様、どうやら殺生丸はあの瓦礫の下に埋まっているようです」
「……あやつの死体を確認したのか?」
「いえ、まだですが……」
「ならば、それを急げ!! 犬達の背に着けた火薬箱の残骸を回収するのも忘れるな」

 そこに物見に出ていた者が、刹那の元に駆け寄った。

「刹那様、殺生丸の近習の者が近くまで戻ってきております。どう致しましょう?」
「聞くまでも無かろう! さっさと始末して来い!!」

 刹那の側にいた部下の一人が、そう物見に威丈高に言い放った。

「はっ!」
「いや…、待て」

 何ごとか考える風な刹那は、片手を上げると配下の者を呼び寄せた。

「これから先の事を考えれば、ここで近習の者を殺してしまうとまずいかも知れぬ。殺生丸はお忍びの旅の途中で、山犬の群れに襲われ運悪く落雷に遭い崖から落ち、崩れた崖の土砂の下敷きになったという方が波風が立たぬだろう。近習まで死んでしまったら、その事を都に伝える者がおらぬ様になる」
「はぁ、ですが……」
「崖から転落して死んだ主人の後を追ったように、細工でもするか? 過ぎた謀略は、小さな綻びで大きく破綻する。今は火薬箱の痕跡だけきれいに消して来い」

 
 雨宿りしていた邪見を探し出しようやく戻ってきた琥珀が見た光景は、一目見て嫌な予感がする光景であった。崩れた土砂や大岩の中に散らばる山犬の死体。その夥しい数と焼け焦げたような肉片。

「な、なんじゃ、この光景は…!?」
「山犬の群れに雷が落ち、そのあと崖が崩れたのでしょう。でも……」

 琥珀の栗鼠茶色の瞳が、この光景を見た時に感じた不安の元凶を捉えた。崩れた土砂の端に見えた、見覚えのある沓(くつ)が片方。そう、それは殺生丸の物であった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 森の中を娘は歩く。昔は、この森の奥に湧く泉から水を汲むのが自分の仕事だった。その泉があるから、この森やそのまわりの乾いた大地でも、どうにか飢えをしのぐだけの作物を作る事が出来た。この辺りの農民は、この泉のありがたさを良く知っている。自分たちがただで使える唯一の水源である事を。だから泉から水路を引いてそれぞれの田畑に水を引くような事は、暗黙の了解のうちに禁じられていた。誰にでも使えるこの泉を枯らさないために。乾いた大地であるこの辺りには、地表を流れる川はない。この辺りでは、地中深く掘り進まねば水を得る事は出来なかった。街中の井戸は、それを所有する者に水代を払わないといけないのだ。

 娘が見つけた古木の洞の中の湧き水は、その森の奥の泉から分かれて噴出した伏流水でもあった。山肌の斜面に根を下ろした大人の腕で三抱えほどある大木。娘が使う獣道に面して娘の眼の高さの所に丁度顔を覗かせるくらいの穴が開いており、その反対側にももう少し大きな穴が空いていた。娘は小さな穴の所にある岩盤の裂け目から湧き出す水を汲んでいた。おそらく娘より背の高い者なら、見落としてしまいそうな隠れた湧き水である。
 途中で拾った竹筒を水入れにして腕をその穴に突っ込み湧き水を汲みながら、娘の視線は偶然に洞の奥に向けられた。

 そしてそこで ――――

( ひっ!! 人が死んでるっっ!? )

 年経たその樹は、大人でも人一人くらいなら中に入れるほど内側が大きな洞になっていた。ささくれた樹肌に寄りかかるようにして、その人影はあった。まだやまない雨が水を汲む岩肌を薄赤く染めて流れ落ち、竹筒を傾けた娘の手を赤く濡らした。

( あ、でも……、まだ死んでるって決まった訳じゃないし…… )

 娘は気丈にもそう思い返し、確かめる事にした。もし本当に死んでいるのなら、ちゃんと森の動物達に食い荒らされないように埋めてやろう。その代り、もう使わないだろう持ち物なんかは貰ってもいいよね? と計算しつつ、反対にまだ生きているのなら、どんな事をしても自分に出来るだけの事はしたい思った。自分が何にも出来ずに目の前で人が死んでゆくのは、もう嫌だった。出来るだけの事をして、それでも駄目ならまだ諦めもつく。あの自分の声を無くした時から、必死に自分を庇ってくれた母親の顔を思い出すたびに、人が人を勝手に殺すのは許せないとずっと思っていた。何も出来ず、小さくなって震えているだけのあの時の自分が嫌いだから、今はそう思うようになっていた。

 山の斜面をよじ登り、下草や背の低い潅木などで隠されているその古木の反対側の穴から中を覗き込む。朝とは言え雨混じりのぼんやりした光の中、生気をなくして青白く見えるその人間の容姿が整っているだけに、ぞくりとした凄惨なものを娘は感じた。こっそり忍び寄りそっとその相手の顔に手を翳す。微かだが、娘は自分の手にかかる息の動きを感じた。ふいと、穴の中から外を見上げる。上の方からここに滑り落ちた痕が、怪我をして流している血と一緒に残っていた。

( あれ、消してきた方が良いよね。なんだか、そんな気がする )

 娘は穴から這い出すと、その滑り落ちた痕を遡って崖を上まで上って行った。崖の上は背の低い藪になっていて、大きな階段の平たい場所のようにそこからさっき様子を見ていた山犬達の死体が埋まっている崖崩れの場所が見えた。

( そっか。あの人、きっとあの犬達に追われてこの崖を落ちたんだ。それで、その犬達は、神様の罰が当たったんだね )

( それじゃやっぱりあの人が残っているかもしれない悪い犬達に追われないように、きれいに痕を消しておこう )

 娘の幼い頭の中で、全ての辻褄があっていた。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「殺生丸様!! どこにおられますかっっ!」
「殺生丸様〜〜っっ、どうぞお声を!!」

 謎の集団達が遠くから見守る中、殺生丸の近習の二人は犬の死骸を飲み込んだ土砂の周りを丁寧に探し回っていた。想像したくは無い、思いたくも無い。まさかこの土の下に、この犬達のような姿になっているかもしれない殺生丸の姿などは。その様子を確かめ、男達は立ち去って行った。

 しばらくして ――――

「……行ったみたいだな」
「な、なんじゃ、琥珀。何を言っておる」
「何者か判りませんが、この場を見張っている者がいたようです。俺の一族は森の中で修行します。長年の経験で森の声みたいなものを感じるんです。ここに異質なものがいるぞと」
「そ、それは、まさか ―――― 」
「その可能性はあります。まさか、殺生丸様のように用心深い方がそのまま悪漢の手に落ちるとも思えませんが、この状況を見るに無傷と言う訳でもないかと」
「こ、琥珀……」

 邪見の顔色は青ざめるを通り越して土気色になっていた。

「ど、どうするんじゃ、これからワシらは?」
「まずは、殺生丸様の安否を確認します。それがはっきりするまでは、あの見張っていた者の手前、最悪の事態になったと思わせて置いたほうが良いかと」
「し、知らせを! 都の警備部隊を呼び寄せて山狩りの準備をするぞ!!」
「……それから、都の姉上か法師様にも連絡を。この事態になって一番得をする人物の周辺をよく監視しておいて欲しいと」
「得をする人物…、まさか、これはあの異母弟の犬夜叉めの仕組んだ事かっっ!!」
「いえ、犬夜叉様はそのような事を考えられるお方ではありません。しかし、犬夜叉様を担ぎ出そうとしている一派には気をつけた方が ―――― 」

 お側用人の邪見より琥珀の方がよほど政情に通じていた。後宮警備の主任を務める姉の側には、女の口と耳と言う情報伝達機関があるからだろう。その中でも信憑性が高く、知っておいたほうが良いと思われる情報は、琥珀にも伝えられていた。

「では、ワシは一旦町に戻り、早馬を仕立てよう。お前はワシが戻るまでここで待て」
「はい、了解いたしました。邪見様もお気をつけて」
「うむ、では!」

 雨がようやく止む頃、邪見の姿は山の入り口から転がるように町を目指して駈けてゆき、琥珀はその姿を見送った後、何を思ったのかその場を離れた。やがて、近場で探して来た手ごろな太さの枯れ木を二本手にして戻ってくる。一生懸命土砂に埋もれた主を探すふりをしながら、もしここから身を隠すとしたら、どこが相応しいだろうかと頭をめぐらしながら。

 その場所を、決してあの怪しげな者達に気づかれる事無く見つけ出さねばと。

 雨上がりの崖の斜面を、娘は水気を含んで重たくなった枯葉を何度も運び上げて血痕や滑り落ちた痕跡を覆い隠していった。丹念に血のついた枯葉は別にどけ、その後に新しい枯葉を入れる。野山で暮らしてきた娘には野生の動物がどれほど鼻が利くか、また弱っていて餌食にしやすいかどうかがすぐ判ってしまう事も知っていた。
 娘のこの行為のお陰で殺生丸は森の動物達うあ追っ手から、そして主の姿を探す琥珀の眼からも隠されてしまったのだった。

 娘は泥だらけになりながらその作業を終えると、もう一度洞の中に身を隠している怪我人の所へ行った。こんな山暮らしをしている娘には、傷に塗る薬や添える布切れなど持ってはいない。だから手当てなど出来ようもないのだが、それでも一生懸命に自分に出来る事を考えた。

( 昔、あたしが転んで傷だらけになった時には、母ちゃんがその傷を水で洗ってくれたっけ。傷口に泥がついたままだと、そこから腐ったり体がしびれて動かなくなったり最後には死んじゃう事もある、って…… )

 ぶるぶると娘は頭を振る。どこの誰かは知らないけれど、でももう自分の目の前で誰かが死んでしまうのは嫌だった。自分が嫌だから、名も知らぬ相手だけど助けたいと思う。この時の娘の気持ちはそうだった。

( 水は、ある! それなら、あたしにもあの人の傷口を洗うくらいは出来るし、血止めだったらヨモギの葉っぱでもどうにかなるかも )

 そう段取りを決めると娘は、まずヨモギの葉を取りに山の中を駈けて行った。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 娘が古木の洞の中で人影を見つけ驚いたようにその場を離れたあと、その人影はようやく意識を取り戻した。全身の痛みはひどく、特に左腕に走る激痛は息が詰まりそうになる。あの時、火薬箱を背負った犬達に囲まれ崖っぷちに追い詰められた時、自分の活路は崖を飛び降りる事でしか開けなかった。
 犬達を誘引する薬の器を自分が飛び降りようとした藪の反対側に投げ捨て、一歩空に踏み出す。その間合いが幸いしたのか、追っ手の犬達の背中の火薬箱が爆裂し始め、自分は爆風に飛ばされ狙っていた藪の中へ落下した。藪の密生した小枝が緩衝材となり跳ねたように落ちた地点もまた崖で、そのまま滑り落ちて途中で意識を失い、気付いたらこの洞の中にいた。無意識ながらも、身を隠せる場所を求めたのかもしれない。

( 九死に一生を得たか……。あの風に飛ばされなければ、今頃はあの者達の手に落ちていたやもしれぬ )

 爆風に飛ばされた事で、自分の臭痕は途切れたはず。それがどのくらいの距離を稼いだか判らないが、あの爆発で犬達の体は裂けあたりは硝煙と犬の肉片の生臭い臭いが充満している。後から追跡の犬たちが投下されても、直ぐには追えまい。自分の死体があの土砂の下にあると思い込ませている間に、あの暗殺者どもの手を逃れる手段を講じねば。

「く、無様だな。こんなところで泥に塗れていようとは」

 大きく息を吸うと体中に痛みが走り、気が遠くなる。何度か意識が遠くなりかけた時、殺生丸の耳は枯れ草を踏む小さな足音を捉えた。

( 追っ手か!? …いや、それにしては気配も隠さず、足音も忍ばせてはいない。動物か人か……、邪見達だろうか )

 意識はあるものの、体力の消耗が酷く眼を開けているのも辛い。その足音は、洞の前で立ち止まると中を覗き込んでいるような気配だ。その気配が動いたと思った、次の瞬間 ――――

 頭からざばりと水をかけられた。途端に意識がはっきりしたのは、水の冷たさよりもこの国の皇子として受けた事のない、このような扱いに対しての憤りからだった。

「何をする!」

 鋭く相手を威嚇する。びくり、と相手の気配が怯んだのを感じた。

「あ…、ああ―― 」

 何をする、と言われても娘は声を失って随分になる。出せるのは、この獣のような掠れた声だけだ。

「お前は何者だ」

 ずんと底冷えがするような声の響きだった。娘を見る目の色は凍りついたまま、どこか底なし沼を思わせる暗さがあった。幼い娘でさえ美しいと感じさせる美貌だけに、立ち上る怒気に凄惨さが滲む。

「あ、あぅぅ あ……」

 たとえ相手が幼い子どもだとしても、それが刺客ではないとは言い切れない。もともとの冷たい目付きに更に剣呑な色を濃く浮かべ、目の前の薄汚い襤褸のような子どもの姿を睨みつけた。問いかけた相手から返事がないのにも、そう殺生丸は違和感を感じなかった。後宮で自分と一夜を共にした側女たちも、よくこんな風に自分を恐れ声を無くす事が度々あった。かろうじて幼い娘だとわかるこの小汚い子どもが、自分の一喝に怯えてしまったとしたら刺客である可能性は低いだろうと殺生丸は考えた。

( この人、恐い!! )

「お前 ―― 」

 なおも殺生丸が問い詰めようとした時、娘は手にしていた竹筒と何かをその場に落とし、洞を飛び出して行った。瞬間、このままこの娘を逃しては自分の身の危険に繋がるかと腰の愛剣に手を掛けかけたが、落としたものに目をやりそのままその手を戻す。洞の土の上には泥を洗い落としたたくさんのヨモギの葉と、同じく洗い清められた草の蔓が何本も落ちていた。

「……手当てしようとしたのか」

 何故、との疑問が頭を過ぎる。あの娘にとって自分は見ず知らずの他人。手当てした事を恩にきせ、何かねだるつもりかとも邪推する。そんな下心の有るような娘なら、次に来た時には虫けらのように切り捨てるだけ。そんな考えが真っ先に浮かぶ、殺生丸の哀しさを本人もまた周りの誰をも気付いてはいなかった。

 洞を飛び出した娘は、今の様子を思い出して体の震えが止まらなかった。今までにも怖い目にはたくさんあってきた。強盗に家族を殺された時も恐かったし、一人で生きてゆく為に街で盗みを働いて捕まった時の、殴る蹴るも恐ろしかった。だけど今のあの人に感じた恐さは、そんなものじゃない。綺麗にだけに、立派なだけに、その中の空っぽさみたいな暗闇が娘には恐かった。こんな所で一人で生きている娘が見ている暗闇とも近いような気がして、それに引き込まれそうな気がした。

( だ、大丈夫、大丈夫だ、あの人! あんなにしっかりした声が出せるんだし、それに ―― )

 娘は心の中で考える。あの人は恐い人。だけど、いやだからこそ、あんな怪我ぐらいじゃ死んだりしない。自分が何かしなくても、きっと大丈夫……。そう言い聞かせ、娘は自分の塒に飛び込んだ。

 朝方止んだはずの雨が、また降り出した。これできっとあの人の血の痕も、崖を滑り落ちた跡も、自分の足跡も消えるだろうと娘は思った。少なくとも、生き残っているかも知れない山犬たちに見つかる事はないだろうと。あの怪我人を手当てしようと色々動き回ったせいか、娘は自分がひどく空腹なのに気付いた。水でも飲んで過ごそうと、ほんの少し前まで思っていたのがとても耐え難く思えてきた。雨の中を街まで出かけるのは億劫だが、このまま野鼠のようにこの穴倉に篭っているのも耐え難い。怪我人を放ってきてしまった自分の気持ちの居心地の悪さに、娘は少し降りの強くなった雨の中に出て行った。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 雨の降る日は、街にも人影はまばら。店も半分閉めているような有様で、娘が獲物を漁る塵箱なども空の事が多い。濡れては売り物にならないから、いつもなら店先に並べている食べ物なども当然店の中。娘が店の中に入って行く事など出来よう筈も無く、物陰で思案に暮れる。その娘の眼の前を、前日見掛けた小柄な老人があたふたと駆け回っていた。そう娘が腰の弁当を狙おうとした、あの老人である。

「おい! この街で一番足の速い馬を用意してくれ!! 金ならいくらでも出す! とにかく大急ぎじゃっっ!」

 ぎゃあぎゃあ喚きたてるせいか、あまり柄の良くない街の連中がこの雨の中の憂さ晴らしにと、その老人をからかっている。

「へぇ〜、気前のいい話だな、じーさん! しっかしなぁ、この街一番の早足の馬なんて、駆け比べさせた事ねぇから、どの馬が足が速いかなぁ?」

 馬喰の元締めらしき男がにやにやと、朝っぱらから酒臭い息を吐きながら老人の肩に腕をかける。

「な、なんじゃと? それなら足の早そうな馬を何頭か連れて来い! このワシが選ぶわっっ!!」
「そりゃ、困る。素人のお前が選んだ馬が本当にこの街一番の足の速い馬ならいいが、そうじゃなくてあまり足の早くない馬なら、この街の馬はどの馬も駄馬って事になっちまうからな」
「な、なんじゃ!? なにが言いたいんだ、お前は!」
「だからよぅ、俺が足の速そうな馬を四・五頭見繕ってやるからよ、それを全部買ってくれよ。それならあんたが買った馬の中に一番足の速い馬がいたのに、あんたが他の馬を使ったって事ですむからさ」

 明らかにこの老人から、金を巻き上げる為の言いがかりだと物陰で聞いていた娘にも判った。そんな無茶な話を聞く必要もないと、娘は思う。しかし老人は、小さく頷いた。

「よ〜し、待ってなじいさん。すぐ、この町一番の馬を連れて来てやるからよ。その代り、その馬と同じだけの値段で五頭分の金を払ってくれ」
「ああ、判った。判ったから、早くしてくれ!!」

 この街の連中のやり口なら、一頭だけ足の速い馬を連れて来て残りの四頭はどうしようもない駄馬を連れてくるのが目に見えていた。娘はもしかしてこの老人は馬鹿じゃないかと思ったが、その馬喰が馬を用意する間、自分が隠れているモノ陰近くに老人が腰を下ろし溜息交じりに呟いた言葉でそうではないと知った。

「……腹立たしい事じゃが、背に腹は変えられん。とにかく急ぎ都に戻り捜索隊を連れてこなくては。琥珀だけに殺生丸様を探させるのも無理があろう」

 そして深い溜息。娘は自分の判る範囲で、この状況を一生懸命に考えた。

( え〜と、このお爺さんは都から来た人で、誰か偉い人の家来なんだ。もう一人その偉い人の家来がいて、その偉い人を探してる…? )

 娘の頭の中で、その偉い人とあの洞の中にいる怪我をした人が同じ人かもしれないと言う考えに辿り着く。確かに都の偉い人だと言われれば、そうとしか言えない立派さだったと娘は思う。

( それなら、今このお爺さんにあの人の事を教えれば、あの人は助かるんだ!! )

 娘は物陰からその老人…、邪見の着物の袖を引こうとした。そっと伸ばしかけた手を、邪見の側に近づいてきた足音を聞いて慌てて引っ込める。先ほど無茶な商談をまとめた馬喰が、馬を五頭引き連れて戻ってきた。娘にも邪見にも先が読めていたように、中々立派な馬が一頭と年老いた馬が二頭、明らかに足を傷めている馬と病気の馬と、合わせて五頭。

「ほら爺さん、約束どおり馬五頭だ。金を払ってくれ」
「……使い物になるのはその一頭だけじゃ! 他の馬は使い物にならん!!」
「そう言うなよ。俺は速そうな、って言ったんだぜ? それも嘘じゃないしな。この二頭は若い頃はそりゃ足が速かったもんさ、その馬にも負けねぇくらいにな。それにこっちの馬も足を傷める前はこの馬より速かった。その隣の馬も、元気な頃は同じくらいにな」

 にやにやとした卑しい笑いが、馬喰の顔全面に広がっている。

「ふん…、まぁどうせそんな事だろうとは思ったがな。ほら、これを受け取れ!!」

 とにかく先を急ぐ邪見は、懐から皮の銭袋を取り出すとそれをそのまま投げ付けた。小さな体の割りに、乗馬は得意と見えて中々見事な手綱捌きで街を後にする。娘は伝え損ねた事柄を飲み込み、馬喰達がそこから離れるまでじっと身を隠していた。

( ……声が出ないのに、どうやって教えるつもりだったんだろ、あたし。お爺さんは行っちゃったし、帰ってくるまでもう少し時がかかるよね )

 それまで、あの人はあの洞から動けず怪我の手当ても受けられず ――――

 きゅうと、娘の腹がなった。自分が空腹なのをまた思い出すと、ふとあの人もお腹を減らしているんじゃないかと思った。山の中じゃろくな食べ物は無い。あんな立派な人が何を食べるかなんて娘には判らなかったけど、それでも何か食べるものは必要だと考えた。

( 今日が雨じゃなければな。まだ山の中に木の実か何かあったかな? )

 娘は殺生丸の恐ろしさに怯んであの場を逃げたのに、いつの間にか考えているのは殺生丸のことだった。殺生丸の飢えを和らげる為、街の人間に見つからないよう娘は山に戻って行った。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 雨の山の中を娘はまだ木の枝に残っている山葡萄の小さな房や鳥に突かれた跡のある柿の実や生栗などを幾つか集めて、またあの洞に向かった。洞の手前で、娘は躊躇う。あの時の鋭く冷たい視線や切り付けられるような声が恐ろしくない訳ではなかったから。

( ちょっとだけ様子を見て、それからこれを置いたらすぐに帰ろう )

 そう気持ちを決めて、足音を忍ばせそっとそっと洞に近づく。その様はまるでこの季節、巣に冬篭りの餌を溜め込む栗鼠のようにも見える。


( ……足音が小さい。また、あの娘か )

 殺生丸は雨音の大きくなった中、その足音を聞きつけ軽く身構えた。いくら自分が怪我人でも、あんなみすぼらしい小娘に危害を加えられる程、柔ではない。

( ふん、この私がどれほど弱ったか探りにでもきたのか。懐中のものでも盗むが目的か )

 閉じていた瞳をそれと気付かれないよう薄く開け、娘の様子を伺う。娘もこちらの様子を伺っているのが見て取れた。狸寝入りを続けていると、そっと娘は近づき泥に汚れた片手を殺生丸の顔の上に翳した。寝たふりに他愛も無く騙され、そして ――――

 娘がほっと、安堵の吐息をついたのを殺生丸は感じた。それから大きな木の葉に何か乗せて、殺生丸の傍らに置き、また音を立てないようにそっと洞を出て行った。出て行きがけに、娘の腹の虫が鳴くのを殺生丸は聞いた。
 娘の気配が消えた頃、殺生丸は洞のなかで身動ぎ体を半分起こして自分の傍らに置かれたものを見た。木の葉の上には殺生丸が見た事の無い、しかしおそらく食糧だろうと思われる物が乗っていた。娘の様子を思い返せば、おそらくこの山で一人で暮らしている浮浪児だろう。食糧すらまともに口に出来ない生活をしている事は簡単に想像できた。現にあの娘は、腹を空かせていた。

 それでも、あの娘は……。


 これが後に国を持たない覇王とその寵姫との出会いであった。



【3へ続く】   

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