【 月華覇伝 3 】



 強くなった雨の中、自分の塒に戻った娘の体はずぶぬれになりながらも不思議と胸の中はぽぅと温かかった。自分に出来た事はとてもちっぽけな事かもしれない。ちっぽけな事であっても、それは亡き母がこの娘に残した今際のきわの言葉を果たした満足感にも繋がっていた。

 ―――― 倫理(みち)を外さぬ生き方をしていれば、必ず報われるから。

 体は冷え切って寒いし、腹はぺこぺこに減っている。塒にしている穴倉の中には枯れ草や萱のような物だけで、口に出来るものは何も無い。辛さで言えばかなり辛い今の状態でも、娘はそれをそんなに感じてはいなかった。これが報われるってことかな? と娘は思いつつ、外の雨音に眠気を誘われ、冷え切った体を暖めようと枯れ草の山の中に潜り込む。とろとろとした眠りの入り口で、娘はあの人もこの雨で寒い思いをしているんじゃないかと考える。まさか自分と同じように、枯れ草や枯葉を被せる訳にはいかないだろうなと考えていた。


 酷くなった雨の中、崖崩れの現場で一人残った琥珀は、もくもくと土砂を掘り返し続けていた。本当ならこの場所を離れて主人が身を隠せそうな場所を探しに行きたいのだが、自分を見張っている何者かの手前、騙された振りを続けるしかなかった。いや、あの主人がこんな所で果てる訳が無い! と言う、ただ一途なまでの信念でもあった。

( ……まずいなぁ、これじゃこっちも身動きが取れない。多勢に無勢、邪見様がお味方を連れて来るまで、何人かの曲者をここに引き止めておかないと。でも、もしその間に殺生丸様の身に何かあったら ―――― )

 岩陰や藪越しに自分を見張っている者の視線を感じつつ、琥珀は泣きそうな演技を続ける。自分がここに主人が埋まっていると信じ切った振りをしている事で、他の場所を探す気を少しでもそぐために。

「……刹那様。例の老人は町で馬を手に入れ、都に急ぎ戻ったようです。山狩りをするつもりでしょう」
「そうか、ではあの者らも殺生丸の消息を確認した訳ではないのだな」
「ええ、あの小姓のような者もあの場から離れませんし、他を探さないのはそれだけあの瓦礫の下に埋まっていると思っているからに違いないでしょう」
「あの状況で、もしあの瓦礫の下に埋まってないとして、どこに身を隠せる場所があるだろうか?」

 そう問いかけるのは、もっともな事。殺生丸を追い詰めた崖の下は少し開けた場所の先は藪に区切られ、また緩やかな斜面が続く。藪や木立はあっても身を潜められそうな岩陰や洞窟などもない。何より、その斜面を通った痕跡がなかった。

「あの浮浪児が迷い込んだ事で、殺生丸の死体の確認が出来なかったのは気がかりだが、あそこ以外にその痕跡が無ければ、後はあの老人がつれてくる都の役人達の出方を見るとしようか」

 殺生丸の痕跡、崩れた土砂の傍らに埋まっていた沓の事。殺生丸が襲われた後の雨の激しさが曲者達の行動を抑制し、その後あの娘がその現場に赴いた事でさらに手を止める事になり、その上その娘の勘の良さがその痕跡を消した。僅かずつの時間差で、曲者達の眼をくらませる結果に繋がっていた。

「そう言えばさっきの浮浪児、この少し下の獣道の所をうろうろしてました。見てみると、山肌に根を下ろした古木の所から岩清水が湧いてるようで、しょっちゅう水を汲みにきているようです」
「ああ、そのせいか。あの辺りに微妙に人の気配が残っているのは。もしあの浮浪児が手負いの殺生丸を見れば、森の獣に出会った以上に怯える事だろう。すぐ判るな」
「……噂は聞いてます。後宮の女達への手酷いまでの狼藉振りは。まったく血に飢えた狂人に一国の王は務まりません」
「そうさせぬ為の、この企てだ。つかの間とは言え、今は無き我が母国の王位に着いた者縁の血を引く者にこの国の王になって欲しいと願うは、忠国の志ゆえ」
「はい。なれば国は滅びても、その実はこの国こそが我が母国と言えましょう」
「その為にも、必要以上に都の者どもに我らの存在を気取られ、あのお方に疑惑が向くのははなはだ拙かろう。数名物見を残し、我らも引き上げよう」

 あの娘も、従者である琥珀も辛うじてこの曲者達の網の目を潜り抜ける事ができたようだった。怪しい男達は数名の見張りを残して、夜半すぎにその山を去っていった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 腹ペコのまま眠りについた娘は、まだ夜も良く空けぬうちに目が覚めた。小さくくしゃみを一つして、ぶるりと体を震わせ枯れ草の山の中から這い出してくる。穴倉をふさいだ扉代わりの藪の隙間から、今日は朝日が射している。

( あー、良かった。今日も雨じゃ、本当に体が冷え切ってしまうもんね。あの人の様子を見てから、町に行ってみよう )

 娘は大きく体を伸ばすと、塒を出てあの古木の洞に向かった。洞に近づくほどに恐さにも似た、でもなんか違うもので胸がどきどきしてくる。そっと中を覗きこんでみると ――――

 昨日置いたままの、木の実。

「……何の真似だ。このような物は口にせぬ」

 びくん、と思わず体が跳ねそうになる。綺麗だけど、冷たい声。突き刺すような響きは、娘に向けられる視線と同じ。

「これもそうだな。傷を手当するつもりだったのか、それとも私の懐が狙いか」
「あ、あああ…。あぅ……」

 殺生丸の傷付いた腕には、血止めとして蓬の葉が張られていた。状況が状況、背に腹を変えられなかったのかその傷と蓬の葉を忌々しげに見ている様子が娘に伝わる。恩を売る恩に着せる、そんな言葉が娘の頭に浮かび、そう見られても仕方が無い自分を娘は頭を横に振り、言葉を無くした唇から搾り出す声でそうではないと伝えようとした。

「……お前、口が利けぬのか」

 その問い掛けに、娘は頷く。薄汚くやせ細った、どこか山に棲む小動物を思わせる娘。しかし娘の殺生丸を見る瞳は身なりの薄汚さに反し、逞しさと純朴な光を宿していた。

「私に構うな。口の利けぬお前では私の役には立たぬし、下手をすれば厄災さえ蒙ろうぞ」

 叱り付ける様な口調ではなく、むしろどこが面白がっているような感じもあるが、その奥にある暗いものを娘は感じた。

「もう行け。二度とここに来るな」

 そう言うと、唇を閉ざし目を瞑る。娘の存在など、自分の中に無かったかのように。娘は自分の存在が無性に恥ずかしいもののように感じられ、その場から駈け去った。自分がただの浮浪児でなんの力もない事や、そんな自分はこの人のような立派な人から見ればゴミのようなものなんだと感じてしまって。この人の為に何か出来たと思った事が、どんなに思い上がった事なのかと突きつけられたような気がした。

 そんな気持ちを吹っ切りたくて、娘は町へ足を運んだ。ふと、昨日見たあのお爺さんがここに戻ってくるのはいつだろうかと考え、あのお爺さんの探している人があの人なら早くここに戻ってきて、あの人を見つけて欲しいと思った。あそこにあの人がいるから、自分がこんなに苦しい気持ちになるんだと思った。幼い娘はまだその理由も気付かずにいたけれど。
 町に入るといつものように、店の前に商品が並んでいた。この晴れた天気の下、溜まっていた洗濯物を干し上げたのか、至る所で着物や布が旗のように翻る。この一両日の出来事に翻弄され、食べる事をしていなかった娘の空腹感は最高潮まで達していた。いつも自分がごみを漁る店の裏に、ようやく目的のごみ箱が出ていた。雨の降る日でも客は店に入る訳で、その中にはここ二・三日分の客の食い残しなどが入っていた。店の主人の眼を盗み、ごみ箱に取り付くとめぼしい獲物を探し出し、気付かれないうちに建物の陰に逃げ込む。がつがつと腹を空かせた野良犬や野良猫のようにその獲物をがっつき、そしてはっと今の自分の姿を想像してみた。

 ―――― 薄汚い身なりでごみを漁り、見つかれば犬畜生のように追われ、口汚く罵られる自分。声をなくした自分は、言葉を話せない犬や猫と同じ。

 ぽろ、と娘の瞳に涙が浮かぶ。今までは生きてゆく事が生き抜く事が一番大事で、それで自分の事をどう見られようが少しも構いはしなかった。だけどあの人に出会ってからたった一日で、自分がどんなにみすぼらしく卑しい生き物かと思い知らされた。
 それでも娘は、真正面に物事を見つめる事の出来る娘だった。自分があの人の前に出るのは場違いなのは痛いほど判っている。ならばせめてあと一度だけ、あの人の役に立ちそうな物を持って行こう。あの人が口に出来そうなちゃんとした食べ物と、体を温める事の出来る大きな布かなにかを。それを受け取ってくれるかどうかは、あの人の気持ち次第。もうそれ以上は、自分に出来る事は無い。そしてあのお爺さんが戻ってきたら、それこそ今度は腰の物でも盗んで追いかけさせ、あの人の所まで案内しよう。それで自分の役目は終わりだ。ちらりと、でもあのお爺さんが探している人と森の中の人が違ったらどうしようかと言う考えも頭の過ぎる。

( ううん、その時は、その時だよ! やらない事でずっと悔やむより、やって失敗しちゃったって思うほうが絶対良い!! )


 そう自分の中で決めると、さばさばした表情で娘は目的の物を物色し始めた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 崩れた土砂を一晩中掘り返し、力尽きたように琥珀は夜が明ける頃に手にしていた丸太に座り込む。両手で顔を隠し肩を落とし、いかにも意気消沈したように。その実、鋭敏な感覚で自分に注がれる何者かの視線の変化を感じ取っていた。夜中に多くの者がここを去った事を、山の空気が教えてくれた。自分を見張っている者の数は、片手ほどか。後、藪の向こう側を小さな足音が何度か往復するのを聞いた。自分たちの他に誰がいるんだろう?
 見張っている者達がさほど気に留めてないような素振りなので、その小さな足音の主はこの剣呑な現場近くでも見過ごされるような、影響の無い者なんだろうと琥珀は考えた。

( ……多分俺の勘じゃ殺生丸様は、この土砂の下ではないどこかに身を隠しておられるはず。そして、おそらく怪我を負っているのだろう。無傷ならばあのご気性で、この手薄な追っ手を見過ごされるような方ではない )

 崩れた土砂を掘り返しながら出てくる四肢の千切れた山犬の死体を見て、この犬達を引き裂いた雷かあるいはそれに似た何かの力の影響を、自分の主も受けたのだろうと。

「邪見様が戻られるまで、俺も動きようが無いな」

 自分を見張っている者たちにも聞こえるように、琥珀はそう声に出した。邪見が連れて来る大勢の役人達の影に紛れて、その時こそこの辺りの身を潜められそうな場所を琥珀は一つ一つ探るつもりでいた。怪我の程度によっては、それこそ取り返しのつかないことになる。焦る気持ちと、動けぬ歯がゆさが琥珀を襲っていた。
 座り込んだまま、判る範囲でこの辺りの地形を頭に思い浮かべる。季節もあるが、そうこの辺りは緑の濃い場所ではない。岩山と普通の山の中間あたり。小さな崖や岩肌の露呈した斜面も目立つ。今、自分が座っている所は少し開けた場所だけど、それも十四・五間も離れると藪に区切られた先は下草もまばらな山肌の斜面になる。その下は獣道が通っており、また似たような斜面が続く。大きな岩影や洞窟などもありそうにないし、藪の下に潜むのも無理だ。せいぜいあって、大人の腕で三抱えありそうな古木がところどころ目立つくらい。

「そう隠れられそうな所じゃないが、俺が気付くくらいだからあいつ等が探らない訳はないよな」

 琥珀もその場所に思い至るが、それにしても木の陰に身を潜めたくらいじゃどうにも成らない事は判っている。洞があれば、当然あいつらだって調べるだろう。それで見つからなかったとしたら……。

「……お探しする範囲はもう少し広げた方がいいんだろうな。良い方に考えれば、お怪我の方は軽症で追っ手や俺たちの裏をかかれているのかもしれないし」

 そう思う方があの主らしい気もして、琥珀の気持ちは落ち着いてきた。

 全てが、偶然。

 琥珀達がここに戻ってくるのがもう少し遅ければ、あの娘が痕跡を消すのが間に合わなかったかもしれない。ここから琥珀が動かなかったから追っ手達は行動を潜めねばならず、あの娘が水を汲みに来る事でそこには異常がないと判断させてしまったのだから。


 その頃、割り切った瞳をしてあの娘は手頃な獲物を見つけ出していた。遊女屋の上客用の敷布が晴れた空に綺麗に洗われ、干されている。あれなら洗い立てで綺麗だし、物も良い。

( もう少しで乾きそうだな。見張りもいないみたいだし、今のうち!! )

 こそこそと物干し場に近づき、敷布の端を掴むと物凄い勢いで手繰りよせ一塊に丸め込む。その動作と物干し場を駈け去るのはほぼ同時。一旦その獲物を町外れの草むらの中に隠し、それから次の獲物を探しに行く。

( ……次はあの人が口にしそうな、まともな食べ物。魚か肉か、干し果物? 饅頭みたいなのでもいいのかな? )

 娘のような野育ちの無知な娘でも、あの怪我人が高貴な身分の者であると言う事は一目で判る。そんな高貴な方が何を口にするかなんて娘には見当もつかないが、それでも自分が知りえるうちで一番のご馳走をと考えた。
 そう考え込んでいた娘の鼻先に、温かそうな湯気に混じって美味そうな肉の匂いが漂ってきた。娘が最後に上げた、ご馳走候補の肉饅頭の匂い。そろそろ蒸し上がるのか、店の主人が店先にその匂いで客を釣ろうと蒸籠ごと運んできた。道行く者がその匂いにつられて、店の方へ足を運んでゆく。
 商売上手な笑顔と大きな声で客寄せを始める店の主人。普通の客も柄の悪い客も店先に集まってくる。熱々の肉饅頭を包む竹の皮も沢山用意して商売開始だ。その様子を、娘は猫のように鋭い視線で見ていた。

( あれ、どうにかして盗めないかな。客でごった返ししている隙に二個か三個でも盗めたら……  )

 いつもより旅の客人が多いのか、店先はいつにない大繁盛。主人の他に手伝いの者が、主人の横で言われた数だけ饅頭を包んでいる。主人は注文を受けるのが大忙しで、手伝いの者もてんてこ舞い。そのうち最初に出した蒸籠の中の饅頭だけでは足りなくなって、手伝いの者は注文の数を包む途中で店の奥に次の蒸籠を取りに入って行った。
 その隙を娘は見逃さなかった。手伝いが店の奥に入り、主人が次々と注文を受けている横からその包みかけの饅頭を引ったくり、その場から逃げ出した。娘の背中で店の主人の怒鳴る声が聞こえる。店の奥にいた手伝いと店先にいた客の何人かが娘を追いかける。こんなに必死で娘は自分が逃げた事はないと思った。でも、どうしても逃げ切らないと思う気持ちが焦りを生んだのか、思わず娘は足をもつらせ地面に倒れこんでしまった。そんな時でも腕の中の饅頭を落とすまいと、自分の胸に抱え込み肩から先に地面に倒れ、背中を思いっきり叩き付けてしまった。

「今日と言う今日は、もう許さねぇ!! 店のごみ箱を漁っているのも我慢ならなかったが、店の商売物に手を出すとは、ふてぇガキだ! 叩き殺してやるっっ!!」

 もともと荒くれ者が吹き溜まったような町。非道な事は日常茶飯事。小さな娘相手でも、手加減などはしない。娘は獲物を守るように自分の腹に抱え込むと、体を小さく丸め殴る蹴るの暴行の嵐に耐えていた。頭を蹴られて、ふっと気が遠くなる。横顔を殴られて前歯が折れた。丸めた背中の背骨を折らんばかりの勢いで、何度も何度も踏みつける。

( あ…、もう、だめかも……。同じ死ぬでも、みじめな自分の力の無さからより、誰かの為にの方がなんだか救われるね…… )

「ここの町の人間は、随分と暇なんだな。たかだ浮浪児一人を寄ってたかって嬲り殺しか?」

 知らない男の声が聞こえた。

「ああっ!? なんだと! 他所モンが横から口をだすなっっ!! このガキは溝鼠よりも性質が悪い、町の者も迷惑してるんだ。ぶっ殺してどこが悪い!」

 激昂したまま店の主人が、その男に食って掛かる。娘はその声のしたほうを見上げ、助けてもらえるのかと言う表情を浮かべた。

「悪くは無い。ただ我らの目の前その娘の血で汚されるのが気に食わん。腹ごしらえをしたい、その蒸籠を一籠そのままもらおうか」
「一籠そのまま!?」

 商売の話になり、主人の態度が変わった。同じように娘を追いかけていた他の客は、今度は横から割り込んで饅頭を買い占めようとするその男を睨み付けた。

「横から割り込んで来やがって、残りの饅頭全部を買い占めようってか!? ずいぶん舐めた真似してくれるじゃないか」
「たかが、饅頭の事。なにをそんなにいきり立つ」
「そう、たかが饅頭さ。だけど、お前のその態度が気にくわねぇっっ!!」

 溝鼠のような娘を甚振るよりは、この旅の男を叩きのめして有り金全部巻き上げた方が利があると、町のごろつき共は判断した。娘から町の人間の注意がそれたのに気が付き、娘はその隙に痛む体を必死で動かしながら町の外へと走り逃げて行った。逃げて行きしなに、その娘が旅の男に深く頭を下げるのが見えた。

「あっ、しまった! ガキが逃げやがった!!」

 店の主人がそう声を上げても、もう他の客は振り向きもしない。旅の男を叩きのめす方を優先している。

「……すぐ片がつく。あの娘の分も上乗せしてやるから、先に饅頭をもらうぞ」
「は、なに……?」

 男の言葉の意味は、直ぐに判った。店の方を主人が振り返ると、十人以上の猟師姿の男達が他の客を押しのけ、饅頭を頬張りながらこの騒動を面白そうに眺めている。漂う雰囲気はこの町の悪党どもよりもっと危険なものを感じさせた。

「主人、終わったぞ」

 その声で視線を元に戻すと、口々に騒いでいた町の男達はその男の足元に叩き伏せられていた。

「ここは香麗の通貨は使えるか?」
「あ、へぃ。贋金じゃなきゃ、どこの国のものでもありがたく頂戴しやす」
「そうか、ではこれで足りるだろ」

 店の主人の手の上に、高額だと判る金貨を三枚落とす。商売繁盛で店の主人の態度はころっと変わっていた。

「……茶番ですな、刹那様」
「ああ、これで都からの役人が引っかかるかどうかは頭の出来次第だろう」

 町の住人の視線を背中に感じながら、悠々と町外れまでその一団は歩いていった。自分達の後をつけてくるものがいるのに気付きながら、それをそのままに香麗の国境を目指す。

「ところであの浮浪児、あの時の娘ですな」
「うむ、我らに気付いているかどうか確かめるつもりもあったが、そんな用心は要らなかったようだ。あの娘が唖だと知っていれば、あのまま嬲り殺されていても構わなかったな」
「どの道殺される娘なら、あの時に始末して置けば良かったのでは?」
「あの場で殺して、その死体を上手く隠す時間の方があの時は惜しかった」
「我らに気付いているか、気付いていないとしてもあの崖崩れの様子を誰かに話していないかをですか?」
「蟻の穴一つあいてもならぬゆえ。我らの大計にはな」

 追跡者はまだこの男達の後を追っている。

「刹那様……」
「ああ、そろそろ…」

 その会話が合図で、猟師の一団を装っていた男達が一斉に走り出す。走りながら三々五々と散開してゆく。追跡者の数は少なく、多方向に散ってしまった謎の男達の追跡は諦めねばならなかった。
 町に戻った男達の話で、あの謎の集団は香麗の隠密ではないだろうかと言う噂が広まった。その隠密集団が何故こんな辺境の町に現れたのかは、後日都から警備隊の役人が到着するまでにいろんな憶測を生み出していた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 あの旅の男がどんなものであれ、自分の命を救ってくれた事には変わり無く一礼をしてその場から逃げた娘は町外れに隠していた敷布も抱え込むとそれを持って、あの洞の側へと向かった。同じ頃、考えあぐねたと言う風を装って琥珀が崖崩れの現場から立ち上がった。自分の動向で、今自分を見張っている者の気配を確かめてみようと思ったのだ。

「もしこの土砂の下に殺生丸様が居られるとしたら、十中八九は絶望的だろう。でも一分の望みを繋ぐなら、この土砂を早く取り除く事かそれともここではないかもしれない可能性にかけて、この辺りをもっと詳しく探してみる事か……」

 わざと見張りに聞こえるように、そう声に出してみる。幸いな事に琥珀のなりがまだ少年の域を出てない事もあって、そう言う迂闊な言動も年相応の子どもっぽさに受け取られていた。琥珀の言葉に、微かにざわりとした空気が揺らぐ。

( ……俺の背後に三人、左前に一人。少し離れてもう一人、全部で五人だな )

 この場の見張りの位置と人数を確認する。

「俺がもし殺生丸様なら、そして少しでも動ける状態ならばどうするだろうか? 怪我をした状態のままでいつまでも山の中に留まるのは危険だよな。血の臭いで山の動物達に襲われないとも限らない。となると、山を降りようとするか…?」

 そう呟きつつ琥珀は、崩落現場から自分たちが来た道を逆にめぐり始めた。この道を戻ればあの町に繋がっている。その途中でなら主従が合流する事もありえると。琥珀の行動を見、曲者たちは先回りをした。一人だけはその場に残り、他の四人は琥珀の動向を見張りながら先走りのように町につながる道筋をそれらしい場所はないかと探し始める。
 仮に殺生丸が生きていたとしても、身動きが取れないのならそう問題ではない。拙いのは主従に合流され、双方始末したとしてそれを『不運な事故』ですまされない状況になる事だった。

( あの場を離れて、俺を追ってくるって事はあいつらも殺生丸様の所在をはっきり掴んだ訳じゃないんだな )

 鋭敏な感覚で付いてくる気配を正確にあの場所から引き離す。このまま町外れまでついて来ると言う事は、琥珀がこの事態をどう判断したかを確かめる為。今更慌てて殺生丸の所在を探ろうとしないと理由は、この相手は自分よりもはるかにあの瓦礫の下に殺生丸の死体が埋まっていると思っているからか。

( そんな事、絶対あっちゃならないんだ!! )

 町に一旦戻り、この追跡者を撒いたら今度はこちらが追跡する番だと考えていた。それでこの出来事の真相に迫る事が出来ればと、いやそれよりも我が主である殺生丸の居場所を探る手がかりになって欲しいと願っていた。こうして琥珀があの残っていた曲者の殆どを自分に引き付けて崩落現場を離れた事が、琥珀の知らないところで功を奏していた。そう、あの娘の行動から殺生丸の居所を知られる危険性を低くしていたのだ。

 一人残った見張りは、崩落現場を見下ろせる崖の上に身を伏せてその辺りの様子を伺っていた。ここからならばかなりの範囲を見張る事が出来る。その替わり、微かな足音や葉ずれの音などからそこに何者かが潜んでいる事を察知するには不利だった。その見張りの前を獲物を抱えて通り過ぎてゆく。この娘の水呑場が、ここから見下ろした藪の先の古木の根方から湧いている岩清水だと知っているからか、気にも留めない。その辺りは藪が重なり根方の方は見通しが悪い。娘の姿も藪に遮られ隠されがちになるが、何か異変があればその気配を隠し切れるはずもないと高を括っていた。今も娘から放たれる気配は、獲物を手にした嬉しさか少し弾んでいるように感じられたのだ。

「……ふむ、やはりあいつはこの辺りに潜んではいないようだな。いや、もうすでに冷たくなってあの岩の下か」

 最後の見張りも先に琥珀を追った仲間達のあとを追うことにした。

 行き違うように娘は、そっと古木の脇を登り藪に隠された反対側の入り口から中を覗きこんだ。その人はそのまま、そこにいた。修行を積んだ武人ならではの身のこなしで、その気配を完全に消している。この娘とて、あの偶然がなければきっとどんなに側に居たとしても気付かずにいた事だろう。

「……また来たのか」

 声が聞こえたのが不思議に思えるほど、まったく気配の無いところからそう声をかけられた。

「あ、あああ。あぅう ――― 」

 娘は手にした饅頭と敷布を差し出すように殺生丸の前に出した。それを一瞥し、そして――――

「盗んだものなど口にはせぬ、側には置かぬ」

 冷たい一言。
 娘の表情が凍りつき、泣いているような引きつった笑いを浮かべるようなそんな顔になっている。

「……それを手に入れるためにお前は町の人間に殴られたのだろう。お前はそれを自分のものにする代償を払ったのだ。私のものではない」
「あ…ぅ?」

 冷たい声の響きはそのままだけど、だけど……。

( 優しい…のかも、このお方は。なんだろう、この感じ…? )

 娘の凍りついた表情が解けてくる。ほんのりと温かいものが娘の身のうちをめぐり出す。。

「もう、ここへ近寄るな。私の災厄に巻き込まれれば命を落とすぞ」
「ぅうん?」
「時機私の供の者が見つけに来るだろう。それまでお前はここにはもう来るな」

 供の者、その言葉で娘はやはりあの町で馬を買った老人が、この目の前の貴人の供の者だと確信した。もともとそうは思っていたけど、あのお爺さんが町に戻ってきたらどうにかしてここに連れて来たい。でも自分は言葉を話せない。 どうしたら、ここにこの方が居るのを伝えられるだろう…、そう娘は思案しふと殺生丸が身に着けている飾り帯に目を留めた。それを凝視する様子に、殺生丸は飾り帯の美しさにこの娘の心が動いたと思ってしまった。それを片手で解くと娘の前に突き出す。常に冷静であれと言い聞かせていた自分の胸の中に、今まで感じた事のない不快さを殺生丸は感じた。

「これが欲しくば受け取れ。その代わり、もう二度とここには近付くな!!」

 びくりと娘が身を竦ませるほど、冷たく吐き捨てるその言葉。
 娘の無償の好意にいつにない気持ちが湧きかけたが、それも所詮は物品目当てと思ってしまえばその反動もあり、なお冷たさが増す。帯を投げ付けるように娘に与え、何者も拒絶する鋭利な気配で娘を突き放す。娘はびくびくしながらもその帯を手にすると、また山道を町へと向かって駈けて行った。

 その様子に、人間などどんなに幼くても計算高い欲深い生き物だと思わずにはいられない。自分も含め、そんな人間である事に心底殺生丸は憂いていた。みすぼらしさの中、宝石のような心を持った娘の本当の想いなどに気付きもしないで。

( じろじろ見ちゃったから、きっとご気分を悪くされたんだろうな。仕方がないや、こんなに薄汚いみっともない娘が側に居たら、気持ち悪くなるよね。でもこれであのお爺さんにこの帯を見せれば、きっとこの方の居場所を聞いてくるよね? それであたしが案内してあげれば、それで本当に終わりだよね )

 二度と近付くなと言われたけど、あのお爺さんを案内するのは自分の役目だと娘は思った。嫌われているから、また冷たい視線と言葉を投げられても仕方が無い。そんなのは当たり前、今までだってゴミか虫けらのようにしか扱われなかったのだから。あの人がここを去れば、またいつものような毎日に戻るだけだから……。

 胸がなぜか、痛くて苦しいような気がした。

 早馬で都に戻った邪見、残った見張りを引きつけ何をか企んでいる琥珀。そこにこの娘が引き寄せられるように、あの帯を手に山の中の道を走っていた。走るたびに娘の瞳には薄っすらと涙が滲み、それでもちゃんと自分の役目を果たすんだという健気さがきゅっと引き締められた口元に現れていた。



【4へ続く】   

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