【 月華覇伝 1 】
隙の無い身のこなし、長身の青年の眸に映る国境沿いの風景は、荒涼たる様を呈していた。遠くに天山山脈を望み、草木もまばらな乾いた大地。かつての戦乱の痕が未だ癒えることなく、あたりの景色を抉っている。
そんな土地でも、いやそんな土地だからこそ行き場の無い難民のような者達が吹き溜まって住み着いていた。家らしい家もなく田畑を作った跡もあるが、焼け落ち荒れ果てている。戦乱で焼け落ちたのではなく、ここに住み着こうとした農民からならず者が収穫前か、収穫後にその田畑の持ち主の命ともども奪ったのだろう。そこだけではなく、その辺り一帯がそんな様相を見せている。その隣の放置された田畑を囲む竹垣には、時がたって黒ずんだ血糊が着いていた。農民らしき男が力なく地面に座り込み、虚ろな眼差しでただ茫洋と辺りを見ていた。時折ゴミのような物を口にしては、深い絶望の淵に沈んでゆく。
国境と言ってももともとの国境ではない。前国王が存命中に武力統合した敵国のその辺境。王都のある本国に接している地域はそれなりに馴染んできた感もあるが、このあたりまで来ると旧体制の名残が燻っている感じがある。併合される前からこの辺りは、切り捨てられたきた土地であった。
ほとんど作物が取れないことから農民が住むには地獄のような土地。しかし、そんな荒れ果てた大地の底には鉄や銅などの武器を作るのに重要な資源が埋まっている事を知っていた前統治者によって、この辺りは使い殺し用の流刑地として扱われてきた。
巨大な利権を生み出していた土地。狛與国王が平定した後、この土地はそこに住んでいた農民に開放されたのだが、今でもその当時うまい汁をすすっていた寄生虫どもが徘徊している。おりあらば、閉鎖された鉱山を奪い、また元のようにと考えている輩も多い。このきなくさい臭いが消えないうちは、国を平定したとはいえないだろう。まだ大国としての『狛與』は道半ばである。
「……ここは辺境の地域でも特に治安の悪い所です。あまり長居される事はなさいませぬよう」
その青年の傍らには一人の少年。まだ年少ながら鎖鎌の名手との呼び声も高い侍従。武人としての評価の高さに反し、その性格はとても穏やかで腰の低いものであった。その侍従の姉も、また武道の達人。今ではほとんど主のいない後宮の警護主任を務めている。
「……それは、姉からの命か? それとも朴夫人の言葉か」
「殺生丸様は、王となられるお方でございます。一国民としての、私の言葉です」
まるで姉や朴夫人の使いっ走りのように言われて少年武人、琥珀は少し憤慨した。殺生丸の武人としての腕前は、今では国内並ぶものは無い。それだけに琥珀も武人の端くれとして、少しはそう殺生丸に見てもらいたいという気持ちがあった。自分の主であり未来の国王に、大いなる尊敬と憧れとそれとほんの少し芽生え始めた『男』としての矜持のようなものが入り混じった心境を抱いていた。
「荒れた地だな。かえって私に似合いかもしれぬ」
そう呟いた殺生丸の眸にも、どこか荒んだと言うよりも凄愴の気が揺らめいている。狛與の第一皇子である殺生丸。その武人としての評価はまた別の尊称をも彼に与えていた。
武神、あるいは闘神と。
ただしそれは、『破壊神』・『殺戮神』としての意味合いも持っていた。生まれながらに王となるべく生まれ、幼くして王位につくことになった。未だ『皇子』と名乗っているのは、殺生丸自身まだ納得していないからだった。
『王』となる事に、どれだけの意味があるのか?
『王』たるとは、どういう事なのか?
偉大な父母の恩恵も、幼い殺生丸にはあまりにも重圧過ぎた。加えて幼い故に、何度も狙われたその命。いつも笑顔を見せて世話をしてくれていた侍女や学ぶ事を教えてくれた教師や、武術指南役の中にも暗殺者は紛れ込んでいた。
殺生丸を葬る事で利益を得る者…、母の国の人間からでさえ、殺生丸は命を狙われるのである。殺生丸が亡き者になれば、当然にして狛與王妃である香麗国王が二国を統治して然るべきとの論を押すものも多い。もちろん、そんな事を国王にして殺生丸の生母の前で言おうものなら、四肢を車裂きの刑に処されても誰も国王を非難できないだろう。
そして現在、一番執拗に殺生丸の命を狙っているのは、今は亡き公妃の国の残党からであった。前国王・闘牙とこの公妃との間に生まれた第二皇子・犬夜叉を立てて、祖国復興を願う者達。
血の繋がり故に、その忌まわしさを幼い時から肌を切られるような鋭利さで感じてきた殺生丸は、いつしか心を凍てつかせたような性格になっていた。己にとって敵と判断すれば、完膚無きまでに叩きのめし、死に至らしめる。周りの人間など、とるにならぬ虫けらのようなもの。己が己であるために、貪欲なまでに『強さ』を求めるような性格になっていた。
己の宮殿内でさえ、心を癒せる場所は無い。仕える人間が多いほど、危険因子も多く紛れ込む。無数にある宮殿の部屋のどこかに、いや直ぐ自分の隣の部屋にさえ刺客は潜んでいるかもしれないのだ。
殺生丸はいつしかそう己の状況を判断した時から、『眠る』と言う行為すら控えるようになった。人間であれば眠らずには生きては行けない。それでも、その生存に必要な時間でさえ最低限に削り、常に神経を鋭敏に研ぎ澄ませていた。他にも人間の欲として上げられる『食』も毒殺の可能性を考え、よほど信用できるものしか口にせず、足りない栄養はこれまた父の代から使えている仙人の薬老毒仙の手になる仙薬で補っていた。そのせいで、ほとんど宮廷内では食事をとらない有様。残るもう一つの欲も ――――
殺生丸に最初の側女が贈られて来たのは、殺生丸が十三の年だった。贈ってきた相手は母の国の重臣にして、何かとこの国の事について母に進言している煩い男だった。その男が贈って来たのは他の誰でもない、その男の実の娘。殺生丸よりも少し年上の、なかなかに美しい娘であった。母の国にいれば、それ相応の身分の家臣の令夫人に納まってもよさそうな家柄と美貌と賢さを持っていた。
それが時期国王ではあるが、まだ十三歳の殺生丸の元に側女として入って来た理由はただ一つ。
この後、自分が正妃になろうがならないだろうが、他のどんな女よりも先に狛與の後継者を生まんが為。それが意味するのは ――――
( ふ…ん。狡賢い狸と狐だな。私の血を引く子があれば、いつこの私を亡き者にしても事は上手く運ぶと言う段取りか )
あわよくば、その娘の産んだ子を立てて第二皇子である犬夜叉一派を押さえ込み、自分は国母の父としてこの国を支配しようという腹だろう。
( それには、私がまだ子どもであるうちに女漬けにしようという薄汚い企み。だが、そうは行かぬ )
既に殺生丸は齢十三にして、愛欲の地獄も覗かねばならなかった。贈られた娘が「その手」の教育を施された娘である事は、その仕草立ち居振る舞いに現れていた。狙った男を落とす為の手練手管、その為に磨いた美貌や艶かしい肢体。甘い声や蕩けそうな笑顔。並みの男であれば、すぐにのぼせ上がってしまうだろう。
煩わしくて、何かと理由をつけてはその娘に合うのを避けていた殺生丸だが、それを不服としたその娘の父親がある事無い事言い出して、それもまた煩わしくなってきた。放っておけば、母の国とこの国との国交にも差し障りが出てきそうな雲行きになってきたため、いやいや殺生丸は態度を決めた。
後宮にあてがったその娘の房を訪ねた時の、娘の娼婦のような笑み。どんな男も自分の美貌と躰で堕せぬ事はないと言う自信に溢れていた。ましてや女の事など知らぬ子ども相手では、最初から勝負は見えているとどこか嵩にかかったような風でもあった。
「ああ、嬉しい! ようやく訪ねてくださったのですね、殺生丸様」
「…………………」
媚びたような、その甘ったるい声。良く出来た作り笑顔。返す言葉もなく黙っていると、何を勘違いしたのか娘は淫蕩な光を瞳に浮かべ、しな垂れかかってきた。
「大丈夫ですわ、殺生丸様。誰にも『最初』が御座います。私がこの身をもって『女』というものをお教え致しますわ」
勝ち誇った笑みを浮かべ、殺生丸の手を取ると自分の豊満な乳房に触れさせる。それが殺生丸の逆鱗に触れた。もともとまったく気乗りのしない訪れ、そんな殺生丸の前で自分が優位なように振舞ったその娘の愚かしさ。
殺生丸は表情も変えず、娘の柔らかな乳房に爪を立てた。渾身の力を込めて、爪で滑らかで薄い皮膚を引き裂くように。
「い、痛い! 痛いですっ!! 殺生丸様!!」
思わぬ激痛に娘が身を翻し、うずくまると両手で自分の胸を庇った。間を置き、息を整えると先程よりも少しこわばった笑顔で殺生丸に声をかけた。
「…初めてで加減がお判りにならなかったのですね。殺生丸様のお気持ちも判りますが、あのように強く掴み締められては痛うございます。もっと、優しく――― 」
「黙れ」
なおも言い続けようとした娘の声を遮り、殺生丸は上から見下ろすようにその娘の顔を見た。まだ子どもと侮っていた娘の体に、初めて言い知れぬ震えが襲う。
「殺生丸様……」
「私は誰の指図も受けぬ。お前をどう扱おうと、私の勝手。今まで待たせた分、存分に付き合ってもらおう」
びくっと、娘はその様子に気圧された。年少とは言え、その美貌や覇気は両国王譲り。それが今、怒りを伴って娘に向けられていた。必要であれば閨で男の寝首を掻く事も厭わぬような閨房術を仕込まれた娘が、まるで獅子に睨まれた鼠のようにその身を硬くして細かく震えている。
そんな娘の様子に一切構わず、胸元に腕を伸ばすと娘の纏っていた薄絹の夜衣を引き裂き、裸に剥いた。恐怖で後ずさろうとする娘の髪を鷲づかみ引き倒すと、その上に圧し掛かっていった。
この場でも、『勝つ』事しか考えない殺生丸。相手の娘がどんな事になろうと激しく責め上げ、自分の気が済むまで陵辱し続けた。
子どもであって子どもでない ――――
そんな生き方しか出来なかった、許されなかった。どこかでそんな自分の境遇への腹立たしさもあったのだろう。 怒りに任せ一晩中責め続け、相手の娘が半死半生になったところで襤褸のように放り出した。とても閨事の痕とは思えない酷い有様。全身の痣や生傷もだが、疾うに散らした筈の初花を思わせるような鮮やかさで、娘の下腹は彩られていた。
たった一晩の性交で娘は体を壊してしまい、早々に後宮をあとにした。その夜の恐ろしさが身にしみたのか、何をされたかは誰にも語ろうとしなかったと言う。それからも何人もの女たちが後宮に送られてきたが、皆最初の交接で手酷い目に合い、本来なら主たる殺生丸の寵を争う場である後宮で、殺生丸が姿を見せるとどの女たちも息を潜め自分の所へ足を止めることがないようにと、祈るようにすらなっていた。
『強さ』を求めるが故に、ますます孤独になってゆく殺生丸。そんな後宮も宮廷も殺生丸にとっては煩わしく、息苦しいもの。折を見ては城を出、漂泊のままに辺境を流離う事を好むようになっていた。
まだまだ国としては治まりきってはいない国内。決して身分がわかるような身なりではないにも関わらず、あたり構わず放射される殺気のようなものに引き寄せられるのか、同じような気を持つ者とよく立ち会う事になる。
時には一人と、時には多勢と。
そのどんな時でも殺生丸の剣技が劣る事はなく、疾風のように剣が舞ったあとには鮮やかに切り捨てられた無法者や暴漢の死体が転がっているのだ。この頃ではむしろ殺生丸は女を抱くよりは、こうして血腥い修羅場で剣を振るっている事の方が快感だった。そんな殺生丸の振る舞いを見て、密かに国内にも不穏な噂が流れ始めていた。つまり ――――
このまま殺生丸が国王としてこの国に治め始めたら、戦乱に明け暮れる事になるのではないか? 王の機嫌を損ねた臣下はことごとく手打ちになるのでは…。それは先の闘牙王が自分の国の近隣諸国の悪政を見かねて兵を挙げ、諸国を併合平定してきた事を無にする事でもあった。
狂王の恐怖政治 ――――
どこかでその言葉が一人歩きを始めていた。本当の殺生丸の姿を知る者は、ほんの僅か。その者達の言葉だけではもう取り消せないほどに、『その姿』が確立しつつあった。
* * * * * * * * * * *
そんな殺生丸が見ている辺境の地に住まう一人の少女。
戦乱に追われ、家族と共にこの地に流れ着いた。農民だった父親と共に少女もその家族も一生懸命にこのやせた土地を耕し遠くの水場から水を運び、どうにか実りの季節を迎えた時にその実りと共に少女は家族の命まで奪われた。
いつもより遅くなった水汲みの帰り、帰り着いた時そこには物言わぬ死体になった家族の姿と、強奪され焼き払われた畑を少女は見た。
まだ強奪者はそこにいて、少女にも凶刃を向けてきた。悲鳴を上げる事もできず、動けなくなった少女を助けたのは虫の息の母親。娘を庇い、息絶える寸前のその怖ろしい形相で強奪者を射竦めた。
強奪者が逃げて行ったあと、その母親は残された娘に言いつけた。何があってもしっかり生きて行けと。父や母、死んだ兄弟の分までも。生きてゆく事が大事なのだと、死んだように生きる事があっても、倫理(みち)を外さぬ生き方をしていれば必ず報われるからと。
大きな黒目がちの瞳から涙を溢れさせ、娘は母親の最後の言葉を一音余さず聞き取ろうとした。声もなく、ひたすらに。この時娘は、自分の声も無くしていた。
娘が家族を無くしてから、三・四年が経った。母に言われたとおり、何が何でも生き抜いてきた。本当なら自分も母達の元に行った方がどれだけ楽かと思う事もいっぱいあったが、それでもあの怖ろしいほどに自分が生きる事を望んでくれた母の顔を思い出すと、それは出来なかった。楽をしたいために自ら死を選んだりしたら、あの母にどれだけ叱られるか、いや、死んでから母どころか家族の誰にも会えないまま一人ぼっちになるかもしれない。その事の方がよほど怖ろしかった。
あの時五歳になるかならないかの娘に、この荒れ果てた辺境で生きる為の糧を得る事は容易ではなかった。出来る仕事らしい仕事もなれば、赤の他人を養うほどの余裕はここの住人にはない。ましてやあの時の恐怖で声を失った娘でもある。誰の眼にも、使い道の無いゴミのような存在になっていた。だから娘は、この荒地でも逞しく生き抜く獣になろうと思った。鼠でもいい、野良猫でも山犬でもいい。どんなに罵られ足蹴にされても、そんな動物達は生きているものが勝ちだと知っている。
ある所から盗むのは、生きてゆく為。
野に住む獣達がそうするように、自分も生きてゆく為にそうする。ただこの娘が野蛮な獣と違う所は、倫理をわきまえているところ。自分が生きてゆくのに最低必要な分だけ、盗んでもそれが盗まれた者の死に繋がらない分だけを盗む。相手を殺すような『生』は望んではいなかった。
辺境の地であっても、人が住んでいるからには何かの商的交流は行われる。また治安の悪さから、そんな場所を求めて流れて来る者も。ある程度人が集まれば、その人間を相手にした商売をする者が出てくる。その娘が狙うのは、そんな所だった。
「あっ、こんちくしょう!! また、ゴミ箱を漁りやがって!」
娘がこっそりと盗人宿の飯場の裏に回り込み、音を立てないように物色していると宿の主人が怒鳴りつけてきた。娘はゴミ箱を主人の足元目掛けて投げつけると、貂(テン)のようなすばしっこさであっという間に姿を隠してしまう。投げつけられたゴミ箱にけつまづき、派手な音を立てて転んだ宿の主人を、客の盗人どもがはやし立てる。これはもうここでの日常茶飯な出来事、客には娯楽にすらなっていた。
暗がりに逃げ込んだ娘が、今日の獲物を懐から取り出す。ほんの少し肉がついた骨が何本かと、腐りかけた野菜の切れ端。今日一番の獲物は、床に落ちたのかほとんど手付かずの握り飯だった。人間である証明の様な言葉を無くした娘はその代り、この過酷な状況で野生の獣のような身のこなしとある種の鋭さ、それから本能のような勘の良さを磨いていた。
( えへへ、今日はついてたな。久しぶりのごちそうだ! )
娘は手に入れた食い物を、美味そうに口に運んだ。
時にはそんな娘に優しい言葉をかけて、食い物を恵んでやろうとするものが居ない訳でもない。優しい声、優しそうな笑顔で娘を手招きして食べ物を恵んでくれた旅の年増女もいた。
「可哀想だねぇ、こんなに小さいのに親兄弟も死んじまって、おまけに声まで出ないなんてねぇ」
「…………………」
「どうだい? あたしと一緒にこないかい? あたしの店の下働きでもしてくれたら、飯は食わせてやるよ」
店先に座って猫なで声でそう言いながら笑いかけた顔がものすごく嫌なものに見えたのか、娘は食い物だけひったくるとその場から駈け去った。
「ほら見ろ! あの娘、あんななりをしていても、ちゃぁぁぁ〜と『人』を見る目はあるんだぜ? お前が若い娘を食い物している淫売宿のやり手婆ぁだって勘付いてるのさ」
「ふん、食い物で手なづけて少し太らせてから身奇麗にして店に出そうかと思ったのにさ。どんな事をされても声を出せない娘なら、店でも扱いやすいだろ?」
「バカか、お前ぇ? 悲鳴にしろあえぎ声にしろ、『声』があるからいいんじゃねーか!!」
「そんなこたぁ、判ってる! だけどあたしの店の上得意にちょっとアレな客がいてさ。この客が店に上がると、他の客や店の娼妓が嫌がるんだよ。愛敵は一晩限りの使い捨ての娘でいいんだけど、その娘の上げる声が、ね……」
「はは〜ん、そう言う訳か。そりゃ、隣の部屋で今にも責め殺される娘の上げる断末魔を聞かされりゃ、大抵の男は萎えるだろうな」
「ああ、そう言うこった。あ〜あ、どこかにそんな娘がいないもんかね」
「声が出ない娘がいいなら、あんなやせっぽっちな薄汚い娘よりそこらの娘を引っさらって、喉潰しゃいいじゃねーか」
「そりゃ、勿体無いだろっっ!? その客好みが煩くてさ、やっぱりある程度は見られる娘じゃないとだめなんだ。それなのに、一晩で使い捨てだろ? 普通の娼妓になるような娘じゃ、店としてもあてがいたくないんだ」
年増女は愚痴りながら、手の仕草で酒を注文する。
「あの娘、磨きゃ良い玉になるよ。だけど、娼妓向きの娘じゃない。そう、我の強い獣みたいな娘だからね、店に置きゃ必ず騒ぎを起こす」
「へぇ、そんなものかね。わしにしたら、ちょろちょろとうるさい溝鼠みたいなもんだがな」
自分が逃げたあと、そんな会話が続いていたことなどこの娘は知らない。
( あ〜あ、美味かった! いつもこうだといいのにな )
今日の獲物を綺麗に食べ上げた娘の眼に、この町では見慣れない者の姿が映った。こんなごろつきの町にも、時々場違いな旅人が通りかかる事がある。そう、どこか油断のあるカモになりそうな旅人。腰に弁当でも持っていればそれを狙い、懐が緩そうなら財布を抜いて少しばかりの銭を貰う。
この娘は獣のような暮らしをしていても、決して人間のように無駄な苦痛を他人に与えようとはしなかった。取られて困りそうな者の弁当や銭なら、喉から手が出るほど欲しくても目を逸らす。自分がそうされた時の辛さを知っているから。
「様子見をと思って入った町じゃが、これはまたひどい所じゃ。こんな所には、とてもお連れ出来んわい!」
小柄で貧相、金壷眼の老人。見た所、少なくとも悪人ではなさそうだけど、普通の人とも違うようにその娘には見えた。腰にはこの老人の弁当と思われる包み、小柄でも血色良さそうな元気な老人である。多分一食抜いたくらい、そう堪えることはないだろうと娘は判断した。
娘の眸がギラリと光る。次の獲物はこの旅の老人。
すれ違い様、腰の包みを盗もうと駆け出そうとした瞬間、娘の鋭い勘がその老人の背後を気取られぬように追う怪しい人影を捉えた。野生の本能に近いものが、娘にこの老人に関わるなと警鐘を鳴らしている。もう一度、物陰に潜みその老人をやり過ごす。
「うむ、ここはやり過ごされるよう、西の山辺で待たれている殺生丸様にお伝えしよう」
ぶつぶつと口の中で呟きながら、その老人は町の外れに向かった。その後を、この町のどんな悪党よりも険悪な雰囲気を持った男達が通ってゆく。娘には、なにかきな臭いものが燻っているように感じられた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
娘は今日の収穫に満足して、町外れと言うよりはもう野中の穴倉のような自分の住まいに戻った。西の山辺の入り口近くにある娘の住まい。もともとあった横穴を自分の手でもう少し掘り進め、自分の住まいとしていた。土のままの床には枯れ草を敷き、出入り口は藪を石で止めて戸口の代わりにしていた。本当に野鼠のような娘である。ここに帰ってくれば後はもう寝るしかない。枯れ草の上に横になり、ふっと娘は気がついた。
( あ…れ? 枯れ草が湿っぽいな。久しぶりに雨が降るかも )
うとうととしながら、そんな事を思う。夜中すぎ、娘は大きな雷鳴を聞いた。どおぉおおんという、地響きで土の床が揺れた。寝入っていたせいか稲光の激しい光は気付かなかったが。不思議な事に、その雷はただ一度で収まった。その後で、娘が予感したとおり雨が降り出した。
不覚であった。
常に自分の周囲に対し警戒怠り無い過ごしてきたのに、こんなところでこんな罠に嵌まろうとは。余りに戻らぬ従僕である邪見を琥珀に迎えに行くよう出したあとの事。このあたりの猟師らしき一団と行きあった。集団で山狩りをする。もしここで一晩明かされるのなら、手負いの獲物が飛び出してくることもあろう。迷惑をかけるかも知れぬ故、これを渡しておこうと言って、目付きの鋭い長らしき男が殺生丸に塗り薬のようなものを渡した。
「これはなんだ?」
「われら猟師秘伝の傷薬。手負いの獣は常ならぬ力で暴れるもの。普段おとなしい動物でも牙を剥き、爪を立てる。もしそれで手傷を負われたら、それで手当てをされるがよかろう」
「ほう。これが『薬』ではなく『毒』かも知れぬのに、この私が受け取るとでも」
明らかに挑発的な殺生丸の物言いに、その長らしき男は自分の腕を猟刀ですっと切り付けた。皮一枚より少し深く身を切りつけたのか、猟刀を外した途端、その刃に長の腕の血がついて滴り落ちた。その傷に、長は殺生丸に渡した傷薬を塗りつけた。半透明の薄黄色の塗り薬と流した血の色が混じって、落日のような色合いになっている。塗ってしばらくした後、長はその傷口を腰にした布で拭ってみせた。
腕には赤い線が一本引かれたような感じで、もう出血は止まっていた。
「血止め・化膿止め・痛み止め。傷口を塞ぐ効用もある。滅多な事では他人には渡さぬ妙薬だ」
「確かに、毒ではないようだな。だが、なぜ私に?」
「……貴方様はご身分を隠されておいでのようだが、それなりのお方とお見受けいたした。それ故に、失礼のないように振舞ったまでの事」
「そうか、ならばもう行け」
男達はその薬を殺生丸に渡し、山の中に入って行った。
それからしばらくして、山の中が騒がしくなる。獣の声や走る足音、声や足音を潜めたあの男たちの気配。その騒がしさやこちらに迫ってくるように感じた。
「場所を変えるか……」
そう呟き、腰を上げた殺生丸の目の前に飛び込んできた獣。あまり見たことの無い種類の大型の犬。その犬の背に ――――
嗅いだことの無い、不吉な臭い。その背に括り付けられたモノに繋がった紐のようなものの先がぱちぱちと燃えている。そんな犬が何匹も殺生丸目掛けては走り寄ってくるのだ。身の危険を感じ殺生丸は、その場から走り出した。その殺生丸を、犬達は一糸乱れる事無く追いかけてくる。まるで殺生丸と犬たちの間に見えない綱でもあるように。犬たちの背中につけられたものから延びている紐の長さは段々短くなっている。長年培ってきた勘が、最大級の危険を殺生丸に告げている。
「くそ! 嵌められたか!!」
今までも、殺生丸を暗殺しようと様々な刺客が送り込まれた。毒薬使いもいれば、剣の達人もいた。体術の名人や卑怯にも焼き討ちをかけようとした者も。そのいずれにも負けた事の無い殺生丸であったが、こんな動物の使い方をするなどとは予想もしなかった。
飛び掛ってきた犬の一頭を素早く切り捨てる。どの犬もまるで狂犬のように興奮し、凶暴さを露わにしている。じりじりと殺生丸は崖っぷちにまで追い詰められていた。ぽつりと雨の一粒が落ちてきた。ますます状況が悪くなりそうだと殺生丸は思う。自分を追ってきた犬の数は二十頭余り。自分の後ろは崖、前は狂犬のような犬の大群。血路を開くには、この犬達をことごとく葬り去るか、自分がこの崖を飛び降りるかのどちらか一つ。
どちらがより実現的かと言われれば、自分の腕に有り余るほどの自信がある殺生丸にとって、犬達を切り殺す方が容易いと思わせた。
「よし。ここでならば後ろを取られる事だけはなかろう。かかってくるならば、かかって来い!!」
亡き父の形見・天生牙ではなく、剛剣を鍛える事では手段を問わぬ事で悪名高い刀鍛治に自ら打たせた闘鬼神を抜き放った。その殺生丸をあざ笑うように、犬たちの後ろからあの声が響いた。
「狛與の国王にして、いまだ第一皇子である殺生丸様。貴方様の神業のような剣の腕前は存じております。どうぞ存分にその犬たち相手にその腕前を披露されるがよい。砕け散る前の、最後の舞いとなることでしょうからな」
「やはり、お前……。猟師などに身をやつしていたが、刺客か! どこの手のものだ!!」
「死に行く貴方様には必要の無い事。さぁ、その犬どもが待ちかねておりますよ。相手をしてやってください」
犬の背後から出てきたあの男は、口に笛のようなものを当て高いかすれたような音を出した。その音が犬達を刺激し、なお一層に狂い立たせる。
「おや、まだお持ちですか。あの時渡したあの薬を。実はあの薬の中に犬達を惹きつけ狂わせる香りを混ぜていたのですがね」
「 ――― !! ――― 」
「ああ、それから。もし助かりたいとお思いでしたら、今すぐにでもその犬たちの囲みを抜け出さねばならないですな。恐ろしい事が起こるまで、もうさほど猶予はありませんから」
その猶予の意味が、犬たちの背中に関係していると咄嗟に判断する。犬たちの注意を逸らせればそこに活路が見出せると、殺生丸は先ほど渡されたあの薬を崖下へと放り出した。何匹かの犬たちがそれを追って方向を変えた。隙は出来たが、その犬達の背後にはあの時猟師の一団に扮装していた刺客達が待ちかねている。迂闊にそこに飛び込むのは、虎の口の中に飛び込むようなものか。
「ああ、そろそろ……。時期を逸しましたな、殺生丸様」
「な…っ!?」
崖下で閃光が走る。それと同時に殺生丸の近くに寄って来ていた犬達の背中からも轟音と閃光が轟き渡り、その衝撃をまともに喰らう。
爆風 ―――
正史ではまだ先の事ではある。一部の者のみの秘伝として伝えられてきた古代の火薬が今、殺生丸のすぐ側で炸裂し続けていた。決して剣技では切開く事の出来ない死者の使いとして。
あの娘が聞いた雷鳴は、この音であった。
【2へ続く】
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