【 白銀の犬 9 】



 深々と底冷えのする檻の中でかごめとりんは抱き合ったまま、身動ぎもせず薄暗い通路を見つめていた。ここに連れて来られてからどのくらい時間が経ったのか? 麻酔を嗅がされて意識を無くしていた間があるので、少し時間感覚が狂ってきている。
 あまりのショックで食欲もそうわかないが、まだ攫われてから丸一日は経っては無いだろうとかごめは考えた。今がまだ夜なら、しばらくはこのままここに居られそうだとかごめは思う。あの睡骨と名乗ったニセ校医も、徹夜でりんの体を調べる事はないだろうと。

 なら、今のうちに出来るだけの事を!!

「……りんちゃん、もう一度犬笛を吹いて」
「うん、分かった」

 かごめの胸に顔を隠すように埋め、りんがそっと犬笛を吹く。もう、そうするしかこの二人には希望はなかった。本当の事を言えば、りんにしてもこの笛の音が父や兄達に届いているとは、そう信じられなかった。『常人』より鋭敏な聴覚を持っているりんでもこんな地下で、ましてやどのくらい離れているか分からないこんな場所では……。

 しかし、それを言ってしまえば、この僅かな希望の光さえ消え失せてしまう。

 りん達と同じ宿命の実験動物達が、低く物悲しく笛の音に同調する。そのお陰でりんたちは、何者かがこちらに近づいて来るのを知る事が出来た。

「ったく、うっせー犬こっろどもだ。なぁ、二・三匹叩き殺しても良いか?」
「兄貴ぃ、んな出来損ないな犬もどき殺したって、ちっとも面白かぁねーぜ? どうせなら、もっと殺り甲斐のある獲物じゃなきゃさぁ」

 こつこつと、数人の人間の足音。物悲しい鳴き声を上げていた動物達が、地底を這うような押し殺した唸り声を上げる。恨みと怒りを込めて。

「うっさいんだよ、畜生の癖にっっ!! あんまり吼えやがると、兄貴の代わりに俺がその腹、掻っ捌いてやるぜっっ! ええ、この出来損ない!!」

 一見すれば、どこかなおやかな風情もある若い男が豹変する。これがこの男の性格なのだろう、常に『切れそうな』な狂気を秘めている。女のように髪をあげ、施した薄化粧も良く似合うが、それだけに精神的な暗黒面の深そうな男だった。

「おいおい、さっき俺を止めたのは誰だっけな? 殺っていいなら、俺も混ざるぜ?」

 先の男よりは少し小柄、その代わりその存在感は限りなく大きい。この男の存在感の大きさは、判り易いほど明快な性格に起因している。つまり、常に強敵を叩き伏せてきたその自信から来るもの。難しい事を考えられるような性格でも頭でもない。この男の求めるものは、自分の中の溢れんばかりの破壊欲・殺戮欲を満たす相手だけ。より大きく、より強い相手をその手で血祭りに上げる事が、最上の喜びであり楽しみ。
 それ以外は呆れるほどに執着の無い、さっぱりとした性格でもあった。

「……静かにしろ、蛮骨・蛇骨」

 数歩先を歩いていたナラクが、場所柄も考えない二人を冷たい目で見ながら釘を刺す。

 睡骨と腹に一物持ちながら話した後、桔梗の為に用意したと言う娘を検分しようと、この地下通路に下りて来た。念の為、見張り役として暴力沙汰のリーダーでもあるこの二人を連れてきたのは、この組織を掌握しているのは自分だと、どこか確かめたかったのかもしれない。


「りんちゃん、誰か来るわ!」
「かごめお姉ちゃん……」

 りんは銀の犬笛を病衣の下に隠すと、胸元を手でぎゅっと握り小さく身を縮めた。また、あの男がりんを切り刻む為、ここに来ようとしているのか?
 りんの傷は確かに異常な速さで回復していたが、だからと言ってその切り裂かれる痛みが無いわけではないのだ。あの男はじき痛みにも慣れると言ったが、そうなるにはどのくらいりんの体は切り刻まれる事になるのだろう?
 
 いたいけな幼い少女の体に、治療の為でも何でもなく無数のメスを悦びながら入れる狂人 ―――

 かごめは思わず、りんの体を強く抱きしめた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 二人が入れられた檻の中に、通路側の薄暗い灯かりを背に受けた数人の人影が禍々しく伸び入ってくる。もともとの薄暗さもあって、かごめ達にはその人影の表情は見えない。

「へぇ〜、改めてみるとやっぱ良い女じゃんv なぁ、ナラク。こっちの女はオマケだろ? 俺のオモチャにくれよ」

 本当に、オモチャを強請る子どものような無邪気さで蛮骨がナラクに声をかける。

「へっ、どこが良い女なのかねぇ。俺の方がよっぽど美人だっつーの!! こんな小便臭い小娘なんかと遊ばなくてもさ、俺が良い気持ちにしてやるって」
「黙れ。お前ら……」

 同じ事を繰り返す二人のやり取りに、呆れた様にナラクが叱責する。
 檻のカギを開け蛮骨と蛇骨の二人にも中に入るよう指示し、ゆっくりと三人の男は身を寄せ合ってこちらを見ているかごめとりんを取り囲んだ。
 すぃ、とナラクが腰を屈め薄暗い照明の下、かごめの顔に手をかけあちらこちらと検分している。まるで陶磁器でも買うかのように。あるいは、家畜やペットの品定めのように。

「……ふん、まだまだ桔梗の方が上だな。だが…、鮮度の良さや健康体である事は間違いなさそうだ。よし ――― 」

( ……桔梗? どこかで聞いた名前だわ ) 

 かごめはその名前に気を取られ、ナラクの発した言葉の意味を取りかねていた。不気味にも聞こえる言葉を呟きながら、ナラクは立ち上がると蛮骨に言いつける。

「その娘を、ワシの部屋に連れて来い」
「へへ、あんたもやっぱりそのつもりじゃんv あんたの後でいいからさぁ、俺にも回してくれよ? なぁ」
「何?」
「何って、犯るんだろ? だからさ ―― 」

 側で男たちの会話を聞いていたかごめは、背中に冷水を浴びせられたように一瞬にして血の気が引いた。全身に鳥肌が立ち、止めようも無い震えが来る。

「相変わらず下劣な事だな。女なら誰でも良いお前とは違う。しかし、そうだな……」

 ナラクの眼が不気味に光る。

「この娘に取っては、まだその方が救いがあるかも知れんな。蛇骨、お前はその娘の様子を見てろ。そして、睡骨がその娘を弄り殺しそうになったら止めろ。いいな?」
「げぇ〜、ガキのお守りかよ。って、面白くもねぇ!」

 ここで二人、引き離されたらもう何も出来なくなると、かごめとりんは必死で男たちの手から抗おうとした。りんを庇って男たちに背を向けていたかごめの頬を、蛮骨が手加減なしに張り倒した。
 軽い脳震盪を起こしたようになって、りんを抱きしめていた腕から力が抜ける。その隙を突いて、りんの体を蛇骨がかごめから引き剥がした。

「りんちゃん!!」
「かごめお姉ちゃんっっ!!」

 手を伸ばしあう二人の指先に、蛇骨の愛用のナイフがぎらりと光る。

「あ〜んまり言う事聞かないとさぁ、俺、腹立っちゃうんだよねぇ。どうせ、あの解剖オタクな睡骨の獲物なら、腕の一本くらい切り落としてもいいんじゃな〜い?」

 すぅっと、りんの肘から下に赤い線が浮かぶ。その後から、ぷつぷつと血玉が沸いてくる。

「止めて!! もう、それ以上りんちゃんに酷い事しないでっっ!」
「そりゃ、お前次第さ。あいつ、睡骨以上に人の体を切り刻むのが好きでさ、相手が女だろうが子どもだろうが容赦しないぜ? あの子があいつになますにされるの、見てみるか? んん?」

 かごめを羽交い絞めにした蛮骨が楽しそうに、そう言葉をかける。かごめが言葉に詰まっていると、性急な性質なのか蛇骨はりんの腕のにもう一本赤い線を刻んだ。りんは恐怖で、もう声も出ないほど。

「……判ったわ。わたし、あんた達について行くから、だから… もう、りんちゃんには酷い事しないで!!」
「ふん、最初からそう言えば、あの娘も痛い目に合わずに済んだのにな」

 相変わらず冷たい眼で状況を見ながら、ナラクが先に檻の外に出た。それから蛮骨に捕らえられたかごめが檻の外に引きずり出される。最後に、茫然自失となったりんの体を檻の中の床に捨てるように放して、蛇骨が檻から出てくる。蛇骨はそのまま檻の外に居残った。

 引き離された二人を持つものは ―――


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 かごめは自分たちが入れられていたスペースのある通路から何階分か上がった一室に、どん、と突き飛ばされて放り込まれた。床に膝をついた感触では、柔らかな毛足のカーペットのようなものが敷かれているようだと感じた。室内の空気も、あの病院のような動物園のような臭いとは違い、かえって不自然なくらい匂いのない部屋だった。かごめが戸惑っているうちに、いきなり室内の照明が煌々と灯され、すっかり薄暗がりに慣れてしまったかごめの瞳を鋭く突き刺した。

「な、なんなのよ! ここはっっ!!」

 手のひらで目元を押さえながら、それでもその指の間から部屋の状況を素早く観察する。
 
 明らかに誰かの…、この場合は言うまでもなく『ナラク』のプライベートルームだと察せられる。男の私室に女が連れ込まれる、その意味は……

「なぁ、ナラク。俺もここで見学していていいのかなぁv」

 ニヤニヤしながら、蛮骨がこれから始まるだろうショーを舌なめずりしながら待っている。

「……蛮骨、お前は何を期待している? ワシがこの小娘を犯すところを待っているなら、見当違いも甚だしいな」
「なんだ、違うのかよ。じゃ、どうして自分の部屋なんかにこの娘を連れ込んだんだ?」
「明るいところで、検分する為。桔梗の疲弊したパーツと取り替えるのに、どう術式を組み立てた物かと」
「え〜、勿体無い! こんなに可愛いのに、切り刻むのかよっ!! ナラク!」
「ワシが抱きたい女はこんなものではない。その為なら ――― 」

 かごめはりんの身の上に起きている事が、わが身にも降り掛かってきた恐怖を感じていた。

「おそらく、あの時のまま長い時間を過ごしてきた桔梗の体はもう使い物にはなるまい。悔しいかな、睡骨の言うとおり」
「へー、睡骨はなんて?」
「体を切り刻むより、脳移植の方が仕上がりが綺麗だろうと。この顔を桔梗そっくりに整形して、脳を移植した方が頭部移植よりは綺麗だろうな」

 床に座り込んだかごめを『物』としてしか見ない無機質なナラクの視線に、恐怖以上の恐怖がある事をかごめは知った。

「じゃ、その桔梗とか言う女を連れて来ないとな」
「ああ、それまではこの娘を傷つける事は一切ならん。檻も別にしておけ。睡骨が調子付くと何をするか判らん」

 言いつけられた蛮骨はナラクとかごめの顔を交互に見やり、やれやれと首を振る。

「結局さ、その手術が終わったらこの娘の体を自分のモノにするんだろ? なら、今 やっても一緒じゃん」
「…………………」

 もう答える気も失せたナラクが、その術式の為の予備検査の準備を始める。そう、詳細なデーターを取るために、かごめの腕に麻酔を打ち込んだのだ。
 遠くなる意識の片隅で、かごめはナラクが口にした名前を一生懸命どこで聞いたか思い出そうとしていた。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


( ふうぅ、なんて凄い『気』なんだ。まるでこれは…… )

 弥勒はその『気』の導くままに、雑木林に張られた結界の中に飛び込んでいた。進むほどに、実体の無いはずの『気』が肌に、ひしひしと感じられるようになる。
 今やそれはまるで弥勒がまだ幼い頃、神域の森の奥にある神代の滝で滝行を積んでいた時の、肌を打つ水流のよう。
 激しく、清く、心身ともに浄化され、清浄な力が満ちてくる、あの感じ。

 そんな感慨に耽りそうになった弥勒の耳に、子犬の鳴き声が小さく聞こえた。

( コハクか!? コハクの鳴き声なら、近くに ――― )

 そう考えた時、前方から津波のような大きな波動を感じた。その波動には、明らかに怒りの色が滲んでいる。その方向へと急ぐと、不意に目の前が開けた。不自然な形で目の前に岩山が聳える。その前がこれまた不自然に開かれていて、そこに ――――

( ――― !! い、犬… なのか? でも、あれは…… )

 オフィス街を駆け抜けたコハクを追って、上った高層ビル。その屋上から天翔けた、白銀の――。
 あの時、聞こえた声は……


 ――― お前は、その場所を知っているのだな?

 では、我等を案内せよ!!


( そうか、やはりこの近くに攫われた二人は監禁されているんだな )

 雑木林の木の陰に身を潜め、その様子を伺う。弥勒の目の前には、巨大な犬型の生き物。月の光に白銀の体が煌き、夜闇の中でも黄金の眸に深遠なる存在の叡智(ひかり)を湛えて。
 だが、何故この犬…、いや狛(いぬ)達が? との疑問が弥勒の頭を掠める。攫われた二人のうちの一人は神社の娘。もしかしたら、その神社で祀られている守護神獣か何かだろうか?

 改めて、月光の元に佇むその三匹の狛達を弥勒は見つめた。

 この世のものとも思えない、その荒々しいまでの美しさ。精悍なと言うか神意に満ちたと言うか、じっと見ていると畏敬の念で体に震えが来そうだ。この三頭は親子だろうか? 兄弟だろうか? それとも…、と思っていると ―――

「親父っっ!! こんなチビ助に案内させて、こんな町外れまで来たけど、本当にここでいいのかっっ!?」

 信じられない事に、目の前の一番体格の小さな狛が『人の言葉』でそう言った。
 そしてその声は、弥勒の知っている誰かに似ていた。

「……うるさい。負け犬のように喚き立てるな」

 先の狛犬よりも年長らしい、冷ややかな声音。この声も……

( まさか…、まさかっっ!! でも、そうなら『声』が似ている訳も、あの尋常ではない『気』の訳も納得が行く ――― )

 弥勒は自分が気付いてしまった事実に衝撃を受けながらも、それ以外の結果はあり得ないと思った。気付いてしまった真実にこれからどうしたものか迷い、弥勒は動けない。

「抜け穴だな。人を隠さば人の中。攫った人間を隠すなら、いかがわしい繁華街の闇の中に引き込めば済もうが、そう出来ない場合もあるのだろう」

 落ち着いた、壮年の男の声。あの時、高層ビルの屋上で聞いた声だ。

「この姿であの街中に乗り込む事は出来ぬが、ここにあるだろう抜け穴からアジトに殴り込む事は出来るからな」

( 抜け穴…、そう言えばあの辺りは半世紀前まで軍用地だと言っていたな。市街地と郊外を結ぶ軍の秘密通路、か )

 そこまで弥勒が考えた時に、電光のように閃いた名前があった。その名は ―――

 『731石井部隊』――、戦前 細菌兵器開発の為に旧満州国で生体実験を繰り返していた悪魔の部隊。もしかしたらナラクもそのメンバーだったのかも…。そして戦後密かに地下に潜り、軍の秘密施設を隠蔽し我が物にしたのでは…?
 半世紀以上も前の悪霊が蘇った様な、禍々しい予感に息が詰まりそうになる。

 が、次の瞬間! 本当に弥勒は息が止まるかと思うほどの事態に直面する。それは ―――


「林に隠れている人間、出て来い! お前が後を付けて来ている事は判っていた!!」

 三頭の中で一番強大な狛犬が、そう弥勒に言い放った。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ―――恫喝するような声ではない。


 だが逆らう事を許さない、その絶対感。
 弥勒は、その声の主にも心当たりがあった。まだ直にあった事はないが、あの兄弟の父親であろうと。攫われた少女の、『家族』。だからこそ ―――

( 全てが繋がったな。りんとコハクが出遭った事も、何か運命的な事なのかも知れない )

 その巨大な狛の声に、弥勒は恐怖ではない畏れを感じつつ身を隠していた木立の影から、その三頭の『人で無いもの』の前に進み出た。

「弥勒っっ!!」

 気が付いていなかったのか、びっくりした様に身構えたのはこの中では一番年少らしいあの狛の反応。他の二頭は、とうに気付いてそのまま付いてくるに任せたのだ。

「……お前、やっぱり剣也、なのか…?」

 流れる、一瞬の沈黙。
 
「我らの邪魔立てをするなら、この場でお前を引き裂くも厭わぬが」

 剣也と思しき狛からの返事が返って来る前に、冷たい声でそう言い放ったのは……。

「颯生…、お前 その姿でも相変わらずだな。お前なら知っているはず。俺もまた、あの八年前の事件をも含めて、N−コネクションを追っている事を!!」
「その者は、お前の学友か?」
「学友…? 名は知っていても、友かどうかは判らぬ」

 親子と思しき二頭の会話。颯生のつれなき返答も、またらしく。

「お前も顔見知りのようだな?」

 そう声をかけながら、剣也の方にも視線を向ける。

「ああ、かごめの親友の幼馴染と聞いた。それ以上は、俺も良くは知らないが」
「……天の差配か。全てがこの一点の為に集められたかのように。弥勒、とか言ったな。お前は何を知っている?」

 やはり静かな問い掛けであった。
 答える弥勒も、すでにその包み込むような大きな『気』に取り込まれている。

「俺に判る事は、一刻も早く二人を救出しなければ、取り返しの付かない事になるという事です!!」

 闘牙の問い掛けに、そう答える弥勒。
 その足元でコハクが尚、急く様な様子を見せる。

「そんな事は判っている! だけど、ここから先はどう進めばいいっ!?」

 噛み付くような物言いは、剣也。

「おそらくここは、かつての軍の秘密施設か何かの一部です。市街地中心にあった軍司令部から秘密通路を張り巡らした地下防空壕のような物が造られていたのでしょう」
「この岩山は、人工の物だな。それを取り巻く雑木林と共に」
「ええ、ですからこの岩山のどこかに大型車両も引き込めるような出入り口があるはずです」

 その時だった!
 一斉に狛達の耳がそばだつ。コハクさえもその視線を岩山の一角に向けていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 かごめやりんが監禁されていた場所から少し離れた所に、一人の女が手鎖で壁に繋がれ監禁されていた。この二月の寒さ厳しい気候の中、女の姿は扇情的な淫らな様で。

 仕置きのステージに立たされたままの、安っぽい偽物のアクセサリーと科学繊維性のけばけばしい羽飾りを尾羽のように腰につけただけの格好。男たちに汚された痕も生々しいまま、その場に放置されていた。

 ナラクの娘、神楽 ―――

 母親はどこの誰か不明だが、父親は間違いなくあのナラクであった。母が不明なのは、神楽やその他の兄弟姉妹たち皆が、『試験管ベビー』としてこの世に誕生したからである。ナラクは自分の体に不老措置を施す際、自分の精子を冷凍保存していた。この時はまだ、『クローン技術』は然程発達してはなかったが、『試験管ベビー』での肉体の再生は十分可能。何かあった時の保険として、自分の生きた細胞を残して置く事にしたのだ。

 試験管ベビー達の母親はその時々の、健康体で正常な者であれば誰でも良かった。実際にナラク自身が交接する事は無く、簡単な外科的処置で採卵された卵子を受精させたものを人工子宮で育てるからだ。神楽は例外的に素のままで今まで対処されてきたが、同じような境遇の兄弟姉妹の中には胎児の時にテロメア操作をされ、著しく成長の遅い者も居る。また卵細胞が四分割された原始卵細胞時にそれぞれ独立させられ、人工的な四つ子として生育させられた者も居た。この技術はその後、進歩したクローン技術と複合され、より本体に適合する肉体の量産を可能にした。

 ナラクは他人の生体を使った移植手術の後遺症である拒絶反応や、急激な機能低下に悩まされていたが、これらの研究が進み適応障害を起こさない移植手術が出来るようになった事で、ほぼ人工的ではあるが『不老不死』を手に入れたと言って過言ではなかった。

 神楽に何の操作や処置も施されなかったのは、このクローン生産の母体となる卵子を採取する為であった。元々半分は自分の遺伝子を持つ『娘』の卵細胞から、神楽としての遺伝情報を抜き取り自分のオリジナルの遺伝情報を注入する。これほど情報の着床率のよい卵細胞もないだろう。

 ……間接的に、実の父親に犯され続けている神楽でもあった。


「いよいよあたしも年貢の納め時かな……」

 小手高く、壁に繋がれた両手からは血の気が失せ痺れの後の麻痺が襲ってきていた。このままだと、この両腕は使い物にならなくなるかもしれない。
 視線を落とし、複数の男たちに汚された自分の下肢を見る。滑らかな内腿にべたつく忌まわしい男たちの獣欲の残滓。今まではナラクのパーツを作る母体卵子を採取する為、どんなに逆らってもここまで酷い目に合った事はなかった。神楽自身ではなく、その体だけが今までナラクにとって重要なものであった。だからこそ、四魂の珠のパワーを最大限に引き出すシステムの生体キーにしたりしていたのだ。

「神楽…、食事……」

 こんな場所には相応しくない、少女の声。その声の方向を見れば、まだ十歳になるかならずの少女が簡素な食事をトレーに乗せて立っている。その姿は、アルビノ(白子)のような真白い姿。少女の肌はビスキュ・ドールのように青白く、可愛い顔立ちを縁取る髪は老婆のように真っ白、眸は赤い。
 その少女は、神楽の双子の姉・神無。ある意味『素』のまま生育されてきた神楽と異なり、この神無は胎児の頃から、ナラクの手で改造されてきた。知性を伸ばすのに不必要な感情を排除する為に早い時期からロボトミー処置され、テロメアも操作された。自分の片腕となる、知性高く逆らう事の無い分身として。この少女は、赤ん坊の頃から泣く事も笑う事のなかったのだ。見た目は子どもどころかほんの幼女なのに、その異常に高い知性・知能ゆえに見る者に言いようの無い恐ろしさを与える。

「神無、か。いいよ、食う気がしねぇから下げてくれ」
「ナラク、まだ神楽を生かしておけと……」
「へぇぇ、こんなあたしでもまだ使い道があるのかね?」
「神楽がした事、責任 取らせる ――― 」

 ちっと、神楽が眉を顰めた。あっさりとは死なせてくれそうにない。自分のやった事を考えれば、どれだけ身の毛のよだつ事をされるのか ―――

「……無駄な、事。どうして、逃げた?」
「あ? ああ…。無駄、かぁ…。そう あたしがここに居る事も大きな無駄ってもんだろうねぇ。本当なら、この世に存るはずのない人間だからさ。神無、あんたはそう考えた事はないのかい?」
「……………………」
「ふん、こういう質問こそ、無駄ってもんだね。何もかも、嫌になっちまったんだよ! 自分がここに在る事も、この状況も!! 全てをぶっ壊してやりたかった」
「だから、システムを壊した…。エネルギーの源である四魂の珠を砕いて…?」

 神無と話している内に、あのどうにかしなくてはと言う思いに駆られた衝動が、ふつふつとまた湧き上がってくる。そう、まだ一縷の希望は残っていたのだ。

「いつまでも子どものあんたには判らないだろう。ナラクのパーツを確保するためにあたしが『女』として、どれほどの屈辱を受け穢されてきたかなんてのはねっっ!!」
「神楽…」
「『命』をおもちゃのように扱うあのシステムの要は、あの四魂の珠だ。本当ならそうはならないはずのものが、ナラクの思惑通りに生成されてゆくんだ」

 もともとは、人々の安寧・健康長寿の為の願い石であった『四魂の珠』。いつしかそれは人々の欲に左右される、禍々しいものと成り果てていた。ナラクの創り上げた生命生成機関の中核に据えられた四魂の珠は、ナラクの願いを聞き入れ普通なら繰り返す事で淘汰されるはずのクローンを原形質を保ったまま生産しつづけ、また『人間』を造り変える実験でもその力を発揮した。

 ただしこの実験は原形質をそのままコピーする技術とは大きく異なり、人間としての原形質を残したまま不活性化して眠らせ、それに刷り合せた他の動物の原形質を注入同化させ、その動物の原形質を活性化させる事で、獣人化現象を起こさせるというものであった。その段階でアポトーシス・テロメア作用のどちらも自由にコントロール出来る能力を開発させる。

 そうして、造られたのが蛮骨達が『出来損ないの犬ども』と言っていた存在だったのだ。正確には犬だけではなく、ありとあらゆる動物との摺り合わせは行われた。犬・狼・蛇・豚・猫などなど。
それぞれの原形質を遺伝子レベルで同化出来る物に造り替え、それを実験体の体に戻すと言う方法で。最初は、一斉に置き換えを行ったため元の人間の体がその激変に耐えられず、変換の途中で死亡する結果が続いた。

 それが、いつか風守刑事が桔梗に見せたあの数枚の写真。

「ナラクが神楽を鍵にしたのは、四魂の珠と波長を合わせる為……」
「そう、あいつは自分の事しか考えてないからね。まずは、自分の体のパーツを確保しようとしたって所さ。そのためにはクローンの母体細胞であるあたしの体の情報はいつでも更新されている必要があったのさ」
「神楽が取る、責任は……?」
「多分、バラされるだろうね。今更、ナラクのパーツとしてあいつの体の中に組み込まれる事はないだろうけど、次の実験のモルモットあたりにさ」

 囚人に食事を持って行ったにしては、少し時間が掛かり過ぎたと思ったのだろう。まだ、話は終わってはいないのに、神無は手付かずのトレーを抱えなおすと神楽に背を向けた。

「感情の無いあんたに言っても、それこそ無駄だけどさっっ!! あたしが死んだ後は、あんたがあたしの代わりになるかも知れないからね!」

 その言葉への返事は、なかった。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 神無が行ってしまい、前よりもひそとした感触に辺りは包まれる。

「そうだよね、あたしがした事もあたしが生きてきた事も無駄かもしれないけど、だけど、ねぇ 琥珀。あんたを逃がした事だけは、無駄じゃなかった」

 コハク、琥珀。

 元は人間の少年だった琥珀。ナラクと睡骨が開発した人体の変成技術の実験の、唯一の成功例。その成功の裏には、神楽の琥珀への思いやりがあった。琥珀は神楽の目にはとても素直な、それこそ『弟』のように映っていた。連れてこられたのは琥珀が五歳の頃、神楽は十二歳。自分の周りには、まともな人間が誰一人としていなかっただけに、琥珀の存在は唯一自分と感覚を通じ合える相手だった。
 ナラクと睡骨は今までの失敗を検討してみて、時間は掛かるが子どもの成長に合わせた変成方法を試みようとしていた。この時点で、例えこの方法でナラクの欲している『不老不死』な体を作り出せたとしても、それが自分の物にならないと判っていて研究を止める事をしないところが、この二人の狂信的な所でもあった。

 琥珀の他にも何人かの実験体の少年少女がいた。実験の経過に従い、ある者はやはり変成に適応できず死亡し、またある者は中途半端な状態で変成が終了し、またはその知能・知性まで変成された元の獣並みに低下させてしまう者も出た。並べて、短命でもある人工の『人でも獣でもないモノ』達。

 神楽がシステムの『鍵』であった事、四魂の珠は人の『想い』に反応する事…、それらの偶然が六年の月日をかけてコハクと言う変成動物を誕生させる結果となったのである。全て失敗に終わる事を見越していたナラク達にとっては、これは異例中の異例な結果。

 そして……

( 全て失敗という事ならこのプロジェクトは中止させるつもりだったが、こうした成功例が出てしまうと、やはり先に進まないとな )
( そうですね。クローン培養の為の細胞を採取したら、この実験体589と通常の犬との違いを調べるため、徹底的に解剖してみましょう )

 その一言が、神楽にあの行動を起こさせたのだ。
 実験を継続させないために四魂の珠を砕き欠片を持ち去り、システムそのものにロックをかける。コハクをはじめとする可哀相な実験動物たちを逃がし、自分もまた ―――

 逃がしたコハクが別れの時の約束を果たしてくれたらとも思う。だけどそんな危険な事はせずに、例え犬の姿のままでも、無事生き延びて欲しいとも願う。

 神楽の心も、揺れていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「今のはっっ!?」
「……間違いない。りんの犬笛の音だ」

 弥勒の耳には聞こえないその音を聞き取り、その音の方向へ視線を向けた狛達とコハク。狛も犬同様、臭覚・聴覚ともに優れる。優れるが颯生が途中まで追った二人の臭跡も人ごみの中に紛れ、さらに地下の研究施設の薬品臭に塗れてしまい、索臭出来なくなっていたのがここに来てこの笛の音。
 自然の岩山に見せかけているが、人工の物で中にそれなりの施設への通路があるのなら当然空気の換気は行われている。その僅かな気の流れに乗って届いた笛の音だった。

 音が聞こえてきたと思しき辺りでコハクが、低く威嚇するように喉声を鳴らす。

「……ここか、コハク」

 ゆらりと、颯生の巨体が動く。何をするのかと思いきや、突然その岩山に突進しようと身構える。

「ちょっと待てっっ!! 颯生! そんな事をしては相手に気付かれる。俺が入り口を操作するコントロールパネルか何かを探すから、それまで待ってろ!!」

 冷静に見えて意外と性急な様子に、今まで気付かなかった颯生の一面を見る。

「お前がりんの身が心配なのは判るが、急いては事を仕損じる。落ち着けば、状況は読めよう」

 場数を踏んでいるのか、年の功なのか。二人の父親と思しき大狛が落ち着いた声で諭す。その一方でコハクが、ここがそうだと言わんばかりに弥勒の顔を見上げ尻尾を振る。コハクに教えられた場所を探り、コントロールパネルを操作しようとして弥勒の手が凍りついたように止まる。

 そこには、当然落ち着いて考えれば予想できただろう監視カメラの無機質な冷たい電子眼(レンズ)。

「しまった…」
「どうしたんだ、弥勒?」

 訝しげに剣也が尋ねると、弥勒は無言でそのレンズを指差した。

「相手に気付かれた、と言う訳だな」

 事、この事態に至っても闘牙の声に焦りは無い。

「多分。おそらく、今頃は私たちを迎え撃つ準備をしているでしょう」
「構わん。それならそうと、さっさと殴り込むだけの事」

 ぐるるっと闘いの為の気を喉で転がし、颯生が言い放つ。


 今、『人で無いもの』同士の闘争が始まろうとしていた。


【10に続く】

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