【 白銀の犬 10 】



 闘牙をはじめとする三頭の狛達と弥勒、ナラクの手に落ちたかごめ。そして、自室でつかの間体を休める睡骨。一人取り残されたりんの側では、蛇骨が面白くもなさそうにりんの様子を見ていた。

「はぁぁ〜、子どもでも女じゃ口にあわねぇっつーの! せめてこれが男の子なら暇つぶしに遊んでやるんだけどな」

 手にしたナイフをピタピタと手の平に叩きつけながら、時間を潰している。多分、美形に入る部類だろう蛇骨のそんな姿を、りんは怯えた眼差しで出来るだけ見ないように視線を逸らしていた。りんの中の本能みたいなものが、この男の危険さを告げている。りんが今まで見た事も聞いた事もないような、そんな危なさ。

「お前も、そんな所に閉じ込められちゃ退屈だよな? 俺もさぁ、退屈で退屈で」
「……………………」
「殺したりひどく傷つけなきゃいいならさ、ちょっっとぐらい俺がおもちゃにしても悪かぁなと思うんだけどさ」
「おもちゃ…?」

 りんの口から零れたその言葉は、先程自分の腕を切りつけた行為と同じように感じた。

( この人は、人を傷つけたり痛めつけたりする事が好きなんだ。おもちゃって、きっとそういう意味で ――― )

 気候的な寒さではない寒気がりんの背中を走る。また切りつけられるのか、痛い思いをさせられるのか……? 幼いりんは気付いていなかったが、りんが『女の子』であったが為に最悪のケースだけは免れていた。そうこの男、蛇骨の前にいたのがもし『男の子』や『少年』であれば、今頃切り刻まれながら陵辱されていただろう。年下好みでサディスト、性倒錯者でもあるこの男に。

 そんな蛇骨の前を、この施設のセキュリティ管理者である煉骨が急ぎ通り過ぎる。いつに無い様子に興味を引かれ、蛇骨は声をかけた。

「どうした? 煉骨の兄貴。何、慌ててんだ?」
「侵入者だ! いや…、前もって睡骨が言っていた奴だろうから、飛んで火に入るなんとやらだな。その為の備えはしているが、今から第一ゲートに向かう」
「あ〜、俺も手伝おうか?」

 気の乗らないりんのような少女を甚振るよりは、もっと派手な立ち回りが出来そうなそちらの方が蛇骨の性分には合っている。秘密の場所に侵入した者は、殺されても文句は言えまい。

「そうだな…。ここには俺が連絡したからじき睡骨がやってくる。その間くらいなら、この小娘が逃げ出す事もないだろう」
「へへっ、そーこなくっちゃ!! なぁ、侵入者って警察か? それともこの娘の家族か?」

 うきうきと、それは嬉しそうに愛用の特殊仕様大振りのアーミーナイフを取り出す。アーミーナイフはその用途に応じて一つの本体に何種類ものエッジを備えたサバイバル・ナイフの一種だが、蛇骨のそれは同じ用途の刃だけを何枚もジョイントさせた構造になっていた。刃そのものが特殊なセラミックで、とても薄くて軽い。重ねてセットして普通のナイフの刃と変わらない厚さ。展開させるとしなやかにしなる日本刀のようになる。

「睡骨の予想では、この娘の家族だろうと。今まで警察でさえ探り出せなかったこのアジトをどうして、そんな一般人が見つけ出せるのかと思ったがね」
「で、どっちだ?」
「警察では、なさそうだ」

 二人の会話を聞いて、りんの胸が痛くなる。確かに助けて欲しかった。颯生に、また家族に。

 でも……

 自分にされた事、この目の前にいる危険な男達。そんな事を考えると、もし自分のせいで誰か家族の一人が自分より酷い目に合ってしまったらと、そんな思いでりんの頭は一杯になる。

「へぇ〜、そりゃ楽しみだ。この娘の身辺を探るのに、その家族の様子も探りを入れたんだけどよ♪ これが、なかなかどうして俺好みな奴がいるんだな」
「また病気が出たのか? 蛇骨」

 剣也が始めて弥勒を紹介されたあの夕暮れ。あの時、気配を殺してかごめと珊瑚の後を付けて来ていたのは、蛇骨だった。その狙いが、美少女の誉れも高いかごめや珊瑚ではなく自分自身であったとは露知らずに。

 呆れたように、冷めた目つきで蛇骨を見る煉骨。蛇骨の性癖は、ここに居る者なら誰でも知っている。たまに手慰みに蛇骨を女の代用にする事もある。だが蛇骨を抱いたとしても、間違っても蛇骨に抱かれてはならない。それが意味するのは陵辱の果ての惨殺ショーに他ならないからだ。

「まだ中坊だな。可愛い顔してよ〜、で体の方はなかなか鍛えられてるみたいで、甚振りがいがありそうでさ♪♪」
「相変わらずだな、お前は」

 煉骨はその僧形な成りに相応しく、ある意味その手の情動に対してはストイックでもあった。むしろ関心がないくらいに。その分、情熱を傾けるのは火器兵器の開発とサイバネティック・オーガニズム、そうサイボーグ技術の追求にあった。
 もともとのサイボーグ技術は事故や病気などで損なわれた臓器や体の一部を、人工臓器や義手・義足などで補う技術。ナラクがあくまで『生体』に拘ったのに対し、煉骨は『人工物』でそれを行おうとしたのだ。仲間の中には煉骨のサイボーグ手術を受け人間重火器となっている者もいる。

「好みじゃないけどさ、親父も男前だし兄貴も美形だ。あんな家族ならお近づきになりたいもんさ」
「勝手に言ってろ!! ほら、行くぞ」

 真っ青な顔をして二人を見ているりんを顧みる事もなく、煉骨と蛇骨はその場を離れた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ナラクの私室で、睡眠薬で昏睡状態のかごめ。その横で、解析の終わったかごめの血液データーを眺めているナラク。その横顔には、会心の笑みが浮かんでいた。

「あの人を舐めた態度は許しがたいが、睡骨の『目利き』の確かさは対したものだな」

 パソコンの解析画面を見つめながら薄ら笑いを浮かべているナラクを、蛮骨は訳の判らない奴だというような目で見ていた。クスリを打たれて正体を失くしているかごめに、どうして欲情しないのかと。つやつやした肌、発育の良さそうなその身体。顔はすこぶるつきの美少女で、何よりも抱きたいほど惚れている女に似ているのなら、それにどうせその女の身体にするのなら。

「ほんっとうに犯らねーのかよ? ナラク」
「同じ事を言わせるな。この娘は桔梗ではない」
「ナラクお前さぁ、よっぽどその桔梗って女に惚れてるんだな。他の女は目に入らないくらいに」
「…………………」


 ナラクからの返事は無い。今しかないなら、今を楽しめば良い。それを信条に生きてきた蛮骨には理解出来ない。いつも刹那々々を生きてきた蛮骨には、それほど一つの事を思い続ける気持ちが今ひとつ判らなかった。

「まぁ、いいや。ナラク、お前がそう言うならさ。で、睡骨の目利きの確かさってなんなんだよ?」

 判らない事を、長引かせる事も無いのが蛮骨の長所でもある。さっさと頭を切り替えて、次の質問を向けてみる。

「ああ…。似た見た目だけではなく、血液型から割り出した適合条件がかなり高い。まるで親近者なみにな。この娘の身体に桔梗の脳は良く馴染むだろう」
「そっか…。そこまでその女に惚れているあんたの為に、なるだけ早く攫ってきてやるな」

 頭の上で手を組み、気軽な風にバイトの手順を確かめるよう言葉を繋ぐ。

「そうだな…」

 ナラクの冥(く)らい眸は、最後に別れた時の桔梗の姿を思い出していた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 自分の元患者に身体を焼かれたナラクこと、鬼木久茂はその持ち前の執念深さから短期間でリハビリを終えていた。しかし、そのリハビリの効果もかろうじて身体を動かす事が出来るという、元の生活から比べると遥かに不自由なものだった。

 このままこの姿で生きてゆく道を見つけるべきか、それとも今度は自分の手で確実に終止符を打つか。病院を退院したばかりの頃の鬼木には、その二つの選択肢しか見えていなかった。ふと、どうして自分がこんな姿になってしまったかの元凶を探るうち、ぽっかりと荒んだ鬼木の胸に浮かんだのは桔梗の白い顔だった。

 しがない苦学生にすぎない自分と、由緒ある神社の責任ある位にいる巫女の桔梗。そんな桔梗を自分のモノにするためには、それなりの『力』が必要だと考えた。その力とは医学を学ぶ自分には、医学の世界で一番の実力者になる事。自分が思う、自分にとって相応しい方法で。その行き着いた先があの生体移植至上主義だった。そしてその結果が、これだ。

( ふっ、そうだな。俺のこの姿を見て桔梗が目を背けるのなら、桔梗を道連れに死んでもいいかもしれん。だが、もし…… )

 だが、もし ―――


 何も言わず、こんな俺を抱きしめてくれたら……
 ただ、静かに涙を流してくれたなら、俺は……

 この姿でも、生きてみようかと ――――


 そんな思いで桔梗の前に立った俺を、桔梗は目を背ける事もなく、抱き締めるでも涙を流すでもなく――――


 ただ、ただ 冷徹なまでの断裁者としての瞳。
 鬼木の医者としての、人としての罪とその報いを説き ―――


( あの瞬間、人としての鬼木は死んだ。桔梗の冷たい正義の瞳に射抜かれて。だから俺は… )


 滾るような憎悪を胸に、桔梗の前から去った俺に声をかけて来た者達。俺の才能をそのまま終わらせてしまうのは惜しいと、出来る限りの協力は惜しまないと交渉してきた軍の秘密研究班のメンバー達。
 それは俺の中の『ナラク』が目覚めた瞬間でもあった。声をかけて来た者を試そうと俺は、ある注文をつけた。つまり、この身体のままでは自分の実力の一毛(千分の一)どころか一糸(一万分の一)の力も発揮出来ない。最初の手術だけはそちらの『手』を借りるが今から言う人員と『部品』を集めて欲しいと。相手も俺の出す条件など想定内だったのだろう。その場で俺は、この秘密研究所に案内されたのだ。

 俺が出した注文は、優秀な外科医数人と火傷で酷く爛れた皮膚を取り替えるための生きの良い人皮の提供。皮膚移植と整形手術のお陰でどにか人並みの見てくれは取り戻した。幸い体幹に近い部分の神経は無事であったが手や足などの四肢神経はこの火傷によってかなり損傷されていた。足はともかく、『手』だけはもとのレベルに戻さないとこの先何も出来ない。

 そこで俺はある事を思い出した。
 
 そう、桔梗の社で祀っている『四魂の珠』の事を ―――

( 試してみるか。人の想いや願いを増幅させる『力』を持つと言っていたな。ならば今、この俺の為にその力を解放しろ!! )

 軍の実行部隊を動かし、密かに桔梗の社から『四魂の珠』を盗み出させた。自分に付けられた専属の外科医メンバーの中の一番腕の立つ者の『腕』を切り落とし、自分の役に立たない腕と挿げ替える。自分の思ったようになるかならないかは、あとはこの『四魂の珠』の力次第。

( 桔梗が必死で守ろうとしただけの事はあったな。珠の力で俺は、また自分の思い通りになる『手』を取り戻したのだから )

 軍の依頼と、俺の目的はやがて一つの研究に集約されてゆく。

 もともと軍の依頼は、戦場で負傷した兵士のリペア技術だった。簡単に言えば片足を失くした兵士が二人いると仮定する。だが命が助かったとしても戦力はマイナス2である。そこで残ったもう1本の足を、もう片方の兵士に移植出来れば、戦力のマイナスは1で済む。俺の手に掛かればそんな事は容易い事、今更研究するまでも無い。
 そこに、軍は新しい要素を取り入れたいと言って来たのだ。常に身体のいろんなパーツを生産保管する方法としての、『クローン技術』の開発。そして究極の生体兵器としての『超人』の開発。

 『超人』の条件は、頑強な身体・驚異的な腕力・怪我や病気に対する恐ろしいほどの免疫性と回復力。そして、ある種の『不死身性』。参考文献を調べているうちに、それらを満たす存在が伝説の中のモンスター達の特性と一致する事に気付いたのだ。腕力の強さだけではなく、『不老不死』と言う人類永遠の夢。

 その夢に、俺は執り憑かれた ――――


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「弥勒兄、遅いな…」

 弥勒が造成中の住宅街の奥に走り去ってから、二十分程。心配そうに、珊瑚が呟く。先程、阿波野刑事が所轄に無線連絡をしていたから、そろそろ応援のパトカーも到着するだろう。そうなったら、一般人の自分たちはここから引き上げなくてはならないのだけれど、それにしても……

「目当ての場所が見つからないのかな……」

 それならそれで、早く戻ってきて欲しいと思う。

「いや…、どうやら合流したようだな。さぞ、びっくりしてる事だろう」
「びっくり? なにが?」

 端麗な印象のある横顔に、ほんの少し笑みが浮かんでいる。何もかも、見透かしたような瞳で。

「応援が来たら珊瑚、手伝って欲しい事がある」
「それは、構わないけど…、何を?」
「おそらく、弥勒はここまで戻ってくる事は出来ないだろう。私が応援隊を案内する必要がありそうだ」
「弥勒兄が戻って来れないって…!? 何か、危ない目に合っているってっっ!!」

 珊瑚の心配を他所に、更に笑みが深くなる。

「あの男の気性だ。飛び込まずにはいられまい、無鉄砲なやんちゃ坊主のように」
「や、やんちゃ坊主?」

 確かに弥勒よりは年上だろうけど、あの弥勒をやんちゃ坊主扱い。それは、まるで…。

( この桔梗さんって、一体幾つなんだろう? とても若く見えるけど )

 ニュータウンの入り口で待機している桔梗達のもとへ、弥勒の父・弥蔵をリーダーとした応援隊が駈け付けるまで、もう後僅かな時間であった。


( ここまで来るのに、どれだけの犠牲と時間をかけた事か。大いなるものの思し召しがなければ、今 私はここには居なかった )

 互いに、世間から身を隠してどの位の時を過ごしてきたのか。桔梗の脳裏にあの時の、あの場面が思い浮かぶ。火傷の痕を隠すため、全身に包帯を巻いた姿で桔梗の前に現れた鬼木。その包帯の隙間から覗く、ぎらついた眸。あれが何を求めていたのか、まだ若すぎた桔梗には判らなかった。ただただ、その眸の光をおぞましいものとしか受け取れなかったのだ。


 だから、桔梗は『巫女』として接した。これからの方向性を自身で見つけ出させる為に、鬼木がしてきた人としての非道な行いを省みさせようと。
 人としての倫(みち)を説く桔梗の顔を睨みつけ、鬼木はその場を去った。

 それから間も無く、社から『四魂の珠』が盗まれた。盗まれる前に何度か怪しい者の侵入を感じ、打てる手は全て打ったその後で。そして、自分もまた――――


( 久しぶりだな、桔梗 )

 目覚めた桔梗が思ったのは、どこかの医療関係の施設のようだと思った事。薬品臭い周囲の空気、冷たい白塗りの壁、硬いベッドに拘束されている自分。目の前には、目がくらむような円形の強照明。

( その声…!? 鬼木かっっ!! )

 見た事も無い、整った顔立ちの若い男の顔が桔梗の眼前にあった。その眸だけは、変わらずに ―――

( ふふ、もうその名は捨てた。今のワシは『ナラク』と名乗っている )
( ナラク…、お前の心根には相応しい名かも知れぬな )
( お褒めに預かり…、と言っておこう )

 鬼木、いやナラクの性向を承知しているだけに、桔梗の警戒心は最大に上がっていた。こんな事をされる謂れはないが、それでもどこかでナラクの恨みを買っていたのだろう。今の所、気を失っていた間に何かされたような気配はないが、それなら今から意識のある状態で切り刻まれるのかもしれない…。

( 私を殺すつもりか? )
( 殺す? ふふん、とんでもない。その逆だ )
( 逆? )

 問い返す桔梗にその返事を返そうとしたナラクの眸に浮かんだ、狂的な熱っぽい光。それを目にし、桔梗はぞっとしたものを全身に感じた。

( ……桔梗、お前は美しい。そのまま、氷の中に閉じ込めて仕舞いたいほどに。だが、それではお前は死んでしまう )
( ………………… )
( お前はワシを拒否したが、ワシは寛大な男だ。この幸運を一人だけのものにしようとは思わぬ )
( 何を言っているのだ、お前は! )

 ますます桔梗の心は騒ぎたて、全身の肌は鳥肌立ってくる。

( 共に美しく若いまま、永の時を生き続けようぞ。お前とワシは、もう同類だ )

 勝ち誇ったようにそう言い、身動きの適わない桔梗の唇にナラクは自分のそれを重ねた。


( 共に、若いまま永の時……? )

 まだその言葉の意味が判らない桔梗であった。

「…っつ! 桔梗、お前っ…!」

 もともと艶やかな桔梗の唇が、ナラクの血に濡れいっそう赤く染まる。圧倒的に不利な情勢でも、桔梗の鋼のような自律心は変わらない。こんな男の蛮行に怯えただの年若い娘に成り下がる事の方を、これから受けるかもしれない行為そのものよりも恐れるような性格だ。

「お前がどうこの私を弄(もてあそ)ぼうと、お前のような男に屈する私ではない!!」

 桔梗に噛み付かれた唇の血を拭いながら、ナラクの眸に尚強い焔(ほむら)が揺らめく。血走った眸を冥く、底の無い暗赤色に染め上げて。

「ふふ、そうだな。桔梗、お前はそうでなければ面白くない。今はお前のその身、自由にしてやろう。だがいずれ、お前はワシの下に縋り付いてくるだろう。その時を、ワシはゆっくり待つとしよう。時間はたっぷりあるからな」

 再び麻酔を嗅がされ、自分の神社の境内で目覚めた桔梗。
 神社の関係者総出で桔梗の行方を捜していただけに、無事に戻れた事を誰もが喜んでいた。

 しかし、桔梗本人は ―――

( 鬼…、いや、ナラク! お前は私の体に何をしたのだっっ!? お前の、あの言葉の意味は? )

 良くあるような、クスリを使って正体を無くした所を陵辱された訳ではない事は、桔梗本人が良く判っている。いまだ『巫女』に相応しい清い身体。それでも、何か違和感が付きまとう ―――

 一抹の暗雲を胸に抱いたまま、何事もなく月日は過ぎてゆく。世相は日増しに暗く殺伐とした雰囲気を増し、それだけに人々の心の平安を祈る神社の巫女としては社務に勤しむ毎日だった。あれほど執拗な執着心を見せていたナラクも、あの時よりただの一度も姿を現さない。

 現されても警戒せなばならないが、そうでなくともその警戒心を解く訳にも行かない。あの忌まわしい口付けの時からずっと、桔梗の心はナラクの張った蜘蛛の糸に絡め取られているような感じであった。

 『それ』に気付いたのは、他家に養女に出された年の離れた桔梗の妹が数年ぶりに遊びに来た時の事。桔梗達姉弟妹は孤児で行く当ても無い身を、その霊力の高さを見込まれこの神社に引き取られたという経緯がある。やがて桔梗の弟妹達もそれぞれこの神社の分社に引き取られていったのだ。

「大きくなったね。別れた時はまだ五歳になるかならずだったのに」

 実際に血の繋がった可愛い妹。理由あって別々に暮らさねばならないが、お互い息災な日々を過ごしている事を喜び合う。

「私もいつまでも小さな子どもじゃありませんよ、お姉さま。これでも私、この春からは高等女学生なんですよ?」
「そうね、そうだったわね」
「そう言うお姉さまこそ、ちっともお変わりなく。この前お会いした時のままですね」

 その何気ない一言。日々一緒に暮らしている者同士では見落としがちな、その異変。

 
 『変わらない』事 ―――


( まさかっっ!? まさか、『私』の時が止まっている…? )

 普段から巫女として慎ましやかに暮らしている桔梗であれば、その日々に大きな変化があり得ようも無い。また節制している暮らしは病や怪我からも程遠く、本当に今、その可能性に気付くまで桔梗は『当たり前に』暮らしてきていたと思っていたのだ。
 巫女と言え、生身の女性。普通であれば月の障りもあろうものだが、桔梗の場合その霊力の高さと『血の穢れ』のない非常に稀な巫女であった。

 遊びに来た妹を送り、一人になった桔梗が試した事 ―――

 恐る恐る剃刀を自分の二の腕内側に当て、ほんの少し切りつけてみる。真白い肌にすぅと赤い線が走り、血玉が浮かぶ。何時間経ってもその血玉が乾く事はなかった。今でも、その傷は癒える事無く止血の包帯を外せば、血を滲ませる。

 『時」を留めると言う事は、『変化』が無いと言う事は、こう言う事……

( ナラクっっ!! お前の言った『永の時』とは、こう言う意味だったのだな! 私の身体を…っっ!! )

 時の変化の無い身体。

 つまり…、生体学的に言えば代謝の無い身体と言う事であろう。老化もなければ再生もない。従って、今の状態でどこか怪我をしたり病気などで身体の機能が落ちれば、それはそのままと言う事。桔梗がナラクに縋り付いてくると言い放ったその理由は、そこにあった。

 見た目若く、生き続ける事は可能。だがしかし、その体内の機能の低下までは防げない。心臓が弱れば、肺の機能が落ちれば、普段の生活にも支障が出る。何より、『生命力』そのものが低下する。
 それを、繋ぐ為に……

 同じパーツを稼動させ続ける事によって起きる全身の不調を取り除く為のメンテナンスを、ナラクの手で ―――

 それに気付いた桔梗は、今は鳴りを潜めているナラクの動向を探った。
 その為に、軍の機密に近づいた者として特高(特別高等警察または特別高圧警察とも、秘密警察の名称)に目を付けられ、桔梗自身地下に潜まねばならなくなったのだ。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「……相手が並の者ではない事は、百も承知。手荒い出迎えの無いほうが不気味だ」

 一瞬走った緊張感を、闘牙の声が解きほぐす。荒事には慣れているのか、それとも生来の気性か。獣面であったが、その表情には戦闘に対する歓喜のようなものが浮かんでいた。

「親父っっ!!」
「剣也、お前にとっては初めての事ばかり。無理はするな、俺か颯生の様を良く見ていろ」
「ふん、私の前にだけは出るな。足手まといだ!!」

 まだおろたえ気味な剣也に比べ、父が父なら息子も息子。颯生の方も、既に闘志を漲らせている。

( 間違いなくこの三頭は、あの犬神の家の者たち。こんな事があるなんて、目の前に見ていても信じがたいが…。だけどあの桔梗さんはそれを『知って』いたんだな )

 弥勒がコハクを連れ攫われた二人の手がかりを求めて、夜のオフィス街を調べようとした時に桔梗にかけられた言葉。


 無理はするな。相手を人と思うな ――― 


( あの言葉の意味は攫った相手の事だけじゃなく、この事も含んでいたんだな )


「段取りは、父上」

 古風な言い回しも様になる。世の中は広い。『人』だけが、生物全ての頂点ではないのだと、今この目の前の恐ろしくも美しい『いきもの』に、心が震える。

 闘牙が鼻を掲げ、くんと岩山にカムフラージュされた岩の扉の向こうを索臭する。かすかな音も聞き逃すまいと、白銀の耳がぴくぴくと蠢く。

「……大体出揃ったようだ。颯生と剣也。お前たちは中に入ったら、すぐに二人の行方を捜せ! 俺はここの親玉を潰す!!」
「あ、あの! 俺はっ!?」

 指示のなかった事に焦って、弥勒が声を上げる。

「お前、弥勒とか言ったな? お前の役目は、この扉を開けるだけで良い。相手も俺達同様『人で無い』モノ達だろうからな。わざわざ危険な修羅場に飛び込まなくとも良かろう」

 それは、闘牙なりの弥勒への気遣い。これだけの組織、また殺人を何とも思わないような輩を多数抱え込んでいるだろう、そんな場所へ一般人を踏み入れさせるのは守護獣としての闘牙の気性が否と言う。

「あなた達に比べれば、俺の力など微々たるものです。ですが、俺はこの手で返したい借りがあいつ等にあるんです! 父の手に風穴をあけた恨み、母を心痛のあまり死に追いやった無念、何より珊瑚から家族を奪った事に対しての怒り! それらを晴らす為に、俺は今まで色々調べてきたんです!!」

 激昂する弥勒を、これから闘いに向かうものとは思えないほど落ち着いた眼差しで闘牙は見た。

「お前の気持ちは判った。止めてもお前なら勝手についてくるだろう。だから、言っておく。恨みを持って闘うものに、勝機はない。己自身の恨みではなく『何の為に』闘うのか、それを見据え正しい答えを出せる者の上に勝利は訪れる。いいな、弥勒」
「はい! 判りました!!」
「では、お前は俺の側についていろ! いいか、遅れるなよっ!!」

 もう、弥勒に言葉はなくただ頷くだけ。その弥勒の足元に、闘牙たちの覇気を受け小さくなっているコハクに、それは優しげな視線を闘牙は送った。

「ご苦労だったな、コハク。お前こそはここで待っていろ。いいな?」

 段取りらしい段取りではないが、中の様子が判らないのではこれ以上の話は無駄であろう。闘牙の視線が厳しいものに変わり、弥勒に扉を開けろと促す。弥勒の手が、秘密基地への扉を外から解除した。今、その扉が開いてゆく ――――


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「あのさぁ、煉骨の兄貴。まぁ、ケーサツじゃないんなら対したこたぁないけどさ、中に入れるよりは外で殺っちまった方が良いじゃねーの?」
「ああ、俺もそう思う。ただ、睡骨の野郎がどんな事をしても、あのりんって小娘の家族の身柄は確保しろと煩い。そいつらの身柄は、あのナラクが後生大事にしている『四魂の珠』よりも価値があるらしいからな」

 ひゅーと、蛇骨が口笛を鳴らす。
 睡骨や煉骨、あるいは意外に思われるが霧骨などの頭脳派と異なり、蛮骨を始めとする蛇骨・銀骨・凶骨などの武闘派の方がその四魂の珠の恩恵に預かっていた。武闘派と言えば聞こえは良いが、実際は組織の殺人部隊。荒事を仕掛ければ、それだけ自分たちの身も危険に晒す。多かれ少なかれナラクか煉骨のメンテナンスを受けているのだ。

「へぇぇ〜。あの家族が、ねぇ…。んじゃさ、俺が犯って殺っても、そう簡単にはくたばらないって事だよな。へへっ、ラッキー!」
「お前は、またそれか。他に考える事はないのか?」

 蛇骨はへへへ、と笑いながら愛用のナイフの刃をぺロリと舐める。蛇の様な冷たい眸に宿る狂的な熱っぽさ。

「俺バカだからさ、むずかしー事考えられねーんだ♪ だけど、食う事と犯る事と寝る事が出来れば生きて行けんじゃん」
「お前の『犯る』は『殺る』と同義語だろ。この殺人狂めが!」

 地下通路を出口に向かって歩く二人の周りに、組織の兵隊達が集まってくる。この兵隊達の指揮官は煉骨。兵隊達は手に、煉骨特製の銃火器を携えている。
 そのうちの一人が、煉骨に何か小声で連絡している。

「そうか、ナラクはシステムの保全に回ったと。それぞれの人質の所には睡骨と蛮骨が張り付いているんだな?」
「あはは〜、蛮骨の兄貴、残念だなぁ。こんなに面白そうなのに」
「ナラクは用心深いからな。人質は貴重だ。その家族の身柄が手に入らなければ、りんと言う小娘でも代用は出来るらしいし、もう一人の娘はある意味ナラクにとってはやはり貴重らしい。長年の想いを成就させる為にな」

 そういう煉骨を見る蛇骨の顔に、凄みのような笑みが浮かぶ。

「けっ! たかが『女』の為に、だろ? ばっかばかしいってーのっっ!!」

 もうこんな気違いめいた奴との会話は無駄だと感じたのか、先を急ぐ煉骨。やがて分厚い岩の内側の、鋼鉄の扉の前に立つ。
 そう、外から扉のロックを解除しても、実際は中からも解除しないと侵入は出来なかったのだ。ドアの側に立つ歩哨と替わり、モニターを覗く。映ったのは ―――

「あれ〜、こいつ、あの小娘の家族じゃねーや!」

 横から覗き込んだ蛇骨が、少し残念そうな声を出す。映し出されていたのは弥勒の姿。外は夜だというのに、その姿は撮影に使うレフ板を背景にしたようにくっきりと。

「そうか? 俺はそいつらの面を知らんからな」
「ああ、俺が尾行(つ)けた時に見た顔だが、あの小娘の家族じゃない。まぁ、こいつも割と好みだけどよ」

 心底呆れ返ったのか、もう言葉をかけようともしない煉骨。

「一応、こいつの素性も知ってるし。犯って膾(なます)にして、切り殺した死体を警察署の前に晒して置くのもおっもしれーかも♪」
「警察?」
「ああ。こいつの親父刑事でさ、ナラクと因縁があるみたい。でなんだかんだとこっちの事を探ってた奴」
「度胸があるのか、バカなのか。一人でこんな所に乗り込んでくるとはな」

 あまりに巨大だったため、モニターのレンズに映り切れなかった狛達の姿。

 煉骨達は、そこで僅かな油断を許してしまった。煉骨が聞いた話では、りんの家族は『超人』と言われる部類らしい。大げさに睡骨は『モンスター』とか言っていたが、蛇骨の話だととてもそうは思えない。男好きな蛇骨の趣味は理解しがたいが、それでもその審美眼はそれなりの評価に値する。

 睡骨からは『殺すな』と、厳命されていた。そのかわり、『命』さえあればどんな姿でも構わないとまで言いのける。相手が相手、侵入してきたら出会い頭に足元に弾幕を張って、『足』を潰せとも。睡骨の話だとそのくらいの損傷、あるいは下半身損失でも十分研究の実験体としては事足りるとの事だった。むしろ、逃亡を防ぐ為にもその方が良いくらいだとまで。

 その為の兵隊の配置だったのだが、モニターに映った弥勒だけが侵入者だと判断してしまった。その相手を蛇骨に任せる事にしたため、ドアのロックを解除すると同時に一斉に侵入者の足元目掛けて射撃する手はずだったのを、取り止めにしたのだ。

 その油断が弥勒の命を救い、闘牙達の侵入を助ける結果となる。

 今まさに、闘いの火蓋が切って落とされた。


   * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「よしっ! 開くぞっっ!!」

 こちらの侵入を気付いている相手が、大人しく通してくれるはずが無い。開けたと同時に身を隠さねば、もちろん蜂の巣になる事も弥勒に判らない訳がない。ただ、それがあまりにも多勢であれば、『避け切れない』場合もありそうなれば『万事休す』な訳である。

 しかし、そう身構えていた弥勒の前に滑り込むようなしなやかな動きで飛び込んできたのは、どこか病的なものを感じさせる若い男だった。

「へへっ。あんたの名前、知ってるぜ? 風守弥勒ってんだろ、親父がウチのボスにひでー目にあわされた、腰抜け刑事の息子だよな!?」

 人の神経を逆撫でするような、そんな雰囲気を持っている。

「お前は俺が可愛がってやるからさv 楽しく遊ぼうぜ? 本当は、あの剣也って言う中坊を犯りたかったんだけど、まぁ、あんたでもいいや♪」

 気持ち悪いその台詞に、狛姿の剣也が牙を剥く。

「…抑えろ、剣也。弥勒、その男の相手は大丈夫か?」
「こう見えても、俺も古武術の伝承者。こんな男の一人や二人、叩き伏せられないでは話にならん!!」
「判った。では、壁の向こうの兵隊どもは俺達が潰そう!」

 蛇骨の頭の上から聞こえてくる声。短い会話の内容を把握し、壁の向こうがざわっと動くのと弥勒の後ろの『白い壁』が動くのは同時だった。
 煉骨の号令に、一斉に火を噴く銃火器。一糸乱れず張られる筈の弾幕は、巨体を思わせない軽やかな身のこなしと素早さで通路内に踊り込んだ狛達の獣足で踏みにじられていた。

「な、なんなんだ、こいつ等っっ!!」

 一瞬で下っ端兵隊の過半数を潰され、なんなく狛達に最初の難関をクリアされてしまう。

「引けっ! 蛇骨。体勢を立て直す!! 早く、こちらに戻れ!」

 一番外側に居た蛇骨を呼び戻す煉骨。蛇骨と煉骨の間には、闘牙達狛の巨体。狛の姿に慣れない、ましてやそんな姿で闘うなど初めての剣也が銃撃戦で負傷し、僅かにその傍らに隙が出来ていた。そこを目ざとく見つけ、身体を滑らせるように通り抜けると煉骨と合流する。弥勒と一戦交える前に、撤退を余儀なくされた蛇骨であった。

 ぎり、と噛み締めた唇が切れ滲む血の赤が、病的であってもそれなりの美貌を持っている蛇骨の顔を更に艶やかに壮絶に彩る。

「くそっ! 睡骨の言っていた『モンスター』とはこの事か!!」

 同じ思いをまた、煉骨も噛み締めていた。

 足を痛めた剣也の巨体に、道を塞がれたような形になった狛達を睨みつつ、煉骨達は体勢を立て直す為、枝分かれした通路のそれぞれのセクションに指令を出す。
 研究所内に、一斉に警報が鳴り響いていた。


【11に続く】

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