【 白銀の犬 11 】



「……私の前をふさぐなと言ったはずだ、剣也!! 足手まといになるようなら、お前をここで叩きのめす」

 初めての戦闘で、しかも相手が撃ち込んで来た銃弾を前足に受け狭い通路内に体勢を崩して倒れてしまった事で、逃げて行った煉骨達をすぐに追えなくなった颯生が冷たく言い放つ。

「そんな! 仮にもお前の弟だろうっ! 怪我をしている剣也にそんな言葉は……」
「そんなもの、怪我のうちには入らん。それよりも、あんな攻撃で負傷した己の未熟さを恥じ入れ」

 伏した剣也の上から突き刺さる金色の酷薄な視線。
「ひとでない」ものの、異形な眸。

「……『間』を置くな。相手に迎撃体勢を整えられるぞ」

 静かな『長』の一声。その意味する事は自分たちにとって不利な条件を増やす事に、そして自分たちが『守りたいもの』への危険が更に増す事を告げている。

「くっ…、そっっ!! なん…だ、こんな傷…、くらい!!」

 剣也の受けた銃創は左前肢の踝(くるぶし)から少し上の辺りの肉を抉り、骨の白さが見えるほど。ききららかな白銀の毛並みが、その肢だけ赤いソックスを履いた様に染まっている。

「大丈夫か! 剣也!! 無理はする… な…っ!?」

 動けば更なる出血を伴うのを承知で、剣也は父と兄に道を開く為その傷付いた身体を起こした。自重がかかった肢の傷から、溢れるように鮮血が流れ落ちる。

「剣也っっ!!」
「……先に、行ってろ。親父、颯生も。俺も、すぐ後から行く!」

 その言葉に颯生はもう一度冷たい視線を投げかけ、煉骨達が逃げ込んだ奥の通路へと走り去って行った。闘牙はそんな颯生の後姿を見届けると、ついと剣也の前にその獣頭を向け剣也の前肢の傷を見る。そして ―――

「お、親父っ!?」

 剣也のまだ出血の止まらぬ傷口を、その大きな舌で舐め始めた。最初の一舐めは体が痺れ上がるほどの激痛だったのが、二舐め三舐めしているうちにだんだんと痛みが鎮まってくる。赤く染まった毛並みも薄紅に変わる。

「……応急処置だ。後は自力で治せ、剣也。今更言うまでもないがお前と弥勒は、かごめの救出だけを考えろ。後の事は俺と颯生に任せろ、いいな?」
「あの……」

 それ以上は何も言わず、闘牙もまた暗い通路の中に走り去って行った。
 不思議な思いで、今目の前で繰り広げられている光景を弥勒は見ていた。人でありながら「人でなし」達のアジトに奇襲をかけた、この「ひとでない」モノ達。

 確かに颯生の眸はどこか冷たく突き放すような光だが、あの父親の暖かさと厳しさはどうだろう。あれもまた、「ひとでない」モノには違いはないのに。

「弥勒…、お前も先に行け」

 この傍らで倒れ伏している剣也はあの二人とはまた違い、限りなく『人』に近い。
 弥勒はここで二人残された訳を、唐突に理解した。
 そう、それは……

「いや、そう言う訳には行かないようだ。俺もお前もお前の親父さんから見れば、『半人前』。多分、お前がむやみやたらと敵に突っ込んで行かない様に、俺に手綱を握ってろって事だろう」
「弥勒……」
「どうだ、動けそうか? お前が動かん事には俺も先に進めないからな」
「ああ、どうやら親父のお陰で出血も止まったし、痛みも大分薄らいだからな。多分、大丈夫……」

 傷付いた肢に負担をかけない様に立ち上がろうとすると、巨体故にバランスを崩し上手く立ち上がれない。

「……お前、本当に剣也だな? その…、どうしてその姿になったかは知らんが、元の人間の姿には戻れんのか?」
「ああ、今は無理みたいだ。俺の中の『力』が鎮まるまでは……」
「この緊急事態に、お前の本能みたいなものが開放されているって言う訳か。じゃ、せめてもう少し身体を小さく出来ないのか? そのままでは、また銃弾を浴びるぞ」
「あっ? 身体を小さく…?」

 今まで思いつきもしなかった、その考え。
 意識のないまま変化して、気がついたらこの姿だった。今の状態では人間の姿に戻れようような気がしないのは、多分『狛としての本能』。あんなに小さな人間の姿から、ここまで巨大な狛に変化出来るのなら、今よりは身体を小さくする事は可能かもしれない。

「剣也?」
「判った。やってみる」

 意識を集中させる為、眸を閉じる。すぅうと自分の体の中心に力を集めるように念じ、それから外側から内側に向けてその力を追うように感覚を絞り込む。筋肉の感覚・骨の質感・皮膚の感触。
 ずんと密度が増したような感覚が剣也の中に生まれる。

( 俺が修行した『氣』を練る技と良く似ているな。つまり剣也達は、太古の氣を受け継ぐ祖霊的な生き物なのか? )

 弥勒の見ている目の前で、剣也の姿がぎゅっと凝縮されてゆくような感じがした。負傷した肢の傷も凝縮されたのか、いつのまにか消えている。やがて ―――

「…こんなものか、弥勒」

 詰めていた息を深く吐き出し、声をかける剣也。その姿は、あの通路の天井に届きそうだった姿の十分の一程に縮まっていた。それでもまだ、超大型犬以上の体格ではあったが。

「ああ…、その位なら動きやすいだろ。傷は、剣也?」
「もう治った。行くぞ、弥勒っっ!!」

 先駆けて行った父や兄の後を追うように、剣也たちも新たな戦いの場に飛び込んで行った。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 りんの側についていたあの気味の悪い若い男が立ち去って、そう間はなかった。
 出入り口に繋がっている通路の方からかすかに何か重たい音が聞こえたような気がしたけど、何重にも下ろされた鋼鉄の扉のせいでそれが何かまでは判らなかった。

 いや、判らない方がりんにとってはましだったろう。
 体勢を崩された銃撃だったとしても、その音を聞けばりんのような幼い子でもその場で繰り広げられている戦闘の激しさは判ってしまうだろうから。

 大きな瞳に心配そうな光を浮かべ鉄格子をしっかり握り締めて、一生懸命にそのかすかな音の方向を見つめている。そのせいで、反対側から近づいてきていた者の気配に気付くのが少し遅れてしまった。
 かごめが寒くないようにと襟元を詰めて着せてくれた病衣の前をぐいと肌蹴、自分が切り刻んでつけた傷の治り具合を診る睡骨。その目が満足げにまたうっとりとした執着を込めて、りんの肌の上の薄桃色の傷跡を見ている。

 慌ててりんは鉄格子から離れ、襟元を掻き合せるとその男の様子を怯えを滲ませた瞳で見る。

( いやだっっ!! この男、怖い! )

 訳も判らず切り刻まれて、まだ半日も経ってはいない。さっきまでなら姉とも慕うかごめも一緒だったから、少しは心を強く持つ事も出来たけど今は一人。
 それにきっとさっきよりももっと酷い事をされるのを、りんは予感していた。

 あの若い男も気持ち悪くて怖かったけど、このニセ校医の方がもっと怖い。気持ちの悪さがない分、どこか優しそうな分、それがりんには底知れない恐怖を与えていた。

「…期待通りですね。良い回復具合ですよ。ただの人間でもここまで強化出来るとは、本当に素晴らしいことです」
「な…に……?」
「お前の場合は、獣人化するほどのメタモルフォーゼ能力は無いようだが…。いや、潜在的に眠っているだけかもしれませんね」

 目の前のりんを見ながら、すでに『りん』ではないものを見つめつつ睡骨はぶつぶつと独り言を続けている。

「ふむ…、現在のこの娘の強靭度・不死性・免疫力を調べぎりぎりの極限状態までに追いやっても獣人化現象が現れないとして、それがただの人から本物の『超人』にはなれないという証明になってしまうのは面白くないな」
「………………………」

 呟きの中の常軌を逸した言葉の雰囲気を敏感に感じ取り、りんはゲージの隅に小さく蹲った。

「まずは…、腕か足どちらか一本切断してみるか。そのまま放置してどれだけの治癒力があるものかデーターを取ってみよう。思いのほか治癒力が高いようなら、四肢全部切断しての実験もありだな。だが、その前に ――― 」

 がちゃりとゲージのロックを外す音が響く。

「お前の身柄をもっと厳重な場所で拘束しておく必要があるからな。お前は実験体であるまえに、あいつ等をおびき寄せる大事な餌でもあるから」

 通路側の照明を背に受け、睡骨の顔はりんには良く見えない。ただ、黒い大きな不吉な影のように小さなりんの姿を覆い隠すだけ。

「私はな、りん。お前さえ知らないお前の秘密を知っている。どうだ? 知りたいか、りん」
「な、なにを……」

 目の前に落ちた人でなしの影。その影がりんに問いかける。りんは震える声で、辛うじてそう聞いた。この男と口を聞くのも怖いけど、そのまま喋らせ続けるのももっと怖いような気がしたのだ。
 暗闇の中で、男の目が青く光る。これもこの男が飼っている病巣の一部。本来ならりんよりももっと幼い子に見られる病変さえも、この男の身体に巣食っていた。

「りん、お前は赤ん坊の時一度死んだ。八年前のあの事故で。なのにどうして今、そうして健康体でそこに在る?」
「嘘っ!! りん、事故なんて知らない! そんな大怪我なんてしたことないもん!! お父さんからもお母さんからも、お兄ちゃん達からも聞いたことないもんっっ!」

 りんはこの男の話している事は、頭のおかしいこの男の作り事だと思った。気が狂っているんだと、そう思った。
 もし自分がそんな赤ちゃんの時に死にかけるような事故にあったなら、きっと他の家族も一緒だったはず。自分もだけど、他の家族の誰もそんな事故にあった話は聞いた事がないし、誰も大怪我なんてした事もない。

「ふふ、それだけではない。もっとお前がびっくりするような事も知っている。だが、まぁそれは後からの楽しみだな。場所を変えて、お前を迎えに来るあいつを待つとしようか」
「迎えに来るって…、お父さんやお兄ちゃん達にも酷い事をするつもりなのっっ!!」
「ああ、お前たちは家族仲がいいからな。ましてや血の繋がらないお前を生き返らせて、連れて行ったあいつなら間違いなく……」

 いまのりんは追い詰められた袋の鼠。
 常時携帯している睡骨のメディカルキットの中の麻酔薬を仕込んだ注射器が、りんの腕に突き立てられる。標準の大人の三倍分の分量を、その小さな身体に流し込まれてりんはあっという間に暗い闇の底に落ちて行った。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ……さしたる戦略など必要もなかった。

 既に守護獣たる我ら『狛』の守備範囲を外れた、『外道』ども。
 守らねばならない『人』達を傷付け、災厄を振りまく排除せねばならないモノども。

 父・闘牙王が向かうはこのアジトの心臓部でもあり、今では災厄の増幅器に成り下がってしまったかの古の巫女の魂が変化した『四魂の珠』のもと。不肖な弟だが、それでもその身に流れる『狛』の血は健在。あれも『守るべきもの』のもとに馳せるだろう。

 そしてなによりこの私、殺生丸の手中の珠に薄汚い手をかけた外道!
 地獄の底で後悔しても仕切れぬほどの目に逢わせてやろう……

 初めての変化、初めての戦闘に加わった犬夜叉の不手際のせいで瞬時その足を止められた殺生丸の怒りは、常の冷静さの影で激しく燃え盛っていた。
 『狛の力』をコントロールさせないと、その姿は本性のまま。時には部屋いっぱいの巨体となる。闘牙王や殺生丸ほどになれば、その事態に合わせた姿に変化するのは一瞬の事であった。

 巨体から、それでも子牛ほどの狛の姿へと変化する。
 その姿のまま、りんの匂いを求めて通路をひた走る。
 殺生丸の行く手には、幾重もの壁が立ちはだかっていた。

 つん、と鋭い嗅覚を刺激する『毒』の臭い。
 通路前方はすでに鋼鉄の扉で締め切られ、先に逃げた連中の姿はない。振り返ると、今 自分が来た方向も鋼鉄の扉が落ちてくる寸前。ここで退けばおそらくこの空間に閉じ込められる事はないだろうが、それを良しとする己ではない。かつて今まで、敵に後ろを見せた事はない!

「へへ、逃げないのか? それとも逃げ損なったのか? どっちにしろ馬鹿って事だな」

 通路内のどこかにまだ別の出入り口があるのだろう。そこの隠し扉から出てきた男の姿に、殺生丸は獣眼を顰めた。
 重装備というのか宇宙服を着込んだようなその姿はどこか奇怪で、例えて言えば古代の遺跡から出てきた遮光土偶のような感じだった。

「うん? 獣の姿じゃ人間の言葉が判らないのか? まぁ、いい。つまり、お前は『飛んで火に入る夏の虫』ってこった」

 宇宙服のような物の正体は密閉服。
 先ほどから感じる刺激臭と合わせて考えれば……

「……毒を充満させているのか」
「ほ! そんな姿でも口が利けるのか。ああそうだ、この俺 霧骨様特性の神経ガスさ。こいつは優しい毒ガスでな。命までは奪わない、手足の運動神経だけを焼き切る」
「ふん、利かぬ。そんな毒はな」

 ますます毒ガスの濃度は高まり、閉じられた空間が薄黄色く霞みだす。それでも殺生丸は、じりじりと毒使いの霧骨を閉じられた前方の扉の方へ押しやっていた。
 そんな殺生丸の迫力に怖れを感じた霧骨は、手元のコントロールパネルを操作しガスの濃度を最高値にまで上げた。ここまで上げれば、焼き切れる運動神経は手足だけではすまない。心臓の運動神経や脳神経も焼き切れる。

 睡骨にはこの侵入者達を殺すな、と言われていたが他にまだ二体残っている。こいつくらい死体になっても構わないだろうという霧骨の考えをあざ笑うように、更に殺生丸は歩を進めた。

「そ、そんな! 通常の二十倍の濃度だぞっっ!! どんな動物だって悶え苦しんで中毒死する濃度だ!!」
「……この私を何だと思っている」

 霧骨の目前に迫る、全てを超越した存在。
 恐慌をきたした霧骨は、パネルを操作しもう一つの毒ガスを噴出させた。遅効性のマスタードガスを即効性に改良した物。このガスに触れれば、皮膚やその下の肉までも毒に焼かれ爛れ落ちてしまう。

 そんなガスを浴びても、殺生丸の神々しいばかりの姿は変わらない。淀みない歩みで、霧骨の密閉服のヘルメット越しに鼻面を押し付け、鋭い視線で相手を射抜く。
霧骨が手にしていたコントロールパネルが殺生丸の足元に落ちた。

「あ…、あぁぁ…、うわぁぁぁっっ!!!」

 壁に縋りずり上がろうとした霧骨の身体を、下から上へ殺生丸の鋭利な爪が体と紙一重の差で撫で上げる。今まで霧骨の身を護っていた機密服がすっぱりと切り裂かれていた。

「うぐあぁぁっっ!!! げぇっ…! ごほっっ!!! ぐぁぁぁ………」

 確かに優秀な科学者だったのだろう、この男も。
 身をもって体験した、自分が作り出した『毒』の威力。
 一瞬にしてその身は捩れ焼け爛れ、醜悪な腐肉の塊へと成り果てていた。

「人間が手にしてはならない物に手を出したその報い。お前と同じ思いをして死んだたくさんの命への罪業を負い、冥府の底で焼き尽くされるがいい」

 霧骨が落としたコントロールパネルの毒を中和させるボタンを爪の先で器用に押し、辺りを洗浄する。十分に洗浄作業が終わったのを確認すると、目の前の鋼鉄の扉を己の爪で一閃し、切開く。

 その先には、何ヶ所も枝分かれした暗い通路がどこまでも延びていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 一瞬の銃撃と怒号が鎮まり攻守共の気配が消えて暫く後、無防備に開け放されたままになった秘密研究所の外扉の片隅から中を覗く小さな薄茶色の影。栗鼠色の丸い瞳に映る、惨劇の様子。その瞳に浮かんだ躊躇いのようなものはこの惨劇の有様に怯えたものか、それともまた別の何かか。それを振り切るように影、琥珀は狛の長の言った言葉に逆らい、今まで自分を呪縛し続けてきたこの忌まわしい場所へと、また戻っていった。


 ―――― 己自身の恨みではなく『何の為に』闘うのか、それを見据え正しい答えを出せる者の上に勝利は訪れる。


 恨みならある、と琥珀は思う。今の自分のこの姿を、そして家族を殺された事を恨まずにはいられない。でも、今この場所に戻るのはそんな『恨み』を晴らす為じゃない。

 『何の為に』…、それは助けたい人がいるから。こんな姿で何が出来るか判らない。それでも自分はあの人を助けたいと、強くそう思う。自分をここから逃がしてくれた、そしてきっとそのせいで酷い目にあっているだろうあの人を。
 むごたらしい仕打ちや仲間達の無残な死を見せ付けられてきたこの場所、『恐怖』そのもののこの場所に戻る事が琥珀にとっては既に『闘い』だった。

 長年いた場所でも殆どがゲージの中だったので、内部の構造を詳しく知る事は出来なかったのだが、皮肉にも『犬』に変成させられたおかげで鼻が利く。豚でも嗅覚は鋭いがあまり攻撃的ではないだろう。どれだけ役に立つか判らないが、今の自分には牙も爪もある。
 火薬と血腥い臭いに満ちたその場所を、気をつけながら通り過ぎる。外扉が閉じられて、ここにまた閉じ込められる恐怖感に体が竦みそうになるが、ふと扉の内側のコントロールパネルに目が向き、僅かに安心する。侵入者に対して構えが崩れた所で一斉射撃したのが禍して、その辺りにあったセキュリティー用の端末からコントロールパネルまで使い物にならなくなっていた。少なくとも、これを直さない事にはこの扉は開きっぱなしになる。遠隔操作で閉じ込められる危険性が減っただけでも、琥珀には大きな力になる。

 胸を悪くするような臭いだが、知らない臭いではない。火薬の臭いはあまり嗅いだ事はないが、血や肉の臭いはいつも研究棟の中に充満していたから。あの時、必死で逃げたルートを逆に辿る。あの後、あの人が捕まったのならどこに監禁されるだろう? 琥珀は思いをめぐらす。

 あの人自身、システムの一部だった。ならば、この研究所の中枢か? ここを逃げ出す時、あの人はそのシステムが使えないように壊した。システムそのものは復旧出来ても、要の物の一部を持ち出しそれをあの方たちに託した。完全な形で無いと、システムは動かせないはずだ。無理に動かせば、歪んだ『力』が暴走するとあいつらが言っていたのを聞いた事がある。
 何をするか判らないあの人を、そんな危険な場所に監禁しないような気がする。もし、万が一あの人が捨て身でシステムを作動させれば…。

 琥珀も下手な場所に飛び込んでまた捕まる事になれば、否 その場で殺される可能性だってあるのだ。迂闊に走り回る訳にもいかない。物陰に身を潜め、気をつけながら移動しその途中で破壊された鉄の扉や微かにだが嫌な感じの薬品臭も感じた。先にこの通路内を疾走していったモノ達の痕跡を慎重に追いながら、メイン通路の交わるロータリーのような場所まで来る。ここでそれらのモノの痕跡は三方に散っていた。
 琥珀は知らないが、そこからまた先は細かく枝分かれしているので、中にいる組織員達も自分の受け持ちブロック以外は良く知らない。だからそれぞれのブロックを警備する組織員達は皆、認識装置を埋め込まれている。それを中央のコントロールルームでチェスの駒を動かすように、ナラクや煉骨が動かすのだ。

 琥珀は迷う事無く、右側の通路を選んだ。自分たちはこの通路を通って『外部』へと逃げ出した。理由は、それだけ。あるとしたら、琥珀の『勘』かもしれない。最地下にあるこの通路は右に行っても左に行ってもメインの通路はかなり先で中央の通路と合流する。合流した先からさらに地下を走ってあの歓楽街の雑居ビル群の地下と繋がっていた。
 実験体をどこに置くかで、その研究の期待度が計れる。自分たちに実益はないが、狂的な研究熱心さで続けられていた琥珀のような変成実験は、この円を描く辺りの通路沿いのゲージに収容されていた。貴重な、あるいは直ぐにでも換金できる『商品』としての人体や実験体は雑居ビルの地下に近い通路沿いに置かれていた。
 
 それは琥珀も、ここに侵入した闘牙や颯生・剣也も知らない事ではあったが。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


( …どこにいるんだろう、神楽さん )

 監視カメラの死角を選んで、琥珀は通路を進んでいる。小柄な琥珀の体がここでも幸いしていた。本来ならそうそうカメラの死角など出来ないのだが、先に侵入したモノたちに照準を合わせた為、その足元に隠れるような琥珀の体格では、カメラにはぼんやりとした影くらいにしか映らない。ましてや、闘牙たちの行動を制限する為か通路内は通常よりも暗い非常燈しかついてはおらず、赤外線カメラやレーザー警報機もさんざん先行者に荒らされたあとで、モニターを監視している者達の注意もそちらにいってしまっている。

 ふと、琥珀の鼻先に優しい匂いが届く。この匂いは ―――

( こっちか! 神楽さん!! )

 右側のメイン通路からさらに枝分かれした、さして重要じゃない実験体や処分待ち・廃棄用の実験動物ばかりが閉じ込められているゲージが並ぶ通路に飛び込む。ここは、琥珀が閉じ込められたいた場所よりももっと実験体への扱いが残酷だった。残酷というよりも、放置されているというかここの人間の手にかかって殺されるよりも先に死んでしまう方が多いような環境、とでも言うべきか。
 腹を割かれたまま放り込まれている実験動物や、かなり長い間拘束されたまま餓死しているような実験動物。その中に ―――

( 神楽さんっっ! 神楽さん!!! )

 ぐったりとした神楽の姿。この寒い季節、また一段と冷え込む地下のコンクリートの床の上に、ほとんど全裸に近い姿で腕を上に鎖で拘束されている。食事を取らせようと短い時間だが、神無が吊り上げられていた神楽の腕を下げていたので、まだ麻痺やこの寒さによる凍傷までには至っていなかったようだ。

 琥珀の呼びかけも、悲しい事にこの姿では犬の鳴き声。幸いここに在る監視カメラはメイン通路に出るところにある2台のカメラだけで、このあたりには設置されていない。それでも、琥珀の鳴き声で他の動物達が騒ぎ出しては、拙い事になる。
 琥珀の必死さが伝わったのか、気を失いかけていた神楽が正気づく。

「あ、あんた…、琥珀っっ!? どうしてこんな所に戻ってきた!!」
「ぅぐるぅぅ、ぅぅ〜」

 低い喉声で、声にならない声で思いを返す。

( 神楽さん! 俺、あんたを助けに来たんだよ!! 凄い人たちを連れてきたんだ! だから…っ )

「…ありがとう、琥珀。あたしの言葉が判ってたんだね。じゃぁ、もう一度言うよ。逃げな、ここから早く!! そして、もう戻って来るんじゃないよ、いいねっ!」
「くぅ〜ん、わぅわぅ」
「いい子だから、早く…。『言葉』の喋れないあんたじゃ、あたしたちが本当に欲しい助けを呼んでくるのは無理なんだ。だから、せめてあんただけでも……」

 悲しげな笑みを浮かべて、神楽が言葉を続ける。犬の姿の琥珀じゃこの檻の鍵を開けるのも無理だろうし、拘束している鎖を切る事も出来ない。外の騒ぎはこの奥まった通路にまでは聞こえなかったらしい。

「…助けに、来たの。その実験体」

 琥珀は目の前の神楽に、神楽は自分を助けに来てくれた琥珀に注意が向いていたため、その後ろに立った気配を感じさせない真っ白い少女の存在に気付くのが遅れた。

「か、神無っっ!!」
「ぐぅううう〜、うわん!!」

 琥珀が小さな身体で檻の中の神楽を庇い、不気味な神無に正面から対峙する。

「懐いている…? 神楽、に……」
「神無、お願いだよ! この子は見逃して上げてくれ!! 何も出来ない、ただの犬なんだよ?」
「ただの、犬?」
「ああ、そうさ。見れば判るだろう!? ただの犬畜生だから、戻ってこなくても良いのに戻って来ちまったんだから!!」

 …そう。琥珀をこんな姿にしたナラクや睡骨達でさえ、琥珀の知能がもしかしたら『人間』の時のままだとは気付いていなかった。少し普通の犬よりも頭が良いくらいの認識。それは、いち早くそうかも知れないと気付いた神楽が、そう振舞うように琥珀に言い続けたからでもあった。

「…あたしなら、判る」
「えっ…、それは、どう言う……?」

 緊張で身体を硬くして、その場に立ち止まっている琥珀の前に神無は近づき、じっと琥珀の目を見つめた。神無の黒目がちな瞳に吸込まれるような錯覚を覚え、びくっと琥珀を頭を振った。そっと神無の手が琥珀の額に触れ、神無は瞳を閉じた。

「なに…を、している、神無?」
「心、読んでる。あたしの、秘密の力」
「あんたっっ!! まさか…!?」

 ナラクたちが開発しようとしたのは『不老不死』の力を持つ、いわば『超人』。その同じ『超人』のカテゴリーの中に、俗に『超能力者』と呼ばれるグループの存在がある。こちらの方が人工的に造り出すことが難しい為に、あまり研究は進んではなかったがまさか、自分の姉妹である神無にそんな力があるとは……。

「この力は、誰も知らない。教えてない」
「どうして……」
「言えば、あたしもこの実験体と同じ」

 琥珀の額に当てていた手を放し、神無は小さく呟いた。

 神無にこの力が発露したのは、本当に偶然だった。その要因が胎児の頃に受けたテロメア操作のせいか、その後のロボトミー手術のせいかは判らないが。ただ、その力ゆえに神無は手術の成果以上に心を閉ざした。コンピューターのような冷静な知性で正確に「0」と「1」とを、言い換えれば「有」と「無」を判断し続けてきて。

「この実験体は神楽…、あんたを助けに来た」
「本当に…?」
「あんたに、言いつけられた言葉…、守って」
「あたしに言いつけられた言葉……」


 あの時、あたしは ――――

 ―――― これをあんたが間違いないと信じた人間に渡して欲しいんだ。
 ―――― あんたはここから無事に逃げて、あたしを助けに来ておくれ。

 ナラク達の陰謀の、証拠を残したかった。琥珀を無事に逃がしたかった。ただ、それだけだった。助けに来てくれと言ったのは、まず琥珀を逃がす為の方便だったのに……。


「…この実験体、神楽の為に味方をつれて来た。神楽の言いつけどおりの者達を」
「琥珀……」

 それだけを言うと神無はくるりと踵を返して、神楽の前から去ろうとした。

「…この事を、ナラクに報告するのかい?」
「報告? 別に」
「何故…?」
「あたしは、神楽の様子を見てこいと…」

 存在感のない影のように漂いながら、神無の姿が遠ざかる。

「神楽は…、檻の中。異常は、ない」

 独り言のように呟いて、神無の姿は消えて行った。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 琥珀が闘牙の言いつけに背き、この秘密研究所の通路に忍び込む少し前のこと。

 ようやく動けるようになった剣也と、その傍らには弥勒の姿。
 慣れない戦闘で負傷した剣也は、父に言われた通り自力でその怪我を治した訳だが、明らかに次の行動に対して出遅れている。

 攫われた者の身を心配する気持ちの焦りからか、その場を直ぐ後にした剣也と弥勒。いやこの場合は一人と一頭と言うべきか。今しがた後にしたその場の状況を見返ればここへの突入時の戦闘で、父や兄に瞬殺された者や重傷で動けない者がごろごろ転がっていた。

「…凄い。たった一蹴でこの有様なのか。怖ろしいほどだな」
「弥勒……」

 獣化した姿で、弥勒の肩より少し下から不安げな色を浮かべた剣也が弥勒の顔を見上げた。弥勒の呟いた言葉に、剣也の急く気持ちと自分自身に対しての怖れとがぶつかり合う。
 なぜか立ち止まってしまって剣也を、怪訝気に弥勒が振り返る。

「どうした! 剣也!? 先を急がねばっっ!!」
「はは、自分でも親父たちのやった事は怖ろしいって思う。俺も、あんな事をしちまうのかな……」
「剣也……」

 弥勒とて、剣也とそう深い付き合いがある訳じゃない。実際に顔を会わせたのはあの時、不審者に後をつけられていた珊瑚とかごめに気付き、さらにその後を追っていたあの日の夕暮れの時だけ。むしろ同じ大学に通っていただけに、颯生との方が接触が多かった。あれを多いと言えるのならば、だが。

「お前は、大丈夫だ。俺はお前をそんなに知っている訳じゃねぇが、これだけは言える。お前は、あの二人とは全然違う。あんな事はしないさ」
「どうして、そう思う?」
「それは……」

 金色に光る獣眸の奥で、十五歳の少年の不安げな思いが揺れている。

( ああ、そうか。この為にも、俺を剣也の側に付かせたんだな。あの親父殿は。 )

 すっと右手を伸ばして、わしゃわしゃと白銀色の剣也の頭の毛を撫でさする。そして当たり前のように自分の顔を剣也の鼻先に近づけ、落ち込んだ友達を励ますようにあるいは弟を宥めるように言葉を続けた。

「この俺がそう言うんだ。それで、『良し』にしておけ」
「ふん、俺の事大して知りもしないくせに。俺もお前の事、良く知らないしな」
「じゃ、これから知っておけ! お前が何かヤバクなりそうなら、俺がぶっ叩いてでも止めてやる!!」

 一瞬、剣也の眸が見開かれ、それから少し安心したようにぎこちない柔らかな色を眸に浮かべた。

「お前みたいな奴に止められるかどうか分かんねーけど、まぁ、そう言う事にしておく」
「ナマ言うんじゃねぇ!! 場所はわかるんだろっ!? 急ぐぞ、剣也!!」

 屈託のない弥勒の声に尻を叩かれるように、剣也はかごめの匂いを求めて通路の奥に鼻先を向ける。どのくらい先行したあの二人に遅れを取ったのだろう?
 確かに二人の残した痕跡は追えるものの、気配はかなり僅かだ。このまま、自分が察知した方向に向かって間違いはないのだろうか?
 そんな不安が剣也の胸を掠める。あの時退いた敵方が、この先で体勢を整えていたら…、と言う恐怖感もある。勿論、あれだけの人数が動けばかなりの距離があっても前もって分かるだろうと、今なら剣也も感じている。

 その場面に対峙した時に、自分はどうすれば良いのか?

 それがまだ良く判ってないのだ。
 判ってないと言うより、決めかねていると。父や兄のように、何の憂いもなく敵を屠る事が自分にも出来るのかと。出来ない、したくないと思っている自分に。

「随分と入り組んだ地下通路だな。途中で何本も枝分かれした脇通路もあったが、この通路で間違いないんだな?」
「ああ、ここまでは親父や颯生も通っている。ただ、その後が……」

 そう言って小走りに駆けて来た二人が立ち止まったのは、脇通路と違う研究所の主通路の何本が交差してロータリーのように少し広くなった場所だった。
 直進する通路に残っているのは、父・闘牙のもの。左手側からはあまり気持ちの良い種類ではない微かな化学薬品の臭い。その臭いの中に颯生の匂いと何か腐ったような血腥い臭い。

「…こっちか。親父はこの組織の親玉の所に行くと言っていた。颯生はりんの所だろう。俺が行くのは ―― 」

 右手側の通路を睨む。この先がどうなっているのか、通路内を吹く風は剣也に多くは語らない。この先に、捜し求めているかごめがいるのかどうかも。

 意を決したように、右側の通路に足を踏み入れる。薄暗い非常燈の影が通路の壁に落ち、そこから邪悪な亡霊が湧いて出てくるような、そんなおぞましさを感じていた。


【12に続く】

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