【 白銀の犬 12 】
確かに睡骨は侵入者を『モンスター』だと言いはしたが、そんなモンスター並みの者なら、自分たちの身内にもいる。生化学実験の産物である凶骨とサイバテック技術の集大成のような銀骨。この秘密研究所のセキュリティー責任者として煉骨は、今回の何者かに対しての侵入劇に対して自分なりのシナリオを用意していた。
煉骨自身、自分たちの武力にかなりの信頼と自負を抱いていた。相手を舐めていたと言う事もあるだろうが、自分が出た最初のラインで仕留められると高を括っていたのは慢心だったと言われても仕方あるまい。それでも、自分たちの背後に第二のライン、第三のラインと配置していたのは策略家として当然の布陣。
「よう! どーするんだ、煉骨の兄貴!?」
「少し黙ってろ!!」
目まぐるしくこの秘密研究所のメイン箇所や通路の配置を考えながら、煉骨は次の手はずをどう置くかあれこれ試案していた。第一陣の稼動可能な兵隊を引き連れ、煉骨と蛇骨は通路の分岐点まで退却してきていた。左側の通路沿いには主に睡骨の研究関係の施設があり実験動物が飼われている。右側には煉骨の研究所と火器工場と人体ドック兼改造室。
このまま直進すれば、この研究所のメインシステムである四魂の珠の『氣』を抽出・配分する奈落のメインルームに辿り着く。今まで成功不可と言われてきた数多くの悪魔の実験の成功には、少なからずこの四魂の珠の『氣』の力が大きく関わってきていた。今はそのメインシステムの生体パーツである神楽の反逆でシステムそのものがストップしているが、それも盗み出された四魂の欠片を取り戻し、元のように四魂の珠を復元する。その上でどんな手を使ってでも神楽にパスワードを思い出させれば、後はどうにでもなる。システムを構築し直し、生体パーツの部分を切り捨てれば、もうこんな馬鹿な騒ぎは起きないだろう。そのつもりで奈落も神楽を煉骨の所に回してきていた。
( ふん、神楽をシステムに組み込んだのも奈落の都合だからな。取りあえず、あいつらの中の一人でも確保出来れば、もうその必要はないらしい。とすれば…… )
こういう時の常套手段は敵の勢力の分散。こちらが取った人質は二人。それも幸いな事に一つの檻に入れていたのをついさっき二箇所に分けたばかり。
( 確か年上の娘の方は奈落が使いたがって、自分の私室に連れ込んだんだったな。その側には蛮骨が付いていた筈。こちらはあの家の者ではないから、さして重要ではないかもな。ならば、あちらの娘の方を厳重にした方がいい )
「蛇骨! お前、睡骨の方に回れ!!」
「あ…? あの、メスガキのとこかぁ?」
「ああ、家族大事なら配分が二対一になりかねんからな」
「なるほど。判った! じゃ、俺こっちに行くな!!」
「そっちには霧骨も配置しているから、もしかしたらお前の手を煩わせる事もないかも知れんが、用心に越した事はない」
ひらりとした身のこなしで蛇骨は、半数ほどの兵隊を連れて左側の通路に消えて行った。
「…こちら側には凶骨と蛮骨か。あいつらなら大丈夫だろう。俺たちも急いで奈落と合流するか」
足早に残った煉骨も先を急いだ。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「誰だっ!?」
通路に踏み込んできた蛇骨を静止させる声。
「俺だ、俺! 蛇骨様だ。煉骨の兄貴の言いつけで、睡骨の兄貴を手伝えってさ」
「そうか。まぁ、お前の出番はないぜぇ。この霧骨様の毒で仕留めてやる」
「そーゆーのは仕留めてから言えよな。相手はマジモンの化け物だからよ。ここをちゃんと密閉してからやれよ、毒まくのは」
自信ありげににやつく霧骨の側を足早に通り過ぎながら、自分たちの背後をしっかりと密閉させる。そのせいもあって、その霧骨の自信とともに早々とラインの一端を颯生に突破された事に気付く事はなかった。
鼻の利く颯生であっても、厳重に密閉された空間ではりんの匂いを辿る事など本当は出来なかったのだが、蛇骨に僅かに残ったりんの残り香が颯生を左側の通路に指し招いたと言えるだろう。侵入前の状況と大きく異なり、研究所内部を細かくブロック単位で区切られ密閉されているので、りん達の居場所を教えた犬笛の音どころか僅かな匂いの跡さえ感知出来なくなっていた。
そう言う意味ではこの場合、蛇骨は颯生にとっての水先案内人のようなものだった。
自業自得、自分の作り出した毒で悶死した霧骨の死体を省みる事なく颯生は鋼鉄の壁の向こう側に駆け込んで行った。辺りの空気にあの蛇骨の臭いとりんの微か匂いが残っている。この匂いを追って行って、目的に辿り着けるかどうかは賭けのようなもの。だが少なくともこの胸糞悪い臭いの男を責め上げれば、りんの居る所は吐かせられるだろうと颯生は思った。
薄暗い通路内を、匂いを追って走り抜ける。途中で何度か障壁にぶつかったが、それはあくまでも障壁だけ。なるべく手駒を使いたくないのか、兵隊が配置されている事はなかった。障壁を潜り抜けるたびに、雑多な臭いも強くなってくる。そして、その中に ――――
( りん!! )
颯生の金色の獣眸がぎらりとひかる。
まだ生々しいりんの匂い。鼻が利くだけに、そこから多くの情報を得る事が出来る。うっすらと滲む血の匂い。恐怖で怯えた震えるような汗の匂い、薬品の臭いも混じっている。くわっと、颯生の腹の底から怒りの熱い炎玉が膨れ上がった。駈ける足並みが風を切る。
障壁は自分達の攻撃の為に、開けられていたのだろう。りんを収容していた檻へ続く通路に颯生が飛び込んだ瞬間、一斉に蛇骨が連れていた兵隊たちから銃撃された。通路内を移動しやすくする為に身体を小さくしていた颯生だが、それでも弾幕を掻い潜る間には身体を掠める弾もある。威力は半減していても、壁に当たって返ってくる跳弾もかなり厄介だ。
銃声が静まり硝煙が薄れてゆく中、蛇骨は鋭い視線でその中から出てくる者を睨みつけていた。明らかに激しい怒気を身にまとって、颯生がその中から姿をあらわす。一斉に振り注いだ銃幕を掻い潜った白銀の毛並みは所々血の色が滲み、その怒気と相乗されてさらに凄みを増している。
「へぇ〜、便利だな! 小さくもなれるのか!! まぁ、どっちにしろ化け物は化け物だな!」
嘲りながら蛇骨が、愛刀を肩に担いだようなポーズで颯生の前に立つ。その背後から、嬉しさを隠しきれないような表情で、睡骨がりんを小脇に抱えたまま颯生の全身を嘗め回すように見ている。
「こうしてまた貴方に会えるとはな。まったく、嬉しすぎる再会だ」
「再会? 私はお前など知らぬ」
さも嫌そうにそう颯生が言い捨てた。
「ああ、貴方は気付いていなかったのでしょう。あの時は瀕死の赤ん坊を助けるのに必死で」
「あの時……?」
「そうです。八年前の事故のあの時の事ですよ」
不覚にも颯生は一瞬、身を竦ませた。
「今更言うまでもありませんが、あの事故は私たちの組織が起こしたものです。それぞれの適応性や商品価値を見定めて、あの列車に乗り込ませたのです」
「適応性…、商品価値?」
「ええ、そうですよ。研究の為の実験体として適応性の高い乳幼児や、移植用のパーツとしての者などですね」
「お前たちは……っ!!」
颯生の眸に血色が滲み、今にも蛇骨を飛び越えて睡骨に飛びかかろうと身を撓(たわ)ませる。
「止めた方が良いですよ。貴方が私の喉元に喰い付くのと、私がこの娘の心臓にメスを突き立てるのとどちらが早いでしょうね?」
睡骨の小脇に抱えられたりんの身体を下から支えている手には、今までりんの体自体で陰になっていたが睡骨愛用のメスが握られていた。
「……まぁ、私としては試してみたくて仕方がないのですけどね。貴方のように弾幕を潜り抜けても不死身なように、この娘も不死身なのかと」
じりじりと言葉で颯生を追い込んでゆく。りんが人並み外れた健康体であっても、それが犬神家の男達の様なものでない事は、採取したサンプルの簡易検査と長年に渡っての研究・推察から導き出されていた。
「それに時間は掛かりましたが、私にとっては貴方自身が手がかりでもあったのですよ。人目を引く銀髪の少年。事故の後、そこにあるはずの姿がなく、代わりに赤ん坊の死体を銜えた白銀の犬が居たのですからね」
優勢に立った事を自覚している睡骨は雄弁であった。獣面であるからその表情は読み取りにくいが、己の才知の前に相手が屈辱の色を滲ませ睨み付ける視線の、なんと心地よい事であろうか。
( ふふ、少し前の奈落のようだな。どちらも愚かと言う事だが )
『りん』のサンプルの解析データを報告した時の情景を、睡骨は思い返していた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
プロフェッサー・ナラクの前に並べられたのは、睡骨が分析したばかりのりんの体から採取したサンプルのデータ。それをナラクは満足そうに眺めていた。
「睡骨、手ごたえは十分ありそうだな」
「それは、勿論。私の医者としての能力に賭けて、間違いありません。あの娘、一度はほぼ死んだはずの人間です」
「余程自信があるのだな。しかしあの娘、どうみてもただの人間にしか見えないが……」
「不老不死と言っても、いろいろなパターンが考えられるでしょう。恐ろしく成長が遅いと言うのも一種の不老でしょうし、瀕死の重傷を負っても回復出来るのならそれも不死の一種」
睡骨の持ってきたデータに改めて目を通しながら、ナラクが呟く。
「…ふむ。『りん』の場合は、その不死性が付いているという事か」
「ええ、それも後天的な。八年前の事故の折までは、適応性の高い赤ん坊ではありましたが、こんな数値が出るような要素はありませんでしたからね」
「事故の後で、『りん』にその『力』を与えた者が居るという事だな? 睡骨」
「そう言う事です、プロフェッサー・ナラク。正直な話をすると、私は八年前まで貴方が言われる『伝説の中の真実』など、これっぽっちも信じてはなかったのですよ」
「ほぅ…」
ナラクはデータの束を目の前の机の上に置き、立ったままの睡骨に下から睨み上げるような視線を投げた。
「確かに、人間の生物の可能性としての寿命を計算すると平均して百二十歳までは生存可能と出ます。ですが、それは貴方の言われる『不死』ではない」
「それで?」
「まぁ、それでも面白い研究だと思ったのですよ。人工的にどれだけ人間の体や生命をこの手で、造り変える事が出来るかと」
もう一度データの束をパラパラと捲り落とし、その束を睡骨の前に投げ寄越すナラク。
「あの時、あの白銀の犬を目にしなかったら、今でも私は貴方の事を狂人と信じて疑わないまま、自分の好きな研究を続ける為だけにここに居続けたでしょうね」
「ふん、ワシを食いものにするつもりか」
そんなナラクの皮肉など、あっさり聞き流す。
「この世のものとは思えないほど、それは素晴らしい生き物でした。その犬が居た席は、私が目を付けていた赤ん坊の隣。最初、事故前に私が一回りした時には、その席には銀髪の少年が座っていたんですよ」
「…事故の後には?」
「瀕死のりんを銜えた、その白銀の犬がいました。私は動物も実験の為に使いますから、ある程度の犬種などは分かります。あの犬は、私が知っているどの種類の犬とも違いました」
ナラクは睡骨の話を苦々しげな表情で聞いていた。それほど重要な情報を今の今までこの睡骨は己一人の物と、隠匿していたのだ。
「…その足取りを追うのに八年もかかったと言う訳か、睡骨?」
嫌味を込めて、そう言葉を投げる。
「ワシに知らせておれば、そんな時間の無駄をせずにも済んだものを」
「そうですか? 私とて研究バカではありませんよ。貴方に出来る事は、私も出来ます。その銀髪の少年が何者なのか、消息を手繰る手立ても存じてますから」
「それでも八年、か。確かに有能な男だな、睡骨!!」
あからさまナラクの侮蔑の言葉に、睡骨の表情が険しくなる。
ナラクと睡骨、ともに狂的な研究者であり『生』への敬虔さなど持ち得ない同極同士である。そのせいかお互い考えている事が良く似ており相手の胸のうちが読めるだけに、その反発心も半端ではない。僅かに睡骨がナラクに対して半歩下がるのは、ナラクがこの組織の首謀者であると認識しているからに過ぎなかった。
ある意味、ナラクよりももっとマッドな素養はこの睡骨の方が高いのだろう。
研究に関係ない組織の運営などに煩わされたくないと、割り切るだけに。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
( ようやく、ここまで追い詰めたか )
会心の笑みを浮かべて睡骨は目の前の狛犬姿の颯生を眺めた。確かに睡骨自身もこの八年間は長い月日であった。睡骨が銀髪の少年…、つまり八年前の颯生の足取りを追うのに時間が掛かったのには訳がある。
一つには、ナラクに気取られずに調査を進めなくてはならない為、表立っての動きが出来なかった事。
二つ目には、事故に合った列車の中でしか睡骨は颯生を見かけなかった事。あのサマーキャンプは、睡骨が研究のための実験体を確保するためと、組織の資金源として貴重な臓器を手に入れる為のものであった。その為に適応者にだけ、キャンプの無料招待状を渡していたのだ。
睡骨の頭の中には、直接自分が診た子どもの顔と身体的特徴のデータが入っていた。あちらこちらで小児科医の看板を掲げ、自分の配下の医師を置き、条件を満たしそうな子どもだけは自分で診る様にしていた。
だからこそ、それぞれ違う町で暮らしていたりんの家族のホームドクターであり、また珊瑚の家族のホームドクターでもあったのだ。もともと医者に掛かる事もない颯生だが、颯生の住んでいた町はその網から漏れていた地区でもあった。
その時、家を出て遠くに行こうと考えた颯生は家族に足取りを掴ませない為、人目につかない夜のうちに大人のスポーツ選手でも適わないような健脚で外国人風の容貌でも然程目立たないかなり遠方の都市まで行き、その都市の駅からその列車に乗り込んだのだ。
とにかく、遠くに行きたくて……。
自分が用意したリストにも颯生の名はなく、その後の事故の行方不明者の名前の中にも颯生の名は上がってこなかった。列車の中で颯生と接触したと思われるりんの家族は、あの事故で死亡しておりそちらからの情報は皆無であった。
睡骨は自分の腕の中のりんと、眼光でそんな睡骨を射殺さんばかりの颯生とを見比べた。
何故、こんな赤の他人である娘がそんなにも大事なのか見当もつかないが、りんがこちらの手の内にある以上、颯生は逆らえない。
りんはともかく、この颯生はどんな猛獣よりも危険な生き物である事は間違いないので、どう確保しようかと睡骨の残虐な血が燃え上がっていた。
研究者らしい冷静な態度のままりんを抱えている睡骨。颯生をいたぶるように、そして先ほどの言葉が決してこけ脅しではないと知らせるように、メスの冷たい刃先でりんの着ている病衣の前あわせを少し広げ、柔らかい素肌の上にメスの刃を乗せた。睡骨の腕に抱えられたりんはその不自然な体勢にも関わらず、身動き一つしない。それでりんの体から漂う薬品臭の正体に颯生は気付いた。
「……麻酔を使ったのか」
どう颯生を捕獲しようかと考えていた睡骨はその問い掛けに、穏やかなそれでいて底冷えのする狂人の視線を向けた。
「ええ、大人しくさせるには常套手段。ただし、この娘は『普通』ではないですからね。成人男性の三倍の量を投与しましたよ」
「なっ…!! そんな事をして、もしショック症状でも起こしたら……」
「何をそんなに驚いているんですか? 貴方らしくもない。大丈夫ですよ、死んじゃいませんから。それにもともとこの娘は一度は死んだ身。今更でしょう」
「何故、りんを…」
「あなたがこの娘に出会う前に、優秀な実験体として選んだのは私です。遅かれ早かれ、あの場で死んでなければここに来る事になっていたんですよ、この娘は。あなたが関わった事で、もっと興味深い対象になりましたけどね」
ぐっと颯生は身を屈め、内に秘めた怒りと共に睡骨に飛び掛るため後ろ足を少し上げた。
その時、不気味な光を瞳に湛え睡骨の口元に微かな笑みが浮かぶ。薄暗い冷え冷えとした通路内に、真新しい温かさを伴った血の香りが広がった。りんの肌蹴られた胸元に真っ赤な線が一本。傷の深さは子どもの皮膚より下に二・三ミリくらい。りんは麻酔で眠らされているから痛みを感じないでいるのだろうが、もっと深く切りつけ肉を抉る事くらい平気だと颯生に見せ付ける。
「……この娘が今ここで、こんな目に合うのは貴方のせいですよ。あの時、貴方が赤ん坊だったこの娘を連れ去ってしまったのですから」
「……………………」
「再びめぐり合えたのも何かの神の計らいかもしれません。それも、私たちが長年追い求めていた理想の姿で。この娘を隅々まで調べ上げれば、そして貴方がこの娘に何をしたかを知れば、『不老不死』もあながち夢ではないでしょう」
「そんなものの為に……」
睡骨に有利な状況のまま膠着してしまった、今の状態。二人の会話は研究などには関心のない蛇骨には退屈きわまりないもの。焦れた様に睡骨に指示を仰ぐ。
「よぅ、睡骨! こいつ、どーすんだよ!?」
「ああ、今それを考えていた所だ。霧骨がやられたって事は、大抵の薬品や毒は効かないってことだろうし。取りあえずは鋼鉄の鎖で拘束しておくとしよう」
睡骨の指示で、兵隊達が颯生の後ろに回りこむ。ここは実験用の動物を飼っておく為のスペースなので、猛獣用の鎖や拘束具なども揃えてある。それを取りに行かせ、颯生の周りを囲ませる。
「……そんな下賎なものに縛られる私ではない」
「いや、いいんですよ。暴れても、ここから逃げ出しても。ただ、そうなった場合この娘の心臓にこのメスを突き立てるだけですから」
「この下衆め!!」
蛇骨や兵隊達に用心させながら、颯生の前足首・後ろ足首に頑丈な幅広の手錠のような拘束具を嵌めさせた。それぞれの拘束具を繋ぐ太い鎖の長さは一メートル足らず。通路内を移動しやすくする為に身体を小型化したのが禍になっていた。
じゃらじゃらとコンクリートの床に鎖の立てる音が響く。忌々しげに颯生は燃える様な金の眸で睡骨らを睨み付けた。
「……高貴で誇り高い獣であるあなたには、今のその姿はさぞ屈辱でしょうね。この娘を見捨ててしまえば、そんな様を晒す事もなかったものを」
「守るべきものを持たぬお前などに、誇りの何たるかは判るまい」
「守るべきもの? そうですね、私にあるのはただこの研究心を満たせるモノがあれば、それだけで十分だと言う謙虚な思いですよ。それが、私の誇りでしょうか?」
「謙虚な…? 『命』の重さを知らぬものが、それを口にするか!」
二人の、いや一人と一頭の禅問答めいた遣り取りを呆れた顔をして、蛇骨が聞いていた。今はこうして拘束出来ているが、もとの巨体を知っているだけにやはりこれだけでは心許ないと、蛇骨は思う。
「なぁ、これだけで大丈夫かよ? 今はこんなに小さくなってけっど、ここに乗り込んできた時はこの通路を塞ぐほどのでかさだったんぜ? こいつがその気になりゃ、こんな鎖くらいは引きちぎりそうな気がする」
「……それもそうだな。ふむ、それじゃそこにある薬殺用のライフルを持って来い。念のため、五丁ある分全部」
「薬殺用のライフルって……、殺しちまうのかよ!?」
あれほど捕獲に熱心だった睡骨の意外な言葉。深く物を考える方ではない蛇骨にしても、疑問に思っても不思議はない。
「普通の動物なら死ぬだろうが、こいつなら死にはしないだろう。どの位効き目があるか判らないが、何も措置しないよりは安全」
睡骨の指示で五人の射撃手がライフルを構える。
「撃て!!」
短い号令と共に、五丁のライフルが火を噴き装填された弾丸の全てを吐き出した。。鉛の弾丸が詰められたライフルと異なり、無用の大型動物を殺す為に用意されたそれは、獲物の身体に当たった衝撃で弾丸の中の薬液が体内に注入されるようになっている。
颯生の足元に潰れて空になった弾丸の残骸がポロポロと零れ落ちた。
「……何を、打ち込んだ?」
「大型動物を下手に射殺しようとすると、その銃創の激痛で狂って予想も付かない反撃をしてくる事もあるんですよ。で、薬殺になるんですが……」
「………………………」
「畜生の本性って言うんでしょうか? どんなに飢えさせても喉を乾かせても毒の入ったものは口にしない奴もいるんですよ。そういう奴ほど危険でね、油断するとこちらが殺られるんです。近づけないので、ライフルで薬液を打ち込むようにしたんです。薬殺用に色々な毒やら劇薬などを霧骨が開発してくれますからね」
くらっと、拘束されてもしっかりと床を踏みしめていた足元が揺れる。先の毒ガス攻撃でも堪えなかった颯生の体が、今度はなにがしかの影響を受けていた。
「毒や劇薬でも苦しければ、暴れます。それも困るんで私がアドバイスを与えて作らせた強力な筋弛緩剤ですよ。どのくらいその効き目があなたに続くか判りませんが、今は立っているのも辛いでしょう?」
もともとは動物を安楽死させる為に使われる薬剤である。骨格筋を緩ませる働きがあり、使い方によっては医療上有益な使い方も出来るが、度を過ぎれば呼吸筋や心筋が動かなくなり死に至る。颯生はその特殊な生れつき故に、おおよその毒を解毒できる能力を持っている。ただこういう機能を抑制するタイプの薬剤を、最初から高濃度で大量に注入されると解毒が追いつかない。
「お…前……っ」
「ああ、やはり狙った通りでしたね。無骨の毒が貴方に利かなかったのは、霧骨が徐々に濃度を上げたからでしょう。では薬が効いている今のうちに、貴方の四肢を切断しておきましょうね。逃げ出せないように。きっとそんな姿になっても死ぬ事はないでしょうし、もし万が一にでも切断された四肢が再生するのなら、ぜひともそのメカニズムを解明したいものですしね」
全身の力の入らなさと、激しい息苦しさ。心臓の働きも低下しているのだろう、手足の感覚が無く目の前が暗くなってくる。
( くっ…、なんと言う醜態を……っ!! )
五感の全てが霞みかけた颯生を、激しく刺激するものがあった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
( あ…れ……? なんだろう、頭が凄く痛くて、気持ちが悪い…… )
足元が宙に浮いている感じ、お腹と胸元が酷く圧迫されて息苦しい。ざわざわと言う物音がりんの耳に波の音のように聞こえた。りんを腕に抱えている睡骨でさえ、りんの変化には気付いていない。りんに投与された麻酔薬はまだその効果を十分に発揮しており、本来ならまだ意識など戻るはずもないのだ。
りんが目覚めたのは、呼び合う者の存在ゆえ。
( ここ、どこだろ? りん、今 誰に抱えられているの? )
誰? と朦朧とした意識の中で思い浮かぶのは、りんにとって家族でありながら何故かひどく心魅かれる長兄である颯生の顔。
( 颯兄様…… )
少しずつ、感覚が戻ってきていた。最初、潮騒のようにしか聞こえなかったざわめきが、所々意味を持った言葉になりつつあった。それでもその言葉の意味は難しくて、りんには判らなかったのだが。感覚は戻って来ていたが、身体を動かせる所までには覚醒していない。瞼を開く事さえ出来ずにいる。
「……麻酔を使ったのか」
低く響く、冷涼な声。今、一番聞きたかった声。
( えっ…? この声は、颯兄様? )
りんの全身を、不思議な『力』のようなものが駆け抜けた。体の芯がじんわりと熱くなり、それが手足の隅々まで流れてゆくような感覚を味わう。それと同時に、今までに自分の身に起こった事柄を思い出した。
( 駄目っっ!! ここは、颯兄様が来ちゃいけない場所! 早く逃げて!! )
何が目的かよくは判らないが、りんは自分がとても危険な人間達に捕まってしまった事を知っていた。あの時の男達の言葉からすれば、自分達を助けに闘牙を始めとした『家族』がここに侵入したようだったのだ。
姉のようなかごめと引き離されて、それから ――――
( 途中で訳が判らなくなったのは、麻酔で気を失っていたからなんだ…… )
朦朧とした意識の片隅であまりにもいっぺんに色んな事を考えたせいか、りんは自分を捕まえている者とそれに対峙しているだろう颯生の言葉を聞き漏らしていた。そんな朦朧としたりんの意識をはっきりさせたのは、颯生を脅迫する為に睡骨が新たにりんに付けた傷だったのは皮肉だろうか? それとも『神』の差配だろうか?
ズキズキと痛む傷と共に、りんの意識は明瞭になってきた。それと同時に、とてつもなく颯生が、『自分』の為に窮地に陥っているのも知らされた。意識ははっきりしたが、体の機能の方が追いついていない。重たいものを飲み込んだような心地でりんは指一本、瞬き一つ出来ずに、追い詰められてゆく颯生と追い詰める睡骨の遣り取りを聞いていた。
じゃらじゃらと言う鎖の音。自分達が入れられていた檻には、鎖を繋ぐ金具があった。まるで動物園の動物のように。
( 兄様にそんな事を…? いや、まさか…… )
考えれば考えるほど怖ろしい考えに、自分でも震えが来る。そんなりんの心を更に、蛇骨の一言が切りつける。
「薬殺用のライフルって……、殺しちまうのかよ!?」
( いやっっ ――― !!! 兄様、颯兄様っっ!! )
りんの耳に飛び込む鈍い複数のライフルの銃声。
りんの『想い』が炸裂した。
そして ――――
『りん』の覚醒。
筋弛緩剤の影響で足元のおぼつかない颯生の目に飛び込んだ光景は、睡骨がりんに当てていたメスをりん自身が握り締め、取り上げた姿だった。真っ黒な大きな瞳が辺りの薄暗い照明の光を受け、青い光を発している。
その瞳に映るのは、本性を顕にした『殺生丸』としての颯生の姿。この姿を恥じる事はない。だが、それをりんに受け入れてもらえるとも颯生は思っていない。そんな時が来なければ良いとも思い、来たとしたらありのままを自分を見せ、それからはりん次第だと思っていた。
りんの小さな手からはメスを握り締めた事で掌が切れ、手首から下の床へと血が滴り落ちている。その血の匂いが、颯生の力の入らぬ筋力に活を入れた。
( えっ? 大きな犬? でも、確かに颯兄様の声がしたと思ったんだけど ――― )
初めて見る『犬』だけど、どこか懐かしいような気がする。白銀の美しい姿、金色の眸。あの毛並みの温かさを知っているような気がする。その美しい犬は鎖で繋がれ、先に聞いた睡骨の言葉が実行されるのなら、長い四肢を切断されるのだ。
「逃げて!! わんちゃん! ここに居たら、酷い目に遭わされるよっっ!!」
りんは握り締めたメスをそのまま睡骨の手からひったくるようにして奪うと、空いている手で睡骨の身体を強く押し、睡骨が怯んだ隙に今まで見せた事のない身軽さで狛犬姿の颯生の元に駆け寄った。小さな身体で颯生を庇い、奪ったメスで凶悪な睡骨や蛇骨・その兵隊達に対峙する。
「お前のようなガキに何が出来るっっ!! なぶり殺すぜ! 睡骨っっ!!」
りんの思いも寄らない反撃に、怒りも顕に蛇骨が愛刀を閃かせた。
それを ――――
颯生が、いや『殺生丸』が筋弛緩剤の呪縛を振り切り身体を巨大化させ、自分の四肢を縛る拘束具を引き千切った。そう、蛇骨の危惧したとおりに。
蛇骨が振り翳した刃がりんの上に振り下ろされようとした瞬間、その刃は殺生丸の左前脚に払われ、大きな弧を描いて蛇骨の元に跳ね返っていった。
「りん! 私の背に乗れっっ!!」
「はい!!」
その声は誰よりも深い信頼を寄せている颯生のもの。例え姿が人外のものであろうと、そんな事はりんに取って問題ではなかった。颯生が颯生であるのなら、りんに取っては ――――
鎖や拘束具を引き千切る為に巨大化した身体をりんが乗るのに丁度良い大きさにまで変化させる。その様子を、さらに熱狂的な目で睡骨が見つめていた。少し頭を下げた颯生の背に、ひらりと軽く跳躍しりんがその場に収まる。
「しっかり掴まっていろ、りん!」
「はい、颯兄様!!」
ぎゅっと白銀の毛並みを掴み締めるりん。鋭利なメスで切った掌の傷からはまだ血が滴り白銀を赤く染める。ふと足元を見れば颯生の左前脚からも血が滲んでいた。蛇骨の刃を払いのけた時に、足を割かれていたのだ。互いに傷を負った二人。疾風の勢いで自分の周りにいた兵隊共を跳ね飛ばし、もと来た通路を走り抜けて行く白銀の犬とその背の少女。
窮地を脱した二人ではあったが、それでもまだ道は険しい。
「……素晴らしい、素晴らしい生き物だな。あれらは!」
感極まった様な調子で、嬉しささえ滲ませそう言葉を紡ぐ睡骨。その言葉を苦々しげに蛇骨が否定した。
「何が、素晴らしいだ!! バケモンじゃねーか、あの犬もガキも!! 毒も劇薬も効かない、殺しても死なないようなバケモノと、ガキのくせに刃物を素手で握る人間じゃねーような娘。この俺をコケにしやがって!」
「あれこそが、求め続けた『不死』の秘密。何としてもこの手にあれらを捕らえたい!!」
あの一瞬に放出された覇気というのか神気、いや妖気かもしれないものに気圧されて取り逃がした事に激怒している蛇骨。それに反し睡骨はますます研究対象への偏愛の度を増している。どちらにせよ、この者らの手に落ちればそのまま生き地獄を味わう事になるのだろう。
「おい! お前らっっ!! 何をぼーとしてやがる! さっささとあいつらの後を追え!!」
蛇骨の檄が飛び、颯生達の後を追う兵隊達。通路に消えてゆく蛇骨達を見送りながら、睡骨はこの研究所のあらゆる場所がモニター出来るナラクの居るメイン・ルームに向かう事にした。このままあの二人がこの研究所を飛び出してしまう事も考えたが、それでもまだ一人人質がいる。他の家族も研究所の中に潜んでいる。どこかで合流すると思うほうが、合理的だと答えを出していた。
慌しい足音が遠くなり、しんとした静寂が戻ってくる。その静寂の中を歩みながら、睡骨はりんの身に起きた変化が何であるかに思いを馳せ、表情に浮かぶ笑みを隠そうともしない。何がきっかけだったのか、それはこれから調べればいいだろう。治癒力の高さだけではなく、一瞬にしてりんの身体能力が上がったのを、睡骨の医者としての眼が見抜いていた。
【13に続く】
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