【 白銀の犬 13 】



 真っ白な、いや白銀の輝く体毛をしっかり握り締め、りんは獣化した『殺生丸』の背に掴まっていた。狭い通路内を殺生丸こと颯生が駆け抜けてゆく。

( ……優先させるべきは、りんの身柄の安全か。が、どこに置いたものか――― )

 自分の背中に軽いが確かな温かさを感じつつ、颯生は思考をめぐらす。このまま外に駆け出す事も出来るだろうが、自分にはまだここでやらねばならない事がある。ここを潰す、これから先の禍根を残さぬ為に。
 
 りんのような目に遭う人間を出さない為にも。
 幼くして両親・兄弟を失くしたりん。今またその身がこんな危険な目に遭っている。あの時、奇跡が起きて助ける事が出来たその命を―――

( 安全性を考えればやはり警察、か。いや、あの女……、桔梗に託しても話は通りそうだが、それにしてもこの姿のままではな )

 通路を途中まで戻りかけた所で、りんが颯生の背で呟いた。その声が、もう一つの事実を颯生に突き付ける。

「ねぇ、一つ聞いてもいい? 颯兄様」
「りん……」
「……颯兄様、どうして犬の姿なの?」

 ぴくりと颯生の足が止まる。自分たちの背後からは、怒りも顕に二人を追いかける蛇骨達の足音。

「恐ろしいか? りん。人でない私の姿に」

 その問い掛けに答えるように、颯生の首周りに回したりんの手にぎゅっと力が篭る。

「ううん、そんなことはないよ! 颯兄様は、颯兄様だもの!! ただ、どうしてかなぁって……。りんもそんな風になるのかなぁって」

 りんの言葉に偽りはない、自分の背から感じるりんの全てに、自分に対する恐れや拒絶は感じられなかった。ならば、今まで黙して語らなかった事を、語るべき時が来たのかもしれない。それが今、この時であるのは何の巡り会わせだろうか。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「……りん、お前は『犬神家』の者ではない」
「えっ……」

 りんの小さな身体に走る衝撃を、颯生は背中越しに感じた。

「それだけではない、お前は一度は死んだ、いや死に掛けた身だ」
「あっ、それ……」

 感情を見せぬ声音で、淡々と語る颯生。その言葉の意味は―――


( あの時、あの少年がこの子を庇わなければ、即死でもおかしくなかったんですよね )


 自分の身体を切り刻んだあの医者が呟いた言葉が、真実だったとりんに教えていた。

「そっか、そうなんだ。りんと兄様は他人だったんだ。うん、なんとなく分かっていたよ。りんと兄様じゃ、やっぱり全然似てないもんね」
「りん……」

 颯生の背を握り締めていたりんの手から、少し力が抜ける。背中越しに伝わるりんの感情は、『悲しみ』。

「どうしてりんが犬神の家に来たか良く判らないけど、ごめんね。りんのせいで、こんな事になっちゃって……」

 今までのスピードで通路を走り抜けると、背中のりんを振り落としてしまいそうで颯生は駈ける速度を落とした。このままでは、先に進めない。わずかな時間でも良い、ちゃんとりんの顔を見て最低伝えなければならないことを伝えないことには。
 立ち止まり、周りを見回した颯生は通路沿いの壁からかすかな空気の流れを感じた。ここに来る途中に倒した霧骨もどこからともなく現れたことを考えると、隠し扉や通路があっても当然だろう。当たりをつけて壁を良く見てみると、巧妙に隠された扉のスイッチを見つけた。

「りん」
「あ、はい!」
「追っ手の目を逃れる為に、こちらの通路に入る。そこの隠しのスイッチを押せ」

 頭を下げ、りんが背から下りやすくする。颯生の指示通りりんは背を下りると、隠しのスイッチを押し隠し通路へ続く扉を開いた。大人が一人通るくらいな狭い扉、扉を開いたりんが心配そうな表情で颯生を見る。どうみても今の颯生の獣体では、この扉を潜り抜けられそうにないとりんは見たのだ。颯生の体の大きさを変えられる能力の程度を、りんはよく判ってはいなかったのでその心配は当然のものだった。
 そんなりんの目の前を、しゅんと風が吹き抜けるように白銀の光が走った。

「扉を閉めろ、りん!」

 普通の大型犬ほどの大きさに変化した颯生の声を聞き、反射的にりんは隠し通路に飛び込み内側から扉を閉めるスイッチを押す。扉が閉まるのとほぼ同時に、自分達を追ってきた蛇骨やその兵隊達の足音や命令を飛ばす声が壁越しに聞こえた。

「颯兄様……」
「黙っていろ!」

 小さく叱責され、隠し通路の中で身を竦ませるりん。通路の中は最低限の照明が灯され、辛うじて歩ける程度。じっと壁越しに通路の外の音を聞き分けている颯生の姿に、りんは小さくうずくまって颯生の様子を見ていた。
 遠くの音を聞き取っていた風な颯生が身じろぎほんの少し緊張を解くと、薄暗闇の中でりんの顔を真正面から見つめた。弱々しい照明の灯かりを受けて、颯生の眸が力強い金色の光を返す。りんの瞳もその光を青く染めて返している。

「……ごめんなさい、兄様。りんがこんな悪い奴らに捕まっちゃったから、みんなが酷い目に…………」
「……お前があやまる理由はない」
「でも!」

 颯生はその獣面をさらにりんの顔近くに寄せた。そしてすっと金色の眸を伏せると、りんの耳元に狼のような鼻先を押し付け、囁くように言葉をかけた。

「……私のせいだ。お前があいつらにこんな目に遭わされたのは」
「兄様?」
「赤ん坊だったお前に、私の血を飲ませた。お前を死なせたくなかったから――― 」

 そのままりんの耳元から首筋に鼻先を擦れさせ、肩から腕に下り、自分を助けようと睡骨のメスを取り上げる際に傷つけたりんの掌を、温かくてざらりとした舌で舐める。颯生の舌先に滲むりんの血の味は苦々しい程に、今の颯生を苦しめる。あの赤ん坊だった瀕死のりんを助けたいばかりに、自分の『犬神』の血を飲ませた。海の向こうのモンスターである吸血鬼や狼男達が『血の交わり』をもってただの人間を自分たちの仲間へと引き入れるように、『犬神』の血もまた同じような作用を持っていた。
 あの時の颯生には他に方法がなかった。強すぎる『犬神』の血が、与えられる者に劇的な変化を、いや獣化を促す危険がある事を承知していても、自分の血をりんに飲ませるしかなかったのだ。瀕死の赤ん坊には猛毒かもしれない自分の血を ―――

「どうして……?」

 颯生に傷付いた掌を舐めさせながら、りんは目の前の見事な白銀の毛並みに触れた。温かくてもこもこしたこの感触は、自分の一番古い記憶の中に確かにある。知らずりんは、撫でるように颯生の身体に触れていた。

「判らん。ただ偶然乗り合わせたあの列車で、お前の笑顔に救われたからか……」
「りんの中に、兄様の血が流れてるの? だから、犬笛の音が遠くまで聞こえたり、怪我が直ぐ治ったり……?」
「ああ、そうだ。お前を、『人でない』モノにしてしまった。だから、やつらに目をつけられた。いや、目的はこの私か―――」

 颯生に舐めさせていた掌をりんがすっと外した。

「りん……」

 りんがおぞましく感じるのも無理はないと思う。知らぬうちに自分が人でないモノに変化させられ、家族と思い信頼し暮らして来た者達がこんな化け物では。
 りんの口から、どんな言葉がほとばしるのだろうかと颯生は身構えた。どれほど責められようとそれに返す言葉を自分は持ってないことを痛感しながら。

 だが ―――

「…あ、あり、ありが…とう、ありがとう、颯兄様!!」
「りん……」
「ずっと、ずっとりんの事を守ってくれていたんだね。本当ならりん、赤ちゃんの時に死んでいたんだよね? お母さんは早くに亡くなったけど、それでも優しいお父さんや颯兄様や剣兄と一緒で、りんずっと幸せだったよ。今も、そう思ってる」
「……………………」

 りんの手が、蛇骨とやりあった時に切り裂かれた颯生の前足に優しく触れてくる。

「りん、大好きだから! 颯兄様もお父さんも剣兄ちゃんも!! ずっとずっと一緒に居たいから!!」

 まだ血が滲む颯生の前足にりんは幼い唇を寄せると、颯生がそうしてくれたようにそっと傷口を小さな舌で舐め始めた。薄闇に自分の流した血で赤く濡れ染まったりんの唇は、颯生の中のまだ名前のない感情に火を付けた。りんを助けたいと思った感情から更に進化し始めた感情。


 だから、出遭ったのかもしれない ――――


「りん、お前は良いのか? それでも……」
「えへへ、りんちゃんと覚えてるよ。兄様の毛並みの温かさも、この味も。普通でも普通じゃなくても関係ない! りんが在りたいのはここ、兄様の側なんだもん!!」

 りんの瞳が弱い照明に反して、きらりと青い強い光を返す。それはまるで、野生の狼の眸のように。颯生の血を舐めたせいか、りんの全身から幼い少女のものとも思えない野性味に満ちた覇気があふれ出す。

「そしてね、りんこのままじゃいけないって思うの。なんだか物凄く許せない気がするんだ」

 りんの言葉に、険しかった颯生の眸がほんの微か和らいだ。

「犬神の一族は、この世の『理』を守る守護獣の一族」
「颯兄様」
「りん、お前も立派な犬神の一族だな」
「はい!」

 りんは大丈夫だと、そう颯生は思った。そう思う自分が一番安心している事に気付いてはいなかったが。全てを知った上で、自分の側に在りたいと言ってくれたりんの、その言葉。この時からりんは颯生にとってただ『守る』だけの存在ではなくなった。

「そこまで判っているならりん、お前に言って置く事がある」
「はい、兄様」
「お前も感じているように、この場所はあってはならないもの。今、剣也がかごめを助けに行っている。父上はこの研究所の中枢に向かっている。私もそこへ向かう」
「りんも一緒に行きます!!」

 ここで怖ろしい目に遭い、震えていたりんとはまるで別人のようだ。そんなりんを好ましげな眸で見やりながら、出来る事と出来ない事の一線を颯生は引く。

「……いや、お前が来ては足手まとい。この研究所を出た先で、コハクが連れてきた人間たちが待っているはずだ。お前はそこへ行け」
「でも……」
「先にやり過ごしたあの連中の背後から私が襲って隙を作る。お前は全力で走り抜けろ。今のお前なら出来る」
「りんも犬の姿で?」

 真顔で聞いてきたりんのその素直さに愛しさを感じ、本能的にりんの顔を舐め唇に触れた。顔を見つめ合わせるような体勢で、颯生が小さく言った。

「いや、お前はお前のままで。お前がこの姿になることはない」
「そっか、ちょっと残念かも。兄様のように犬の姿で駈ける事が出来たら、気持ちいいかなって思ったんだ」

 そう言ってりんは笑う。どこまで柔軟な心を持っているのだろう、この娘は。この心の、魂の柔軟さが颯生の『犬神の血』を受け入れさせ、りん自身の命を救ったのかもしれない。

 そろそろやり過ごされた蛇骨達が研究所の入り口あたりで不審気に辺りを警戒している頃だろう。少しりんの顔から視線を外し、首を上にあげて外の様子を気配で探る。

「颯兄様」

 通路外の様子を探っていた颯生の首にりんの手がかかる。その声に、颯生が視線を戻すと―――

「りん!?」

 今まで颯生が生きてきた時間の中で、これほど間抜けな声を出した事はないだろう。

 りんの幼い唇が、自分の獣面の口元に触れていた。小さな舌で、僅かに開いた口元を舐めるように。

「えへへ。さっきのお返し。よく犬が顔を舐めたりする事があるけど、あの気持ちが判ったよ。嬉しいからするんだね!!」
「りん……」
「りんは本当は兄様と兄妹じゃなかったけど、でも今はもっと『仲間』みたいな気持ちがして、それが嬉しいんだよ」

 りんの唐突な行動。颯生は今が変化中である事をありがたいと思った。もし人型であったなら……、顔の赤さは隠せなかったかもしれない。

「……りん、扉を開けろ」
「はい、颯兄様」

 りんが扉を開く。颯生が先に出ると、りんの見ている目の前で一度だけ大きく身震いをし、見る間に先ほどの姿より一回り大きな姿に変化する。

「凄い…、こんなに大きくなる事もできるんだ」
「手を貸さなくとも、背に乗れるな」
「うん、大丈夫!」

 りんは軽やかに颯生の背を二度三度とステップを踏むように駆け上がると、抱えきれないくらい大きな首周りを、自分の小さな手でしっかりと力強く握り締めた。

「振り落とされるな、りん!!」
「はい、颯兄様!!」

 もうその存在を潜める事無く、颯生とりんは出口に向かって疾走していった。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 弥勒が言った時間はもう過ぎていたが、応援の警官隊はまだ到着していなかった。こんな時の時間の歩みの遅さは、かなり神経に堪える。
 辺りは人気のない造成地。繁華街から十キロ程しか離れてないが、周囲に物音も無ければ明かりもない。山裾野に広がる郊外の田園風景とも異なる、居心地の悪い場所である。

「弥勒兄、遅いな……」

 もう何度目かになる呟きを珊瑚は零した。阿波野刑事がハンドルを握るパトカーの中で、息が詰まりそうな気持ちを抱えたまま珊瑚はもう一度、隣に座る桔梗の表情を伺う。その桔梗がびくんと何かに反応し、車のウィンドー越しに暗い夜空を見遥かし視線を遠くに流す。

「桔梗さん……?」
「今、何か聞こえなかったか?」

 二人の会話が聞こえたのか、運転席の阿波野刑事が後部座席側に顔を向けながら会話に加わる。

「……確かに。さっきは判りませんでしたが、あれは発砲音だと思いやす」
「やはり……」
「発砲音って…、それじゃ弥勒兄はっっ!?」

 珊瑚の顔色が変わる。桔梗や阿波野刑事の言葉に耳を済ませれば、遠くで打ち上げられている連発花火のような音が微かに聞こえた。今が夏ならばそう思い込みたくなるような、そんな音。

「ちっ…、遅いでやすね、援軍も」

 居ても立ってもいられなくなったのだろう、珊瑚がとっさにパトカーの外に出ようとした。その手を引きとめ、桔梗が言う。

「桔梗さん!!」
「外に出て、どうするつもりだ」
「どうする、って……、だって ――― 」

 ぐい、と珊瑚の手をさらに引き、腰を落ち着かせる。

「私たちだけで後を追ったところで、邪魔にこそなれ助けにはならん。大人しく援軍を待つほうが得策だ」
「でも ―― 」
「おそらく、弥勒の身は大丈夫だろう。怪我くらいはするかも知れぬが、『あの者』らがいる以上、その名にかけて、な ――― 」

 桔梗の言葉は正しい。判ってはいても、心が騒ぐ。

「ああ! どうしたってんだ!? なんで援軍がこねぇんだ!!」

 焦れているのは珊瑚だけではなく、この阿波野刑事にしてもそう。むしろ一般人である珊瑚より刑事である阿波野の方が、この応援隊の遅延に苛立ちとも焦りともつかない感情に揺さぶられていた。二人の焦りにふと疑念が湧いたのか、珊瑚を車内に残したまま自由の利かない足を杖で支えて、車外に出た。暗い夜空を見回し、得心がいったというような言葉がもれ出る。

「うむ。そうか、それは私としても迂闊だったな」

 それから造成地の入り口の方へ身体を向け、手にした杖で空間を大きく切るような仕草をした。それから間もなく、赤色灯もサイレンも潜めた三台のパトカーが到着したのだった。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 援軍要請を受け、直ぐに出発した風守刑事以下三台のパトカーに分乗した警察官は、なぜか目的地直前で堂々巡りをしていた。住宅地造成中でその辺りまでくると地図は空白になっている。それでも目の前にその場所が見えているにも関わらず、そこに辿り着けないのだ。真っ直ぐ走っているつもりなのに、いつの間にかその道は目的地から大きく逸れて行く。一本道であるにも関わらず!

「風守刑事! 何か変です、この辺り一帯は!!」

 ハンドルを握る警察官が顔に脂汗を浮かべながら、何かの指示を仰ごうと弥蔵に声をかけた。弥勒の父でもある弥蔵は、『氣』を扱う古武道の達人でもある。この地域に差し掛かった時に感じた違和感の正体に気付いていた、気付いてはいたが、自分の力ではこの結界を開く事が出来ないでいた。

「んっっ!? なんだ、あの光は?」

 結界への入り口を探し、堂々巡りを続けていた弥蔵の視界に薄白紫色の光が一閃、地から天へと走った。その光で分けられた左右の景色が、夏の陽炎のようにゆらりと揺らめいている。

「光…? 光なんて見えませんが……」
「お前には見えてないのか? そうか、それならもしかするとあそこからなら中に入れるかもしれん!」

 先頭を走るパトカーの中にいた弥蔵は後続のパトカーに自分達の後に続くよう指示を出すと、その光の境目に向けてアクセルを踏み込ませた。


「すまん、遅くなった!!」

 到着するなり桔梗の姿を見つけ、弥蔵がパトカーから飛び出してきた。

「いや、私も迂闊だったのだ。あの者らがここに結界を張る事を見落としていたのだからな」
「あの者ら…、それは私が長年追っているナラクの事ですか?」
「いや…、ナラクは醜き人間の欲望の成れの果て。『氣』を操り、結界を張るなどの人外な事象を行う事は出来ない」
「では、何者が……」
「そうだな、一番馴染みやすい言葉で言えば『神』か。とてもそうは思えぬがな」

 桔梗には珍しく、抑えたような笑みがその声の調子に含まれていた。

「私は巫女ゆえ、その力を僅かだが使う事が出来る。早く気付けば良かったな」
「桔梗さん……」

 弥蔵も体術においては人間離れしていると良く言われるが、この今にも倒れてしまいそうなか弱い女性の桔梗の方が、もっと人間離れしているように弥蔵には思えた。

「風守のおじさん!! お願い、急いで! 弥勒兄が先に侵入した後、林の方から発砲音がしたの!!」

 先ほどから居ても立ってもいられなくなっていた珊瑚がパトカーから飛び出し、必死に訴える。

「発砲音っ!? 間違いないか、阿波野っっ!!」
「はい! 間違いねぇです!! 今は止んでますが先に二回、間違いなく!」

 阿波野刑事の報告に、弥蔵をはじめ応援の警官達が色めき立つ。

「よし! 滝寺警部に報告して警官の増員…、いや機動隊の応援要請しておけ!!」

 弥蔵の一喝のもと、阿波野刑事が無線に飛びつく。ただならぬ緊張感が、そこにいた者全員に走る。今、この現場の指揮はこの弥蔵に任されていた。

「阿波野」
「はい、弥蔵の旦那」
「お前は、この二人を安全な場所に送ってゆけ。ここは一般人の、ましてや若い女性が居てもよい場所じゃないからな」
「判りやした。では……」

 車外に出た珊瑚と桔梗を促し、パトカーに乗せようとする。

「でも、おじさん! 弥勒兄がっっ!!」
「あの、馬鹿……。自分の身の程も弁えずに、危険に飛び込みやがって!! ああ大丈夫だ、珊瑚ちゃん。あいつはちゃんと連れ帰って、こってり油を絞ってやる」

 弥蔵はこれ以上、この場所での会話は不要と判断し、手で阿波野刑事に二人をこの場から連れ出すよう指示した。

「……風守刑事。私も珊瑚を安全な場所に連れて行くのは賛成だが、私までこの場を離れる訳には行かぬと思う」

 静かで重みのある声。病身でか弱そうに儚そうに見えるのに、そう言った桔梗の全身から峻烈な青い気迫が炎のように立ち上がっていた。

「桔梗さん……」
「風守刑事ならわかる筈、ここに直ぐにこれなかった訳を。この先にもう一層、あの者らの結界が張ってある。私が在らねば、結界は切れまい」

 その言葉で、珊瑚は桔梗が言った『手を貸してくれ』と言った意味を理解した。つまり、その結界を桔梗が開き警官隊を送り込んだ後、自由の利かない自分の体が足手まといにならないよう、移動する時のサポートをして欲しいと言う意味だったのだと。
 ここでグズグズしていては、時を逸する。桔梗は珊瑚の手を借り、弥勒が潜入していった林の中へ入っていた。桔梗の周りで先ほど弥蔵が目にした、薄白紫色の光が揺らめく。弥蔵達も、その後について行くしかなかった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 先行した父・闘牙や兄の颯生より少し遅れて、剣也と弥勒も大きな分岐点である中央ロータリーに着いた。そこで匂いを手がかりに右側の通路を進み始める。この秘密研究所の配置がまるで判らないので、侵入者である剣也達には甚だ不利な状況。その上で人質まで取られている。また人質を一箇所に集めておくような馬鹿な真似をするような連中でもなく、否応なくこちらの勢力を分散させられてしまった。

 しばらく右側の通路を進んで行くと、前方から微かに風が吹いたような気がした。色んな動物の臭いに混じって、人間のそれも若い女の匂いがした。しかしそれは剣也が知っている、かごめの匂いではない。

「……不味いな。どうもかごめの他にも人質がいるかも知れない」
「剣也?」
「人間の、若い女の匂いがする。もちろんかごめじゃないが」
「そうか…。ここまで来て見捨てて行くわけには行かないが、それにしても……」

 弥勒の声にも苦いものが混じる。目的はかごめの救出であるが、そのために見ず知らずとは言え、他の誰かを犠牲にする訳にもいかない。さらに前方から吹き付ける風が強くなる。それと同時にその先で何か、金属のきしむような音が小さく響いた。

「構えろ、弥勒!! 来るぞっっ!!」

 今度ははっきりとどこかの隠し扉が開くような音がした。それと同時に、今一番剣也が捜し求めていた匂いも一緒に吹き付けてくる。

「かごめっっ!!」

 剣也は一声そう叫ぶと、その音と匂いがした方向へと駆け出していった。通路脇に開いた脇道の奥で、かごめの匂いと機械のこすれる金属臭と火薬の臭いがする。かごめの声は聞こえない。眠らされているのか、あるいは……。
 先行した剣也に追いついた弥勒が、眉をしかめる。剣也の様子を伺い、前方の暗い脇通路の先を見通そうとした。

「剣也、どうだ?」
「……良く判らねぇ。色んな臭いが混じりあって、間違いなくかごめの匂いなんだけど、それ以上に機械や火薬やあと人間か何か判らないものの臭いの方が強くて――」
「罠、か」
「ああ、多分。でも……」

 苦悩する剣也の獣面を見やる。これを罠だと見破って、元の通路を先に進んだ方が良いとは思う。だけど、もし本当にここにかごめが居たとしたら……。行くも戻るも躊躇っていた二人の耳に、今度は間違いなく若い女の悲鳴が聞こえた。それがかごめのものかどうか確認する前に、剣也達は脇通路に飛び込んでいった。飛び込んで直ぐに、その通路は閉ざされる。

「やっぱりな」
「先に行けと言うなら、行ってやろうじゃないか! 匂いと声の正体を確かめてやる!!」

 剣也は金色の獣眸を光らせ、狭く暗い通路の中を走り抜けてゆく。かなり昔に作られたその通路を、その声と匂いを頼りにひた走る。二・三分も走っただろうか? 突然に目の前が大きく開けた。オレンジ色の照明が幾つも灯り、その照明の下に『人』とも思えぬ巨大な生き物が手に何か小柄な人のような何かを握り締めて立っていた。

「剣也! あれはっっ!!」

 その生き物の大きさ、照明の暗さ・陰の濃さでその手の中の何かが、弥勒の眼ではかごめなのかどうか判らない。

「……いや、違う。あれはかごめじゃねぇ」

 そう言いながら剣也は、前足を屈めぐるぐると喉声を唸らせながら、その巨大な生き物を睨みつけていた。剣也が睨みつけていたそれが、鮫のような牙を見せながらにやりとおぞましい笑いを見せる。目は真っ赤に血走り、畸形のように筋骨が膨れ上がっている。優に大人の男の五倍はありそうな体格、それに反し知性という物を感じさせない表情。剣也達をおびき寄せた手の中の餌ももう用済みと床に力を込めて投げつけた。ぐしゃり、という嫌な響きを立ててその『怪物』の手の中の哀れな生き物は息絶えた。あの悲鳴は、この見た事もない生き物の声だったのだろう。剣也の眸にはそれはかごめの制服のスカーフを肩にかけた、猿と人間の少女の合いの子のような顔をしているように見えた。

「げへへへっ、人間はぶっ殺す! お前、バケモノのお前は、半殺しだ」

 まるで小山が動いたような錯覚を覚えるほどの巨体が揺らぐ。これだけの巨体であれば、あの通路に入り込めば追っては来れない。そう思い、弥勒が背後を伺えば、そこはもう壁の一部になっていた。そのほんの僅かな隙を、その怪物が突いて来た。唸りを上げて、砕石機の鉄球のような拳が弥勒を襲う。

「危ねぇっっ!! 弥勒!」

 その腕目掛けて、跳躍した剣也が牙を立てる。それを振り払う間を突いて、弥勒が体勢を立て直した。振り払われ、壁に叩きつけられる前に剣也は牙を抜くと、怪物の腕を支えにして、自ら後方へ飛び退る。

「剣也、気をつけろ! どうやら俺達の動きは他の所からモニターされているようだぞ!!」
「モニター!? じゃ、他にもここには敵がいるっていうのか?」
「ああ、多分な」

 僅かに顔を見合わせた間に、弥勒は気づいた事を剣也に告げる。その時 ―――

「ああ確かにモニターしている。ここはワシの城だからな」

 どこからともなく響く、ナラクの声。

「お前っっ!! お前が、ここの首領か!」
「この城の主であり、また熱心な研究者でもある。『死』すらも凌駕して、この世の全てを手に入れる」
「……その為に、一体どれだけの罪のない人たちを殺してきた!!」

 弥勒の問い掛けに、答えはなかった。

「凶骨、その男を早く殺せ。研究対象でもないものは、ここでは不要だ」
「ぐへぇ、要らないんだな。潰していいんだな」
「ああ、普通の人間などは掃いて捨てる程いるからな。そっちのバケモノは息だけあればいい。あまり手間をかけるな」

 ナラクの声に指示を出され、凶骨と言う名の怪物が再び襲い掛かる。左右にぱっと飛び退った後、床にめり込む凶骨の拳。その攻撃をかわしながら弥勒は、辺りの様子を素早く観察していた。今は完全に通路を閉鎖され、この空間に閉じ込められているが、自分たちが入ってきた通路とは別の、もっと大きな通路があるはず。でなければこの巨体の凶骨をこの場所に待機させる事は出来ない。
 他の狭い通路もナラクのいるモニタールームで監視され操作されているのは、自分たちがこの場所に誘導されてきた流れを見れば自ずと判る。

( ……まず、凶骨の攻撃を避ける振りをしながら、この部屋のどこかにある隠しカメラとマイクを潰さないとな。どちらにせよ、この研究所内を移動するのはモニターされるのだろうが )

 弥勒は身をかわし続けながら、次にどう手を打つか考えていた。生体工学で強化された凶骨の拳が床のコンクリート材を砕き続けている。

「弥勒、危ねぇっっ!!」

 砕かれたコンクリートの欠片に足を取られ、体勢を崩しかけた弥勒の頭目掛けて凶骨の拳が唸りを上げる。それを庇おうと剣也が間に割り込み、背中を強打される。

「大丈夫か! 剣也!!」

 ぐっと、息が詰まったが気絶はしない。いや、出来ない。

「ああ、大丈夫だ。このくらいでやられてちゃ、親父や兄貴に笑われっちまう」
「そうか。剣也、ちょっと俺の話を聞け。ここを抜け出す!」
「ああ、何か良い考えでも?」

 弥勒は攻撃を避けながら、幾つかのコンクリートの欠片を上着のポケットに隠し持っていた。

「あいつを倒しても、ここでの様子をナラクに監視されていたら次の動きが制限される。だから……」

 
  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「ふ…ん。力だけ図体だけの出来損ないだが、あのバケモノの力を調べるには丁度良い相手だな。凶骨のような出来損ないにやられるようなものなら、あまり良い素材ではないしな。まぁ、研究対象にはなるが ――― 」

 中央コントロールルーム、つまり四魂の珠を備えているその部屋で、昆虫の複眼のように設置した監視カメラのモニターをナラクは忙しげに覗いていた。剣也達を誘き寄せた場所は、大型の実験動物の為の処理室であった。研究所内、いたる所に監視カメラを設置しているが、もちろん死角が出来ないわけではない。その為に、各通路はブロックごとに閉鎖出来るようになっていた。ブロック扉の開閉は、この中央コントロールルームで出来るが、今剣也達のいる処置室などは現場での開閉も必要なので、操作経路の切り替えが出来るようになっていた。
 後、隠し通路などは殆どが手動で開閉出来るが、最終的にメイン通路に繋がっているので、ここを閉鎖されたら袋の中の鼠と同じになる。

 ふと、ナラクの眼が研究所の外に仕掛けたカメラの映像に止まる。そこには ―――

「桔梗……」

 応援に駆けつけた弥蔵達と共に、珊瑚に手を借りながら林の中に入ってくる桔梗の姿が映し出されていた。

「五十年ぶり、いや…、もっと経つか。桔梗、相変わらずお前は高慢な美しさだな。しかし……」

 左手に杖を突き、珊瑚の手を借りておぼつかない足取りの桔梗に、その身の上に流れた無常な時の傷跡を見る。

「哀れなものだな、桔梗よ。外見はあの時と同じ若く美しいままだというのに、お前の内面はすっかり老いさらばえてしまったようだ。ヒビの入った土人形が崩れてゆくように、もう一人では歩けもしないのだな」

 そう呟くナラクの面には、熱に浮かれたような表情が浮かんでいた。熱っぽい視線がモニターの中の桔梗を舐めるように見つめている。口元に浮かぶのは禍々しいほどの狂恋の笑み。

「早く来い、桔梗。そんな老いさらばえた体など、このワシが取り替えてやる。死体のようなそんな身体で、長年生き抜いてきたのはさぞ辛かったであろうな。今度こそ、ワシの手を取れ。その為の、若い身体も用意しておるのだから」

 邪魔になるものは抹殺するのみ。桔梗がこの期に及んでも、今尚この手を拒むのなら、今度は無理やりにでも従わせてやろう。かごめの身体に脳移植を施されれば、あの桔梗でも流石に観念するだろう。
 なにしろ自分が、別の人間の肉体を奪ってしまうのだから。その身体もろとも、『死』を選ぶ事も出来るかもしれないが、そうはさせない。

 その為の、『不老不死術』
 それももうすぐ、手に入る。そう、もうすぐ ―――

 複数のモニターの光に照らされ、彩られたナラクの姿はあまりにもおぞましく、この世の全ての邪気や瘴気が凝り固まった悪鬼さながらであった。


【14に続く】

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