【 白銀の犬 14 】



 岩山に見せかけた秘密研究所を囲む雑木林の中。その中を進む弥蔵と桔梗達。桔梗は珊瑚に支えられながら、その一行の先頭を歩く。足を進める度に、あたりの空間が揺らぐような感覚に弥蔵は襲われた。その微かな違和感めいた感覚も、雑木林を抜けるとふっと掻き消えた。自分の横に立つ桔梗の様子を見ると、もともと倒れそうな風情の桔梗が、さらに瀕死のような状態に見えた。

「大丈夫ですか? 桔梗さん」
「ああ、これは仕方がないこと。もう、私に力がなくなってきたから……」
「あの…、あの雑木林を抜ける時の違和感は、あれは……、結界ですか?」

 弥蔵は声を潜め、そう桔梗に尋ねた。実際、その場で体験していても『この手』の話を本当に理解できる者はほんの一握りだ。余計な情報を与えて、応援の警察官達を動揺させるのは拙いだろうと弥蔵は判断した。

「そう、『理』を守護するものが張った強大な結界。この内で起こる事は、外に出してはならぬ事」
「出しては為らぬ…? 一体、この中で何が起こっているのですか!? 守護するものとは……」

 弥蔵の問い掛けに、桔梗は謎の笑みを浮かべただけで答えとした。そう、本当の意味で自分たちをここに導き、今 粛清の咆哮を上げているのは人に知られてはならない『人でないモノ達』なのだから。そして桔梗自身、それに近しい位置に属するものであった。

「風守刑事! 配置の指示をお願いします!!」

 雑木林を全員が抜け、今では偽装がはっきりと露呈した岩山の前で皆が身構える。少し離れた入り口と思える場所から明度の低いオレンジ色の照明の光が漏れ、硝煙の臭いが漂ってきていた。その残臭の濃さから使われた拳銃類の数は一つや二つでは済まない事は容易に察せられる。相手が待ち構えている所に飛び込もうものなら、通常装備の警察官などあっという間に蜂の巣だ。

「桔梗さん……」
「風守刑事、応援が来るまではここで待機していたほうが良い。今、あそこに飛び込むのはあまりにも危険だろう」
「確かに。しかし警察としては攫われた二人の少女の身柄の安全を早く確保したい」

 今まで遭遇した事のない場面に、弥蔵の額に汗が流れる。この重苦しい、心臓を直に握り締められているような気持ち悪さは、かつてナラクに自分の利き手に風穴を開けられた時のようだ。

「……風守のおじさま。弥勒兄もあの中にいるんだけど―――」
「あれは危険を承知で飛び込んだ馬鹿だ。自分の行動の責任は自分で取れ」

 珊瑚には、冷たいような弥蔵の言葉。一人の親としてはそうだろう、しかし今ここにいる弥蔵は私人ではなく公僕としての自分であった。その傍らで桔梗が、瞳を入り口に向け一心に念を凝らしていた。
 研究所への通路が開いたままなのが幸いなのか、桔梗はその類稀なる霊力を駆使して中に潜む高き霊格の存在の気配をずっと追っている。それらの放つ霊気があまりにも強いので、中の様子が判らなくてもその位置関係だけは外にいる桔梗にも朧にだが掴む事が出来た。

「珊瑚、弥勒は今の所無事だ。この建物の通路は途中で分岐している。一番大きなモノは真っ直ぐ進み、弥勒と一緒にいるものはその分岐から右手側に。何か禍々しいものと対峙している」
「桔梗さんっっ!!」
「桔梗さん……」

 珊瑚の声が引きつり、顔が青ざめる。珊瑚ほど顕ではないが、弥蔵の声も動揺の色が滲んでいる。

「……今は、時期待ちの時。中からの動きがあるまで、待つのが良策」

 冷徹なまでに落ち着いた桔梗の声。目の前の入り口を睨みつつ、弥蔵達はその場に足止めされる事になった。その入り口から、一人の少女が駆け出してくるまでは。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 中央コントロールルームのモニター室。施設全体の『眼』としての機能が集約されている。今、その室内は激しい赤色の明滅と低い警戒音とで異常事態を訴え続けていた。施設と外界への扉は最初の一戦で破壊されたまま。闘牙が駆け抜けてゆくたびに、異常ランプの数と音が増えてゆく。

「ふ〜ん、察しの良い女だな。むやみやたらに踏み込む事はさせぬと。まぁ、いくら警察を投入しようと、その気になったらこの辺り一体死人の山を築くのは簡単な事だがな」

 そんな警戒感に満ちた騒然さをまるで感じてないのか、雑木林を抜けた所で足を止めた桔梗・弥蔵達の様子をモニターしながら、暗い胸の中に零すようにナラクは低く呟く。ナラクの手元には、霧骨が生成した有毒ガスの噴出スイッチがある。
 濃度の調節で動きを止めるだけから死に至るまでの神経ガス、皮膚を糜爛させ筋肉を溶かすマスタード系の毒ガスなどスイッチが並ぶ。
 もしこの研究所が公に発見され捜索の手が延びた時には、研究所内部の一部をシェルター化し、そのガスで研究所の中も外も半径二キロ以内は全て抹殺してしまうつもりでいた。そうすればガスが中和されるまで誰もここには近づけなくなる。その間に次のアジトに移動すれば良い。実験動物と同じく、研究施設もそこにいる部下もナラクにとっては使い捨ての駒に過ぎない。

「どれだけの警官隊が雪崩込もうと、それは構わん。桔梗、お前とお前の体のスペアになる娘、それからあの不老不死のバケモノさえこの手に入れば、ワシの勝ちだ。力ある者、権力者ほど不死を望む。いや、人間誰しも死にたくはないからな」

 その言葉はそのまま、深く淀んだナラクの欲望そのままでもあった。
 しばらく外部の、いや桔梗の姿に気を取られ凶骨と対峙している剣也と弥勒から注意が反れた。それもまた、何者かの差配かもしれない。

 ナラクの見ていないモニター画面の中で、凶骨はなおも二人に襲い掛かり続けていた。体力的なものは凶骨の方が上だろうが、狭い室内なのが幸か不幸か攻撃パターンが単調なので攻撃そのものをかわす事はそう難しくない。持久戦的様相を帯びてきていた。


「俺が指弾であいつを攻撃する振りをしながら、この部屋に設置された監視カメラを壊す。死角が出来たら、どうにかして元きた隠し通路とあの大きな動物搬入用の扉を開く」

 そこで弥勒は言葉を切る。

「それまでお前はこいつの相手をしていてくれ」
「おい! こいつの相手をって…、どういう意味だ?」
「つまり…、もう少しでかく変化しろって事だ、剣也」
「めくらましか? 俺の図体でお前を隠せって事か!」
「ああ、あいつをどう倒そうとお前にまかせる」

 会話を続ける二人の間に凶骨の豪腕が唸りを上げて振り下ろされる。弥勒はにやりと不敵な笑みを浮かべると、上着のポケットに仕舞い込んだ胡桃ほどの大きさのブロック片を凶骨の顔を目掛けて指で弾き出す。そのくらいの大きさのブロック片など強化された身体に当ってもなんらダメージは与えないが、顔それも特に目を目掛けて打ち込むので、凶骨の動きも鈍る。片手で目を庇い、空いた片手で攻撃を続ける。室内上辺に取り付けられた監視カメラにまるで流れ弾ように弥勒の弾く礫が命中してゆく。

「下手な鉄砲、数撃ちゃ…か。父親は射撃の名手だったが、その息子はあんなに大きな的でさえ外すか」

 昔、自分が弥蔵にした事を思い出し暗い愉悦を楽しむ。ナラクが気づいた時には、監視カメラの半分が弥勒の指弾で潰されていたが、それもそう気にはしなかった。角度を変えれば辛うじて室内の様子は映し出されるし、巨体の凶骨に加えいつの間に変化したのか剣也まで巨体化している。そのせいで、モニターには凶骨・剣也の巨体がフレーム内に収まりきれずにいる。動向をモニターするには十分だ。

「……こいつは大した事はないようだな。凶骨相手に巨体化して対応しようとは、やはり利用価値の高いのは、この個体。ふふん、真っ直ぐにここに向かっているな、リーダー格のバケモノ」

 ちらりと視線をずらし、メイン通路のモニター画面を見やる。そこには真っ先に通路奥に飛び込んで入った闘牙の姿が映し出されていた。

「それにしてもとてつもない破壊力だな。何重もの防護壁もついでに監視カメラも全て叩き潰しながらこちらに向かっている。おかげでこいつの後姿が拝めないが」

 闘牙を侵入者の主力と見なし、そのターゲットポイントがここの中央司令室だと判断したナラクは、その前にこの研究所で最も堅固にして最強の布陣を配置した。侵入時に配置した銃器兵の生き残りと、もともとここを守らせている兵士。それから人間重機と改造された銀骨の戦車のような攻撃力を据え、さらに火器・爆発物のエキスパートである煉骨がいたる所に設置した銃火器類が火を噴くタイミングを待っている。

「さて、残りのもう一頭はどうしたものか……。睡骨の奴、あれだけ大口叩いておいて、まんまと逃げられたからな。生憎と中央の通路はあのボスのせいで監視カメラが壊され、追跡不能なのはアクシデント。その獲物はお前の責任だしな」

 ナラクと睡骨の確執が小さな綻びを広げつつあった。

 今回の事件で初めて覚醒し獣化した剣也だが、だんだんとその姿に『己』が馴染んできたような感覚を覚えていた。最初背中に凶骨の拳を喰らった時には、一瞬息が詰まりそうになった。今のように狭い空間で巨体化すればどうしても凶骨の攻撃を避けきれるものではなってくるのだが、相手の拳や蹴りが当ってもそうダメージを感じないのだ。

「弥勒! いつまでこうしていればいい!!」
「ああ、もう少し頑張ってくれ! この部屋の出入り口のトラップを仕掛け終わるまで、もう少しだ。それとお前はあまり喋るな」
「なっっ!! なんで!」
「会話を拾われる。今のお前ならそんな相手、一瞬で叩き伏せられるだろうが俺の為に時間を稼いでくれ」

 マイクに音を拾われないよう、小声で返した返事。

「……お前、俺の事いいようにしか扱ってないな。痛い思いしてるのは俺だぜ?」
「そうか? もうさほど堪えてはないと思うがな」

 人を食った悪戯気な笑みを浮かべ、自分達が入ってきた扉を開く為の作業を続ける。大抵この手の施設の場合、建造されたのが古いものであればあるほど完全なオートマテックセキュリティにはならない。後から改装を加えたとしても手動の部分も残る事がある。また、万が一電気系統やシステムに障害が発生した場合手動で対処できる方法を残している方がより安全でもある。
 そこに弥勒は目を付けた。手動でも開けられるかもしれない大小の扉。これをトラップにしようと弥勒は考えた。時間もなければ道具もない。簡単だが限られた視野からの情報を錯覚させるような、そんな罠を。そのためにも、誰にも気づかれぬようこの扉を開ける必要があった。

「剣也、悪いが攻撃がそれた振りをしてその壁際を伝っている電線を切ってくれ」

 口の中で呟くように指示を出す。剣也の眸が、勝手な事を言いやがってと剣呑な光を一瞬ちらつかせたが、その返事の代わりに弥勒の指示通り扉を開閉させるシステムの電線を爪の先で断ち切った。同じように大きな入り口の方も切断させる。
 通常の状態であればこれらの異変は直ぐにでも察知される所だろうが、覗き窓のように数少ないモニター画面に映し出される剣也の姿を食い入るように見ていたナラクの視界には、小さく増えた警戒ランプの数は意識されていなかった。

「よし! これで、手動で扉を開ける。後は……」

 ここから先は、弥勒の指弾の腕前とタイミング一つに掛かっていた。まず自分たちの入ってきた扉を半分ほどに開く。この扉を監視していたカメラは真っ先に潰した。他のカメラからでも監視出来るが、角度の問題か一部分しか映らない事を見越して注意深く準備する。

「剣也!! もういいぞ!」

 弥勒が叫び、剣也が手加減していた攻撃のリミッターを外す。ふつふつと剣也の身体の中を駆け巡る熱い血潮。太古より受け継がれた『守護獣』としての猛き本能。凶骨の振り上げた腕が下ろされる前に、その腹に剣也の頭突きがめり込む。その勢いのままにどうっと倒れこむ凶骨。その巨体の影に半開きになったあの扉があるのだが、それは今丁度凶骨の巨体が遮蔽物になって、完全に監視カメラから遮られていた。
 位置関係を確かめてから弥勒は次の動作にかかった。倒れこんだ凶骨の真向かいにあるこの部屋用のもともとの扉を開ける作業。その様子は当然、モニター室の生き残ったカメラにも写し出されていた。

「ほぅ。凶骨を叩きのめしただけで、あのリーダーの様に殺しはしないとは……。甘いな」

 ナラクの口元が、残忍な形に引き上げられる。コントロールパネルの上に置かれていた映像機器のリモコンのようなものに手を伸ばした。電波が伝わりにくい地下施設でも使えるよう改良された特殊使用のそれは、凶骨の脳髄に埋め込んだ電極に体内電流を集め脳内で放電させる為のものだった。これをやられると気絶している状態でも、激痛のあまり一瞬で覚醒する。流す電流の強さやリズムによって快感を与える事も、痛みを麻痺させる事も、もちろん脳そのものを破壊する事も出来る。
 
「うがががぁぁぁ〜〜っっっ!!!!」

 奇声を上げ、何かに感電したように両手を前に突き出し眼を剥き、倒れこんでいた凶骨が弾かれたように弥勒に襲い掛かってきた。

「危ねぇっっ!! 弥勒!」

 剣也が咄嗟に凶骨の喉笛に牙を打ち込むのと、弥勒が手にしたコンクリート片を指弾で弾き出すのは、ほぼ同時。凶骨の顔面を狙い、それから外れた指弾は残り少ない監視カメラを沈黙させた。

「開いたぞ! 剣也!! ここから早く出るぞ!」

 モニター室に響く弥勒の声。生き残った僅かなカメラの角度をあれこれ調整して決闘の痕も生々しい室内を映し出す。喉笛を噛み切られ、溢れる鮮血で真っ赤に染まりつつある凶骨。念の為、先ほどの脳髄への電極刺激を与えてみるが、痙攣のようにびくびくと四肢を震わせるだけで、もう立ち上がる事は出来なかった。
 ギリギリとカメラの角度を変えて、次に映し出されたのは大きく開らかれた扉の映像。室内にはもう、二人の姿はなかった。この扉の先はすぐにメインの中央通路に繋がっている。

「……窮鼠、猫を噛む、か。リーダーと合流させた方が手間が省けるのか、それとも手強くなるのか……。あの娘の身柄を蛮骨に言いつけてこちらに移動させておいた方が良いかも知れぬな」

 施設右ブロックにある自分の研究エリア内の自室のベッドの上。麻酔で眠らせているかごめの身柄をふと頭に浮かべた。ただの人間が不老不死化してゆく経緯を調べるのなら、『りん』と言う娘の身柄も手の中に収めておきたい。しかし、『りん』と『かごめ』の二人の身柄の重要性を自分の基準で計るとすれば、ナラク的には『かごめ』の方がより重い。
 『りん』を不老不死化させたその大元である、あの『バケモノ』どもが手に入れば
それからでも研究は続けられる。桔梗の肉体のスペアになる身体の持ち主は『かごめ』しかいない今なら、迷う事はない。

「それに……、あの娘は睡骨の不手際で取り返されたのだったな」

 それこそ皮肉を含ませた醜悪な笑みをその顔に浮かべ、嘲るようにそう言い捨てた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「なぁ、弥勒。どうしてあのまま、あの扉から逃げ出さなかったんだ? この隠し通路内も監視されてるだろう?」

 大きく開いた扉から脱出したように見せかけ、弥勒と剣也はもと来た通路内を戻っていた。剣也の巨体と大きく開け放された扉とでミスリードさせる。それで稼げる時間や有利さはどの位のものか弥勒にもわからなかったが、相手の思う壺に嵌まるのも面白くないと思っていた。

「お前、右側の通路に入ってすぐに他の女の匂いがすると言っていたろう? 攫われた二人の他にも誰かいるのかも知れん。それを確認しておきたいんだ」
「ああ、そうだな。もしそうなら、見捨ててゆくのは嫌だからな」

 あの巨体をまたもや一瞬で大型犬並みの体格に変化させた剣也が駆ける。その横を弥勒が人外の運動力と適応力で、ひた走る剣也についてゆく。禍々しい魔窟に飛び込んだ守護獣・狛達を呼んだ者との出会いはもう間近であった。


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 弥勒の命を凶骨から護る為とは言え、初めて剣也は自分の牙で一つの命を絶った。どちらも命の重さは同じはず。鋭い牙に残るあの喉の皮膚を突き破り、骨を噛み砕き肉を食い千切った感触は生々しすぎる。口の中に残る鉄臭い血の味と臭いが、剣也に嘔吐感を催させる。

「……ちっ! 胸糞わりぃ!! こんな思いはもうしたくねぇっっ……」

 吐き出すように、走りながら剣也が呟く。確かに剣也はあの父や兄と比べれば、こんな姿をしていてもその実、本当に十五歳の中学生なのだと弥勒は思った。相手があんな、それこそ人外のものであっても剣也にとってその実感するところ、『人を殺した』なのだから。

「剣也、お前にとっては辛い事実だが、あの化け物にとってはどちらが良かったか、俺には判らん。あいつは俺たちと闘わなかったとしても、結局ナラクの捨て駒にされてロクな死に方は出来なかったと思う」
「弥勒……」
「お前の親父さんや颯生などは、その辺りをもう割り切っているんだろうな。あの容赦のない攻めを見れば」
「……………………」

 もう少しで、もと分岐点の近くまで戻った事になる。この通路にはあまり監視カメラが設置されていないのか、追っ手も待ち伏せの気配もなかった。

「どちらがその相手にとって良いか、だろう。正直、こんな組織に身を置く者に情けをかけて見逃してやったとしても、その先でそれこそ罪のない人達が酷い目に遭うとしたら、どちらが罪が重いだろうな」
「はは、俺には重過ぎるぜ。今の自分が」

 そう、それはあの時闘牙が呟いた言葉の真意に他ならない。

 ( ……済まんな、十六夜。出来れば、このまま何事もなく過ごさせてやりたかったが ――― )

 純血種の闘牙や颯生と異なり、剣也は神狼の血を引き人型(ひとがた)を常態とする『狛』とただの人間であった剣也の母・十六夜との間に生まれた、言わば人獣のハーフのような存在。もともとの心の造りが違うのだ。それを知っていただけに、出来れば闘牙としては、剣也を『ヒト』として過ごさせてやりたかった。

 『狛』としての宿命は、あまりにも重たい運命だから。

「……投げ出すのか? 剣也」

 ぽつりと剣也に投げられた弥勒の言葉。その声は、ひどく冷たく剣也の耳に響いた。一瞬、剣也の足が止まる。

「弥勒、なん……」
「攫われたのはお前の妹と、お前の幼馴染なんだぞ!? お前の妹、りんなどはお前達のその超人な力の秘密を調べる為に、どんな目に遭わされるか……。かごめちゃんだってどんな扱いを受けるか判らないぞっっ!!」

 そう叫ぶように言った弥勒の言葉は、剣也の心を揺さぶるには十分すぎる言葉だった。

 今まで『自分がどんな者であるか』を知らずに来た。この非常事態に自分の本性を初めて知った。そしてこの身を満たすこの不思議な力が、大切な何かを『護る為』のものであるなら、今はその責任を果たすべきだと剣也は覚悟する。拙いやり方で、後でのた打ち回るような自己嫌悪に陥ろうと、今は護るべきものを護る! その覚悟を剣也は自分の胸の中にしっかり抱いた。ぺっと、凶骨の血混じりの唾を吐き捨てる。

「…やらない後悔より、やってからの後悔だな。すまん、弱気になっちまって」
「もう、大丈夫だな?」
「ああ、さぁ先を急ごう!!」

 あの長の先見の明の確かさを、剣也のお守を任された弥勒は苦笑いしながら実感していた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 神無が通路を立ち去った後、そこには神楽とコハクだけが残された。はっと、我に返った神楽がきつい口調でコハクに言いつける。

「コハク! 早くここから逃げなっっ!! なんの気紛れか知れないが、神無はああして見逃してくれたけど、他の連中に見つかったらその場であんた、殺されるんだよっ!」

 檻の中で、壁から鎖に繋がれたまま必死な顔で神楽が叫ぶ。その気迫にコハクも身を硬くしたが、それでも敵わぬまでも神楽が入れられた檻に自分の牙をかけた。人の言葉を失ったコハクの、それでも伝わるその気持ち。全身の力を込め、牙が檻の柵に絡んで軋む音がする。そのまま続ければ、コハクの牙が折れてしまうだろう。

「止めてっ! 止めておくれ、コハク!! そんな事をしたら、あんたの牙が折れてしまうっっ!!」

 ジャラリと神楽を縛める鋼鉄の鎖がコンクリートの壁に大きな音を響かせる。手を伸ばしても、柵には届かない。神楽もコハクを助けようと必死な形相を浮かべる。
 みしっと、嫌な音が神楽の耳に聞こえたような気がした。

「コハクっっ!!」

 次の瞬間、神楽はコハクが何か別の生き物に変化したように思えた。檻の柵が大きく歪んでいた。自分の目の前には大きな白い犬の姿。その大きな犬が鋭い牙を光らせ、神楽に迫る。あまりの出来事に硬直した神楽の頭の横をその牙は通り過ぎ、その少し上でガキっと鎖にその牙を食い込ませた。
 ぐいっと、神楽は自分の高く吊り上げられた腕の手首あたりがその犬の口元に引き寄せられたと感じた。そして痺れて感覚が無くなりかけていた腕にまた血流が戻り、感覚が蘇ってくる。

「あ……」

 一体何が起こったのか判らない。この大きな犬は……。

「大丈夫ですか? 若い女性になんて酷いことを……」

 大きな犬、剣也の影から弥勒が姿を表し自分の着ていた上着を神楽に着せ掛ける。

「あ、あの…、あんたは一体…?」
「ああ、私の名は弥勒と言います。私たちはこのコハクにここまで導かれてきた者です。ついでに、私自身もここにはとても大事な用がありましたのでね」

 鎖は切ったものの、神楽の手首にはまだ手錠のような枷がついたまま。それを弥勒はピンのような物で器用に外しながら、このまだ名前を知らない神楽に話しかけていた。

「コハクが連れてきたって……」

 そう言いながら神楽は弥勒の後ろに控えている白い大型犬を不思議そうな目で見る。コハクの体色は薄茶色。大きくなったら色が薄くなって、こんな風な白い大型犬になるのだろうか?

「…あんた、コハク?」

 おずおずと神楽が剣也に話しかける。剣也はどうしたものかと弥勒の顔を見たが、弥勒は小さな笑みを浮かべているだけ。そうしているうちに、今度は自分の体の下から神楽を助けようと檻の柵に食いついていたコハクが抜け出してきて、神楽に飛びついていった。

「ああっ! コハク!! お前、あんな無茶をして……。牙はなんともないのかい?」

 神楽の裸の胸に飛び込み、慕わしげにコハクが頭を擦り付ける。そのコハクをまた、神楽が愛しげに抱き締める姿は、ここでの二人の繋がりの深さを見るようだった。

「その大きな犬は…、まぁ本当は犬ではないのですがコハクがここから逃げ出したあと、偶然にも巡り合う事の出来た救いの神のようなものです」
「神?」
「そう、そのくらい不思議な生き物だと言う事で。それよりあなたはコハクの事を知っているようですね? あなたもここに攫われてきたのですか?」

 こう言う場での話の進め方は、弥勒の方が上手い。それにあまりゆっくりしている時間もない。聞き出したい情報は早く聞き出し、この人をコハクとともに外に逃がさねばならないのだから。

「あ、あたしは…、あたしはここのものなんだ。親に逆らって、始末されるところだったんだよ」
「親? 始末とは…?」

 腕の中のコハクを下におろしながら、神楽は自分の身の上をどう話したものかと言葉に詰まる。普通の人に話しても多分妄想か、よくて大ボラにしか受け取ってもらえないだろう。この弥勒と言う男も何かここの事を探ってはいるようだけど、きっと自分やコハクの事を話しても信じてはもらえないだろうと思う。
 言葉に詰まる神楽を心配そうに見つめるコハク。小さく犬の鳴き声で何か神楽に囁きかけているようにも見えた。

「……驚いたな。俺、コハクの言葉が判るぜ」
「剣也、本当か?」
「ああ、言葉そのものより『意味』が頭の中に閃く感じだ」

 弥勒と剣也の会話を見て、神楽の眼が大きく見開かれる。

「そ、その犬。人間の言葉が喋れるのかい!?」
「さっき言ったでしょう。『神』のようなものだと」
「そうか…。神無が言っていた、コハクが連れて来た助けって本当の事だったんだ。そして、あのナラクがコハクをこんな姿にしてまで追い求めていたモノはこれだったんだ……」

 その呟きの中のある一言に、弥勒は引っかかりを覚えた。

「コハクをこんな姿にしてまでって、それはどう言う意味で…?」
「言葉を話す犬と当たり前に付き合えるあんたなら、こんな話でも信じてくれるかもしれないね。コハクは元々は人間だよ。ここに連れて来られたのは七年前くらい、まだ五つになるかならないかの頃だった。それが、ナラク達の人体実験のせいでこんな姿に……」

 苦しげに告白するような神楽の様子。まだ弥勒にはここで行われていたおぞましい研究の全てが判った訳ではないけれど、その一端を垣間見るだけで全身で嫌悪感を感じていた。だが、この神楽の話が本当だとしたらこのコハクはもしかしたら、珊瑚の弟。この事実を珊瑚が知ったら、命長らえているとしてもどれほど悲しむ事だろう。

「ナラクはあたしの父親なんだ。あたしはあいつを父親なんて、これっぽっちも思っちゃないけどね。あいつは『不老不死』なんて馬鹿げた夢に取り付かれた悪魔さ」
「不老不死……」
「そう、そのためにこの琥珀のような小さな子どもや、他にも数え切れないくらいの人間や動物が生体実験の犠牲になってきた。あたしも、その一人。母親の顔も知らない試験管ベビーってやつだからね」
「あなたはそんな自分や琥珀の身の上をどうにかしたくて、ここから逃げ出そうとして掴まったと?」
「ああ、その通り。あいつらは自分たちの実験が成功して琥珀が犬に変化したのを、今度は解剖して他の犬とどう違うか調べるって言い出したんだ」

 弥勒と剣也の視線は、神楽の足元にいるコハクに向かう。

「ナラクの考えはさ、不老不死の秘密を伝説の中のモンスターに求めたんだ。吸血鬼や狼男など、人から動物への変身能力をもった生き物に。そのための実験の犠牲者なんだ、コハク達は」

 人から動物への変身能力、それはまさしく剣也達の事を指していた。

「……狂ってるな! 吐き気がするぜっっ!!」
「ああ、不老不死が人類の永遠の夢だとしても、それは夢であるからこそ許されることであって、実現させてはならない事でもあるんだ」

 どこで剣也達の存在がナラクに知られたのかは判らないけれど、りんが攫われた理由はこれだとはっきり理解した。ますます五感が研ぎ澄まされ耳も鼻も鋭くなってゆく剣也の感覚に、不穏な気が大きく揺らめくが感じられた。

「おい、弥勒。そろそろきな臭いぜ。追っ手がかかりそうだ。この人たちを外に逃がすなら、早く移動した方がいい」
「それもそうだな。もっと聞きたい話もあるが、そうも言ってはいられないだろう」

 弥勒が神楽の手を取り立ち上がらせる。外の扉はここに突入する時に大破し、手動でも自動でも開閉出来なくなっているのを弥勒は確認していた。分岐点から外に向かっては監視カメラも破壊され、まだ修復されてないはず。
 問題はその分岐点に向かうまでと、進路を悟れら進行方向に障壁を下ろされるのが拙いと言えば拙いだろうか。先陣を切った闘牙が幾つかの障壁をぶち破っていたが、剣也にそれが出来るかどうかは判らない。自分たちも外に逃げ出すだけならそれでも良いが、まだ自分たちにはやるべき事がある。

「えっと…、今頃女性に名前を尋ねるとは間抜けな話ですね」
「あ、ええ。神楽、あたしの名は神楽っていうんだ」
「では、神楽さん。今からあなたと琥珀の二人を外に脱出させます。外には私の父や警察関係者がいるはずですから、そこに保護を求めてください」
「脱出させるって、じゃ、あんたたちは?」

 神楽は立ち上がりながら、全裸の姿に纏っていた汚らしくもけばけばしい安物の飾りを全てむしり取り、弥勒が着せ掛けてくれた上着の前を深く合わせる。その寒そうな姿を痛ましそうに見ながら、弥勒は自分のベルトを外し神楽に渡した。それを受け取り細い腰の上からきつめに締め上げると、コートスーツのようになる。もう少しどうにかしてやりたいが、他に使えそうな物がないので諦めた。それでも少しは動きやすくなるだろう。

「私たちはまだここでするべき事があります。あなたの思いや琥珀の辛さを、ナラクに償わせる為に。…私の父もナラクに殺されかけたんですよ。母はその時の心労で他界しました。私にも、ナラクへの恨みがあるんです」

 神楽の緊張を解くためか、柔和な笑顔でそう話しかけ先を促す。神楽は一瞬、躊躇うような表情を浮かべたが、ふっと小さく頭を振るときっとした決意を込めて弥勒を見上げた。

「……あたしが案内するよ。ナラクがいる、そしてこの研究所の心臓部に。あたしは、ここのメインシステムの『鍵』だった女。たいていの場所なら、最短距離で移動できる」

 この言葉は、今の剣也達には何よりも心強い言葉だった。いくら感覚が鋭敏でもこの地下迷路のような研究所の中で、目的地に迷いもせずに辿り着ける事がどれほどありがたい事か。

「弥勒……」
「そうだな。今はその言葉に甘えさせてもらおうか。ここから助け出さねばならないのは、この人の他にいるからな。まずは……」
「かごめの居場所だ! りんは颯生が助けに行っている」
「この辺りにその人の気配がないなら、もしかしたらナラクのラボ内の自室かもしれないね。あそこにも、ちょっとした実験や検査用器具類があるから」
「大丈夫ですか? 逃げ出しただけでこんな目にあっているのに、私たちの手引きなどしたら……」

 覚悟を決めたのか、もともとの性格がこうなのか。神楽の顔に婀娜な艶っぽさと、きっぱりとした表情が浮かぶ。

「ここまできたら、行くとこまで行くしかないさ。外に警察まで来てるなら、あのナラクも今までみたいにはいかないだろうし、それにあたし達にはこんな凄い助っ人もいるからね。あたしに力がないばっかりに見殺しにしてきた子たちの為に、せめて一矢報いたい!!」

 神楽の声に、コハクも力強く鳴いて同意を示した。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 桔梗は今にも踏み込もうとしている弥蔵達を押さえ、明らかに内部からの銃撃で破壊された外扉をしばらく静かな瞳で見つめていた。その桔梗が、ふらっと一歩足を進めた。

「桔梗さん?」
「もうしばらくすれば、中からの動きが出る。ただし……」

 そこで桔梗は言葉を切る。この後に、どう言葉を続ければここにいる者達に理解させられるだろうかと。この中に飛び込んでいったモノ達が、自分達の常識の範囲外のモノである事を。そして出来ればそれを、外に知らしめさせたくないと桔梗は思っていた。
 自分を含め、人外な存在への常人の反応。自分は忌み嫌われても、まだ人体改造されたあげくのモノだと納得させる事もできるだろう。しかし、あの守護獣達は人知を超えた存在として守りたかった。

「ただし、なんですか? 桔梗さん」
「ここで見聞きした事を、口外しないで欲しいのだが」
「しかし、それでは捜査の妨げになるのでは!?」

 公僕として立場から、弥蔵が声を上げる。それはそうだ、だがそれを踏まえてもそう口にせざるを得ない桔梗の心中。

「……妨げにはならぬだろう。そして、おそらくその目で見ても、信じられぬ事だと思うがな」

 桔梗の類稀なる霊力は、こちらに向かって駈けて来る高位の神霊の存在を感知していた。その前に群がる瘴気のような、禍々しい気配と共に。


【15に続く】

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