【 白銀の犬 15 】



 精悍な美しい犬に良く似た獣の背に、一人の少女が掴まっている。走りにくい通路を、疾風のように駆け抜けてゆくその獣の背をしっかりと掴み締めて。前方から瘴気に塗れた、胸の悪くなるような『気』が流れてくる。それに気付いた少女が少し眉をひそませ、そんな少女の気配を察し、走りながらほんの僅かに獣は金色の視線を背後の少女に投げかけた。

「大丈夫、怖くないよ! 兄様と一緒だもん!!」

 獣は眸の光を少し揺らし、また前方を見据えた。少女も、ぎゅっとすべらかで心地の良い白銀の毛並みを掴み直す。颯生は前方にいる敵の背後を一瞬にして飛び越えるため、さらに加速し踏み切りのタイミングを計る。

 りんは嬉しかった。今、自分が抱き締めているモノが自分にとって大好きな、そして大事な颯生であることが。そして今、こうして全てを知らされてなお、側に居る事を許されたことが何より嬉しかった。颯生が人間でなくても、その颯生に赤ちゃんの時に助けられた事が原因で自分も普通の人間ではなくなっていることも、そんな事はりんには関係なかった。

「しっかり掴まっておけ! 体を毛並みに隠すように!!」

 りんの言葉への返事。今から闘いの場に向かう同士として、そしてそれ以上の想いを抱き始めて。
 二人の視界の先に、おぞましい冥界の悪鬼ような人影が見え始めていた。


「おいっ! どーゆー事だっっ!? もう逃げられちまったってことか!!」

 壊された外扉の様子を伺いながら、蛇骨は引き連れてきた連中を怒鳴りつけていた。外の様子は少し離れた雑木林で視界が遮られる辺りまでは、辛うじて見ることが出来る。相手は一人、いや一頭ではない。連れがいる。連れもただの子どもではないようだが、あのバケモノじみた連中から見ればさほど足が速そうでも、体力があるようにも思えない。はっきり言えば、足手まといなはず。
 
「……ここから出て行った足跡がありません。おそらくどこかに身を隠し、俺達をやり過ごしたんじゃないかと―――― 」

 目端の利く一人が扉と外の地面の境目辺りを手にした懐中電灯で照らしながら、そう蛇骨に告げた。その男は更に確かめるように外にも出て、足跡を確かめる。あのバケモノ達の運動能力からすれば、かなりの飛翔が出来そうだとその男は思った。それでもまさか翼もないのに空を飛ぶ訳もない、秘密研究所の出口から雑木林の前の空き地、それから雑木林そのものまで一飛びとは行かないだろうと判断し、雑木林の前の空き地を何度も調べていた。
 
 桔梗が弥蔵達を雑木林の中で待機させたのは、まさに正しい判断だったのだ。
  
「やり過ごした…? じゃ、奴は俺たちの背後にいるっていうのかっっ!?」

 蛇骨の女のように整った顔が、心の醜悪さを現して般若のような形相になる。この男は、本能的な危険と自分にとって意にそぐわない事態とを嫌悪し察知する事に長けていた。その言葉を発しながら、瞬時に自分の立位置を移動させたのは、数々の修羅場を潜り抜けた経験からだった。蛇骨が体をかわしたその紙一重の差で、何か白銀の風のようなモノが通り過ぎて行った。すっと蛇骨の頬に一筋の血玉が浮かび、糸のように垂れて足元に落ちた。
 
「てめぇ……っっ!! 俺の顔に傷をつけやがって!」

 般若のような形相から、さらに悪鬼のような表情。これがこの男の本性なのだろう。
 
「そのくらいの傷で吼えるな、下衆! お前の獲物で切り刻まれた者はそんなものでは済まなかったのだろう!!」

 白銀の風は入り口を塞ぐように立ち止まると、正面から蛇骨達と正対した。ほんの一瞬で自分の取りたいポジションを得、体勢を整えている颯生。勿論その目にも留まらぬ行動の中に、颯生にとって邪魔だったものがなんの躊躇いもなく排除されていたのは言うまでもない。颯生が通り過ぎた後には、颯生の鋭い爪に引き裂かれ、踏み倒された蛇骨配下の兵隊が虫の息で蠢いていた。突然現れた白銀の獣目掛けて、態勢を整えなおした残りの兵隊達の銃が照準を合わせる。トリガーに指がかかり、今にも弾幕が張られようとしたその時、ヒステリックな蛇骨の声が響く。

「お前ら! 俺が良いって言うまで、手出しするなっっ!!」
「ほぅ。この私の爪にかかりたいらしいな。薄汚い下衆の分際で……」

( 颯兄様…… )

 りんの眼には、今の颯生の様子がいつもと違うように感じられた。

 普通の少女であれば、気を失っても当然のような場面。りん自身がある種の自覚を得たせいか、それとも先ほど颯生の血を舐めた影響か、心が慄くことなくむしろ醒めた思考でこの場を見ている。
 上手く言えないのだが、『ひとでないもの』である颯生のこの虐殺ぶりは残酷にも見える行動。今のりんなら、それを必要とされる場合であれば残酷とは感じない。自分でもこの場所は失くさねばならないと分かっている。そこに属する者達も必要であれば殺さねばならないのかもと。だけど……
 
( 颯兄様、怒ってる? この蛇骨って人の事…… )

 りんにしてもこの蛇骨と言う男は、颯生とは正反対の意味で残虐非道で何より不気味すぎた。蛇骨の狂人めいた性格に所以する理解出来なさが、まだ子どもなりんには、いや大人にも違う意味での恐怖を感じさせた。りんがその身を蛇骨に刻まれたのは、ほんの数時間前の事。
 そのことそのものに対しての、颯生の怒り。それをりんはまだ、察する事はなかった。
 
「ああ、そーだよな。俺ゃ、獲物を切り刻むのが大好きだからよぅ、どんな強気の相手でも少しずつ刻んでやれば、ころって変わるんだぜ? おっもしれーぜ、その様はよ!」
「……出来るか? この私を相手に」
「好みから言えば、人間の姿の方が色気があって楽しめるんだけどさぁ…。もっと言えば、あんたの弟の方が俺の好みにドンピシャだったんだけど、まぁお前でも良いさ。切り刻んで、血祭りにあげられりゃぁよっっ!!」

 その言葉が終わらぬうちに、蛇骨が手にしたセラミック製の薄くてしなやか、そして強靭な刃が蛇の様にうねりながら颯生の顔面、目元を狙う。颯生は下がる事無く、顔の方向を一瞬逸らしその刃の攻撃から自分の眸を守った。外への出入り口を塞ぐようにして動かない颯生の様子を見、蛇骨がにやりと笑う。
 
「そっか。お前、あの小娘を逃がす為のバリケード代わりか。いいさいいさ、あの娘よりもお前の方が睡骨は喜びそうだしな。お前がそうやって頑張っている間に、まずその前脚二本叩っ斬らせてもらうぜ!!」

 先ほど颯生の血を含んだ事で、りんの聴覚が鋭敏になっていた。周りの喧騒や、颯生の体そのものに遮られて、普通なら良く聞き取れなかった筈の蛇骨の言葉も、今のりんなら聞き取れる。瞬間りんは今、自分が何をすべきか行動で示した。りんの身の安全を図って、颯生はこの研究所の出口で方向を変えるとその体を出入り口の通路一杯の大きさに変化させた。
 
 一発の流れ弾も、りんの体を掠める事がないように。
 
 りんは颯生の背を強く蹴って、右手側の雑木林の方へと跳躍した。小学校低学年の運動神経とは思えないほどの大ジャンプ。その一跳躍でりんの姿は、研究所の通路内からの死角へと飛び込んだ。りんの跳躍の瞬間に、颯生は動きやすいようその巨体を大柄な獅子ほどに変化させる。蛇骨の振り下ろした蛇骨刀の刃は虚しく空を切った。
 
「お前たち! 撃てっっ!!」

  蛇骨刀を引き戻す間もあらば、そう引き連れていた兵隊達に号令を飛ばす。颯生がいた空間、外と内との境目にあった壊れた外扉が、一斉射撃を受けてさらに変形してゆく。半数以上の銃弾が、外への流れ弾として飛び去っていった。その銃弾の嵐を低い姿勢で、光のように颯生が駆け抜ける。膝から下に何か触れたと思った瞬間に、がくがくがくっと多くの兵隊たちの体勢が崩れた。次の銃撃体勢に入っていた兵隊が体勢を崩し、そのまま発砲して仲間の兵士を誤射したり通路の天井に向かって射撃したりと、戦列が乱れる。
 りんが跳躍した角度が、一斉射撃の射程外だったのは偶然かりんの中に目覚めつつある人外の声に導かれたものかは分からない。また雑木林の中に潜む桔梗を始めとする弥蔵や警察官達が、この銃撃の被害を免れたのも。 
 
「どうした? 私の脚を叩き斬るつもりではなかったのか? こちらから、出向いてやったものを」

 わずかに返り血を浴びた、白銀の毛並み。中で焔が燃えているような金の眸で蛇骨を睨み上げる。血に塗れたのは蛇骨が繰り出す刃ではなく、美しい毛並みに隠された颯生の爪の方だった。それも前の右足一本だけが、ぐっしょりと男たちの血に濡れている。普段は隠されているその爪が、今は鍛え上げられた名刀のような光を発して、毛並みの間から尋常ではない長さで覗いている。
 
「ひっ!」

 ある意味、動物的とも言える勘の良さで蛇骨は颯生の爪で引き裂かれる前に、かろうじうて後ろに飛び退り一生を得た。蛇骨の近くいた兵隊達数人が、紙切れのように颯生の爪に引き裂かれ、仰け反りながら血しぶきを吹き上げていた。
 
 遁走。

 自分たちが相手をしているものの恐ろしさが、ようやく生き残った兵達にも心底骨身にしみてきたらしい。漣のような恐怖感が、突然津波のようなものに変わり動けるものは後先考えずに奥に向かって走り出していた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 神楽の案内で地下の実験動物を収容する区画から、隠し扉を潜ってもう一度薄暗い通路に戻る。そこはわむき出しの壁に発光性塗料でラインが描かれているだけ。整備されていたメイン通路に比べゴツゴツとコンクリートを打ちっぱなしにした、そしてかなり時間が経ったと思われる荒れが目立つ通路だった。明かりらしい明かりは、そのホタルの光にも及ばない発光性塗料のもののみ。
 
「……あたしも詳しくは知らないんだけどさ、ここは元はかなり古い施設らしい。さっきまであたしがいた場所や、あんたたちが侵入した通路は後からナラクが作り足したもんなんだ」
「あなたは、ナラク達が何をしていたかを全て知っているんですか?」

 忘れ去られたような旧施設の細い通路の中を声を潜めながら、弥勒はもっと詳しい情報を神楽から聞き出そうとした。
 
「全ては、無理だ。あたしはここから出た事がないんだ。だから、外でナラク達が何をしているかは、判らない。せいぜいこの研究所の中の研究データ絡みの事ぐらいさ」
「ここを出た事がないって…、じゃ、あんた今までどうやって暮らしてきたんだ?」

 神楽の足元から剣也が尋ねる。こんな姿をしていても、正真正銘の中学三年生。生まれてからこれまで、何かの楔を受けた事はない。母こそは早くに亡くしてしまったが、自分の足場と言える犬神の家があり、小学生時代には事実無根な虐めに遭ったけど中学ではもうそんな事もなく、ずっと続けてきた剣道の実力を認められてそれなりに『犬神剣也』として現在を過ごしている。親・兄妹、幼馴染や友達や学校の先生に試合などで出会ったライバル。
 自分の周りの色んなものから、言葉には出来ない大事なものを与えられて感じて、今の自分があると自覚していた。それだけにそんなもの無く過ごしてきたと言う神楽の心の中の虚無を、剣也は敏感に感じ取った。
 
「あたしみたいな人間でも、一応食って寝てりゃどうにか生きてはいけるさ。ああ、ここから出た事がないって言うのも、正確に言やぁ少し違うね」
「違う?」

 オウム返しのように、神楽の言葉の最後を剣也が繰り返した。
 
「そう。この研究所の地下道は結構長くてさ、この街の繁華街の下まで走ってるんだ。あちら側の出入り口の所に、ナラクが秘密裏に運営している雑居ビルが幾つかある。そのビルの中までなら何度か行った事があるからね」
「ああ、あそこか……」

 剣也と弥勒が同時に頷いた。最初攫われた二人が監禁されたと思われた場所は、その繁華街の雑踏の中だった。繁華街に付き物の、人間の欲が吐き出す汚穢に満ちた腐臭と、酒やそこで酔客の相手をする女達の化粧の香料の臭いやドラッグなどの臭いなども交わり、微かに残っていた二人の臭跡もかき消されていた。最後にあの街で耳にした犬笛の音を残して。
 
「あそこもここ同様、腐った連中のたまり場さ。人間でさえ『商品』でしかないからね。ここで必要な人体実験用の人間も、ちょっとしたもんならあそこで調達してくるんだ。あんな繁華街じゃ、人が一人や二人行方不明になっても、誰も気にも留めないからね。外の世界ってそんなもんだって思っちまったから、ただ生きてきた」

 神楽の最後の方の言葉は、小さく通路の薄闇に消えてゆくようだった。
 
「哀しいな。人らしい何でもないような温かさも喜びも知らないまま、こんな日の当らない所で生きてきたなんて」

 そう呟いた弥勒の表情を足元から琥珀が見上げ、それから神楽の方を見る。くぅううんと心配げな、気遣うような鳴き声を上げて。
 
「うん、だから琥珀と出会えた事があたしにとっては唯一の温かさだったんだ。琥珀の他にも同じ年頃の子どもが何人もいたんだけれど、琥珀以外の子はあたしをナラクや睡骨の仲間と同じように見て、怖がったり嫌ったりするだけだったから……」

 今度こそはっきりと神楽は哀しげな表情を浮かべた。例え琥珀達の様に檻の中に入ってはいなくても、神楽もまたナラクにとってはただの実験体の一体にすぎなかったのだから。どこにも寄る辺のなかった神楽の寂しさを、幼い琥珀がどうやって感じ取ったのかは知らない。不思議な偶然で出会い、徐々に悪魔達の手で『ひとでないもの』に変化させられてゆく琥珀を、どうにかして助けたいと神楽が思ったのは、仮初とは言え琥珀が剣也や闘牙のような『守護獣』の眷属の端に組み込まれる『犬』であったからだろうか? そうせよと、何か人知を超えるものの御手に導かれたのか ―――― 
 
「大丈夫! 今度はちゃんと琥珀ともどもここから助け出しますから。ところで、そのナラクの私室とやらはまだですか?」
 
 場の空気を変えるるように、またそれが本来の目的であるように弥勒が神楽に尋ねる。
 
「もうすぐだよ。一旦上の階に上がるから、メイン通路に出るけどまたすぐ隠し通路に入る。そこを出たらもう目の前だ」
「なぁ、弥勒。そこにかごめがいるんだろうか?」

 少し心配げな声で剣也が問う。
 
「いれば助け出す。いなくとも、そこまで来ればお前の鼻で追えるんじゃないか?」
「ああ、まぁそうだけど…。でも、俺 ―― 」

 何か躊躇いがちな剣也の心中を察し、弥勒が小さくその答えを返した。
 
「分かった。かごめさんの前じゃ、お前の名は呼ばん。それなら良いか?」
「うん、済まねぇな」

 二人だけのちょっとした遣り取りの中に含まれる、剣也の少年らしさを神楽は感じた。それは自分を助ける為に命の危険を覚悟してここにまた舞い戻った琥珀と同じ、ほのかに温かく胸を切なくさせるものだった。

「かごめさんがりんちゃんと一緒ならあの兄上が助け出しているだろうし、そこに居ないとしたら、それこそナラクが人質としてか盾代わりにでもしようとして、自分の直ぐ側に置いているか。まさか、もうと言う事はないだろう」
「おいっ! もうってなんだよ!! もうって!? かごめの身に何かあったって言うのか!」

 弥勒のどこか大人の含みを持たせた発言に、剣也がいきり立つ。その初々しい反応が神楽の眼には眩しいような気がした。自分を見る男の眼は、この研究所内でも繁華街の雑居ビル内のいかがわしい店内でも、獣めいた色欲に塗れていた。今までは、ナラクのクローン細胞の母体と言う位置にある為に襲われた事は無かったが、それも過去の話。

( ……いや、ナラクやあの男の仲間のような欲深い人間たちを獣めいたなんて言い方は、本当の野生の誇りを持った獣たちには最大限の侮辱だね )

 自分の足元すぐ側を、守るように併走する小柄な体格の琥珀。

( 琥珀、あんたもそうだね。誇り高い獣。潔癖で純な……。あたしみたいな薄汚い女の為に、危険承知で助けに来てくれたのにあたしは、あんたに何も返せないんだ ――― )

 そんな神楽の気配を察したのか、琥珀が澄み切った栗色の眸を神楽に向けてくる、その眸の中に滲む幼くて、それでも大きな気持ち。

 その琥珀に神楽は申し訳ないような気持ちで一杯になっていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 うっすらとかごめの意識が戻ってきた。本当ならまだ麻酔の切れる時間ではないが、どこか遠くからかごめを呼ぶ声が聞こえたような気がした。その声は、自分が良く知っている者の声のような気もするし、初めて聞く声のような気もする。

 その声は、なぜか年若い女の声のようにも聞こえた。
 まだ朦朧とした意識の中でかごめが感じたのは、ざわざわとした不穏な空気。

( あれ…、なんだろう? いつもと感じが違う ――― )

 麻酔のせいか、一瞬かごめは直前までの出来事を忘れていた。それだけに、そのざわざわした感じが何に由来するものか疑問を浮かべた。浮かべた次の瞬間、かごめははっと目を見開いた。

( そうよっっ!! 私たち、あのナラクって男に攫われたんだわ! )

 はっきりと意識を取り戻し、改めて自分の周りの状況を確認する。自分の視野の中にはナラクの姿はなかった。少し視線をずらすと蛮骨が苛立たしそうに部屋のドアを睨みつけている。ざわざわした空気は部屋の外から流れ込んできているようにかごめには思えた。
 そして、今度は自分の全身に意識を集中させる。麻酔で眠らされていた間に何かされていないかと、不審な箇所がないか探ってみる。
 睡骨がりんにした事を思えば、自分もタダでは済まないと思っていた。まるであの男達は、人の体を模型か何かのパーツくらいにしか考えてないようだったから。

( ん、大丈夫みたい。痛い所も、麻痺してるところもないみたい。 )

 そっと動き出そうとしたかごめの行動に気付き、蛮骨が顔をこちら向けた。

「なんだ、お前! もう麻酔が醒めたのか!?」

 びくっと、体を硬直させる。どこか狂的な睡骨や蛇骨に比べればまだ、この蛮骨と言う男は陽気な感じがある。それでもあの奈落が一任するだけの何かを持っているのだ。どこで凶暴な殺人鬼の顔を見せてくるか判らない。

「……ふ〜ん、お前もあのチビ同様、ちったぁふつーの人間とは違うって事か」

 じろじろと改めてかごめの顔を見、全身を舐めるように見る。その眼に好色そうな光が浮かんだのを、かごめは感じ取りさらに身を硬くした。

「あ〜、確かに俺好みで、ナラクの事がなけりゃ今ここで犯りたいくらいだけど、まぁ、そう警戒すんな」
「信じられないわ! あんた達のして来た事を見てれば、どっちに転んでも酷い目に会うのは判ってる!!」

 気丈にもそう言い返す。蛮骨の表情が、面白いおもちゃを見つけた子どものように目を輝かせた。

「くそっ、あーお前って、やっぱ本っ当に俺の好み。ナラクが執心している桔梗って女にも似てるけど、俺はあんな風につんとすました女はいけ好かねぇ。決めた! お前みたいにちゃきちゃきした女をひぃひぃ言わせるほうがぜってー楽しいって!!」
「ナ、ナラクに言われてるんでしょ? 私には手を出すなって」
「ああ、そうだな。でも、それもこんな事態なら美味い事やったもんの勝ちだし。俺に犯られたって、交換パーツとして使えない訳じゃない」
「い、いや…。いや! 剣也ぁぁっっ!!!」

 無邪気な顔をして凶悪な台詞を吐く。まだいつものようには動けないかごめの上に、蛮骨は上体を圧し掛からせようとした。反射的にかごめは両手を突き出し、無意識に剣也の名を叫んでいた。

「止めろっっ!!」

 ドアの蹴破られる音と同時に響いた声。

「剣也っっ!?」

 その声に、かごめは派手な音を立てて開かれたドアの方を見た。ドアの所には珊瑚が密かに思いを寄せる弥勒の姿と、今まで見たことも無い巨大な白銀の犬。その影に、りんが拾った子犬のコハクと少し色っぽい若い女性も一緒だった。

( あれ…? 今、剣也の声が聞こえたと思ったのに )

 今にもかごめの体に圧し掛かろうとしていた蛮骨は、それこそ嬉しそうな顔をすると突然の闖入者である弥勒達を眺め回した。

「へっへっ、やぁ〜と俺にもお楽しみが回ってきたぜ! この女のお守りをナラクに命じられていたから、外で面白そうな事やってんのに燻ってたんだよな」
「お前! かごめさんには何もしてないだろうなっっ!?」
「ああ、ちょーど今から犯ろうとしていた所さ。もう少し遅けりゃ、ライブで見せてやれたのによ!」

 低い喉声で、弥勒の隣の白銀の犬が怒りとも威嚇とも取れる唸り声を上げる。全身の筋肉を撓まされるだけ撓ませ、今に蛮骨に飛び掛り喉笛に喰らいつきそうな態勢だ。

「残念だなぁ。手前ぇの女が犯されて怒り狂った野郎をぶちのめすのも、面白いと思ったんだけどな」

 ぎしりと音を立てて、かごめのいる診察台から下りて来る。ますますその瞳を喜色に染めて、舌なめずりをしながら、一歩一歩弥勒達の方へと歩み寄る。

「おい、神楽! お前、こいつらの手先になったのか? とことん裏切り者だな、お前ぇは!!」
「ふん!! ずっと自分を裏切り続けてきたんだ! 今までナラクやあんた達にいいようにされて来た。これからは、自分の思うようにやる!」

 神楽の叫びとその足元で蛮骨を睨み付けるコハクの茶色の眸が、かごめには何か不思議な調和を持った一枚の写真のように見えた。

( ……もしかしてコハクはこの女の人を助けたくて、剣也の家に来たのかも ―――― )

 そして、ふっと自分を見つめる視線に気付く。その視線は、じりじりと間合いを詰める蛮骨と自分とに交互に向けられる大きな白銀の犬の金色の視線。初めて見た犬だけど、でも良く知っているような気がする。金色の獣眸に浮かぶ色は、いつも見ていた誰かと同じ。ふざけて覗き込んでお互い真っ赤になった事もある、あの瞳を思わせる。
 神楽と呼ばれた若い女性とコハクを見、それから自分とその白銀の犬を見る。もう一つの『もしかして…』の気持ちが、頭をもたげる。もしそうなら、あの時聞こえた『声』は、空耳なんかじゃない。

「……剣也? あんた、剣也なのねっっ!?」
「かごめさん!!」

 かごめの問い掛けを遮るように、弥勒が声を発した。弥勒の背後で、剣也が僅かに身を硬くしたのを気配で察する。

「な〜んか、そーらしいな! ナラクや睡骨が血眼で捜していた不老不死の『バケモノ』がお前たち家族!!」
「バケモノはどっちだ!! 人の命を命とも思わないお前たちの方がよほどおぞましい生き物だろうっっ!!」
「さぁぁぁて、どっちから先に相手をしようかな? まぁ、面倒だから両方いっぺんにかかってきてもいいぜ」

 楽しくて仕方がないと言う表情を浮かべ、蛮骨は二人を挑発する。狭い室内での格闘戦に持ち込むつもりか、蛮骨の手に獲物は無い。

「……剣也、俺があいつの動きを抑える。その隙にかごめさんをここから連れ出せ!」
「手ぶらでも、油断はするな。あいつ、かなり出来る!!」
「言われなくてもっっ! さぁ、行け!!」

 弥勒と剣也が同時にドアの所から跳躍した。剣也はかごめの側に駆け寄り、弥勒は蛮骨の真正面に飛び込んだ。

「お前、賢そうな顔してるくせに俺より馬鹿だな」
「馬鹿はどっちだ。お前が手慣れなのは並じゃねぇその殺気から判ってるさ。しかし、俺も並じゃないんでね!」

 そう言った瞬間、弥勒は蛮骨の鳩尾に発勁(はっけい)を食わせた。弥勒が使う古武術の中でもこの発勁は柔にも剛にも変幻自在につかえる技。至近距離で相手の内臓にダメージを与えるまで気を練り上げるのは、そう生半可な修行ではないが。普通の打撃が腕を振り上げるスペースがないと打撃力が生まれないのに比べれば、狭い場所で有効な攻撃法。周りに被害を及ぼさない、綺麗な闘い方とも言える。ずん、と言う気が肉に当たった感触を弥勒は感じた。

 が、次の瞬間 ―――

 弥勒の飛び退った空間に僅かに残った前髪が、ぱさりと切られて床に落ちた。

「へ〜、流石に良い勘してるな。俺のこの一撃をかわした奴はそういないぜ?」
「お前…、俺の発勁が利いてないのかっ!?」

 蛮骨の背中にでも忍ばせていたのか、やはりこれもセラミック製の大振りの諸刃のナイフというよりも、鉈のような物を手にしていた。

「不老不死なんて訳の判らないものを研究しているキチガイどもだぜ? そいつらが昔からある、そしてその存在を認められている『気』って奴をほっとく訳ねーだろ」

 軽く弥勒を嘲りながら、蛮骨は自分の腕や首筋・背筋や胸筋の辺りに張られた電極のような物を見せた。

「お前に喰らった発勁は、この電極を通して筋力エネルギーに変換されるのさ。だから ――― 」

 物凄い勢いで自分の獲物を振り回しながら、まるで跳ねる独楽のように身軽に足場を変え、弥勒に何度も切りかかってくる。それを間一髪でかわしながら弥勒は足場を建て直そうとしていた。

「へへ、体が軽いぜ。お前が『気』の使い手であればあるほど、俺のエネルギー源になるんだからな。ほら、さっきみたいなのをもう一発くれよ」
「弥勒っっ!!」
「おい! そこを動くな、犬畜生!! 一歩でも動きゃ、すぐにでもこいつの首を刎ね飛ばす。お前の相手はその後だ。それまで、畜生らしくせいぜいその女の匂いでも嗅いでろ!」

 闘い慣れたというよりは、人を殺し慣れたと言う方が相応しい。躊躇ない構えと心情が蛮骨には余裕を、弥勒には窮地をもたらしていた。かごめの横で剣也が低く喉声を搾り出している。

「行こう! 剣也!! 弥勒さんを助けよう!」
「かごめっっ!?」

 かごめがまだ麻酔の切れきらない自分の体をどうにか起こし、きっとした瞳で獣姿の剣也を真正面から見つめた。よろりとベッドから下り、剣也に近づく。

「ごめん、ちょっとあんたの背中貸してね、剣也」
「お前…、こんな俺でも剣也だと……」
「何言ってるの。剣也は剣也でしょ! あのね ―――― 」
「無駄だ、無駄ぁ! それ以上、変な真似しやがると先にそっち殺るぞ。女は、まぁ仕方が無かったって諦めてもらってさ」

 体勢を崩したまま床に中腰状態の弥勒、鉈のようなナイフを構えた蛮骨はその弥勒を睨みつつ、自分の背後に回りこんだ剣也やかごめを恫喝する。言った事は、実行しそうな気迫を持っている。その恫喝に負けず、かごめは剣也の背中に自分の身を預けた。剣也の白銀の体毛をぎゅっと握り締め、一声叫ぶ。

「剣也、叫んで!!」

 かごめの号令と共に、雄雄しい獣の咆哮をあげ剣也が弥勒と蛮骨の間に割り込む。びりびりと室内の空気が震え、蛮骨の動きが一瞬止まった。着地の際に剣也が後ろ足で蛮骨の手にしていたナイフを蹴り落とし、それをさらに弥勒が部屋の外に放り出した。

「つっ、な、なんだ! 体が動かなかった」
「やっぱり! 剣也の『気』の方が大きすぎて、その電極じゃ処理しきれなかったのよ!!」
「かごめ、お前は弥勒たちと先に行ってろ! 神楽が案内してくれる!!」
「剣也!!」

 かごめの身柄を支えながら、弥勒が剣也を呼ぶ。

「こいつをこのままにしてちゃ、危なすぎる。せめて、追ってこれないようにくらいにしてないと……」
「だけど! お前、一人で ―――― 」
「一人だから!! 一人だから、良いんだ……」

 腹の底から絞られたような剣也の声の響きに、弥勒は心ならずも凶骨を屠った時の剣也の眸を思い出した。この獣姿の剣也でも『剣也』として受け入れたかごめ。そのかごめの前で死闘を演じ、牙や爪で人非人とはいえ『人間』の形をしているものを引き裂き、噛み殺す様を見せるのはあまりにも剣也には辛すぎた。

「判った。必ず、追いついてこいよ!」
「弥勒さん!?」
「かごめさん、判ってあげて下さい。これから先の光景は、かごめさんには見せたくないのです」
「剣也……」

 まだ心配気なかごめを促し、神楽に案内を請うて先を急ぐ。本当なら、この先危険の増す状況になるのは必至な場所へ、かごめやここの住人であったとしても酷い目にあっていた神楽などは、この施設の外に逃がしてやりたかったがそんな時間はないようだ。先に進むしかない、と弥勒は神楽を急がせた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「ふ…ん、使えねぇな、これ。こんな小手先のモンが有効なのは、そこそこの相手までだな」

 過度の筋力エネルギーが流れたせいで硬直していた腕や肩をほぐしながら、蛮骨は自分の体につけていた電極を引き剥がした。

「さぁ、これで良し、と」

 ぎらりとした凶暴な目付きで、剣也を睨み付ける。闘気と言うか殺気が上昇し、睨み付けた眼が赤く染まる。赤く冷たい視線で部屋の外に放り出された自分の獲物に醒めた視線を投げ、それからにやりとした笑みを浮かべた。
 剣也は出入り口を背に、蛮骨と対峙していた。剣也をやり過ごさないと、蛮骨は部屋の外に出る事も獲物を取り返すことも出来ない。

「お前、かーいいな。好きな女に血まみれの自分を見せたくなかったんだろ? はっ、甘いし、青いな」
「うるさい! お前に何か言われる筋合いはない!!」
「ああ、そうだな。じゃ、一丁楽しもうか!」

 その声と同時に蛮骨は一歩部屋の奥に飛び退り、かごめが寝ていた診察用のベッドの横から出したままの医療器具、注射器やメスなどを手にした。それを的確なコントロールをもって剣也の眸目掛けて投げつけてくる。今の獣姿の頑健な体にはそんなもの、そう効果のある武器ではないが、眸だけは別。それに続いて、蓋を外した薬剤なども剣也の眸を狙う。

「蛮骨、貴様っっ!!」

 飛び掛ろうと、前肢をあげ剣也の頭の位置が上がる。その僅かに開いた隙間を、蛮骨はスライディングで滑り抜け、通路に躍り出た。体勢はそのままで、伸ばした右腕には自分の獲物をしっかりと握り締めている。

「よーし、これで形勢は五分と五分。よぉ、邪魔が入らないうちに、思いっきり殺しあおうぜ!!」
 
 小柄な体格を生かし、獲物を手に軽やかに剣也に襲い掛かる。煌くナイフの刃が剣也の白銀の獣毛を切り、辺りの照明にきららに舞い散る。蛮骨の手からナイフを奪おうと爪手で叩きかけるが、軽くかわされ伸ばした腕を切りつけられる。瞬時で腕を引くも、その腕からは血しぶきがあがる。

「くっ!!」
「あっ、惜しい!! もう少しで腕一本取れたな」
「やられるか、お前なんかにっ!」

 間合いを取り、体勢を低く構えていつでも飛びかかれるように身構える。先に行かせた弥勒達と蛮骨の間にその身を置いて。

「健気だなぁ。そうやってあいつらの為に体を張ってる訳か」
「その減らず口を、黙らせてやる!」

 片腕くらい相手にやるつもりで、剣也は飛び掛った。この腕が切り落とされずにナイフの刃を噛んでくれたなら、空いてる方の腕で蛮骨を引き裂いてやるつもりだった。そんな事をしたら、もう二度とかごめの手を取る事は出来なくなるだろうなと思いながら。

「……あいつらが向かったのは、中央コントロール室か。あそこにゃ、ナラクと睡骨がいる。あいつら、タダじゃ済まねぇな」」
「それと、俺達の親父もな」
「親父?」

 ぴくり、と蛮骨の表情が変わった。ここに飛び込んだ時、剣也の父である闘牙は颯生と剣也にそれぞれりんとかごめの救出を言いつけ、自分は真っ先にこの施設の心臓部を目指した。その駈けて行く様は雷を纏った風神のような素早さで、闘牙が通り過ぎた後は障壁も監視カメラも雷に打たれた様に砕かれはね飛ばされていた。

「ここでお前の手足を切り落として、芋虫みたいに転がしておいても面白いが…。なぁ、お前達の中で一番強いのは、あいつなんだろ?」
「ああ、それがどうした!」
「ふ…ん。一番強い奴を他の奴が殺るのは面白くねぇなぁ…。よ〜し、よしよし、全部俺の獲物だ!! お前、お前もそこに行け! みんな纏めて俺が殺ってやるからさ」

 それこそ楽しそうに蛮骨は通路に仕掛けられた隠し扉に身を滑り込ませると、剣也の目の前から消えた。それが意味する事は、剣也も一刻でも早く弥勒達に合流しないとまずい事態になる、とい言う事だった。

「かごめ、親父…、それに弥勒達も。俺も今、そこに行くからな!!」

 全てのものが、一点に集まり始めていた。そこにあるのは砕かれた四魂の珠と、邪悪な魂を抱く者達と。剣也達の外からも、その輪は二重三重の波紋を描きながら中心を目指していた。




TOPへ  作品目次へ


誤字などの報告や拍手の代りにv 励みになります(^^♪

Powered by FormMailer.