【 白銀の犬 7 】




 ……りんがかごめに付き添われて、睡骨が校医に化けていた小さな医院を訪れたのが三時頃。その医院から連れ去られるかごめを偶然目撃した珊瑚。その時刻はおおよそ夕方の四時過ぎ。それから珊瑚が剣也の許に知らせに走り、二人でその医院を訪ねたのが五時前。

 これより後は、警察での管轄となる。
 発見された、殺害後間もない二人の看護士の死体と、死後半年は経過していると思われる、前校医の遺体。そして、目的不明なまま誘拐されたかごめとりん。


「……実は数日前の事なんですが、攫われたかごめさんと珊瑚の後を怪しい何者かが尾行ていた事があるんです」
「怪しい人物?」

 取調室にざわっと反応が起きる。

「ええ、その時一緒だった剣也君も気付いていたみたいです」
「あっ! それで…。最近、剣也が帰り道に気をつけろとか、暗くなってからは一人で歩くなと言ってたんだ……」

 でも、そうなるとこの誘拐事件のターゲットは最初からこの二人だったのか……?
 だけど、かごめがりんの付き添いになったのは偶然。

 何か得体の知れぬ何者かの網が張り巡らせられていたのだろうか。

 所轄の取調室で、捜査協力の為に情報を提供していた弥勒達は話す事を話し終え、これからどうしたものかと身動きが取れずにいた。取調室の壁に掛かっている時計は夜の八時前を指していた。

 取調べ中の珊瑚の言葉で剣也もあの一件を気にしていたと聞き、何か自分が知っている以上の情報を持ってはいないか尋ねる為、弥勒は剣也の家に電話をした。呼び出し音が鳴り響くのに、受話器がとられることはない。

「……どう言う事だ? 何度電話してみても留守電のままだ」
「弥勒兄……?」

 攫われた二人のうちの一人、りんの家族である犬神家の男達。
 一旦はこの所轄署に顔を出し、状況の重大さ危険さに家に知らせに帰ったはずの剣也さえ、どうも不在のようだ。

 一般人離れした家族だが、警察機構でもない者が「N−コネクション」と呼ばれる巨悪な組織に立ち向かおうとは、あまりにも命知らずな行為だ。
 あの組織の恐ろしさは、弥勒を始めここにいる者は皆、大事な家族を傷つけられ、あるいは殺されて身に染みるほどに知っている。その忌まわしい因縁の環の外にあったはずの平和な家族が今また一つ、その中に引き摺り込まれたのだ。

「あの…、弥勒兄……」
「うん? なんだ、珊瑚」

 腕の中に、ついそのままコハクを抱いたままここまで来ていた珊瑚が小さな声で弥勒の腕を引いた。

「あの足の悪い女の人とは、どうして知り合ったの?」

 あの女の人、と珊瑚は言った。
 先程からのやり取りで、彼女の名前が『神代桔梗』と言う名の、親友であるかごめの親戚で剣也の小学生時代の恩師らしい事はわかった。
 でもだからと言って、なぜこのタイミングで彼女がここにいるのか?

 余りにも大人で理知的な美しさをたたえているから、珊瑚は……

「……知り合ったって、珊瑚。お前も知っているだろう? 俺の大学にいる神代教授の事。教授の親戚で、丁度俺たちが神代教授に鑑定して欲しい物を見せに研究室に行ってみたら、彼女もそこにいたと言う訳だ」
「調べて欲しいもの?」
「颯生がどこかから手に入れた、尋常ならない『気』を放つものだ」

 弥勒の言葉が聞こえたのか、ここに来る前に楓に渡したそのペンダントを、もう一度手にした桔梗が珊瑚にそれが見えるよう掲げた。
 それを見て、珊瑚の腕の中のコハクが激しい反応を示す。

「ど、どうしたの? コハクっ!?」
「ほぅ、その犬は『これ』を知っているようだな」

 杖をつきながら、桔梗が珊瑚に歩み寄る。

「……その犬は、お前の犬か?」
「えっ…? いいえ、この子はその攫われたりんちゃんが飼っている犬です。捨て子だったのを拾ったとか……」
「そう……」

 桔梗が珊瑚の腕の中のコハクに手を翳す。すっと、深遠な光を湛えた瞳を閉じ軽く瞑想状態に入る桔梗。

「あの……?」

 その様子を不思議に思い、思わず言葉が零れる珊瑚。

「……お前も数奇な運命だな。折角巡り合えたと言うに、その姿では……。だが、これも大いなるものの差配であろうな。お前を拾ったのが『犬神』の家の者であったと言う事はな」
「桔梗さん、もしかして颯生が言っていた『家人が拾った』と言うのは……?」
「ああ、そうだろう。これを犬神の家に持ち込んだのはコハク、お前だな?」

 その桔梗の言葉が判ったのか、珊瑚の腕の中でコクンとコハクが頷いた。

「ちょっと待ってください、桔梗さん。それではこの事件の発端は、この子犬をりんが拾った事にあるのですか?」
「ああ、そうだ。この犬はコネクションのラボから、この重要な『四魂の欠片』と共に誰かが逃がしたのだ。それをりんが拾い……」
「それじゃ、組織からの要求があるかもしれませんね! かごめとりんの身柄と引き換えに、『四魂の欠片』を渡せと」

 この情報に、御蔵を始め警察関係者は色めきたった。
 犯人との接触が誘拐事件の場合、捜査を大きく進展させるカギとなる。

「あるかも知れぬ、ないかも…な」
「それは、どう言う意味ですか?」

 コハクに痛まし気な視線を送り、すっと手元の緑瑪瑙のペンダントに目を落とす。

「……りんの身が、あちらの手に落ちた今となっては ――― 」

 『四魂の欠片』に匹敵する『りん』の存在とは何なのか、まだ見えない謎が弥勒達の前に横たわっていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 取調室を出て、廊下の長いすに腰を下ろし自販機で買ってきたコーヒーやジュースで一服する。

「ふぅ、なんだかもう、頭の中がぐちゃぐちゃになりそう」
「全部判ろうとすると混乱する。判る範囲だけ、きちんと把握すれば見えなかったものが見えてくる」

 珊瑚の隣に腰を下ろした桔梗が、そう言葉をかけてきた。

「……判る範囲? あたしが判る範囲って、あたしが子どもの頃かかっていた主治医をこの前、りんちゃんが通っていた小学校の側で見かけた事。その男が、かごめちゃんやりんちゃんを誘拐した事……」
「それから?」
「それから昔、あの男から何かの招待券のようなものを貰った事が…、あっ!!」

 珊瑚はまだ家族が健在だった頃、あの主治医からもらったどこかの企業のサマーキャンプに出掛ける途中で列車事故にあった。自分は瀕死の大怪我をし、両親を亡くした。別々の病院に収容された弟は身内を名乗る何者かにやはり連れ去られた。
 それが指し示す、『事実』とは ――――

「……もしかして、これ全部一つに繋がるって言うの!?」
「珊瑚……」

 少しずつ、見えてきたものがある。
 弥勒も、そしてあの颯生もひっかかっていた八年前のあの謎の列車事故。
 狙われたのは『りん』かもしれない。
 あの事故の行方不明者の大半が幼い子ども達だったのだから。
『りん』も、その現場にいたのだろうか…?

( ……そうなると、りんはまだ一誕生前の赤ん坊だったはず。颯生達家族も乗り合わせていたと言うのか? それなら何故、あれだけの事故にあって無傷でいられる? )

 弥勒はもやの中に答えを探すように何か見落としてはないかと、自分の記憶の中を何度も探り直したが、確となるものは探り当てる事は出来なかった。

 その同じ問いを、弥勒の父・御蔵も思い巡らしていた。
 組織の、ナラクの手にかかり、利き手である右手を潰され半死半生の目に遭わされた。射撃の名手であった御蔵は右手を潰され、またその妻が心労のあまり早世してしまった事で自暴自棄になり、廃人同様の日々を過ごした事がある。
 その間、専従捜査員であった御蔵の代わりに捜査に当たったのが珊瑚の両親にして、御蔵の親友でもあった狩野刑事夫妻。

( ……後で聞いた話だ。八年前、何か大きな企みがそのサマーキャンプの裏で進行しているとの情報を得た狩野は、家族を連れてそのキャンプ行きの列車に乗り込み、あの事故にあった。だとすると……? )

 最初からあの事故は、ナラクの手で仕組まれたもの。
 事故そのものが、企みだったのか……?

( いや、それだけではない。あの人のあの言葉を考えれば…… )


『神』になろうとしている、『悪魔』
『不老不死』に取り付かれた、狂人。

 その為の人体実験としての、材料を集める為の事故だったのか?

 それを裏付ける証拠として、あの半人半獣の写真。
『神』の力を得る為の、『器』としての姿だとあの人は言った。

 ならば、その『神』の姿とは ―――

 皆が、それぞれに心の中で思う事ども。
 その中心には、『あの男』が在る。
 おそらくここにいる誰よりもその存在が大きいのは、他ならぬ桔梗その人。

( ……ナラク、いや鬼木久茂よ。お前は本当に『神』になれると思っているのか? その為に、殺された多くの人達の怨念を身に纏う事も厭いはせずに ――― )

 遠い眼差しで、あり日しの鬼木の姿を思い浮かべる。
 まだ白霊の医大生であった頃の、そして恨みを買った患者から火をかけられ全身に火傷を負った姿を。

 ……最後に、鬼木として会ったあの時に ――――

 そのまま受け入れてやれば良かったのだろうか?
 因果を受けたその身を、諌める事無く、過去の事実もそのままに。
 もし、私が……

 時間を戻せぬ以上、過去の過(あやま)ちはこの現在(いま)で、未来で償うしかないのだ。
 桔梗は、警察署の外扉に映る自分の姿を見ていた。
 ガラスで出来たその扉は外が暗くなった事で、ぼんやりと時ははっきりとその姿を鏡のように映し出す。

 ―――― 変わらぬ姿。

 最初にナラクにあった、あの時から。
 ナラクの手で施された呪縛ゆえに……

 あの時から、桔梗は断罪者としてナラクを追っている。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 夜闇の迫る街中の空を、白銀の光が疾駆する。
 空を見上げる人間も少なくなり、人工の照明とそれが作り出すより濃い影とがこの『人でないもの』達の姿を隠していた。
 先行していた殺生丸が、その街一番の高層ビルの屋上ではるか下の色とりどりなネオンの海を、醒めた目つきで眺め下ろしていた。

「どうした、殺生丸? 見失ったか」
「…いや、ここまでは間違いはない。だが……」

 落ち着いた様子で話す二人を見ながら、ようやくその姿に馴染み始めた犬夜叉が、心配気に周りを見回す。先を走る父・闘牙の後を必死で追いかけていたから、自分がどこにいるかをここにきてようやく気付いたのだ。高さに対しての怖さもあるが、それよりもこの姿を誰かに見られたら……、の怖れの方が強い。

 何より自分で自分が判らない、『怖さ』。

「…親父、俺……」
「時期、慣れる。それまで、俺たちからはぐれるな」

 幻想的で、非現実的な光景であろう。
 都会の高層ビルの屋上に、折りしも上ってきた満月の光の下、居並ぶ三頭の白銀の犬の姿は。

 神々しくも猛々しい、真下の猥雑で暴力的な街とは正反対な存在だった。

「……ここには、風がない。連れて来られた事は間違いないが、坩堝のような人の気の中に紛れてしまった」

 忌々しげな口調で殺生丸がそう言う。
 それよりも、なによりもこの姿で街下におりようものなら、どれだけの大騒ぎになる事か。別の意味で警察沙汰だし、保健所や動物園、もしかしたら自衛隊だって……。
 そんな事を思い、流れぬ筈の冷や汗が背中を流れたような気が犬夜叉はした。

「あの、さ…、親父。あそこに行くなら、人間の姿の方が良いんじゃないのか?」
「……今の状態で、戻れるものならばな」

 冷たく言い放すのは、殺生丸。

「……それは、どういう意味だ?」
「本能に根差した『変化−へんげ−』だからだ。お前は、かごめの危機を察してその姿になった。そうならねば、助け出す事も守る事も出来ない事を、お前の本能は知っている」
「じゃ、かごめを助け出すまでは、もとの姿には戻れないって…!?」
「ああ、そうだ」

 その言葉は、また犬夜叉の心を恐慌状態に陥れた。

( …こんな姿でかごめの前に立つのか? もし、俺のこんな姿をかごめが見たら…… )

『人じゃない』と、かごめが俺を恐れたら、否定されたら ――――

「……構わん。人間如きにどうこうされるほど柔ではない。手遅れになる前に、取り返すのみ。その後の事は、それからだ!」

 殺生丸がきっぱりと言い放つ。
 その一言で、犬夜叉も目が覚めた。

( ……そうだ。今の俺が一番恐れなくてはいけないのは、この姿をかごめに見られる事ではなく、かごめが殺される事を一番に恐れないとっっ!! )

 家族への深い愛情。
 そしてまだ、恋ともいえぬほど淡い想いの、その根にきざす強く何よりも大事な気持ち。

 その時!!

 彫像のように佇む白銀の犬達の耳に、音でない音がはっきりと聞こえてきた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 しんしんと冷え込む地下の檻の中。
 こんな状態では食欲も湧かず持ってこられた簡単な食事には手をつけないまま、二人は毛布に包まっていた。ぶかぶかの病衣のままでは寒いので、かごめが背中からりんを包むように抱きしめ、頭からすっぽりと毛布をかけている。外から見たら、りんの姿は全然見えない。

 かごめの体と毛布に隠されて、りんはそっと犬笛を吹いた。
 近くに居るかごめの耳には、かすかに空気の漏れるような音が聞こえるだけで金属製の笛が持つ甲高い音は聞こえない。
 この地下にはかごめ達の他にも収容されている動物がいるのか、何匹かの動物の声がその笛の音域に調和してくる。
 耳慣れぬ音に対しての警戒の唸り声ではなく、その音を遠くまで届けようという感じの鳴き声。

「りんちゃん、どう?」
「うん、またもう少ししたら吹いてみる。ここの動物達も、助けて欲しいみたい。りんの吹く笛と、同じ音調で啼いてるよ」
「そう、見つかって取り上げられたら大変だから……」

りんが犬笛を吹くのを止めるのと同時に、檻の中の動物達も大人しくなった。

( …ちゃんと聞こえたかな? きっと迎えに来てくれるよね、颯兄様…… )

 りんの胸の中には、不思議と颯生の姿しか浮かんでは来なかった。

「りんちゃん、胸の傷は痛くない?」
「あっ、うん、今はもう大分良いみたい。りんね、怪我には強いんだ。すぐ治っちゃうんだよ」
「そう…、でも刃物で切られた傷だし、それに……」

 ……切られた傷なら、それも鋭利な刃物で切られた傷は却って治りが早いが、りんの場合は生皮を剥がれ、骨を削られた傷なのだ。それだけに ―――

「ほら、もうこんなに治ったよ」

 心配そうなかごめを気遣い、りんは病衣の前を少し肌蹴て見せた。
りんの言葉通り、最初にメスを入れられた傷は薄赤いミミズ腫れのような状態を見せ、剥がれた生皮のあとにはもう既に新しい薄皮がはりはじめていた。

( …? 普通…、じゃないわよね? この回復力は。だからなの? りんちゃんが攫われたのは…… )

 睡骨がりんを診ながら言った言葉。


 ―――― 確か八年前の事故の時は右胸にガラスの破片が刺さっていたんですけどね……


 ううん、そんな事はどうでもいい!!
 りんちゃんはりんちゃん!
 私は知っている、りんちゃんがどんな子なのか。
 何か秘密があるとしても、それが私とりんちゃんの間で問題になる事はないわ!

 だって、私は知っているんだもの!!




 ―――― コンクリート造りの高楼の上から、地上の猥雑な色彩を冷ややかな眼差しで見下ろしている。

 その懐かしい笛の音は、車の騒音や毒々しい照明を灯す為の機械音や酔客の上げる恥褻な声や、その客から金を絞り取ろうとする女達の嬌声などに混じり、間違いなく三人の耳に届いた。
 十六夜が生きていた頃は、遠くまで遊びに出た子ども達を呼ぶ為に吹いていた笛。
 優しい音色を奏でていたその笛が、今は助けを求めている。

 そう、この笛の音の場所……
 かごめとりんは、そこに居る!
 間違いなく!!

 そう確証を得た今、その場に乗り込んで行けない状況に殺生丸の怒りは募っていた。それは他の二人、闘牙にしても犬夜叉にしても同じ事。
『この姿』を人目に晒す事を恥じている訳でも恐れている訳でもない。

 ただ人前にこの姿を見せた時の、後の顛末を考えるにそれは決して賢い選択ではないと誰もが感じていた。

 かごめとりんの匂いは、この街のどこかに潜んだ。

( かごめ、りん…、無事で居るのか……? )

 奇しくもあの夕方、りんを迎えにかごめの家まで行った時に渡した犬笛が、こんなところで役に立つとは、渡した犬夜叉自身も思ってはみなかった。
 この犬笛の音だけが、りんやかごめの元にこの三人を導く唯一の物。

 まだ、動けない。
 どこかに、突破口はある筈。
 かすかに動き始める、その『風』を待つ。


 しかし、その笛の音もいつしか途切れてしまった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 参考人としての事情聴取は終ったものの、まだ所轄署から立ち去りがたく珊瑚も弥勒も次の行動を起こせずに居た。珊瑚の腕の中のコハクが物言いたげに珊瑚の顔を見、弥勒の顔を見ている。
 それに気付いた桔梗は不自由な足を杖を頼りに歩き出し、警察署の外へと出てゆこうとした。

「女性の夜間の一人歩きは危険です。ご自宅まで車でお送りしますよ」
「車?」

 怪訝な顔で、桔梗が問い返す。

「えっ、ああ、ははは。勿論、俺の車じゃありません。親父にいってパトカーを出してもらいますから。珊瑚ももう遅くなっている。一緒に送ろう」
「でも、弥勒兄……」

 親友のかごめが巻き込まれ、その根っこの部分では自分自身も関わっているらしいこの事件。こんな状態じゃ、家に帰っても落ち着けそうにない。

「……珊瑚、お前が目撃したその車はどちらの方角へ走って行ったのだ?」

 その問いも、取調室で聞かれた事。
 珊瑚は、市内に向かって走り去ったと答えた。

「物は試しだ。その方角に走ってはみないか?」

 桔梗のその言葉に、珊瑚の腕の中のコハクが激しく反応した。今の言葉の意味を十分理解したかのように。

「ど、どうしたの? コハク!? どうして、そんなに……」

 今にも腕の中から飛び出しそうなコハクを捕まえておこうと、珊瑚が慌てている。その様を見て、弥勒ははっとある事に気付いた。

「桔梗さんっっ!! もしかして、コハクならその場所が判るとでも…!?」
「ああ、その犬が『稀な』犬で、私たちの言葉が判るものならば、もしかしたら導いてくれるかも知れぬと……」
「コハクが…?」
「そう、かごめとりんが連れて行かれたのが、コハクが逃げ出した場所であるのなら」
「判りました!! すぐ、パトカーの手配します!」

 やがて、警察署の正面につけられたパトカーに乗り込む弥勒・珊瑚・そして桔梗。珊瑚の腕の中のコハクは、全て判っているようにただ真正面から車の進行方向を見据えていた。

 夜の市内をパトカーは赤色灯も付けぬまま、ただ漠然とした指示で走り始めた。
 珊瑚が見た方角が市内の歓楽街の方向であったとしても、途中の路地や横道に入った可能性は極めて高い。それだけを手がかりに誘拐された二人の監禁場所を探し出すのは、正直雲を掴むような話。
 大きく方向がずれていれば、その場所を知ってるかも知れないコハクでも弥勒達を導く事は叶わないだろう。

 人気の無い夜のオフィス街を抜ければ、この辺りで一番の歓楽街に入る。その時、大人しく前方を見つめていたコハクが一声、大きく鳴いた。

「どうしたの、コハク!? この辺りなの?」

 オフィス街を行き過ぎようとするとしきりと車内で吠え立て、とうとう車を止めさせてしまった。

「どうするの? 弥勒兄……」
「俺がコハクを連れて出る。何かあったら連絡するから、しばらくここで待っていてくれ」

 小さな体に不思議な『気』を滾らせているコハクを珊瑚の手から預かると、弥勒は車を降りた。降りしなに、桔梗が弥勒に声をかける。

「……無理はするな。相手を人と思うな」

 その忠告に、弥勒は無言で頷いた。

 車から降りるとコハクはとん、と弥勒の腕から飛び出した。きょろきょろと辺りを見回し、すっかり覚えてしまった『人でないもの』の……、いや『獣』すら凌駕するほどの古来よりの『気』を纏う者達を探した。

 そう、りんが拾ってきた捨て犬や捨て猫が居つかなかった訳。

 それは、闘牙たちの放つ他を圧倒する『気』によるもの。
 現在の『人間』達は、この文明社会のぬるま湯の中で生来授かっていた五感の力をすっかり錆付かせてしまった。ほんの少し闘牙たちが『人らしく』振舞うと、もうその正体に気付く事が出来ないほど鈍感になってしまっているのだ。

 コハクは、闘牙たちほど鼻が利く訳ではない。
 あの時、すぐさま闘牙たちがあの現場を離れたのは、このたった一つの手がかりであるかごめやりんの『匂い』が消えてしまわぬうちに追跡する為。

 かごめ達の匂いを追えなくても、闘牙たちの『気』を追う事なら出来るとコハクは思った。ひどく方向が違いさえしなければ、察知出来るだろうと。
 だから桔梗が水を向けてくれた時、全身でそれを伝えたのだ。

 びくっ、とコハクの体が震える。
 普段の穏やかな時の『気』でさえ、気圧されそうな迫力があるのに、今 伝わってくるそれは、『闘気』であったり『覇気』であったり、または触れるのも恐ろしい『怒気』であった。

 ぶるっと体を震わせ、体毛を逆立てながらもコハクはその『気』の下へ走り始めた。そう、コハクにも判っている。早くせねば、二人の身にどんなおぞましい事態が降り掛かるのかを。自分自身、その身をもって体験しただけに!!

「待て! コハク!! こっちの方角で間違いないのかっっ!?」

 追う弥勒も、只者ではない。
 普通の人間では、走る犬の足に追いつきはしない。そこは古武術の継承者としての弥勒なればこそ。
 弥勒の声に一度後ろを振り向きワン、と一声鳴く。
 コハクの小さな体が、人通りも疎らなオフィス街を駆け抜ける。通りを二・三本も出れば、仕事帰りのサラリーマンたちをカモにしようと夜の蝶たちがひらひらと飛び交う繁華街。
 目に見えぬ結界でも張られたような、この場の雰囲気の違いに異様さを感じる。
 繁華街の最深部には、人には言えぬ闇の世界があると言う。
 かごめやりんが引き込まれたのは、そんな闇の中。

 幾つかのビルの角を曲がり、そんな繁華街を眼下に臨む一際背の高いビルの非常階段を駆け上り始めるコハク。
 その屋上で待つ者は……


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ともすれば見失いそうになるコハクの小柄な体を追い駆けて、弥勒もその非常階段を駆け上った。

 こればかりは、流石に動物であるコハクの方が断然早い。迷いもせず駆け上ってゆく様子に弥勒は、このビルの屋上に何か手がかりがあるのだと、確信めいた物を感じた。

 コハクは走る。
 そう、丁度あの時のように。

 研究施設から逃げ出したあの時。
 一緒に逃げた、いや逃がしてくれたあの人。
 怪我をして走れなくなったあの人は、こう言ったのだ。

 ――― あんたはここから無事に逃げて、あたしを助けに来ておくれ
 ――― あんただけが希望の綱なんだから!!

 あんな場所で、ただ一人優しくしてくれた人。
 こんな『姿』の俺を、決して動物扱いしなかった。
 あの時は、あの人の言葉通り逃げるしかなくて……
 何も出来なかった自分が情けなくて……

 行あてもなくさまよっていた時に、あの笛の音を聞いた。
 笛の音に誘われて、あの子に会って ―――

 そして……

 その目の前には、神々しいばかりの姿の三柱の犬神の姿。


「……言ったはずだな、コハク。災厄を持ち込んだりした、その時には、と ―――」

 魂の底まで凍てつく様な、冷たい声音。
 ビリビリとした殺気のようなものすら感じる。

「止めろ、殺生丸。コハク、何用だ?」

 止めなければ、その爪の一振りで屠ってしまいそうな殺生丸を抑して、静かに闘牙が尋ねる。
 コハクには、この三人のように『この姿』で人語を操る事は出来ない。
 それでも伝えなければならない事を、必死で伝える。

「……判った。お前は、その場所を知っているのだな?」

 くぅ〜ん、と肯定の鳴き声を発する。

 コハクの後を追っていた弥勒は、まだ非常階段の途中。
 先に屋上に着いたコハクへ意識を向けていると、何者かの声が聞こえた。

( 誰だ? こんな時間にこんな所に居るのは……? )

 一瞬、「N−コレクション」の手の者かと警戒したが、それにしてはコハクの様子がそぐわない。もし、そうなら今頃は激しく吠え立てている事だろう。

 それに……

( なんだ? この『気』は!? 清冽にして荒々しい…、まるで『荒御霊』のような…… )

 弥勒の視界には、まだ屋上の様子は映らない。
 階段を上るほどに強くなるその『気』と、耳に届く途切れ途切れの声。
 その声は……

 ――― 言ったはずだな、コハク。
 ――― 止めろ、殺生丸。

( ……コハクの名を知っている? それに、この声は…。『殺生丸』とは、一体……? )

 ますます逸る気持ちで、非常階段を駆け上る。
 上から聞こえる声が、もう少しはっきり聞き取れるようになった。

 屋上に居る者たちの姿を確かめようとした、その時!

「――― お前は、その場所を知っているのだな?」

 その問いかけに答える様に、コハクがくぅ〜んと鳴いた。

「では、我等を案内せよ!!」

 力強い壮年の男の声がしたと思った瞬間、弥勒の目の前を白銀の何者かが満月の夜空を翔け抜けていった。

 まるで、月の光の幻のように。

 はっと我に返った弥勒の眼に映ったビルの屋上には、すでにコハクの姿もなかった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 待機しているパトカーの中で、ぴくりと桔梗が反応した。

「……すまぬが、彼が戻ったらすぐ発車出来るようお願いしたい」

 弥勒の父・風守御蔵を尊敬してやまない後輩の阿波野刑事は、その静かだが何人も逆らえぬ響きを持つ桔梗の声に、一種の緊張感を感じた。

「あの、桔梗さん…?」
「済まんな、珊瑚。お前を家に送ってゆく余裕はなさそうだ」

 そんな会話を交わしている所へ、転がり落ちるような勢いで弥勒が駆け戻ってくる。

「桔梗さん!」
「皆まで言わぬとも、すぐ後を追うぞ」

 桔梗はパトカーの中を覗き込むようにして首を突っ込んだ弥勒の上体に手をかけ、病弱そうで細身な外見からは予想もつかない力で、車内に引き込んだ。

「車をここより北東の方角へ!」

 一声桔梗は、そう阿波野刑事に告げた。

「桔梗さん、あなたも『あれ』に気付かれたのですか?」
「ふふっ、こう見えても私は巫女だぞ? 判らないでおろうか」

 あの者らの覇気を受けたのか、病身に見えた桔梗の体から形容のしがたい『力』を感じた。

「……弥勒兄、コハクは?」

 心配気な顔で珊瑚が尋ねる。

「コハクは、俺が屋上に着いた時にはいなかったんだ」
「心配せずとも良い。今 コハクは己が勤めを果たしているのだ」
「でも……」

 真相に気付いてなくとも、引き合うものはやはり肉親の情か。

「大いなるものの加護であろうな。あのような姿に堕されても、その精神を損なう事がなかったのは」

 独り言のように、呟く桔梗。

「私も祈ろう。もう一度、あの者に神の加護があらんことを」
「桔梗さん……」

 桔梗の呟く言葉の意味は判らない。
 弥勒はこの目の前の桔梗もまた、あの夜空を翔ける白銀のものたちと同じ世界の住人ではないかという気がしてきた。

 ビルの屋上や、建物の屋根などを足場に夜空を早翔けるそれらのものを、地上から追うのはかなり困難だった。
 あっという間に気配は遠のいてしまったが、それでもあれだけ強烈な気配の指し示した方角は、間違いなくこの繁華街の北東の郊外に延びていた。


 この繁華街の北東部は、最近になって新興住宅地として開発されてきたが、それまでは閑散とした荒地めいた土地だった。固い岩盤がわりと浅い地表付近まで迫っており、農耕地として適していなかったせいもある。
 半世紀前まで軍用地として徴収されていた事も開発の遅れに繋がるだろう。
 あちらこちらの地面からみえる岩や大きめの石も、根の部分でこの岩盤と一体なので、簡単に掘り起こす事が出来ない。

 最近でこそ、発達した建設機械のお陰でそんな土地でも活用できるようにはなってきたが、それでもせいぜい地表を平らにならして、住宅用地として売り出すのが関の山。地震の多い昨今、地盤の硬さが喜ばれて売れ行きはそう悪くない。

 しかし、そんな小手先の開発では手に負えないような岩山が雑木林の向こうに控えていて、大型の開発地区から永遠に外されたような場所なのだ。


 弥勒たちの乗った赤色灯を消したパトカーが、その新興住宅地に着いたのは、もう午後の十時を過ぎようとしていた。
 新築中の区画が幾つもあり、住宅街としては未完成な街並み。まったくと言ってよいほど人通りのない歩道を照らす疎らな街灯。その光を受け、庭先に積まれた建築資材が蹲った動物のような影を落としている。
 建ち上がり、主を待つばかりの明かりの灯っていない家。
 早々にこの街の住人となった者の住まう家の明かりがポツンポツンと灯り、言い得ようのない侘しさを醸し出す。

「……確かに、人の目にはつきにくい場所かもしれませんね」
「だが、ここではあるまい。それらしい建物や実験をすれば、かえって目立つであろう」
「そう…ですね。では、攫われた二人の監禁場所として、でしょうか?」
「まだ、判らぬ。あの『気』はさらに移動しておるようだ」

 桔梗と弥勒、二人してその『気』を追う。

 そんな二人を一抹の不安を抱え、心配気に珊瑚が見ている。
 そう、自分の入ってゆけない世界を見ている二人に、同じ車内にいても遠い距離感を感じて。



【8に続く】

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