【 白銀の犬 6 】




( ――――妖怪なんかはね、『人型ーひとがた』をしているものが、最も性質が悪いんだ )

 ……どこかの物語の中にあった台詞。
 ならば、その化け物が『人間』そのものであった場合はどうなのだろう?
 今、この目の前に居る男のように……

「やめて!! りんちゃんに手を出さないでっっ!」

 必死なかごめの叫びなど、睡骨の耳には届かない。『愉しみ』を独り占めするタイプなのだろう。
 試術の為の、ご自慢の道具類を嬉しそうに用具用ストレッチャーの上に並べてゆく。研ぎ澄まされた美しさを誇るように、鋭利な輝きを放つ沢山のメス。薬剤を充填された注射器はその細い針の先におぞましい悪魔の雫を宿らせている。
 サンプル分類の為に用意された、ナンバーをふった蓋付きのシャーレが無数に用意されている。同じように、密閉出来るタイプの試験管も何十本と並んでいる。

「それを、どうするつもり……?」

 言いようのない恐怖の為か、かごめの唇は乾き声が掠れる。

「何か誤解してませんか? 私は何もこの子の体を使って、生体解剖しようなどとは思っていませんよ?」
「でも……」
「詳細なデーターを取る為には、サンプルは多い方が良いですからね。髪の毛から爪、皮膚など体の各部位から。体液も血液ばかりではなく汗や尿、まぁ 採取出来るかどうか判りませんが他にも色々と。そうそう、骨髄液はとても重要ですから、少し多めに取りましょう」
「………………」
「筋肉組織もサンプルですね。もちろん内蔵組織も骨組織も、です」
「あ、ああぁぁ……」

 もう、声も出ないかごめ。
 そんなかごめなど目にも入っていないのだろう。自分の言葉に酔ったように、静かだが異様な昂ぶりを現す睡骨。

「では、始めましょうか」

 にっこりと微笑みを浮かべると、その悪魔の手はまだ意識の戻らぬりんの体の上にのびて行った。

 着衣のまま拘束されたりんの体。
 そのままでは、勿論サンプル採取など出来ようはずも無い。睡骨はメスを持つ前に、まずよく切れそうな鋏を手にした。やはり同じように拘束されたかごめからはよく見えなかったのだが、腕と胴を一緒に拘束されたかごめと比べ、りんはかなり細かく拘束されていた。

 まずは首。
 サンプル採取する際に、しやすい姿勢を取らせる為に可動式で手首・足首を固定。それから上胸部と胴周部と左右に分けて大腿部。まるで、蝶の標本のように。
 上胸部の拘束ベルトの下からりんが着ていたシャツと肌着を引き出すと、そこに鋏を当て、一気に胴周部まで切り裂いてゆく。

「いやっっ!!!!! 止めて、止めて、止めてっっ〜〜〜!!!!!」

 鋏の冷たさと、かごめの悲鳴がりんの意識を取り戻させる。

「…なに? ここ、どこ…?」

 意識を取り戻したばかりのりんには、周りの状況がまだ把握出来ていない。
 自分がどんな状態なのかさえも。

 が、次の瞬間!!
 りんの意識ははっきりと覚醒した。

 痛々しくも手術用の照明の下に晒されたりんの裸の胸。
 そこを……

「いやっっ!! りんに触らないで!!!」

 身を捩りたくても捩れない拘束されたりん。
 触れてきた手の冷たさ、邪悪さにりんの肌は鳥肌立っている。その手は、むしろ優しく柔らかなタッチで、りんの胸部を丹念に触診している。どんな小さな異変でも見過ごすまいと。

「ふむ…、確か八年前の事故の時は右胸にガラスの破片が刺さっていたんですけどね……」
「いや…、りんを放して」
「あの時、あの少年がこの子を庇わなければ、即死でもおかしくなかったんですよね」

 睡骨の手は、その記憶を確かめるようにりんの胸を撫でまわり、脇に流れ、みぞおちから胴回りの拘束ベルトの辺りまで同じように触診する。

「あの事故で、目星をつけていた実験体候補を何体も死なせてしまいました。まぁ、死体でも使えるものは使ますし、実験体の補充もそこそこにはできましたから、そう困りはしなかったんですよ」

 睡骨の呟きの意味は、りんにはちっとも判らない。
 ただ、触れられるたびに逃げ出したいほどのおぞましさが全身を駆け巡る。

「そう、あの時。実験体として回収されるか、死体としてそこに転がるか。その二つに一つしかない選択肢から、お前はどうやって逃れたんだろうね? りん」

 傷一つ無いりんの肌に感嘆の吐息をつきつつ、その手はまず1本目のメスを取り上げた。りんの目の前でメスが照明の光を反射させる。その恐怖が、りんの中の最も古く忌まわしい記憶の封印を解いた。

 まだ赤ん坊だったりんが、何も判らぬまま『恐ろしい』と封印してきた記憶。
 つぶらな無垢な瞳に映った、この世の地獄絵図を……

( いやだっっ!! 誰か…、助けてっっ! 誰かっ、誰か、お願いっっ!! )

 ふわっ ―――

 恐慌をきたしかけていたりんの心に、優しく触れてくるものがある。
 思い出したくない記憶の、その底に ―――

 りんを包む、金と白銀(ぎん)。

( ……? 颯…兄様? )

 何故か、その光にりんは颯生を思い出していた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 剣也と珊瑚はそれぞれ連絡すべき相手に連絡を入れながら、急ぎりんの通う小学校の校医のもとを訪ねた。剣也が通っていた頃の校医が老齢の為、その親戚である今の若い校医に代わったとは、どこからともなく聞いていた。
 病気らしい病気をしたことも無く、怪我をしても殆ど自前で治してしまう剣也にとっては医者くらい縁の薄い人種はいない。だから、校医といっても初めてその医院を訪れた。

 そこで―――

 先に様子を見る為、一人そっと中に入った剣也は青ざめた顔をして、改めて珊瑚に近くの警察を呼ぶよう指示した。
 迅速な連絡の成果、珊瑚が後から呼んだ警察と殆ど代わりが無いくらいのタイミングで、闘牙・颯生・弥勒( …これはまだ二人とも一緒に桔梗の元にいた時に連絡を受けた)、それから珊瑚の義父の滝寺警部と弥勒の父・弥蔵が駆けつける。
 所轄の署員の手で運び出されるまだ体温の残っている二人の看護師の死体と、既に死亡して長い時間が経ったと思われる老医師の遺体。

 明らかに凶悪事件の様相を呈してきた、かごめ・りんの誘拐事件。
 数少ない手がかりの参考になればと、ここ最近の二人の身の回りに起きた事を警察に話すべきだと剣也は思った。特にあの不審人物の事を話す為、剣也・珊瑚・弥勒の三人は弥勒の父達と署に同行した。

 後に残った闘牙と颯生は、まだ鑑識員が作業をしている間、その眸の奥を金に底光りさせながら、何一つ見落とすまいと鋭い視線を投げている。
 何よりも、今 ここに残る有力な手掛かり。

『人間』では活用できぬ、それ。


「……追えるか、颯生」
「無論だ。ただ、このままでは……」

 もとより人間離れした親子である。
 二人の体から発する『気』は、人智を超える。

「ふっ、律儀な奴。お前なら、自力で封印は解けようものを」
「……『長』への礼を尽くしたのみ。急ぎ、家に戻りすぐ跡を追う!!」

 普段は潜めている、その本性。
 獲物を追う、獣のようなその眸。

「俺も剣也が戻り次第、後を追う。それまで頼むぞ、【殺生丸】!」

 父の言葉を背中で聞いて、そのまま颯生は事件を聞いて集まってきた群衆の中からかき消えた。



 ―――― ひりひりとした痛みが体のあちらこちらに残っている。

 とても固い所に寝かされているような、そんな感じ。
 ひんやりとした湿った冷たさと、薄暗さ。
 りんの頭はまだ、自分の身に何が起きたか理解出来ていなかった。
 もやがかかったような記憶が少しずつ形になり始めて…、りんの瞳の奥で冷たく光る金属の色。

「いやぁぁぁぁ〜〜〜っっ!!!」

 飛び起きようと体を起こしかけて、片足が正体の知れぬ何かにぐいっと引っ張られ、固い床の上に重たい鎖のジャランと言う音が響く。

「りんちゃん! りんちゃん!!」

 動揺しているりんのすぐ側で、聞きなれた声がりんの名を呼ぶ。

「あ…、かごめお姉ちゃん……」
「良かった、気がついたのね。りんちゃん」

 かごめがもっとりんの側に寄ろうとした時、またもあのジャランと言う音が辺りに響く。

「何? 何の音なの? かごめお姉ちゃん……」
「……足枷、よ。りんちゃん。私たち、悪い奴に捕まってしまったの。それよりりんちゃん、傷は痛くない?」
「傷?」

 そうかごめに言われてりんは、あの恐ろしい金属の光の後の記憶を思い出した。


 ―――― 最初の一本。

 そのメスはまずりんの薄い胸の肉の上に赤い線を描いた。そう丁度胸の真ん中、胸骨の辺り。

「ひぃぃぃ〜〜っつ!! い、痛いっっ!!!」

 りんの喉から悲鳴が上がる。

「ふむ、痛覚は正常ですね。ちょっと待って下さいね。麻酔の薬剤の影響の無い血液と髄液の採取を行いますから」

 そう言いながら、胸を切られた痛みにりんの顔が青くなっているのを愉しそうに見ながら、今度は血液採取用の注射器を取り出しその針を細いりんの腕に突き立てる。それもご丁寧に動脈血、静脈血に分けて。

「酷い事しないでっっ!! 先に血液を取るんなら、胸は切らなくても良いでしょうっっ!!!」

りんの身に加えられるおぞましい行為に、かごめは必死で抗議する。

「おや、そうでしたね。痛みと言うストレスがかかった状態での採取になってしまいましたね。まぁ、良いでしょう。そのうち、針が刺さるのくらいなんとも無くなるまで体が慣れてきた頃にまた、血液の採取をしましょう」

――― わざとだ。絶対に!!

 かごめは、未だ優しげな口調と表情を湛えたままの睡骨の、その精神の奥底に巣食う加虐者としての恐ろしさに心底震えが来た。
 りんは胸の痛みと血を抜かれた事とで、貧血状態を起こしかけていた。あの元気なりんの顔色がすぅうと青ざめて、蝋人形のような肌の色になっている。
 その肌を愛撫するように撫でまわしながら、睡骨は二本目のメスを手にした。

「……さて、どちらを先にしたものでしょうね。ショック状態の皮膚サンプルも、この先この子が痛みに慣れてきたらそうそう取れるものではないかも知れませんね」
「……あんた、これ以上りんちゃんに何をするつもり!?」
「これ以上…? まだまだほんの準備段階ですよ? そうですね、先に皮膚サンプルを採取しましょう」
「止めてっっっ〜〜〜〜!!!!」
「 ―――― !!!!!! ―――― 」

 睡骨は、これ以上にこやかな表情はないと言わんばかりの笑顔で左よりの胸部にメスを当て、素早い所作で2センチ四方ほどのりんの生皮を剥ぎ取る。
 胸部は神経の集中している箇所でもある。またりんは幼いとはいえ「女性」であり、そういう意味でも繊細かつ敏感な場所を……。

 喉が裂けんばかりの悲鳴を発して、りんは気絶した。
 そんなりんの様子を見て睡骨が嬉々と、体液の採取にかかる。
 搾り出された汗や、恐怖の余りの……

「いや…、もう……、止めて…。お願いだから、もう、これ以上りんちゃんを……」
「ええ、そうですね。愉しみは長引かせたいものですからね。今日は骨髄液を採取したら、終わりにしましょう。採取したサンプルの解析も進めませんとね」
「まだ、りんちゃんに……」

 引きつる表情のかごめの前で、睡骨は自慢のコレクションを見せるかのように今度はメスではない見慣れない形状をした医療器具を見せた。
 十五センチ位の、鉛筆のような形をした器具。器具上部に何かを回せるようなハンドルがついており、先端は鋭く尖っている。細い溝が刻まれたそれが、まるでドリルのようで……。
 気絶して、大人しくなったりんの最初に切った胸の傷にその器具を当て、上のドリルを回し始める。麻酔もかけてもらえないまま、骨を削られるりんの悲鳴をかごめは自分の心臓を掴まれる様な気持ちで聞いていた。

 ふと。現実に返ったのかりんがか細い声で問いかける。

「……かごめお姉ちゃん、あたしたちこれからどうなるの?」
「…………………」

 かごめにも答えようがなかった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 珊瑚の義父や弥勒の父と共に所轄の警察署についた剣也は、そこで意外な人物の姿を見て驚いた。
 そこには ――――

「き、桔梗、先…生!?」

 そう、かつて剣也が母・十六夜を失った時、周りの悪意のある中傷に心を痛め自暴自棄になっていた時に立ち直らせてくれた人。

「……犬神、と言う名が気になってはいたが、やはりお前が颯生の弟だったのだな」
「桔梗先生こそ、どうしてここにっっ!?」

 それは、そうだろう。
 剣也の知る桔梗は、小学校の臨時教員での姿しか知らないのだから。

「……私は以前からある人物を追っていた。私の本来の職務を全うする為に」
「本来の職務?」
「そう、私の本職は巫女だ。お前の幼馴染、日暮かごめの生家である神社の本宮に当たる」
「かごめ、の……」
「四代前で繋がっている。遠縁、と言うことだな」

 ああ、それでと剣也は納得した。
 そう、どことなく桔梗はかごめに似ていた。だからだろう、不思議と桔梗の言葉が剣也の耳に届いたのは。

「だけど、それと先生がここにいる訳が良く判らないんだけど……」
「かごめ達を攫った奴と私が追っている者、またここにいる滝寺警部や風守刑事が長年追っている犯人も、おそらく同一人物である疑いが高いのだ」
「誰なんだ! そいつはっっ!?」

 勢い込んで剣也が叫ぶ。
 大事な家族…、可愛い妹と幼馴染いやそれ以上かもしれないかごめを攫われているのだ。それも用意周到に、また簡単に人を殺すような連中に!!

「……N−コネクション、首魁の名は『ナラク』と言う」
「ナラク…? そいつは一体どんな……」
「ありとあらゆる悪事の総元締め。金の為には、人を不幸の底に落としこむ事も平気でやる男。その野望の為には、いや…それこそが奴の望み。それを手に入れる為には、どれほど多くの人間を切り刻みおぞましい研究の贄にしようと、厭わぬ男」
「人間を切り刻む? 研究?」

 いきなりな展開で、剣也の理解力がついて行かない。
 その剣也の理解力を補うように、弥勒が言葉を添えた。

「……当たり前の人間が聞いたら、狂気の沙汰と思うような事だ。『不老不死』を求めている犯罪者らしい。そのついでに、臓器売買なども手がけて……」

 ざわり、と剣也は自分の中の血が滾るのを感じた。
 体中の毛が逆立つような、異様な昂ぶり。
 心臓が今までに無いほど、早く強く鼓動を打ち出す。
 では、さらわれたかごめとりんの身にも!?

 そして、あの不審な影の正体が判った様な気がした。
 きっとどこかでかごめかりんか、どちらかと言うとりんかも知れないが、ドナー候補として奴らの網に引っかかったのだろう。その為の、再診表だった訳だ。

「くそっ!!」

 早くかごめの所へ行かなければ、手遅れになる!!
 そんな気持ちが剣也の中で吹き荒れる。それは、押さえがたい衝動として剣也を突き動かす。
 何かが外れそうな、本能に呼びかけるもの。

( あっ…、親父…? )

 一瞬、剣也の脳裏に瞬いた何かは、剣也の父を示していた。

( ……そうだ。『りん』が奴らの目的なら、これは俺たち家族への冒涜行為だ! 俺たちが黙っている訳にはいかないっっ!! )

「弥勒、珊瑚!! 後は、任せた! 俺、親父達にこの事を報せてくるっっ!!」
「おいっ! 剣也っっ!! 経過を知らせるなら、ここから電話でも……」

 そんな弥勒の言葉は耳に入らない。
『自分』が動かないとダメなんだと、何かが剣也に教えていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「親父っっ!!」

 家に戻るなり、剣也は闘牙の前に飛んでゆく。
 闘牙は静かに十六夜の位牌に手を合わせていた。

「……済まんな、十六夜。出来れば、このまま何事もなく過ごさせてやりたかったが ――― 」
「親父! りんとかごめの身が危ないんだ!! 俺たちで出来る事はないのかっっ!?」

 ますます剣也の身の内裡(うち)で、大きく膨れ上がってくる『何か』がある。
そんな剣也の姿を認め、すっと闘牙の眸が『人で無いもの』な光を湛える。

「――― 今 『闘牙王』の名において、剣也 お前の『忌み名』を解放する! お前の名は、『犬夜叉』!!」

 吹き付けてくる覇気は、誰のものか?
 目の前の父の姿が大きく膨張したように、剣也の眸には見えた。


 ―――― もともと視力も良く、動体認識能力高い剣也である。それは、剣也が日々鍛錬を積んでいる剣道の稽古で培われてきたものだと思っていた。
 だが、それだけではないと今、自分の身の上に起こりつつある変化に戸惑いながら、剣也は感じていた。

『犬夜叉』―――

 父・闘牙の口からその名が発せられた瞬間、剣也の視界は眩暈がしそうな感じでぐっと広がり、その眸はより鮮明に物の形を捉える事ができるようになった。耳元でいきなり音声のボリュームを上げられたかのように、色んな音がいっぺんに飛び込んできて、頭の奥が痛くなり思わず顔をしかめた。
 頭が痛いような感じは、周りの空気の臭いの変化にも関係しているかもしれない。今まで気付かなかった雑多で濃密な臭いが辺り一面を漂っている。

「お、親父…、なん…だ…よ、これ…? 俺、どう…なっ……て…」

 何よりも強く感じる変化は、自分の体の奥底から噴出すようなこの『力』。
 骨が軋み、筋肉繊維の増大やその形状の変化に体の表皮の変化がついて行けなくて、まるで体中バラバラにされそうな激痛が走る。

 立っては居られなくなって、床に蹲り暴れだす力を押さえ込もうと必死に耐える。

「……要領の悪い奴だな。服を着たまま『変化−へんげ−』に入ったのか」

 眸を閉じて、その激痛と闘っていた剣也の耳に聞こえた声。
 ほんの僅か眸を開くと床より少し上しか見えない剣也の視界に、見た事もないものが映った。

( 白銀(ぎん)色の、獣足? なんだ、これは…? )

「……時間がかかりそうだな。先に行く!!」
「ああ、剣也…いや、『犬夜叉』にとっては初めての変化だ。ましてや、こいつは『半人』だからな。無理もあるまい」

( なん…、だよ? 何の話をしてるんだ、一体っっ!! )

 そう剣也が思った瞬間、目の前が真っ白になった。その『白銀−しろ−』の中を横切るものが激痛で霞む剣也の視界に映る。

 それは ―――

 巨大な、二頭の犬。
 白銀の毛並みに覆われた、金の眸の……

「頼むぞ、『殺生丸』。我等もすぐ後を追う!」

( 『殺生丸』? 俺の事は、『犬夜叉』と…。一体、俺の体に何が起きているんだっっ!! )

 ぐうぅぅぅっと、体の奥から何かが組み変わるような何とも表現出来ない感覚が、剣也を襲う。表皮がざわざわとし、屈みこんだまま姿勢が変えられない。

「……もう少しの辛抱だ、犬夜叉」

 自分の頭の上、それも天井に近い所から聞こえる声は、紛れもなく父・闘牙のもの。殺生丸と呼ばれたものの声は、颯生の声だった。

 一際大きな波動が、体の奥から湧いてくる。飲み込まれそうな、破裂しそうで ―――

「ぐわぁぁぁ〜〜っっ!!! くっわぁぁぁっっ!!」

 自分の口元から迸った悲鳴は、まるで獣の絶叫だった。
 目の前が、真っ暗になってゆく ―――


 ―――― 犬夜叉


 何か、ざらりとしたものが俺の顔を舐めた。
 一瞬、俺はあの心臓が破裂しそうな、体中がバラバラになりそうな激痛に意識を飛ばしていたらしい。

 ぼんやりした視界に大きな真っ白なものが映っている。
 それが俺の顔に近づき、またもぺろりと温かい舌で俺の顔を舐めた。そのありえないような状況に俺の意識はびっくりと同時に完全に覚醒した。

「気がついたな、犬夜叉」

 目の前の、部屋いっぱいな大きさの白銀の犬がそう語りかける。
 俺は覚醒したと思っていたが、この時はまだ『自分』がどうなっているのか気付いてはいなかった。

「その声…、親父!?」
「ああ、そうだ。今まで、お前には言わなかったが……」
「ど…言う、事だよ? その姿はっ!!」

 まるで映画の中の話か、悪い夢を見ているかのようだった。
 この『この大事な時』に、あまりにも悪いジョークだ。
 子供向けのテレビ番組に攫われたヒロインをヒーローが変身して助ける話は山程あるけど、よりによって『犬』かよっ!?

「立てるか、犬夜叉?」
「あ、ああ。でも、なんで俺を『犬夜叉』なんて呼ぶんだ?」
「……お前も、俺や颯生同様『神狼−しんろう−』の血を継いでいるからだ。一族の者はその生まれ持った『力』を操れるようになるまで、長の名の下、その『力』は『忌み名』に封印される」
「…? 『忌み名』?」
「『犬夜叉』はお前の『忌み名』だ。または、その者の本性を現す名とも」
「本性…? だけど、俺は人間でっっ!!」
「お前、気付いてないのか? 『今』の自分の姿に」

 目の前の白銀の犬に言われるまで、俺は本当に自分の姿を確認すらしていなかった。俺の周りがやたらと白いのは、この俺の親父だと言うどでかい犬…、いや狼? の体が間近に迫ってきて、その豊かな毛並みに溺れているからだと。

 言われて俺は視線を、自分の足元に落とした。
 気を失う前は蹲っていたはずなのに、何時の間にか立ち上がっていたんだろう。
 視線の高さと部屋の中の家具の位置で俺はそう考えた。
 視線を落とせば、当然俺の脚が見えるはずで……

「なっ!? なんだ、これっっ!!!」

 俺の眸に映ったのは、伏せの姿勢の何か動物の白い前肢(まえあし)だった。瞬間頭をよぎったイメージは、エジプトのスフィンクス。

「…気付いてなかったのか。仕方がない、急がねば、りんやかごめの身が危うい。先に殺生丸を行かせたが、我等も後を追うぞ!」
「な、なんで…、おい、親父っっ!!」
「訳は後で話してやる! 走れるな? 犬夜叉!!」

 闘牙の声で『犬夜叉』と言われた途端、新たな『力』が湧いてくるのを剣也は感じた。その声に鞭打たれたように立ち上がった剣也の姿は、先の二頭とほぼ変わりない白銀の犬の姿。

「行くぞっ!! 犬夜叉!」
「ああ、言われなくてもっっ!!」

 先に出た兄・殺生丸の開け放っていたダイニングの広いアルミの吐き出し窓から、二頭の巨大な犬が駆け出して行く。後には剣也が着ていた服の残骸が残っていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 かごめとりんが監禁されたのは、地下の一室と言うよりのむしろ動物園などにあるゲージのような感じの所だった。
 薄暗い照明、5メートルほどの幅の通路を挟んで、『檻−おり−』が並んでいる。

 そう、まさしく『檻』。

 通路沿いに並ぶ、一定の大きさに区切られたスペース。そのスペースを通路と区切るのは、見るからに頑丈そうな鉄柵。打ちっぱなしのコンクリート、壁や床に埋め込まれた鉄の輪、それに繋がる鎖。スペースの隅に水道が一つ。後は何もない。

 かごめとりんの側には、簡単な食事が乗ったプレートとりんの着替えのつもりかサイズの合わない病衣、それと毛布が1枚置かれていた。
季節はまだ2月。地下でそんなに気温変化がないとはいえ、幅の広い通路沿いに晒されているのは変わりない。二人の体が震えていた。

 その震えは寒さの為だけではなかったが。

 りんはついさっき、気付いたばかり。
 あの残酷な睡骨の魔の手で切り刻まれかけたりんの体。その恐ろしさが二人の心を呪縛していた。それでもかごめは気丈な娘で、幼いりんを気遣い優しく声をかける。

「……りんちゃん、着替えはこれしかないけど着替えようか?」
「かごめお姉ちゃん……」

 りんの身なりは可哀相なくらいズタズタにされていた、
 上着は下に着ていた肌着と共に切り裂かれ、その後胸にメスを入れられた時の出血で濡れた後がゴワゴワに乾いてる。スカートもあの時、気絶した際に下着ともども汚してしまって気持ち悪いばかり。

 かごめはりんの傷に触らないよう、そっと上着と肌着を脱がせた。
 最初に切られた胸の傷も、生皮を剥がれた小さな乳房の傷も今は出血は止まっている。あれだけの事をしておいて、小さな少女を切り刻んでおいて、その後の処置もしないところに、あの男のりんに対する扱いの本質を見る。せめて体を拭いてあげるタオルの1本でも投げ入れてくれれば良いものを、それすら……。

( ……私たち、あの連中にとっては本当に実験動物みたいなものなんだわ )

「冷たいけど、がまんしてね、りんちゃん。せめて、汚れだけでも落としておかないと、ばい菌が入っちゃうから……」
「うん、かごめお姉ちゃん」

 脱がせた肌着を手に取ると、かごめは鎖を引き摺りながら隅の水道の所まで来た。
 水が出る事は、りんの意識が戻る前に確かめた。水道の下には、ぽっかりと直径10センチほどの穴が開いている。大抵の汚物は流せるように。
 そうそれは、ここには『動物』しか入れない事を示している。動物は、トイレなど使わないから。

 かごめはその水道の水でりんの肌着を洗い、出来るだけ血の汚れを落としたあと、硬くそれを絞った。その肌着でりんの体を綺麗に拭きあげてゆく。拭かれるりんも冷たいが、何度も洗いなおして絞りなおすかごめの手も2月の水に真っ赤になっている。
 どうにか拭きあげて、ぶかぶかの病衣を少しでも寒くないようにきつめに着せてやろうと、かごめは何か工夫は出来ないか脱がせたりんの服を見ていた。

 この日、りんが着ていたスカートは今時珍しいつり紐付きのプリーツスカート。
 乾けば後で着せてやろうと汚した下着と共に洗うつもりだった。

「この紐なら使えるかな……」

 そう思って、りんのスカートを改めて手に取り確かめていた時に気付いたモノ。
 何層にも折り畳まれたプリーツの厚みに隠されて、あの男にも気付かれずに済んだ、それ。

「これ…、あの時、剣也がりんちゃんに渡していた……」

 犬笛。

 遠くに遊びに行ってしまった剣也達を、亡くなった剣也達の母・十六夜が呼び寄せる時に使っていたと言う……。

「りんちゃん、これ!」
「あ、犬笛!」
「ねぇ、りんちゃん。もしかしたらこの笛を吹いたら、剣也達が来てくれるかも知れないわね」

 かごめの言葉に、りんの顔がぱっと明るくなる。

「うん! きっと、来てくれるよっっ!!」

 この笛の音がどのくらい遠くまで聞こえるものか判らない。
 また聞こえたとしても、警察関係者でもない剣也達に何が出来るだろう?
 みすみすこんな危険な場所に呼び寄せても、でも……。

「そうね。この場所さえ伝えられたら、剣也から珊瑚ちゃんを通して警察に来てもらえるわね、きっと!」

 どんな時でも、前を見る事を忘れない二人でもあった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 奔る、奔る ―――

 周りの景色が飛んでゆくよう。
 目の前の、白い背中を追って剣也…、いや犬夜叉はひた走った。

 目の前の白銀の巨犬は自分の父でもあり、一族の長でもある『闘牙王』。
 兄・颯生は忌み名を『殺生丸』と言い、そして自分は『犬夜叉』。

 走りながら聞かされたのは、まずそれだった。
 古くから存在し続けてきた、『人』と『人でないもの』との境に在る一族。その『力』ゆえに、『神』とも『妖』とも呼ばれてきた。

 伝説に出てくる人狼とでも、または神狼・狛とも。
 狗ではない犬の一族。

 ただの動物としての狼達でさえ、仲間意識や家族愛・夫婦愛の強さは良く知られている。闘牙達もまた、その姿が似ているだけではなく、その良き特性は何倍も強く備えていた。

「……犬夜叉、お前の母の十六夜は普通の人間だった。ごく稀な事だが、互いの気持ちが強く結びつき、互いが互いの伴侶たる事を天に許された場合だけ、お前のような『半人』が生まれる事がある」
「『半人』…?」
「ああ、昔 我等の一族が『神』と崇められていた時は、『半神半人』、あるいは『半神』とも呼ばれていたが……」

 前を走る闘牙王の声が、風の中にまぎれて犬夜叉の耳に届く。

「出来る事なら、お前のこの『力』、眠らせたまま普通の人間として過ごさせてやりたかった」
「どうして…?」
「……強すぎるからだ。『力』の主になれなければ、その『力』に己を喰われ、どれほどの禍を振りまくものになる事か」
「それって、親父や颯生もか?」
「いや…、お前だからだ。お前と我等では『心のつくり』が違う。お前は半分、人そのものだから…、素晴らしくもあり、恐ろしくもあるのが『人の心』だ」

 風の中に混ざる雑多な臭いが、犬夜叉の脳裏で色んな情報に置き換わりつつあった。視界が恐ろしいほどに鮮明に拓け、風を切りながら僅かな音の変化も犬夜叉の耳は捉える。車や人の多い路上を避け、家やビルの屋上を飛び移りながら移動する爽快感。一足毎に力が充実してくるのを感じ、その『力』を試してみたくなる闘争心のようなものも強く感じる。

「一族の者でも、時にはその力に溺れる者もある。また、幼いうちは力の正しい使い方も判らぬ。『忌み名』があるのは、そんな者達が力の使い方を誤らぬよう封印する為のもの。長の名により封印し、また開放もする」
「じゃ、何も知らなかった俺の『忌み名』を開放したのはどうしてだ!?」

 判らない事が多すぎる。
 普通の家族だと思っていた自分の家族に、こんな秘密があったとは……。
 ましてや、自分自身にもこんな夢にも思わないような事が起こるなどとは!

「やはり気付いていないのだな。犬夜叉、お前は知らないうちにその『忌み名』の封印を破ろうとしていたのだ。他の者に破られた封印は、もう俺の手で封印し直す事は出来ない。お前が力に溺れて暴走しても、止められないという事だ」
「俺…が?」
「ああ、この力が最大限に発揮されるのは、『守るべき者を守る時』。犬夜叉、お前にとっては、かごめがそうなのだろう。かごめの身が本当に危ないと実感した途端、お前の中に眠っていた力が覚醒しようとしたのだ」
「かごめ……」

 胸がずきっとする。
 そうだ、ごちゃごちゃ喋ってる場合じゃない!!
 早く、かごめ達の行方を捜さないと!

「……お前がそうであるように、颯生もな。あれの覚醒はお前より少し早かったが」

 八年前のあの日。

 颯生の場合は覚醒と言うより、『変化』と言うべきだろう。もともと己の本性に醒めていた子どもだった。人型のままでも、その能力の一端を使いこなす事が出来ていた。『変化』は、最大の力を出す必要に迫られた時だけ起こる現象。大事なものを守る為に。


そう、何よりも大事なものを守る為に ――――



【7に続く】

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