【 白銀の犬 5 】




 慌しい弥勒のノックへの答えは、すぐ返ってきた。

「誰じゃな、騒々しい! 白麗の学生ならもう少し優雅に振舞わんか」
「申し訳ありません、神代教授! 教授に是非、鑑定して頂きたいものがありまして」

 そう答えながら弥勒はもう、研究室の扉を開けている。強引な弥勒に引き連れられて颯生は神代教授…、楓の研究室の中に押し込まれた。

( この『気』は、誰だ? )

 楓の研究室に押し込まれた颯生は、敏感にその部屋の中に漂っている楓のものではない『気』を察知した。楓自身、本職は由緒ある神社の巫女であると聞いた事がある。そのせいか楓の持つ『気』はどこか清浄で鮮烈な波長を持っているが、今 颯生が感じて居る『気』はその数倍も強烈なもの。邪なものが触れようものならその清浄さで焼かれそうな感覚を覚え、また鮮烈さはそのまま持ち主の戦闘的な気質を反映している。

 かと言って、殺伐とした雰囲気でもない。必要であればその場に出向き裁きをつける清廉潔白な闘う裁判官、いや例えは悪いが閻魔のようなそんな印象。

( ……どちらにせよ、只者でなはいな )

 その存在は普段、自分の周りの事に対して無関心な颯生の関心を珍しく惹いた。
 そして颯生の薄金茶色の眸は、その本人の姿をしっかりと捉える。

( ……この女、本当に生きている人間か? )

 颯生の眸に映った者は、そう弥勒の父・弥蔵に神代桔梗と名乗った人物であった。楓の研究室の、あまり陽の当たらぬ一角。濃い色の籃胎(らんたい)加工を施した竹製のスクリーンの向こうに座っていた女。その前の机には、色々な古文書や資料が山と積まれている。若く美しい桔梗の傍らに置いてある樟(くすのき)の杖が不似合いな印象だ。
 桔梗もまた、そんな颯生を検分していたようだ。漆黒の瞳に、神知の光が煌く。薄っすらと、形の良い唇に笑みが浮かぶ。

「……貴方が噂の『犬神颯生』さん、ですね? 何か面白い物をお持ちのように感じましたが」

 桔梗の言葉に颯生は無造作に、緑瑪瑙のペンダントを投げ寄越した。
 それを桔梗は、何事もなく自分の手の内に納めた。

「家人が拾ってきた。捨て置く訳にも行かず持っていたが、こちらでは不要なもの。後は好きにしろ」
「これが何か、知りたくは無いのか?」
「不要だ。私には関係ない」

 二人の遣り取りを、楓と弥勒が目を丸くして見ている。
 何も話さぬうちに、また『それ』を見もしないうちに事は進行している。

「あ、あの……」
「き、桔梗お…、いや桔梗。それは?」

 話から取り残された二人が、同時に口を開く。

「見るまでも無い。これはあの男に盗まれた『四魂の珠』の欠片」
「四魂の珠っっ!!」

 楓の顔を、驚愕が覆う。
 初めて聞く名に、弥勒が怪訝気な顔をする。

「ふ…ん、それがこれの呼び名か」

 そう言い捨てるともうここには用はないとばかりに、颯生は踵を返そうとした。
 その颯生を、桔梗が呼び止める。

「……面白い顔ぶれが揃った所で、もう少し私の話を聞いて欲しい」
「聞くまでも無い」

 にべもなく立ち去ろうとした颯生の耳に飛び込む桔梗の言葉。

「この話はきっと貴方にも関係する話」

 挑むような物言いに、桔梗の顔を睨みつける颯生。桔梗の瞳には、強い光が灯っていた。

「……ならば、言え」

 その言葉に乗るかのように、颯生は桔梗の前の椅子に腰を下ろした。事の成り行きを、言葉もなく見守っていた楓・弥勒の二人にも目顔で促し、椅子に座らせる。

「……きっと、『時期−とき』が廻ってきたのだろう。弥勒、数日前にお前の父が私を尋ねてきた。これから話す話はそれにもまた、関連する話だ」
「親父がっ!? 何故、また…」

 そう呟きかけて、はっとした顔の弥勒。

「貴女が言っていた『あの男』とは、もしやN−コネクションの首魁なのではっ!?」

 桔梗の瞳がそれを肯定する。

「馬鹿な夢を、いや悪夢を見ている男だ。神になろうとして、悪魔の領域に堕ちた男よ」
「貴女は、あの男を知ってらっしゃるのか?」

 弥勒の父・弥蔵達が長年追い続けている相手。ありとあらゆるおぞましい悪事の張本人。その素顔も素性も定かではない、妖怪のような男・ナラク。

「これから私が話す話は、普通に暮らす者達からすれば狂人の世迷言と一笑に付される話。だがお前たちなら、その真意が分かる筈」

 すっ、と辺りの空気がぴんと張り詰め、明るさのトーンが落ちる。
 今、この空間だけが別次元に隔離されたように。

「私や楓が仕えている神社にはその昔、伝説の巫女が残した『四魂の珠』と呼ばれる宝珠を祀っていた。この珠に願いをかけると、その願いは叶えられると伝えられ参拝する者も多かった」

 淡々とした口調で語り続ける桔梗。

「伝説の巫女はその高い霊力をもって人々の心の安寧を願い、苦難や邪なるものから人々を護らんと、自分亡き後を憂えて己の魂を珠と化したと伝えられている」

 古の巫女が宣託を下すかのような、そんな神意に満ちた言葉が桔梗の唇から紡がれる。

「その頃の人々の純朴な願いは、そのままこの巫女の願いでもあった。日々を無事過ごせるように、時ならぬ病を得た時・怪我を負うた時はどうかそれが平癒しますようにと」

 ぎらっと、桔梗の瞳の色が変わる。

「しかし、人とは欲深なもの。そんな巫女の魂にいつしか人々は愚かで醜い『願い』をかけるようになった。誰それを呪い殺して欲しい、金が欲しい、自分をもっと偉くして欲しい」
「ふん、今更言うまでも無い」

 聞きたくも無い、面白くも無いと颯生が眉を顰める。

「人々の心の『穢れ』を受け、四魂の珠は巫女の願いとは反する力を持ち始めた。強い『気』でさえあれば、それを増幅するように」
「つまりそれは、悪人が手にすれば悪人の思うように事が進む、と言う事ですか?」
「まぁ、そんなものだ。それゆえ代々の巫女がこの珠を密かに神社の奥殿に祀り、清めてきたのだ」
「……それを盗まれたのか? その男とやらに」

 颯生の物言いは、明らかに桔梗を侮蔑している。いや、桔梗をと言うよりもそう言うモノに振り回される人間に対してだろうか?

「……あの男もあんな目に逢わなければ、ここまで恐ろしい男にならなかったかも知れぬ」
「貴女は、もしかしてN−コネクションの首魁、『プロフェッサー・ナラク』の事を良くご存知なのですか?」

 弥勒の問い掛けに、桔梗は遠い目をした。

「ああ、多分。お前たちよりは知っているだろう」

 そこで語られた桔梗の話は、弥勒の父達が長年追ってきた謎の人物の根源に関する話であった。

 N−コネクション首魁、『プロフェッサー・ナラク』こと鬼木久茂(おにきひさしげ)。この男はこの白麗学園の医学部に所属し、外科医を目指す学生であった。腕は学生の中でも抜きん出ていたが、その考え方の異質さに教授や学生たちとの間に大きな溝が出来ていた。

 その当時の外科の主流が、悪くなった患部を切除する事を念頭に置いて、いかに患部を小さく切るか、その予後を良くするかに重きを置いていたのに反し、鬼木の考えは生体をより良くする為に移植技術を向上させるものだった。

 極端な例で言えば、複雑骨折をした患者がいた。
 治ったとしても元のように歩くのが困難だと診て取った鬼木は、すぐさま死亡したばかりの死体を手に入れ、本人の許可なく生体移植をして足を挿げ替えると言う事を平気でするのだった。
 確かに腕の良さもあり、ここが神業的でもあったのだが短期間のリハビリで元以上の機能を回復させる事も出来た。

 だが、それは正しい医療の在り方とは言えまい。

 他人の足はやはりそれを主張する。
 一生飲み続けなければならない免疫抑制剤と言う存在で。
 過量医療と言う奴である。

 そんなトラブルを幾つも抱えた結果、元患者から鬼木は灯油をかけられ火を付けられたのだ。全身大火傷を負い、命が助かったのは奇跡だった。

 人々の前から鬼木が姿を消したのは、それから暫くしての事。

「ではその鬼木と言う男が、父の追っている『ナラク』だと…?」
「そうだ」
「ですが、桔梗さん! 私の聞いた所では、『ナラク』と言う男は火傷の痕どころか、かなりの美形と聞いてます」
「ふっ、作り物めいたな」
「えっ、では……?」
「……鬼気迫るものがあったと言うぞ。あの男はその持ち前の執念から、本当なら寝たきりになるところを早期のリハビリで回復出来る所まで回復させ、その後行方不明になったのだ。それから間もなくだ、私の神社から『四魂の珠』が持ち去られたのは」

 語られる内容の異常さ重苦しさに、部屋の中の空気まで凍りつく。

「何故、『四魂の珠』を……」

 まだ謎に包まれた話に、浮かぶ疑問を口にする弥勒。

「その珠の元の力は、病や怪我の治癒力を高めるもの。だからだな」

 颯生の答えに、桔梗が小さく頷く。

「そう、その通り。あの男は自分の手で、自分自身に生体移植を繰り返した。その結果を良くするために、『四魂の珠』を使って……」
「生体移植を繰り返すって……」
「より良い自分になる為に、死体などではなく生きている者を犠牲にして。あの姿のために、どれだけ多くの者が犠牲になった事か!」

 桔梗のほっそりした手が強く握り締められ、怒りの波動が激しく弥勒達の顔を打つ。驚愕すべき事実であった。一頻り放出された桔梗の怒気は、やがて潮が引くように穏やかになった。そして、意味ありげに桔梗は颯生の眸を見据えた。

「鬼木、いえナラクとなったこの男は、更に次を目指した。それが……」
「不老不死……」

 颯生の口許から出た言葉。

「愚かな事だ。人間の分際で」
「人間…? いや、あの男はもう人間とは言えまい。その研究の為に組織を作り、多くの人たちを殺してきた」
「多くの者たち?」
「そう、一例を挙げるならあの八年前の謎の列車事故なども」

 そう語り続ける桔梗の背後に、奈落の底に続く暗闇が大きく口を広げているように感じた弥勒だった。


 ……八年前の列車事故、そうそれは颯生も弥勒も調べている原因不明の大事故の事。
 薄々は「N−コネクション」絡みだろうと睨んでいた弥勒だが、それをあっさりと桔梗は肯定した。

 事故の原因も不明だが、その後の経緯もまた不可解。
 乗客殆どが死亡した大破車両が前後に二両。その間に挟まれた車両からも多数の死傷者を出したが、行方不明者もまた多数。

 そう、まるでその車両から連れ出されたように。

 行方不明者の大半が、年少者であるというのも解せない話。それどころか、事故現場から救出され病院に搬送されたり、肉親をなくし一時的に施設に入っていた子らも、その後何人かが消息不明になっているとすれば。

 桔梗は颯生から預かっていたペンダントを、隣に座る楓に渡した。
 楓はそのペンダントの石を撫で擦りながら、小さく呟く。

「……家族愛のお守り、大切な物を見極めさせてくれる石」

 その呟きが颯生に、ある情景を思い出させた。

( ……家族愛、か )

 自分に取って希薄な感情であったそれを、いつも感じていたあの頃を。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ―――― 十二歳の夏だった。

 山奥で闘牙と二人で暮らしていた颯生が街中で暮らすようになって九年目。
 九年前の冬山で、遭難し瀕死の重傷を負っていた十六夜を闘牙が助けた事から、山を下りる事になり、闘牙はそのまま十六夜の生家である宮大工の二代目に収まった。やがて二人の間には義母弟の剣也も生まれ、どこから見ても『立派な家族』。

 しかし、颯生にはむしろ居場所がない感じをいつも受けていた。

 颯生に生母の記憶は無い。颯生を産むとすぐ死んでしまった母に代わり、闘牙が一人で颯生を育てていた。山奥で何もなく、颯生にとっては父が全てであった。
 その父が自分の知らない女を側に置き、自分に注いでくれていたものをその女との間の子にも向ける。それは当たり前で仕方のない事。わずか四歳ほどの幼児であった颯生はそれをそのまま受け入れた。本当の自分の気持ちを知らぬうちに押し殺したままで。

 そんな性格なせいか、颯生は情動を殆ど現さない『子どもらしくない』子どもであった。闘牙ほど性格的に『こなれて』いれば、元々備わった気質は稀にして有難い物で、人を魅了するにやぶさかではないのだが、それ以前の気質は峻烈にして鋭利なもの。

 つまり、他を寄せ付けない雰囲気を持っている。

 また親子して、その美麗すぎる容貌も周りとは一線を画してしまうのだ。
 いつしか颯生は、群集の中の孤独を味わうような子どもになっていた。
 ここに自分の『居場所』はないと見切りをつけ家を出た、そうあの十二歳の夏が颯生に取っての大きな転機でもあった。

 どこか遠くに行きたくて、行き先も見ずに乗った列車のその車両は、そんな颯生の心情を逆撫でするように、やたらと家族連れの多い車両だった。
 夏によくある家族対象のサマーキャンプか何かの招待車両らしく、子ども一人の自分もその団体の一員と思われて、ここに案内されたようだ。

 余程別の車両に移ろうかと思ったが、どこに移っても浮くのは同じかと思い直し、目的地に着くまでの辛抱と、その座席に留まる事にした。
 向い合わせの座席で相席になったのは、両親と小学校低学年くらいの兄弟、少し歳の離れたまだ一歳にはなってないだろう赤ん坊を連れた家族だった。
 そしていつもの事だが颯生の姿を見た瞬間、一瞬その場の空気が凍るのを感じるのだ。

「……あの、あなたもこの会社のサマーキャンプに参加を?」

 そう話しかけてきたのは、赤ん坊を抱いた母親だった。

「いえ…、違います」
「そう、一人でどこまで?」
「………………」

 目的地などないから答えようがなく黙っていると、向こうも気まずくなったのか、注意を自分の子どもたちに向けた。何か一言二言話しかけ、子どもたちはこの車両に特別に用意されたプレイコーナーへと消えて行った。

 残された者達の、奇妙な沈黙が重苦しいのか根がおしゃべりなのか、その母親は自分の連れ合いに向ってあれこれと話し始める。

 ――― 皆 元気のご褒美だって、医師(せんせい)がこのキャンプの招待券をくれたのよ。

 ――― へぇ、子連れでも大丈夫で、無料ってのがいいよな? どこがスポンサーだ?

 ――― え〜っと、あっ、ここに書いてあるわ。N…、ナチュラル・ヘルス・コーポレーション…? 健康食品か製薬会社みたいね。

 ――― よほど儲かってる会社なんだな。この車両借り切っての無料招待だからな。まぁ、たまにはこんな良い目にもあわないとな。


 ……関係ない世界の話。
 そんな颯生を『この世界』に繋いだのは、その母親の腕に抱かれていた一人の赤ん坊だったのだ。

 誰もが颯生を認めながら、遠巻きにしたまま近づこうとはしない。
 颯生の耳に入る言葉は慇懃な褒め言葉の裏に隠された、悪意の呟き。
 そうでなければ、『自分達とは違う者』としての距離感。

 それは嫌になるほど顕著な現象。
 相手が大人であれ、子どもであれ、犬猫動物に至るまで。
 あからさまな警戒心とともに向けられる、その視線。

 ……だから、初めてだった。

 その赤ん坊が颯生に向けた笑顔が。
 屈託もなく、ニコニコと。
 警戒心の欠片もなく、ただもう嬉しそうに。
 小さな手を伸ばし、まだ喋れもせぬ舌であーあーと機嫌の良い喃語(なんご)を発し。

「あっ、ごめんなさいね。うるさくないかしら?」

 颯生の子ども離れした雰囲気に、いつもより丁寧な話し方で声をかけるその母親。

「……いや」
「そう、それなら良かった。この子、本当に人懐っこい子で誰にでも抱っこをせがむような子だから、迷惑じゃないかと……」
「それなら、悪い奴に連れてゆかれないように気をつけないと……」
「それがね、不思議なの。この子、本能的に良い人と悪い人の見分けがつくみたいで。一度ね、家に詐欺商法のセールスマンが来た時なんて、それはもう大泣きして商談にならなくてね、追い返しちゃった事があるの。後でニュースで顔写真を見てびっくりした事があるのよ」

 やはり、根がおしゃべり。そんな赤ん坊が、近づきがたい雰囲気の颯生にニコニコ笑いかけている、と言うのがこの母親の警戒心を解いたようだ。

 ごととん。ごととん。
 列車の揺れは、相席のその家族の父親を眠りの国に連れて行き、ますますニコニコする赤ん坊の笑顔に目を惹かれ、またますますおしゃべりに拍車がかかりそうなその母親に閉口しかけている颯生がいた。

「おかあーさーん!! 兄ちゃんがっっ!」
「あ、もう! あの子たちったらっっ! ごめんなさいね、ちょっとの間だけ、いいかしら?」

 そう言いながら、すでに赤ん坊は颯生の手の中に。


 ――― 温かい。柔らかくて、ミルクの匂い。こんなに小さくて……


 それは、颯生が初めて感じたものだった。


  * * * * * * * * * * * * * *


「……どうかしたのか? 犬神?」

 ふっと、注意を桔梗の話す内容から外し、自分の思い出の中に浸ってた颯生ははっと我に返った。

「いや、なんでもない」
「……あの列車事故の事まで、探りを入れていらっしゃるんですね。あの事故で、俺の親父は親友夫婦を亡くし、その子ども達も酷い目にあいました」
「ほう?」
「後で親父に聞いた話です。組織に半死半生の目に合わされ、母…、自分の伴侶を亡くし、廃人のようになりかけていた父の代わりに捜査に携わっていたその親友は、ある情報を得て探りを入れる為、その列車に乗り込んでいたのです。カムフラージュの為に、家族も同伴して。それが……」

 そう、それが珊瑚の両親。
 刑事と婦警を両親に持った姉弟。
 意外にも、身近な所にひそんでいた敵の存在に気付く事もなく、惨劇に巻き込まれた家族であった。

 姉は、瀕死の重症。
 弟は、頭に負った傷がもとで記憶喪失。その後、療養所から親族の名を騙って連れ出され、行方不明に。

 姉の名は、珊瑚。弟の名は、琥珀と言う ――――

 颯生達がまだどこか謎を秘めた女性、桔梗と話し込んでいる丁度その頃、かごめとりんは学校から渡された再診表を手に、校医の小じんまりとした医院を訪れていた。小学校の近くにあるその医院は、もう長年りん達の通う小学校の校医を務めてきた医師(せんせい)が、かなり高齢になったのを理由に最近代替わりをしたばかり。二代目の校医は歳も若く、優しげな口調と柔らかな笑顔、また顔がかなりイケメンなのが禍して、高学年女子の内診がちっとも進まないと関係者が苦笑いするほど。

 それほど人気の高い校医なのだが、りんはどこか苦手なものを感じていた。
 付き添いで付いて来てもらったかごめの手を、またぎゅっと握る。

「どうぞ、中へ」

 にこやかに微笑みながら、その校医は二人に自分の前に座るよう促した。

( ……やっぱり、珊瑚ちゃんの言った通りね。お医者様だったんだ、この人 )

 勧められるままにりんを診察用の丸椅子に座らせ、自分はその横のパイプ椅子に腰を下ろした。

「えっと、あなたは犬神りんちゃんのお姉さんで?」

 校医はカルテらしきものを見ながら、そう問いかけてきた。

「いえ、違います。お姉さん代わりと言えばそうなんですけど」
「そうですね。りんちゃんの『家族』はお母さんを失くして、後は男家族の筈ですから」

( えっ? どうして、そんな事を知っているの? 校医だからって、そんな児童一人一人のプライベートな事まで把握するもの? )

 にこやかさに隠された疑惑の匂いを、かごめもうっすらと感じ取っていた。
 校医は揉み手をするように手をすり合わせると、りんに向って上着を脱ぐように指示する。普段は聞き分けの良いりんが、なぜか困ったような助け舟を出して欲しいような顔でかごめを見上げた。

 自分の事で、父や兄達に心配を掛けたくないとりんは思った。勿論、恥ずかしさみたいなものもある。出来ればこの校医の前に、学校校内以外で立ちたくはないと言う気持ちもある。
 りんの本能的な危機回避能力が警戒を発しているのに、りん自身は気付いていない。
 しかし、そのままにしておくことも出来ないのは、りんがやはり聞き分けの良い子であるから。再診をと言われれば、受けない訳には行かないと思う、まだ子どもであった。

「あ、あの…。りんちゃん、どこが悪いんですか?」

 りんの助けを求める瞳に気付いて、かごめが先に質問を校医に向けた。

「悪いところ…? ああ、そうですね。そう言えば、再診の理由に、心音に雑音が混ざっているとか、肺に影があるとか…、何か適当な事を書きましたっけね」
「適当…!?」

 りんばかりではなく、かごめもピクリと警戒のフラッグを立てる。

「……『ある筈の悪いところ』がないから、調べさせてもらうんですよ」
「何? 何を言ってるの…? 意味が判らないわっっ! りんちゃん、帰りましょうっっ!!」

 かごめがりんの手を取り椅子から立ち上がると、それが合図か校医の背後にかかっていたカーテンの後ろから異様な雰囲気を持った者が二名、現れる。
 一人は少し小柄な、しかしその眸は獰猛な肉食獣を思わせる黒髪長髪の男。もう一人は長い髪をアップにした、新宿二丁目あたりを徘徊していそうな妖しげな雰囲気を纏わりつかせた若い男。
 そして、かごめ達が入ってきたドアの外には異形にも見えるほどの巨躯の男。

「……りんを連れて行ったモノの正体が知れないので、こちらもそれなりの構えをしてたんですがね。まぁ、手間がかからないのはこちらとしても助かりますからね」
「あんた、一体…?」

 かごめの瞳がはっきりと不審な色を浮かべ、警戒心からりんの身体をぎゅっと引き寄せ、校医の仮面の剥がれかかっているその男を睨みつけた。

「……りんの事は、よ〜く知っているんですよ。特に赤ん坊の頃の事はね。だから ――― 」

 そう言いながら、その男・睡骨はりんの細い腕に手を掛けた。

「ある筈なんですよ。あの時の事故で負った大怪我の痕がね。骨は折れ、皮膚は裂け、内蔵もぐしゃぐしゃだった筈なんですから」
「――― !!! ――― 」
「それなのに、この傷痕一つ無い滑らかな肌はどうです? 普通なら考えられない事ですよ」

 それは一種の偏った愛情の表現のように、どこか酔ったような目をして捻りあげたりんの腕に頬摺りする。その様に言いようの無い悪寒と恐怖を感じ、りんの表情は凍り付く。

「ええ、適性の高い子でしたからね。だからこそ、私の大事な研究の実験体の候補に入れていた訳ですし…。しかし、それにしても、例え私があの後完全に処置したとしても、ここまで綺麗に治せるかどうかは疑問ですね」

 すでにかごめ達には判らない内容を呟きながら、りんの腕をまるで芸術品か何かのように試し返し検分している。

「かごめお姉ちゃん……」
「りんちゃんの腕を放して! この、変態っっ!!」

 りんの腕をその男・睡骨からもぎ離すと、自分の身体で庇うようにかごめはりんを自分の横にぴったりと張り付けた。

「今のお前があるのは、やはりあの時の白銀の犬と何か関係があるのだろう。そう、お前をどこかに連れて行ったあの犬とな」

( 白銀の…、犬? )

 かごめとりん、二人の頭に浮かんだイメージは、光そのものを戴いたような白銀(ぎん)の髪を持つ、闘牙と颯生の姿だった。

 だけど、二人は『人間』。
 『犬』などではない。

 あの白銀の髪にしても随分と前に剣也に聞いた話だと、闘牙も颯生も『外国』の血を引いているので、ああいう外見なのだという。このボーダーレスな時代だ、良くある話ではないか。

「私は医者でもあるが、探求者でもありましてね。どうしてそうなのか、じっくり自分が納得の行くまで、調べてみたいのですよ」

 微笑みならが、また一歩近づく睡骨のその笑みには明らかに狂的な色が浮かんでいた。

「りん、お前の体の秘密を私が暴いてみせよう。それは、取りも直さず『教授』の求める物とも同じ筈」
「あ、あんたは誰かとりんちゃんを間違えているのよ! その赤ちゃんの時に怪我をした子とりんちゃんが同じ子だって、どうして言えるの!!」
「ふっ、言えますよ。こう見えても私、かなり優秀な医者でしてね。一度診た子どもは忘れません。私はこの子の家のホーム・ドクターだったんですからね」
「な、どういう…っ!?」

 もうそれ以上の会話は煩わしいと思ったのか、なお言い募るかごめに向けて催眠スプレーを噴霧する。霧骨が調合した特別製のそれは即効性があり、また目覚めの良さが特徴でもあった。かごめが一息吸っただけで、薬効が全身に回りその場で崩折れる。

「かごめお姉ちゃん!!」

 叫ぶりんの顔面にも、そのスプレーは噴霧された。


    * * * * * * * * * * * * * *


 珍しく、街中を珊瑚が一人で歩いている。
 いつもなら大抵はかごめと一緒だが、今日は用事があるとかで授業が終るとさっさと帰ってしまったのだ。残された珊瑚は一人、図書室で勉強していたがやはり一人なのであまり遅くならないうちにと学校を後にした。

 小学校の近くの文房具店により、ノートを買おうとレジを持って行った時、それは偶然目に飛び込んできたのだ。黒塗りの高級車。その座席に、あの男の姿。そして……

( ――!! えっ、どうしてかごめちゃんが…!? )

 気分が悪いのか、眠っているのか…。いや、そのかごめの姿そのものを隠すように、窓際には怪しげな男達が座っている。
 だから、そんなかごめの姿が見えたのは、本当に偶然の神様の引き合わせだったのだ。

 慌てて、店を出た珊瑚の胸に嫌な予感が走る。
 何か思いついたように、珊瑚は剣也の家に駆け出していた。


 学年末試験前という事もあり、流石に部活も今週は休止中。
 近くの町道場や自宅での自主トレでも良いのだが、いくら推薦で高校入学が決まっていても、最後の最後くらいはちゃんと試験勉強もしておくかと、珍しく剣也は自室で数学の教科書を睨んでいた。

 庭先で、急にコハクがうるさく鳴き始める。
 そのいつにない風が、剣也の注意を引いた。

「〜っさいなぁ。おい、りん! コハクがうるさい……」

 と、途中まで言いかけてりんが今、家に不在なのに気が付いた。
 確か小学校からの健康診断の再診カードをもらって来て、かごめが付き添いで病院に行っている。

「ったく、誰か来たのか? コハク」

 二階の自分の部屋を出て、ダイニングの掃き出し窓から庭に出ようと玄関前の階段の一番下まで来た時に、物凄い勢いでガラス戸の玄関が引き開けられた。

「剣也っっ!!」

 ずっと走って来たのか、髪も制服も乱れて荒い息をつきながら飛び込んできたのは珊瑚。庭のコハクが一層激しく泣き喚く。

「な、なんだよ!! そんな形相で飛び込んで来て! 何があった!? 珊瑚!!」
「か、かごめ、かごめちゃんが…、攫わ… みた…… い……」

 はあはあと切れる息をつきながら、その合間に伝えたい事を息継ぎしながら言葉にする。

「攫われたっ!?」

 ズキリと剣也の胸が締め付けられる。
 怖がらせまいと、二人の身辺には何気なく気をつけるように声をかけていたが、もっとはっきりと言っていた方が良かったのかもしれない。

 不審者に狙われているかもしれない、と。

「どこで見たっ!? どっちに行った!!」
「……見たのは、走る車の中。小学校の近くの商店街で。行き先は良く判らないけど、市内の方に向かったみたい」
「…小学校の、近く…? まさか…、りんもかっっ!!!」
「えっ、りんちゃんも…って?」

 庭でけたたましく鳴いていたコハクが力任せに鎖を繋いでいた杭を引き抜き、鎖を引きずったまま二人の間に割り込んできた。

「……そうか、コハク。お前もりんの非常事態を感じ取っていたんだな」

 剣也の顔と珊瑚の顔を交互に見つめ、しきりと外へ行こうと二人を促す。
 どう動いたら良いものかと、剣也は思考を巡らせていた。
 誘拐だとしたら、何が目的なのだろう?
 あの夕刻、初めて弥勒を紹介された時に自分達の後をつけてきた奴の仕業だろうか?

 だとしたら、狙いはかごめか?
 りんは巻き添えを食ったという事だろうか?

 さきほどまでけたたましく鳴いていたコハクは、考えている剣也の邪魔にならないようク〜ンク〜ンと哀願するような泣き声に変えて、剣也が動くのを待っている。

「ねぇ、りんちゃんもってどう言う事なの?」
「ああ。今日はかごめ、りんの付き添いで、小学校近くの校医の所へ健康診断の再診に行ってるんだ。だから……」

 それを聞いて、珊瑚の脳裏にキリっと突き刺さるものがある。

「ねぇ、なんだか物凄く色んな事がおかしいんだけど……」
「おかしい?」

 珊瑚の足元で、鳴くのをやめたコハクがじっと珊瑚の顔を見ている。

「人を攫うのに、人通りも多いまだ暗くもなり切っていないような場所や時間を選ぶかな?」
「………………」
「それに…、二人一緒になんて失敗する確立の方が高いと思うんだけど ―――」

 ……言われてみればそうだ。

 かごめは、あの可愛い顔に騙されがちだが、度胸と向こう意気の強さはそこらの軟弱な男なんぞ目ではない。ましてや人一倍正義感も強い。脅されて、大人しく従うような性格じゃない。

 りんにしてもそうだ。
 あの子は不思議な直感を持っている。
 危ない! と思えば、すぐにでもはしっこく逃げ出すだけの機転を持っている。

 それなのに……

 珊瑚が怪しげな車に連れ込まれたかごめを見かけたのが、小学校近くの商店街。
 人目もあれば、逃げ込むような場所もいくらでもある。
 犯人も『外』で誘拐するような、馬鹿な事はしないだろう。
 だとしたら、その現場はどこだ?

 場所は……

 二人で出かけたのは、校医の診療所。
 もし、その校医が……

「あの、ね 剣也。あたし、小学校から出てくる不審な奴を数日前に見かけたんだけど……」
「不審な奴?」
「学校の校門から出てきた若い男で、消毒薬の臭いがしたから医者かな? って」
「…………………」
「でね、あたし その顔に見覚えがあって……」
「見覚え?」
「うん、あたしが子供の頃かかっていたお医者さん。八年前、あたしが家族を亡くしたサマー・キャンプの招待状をくれた小児科医」

 大人しくしていたコハクが一声大きく、鳴いた。

 何が起きているのか、剣也や珊瑚にはわからない。
 だけど、とんでもなく禍々しい事件に大事な友人や家族が巻き込まれている事は確かなのだ。

 ふと、珊瑚は足元のコハクを抱き上げた。
 栗鼠のような茶色の眸を覗き込む。

「……あんたの名前、コハクって言うんだ。あたしの行方不明の弟の名前も『琥珀』って言うんだ。あんたと同じ茶色の目をしてる」

 そう言うとぎゅっと、珊瑚はコハクの体を抱きしめた。
 訳の判らない怖さが、珊瑚の心に忍び込む。

「判った! 珊瑚!! 取り合えず、その校医の所へ行こう! その前に、親父と颯生に連絡だ」
「あ、あたしもお義父さんと弥勒兄に……」


 ――――― 歯車が、軋みながら大きく動き始めていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


( う…ん。ここ、どこだろう…… )

 頭の芯がぼうぅとしている。
 滅多に寝ぼける事の無いかごめには、薬の切れかけたその状態がそれに近い事にも気付いてはいない。

 学校の保健室のベッドのような硬い感じのところに寝かされている。
 辺りの空気に混じる、薬品臭さとオキシフルの臭い。
 視界がまだ元に戻ってないので、薄明るい感じが時間を錯覚させる。

 徐々にその明るさが増し、それが必要以上に強い光源を灯している事に気付いた時、かごめは自分の体がそのベッドに拘束されている事を知った。

「おや? 気付きましたね。貴女は私の研究対象にはなりませんが、場合よってはプロフェッサーがパーツとして使われる事もあるかと思いましてね。だから殺さずここに連れてきたんですよ」
「なっ!? パーツって…、殺すってどう言う意味よっっ!!」
「言葉どおり、そのままの意味ですよ。あなたは、どこかプロフェッサーの『想い人』に似ていますからね。話に聞けば、本体の方はかなり傷みが激しいそうですから、そのメンテナンス用ですね。似ている方がやはり使いやすいでしょう」
「……人を、人の体を機械か何かみたいに言わないでっっ!!」
「他に何と? 『普通』の人間の体など、私たちから言わせればパーツを取る為のジャンクでしかありませんから」

 目の前で、良く手入れされたメスを確認しつつ、研究の為の試術(しじゅつ)の準備を進めるこの男。柔和な表情、顔つきはそのままに、語る言葉のおぞましさ。

「…今から、何をするつもりなの……?」

 体をベッドに固定されている為、自分が置かれている場所の確認がよく出来ない。
 ただ、眩しすぎるこの部屋の照明が、実は手術室などに使われている物だと気付き、かごめの背中に悪寒が走っていた。

「ああ、あなたは後回しです。ようやく手に入れた実験体ですからね。この八年間の想いを込めて、じっくり体の隅々まで調べてみたいのですよ」
「……実験体? 八年間って…、まさか、りんちゃんを切り刻む気なのっっ!!」

 辛うじて180度だけ動かせる首を必死に動かし、白衣を纏ったその男の体の向こうに、そうあの忌まわしい照明の下に寝かされているりんの姿を見つける。
 
 連れてこられて、そのまま手術台に拘束されたのだろう。
 私服のままのりんの姿がそこにあった。



【6に続く】

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