【 白銀の犬 3 】
昼下がりの、人気のない資料倉庫。
中にいた人物は……。
「……同席させてもらってもよろしいですか?」
それが、弥勒が颯生にかけた初めての言葉。お互い構内で騒がれる人気者同士。その性格的なものは正反対だとしても、それなりの認識はある。ましてや、弥勒は先ほどまで神代教授との話題にあげていたくらいだ。
ただ本当に不思議な話だが、今までこの二人だけで居合わせた事がなかったため、これが初会話というのも入学当初から目立ってお互い気付いていた者同士、間の抜けた話ではある。
「………………」
返ってきた返事が……、いや、返ってきては無いか。
ちらりと金色の視線を投げ掛け、後は興味もないと言わんばかりに手元の資料に目を落とす。そんな素っ気無い素振りがある種の女心を鷲掴むのだろうなと、嘆息まじりに弥勒は颯生の前の椅子に腰を下ろした。
見るともなしに、こに広げられた古新聞の束に目を向けた弥勒は、その見出しに目を奪われた。
『原因不明!! 爆弾か!? 死者・行方不明者多数!』
『○○線、謎の大事故! 正面衝突! 大爆発!!』
『復旧の目途たたず、○○線、大惨事!』
他にもその事故に関する資料が山積みされている。またそれに類した事故や事件などの資料も。
( ……こいつ、何故この事故の事を? )
八年前の謎の大惨事。事故の原因は、未だに解明されてはいない。いや、そればかりかこの事故には、もっと深い『何か』が潜んでいる。
パラリ、パラリ と、乾いた資料を繰る音だけが、資料室に小さく響く。
「……すまないが、その見終わった資料をこちらにも回してもらえないか? 丁度、調べようと思っていた事故なんだ」
「……何故?」
その台詞こそ、弥勒が颯生に投げ掛けたい一言。相手の出方を見ようかと、言葉を濁そうと口を開きかけて、弥勒は背中に冷たいものが走るのを感じた。
眼光鋭い、と言う表現は良く小説の中などでも目にするが、実際にそんな体験をした事など今まで無かった。一つには弥勒自身が一角の武術者である故か、そう感じさせる者がこの全てが脆弱な現代では稀であるせいもある。自分と同じ年代の者なら、そんな存在は皆無だろうとまで弥勒は思っていた。
気になっていた颯生でさえ、まさかそこまでの底力を感じさせる事はないだろうと。背中を走った冷たいものは、恐怖と言うより『緊張感』もしくは『畏怖』。
「……知り合いが関わった事故なんだ。親父の親友家族がこの事故に巻き込まれて、子どもが一人残っただけ。未だに原因も解明されてないし、その他にもおかしな所のある事故だからな」
「子どもが一人……」
「いや正確に言えば、大怪我を負った姉と記憶を失くした弟の二人だったんだが」
「……………?」
「事故の後で、その弟もいつの間にか消えてしまった」
どこまで奇しき因縁か。颯生の弟の幼馴染であるかごめの親友、珊瑚もこの事故の当事者であった。狩野珊瑚、それが初めて弥勒が彼女と会った時の名前。この時、弥勒は十二歳、珊瑚は七歳。そして行方不明になった珊瑚の弟は三歳だった。
珊瑚は今、風守・狩野両刑事の上司であり、子どものいなかった滝寺警部の養女として引き取られている。
そこまで話す必要があったのかどうか、それこそ颯生の眼光に射すくめられたように話してしまった弥勒だが、話終えて、ほんの微かに颯生の目の光が和らいだように感じた。颯生はその後、もう関心をなくしたのかまた資料の海に没頭する。
颯生の様子ばかり見ているのも奇妙なものなので、弥勒もまた颯生の見終わった古新聞のファイルを自分なりに繰り出した。その記事を見ながら独り言のように、また颯生の反応を見るように、何気なく呟く。
「……原因の判らなさもあるが、奇妙なのは行方不明者の内容だな」
明らかなアクションではないが、颯生の『気』がぴくりと反応した。
「なぁ、お前もそう思わないか? 普通、事故当初の発表で行方不明者と言われているものも、時間が経つにつれ死者の数に変わってゆくものだ。だがこの事故の場合、行方不明者は今でも行方不明者のままなんだ」
「………それが、どうした」
「その行方不明者の大半が幼い子どもだと言う事が、どうしても謎で、それに……」
「それに?」
颯生の持っている情報を引き出したくて水を向けてみたのだが、気が付けば逆に詰問されているのは弥勒の方。
「……さっき話した女の子が言っていたんだ。事故の後、救急車よりも早く誰かが小さな子達を連れて行くのを見た、と」
「………………」
「この子…、珊瑚も腕を取られたんだが、物凄い重傷で意識が遠くなる中で聞いたらしい。『そいつは置いてゆけ。使えるかもしれんが、十中八九は死ぬだろうから』と」
「………………」
「救助に来た連中なら、そんな事を言う筈はない」
颯生は手にしていた資料をそこに置くと、何も言わず立ち上がった。そして弥勒の方を振り返りもせず、資料倉庫を出てゆく。
「……話しすぎたかな? あいつがどういうつもりで探っているか判りもしないのに」
いつもと調子が違う自分に頭を掻きながら、それでも颯生が自分が追おうとしている側の人間ではないと、弥勒の直感が告げていた。
「この話、まだ続きがあるんだぜ。あの列車に乗っていた幼児全てが行方不明になった訳じゃないが、家族のあらかたを失くし当座の引き取り手のなかった施設へ送られるような子たちの何人かも、途中で消えているんだ」
そう呟いた言葉は颯生の耳に届いたのだろうか?
* * * * * * * * * * * * * *
颯生は資料倉庫を後にすると、そのまま自宅へ帰ってきた。
五時過ぎの帰宅などまるで小学生並だが、今日びの大学生のようにバイトやコンパなど人と交わる事を、あえて避けている。バイトなどせずとも幸い二十歳を過ぎた颯生には、その特殊能力を活用した錬金術がある。
人と交わる事を良しとしない颯生だが、極稀に大観衆の人ごみの中にいることがある。それは決まって、G1クラスのビッグレースで大穴が出る時。目敏いファンはその後、観衆の中に煌く白銀の光を見ると、その日のレースは記録に残るような出来事があると噂するようになるのであった。
その同じ能力が、朝出た時と状況が変わった事を颯生に教える。
微かに眉根を寄せ、単刀直入にその原因の元へと足を運んだ。
古風な格子の入った曇りガラスの引き戸の玄関をスルーして、そのまま裏の庭に回る。父・闘牙とりんの楽しそうな会話が垣間聞こえ、空気に触れたばかりの木材の清々しい香りが鼻に届く。ただし、その香りの中に颯生は明らかな不快な臭いも感じ取り、その正体を確認する為に裏庭に足を運んだのだ。
そこには、薄汚い(…颯生の目にはそう見える)子犬を大事そうに胸に抱えたりんと、これはもうお手の物であろう大工仕事をしている闘牙の姿。
夕食の支度の片手間に、家にある木っ端を集めて犬小屋を作っている。以前りんが捨て犬を拾ってきた時に使っていた小屋があるにも関わらず、新しい小屋を作る闘牙。今までのよりも立派で高床式のその小屋は、もう少し規模を大きくすれば子どもが中に入って遊べるドール・ハウスのような趣さえある。
「………………」
「あっ、颯兄様! お帰りなさい!!」
「おぅ、颯生か。お前、手が空いているのなら少し手伝え」
「……わざわざ新しいものを作るまでもない。あるものを使われれば良い」
素っ気なさは、家族に対してもそう。
まして今は……
「……そりゃ、この新入りに気の毒だろう。お前だって判っているんだろう?」
「………………」
「……? 判っているって???」
りんが二人の会話を聞きながら、小首を傾げる。
もっと複雑で奇妙な反応を示していたのは、りんの腕の中の子犬。闘牙には極度の緊張感を、颯生には緊張感とまたそれとは別の感情を見せて、体を固くしていた。
「そうか、お前が手伝ってくれないんなら仕方が無いな。りん、そいつは今夜りんの部屋で休ませてやれ。ん? ああ、そうだ。いっその事、室内に置いておくか」
颯生がどう出るか、確信したうえでのその言葉。
つかつかと闘牙の前に進むと、闘牙の手から金槌を取る。
「じゃ、後は頼んだな。俺は夕食の仕上げをしてこよう」
何もかも、見透かした闘牙であった。
「……颯兄様、怒ってる?」
普段から怜悧な雰囲気を漂わせている颯生だが、今回は少し様子が違うように感じられる。りんが捨て犬・捨て猫を拾ってくるのは初めてではないし、そんな時もまたか、という視線を浴びる事はあっても、今みたいにあからさまに何か言う事はない。颯生が発した言葉が、この子犬に友好的なものであればりんも心配はしないのだけれども、あの声の調子は明らかにこの子の存在を疎んじているのが感じられた。
「……どうせ、またすぐに居なくなるものを」
そんな颯生でも、父・闘牙には敵わない。
どこまで見抜いているものやら当の颯生でさえ判らないが、とにかく颯生が唯一頭の上がらぬ存在であった。
「ごめんなさい、颯兄様。でもこの子、なんだかとっても放っておけなかったの」
そんな話は聞きたくない、関係ないと言わんばかりに、正確無比な手際の良さで闘牙が切り込んだ木材をあっという間に組み上げてゆく。コンコン、ココンとリズミカルに釘を打ち込む音が響く。
「何時までそんな小汚い犬を抱いている。下に降ろせ」
「兄様……」
颯生のその言葉に反抗するように、りんの腕の中の子犬は「きゅーん」と甘えた声をだして、丸く小さな鼻先を更にりんの胸元に擦り付けた。
がんっ、がんがん!!
「兄様………」
何だか、見てはいけない姿を見たような気がするりんだった。
「……夕食までには、作り上げる」
「あっ、じゃ、りんも手伝います!」
颯生の手近にあった釘箱の中の釘が、もう残り少ない。それに気付いたりんが、闘牙が置いていった道具箱の中から予備の釘袋を出そうとして、その小さな事件は起きた。どうにもりんから離れようとしない子犬を片手に抱いて、もう片手で釘袋に手をかけた。その時、手がブレて闘牙が現場の帰りに受け取ってきた、刃物師の刀々斉の所に研ぎに出していた愛用のノミの鋭い刃先で、りんの指先をすぱっと切り裂いてしまったのだ。
「あっ、痛っつ…!!」
小さな悲鳴と、血の臭い。
りんの腕の中から子犬が飛び出し、心配そうにりんを見上げる。
慌てて傷口を舐めようとしたりんの手を、片手で手首を取り、もう片手で怪我をした指の付け根を軽く押え、そのまま颯生が口に含む。
「あっ、えっと……」
みるみる真っ赤になるりんの顔。
ノミの刃先で切られた傷口にそって、少しざらりとした颯生の舌が触れてくる。丁寧に傷口から溢れる血を舐め取り、裂かれた皮膚を繋ぎ合わせる様に舌先で寄せる。傷から血が溢れるたび、じくんじくんとした痛みがあったのが颯生の口に含まれて、いっぺんに体中、頭の天辺から足の指の先まで熱くなって判らなくなっていた。
どのくらいそうしていたか、すっと颯生が傷口から唇を外した。
「……もう、出血は止まった。お前は家の中に戻れ」
「あ、ありがとう。颯兄様」
「きゅ〜ん、くんくん」
りんの足元で心配げな声をあげる子犬。
「大丈夫だよ。りん、こう見えても怪我には強いんだ。す〜ぐ、治っちゃうんだよ」
安心させるように、子犬ににっこり微笑みかけたら……
「りん!!」
尻を叩かれるようなタイミングで、颯生の声が掛かる。その声に、りんはウサギのように闘牙のいる家の中に走り込んだ。
残されたのは、気まずい雰囲気が漂う颯生と子犬。
「ぐぅぅぅ〜、くぅぅん」
「……お前が厄災の種なら、りんが何と言おうと即刻摘み出してやる」
そう冷たく言い捨て、作業に戻る前にまず手頃な太さの杭を手にするとそれを、素手で庭土深く突き刺した。それからどこからともなく子犬を繋ぐには不似合いなほど頑丈な鎖を持ち出してくると、その鎖の一つを指で抉じ開け子犬の首輪のそのものを潜らせ、また閉じる。鎖のもう一端の鎖も同じようにして開き、輪にして途中の鎖の環に通して、閉じる。その輪を先ほど打ち込んだ杭に引っ掛けた。
「……お前に取っては不本意だろうが、今は『らしく』していろ。その方が互いにとって良いからな」
そうやって「飼い犬」らしく子犬を繋ぐと、颯生は超人的な手際で犬小屋らしからぬフォルムの建築物を仕上げていった。
* * * * * * * * * * * * * *
「どうした、りん。釘でも引っ掛けたか?」
大根と鶏肉のこってり煮込みの鍋を仕上げながら、形の良い脂の乗った鯵を家で開きにし、一夜干しにしたものをグルリで焼いている。冬に美味しい白菜と油揚げの味噌汁と、これも仕事帰りに摘んできたのだろう柔らかそうな瑞々しい緑のふきのとうの酢味噌和え。
台所いっぱいに、美味しそうな匂いが立ち込めている。極めつけは、厚手の土鍋で炊き上げるつやつやの玄米ご飯。白米とは違う香ばしく甘い炊き上がりの香り。
これだけ圧倒的な匂いの洪水の中でも、もう殆ど血が止まったりんの傷に気が付くほど、闘牙の五感は鋭い。
「ううん、釘じゃないの。ごめんなさい、お父さん。お父さんの大事なノミで切っちゃった」
「うん? どれどれ」
鍋の湯気で暖かくしっとりとしている大きな手が、りんの傷を見ている。
「兄様が応急手当してくれたから、もう大丈夫! それにりん、傷の治りが早いし」
「……そうだな。そのくらいの傷なら半日もかからんな」
くしゃ、とりんのクセのある黒髪をかき混ぜる。そうされるとりんは自分が、自分こそが子犬や子猫になったような気がするのだ。
―――― まだりんは幼く、周りの者もそうであったがため気が付いてはいない。
鋭利な刃物で切られた傷が、跡形もなくなるほどに完治するのにどれだけ日数を要するか。颯生が与えた『治癒力』は、今もりんの体の中でりんを守り続けている。
先ほどつけたばかりの傷が、まるでビデオの逆再生を見ているかのように瞬く間に、小さく消えてゆく。その事を、未だ不思議と思わぬりんであった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
既に私立高校の受験も終り、残すは公立高校の受験だけ。
最初から私立進学を決めているクラスメートの中には、早々と自主休暇に入る者もいるが、かごめや珊瑚のように公立が本命の生徒達は今からが正念場。
二人とも、そこそこ成績は上位をキープしている。三学期になってから、学習塾などで特別に組まれている受験の為のクラスに週二日通っているが、他の日は学校の図書室などで仲良く二人で勉強している。
図書室が閉まるのと、クラブの練習が終るのはほぼ同じ。
図らずもかごめと珊瑚、それからかごめの幼馴染でさっさと剣道の腕前で推薦入学を決めた剣也。一緒に下校する事が良くあり、今では習慣のようになっていた。
校門を出て、見上げた空は夕暮れの朱から夜の紺紫が移り変わる美妙な彩り。
「ん〜、寒いのは寒いけど、何となく明るくなってきたよね?」
「そうだね、節分を過ぎたからやっぱり『春』になってきたって感じなのかな」
「春、かぁ…。公立に受かれば、サクラサクで春本番になるんだけどね」
「ん? 大丈夫でしょ、かごめちゃんなら。今からでもワンランク上を狙えるんだから」
「いいのよ、行きたいのはお母さんの母校でもある今の志望校なんだから」
「本当? かごめちゃん、剣也と同じ高校に行きたかったんじゃないの?」
「え〜!? 良いわよ、別に。小学校だって別だったんだし、家は裏山挟んでるけど隣同士なんだし」
そうは言いながらも、夕陽のせいばかりではない頬の紅潮。
女の子同士のたわいのないおしゃべりを背中で聞きながら、剣也の顔もどことなく赤い。
「剣也の高校って、白麗学園だっけ? 大学や大学院もあるんだよね」
「そう、剣也のお兄さんもそこに通ってるの。お兄さんは受験して、TOPの成績で入ったんだけどね」
「へぇ〜、凄いね。そう言えばあたし、まだ剣也のお兄さんって逢った事なかったっけ」
「う〜ん、人間離れした美男子なんだけど…、ちょっととっつき難いかな。あんまり感情が顔に出ないタイプだし、人付き合いも好きなほうじゃないみたい」
「ふぅん、剣也とは正反対なタイプみたいだね」
「まぁ、ね。見た目はどことなく似ているんだけど、性格がね」
剣也は背中で聞いているうちに、だんだん面白くなくなってきた。
そう、いつも颯生とは比べられて来た。
家族の中ではそういう事はないのだが、一歩外に出るとどうしても人目を惹き、またそれに相応しい実力も兼ね備えた颯生への妬みや僻みなどが、颯生本人ばかりにではなく、まだ小学生だった剣也にも降りかかって来たのだ。
『兄弟』というのはそう言う時、やっかいなもので。例えば、誰それの兄が颯生と同級で敵対していたとすると、てきめんその弟は剣也にちょっかいを出してくるのだ。それが、剣也よりも年上であっても。また、場合によっては颯生に虚仮(こけ)にされた、兄ともども剣也に憂さ晴らしを仕掛けてくる。
剣也も相手が年上だからと、逃げ回るような性格じゃないのがまた禍して、結構ボコボコに遣り合ってしまうのだ。
剣也が颯生に対して、同じ兄弟であっても引き目を感じてしまうのは、やはりこんな時の相手への対応の違いを見せ付けられてきたからだ。
颯生なら相手に髪の毛一筋も触らせないうちに、足元に相手を叩き伏せていた。それが自分より歳若な者でも手加減なく、一発で決める。豪腕を振るうと言う感じではなく、とん、と突いたその優雅な身のこなしだけで。
そのあまりの違いに、小学生時代の剣也の周りで流された子供らしくない悪質な噂は、母を亡くしたばかりの剣也の胸に深い傷をつけた。
小学校が違っていた為、かごめも実際には耳にしなかったその噂。
そう、こんな内容の ―――
犬神の母親の交通事故は、本当は自殺だった。
その理由は、母親の浮気が父親にバレそうになったから。
その証拠に、あんなに似てない兄弟なんているはずがない ―――
兄貴はそれを知っている。
だから、弟がやられていても助けようともしない。
むしろ、自分が買った恨みを弟の方に向けさせている ―――
他にもまだまだあった。
不器用だが、母・十六夜の事をとても大事に思っていた剣也の前で、これが小学生の発言かと思えるほど、眉を顰めたくなる暴言の数々。
妹のりんにしても、あれも浮気で出来た子。
どちらの兄とも似ていない。
それに気付かない父親もいい加減バカだ。
あんなに優しそうな母親づらをしていて、本当はとってもHな女なんだ。
――― 忘れていたと思っていたあの時の事が頭に蘇り、胸が苦しくなる。
母を事故で亡くした時、冷静にそれを受け入れた父と兄。まだ三歳で訳は判らなかっただろうが、母を慕って大泣きしていたりん。その家族の中に挟まれて、剣也は泣きたくとも泣けずにいた。胸に蟠ったものは、剣也の性格を荒っぽいものに変えていた。そこに根も葉もない噂という、悪意の刃で剣也の心をズタズタに切り裂いてきたのだ。
しばらくは、ケンカ三昧な日々を過ごしていた剣也だった。
「……あたしの知り合いも、白麗にいるんだ。大学生だけど」
「あっ、剣也のお兄さんも今は、大学生だよ! もしかしたら、大学で知り合いかも知れないね」
「……どうかな? 女の人の知り合いは多いみたいだけど、あまり男友達の話は聞かないのよね」
「えっと、それって…、プレイボーイって事?」
「判んない。一見、真面目そうに見えるんだけどね。あたしなんて昔からの知り合いで、良くて妹みたいな感じだろうし」
( あれっ? 今のって…… )
何気なく珊瑚の口をついた言葉だが、その言葉の響きに何か含まれたものを感じたかごめ。
そろそろかごめ達のおしゃべりに決着(けり)つけさせて、さっさと家に帰りたい剣也である。それでも、ちゃんとかごめと珊瑚を送ってゆく気持ちのあるところが男だろう。
( ん? なんだ、今の感じ )
やれやれと思って背後の気配を読んでいた剣也だが、背後の二人…、つまりかごめと珊瑚の後ろから、意識的に気配を隠しながら付いて来る者の存在に気付いた。
りんは別にして、その手の五感が優れている犬神の男達である。精度は闘牙や颯生には劣るが、剣也のそれも人並み以上。
( 一人、いや… 二人、か )
女の喋りながらの歩みの遅さに、かなり二人から離れていた剣也。
後方の二人は、校内でも…、いやこの近隣でも名高い美少女である。
( 最近は、なにかと物騒だからな )
立ち止まり、二人の方へと向き直ろうとした時、送り狼のようにかごめ達の後ろからついて来ていた何者かのうちの一人が、つと歩調を速めた。
( まさか、俺もいるのにこの二人に何かしようっていうのかっっ!! )
道着の入った道具袋を下におき、竹刀袋から竹刀を取り出せるように紐を解く。
相手が何かしようものなら、その時は!!
「珊瑚!? 前に居るのは珊瑚でしょう?」
若い、爽やかさを感じさせる男の声。
その声と同時に、もう一人の気配がその場から消えた。
その一言が与えた、『場』の変化はまるで舞台での照明効果を思わせるほどはっきりしたものだった。剣也が感じたかごめ達の後方から追ってきていた気配の一つはこの男、後で珊瑚に紹介されてその名を知らされたのだが「風守弥勒」と言う男のものだった。
弥勒が声をかけてすぐに立ち去ったもう一つの気配が、何者であったのかは判らずじまいだったが。
「あっ、えっと…、弥勒…兄(にい)」
びっくりしたように、そして相手をどう呼び表したら良いか迷いながら一番無難で、でも本当はそうは呼びたくなさそうな珊瑚の呟き。
「珊瑚ちゃん、知っている人?」
「うん…、さっき話していた白麗の大学生。風守弥勒さん」
小さな声でぼそぼそと。
珊瑚が物凄く気にしているその相手を、かごめが『親友』の目でよくよく見極めてやろうと視線を投げたら、あまりにも鮮やかなにっこり笑顔にかごめまで赤くなる。
「彼女がお前の一番大事な親友の日暮かごめさんですか、珊瑚?」
語りかける声の爽やかさは、端で聞いている剣也には腹立たしいほど女心を掴みそうな響きである。
「うん、そう……」
「では、改めまして自己紹介を。ここにいる珊瑚とは親同士が親友でして、幼い時から兄妹のように親しくしてきました。かごめさんのような素敵なお嬢さんが珊瑚の親友なら、私も安心です」
珊瑚の淡い心模様を知ってか知らないでか、まさに『兄』の如く振舞う弥勒。
その態度も気に喰わない剣也が、とうとう声を荒げて弥勒に突っかかって行った。
「おい! さっき逃げて行ったのはあんたの仲間じゃないのか!? 気配を消しながらかごめ達の後を尾けやがって…。たまたま珊瑚があんたの知り合いだから追い返したんじゃねーのかっっ!!」
「ほう……」
柔和な表情にそぐわぬ、笑っているような目元に鋭い光が宿る。
「……勘が鋭いようですね、気配を消している者の気配を感じ取るとは。えっと…?」
「あっ、こいつは剣也! 犬神剣也って言うの」
まだこの中で紹介されてなかった剣也を慌てて、かごめが紹介する。
「犬神…? ああ、それで。道理で良く似ている『気』を発すると思いましたよ。兄弟ではね」
「兄弟!? って、お前…、颯生を知ってんのか!?」
「ええ、まぁ…。先ほどまで同席してましたから。大学の資料倉庫で」
「資料倉庫…? それって、神代教授に出すレポートの為の? 弥勒兄」
「いや、違うよ。資料倉庫に行く前に、少し神代教授とは話をしたけど、それとは関係ない」
……珊瑚の問いに関係ないと答えながら、果たしてそうだろうかと心のうちで苦笑する。あの時、神代教授に話題として出した人物に絡む者を今また、目の前にしているのだから。
だがこの会話はまた剣也にも、絡む要素を含んでいた。
( ……今、クマシロって言ったよな? 確かにあまり聞かない名前だけど、話に出たクマシロが『神代』に限った訳じゃないし…、でも、あいつ大学の先生だって言ってた…… )
「どうしたの? 剣也。固まってるわよ??」
幼馴染の異変に気付き、かごめがそう声をかける。
「なぁ、おい。その『クマシロ』って、神に代わるって書くのか?」
「うん? ああ、そうだが」
「じゃ、じゃあさ、下の名前…、『桔梗』って言わないか?」
「桔梗? いいや、教授のお名前は確か『楓』と仰っていたな」
「楓? 名前が違う…、でも女なんだな? その教授。じゃ、歳を教えてくれ!!」
「お前…、女性の歳をそう聞くものか? まぁ、あの方なら豪快に笑ってこう答えられるだろうがな。『生まれたての赤ん坊と同じじゃ。還暦じゃからのぅv』とね」
「…………………」
ほっと密かに胸を撫で下ろしたのは珊瑚。弥勒から良く聞く教授の名だっただけに、それが女教授だと知った時から心配していた事。年上の美人教授と教え子のラブ・プレイ。弥勒の事だから有り得そうで、心配で。しかし、そんなにも年上では流石に弥勒でも守備範囲外。
「あっ、母親って事もあるか。なぁ、弥勒。その教授、子どもはいねぇか? 女の子ども」
「いや、神代教授は独身だぞ?」
「そうか…、やっぱり関係ないのか……」
何処か意気消沈してしまったように見える剣也の姿。話の見えなさに、少し不機嫌そうな表情を浮かべ、かごめが剣也に問いかける。
「……誰よ、『桔梗』って!?」
「……お前には関係ねぇよ、かごめ」
思わず何か叫びそうになったかごめだが、剣也の顔に浮かんだものがあまりに痛々しくて、そのまま言葉を飲み込んだ。
かごめを日暮神社まで送ってゆき、珊瑚はそのまま弥勒が送って行く事になった。剣也がようやく家についた頃、家の中でも何やら険悪そうな空気が漂っていた。
* * * * * * * * * * * * * *
「お帰りなさい!! 剣兄ちゃん!」
何時もより弾んだ声で、りんが迎える。
すでに夕食の支度は整い、後は席に着くばかり。
「ああ、ただいま。珍しいな、颯生がまだなんだ」
「颯兄様なら庭だよ。もうすぐ来ると思うけど」
「庭? 何故?」
「うん、新しい犬小屋を作ってくれてるの」
「なんだ、りん。お前、また拾って来たのか?」
「だって! なんだか、とっても見捨てておけなかったんだもん!!」
剣也もこの家に動物が居着かない事を知っている。それでいつも悲しい思いをするのはりんであるという事も。闘牙も颯生も知っているだろうに、何を酔狂で新しい小屋まで作っているのか。
その様子を見るのに剣也は、ダイニングの掃き出しサッシ窓からサンダルをつっかけて、庭に下りた。ダイニングの明かりが届くギリギリの所で、颯生は無表情なまま正確な機械のように釘を打ち続けていた。
「颯生、メシだってよ」
「これを作ったら行く。先に喰ってろ」
「何も今日中に作らなくても…。一晩くらい、拾ってきたりんの部屋でもいいじゃねーか」
それには答えもせずに
がんがん、がががんん!!!
……釘を打つ手に、拍車が掛かる。
「……変な奴だな。どれ、その特別待遇の捨て犬を見てみようか」
カラコロとサンダルを鳴らして、鎖につながれた仔犬の方へと近づく。鎖につながれた仔犬は一瞬身構えたがどうしたのか、きゅんきゅんと丸い鼻を高く掲げて剣也の方に甘泣きをする。どこか必死さを感じて、確かにこれではりんが捨て置けない訳だなとそう思う。
「ふ〜ん、こいつならここに居着けそうな感じだな。今までの捨て犬と感じが違う。りんの良い遊び相手になれるかもな」
ガンガン、ガンガンッッ!! ガンガンガン!!!
そんな言葉、聞きたくもないと、釘打つ音だけが夜空に大きく響いていた。
【4に続く】
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