【 白銀の犬 2 】




「さて…、そろそろ大学に行くか」

 風守弥勒は壁に掛かった古びた時計を見ながら、腰を上げた。早くに母を失くし、警察勤務の父・弥蔵(みくら)との二人暮し。男所帯だけに、台所と小さな風呂場・洗面所。四畳半と六畳それぞれ一間ずつの殺風景な部屋。弥勒が部屋を出ようとドアノブに手を掛けた瞬間、そのドアが外から引き開けられた。

「うわっ! っと、親父っ!?」
「なんだ、人をバケモノか何か見たように驚きおって」

そこには弥勒の父、弥蔵が無精ひげを伸ばし少々汚れくたびれた風情で立っていた。

「……休み、取れたのか?」
「馬鹿な!! あいつを挙げるまでは俺には休みはねぇよ。風呂入って一眠りしたら、また出掛ける」

 それは、暗に弥勒に風呂の支度をしろと言うのも同じ。
 母亡き後、この父の面倒を見てきたのは弥勒。

( ……仕方ないか。そう大事な講義がある訳でもないし、多少遅れても )

 そう思うと玄関先の靴箱の上に参考書や筆記具などを置き、着ていた服の袖を捲くると風呂場へと足を運んだ。大雑把にバスタブを洗い水を張る。ガス釜に点火し濡れた手を拭こうとして、手を止めた。今となってはほとんど父親と変わらないくらいになった自分の手。それを見て、父の右の掌を思い起こす。
 父の若い頃は、射撃の腕前では全国大会一・二位を何時も争うほどの名手だった。それが、とある事件で犯人の手に落ち壮絶な私刑を受けた。ほとんどボロ雑巾のようになった弥蔵を、警察への見せしめのようにその右手を弥蔵自身の拳銃で撃ち抜いた。骨が砕け、神経もズタズタに吹き飛ばされた弥蔵の右手。

 ……そう、もう二度と拳銃が使えない様に。

( 体の弱かった母は、その一件が心労となってあっけなく死んでしまった。親父も、暫くは荒れたよな )

 しかし、弥蔵もそのまま終ってしまうような男ではなかった。拳銃の持てなくなった右手の機能を回復させるリハビリに励む一方で、残された左手で射撃の練習を始めた。右手で辛うじて文字が書けるようになりどうにか箸が使える様になった頃には、往時の腕前には比べようもないが警察官として及第点を得るまでになっていた。

「親父、俺もう出るから……」

そう言って四畳半を覗くと、ちゃぶ台の向こう側で汚れた座布団を枕に、もう小さな鼾(いびき)をかいている。

「ったく、ぎりぎりまで家には帰ってこねぇんだから…。まぁ、親父 あんたらしいけどな」

 寒くないように、転寝している父の肩に毛布を掛けてやる。
 風呂が沸くまで、側についていてやろうと ―――

( ……親父が追っていたのは、確か『N−コネクション』とか言っていたな。かなり悪どい稼業をやっているって ――― )

 本来なら快楽を求めて手を出す麻薬も、こんなご時世なのか自虐的な人間が増えたのか、わざわざ『悪夢』を見る為にバカなクスリに手を出す。依存性の高いそいつのせいで、人間が『壊れる』まで止められない。

( 後、人身売買に武器販売、もっとヤバそうな事もやっているかもと、親父は言っていたな )

 考えてみれば、弥勒の母もその組織に殺されたようなものかも知れない。
 弥蔵もそう思っているだろう。直属の上司である滝寺夢心警部もそんな弥蔵の心中を察し、それでも私情に流される事のない刑事魂を持った部下に、厚い信頼を寄せていた。あれからずっと、専従捜査班の班長として捜査の現場指揮に当たらせている。

 朝の喧騒が静まりつつある時間帯。ようやく眠りに付いた父を見守るよう、ただ弥勒は側についていた。短時間仮眠を取り風呂に入った後、遅い朝食まで父に食べさせて送り出したので、弥勒が大学に着いたのはもう昼前だった。

 キャンバスでの弥勒は、はっきり言って二重人格者のようにその性格を切り替える。物腰柔らかに、丁寧で爽やかな好青年に。いや、それもまた弥勒の性格の一端ではある。実は隔世遺伝なのか女好きだった祖父の性格も色濃く出ていた。如才なく、嫌味もなく、また頭も良いがそれをひけらかす事もせず、何よりもフェミニスト。もちろん、スタイルも顔も良いときては、女の子達が放って置く訳もない。いつも華やいだ雰囲気が漂っていた。

 そして、この同じキャンバス内でもう一人、女の子達を沸かせている人物がいた。

 ただしこちらは、唯我独尊・我関せず。
 誰とも交わろうとしない、一匹狼のような学生。
 ただし一匹狼のようだと例えても粗暴な感じは一切なく、むしろ貴公子然とした氷のような美貌、冷めた視線で騒ぐ女の子達を眺めるだけだ。

( ……あいつ、犬神颯生って言ったな。和名だけど、四分の三は北欧かそこあたりの血だって言ってたな、女の子達 )

 同じように女の子に騒がれて、目立つ存在同士。何かと目が合う事が多い。その度、弥勒が感じるのは ―――

( こいつ……、人間離れしてるぜ )

 実を言えば、弥勒は山岳密教の修験道を起源とする古武道の継承者であった。この古武道の特徴は、『気』を扱う事。鍛錬は激烈を極め、風のように長距離を走り鳥のように高く飛び上がる。何よりも自然と一体化してその『気』を練り、その掌から放出する『発剄−はっけい』と言う技に集約される。だからこそ、弥勒は颯生の放つ『気』が尋常ではないものに気付いていた。



  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 ――― 屋敷跡の雑草の中から顔を出した、茶色の仔犬。

 りんの吹く犬笛に惹かれてりんの前に歩み寄り、りんの顔を小首を傾げるようなポーズで見上げる。
「ねぇ、可愛いよね。この仔犬」
「うん、でもどこの子だろう? 近所にはいなかったよね」

 りんと紫織は、その仔犬を抱き上げあれこれ話している。

「迷子かな?」

 と、りん。

「もしかしたら、捨てられたのかも……」

 と、紫織。

「捨てられた? どうして……」
「りんの家は一戸建てのお家やから、そんな心配はないやろけどね。ウチみたいなマンションだと普通犬や猫は飼えないんよ。引越しの時に置いていかれる飼い犬なんかも多いんだって、お母さんが言ってた」
「そんな、可哀想……」
「野良犬じゃなかったのは確かやし。ほら、ここ……。首に何か付けてる」

 そう言って、紫織はその仔犬の首を指差した。仔犬は首に銀色の楕円形のプレートを付けた首輪とは別に、綺麗な緑色の石を付けたペンダントを付けていた。

「このプレート、何か書いてあるけど住所じゃないね」
「こっちのは、この仔犬を飼っていた家の人が、置いてゆく時にお別れで首にかけてあげたペンダントやないかな?」

 ……意外に思われるかもしれないが、この暗くなる少し前の人通りの絶えた住宅街といのも、『街の死角』なのである。昨今多発している小学生が巻き込まれる事件の多くが、こういう場所・こういう時間帯に起きている。

「りん、ウチは無理やからあんた、連れて帰ってあげて」
「そうだね、こんなところに一人ぼっちは寂しいもんね」

 これもまた、良くある光景。
 捨てられた犬や猫の子を拾い、持って帰って家族と一悶着起こすのは。飼えない正統な大人の理由を突き付けられ、泣く泣くまた元の場所に戻しに来る事もあれば、運良くその家に飼われる事もある。りんはふと、この子が家に居れば一人でも寂しくないかもと思っていた。

 ……りん達は気付いていなかった。
 そのりん達の様子を、物陰から刺す様な視線で見ている者がいた事に。


    
「なんだ、弥蔵。今日は休めと言うたじゃろうが」

 刑事部屋の窓を背に、皆の顔が良く見える位置の机に陣取った滝寺警部が弥勒の父・風守刑事の顔を見て眉を顰めた。

「警部、俺が休めるほど捜査は進んじゃないでしょうが。まぁ、俺も休む気がないですがね」
「……弥勒君がお前の体を心配しとったぞ。彼にすればお前さんは母親亡き今、たった一人の肉親だからな」
「あいつめ…、親を見くびりおって。まだまだあいつには負けてないんですがね」

 壮年にしては痩身で、影の目立つ顔立ち。髪も残バラ気味でお世辞にでもダンディとは言えない風貌だが、そのくたびれた背広の下の体はバネのような瞬発力に満ちた筋肉を纏っていた。

「警部、あれから何か情報は入ってますか?」
「うん、ああ……。未確認情報だがこの町外れの雑木林の中で弾痕が見つかったとか、血痕が落ちてたとか、そんなところだが」
「ふ…ん、奴に関係してるかな?」
「さぁ、それはまだ判らん」

 弥蔵は刑事部屋の隅に置かれている急須とポットの所に行き、急須に湯を注ぎ出がらしの茶で喉を潤した。

「……ったく、被害の方はますます甚大化してるってのに。 まったく、逃げ足と身を隠すのは上手い奴だ」
「そう、被害の方だ。ヤクに手を出して身を持ち崩した者を一次被害者と言うなら、その一次被害者に襲われて怪我をしたり、殺されたりした二次被害者の方が多いからな。悪魔の薬だ、あの『genei-s』って奴は!!」
「俺から言わせりゃ、そんなモノに手を出す奴が馬鹿なんですがね。ただ……」
「ああ、そうだ。面白半分に手を出す者もいるが、半数以上は組織の資金源にする為に言葉巧みに騙して、最初の一発を打ち込みやがる。あの薬の悪夢の幻影は、地獄の責めよりも容赦ないと」
「……人間って奴は心の弱い生き物ですからね。自分の一番見たくない悪夢ばかり見せ付けられちゃ、気が狂いますぜ」
「最初はいい夢を見せてくれるらしいな。その後、悪夢に変わるらしい。新しく薬を体に入れれば、その悪夢は収まるらしいが、結局は同じ事の繰り返し」
「そして、その薬を買う金欲しさに無関係な者を傷つけ殺しまわると。加害者であって、被害者というのが堪らんですな!!」

 飲みかけの茶碗をテーブルに音を立てて置く弥蔵。茶碗を握り締めた手が小刻みに震えている。

「それと十五歳未満者の行方不明・もしくは身代金目的ではない誘拐の増加。こっちもやり切れんものがあるな」
「ええ、お定まりの人身売買だけではなく、もっと恐ろしいモノを売り買いしてますからね」
「普通の暴力団やマフィアとは、その性質が異なるからな。『N−コネクション』は」
「最近はインテリやくざなんてものも流行っちゃいますが、それとは全然違う。薬学・生体学・工科学、どれをとっても超一流の頭脳の持ち主がやってる組織です」
「頭にキ印の付いた奴がな」
「そのイカレタ頭で作り出そうとしているヤバイものを、野放しにしちゃならないんですよ、俺等は!!」

 弥蔵の手の中の茶碗が割れた。握り潰した弥蔵の手には傷一つなく、その手をぬるい茶が滴り落ちた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 ――― 木を隠さば、森の中。人を隠さば、人の中。


 よくある俗に言われる『秘密研究所』。
 大抵は人里離れた山奥とか絶海の孤島だとかにありがちだがそんな場所、不便極まりなく、また人が行かない場所だけにかえって目立ったりするもの。

 施設を立ち上げるのも大変である。
 電気からして自家発電させなくてはならないだろうし、今のネット社会。最低でも電話線だけは引いておかねば話にならない。いや、自力で通信衛星を打ち上げるだけの財力と技術があればまた別か。

( ……既存の衛星を乗っ取る手段が無い訳でもないが )

 いろんな理由を飲み込んで、風守刑事達が追っている『N−コネクション』の本拠地は、意外や意外、某繁華街の複数の雑居ビルの地下に設置されていた。
 都合が良いというのかここらあたりはその昔、密かに造営された地下道が今も健在で、研究施設はその地下通路を組み込んで設計されていた。

 地下通路の枝分かれした小道の何本かは郊外へ抜ける抜け道になっている。
 追っ手の目を眩ませる為に何本もダミーが用意されていて、ぐるっと回ってもとの道に戻る通路もあれば、散々歩かせた挙句行き止まりになっているものもある。

 そんな通路の奥底から、この世の者とも思えない悲鳴が聞こえてくる。

「や、やめてっ!! …もう、これ…… い…じょう… あっ、あはっ、はっはっっ!!!」

 物凄い声は辺り一帯に響き渡る。声の主は、まだ若い女。
 あられもない赤サテン地に黒レースのデコラティブな下着姿はこの女のステージ衣装。責めを受ける為に通路の岩壁に鎖で繋がれ、その妖艶な姿を晒されている。上気し薄くれないに染まった、すんなりと伸びた手足に巻き付けられた包帯の白が扇情的だ。
 女の周りには、複数の男達が手に手に「獲物」を持って、女は休ませる事なく責め続けている。
 その様子を男達の背後から見ていた、この組織のトップである『プロフェッサー・N』が年齢不詳な、整いすぎて作り物めいた顔に微かな表情を浮かべた。
 その男の右手が上がり、それが意味する事を察して女を取り囲んでいた男達が下がった。

「……どうだ、神楽? 思い出したか」

 休む間もない責めで息も絶え絶えな神楽がどうにか呼吸を整え、疲れの浮かぶ顔をプロフェッサー・N…、奈落に向けた。

「生憎だね、奈落! こんな所で、自分のバカさ加減が役に立つとは思わなかったよ!!」

 言うなり、奈落の顔に唾を吐きかける。

「そうだな、確かにお前はバカだな。他の者達のようには役に立たぬから、せめて門番の役、鍵の役くらいにはなるだろうと思ったのだが……」
「ふん! 人のボディラインを勝手にセキュリティ・システムの鍵なんかにするからさっ!! 毎回毎回システムを立ち上げる度に、こいつ等の前で裸にされて認証ブースに入れられる恥ずかしさがお前なんかに判る訳ゃないね!」
「お前から、その体を取り上げたら何が残る? しかし念を入れすぎたのが裏目に出たな」

 あまり表情の動かない能面のような顔に指を添え、忌々しそうにそう呟く。

「そう、あたしのこの『生の体』と『生声』がシステムのロックを外す鍵。音声認証パターンをあたしが変えちまったからね。あたしを裸に剥いて認証ブースに放り込んだって、あたしがその言葉を唱えなきゃ絶対ロックは解除出来ない。あはは、いい気味さ!!」
「……あれだけ責められてもまだ哂う元気が残っているようだな。まだ、笑い足りないとみえる」

 下がっていた男達に向って、ぱちんと指を鳴らした。

「もう少し、笑わせてやれ」

 男達が一斉に神楽の敏感で弱いポイントを巧妙にくすぐり始める。柔らかな羽毛で出来た刷毛や、羽根扇子。針で笑いのツボを突く者も。狂ったように神楽の笑い声が響く。痛みで上げる阿鼻叫喚にも負けぬくらい、異常な響きを持って周りの壁に反響する。

「や、やめて! これ以上笑い続けたら、本当にバカになっちまう!! あんた、実の娘になんてことするんだ!」
「実の娘だから、痛い思いはさせぬよう責めているんだ。さぁ、いい子だから、お前が勝手に変更した音声認証コードを言うんだ」

 ひぃひぃ、あははは、あははと呼吸をする間もないほど、「笑い」の苦しみにむせ返りながら、神楽は声を振り絞った。

「あたしだって覚えてないんだよっっ!! そこら辺にあったやたら難しい外国語の本のどこかのページの読めた分だけ読んで入れちまったんだから!」

 責めのピークに達したのか、そのまま神楽は失神してしまった。
 どれほど神楽が声を上げても、階上のけたたましい嬌声や轟音のような音楽に掻き消され、誰の耳にも届かない。

「プロフェッサー・ナラク、ラボの方からの連絡です」

 そう言って現れたのは、ラボの方の副所長を任せているドクター・睡骨。勿論、本名ではない。組織を維持させてゆくのに必要な人員としてスカウトしたその道のプロ達。ラボの方には生体・精神学の雄であるこの男。毒薬学の方で霧骨、火器研究方面で煉骨。荒っぽい仕事…、つまり誘拐や場合によっては暗殺なども一手に引き受けているのが、蛮骨や蛇骨達。悪党なら悪党らしく、獲物の骨の髄までしゃぶってやろうという悪ノリで名付けたその忌々しい名前。

「なんだ、睡骨」
「神楽が逃げ出す時に、一緒に逃がした実験動物達はほぼ回収を終えたとの事です」
「ほぼ?」
「はい、あと一体。まだ回収出来ていない実験体がいます」
「どの実験体だ?」
「固体認証コード589です」
「あれは、限りなく成功に近い実験体だな。必ず回収しろ!」

 失神から覚めかけた朧な意識の片隅で、神楽は二人のやり取りを聞いていた。

( ――― ああ、コハク…、いや 琥珀。あんただけでも逃げ遂せるんだよ。そしていつか…… )

 神楽の意識はそこで途切れた。


   * * * * * * * * * * * * * *


 弥勒の通う大学の名物教授で、神代(くましろ)楓という女教授がいる。本職は巫女だが、その風貌から教育者らしい威厳も漂わせている。
 神代教授の専攻は、『気学』である。
 巫女という、人の祈りや気持ちをその目で見、肌で感じる生活をしてきた神代教授には、『気』という形無いものが現実の物質世界に及ぼす影響を日々感じていた。その影響は小さなものから、時には『奇跡』と呼ばれるものまで或る事に。

 この『気』と言うものを科学的に究明したいと、日夜研究に明け暮れていた。

 弥勒自身、『気』を扱う古武術の伝承者だけに、神代教授の研究テーマは十分興味をそそるもの。教授の講義は欠かさず取っていた。
 その教授の講義後、弥勒はふと、この教授も自分のように『異質な気』を感じる事が出来るのだろうか? と思いついた。そう思った弥勒の席の右下五段目辺りに、あの犬神颯生が座っている。思いついたら即実行なのは、弥勒の良い点でもあり欠点でもある。

「教授! 神代教授!!」
「ん? なんだね、風守君」

 身長の割には恰幅の良い、落ち着いた風情を漂わせている。幼い頃の事故で片目を失明し、義眼を入れるでもなくサングラスで隠す訳でもなく、時代を感じさせるアイ・パッチ姿で大学構内を闊歩する。それもまた、名物の一つだった。

「弥勒で良いです、教授。教授、実は少し質問したい事がありまして……」
「ほう、なんだね? 弥勒」
「教授の先ほどの講義なのですが、教授の話では『気』はこの物質世界と相通じる経路を持っている。それぞれに、属性がありそれは五行思想にも準ずる、と」
「うむ、そうだが」
「では、もし、もしですよ、教授。人にもそれは当てはまるのでしょうか?」
「う〜む、まぁ、人の場合は複合される要素があるから、五行思想の中でも相性や相克などの関係も見なくてはな」
「教授は、その……、 人が持つ『気』のようなモノを感じられる事はありますか?」
「……………………」

 弥勒は、やはり変な質問をしてしまったかと背中に薄い汗を浮かべた。

「……弥勒、お前は五悪の風、木行の気じゃな」
「木行…、確か春を表す要素ですね」

 弥勒は五悪の風、と言われて神代教授の眼力を認めた。
 五悪とは、体に悪い影響を与える自然界の働き。その昔、弥勒の祖先にその『風』と因縁付けられ、身を滅ぼした者がいたと聞いた事があったのだ。その代り、その因縁を被りながらも木行の者らしく、春に栄える木立のように生育し花を咲かせる。そう、女好きの所以である。

「実は、俺もある程度はそう言うものを感じる事が出来るんです。それで……」
「それで…?」
「教授は、犬神颯生をご存知ですか?」
「ほほぅ、弥勒。お前の眼力も大したものだな。そう、あれの『気』は大変稀な、希少な…、いや、もっとこう……、な」

 何か気付いているのか、はっきりとした言葉にはしない神代教授であった。
 もう少し、何か聞き出せるかと弥勒は思ったのだが、相手は老練な神代楓教授の事、ふっと風向きが変わったように別に話題を振ってくる。

「風守君、君は随分とキャンパス内を賑やかしているようだが、本命は居るのかね?」

 先ほどまでは『弥勒』と名を呼び捨てにしていたのに、楓は話の腰を折るようにまたその呼称を改める。そのわざとらしさに、弥勒も同じ言葉を繰り返す。。

「……教授、弥勒でいいですよ、私の事は。私は博愛主義者なんですよ、来る者拒まず去る者追わず、です」
「都合の良い男だな。まぁ、いずれこの者なら、と言う人間と出会う事もあろう。遊んでも、後で騒ぎの元になるようなタネは撒かぬようにな」

 さばけた様子で、きっちり釘を刺してゆく。弥勒も心身共に健康な成人男子であれば、当然その手の交流があってもおかしくはない。今まではそれでトラブった事がないのも、弥勒の密かな自慢でもあった。

( ……どこか、満たされないものがあるからだろうな。自分でも判ってるさ。 )

 飄々と、平静顔を見せる。早くに母を失くしたせいだろうか? 
 仕事に命を懸ける父を誇りに思いながらも、取り残された子ども時代の自分の寂しさが思い出したように影を落とす。
 父が半死半生の目に会い、利き手の右手を失ったのは弥勒がまだ十歳にもならない頃だった。もともと神経の細かった母は刑事の妻には向いてなかったのだろう。神経の細さから、体も弱かった。別人のようになってベッドに横たわる父の横顔に何を見たのか、父の容態の悪さを先取りするように自分の具合を悪くして、あっけなく逝ってしまった。
 誰よりも逞しく、絶対の存在だと信じて疑わなかった父の嘆き悲しむその姿。
 暫くは全てのものに対して自暴自棄になり、とある事件をきっかけに立ち直るまで酒浸りの日々が二年ほど続いただろうか。

 子どもとして、そんな父を応援してきた。
 父は母を死に追いやり、自分の利き手を潰した相手への思いを忘れない為、普通なら義手を装着する所を、風穴の開いた右手に人口皮膚の手袋をつけてリハビリに励み、左手で射撃の特訓を積む。
そんな姿を見てきたからこそ、弥勒は歳よりも早く「大人」にならねば成らなかった。

「構内の風紀を乱すような真似はしませんから、ご安心を。神代教授」

 これ以上風向きが変わらぬうちに、弥勒は楓の前から退散した。

( ……でもまぁ、教授もあいつが只者ではないと思っているのは間違いないな )


 少しずつ、糸は絡み始めていた。


    * * * * * * * * * * * * * *


「――― 紫織にああ言われちゃったし、あたしもそう思うけど…、大丈夫かなぁ? ウチでこの子を飼うの」


 りんの腕の中には、犬笛で呼び寄せてしまったあの子犬。透き通った茶色の眸が物言いたげで、表情豊かな子である。

「あんた、ぜんぜん暴れないね。よっぽど、前の飼い主に可愛がってもらってたんだろうね。どうして、置いて行かれちゃったんだろう?」

 子犬はきゅ〜ん、と小さく鳴いてまあるい頭をりんの胸元にすり寄せた。

「あんたは大丈夫かな? どうしてか良く判んないんだけどね、今までもりん、捨て猫や捨て犬を拾った事あるんだけど、いつの間にか居なくなっちゃうんだよ。どうしてかなぁ…?」

 りんの言葉を理解したのか、りんの胸に抱かれた子犬は首を傾げ、一緒に考えている風な表情をする。その様が、なんとも言えず可可愛くて思わずりんはぎゅっと抱き締めてしまった。

「大丈夫だね、あんたなら! いっぱい仲良しになろうね!!」

 ……気のせいか、子犬の表情が少し赤らんだような気がした。


 母を早く亡くしたりんは、言わば鍵っ子である。低学年だから放課後は、小学校に併設されている学童施設を利用しても良いのだが、父・闘牙が宮大工という自営業な為、月の半分は自宅に居るし、居ない時は裏山を越えてかごめの神社に行く。これは家族の約束事。でも番犬になってくれるような犬がいて、りんがもう少し大きくなったら、もっと皆の為に家の事をしたいとりんは考えていた。亡くなった母の替わりは出来ないけど、せめてもう少し。今でも、十六夜の事を想っている父・闘牙の為に。

 りんは、ポケットから家の鍵を鍵穴に差し込んで、気が付いた。

「あれ? 玄関が開いてる。誰か帰って来てるのかな?」

 格子のガラス戸を引き開ける間もなく、奥の台所辺りから野太い、だけど大好きな父の声が聞こえた。

「りん、ちゃんと手を洗って台所へ来い。一緒に肉まんでも喰おう」
「お父さん!!」

 そう誘う声はさも楽しそうで、りんは手を洗えと言われたのに、そのまま子犬を抱いて台所に走りこんだ。

「……手を洗え、と言ったろう」
「お父さん、今日は現場だったんじゃ…?」
「ああ、そっちは昼過ぎに終らせてきた。蒼井や紅木(くれき)にも現場を任せにゃ、次は育たんからな」

 そこには早々と夕食の下準備の為に、愛妻の形見のエプロンを身につけ、大根の皮を桂剥きにしている闘牙の姿があった。

大の男が台所に立つ姿も、今ではすっかり様になっている。
 十六夜を亡くして、早 五年。まだまだ男盛りな闘牙の身を気遣って、後添えの口を利こうとする者が居なかった訳ではないが、そこをやんわりと断り続け今に至る。十六夜が亡くなった時点で、颯生は十五歳、剣也は十歳。どうしても母親の手がないと困ると言う程、子どもだった訳ではないのも幸いだった。
 唯一、まだたった3歳だったりんだけが心配の種。十六夜の親友でもあったかごめの母も何くれと手を貸し、剣也とは幼馴染のかごめはそれこそりんの姉替わりで、よく一緒に遊びながら面倒を見てくれた。

 ……そして、意外に思われるかもしれないが誰よりもよくりんの様子を見守っていたのが颯生なのである。勿論、あれこれと手を出して世話をする訳ではないが、目配りと言う言葉に相応しい態度で接していた。よほど危ない時だけにさっと手を貸すだけの、後は素知らぬ顔の半兵衛。

 母はなくとも、周囲の大きな愛情の中でりんはすくすくと素直に育っていた。

 りんはまた、闘牙の料理をする姿も格好良いなと日頃から思っている。繊細さからは程遠いが、大きな手で豪快に材料を刻み、勢い良く鍋を振り、大きな炎と威勢良く食材が鍋の中で踊る音がドラマティックで。

「……また、野良犬を拾ってきたんだろう。良く手を洗ってからだぞ、肉まんは」

 りんの方も見ずに、そう言葉を続ける。その間もその大きな手は、見事な太さの大根を丸々1本、器用に桂剥きで皮を剥き終わると厚めの輪切りにし、今度は鶏肉を一羽分をぶつぶつと骨がついたままぶつ切りにして、それを厚手の中華鍋で皮目に美味しそうな焦げ色がつくまで強火でさっと炒める。

「あのね、お父さん……」

 忙しげに、またダイナミックに続けられる料理の手際を見ながら、りんは小さく言葉を続けた。

「……この子、ウチで飼っちゃダメかなぁ?」

 りんの細い腕の中に隠れるように、ちんまりと身を縮めていた子犬が恐る恐る頭を半分、りんの腕から覗かせた。どうした事か、先ほどまでりんの腕の中で甘えていた子犬が小さく震えている。

「大丈夫だよ。お父さん、優しいから。きっと、良いって言ってくれるからね」

 それは子犬に言い聞かせると言うより、重ねての闘牙への哀願。

「ん〜?」

 焦げ目を付けた鶏肉と、先ほど輪切りにした大根を圧力鍋に放り込み、大量の羅臼昆布としいたけとあご(飛魚)で出した贅沢な出汁を材料が被るくらいに入れて、蓋をし強火にかける。そこまで下準備を終えてから、改めてりんの方へと向き直った。

「……また、いつものようにいつの間にかいなくなって、お前が寂しい思いをするんじゃないのか?」

 そう言いながら、光の加減で金色に見える眸をりんの腕の中の子犬に向けた。幼いりんですら判るほど、腕の中の子犬が緊張して体を硬くしているのが感じられる。

「悪い事は言わん。この家は動物の居つかん家だ。他に貰ってくれるような家を探してやる」

 闘牙の視線と子犬の視線が絡む。子犬は体を硬くし震えながらも、その視線を反らさずに受け止めていた。そして、りんに助けを求めるようにりんの顔をじっと見詰める。
「……違うよ、この子は。りんには犬の言葉はわかんないけど、でも判るんだ! この子、ここに居たいんだよ!?」

物分りの良いりんにしては、珍しく粘っている。その様が……

( ふむ。自分が拾って来たものだから、最後まで面倒を見てやりたいと思うのはあいつと一緒だな )

 胸の中で一人ごちる。りんは優しいから、確かに今までも何度も捨て犬や捨て猫を拾ってきた事がある。いつでも、ちゃんと拾ってきた責任を果たそうとりんはするのだが、先に言ったように『何故か』動物の居かない家なのである。
 その理由も、闘牙には判っている。判っていても、りんの性格を考えると気の済むようにしてやるのが常なのだが、今回ばかりは少々事情が違う。

 そう、りんすらも根拠は定かではなくてもこの腕の中の子犬が『違う』という事を感じているのだ。

( ……厄介な事に成らねば良いが。颯生が調べている事と関係があるかどうかは判らぬがな )

 ふっと自分の考えに気を取られ、八年前の『あの時』の事を思い起こす。そんな闘牙の意識をこちらに引き戻したのは、自分を見つめる真剣な四つの瞳。その真剣さに……

「……判った。飼ってもいいぞ、りん」
「ありがとう! お父さん!!」

ほぅ、とりんの体から緊張感が解けてゆく。


 ――― しかし、りんの腕の中の子犬はますますその体を硬くするばかりだった。


     * * * * * * * * * * * * * *


 神代教授と判れてから弥勒は、犯罪心理学のレポート作成の為の資料を探しに、普段は学生があまり足を運ばない大学の敷地内に設置された資料倉庫の前に立っていた。大学の図書館にもかなりの量の資料はあるし、また頼めば(…外面の良い弥勒は老若男女を問わず、受けは良かった)自前の資料を貸し出してくれる教授もいないことはない。親の職業柄、関心を持った講義である。場合によれば、警察資料を目にする機会も稀にだがある。

 しかし、それらの資料を調べるほどに、自分の知りたい事はもっと遡らないと見つからないような気がするのだ。

「おや? 誰か先客がいるのか……?」

 最近の学生の調べ物はネット検索が主で、わざわざかび臭い紙の資料を紐解く者はめっきり減っている。しかし、存外『探しもの』などはそう言う資料の片隅の、なんでもないところにさり気なく潜んでいる事が良くある事を弥勒は知っている。
 そのたった一行の事実に出会う為に、百冊以上の資料を繰る事もあるのだ。

 少し日が傾きだしたのか、黄色味を帯びた照明の部屋の中にオレンジ色がかった外光が薄汚れた窓ガラス越しに差し込む。
 その窓を背に受け、両脇にはうず高く積み上げられた古資料の山。古新聞の類もかなり散乱している。逆光なので先客の顔を見えなかったが、弥勒にはそこに居る者が誰なの一目で判っていた。

 逆光で黒く塗りつぶされた輪郭の縁を、部屋の照明の薄黄色にも外光のオレンジ色にも染まらぬ白銀がそれらの光を弾いていた。


【3に続く】

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