【 白銀の犬 1 】




 ――― 当たり前の日常がある日、突然奪われる。
 そんな時、残された家族はどう対処するのだろうか…?


     * * * * * * * * * * * * * * *


「お兄ちゃん! 剣お兄ちゃんっっ!! 早く起きて! 遅刻しちゃうよ!!」

 寝起きの悪い次兄である剣也を、小柄なりんはどうにかして起こそうと必死だった。まだ小さくて、亡くなった母・十六夜の代わりに家事一般を切り回す事の出来ないりんは、せめてこの兄を遅刻させないよう毎朝起こす事を自分の仕事と決めていた。
 階下では、父・闘牙がその柄からは想像もつかないくらい器用に朝食の準備を整えている。亡き妻の愛用していたバラ色のエプロンを恥ずかしげも無く着用する体格の良い壮年の男の姿は、一目で見た者を固まらせるだけの威力を持つ。その傍らではコーヒーをブラックで飲みながら、朝刊に目を通している長兄の颯生。親と子の立場が逆転したような構図だが、それももう見慣れた光景。

「りーん、そんな寝坊助は放っておけ! お前まで遅刻するぞ!!」

 なかなか下りてこない二人に焦れて、天井まで揺るがすような大音声で闘牙はりんを呼んだ。

「ん〜、でも剣兄ちゃんが遅刻しちゃうもん!!」

 二階から返ってくる可愛い返事。その返事を聞き、手にしていた新聞をクルクルと丸めると、音も無く長兄の颯生が立ち上がった。見てくれはとても良く似た親子だが、その性格は静と動。ラテン系のノリさえ感じさせる闘牙に対し、颯生の方は北欧の貴族のような雰囲気を漂わせる。光のような銀髪に、加減によっては金色にも見える色素の薄い眸。端麗なまでに整ったその容姿。

「おっ、行ってくれるか。颯(さつ)」

 そう闘牙が駆けた声も無視して、颯生は二階へ上がっていった。

「ほんっとうに、もう!! いい加減起きてよ! 剣兄ちゃんっっ!!!」

 しぶとくもまだベッドに張り付いている剣也の背中に、顔を真っ赤にしたりんが馬乗り状態で起こそうと頑張っている。そこへ ―――

「……どいてろ、りん」

 気配も無く、颯生がりんの背後に立っている。見ようによっては微笑ましい兄妹のじゃれ合いを、剣呑な光を帯びた眸に映して。

「颯兄様……」

 はっと我に返り慌ててりんは剣也の背から下りると、乱れたスカートの裾を直した。すぅぅ、と気が収縮している。次の瞬間、颯生は手にした丸めた新聞紙を木刀のように剣也の眉間目掛けて振り下ろした。剣圧に前髪がパラリと落ち、皮膚が裂ける。

「だっっ〜!! 物騒な起こし方するな! 颯生!!」

 額からタラ〜リと冷や汗・脂汗と一緒に赤いものが一筋。枕を持って壁際まで非難した剣也の心臓はバコバコ言っている。

「……りんの手を焼かせるな」

 丸めた新聞紙を剣也の鼻先に突き付け、一言言い捨てる颯生。
 そうこれが、この犬神家の朝の通常儀礼だった。

「颯兄様…、あの……」
「お前もさっとと支度しろ。こんなバカに構ってお前まで遅刻していては話にならん」

 りんの目の前、階段をとんとんとんと下りてゆく。
 そんな颯生の後ろ姿を、りんはどきどきする胸を押さえながら見ていた。

 愛妻家の闘牙はその愛の深さ故か、今までに妻を二人も亡くしている。一人は颯生の母で、もう一人は剣也の母の十六夜。そう、この二人は異母兄弟であった。父・闘牙は颯生・剣也・りんの三人に分け隔てない愛情を注いでいたが、既に親の手を離れてしまった大学生の颯生、離れつつある中学三年生の剣也に比べれば、まだ小学二年生のりんに大半の愛情が向うのは致し方ない。
 りんは母の十六夜が、剣也を「剣也」と呼び捨てにしていたのに対し、颯生には「颯生さん」と呼んでいたのが影響したのか、剣也は兄ちゃん呼ばわりでも、颯生には「兄様」呼称であった。それでどことなく区別されているような感を家族以外に与えるかもしれない。幼い子がいれば、母のいない寂しさもないとは言えない。だけどそれを補うように母はなくとも、残された家族皆が深い愛情で結ばれていた。

 そう、あんな事件に巻き込まれるまでは。



     * * * * * * * * * * * * * * *



 ――― 女が人気の無い木立を走っていた。

 年の頃は二十歳前後か。気の強そうな、かなりの美形と言えよう。その女が焦りの色も濃く、足をもつらせながら必死で走っていた。疲れからか足の速さが落ちかけると、自分に言い聞かせるように言葉を吐き出す。

「はぁはぁ、ああそうさ! もう、あんな奴の言いなりなんかになるもんかっ!!」

 女の背後から、複数の足音がする。
 話し声一つ立てず、蛇のように執拗に追ってくる。
 時折、しゅっと言う風を切るような音がするが、それは追っ手がその女に向けて発砲するサイレンサーで消された銃声。

 女と追っ手との間で、草むらを駈ける小さな足音。
 茶色の丸いものが、女の後を追っている。

 また一つ。
 女の耳に押し殺された銃声が響き、それと同時に女は自分の右足に焼けるような痛みを感じ、倒れ伏した。茶色のものが女の側に駆け寄り、草むらの上に投げ出された女の手を舐めた。濡れた黒い鼻を押し付け、く〜ん、く〜んと女を促す。

「……ごめんねぇ、あたしはもう走れないよ。だから、あんただけでもお逃げ!! ここで捕まったらあんた、今までよりももっと酷い目に合わされるよっっ!!」

 それでもそれは、どうにかして女を立たせようと女の手を銜え、小さな体で一生懸命に引っ張る。その手を女は外しそれの小さな頭に置き、栗鼠のような深い茶色の瞳を覗き込みながら唯一の希望を託す。

「あんた、そんな姿でもあたしの言う事は判るよね? なら、これをあんたが間違いないと信じた人間に渡して欲しいんだ。これがあいつ等の手に渡ったら、とんでもない事になる!! あたしやあんただけじゃなく!」
「この中のICチップにあいつらの陰謀は全部入っている。その証拠も。だから、あんたはここから無事に逃げて、あたしを助けに来ておくれ」

 女はそう言うと首にかけていたペンダントを外し、目の前の仔犬に首輪のように鎖を幾重にも巻いてつけてやる。

「あんたがそれを持って逃げている間は、あたしは捕まっていても大丈夫。酷い目に会わされるだろうけど、殺されやしない。そんな事をすればパスワードが解けなくて、システムが使い物にならなくなるからね」

 強がり半分、その仔犬を安心させる為も半分。もともと気の優しい性格だった。まだ、その場を立ち去りがたそうにしている。

「いいから行くんだ!! コハクっ! あんただけが希望の綱なんだから!!」

 激しい語調で、コハクを追い立てる。その背後には、もう間近まで追っ手の足音が聞こえていた。逡巡を振り切るように、コハクは走り出した。どこへとも行く目標も定かではないままに。


 …… この事はまだ、誰も知らない出来事であった。


   * * * * * * * * * * * * * * *


「りんちゃ〜ん、剣也〜、学校、行こう!!」

 朝の一騒動が落ち着いた頃、剣也のガールフレンドの日暮かごめが二人を迎えに来た。りんの通う小学校は剣也とかごめの通う中学校の通学路沿いにあり、昨今の小学生を巻き込む事件の多さに登校の時は剣也達と一緒に行くのがいつの間にか約束になっていた。

「おぅ、ちょっと待ってろ、かごめ」

 朝食のパンだけをかじりながら、片手で制服のボタンを留めつつ、学生カバンと部活で使う剣道の胴着の入った袋を引っ掴む。

「……あんた、またお兄さんに叩き起こされたんでしょ?」

くすくす笑いながらかごめが不揃いな前髪と、心配したりんがおでこに貼った絆創膏とを指差す。そう、文字通り『叩き起こされた』訳だ。
 剣也の剣道の腕前は辺りの中学生ではもう敵う者はいないくらいの腕前だが、そのもっと上に剣也の兄、颯生がいる。その剣筋は天性のもので、習った訳ではないが既に免許皆伝、いや門外不出の各派の『奥義』まで体得していそうな才能を秘めていた。

「ふん! いつかきっと、あの高慢ちきな鼻っ柱をへし折ってやる!!」
「……剣兄ちゃん、兄様とケンカしないで。お兄ちゃん達がケンカすると、りん 悲しいもん」
「そうよ、剣也。こんなに可愛い妹泣かせちゃ、いけないでしょ? ほら、それにまたそんな事言ってるから、お兄さん睨んでいるわよ」

 確かにかごめの言葉通り、突き刺さるような視線が剣也を射抜いていた。
 その視線に含まれる意味を、当の颯生もまた周りの誰もまだ気付いてはいなかったが。

「まったく、あんた達ってまるで正反対な兄弟ね。性格も、見た目も」
「へっ、あいつは親父似で、俺はおふくろ似なんだよ!」
「でも、お母さんはいつも優しくて、落ち着いていて、暖かくて…。剣兄ちゃんとはちょっと違う気がする」
「りんちゃんもお母さん似ね。お兄さんだけでしょ? お父さんの銀髪を受け継いだのって」
「ああ、あいつとは腹違いだからな。あいつを産んだ母親っていうのも銀髪だったらしいから」

 何気ない家族についての会話。
 今のように、国境や人種の別などがボーダーレスな時代なら、家族の中に色んな血が混じった者が一緒に暮らしていても、何の不思議も無い。

 でも……。

( りんの気のせいかな? かごめお姉ちゃんは、お兄ちゃん達が似ていないって言ったけど、やっぱり似ているんだよね。ううん、本当に似てないのは…… )

 時々訳も無く、りんの小さな胸に兆す不安。

「おい! りん、何をぼんやりしてんだ? 小学校、通り過ぎるぞ」

 剣也の声にはっと我に返り、その思いを振り払うようにりんは元気良く校舎に向かって駈けて行った。

 朝の慌しさが一段落し、明るさの中に奇妙な静寂が訪れる。

「さて、と。今日は俺も現場に入らないとな」

 朝食のテーブルを片付けながら、闘牙は今日の予定を考えていた。朝はコーヒーだけで済ませる颯生が、自分の飲んだカップをそのままに椅子を立つ。

「こら! 颯生。ちゃんと自分の使ったものは、自分で下げろ。死んだ十六夜がいつも言ってたろう」

 ちろりと闘牙の顔を見、何も言わずカップを下げる。

「……言われた事は無い」
「颯生……」

 死んだ剣也の母・十六夜は確かに剣也やりんにはあれこれ色々言っていたが、闘牙の連れ子である颯生には遠慮があったのか、あまり口を出す事は無かった。
 もともとが無口で、人と交わる事をしようとしない颯生には、家族の中にあってもどこか孤高の影が差していた。

「暮らし難いか、颯生」
「………………」

 父の問いかけに答える事も無く、その場を後にする。
 闘牙は何も言わず、その後姿を見送った。
 完璧な存在があるとしたら、颯生のような者を言うのかも知れない。整った容姿だけではなく、頭脳明晰見かけから計り知れないほどの身体能力。五感も鋭い。

 そう、人間とは思えないほどに。

 剣也の母と一緒になってから、颯生も街で暮らすようになったがそれまでは二人とも山暮らしをしていた。そんな幼少期を過ごしたせいか、どうにも群れを嫌う性格を持っている。これは伝来のものでもあるが、特に颯生には顕著な感じだ。
 ふっと微かに溜息を付き、闘牙はダイニングの隣にある和室に向った。そこは仏間を兼ねており、床の間の横に設えられた仏壇に灯りを点す。線香を手向け手を合わす。香華の煙の向こうに若くして亡くなった笑顔の十六夜。颯生が十五歳、剣也は十歳、りんは三歳か。

「……なぁ、十六夜。俺はお前と出会えて幸せだった。剣也やりんと言う家族にも恵まれた。だが、颯生に取ってはどうだったんだろうな」

 ちーん、と御鈴を鳴らし闘牙も立ち上がる。
 仏間の隣の部屋に入り、朝食の支度のために着けていたピンクのエプロンを外す。地下足袋を履き、刺し子半纏の名入の大工装束に着替える。
 たいした手入れもしないのに、艶やかな光を反射させる銀髪を頭頂近くで一つに結わえた頭に、家紋を染め抜いた手拭いを締め気合を入れる。
 先代から譲り受けた宮大工の道具箱を神棚から柏手を打って、取り出す。

 今の闘牙は由緒正しい宮大工・犬神の押しも押されもせぬ二代目だ。

 もともと犬神の家は、十六夜の実家。先代には一人娘の十六夜しかなく十六夜の身の振り方一つでこの犬神の家は無くなるかも知れなかった。先代は何よりも一人娘の幸せを考えた人で、十六夜が選んだ者がこの稼業を継げない者なら、この家を畳んでも娘を外に出してやろうと考えるような先代だった。

 闘牙と十六夜の出会いも、運命と言えば運命かも知れない。

 まだ大学生だった十六夜が、友人達と冬山にスキーに来たのがきっかけ。仲間達と滑っているうちに、まだ初心者で山に不案内な十六夜が崖から落ちて大怪我をしたのを助けたのが闘牙親子だった。その頃すでに颯生の母親はもう他界しており、父子で山奥に篭るような生活をしていた。
 十六夜を助けたのは良かったが、その後山の天気が悪化し閉じ込められてしまったのと、頭を強く打った十六夜が軽い記憶障害を起こし親元に戻しようがなかったという事情も重なってしまった。なにしろその頃の闘牙親子の暮らしは、世捨て人か仙人か、または武芸者の山篭りのような様。

 ……つまり、文明の利器などとは無縁な生活。連絡の取り様もなかったのだ。

 一ヵ月後、どうにか十六夜が記憶を取り戻し山を闘牙の背に負われて下りて来た時の、先代の喜びは言い表しようもない。冬山で遭難して一ヶ月。諦めきれなくとも、もう娘はこの世の者ではなくなっているだろうと、どこか覚悟していた親の目の前に、多少山暮らしで薄汚くなってはいたが十分元気な十六夜と再会出来たのだ。

 そんな娘の命の恩人を、軽んじるような先代ではなかった。
 見た目は不審な違法残留外国人風な親子だが、人を見る目は確か。犯罪者には見えず、勿論違法残留外国人にありがちな影に隠れるような暗さも無い。何よりも、宮大工の棟梁・名人と謳われ、人も事柄も色々見てきた十六夜の父親が一目見て、闘牙の男っぷりに惚れたのだ。

 山に戻ろうとした闘牙親子に、礼をしたいからと逗留を進めたのは他ならぬ十六夜の父親。その先代の言葉を受けて暫く逗留する事にした闘牙が、またその礼にと先代の仕事を手伝ったのが、今の二代目に繋がる。

「よいしょっ…と。さて、仕事に行くか。お前とお前の親父さんに託されたこの犬神の家。ちゃんと守ってやるからな」

 広く逞しい肩に、年季の入った分厚い楠の正目板で作られた道具箱を抱え上げる。
 十六夜が背負われた頃とちっとも変わらない、その背中。

 今、その背には誰が乗っているのだろうか?
 一つずつ荷物を降ろし、今 残っている者は……

 闘牙が手向けた線香の煙が薄く立ち上り、微かに揺らめく。その動きにそうように、仏壇に供えられた十六夜の写真が、ふんわりと微笑んだような気がした。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 ――― りんが感じた、自分と他の家族の違和感。幼いりんはそれを『似てない』と言う言葉で感じ取っていた。

 同じ両親から生まれたはずなのに、剣也とりんを比べてもやっぱり違う所の方が多いと思ってしまう。それが父親しか一緒じゃない颯生となると、もうまるで赤の他人のようで。そんな風に思ってしまうから、颯生の前では必要以上に上がってしまう自分がいる。

「はぁぁぁ〜、やっぱり似てないよねぇ〜」

 女の子らしく小さな手鏡を、学校の休み時間に取り出しては眺め、ため息をつく。

「ん? どうしたん、りん。ため息なんかついたりして」
「あっ、ううん。なんでもないよ、紫織」

 クラスメイトに声を掛けられ、慌てて手鏡を机にしまうりん。声を掛けてきた紫織もハーフな為か、りんの「似てないよねぇ〜」の内容が判る様な気がする。

「りん、あんたもしかして兄ちゃん達と自分を比べてたんと違う?」

 そういいながらりんの顔を覗き込む紫織の、やはり銀色の髪に目を引かれる。

「うん……」
「やっぱ、そうなんや」
「うん、あのね紫織。ウチではねお父さんと兄様が良く似ててね、皆はね、あたしとお母さんが似てるって言うけど、あたしよりも剣兄ちゃんとお母さんの方がやっぱり似てるような気がするの。剣兄ちゃんはお父さんとも何処か似てるし…。でもあたしはお父さんとはちっとも似てないの」
「仕方ないんと違う? りんは女の子やし、お父さんも兄ちゃん達も男やし。やっぱり違って見えると思う」

 そう、大抵はそう言う答えが返ってくる。
 でも、どうしてもこのもやもやがずっと胸から離れない。

 子どもの頃にありがちな妄想かもしれないとも思う。自分はこの家の子じゃないんじゃないかと言う、あの妄想。そう考えるとぶるっと身震いするほど怖くなり、他の家族との共通点を一生懸命に探すのだ。そんな不安を抱えて家に帰っても、今日は誰もいない。こんな時ほど、お母さんが居ないのが寂しくなる。

「そうだ、かごめお姉ちゃんちの神社に遊びに行こう! かごめお姉ちゃんのお母さんとりんのお母さんは仲良しだったんだもんね」

 りんはランドセルから学校の宿題を取り出すとそれをレッスンバックに入れ、玄関に鍵を掛けると町外れの里山近くにある日暮神社へと走り出した。
 日暮神社は小さいなりにも由緒正しい古い神社である。小じんまりとした境内はいつも綺麗に清められていて、この神社を守る者の人柄を表すのか優しく暖かで明るい。りんはこの場所が大好きだった。

「あら、りんちゃんこんにちは。今日はどうしたの?」

 時間があると箒を片手に境内を掃き清めているかごめの母が、石段を登ってくるりんに優しく声をかけた。

「うん、お家に誰も居ないから、寂しくて。ここで宿題させてもらっていいかなぁ、て」
「そうね。今は物騒な世の中だものね。留守番している子が事件に巻き込まれる話が多いから…、ええどうぞ」

 時々こうしてりんがここを訪ねて来る事があるので、かごめの母も否はない。五年前に交通事故で亡くなった十六夜とは中学生の頃からの大親友。その親友の子ども達であれば、ここはその子たちの家も同然。

 りんを家にあげ、居間兼食堂でもあるコタツのある部屋に通す。そこでりんは宿題を広げ、勉強を始めた。小学二年生の宿題など、そんなに時間のかかる物でもない。かごめの弟の草太は今日はスポーツクラブの日なので、遊び相手もいない。退屈さが口を滑らせたのか、それともこの胸のもやもやを誰かに聞いて欲しかったのか。十六夜の少女時代を知っているかごめの母なら、何か教えてくれるかも知れないと言う気持ちもまた……。

「あのね、おばちゃん。りんってお母さんと似てる?」

 そう聞かれて、かごめの母はちょっと戸惑った。何と言えばいいのか……、どちらかと言えばそう似てないのだ、りんと十六夜は。十六夜の髪は今時珍しいくらいの『烏の濡れ羽色』の超直毛。瞳も程よい大きさの潤んだような魅惑的な瞳をしていた。それに比べりんの髪は黒いのは黒くてもくせっ毛で、瞳は大きめの少し釣り目がちでハキハキとした感じ。

 ――― わずか三歳で母親を失くしたりんが、母を恋しがっての事なら『似てない』とは言ってはならないだろう。

「りんちゃんの髪はお母さんの色とお父さんのくせっ毛が少し強く出てるのね。剣ちゃんの髪の色はお母さんより色が薄いわ。瞳の色もそうね、りんちゃんはお母さん譲り。少し釣り目なのは、上のお兄さんに似てるかしら」
「兄様に?」

 りんをがっかりさせないようにと、言葉を選んで言ったその事がりんには効果的だったようだ。颯生に似てる、とその一言でりんの顔はぱっと輝いた。

「でもりん、兄様みたいに綺麗じゃないよ」
「まぁ、颯生君はちょっと人間離れしてるものね。雰囲気的にはりんちゃんは剣ちゃんに似てると思うわ」
「え〜、やだぁ、りん。剣兄ちゃんに似てるの!」

 すっかりここに来た時の不安は掻き消えたようだ。気が付けば、日暮れの早い冬の太陽は西に傾き、夕暮れが迫っていた。

「あら、もうこんな時間? 暗くなってからりんちゃんを一人で帰す訳にはいかないから、ちょっと待っててね。かごめに連絡して剣ちゃんに迎えに来てもらうようにするから」
「剣兄ちゃんに〜」

 そう言ったりんの口調にくすっと笑みを零し、かごめの母はこう聞いた

「それじゃ、お家に電話して颯生君に迎えに来てもらう? もう大学から帰って来てるかも知れないし」

 ぱっと、りんの顔が赤くなる。どうしてかりんはとても颯生の事を意識しているような……。

( まぁ、仕方が無いわね。あんなに素敵なお兄さんなら意識しない女の子はいないでしょう )

 りん自身も可愛い女の子なので、年頃になれば周りの男の子がほっとかないだろう。だけど、このままでは強度のブラコンに育ちそう。

( 颯生君相手じゃ分が悪いけど、頑張れ! りんちゃんの周りの男の子!! )

 かごめの母は、まだまだ将来(さき)を勝手に想像して楽しんでいた。
 携帯で連絡を受けたかごめが部活の終った剣也を引っ張って帰って来る。

「ただいまー、ママ! りんちゃん、まだ居る?」
「ええ、剣ちゃんが迎えに来るのを待ってたわよ」

 圧倒的に自分達のペースで物事を運ぶ女性陣に押しまくられて、憮然としている剣也。外はいよいよ暗く、寒さも増してきた。

「おらっ! さっさと帰るぞ、りん!! 日が暮れてからお前を外に出すと、親父と颯生がうるせーからな」
「剣兄ちゃん、乱暴。だからイヤなんだ、りん」
「おい、りん!」

 似たようなレベルで言い合う兄妹を微笑ましげに見詰めるかごめ母子。
 一歩、かごめの家の玄関を出た途端、りんが耳を押さえて座り込んだ。

「どうしたの、りんちゃん!!」

 慌てて覗き込むかごめに、剣也が何事でもないようにこう言った。

「ああ、あいつらのせいさ」

 そう言った剣也の視線は、もうすっかり暗くなってしまった境内の空をひらひらと舞う黒い小さなものに向けられている。

「あいつらって、あれ、蝙蝠(こうもり)?」
「親父譲りの特異体質でさ、俺達あの音が聞こえるんだよ」
「あの音って…、蝙蝠が出す超音波の事?」
「俺等は大分マシなんだけど、りんには頭の中でシンバルを叩いているくらいに響くらしいんだ。だから夕方は外に出るなって、親父からも言われてる」

 そう言いながら剣也は学生服のポケットから何か取り出した。銀色の鎖の付いた、小さめの銀色のホイッスル。かごめの目の前で剣也が吹いて見せたが、かごめの耳には何も聞こえない。が、空を舞っていた蝙蝠たちはびくっとしたように大きく羽ばたくと、あっちこっち仲間同士ぶつかりそうになりながら、境内の上空から去っていった。

「あ〜、ビックリした。おっきな音なんだもん。あっ、それ、お母さんの…」

 耳を押さえてしゃがみこんでいたりんが立ち上がり、大きく息をつく。

「りんちゃん、見かけや何だよりもずっと良く似てるじゃない。良かったわね」

 かごめの母が言う。

「おふくろの形見だから俺が持ってたけど、りん、これからはお前が持ってろ」
「いいの? 剣兄ちゃん……」

 遠慮がちなりんの首に、それをかけてやる剣也。

「その笛、なに?」
「ゴールトン・ホイッスル…、『犬笛』って奴。俺達がまだ小さい頃、おふくろが遠くまで遊びに出かけた俺達を呼ぶ時に使っていたんだ」

 そう言った剣也の顔が少し赤い。確かにそれではまるで、猟犬のようなものだから。

「そっか、犬笛ね。犬神さん家の家族にはなんだかぴったりのアイテムね。家族の絆が見えるみたい」

 かごめは銀のホイッスルをペンダントのように首からかけたりんの頭を撫でながら、笑顔でそう言った。
 暗くなってしまった景色の中に、剣也とりんの後姿が溶け込んでゆく。お互い恥ずかしいのか、手を繋ぐ事はないけど直ぐ側に寄り添って。

「……りんちゃんは良い家族に恵まれたわね」
「ふふ、あいつ照れ屋だもん。妹でも女の子と手を繋ぐなんて出来ないのね」
「あらあら、流石は幼馴染ね。良く判っていること」

 娘を茶化すような、楽しむようなかごめの母の言葉。

「小学生の頃、良く友達とケンカしてここに来てた頃も知ってるしね」
「ああ、あの頃ね。十六夜が亡くなって気持ちが不安定になっていた所に颯生君がらみ、ハーフと言う事もあって虐めにあっていた時の事」
「うん、私は小学校が違っていたから詳しくは知らなかったんだけどね。かなり酷かったみたい。中学で一緒になったそっちの小学校卒の子が言ってたもの」
「それでも頑張ったんだよね、剣ちゃんは」

 日暮神社の石段を下りてしまい、もう二人の姿は見えなくなっていた。

「……凄い偶然だけど、それはりんちゃんにとって救いだったわね」
「なに? ママ」
「ううん、何でもないの」

 ふっと、謎のような笑みを浮かべてかごめの母は家の中に戻って行った。


  * * * * * * * * * * * * * * *


 次の日から、りんの胸元にはあの銀のホイッスルが煌いている。まるでお守りのように。りんはこの笛の音が好きだった。他の家族の耳にはどう聞こえていたか判らないけど、りんには澄んだ優しい声で「早く帰っておいで。ここにおいで」とそんな感じに聞こえていた。
 いや、勝手にそんなイメージを頭に抱いているだけで、本当はもうどうだったかりんには判らない。この笛の音を聞いたのは、母・十六夜が亡くなる五年も前の事。その頃、三歳くらいだったりんには、母の胸の中が一番だったのだから。

( この前、剣兄ちゃんが吹いた時は違う音に聞こえたな。お母さんの吹く笛の音より元気な感じだったけど、吹く人が変わると音も変わるのかな? )

「ねぇ、りん。それって、笛?」

 いつも帰りが途中まで一緒の紫織が、不思議そうな顔をしてりんの胸元を覗き込む。りんの通う小学校と家までの間には、古くからの住宅街を通る所がある。閑静な住宅街、少し入り込むと日暮神社の鎮守の森につながる里山裏手に出る。小学校の学区割りはこの里山で区切られていた。

 古い屋敷が区画整理で立ち退かされて、整地されたまま雑草の茂っている空き地もある。こういう場所があるから、朝の登校は次兄の剣也と一緒なのだ。本当は帰りもそうさせたい闘牙だが、それは無理。紫織も次の角までで、りんの家はこの住宅街の中でもまた古い屋敷の一つ。屋敷の裏手にはもう里山が控えている。

「そうだよ。犬笛って言うんだ」
「どんな音? ちょっと吹いてみて」

 興味津々な紫織の紫の瞳。その紫織の雰囲気にりんも乗せられた。そう言えば、家族以外の者でこの笛の音が聞こえた者はいなかった。

( 剣兄ちゃんは、お父さん譲りって言ってたっけ。お母さんも聞こえない人だって… )

 りんの胸に、本当にそうなのかな? と小さな疑問が生まれた。本当はもっと沢山の人が聞こえるんじゃないかな? と。でも…、そうしたら、『家族だから』って理由にはならなくなるのかも……

「りん、だめ?」
「ううん、いいよ。いいけど、聞こえないかもしれないよ?」
「それはかまわんよ」

 紫織に促され、りんはそっと犬笛に唇を寄せた。
 りんを呼んだ、母・十六夜の優しい音を思い浮かべながら。


 ――― 帰っておいで。帰っておいで。ここにいるよ、ここで待っているよ、と。


「どう? 聞こえた」
「う〜ん、微妙〜って感じ。ひゅーひゅーって隙間風みたいな小さな音なら少し聞こえたけど」
「う〜ん、そうなんだ。やっぱり」

 この優しい音を聞かせたい気もしたけど、これを聞けるのはやっぱり自分とお父さんと兄様と剣兄ちゃんと。家族の絆を感じて安心する。

「あれっ? ほら、りん! 本当に犬が来ちゃったよ!!」

 紫織が指差す方向、屋敷跡に出来た草むらから茶色の頭がちょこっと覗いている。まだ、仔犬。栗鼠のような茶色の大きな眸が、りんの顔をじっと見ている。

「呼んだら来るかな? 紫織」
「……来るんじゃないかな、多分」

 りんはもう一度、その仔犬に呼びかけるように優しく笛を吹いた。おいで、おいで、こっちにおいで、と。

 どこかおどおどとしていた仔犬の眸がきらりと光り、思い切ったように草むらから飛び出した。その首には幾重にも巻きつけられた鎖の先に、緑色の石が光っていた。


   * * * * * * * * * * * * * * *


 放課後の教室。

 受験間近な三年生の教室に、この時期遅くまで残っている者はそうは居ない。
まぁ、例外が居ない訳ではないが。そう、いまだ剣道部の練習に顔を出している剣也などは。その剣道の腕前で推薦入学が決まっているから、今更試験勉強もない。しかし、クラスメイトがみな一生懸命に試験勉強に打ち込んでいるのだからこそ、自分もしっかり練習せねばと思う。

 その教室で、暮れなずむ空を見ながら溜息をついている人影。委員会が長引き、ようやく教室に戻ってきたかごめは、そこに親友の珊瑚の姿を見た。

「どうしたの、珊瑚ちゃん」
「ああ、かごめちゃん。う…ん、ちょっと、ね……」

そう言って、無理に微笑もうとしたがその瞳は今にも涙が零れそう。

「……もしかして、弟君の事?」
「うん…、もうどうしていいか、あたし判らなくって……」

 かごめが心を許せる相手だからこそ、見せる姿。普段の珊瑚は、前規律委員長という凛とした気性の、少し堅すぎる所もあるがてきぱきとした性格の少女だ。弱みを見せる事など殆どしない。だけど、この年齢の少女にしてはかなり波乱な過去を持っている。

 幼い頃に列車事故に合いその時両親を失くし、自分は背中に大怪我を弟は頭を強く打って記憶を失くした。その後珊瑚は施設に引き取られ、記憶の戻らない弟はそのまま療養所に入所した。それきり、逢えなくなってしまった弟。最近ようやくその療養所を捜し当て、訪ねてみたのだがそこにはもう、弟の姿はなかった。
 数年前に親戚と名乗る若い男が引き取りに来たのだと、療養所の事務員は言った。

 本来は個人情報に当たるので、教える事の無いその住所を珊瑚はその事務員の前に膝まづいて頭を下げ続けて、ようやく教えてもらった。
 これでたった一人の弟に会える!! もしかしてまだ記憶が完全に戻ってない可能性もあるから、いきなり名乗りあう訳には行かないかも知れない。まずはそっと様子を見るだけでも、とその住所に行ってみて、珊瑚は愕然とした。

 そこは、何も無いただの空き地だったのだ。

 最近空き地になったのかと、近所に聞いて回ってもそこは随分まえから雑草の生い茂る空き地だと言う。明らかに現住所を偽っているわけで、なぜそんな事をしないといけないのか珊瑚にはまるでわからない。ただ何か『普通』じゃない事態に自分のたった一人の弟が巻き込まれているんだと、そんな不安な予感が珊瑚の胸を満たしていた。


 ここでも少しずつ、一つの歯車が回り始めていた ―――


【2に続く】

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