【 奇縁 −くすしきえにし− 6 】




 刀々斉が鉄砕牙を二口の剣に打ち直して闘牙の元に持ってきたのは、それから三月ばかりが過ぎていた。闘牙の存在、十六夜の存在を知りながら、いまだ人間に化けた竜骨精は動きを潜めている。あまりの平穏さと見違えるような十六夜達の暮らしぶりに、朝廷側としても暗黙の内に十六夜達の咎を解いた様な状態になっていた。洛内に戻すことはしないが、今の暮らしぶりを咎めることもしない。
 十六夜の元に通う闘牙の素性を調べようとするとどこかから圧力がかかり、それだけで闘牙と言う者が大物だと察せられ下手に手出しせぬが得策と、こちらもなぁなぁのうちに黙認されていた。

「ほらよ、待たせたな大将。こっちが鉄砕牙、でこっちが鉄砕牙から切り離した分だ」

 いきなり十六夜の屋敷の奥庭に入り込み、庭を眺めていた闘牙の前に無造作に包みを置く。幅広の剛剣作りの鉄砕牙と対照的な細身の長剣である新たに打ち出された剣。闘牙はどちらも持ち比べて、その質の違いを実感する。

「鉄砕牙の方が重たい。これが人の守り刀として、一振りで百の妖怪を倒す剣」
「ああ。大将が鍛えぬいた鉄砕牙だ。その中には技として、風の傷と爆流派、それから鳴動残月破がついている。大将が使えばな、人間の手にある時は技は使えねぇが、結界の力で邪なものから守ってくれる」
「うむ。それで、そのこちらには?」
「あ〜。これか。これは、この世のモノはな〜んにも斬れねぇ刀だ。だけど、こいつの使い手に選ばれれば、一人に付き一度だけなら死んだ命を蘇らせる事ができる。大将の想いを深く刻んだ剣だ」
「そうか。まさしくこの世のものならぬ剣だな」
「ああ。これにはまだ銘がついてねぇ。大将、あんたの想いが篭った剣だ。相応しい銘をつけてやんな」
「銘、か。そうだな、この世に命を繋ぐ剣。生を留める力を持つ…、天生牙」
「てんせいが?」
「うむ。天に生きると牙と書いて、天生牙だ」
「天に生きる、か。それは大将の、殺生丸への想いも込められた銘だな」
「俺の牙から斬れぬ剣など作ったと知れば、あいつが嫌な顔を浮かべるのが目に浮かぶようだ」

 その様は容易に想像できて、闘牙と刀々斉の二人は思惑ありげに笑いあった。
 そこに体調を崩し、床に横になっていた十六夜があいさつに起きてきた。

「お帰りなさいませ、刀々斉様。素晴らしき宝刀でございます。人の手では遠く及ばぬ、刀々斉様だから打つ事が出来る剣ですね」
「人の手の…って、姫様はワシの正体を知ってるのか?」

 刀々斉はさり気無い十六夜の言葉に、十六夜が全てを知っていると感じた。

「はい。闘牙様にお聞きしました。ご自分の大事な牙から打ち出した剣だと。それもわたくし達人間を思っての、慈悲のお心からの事。ただただ感謝するばかりでございます」

 ほんの少し留守にしていただけで、十六夜は見違えるように美しくなっていた。内側から潤うようなしっとりとした上品な優しい色香を漂わせている。そんな十六夜の様子を、目を細めて眺め、その理由に刀々斉は気付く。

「ほぅ。鉄砕牙も二つ身になったが、姫様も今は二つ身か。それはしんどいだろうな」

 刀々斉の言葉に、ぽぅと頬を赤らめる十六夜。十六夜のお腹には、今新しい命が宿っていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 懐妊初期は無理をするなと言い含め、早々に床に付かせる。身重の十六夜の世話は十六夜の母に任せ、『人でない者』二人で、深夜に酒を酌み交わす。十六夜がいた時の穏やかさが掻き消え、どこかぴんと張り詰めた空気が漂っていた。

「……これは、どういうつもりだ? 犬の大将」

 酒を満たした杯越しに、ぎろりと大きな眼で闘牙を睨み付ける刀々斉。

「どういうつもり、とは?」

 そんな睨み付けなど少しも解せず、手酌で杯を重ねる闘牙。

「ワシは大将が十六夜に手を出した事を咎めている訳じゃねぇ。十六夜の気立ての良さや心根の強さなどは、ワシも買っておる。だから大将と十六夜がそ〜んな仲になっても、野暮は言わねぇ」
「ならば、なぜそんな眼で俺を見る?」

 タン、と刀々斉が杯を床に置いた。

「ワシが怒っているのは、十六夜を孕ませた事だっっ!! いいか! 判っているのか、闘牙!! 十六夜の腹の中の仔は、『半妖』だぞ? それが何を意味するか、判らねぇお前でも有るまい」
「……それが、どうした。俺と十六夜の仔だ、どこでも生きてゆける強さを持った仔になる。俺は、そう信じている」
「親の勝手で、生まれた時から重荷を背負わされる、十六夜の腹の中の仔が哀れだ。本来ならお前ほど強力な妖怪との間には、人間如きのひ弱な力では釣り合いが取れぬゆえ仔は出来ぬのが当たり前。お前がその気で孕ませぬ限りはな」

 じりっと膝を詰め、闘牙に意見する刀々斉。
 刀々斉には、良く判っていた。
 『半妖』に生まれついたものは、得てして短命である。その理由の多くは、『望まれぬままに生まれて来る事が多かったから』である。

 それは何故か? 

 年頃の娘が山道などで妖怪と出くわしたとしよう。大抵は餌として食われることが殆どだが、たまに人間に興味が有るような物好きが娘の身体を甚振る事がある。この場合でも、甚振りすぎて死んでしまう事の方が多く、九死に一生を得たとしてその後、その甚振った妖怪の仔を孕んだなどと知った時にはどうにかして仔を流そうとする。出来なくて気が狂ったようになって、折角助かった命を捨ててしまう事だって有る。

 それほどに生まれる前から忌み嫌われる、それが『半妖』。

 よしんば万に一つ億に一つの出会いでもって、人間と妖怪が心を通わせた結果だとしても、周りの人間の眼は変らない。生れ落ちた側から殺される、そんな定めを持った仔等である。そして人間と交わって仔を成す事が出来る妖怪は、相手を殺さない程度の妖力のモノ。妖怪全体から見れば、あまり力の強いモノではないのだ。そうして生まれた半妖は、人間よりは強く妖怪よりは弱くなる。人間の世界で暮らせれば生きてゆけるが、その姿は人間と異なり異形のモノ。角のあるもの、三つ目のもの、異常に丈高く鬼のような体格のものなど、とても人間の社会に受け入れられるようなモノではないのだ。といって、妖怪の世界で暮らせるかと言えば、弱肉強食が摂理の妖怪達には人間の血が混じったひ弱な半妖は餌とみなされる。端な妖力でも、その血肉を食えば自分の妖力の源とする事が出来るからである。

 高貴な力ある妖怪は自分達の純血を穢す事を特に忌み嫌い、力の弱い妖怪とですら交わるのを毛嫌いする。ましてや人間などとは、言語道断狂気の沙汰。もしそのようなものが、自分達の血統に生まれようものならば、同じ血を引く者であっても抹殺される。下等な妖怪の餌になる前に。

「ああ、俺が望み十六夜も望んだからこそ、十六夜は身籠った。それのどこがいけないのだ?」
「……お前は十六夜の腹の中の仔が、殺生丸に引き裂かれるのを判っての事なのか? あいつは、自分の中に流れる妖怪の血に誇りを持っている。その同じ血を、半妖が引くとなれば、まず間違いなく血祭りに上げるだろうな」

 刀々斉の言葉に少し眉を潜めた闘牙だが、それでもきっぱりと言い切った。

「それは仕方が無い。あれはそういう風に生まれついたもの。純血の強大な妖力を持った妖怪として生まれ、生まれながらに全てを手にしている者。だがそれ故に、知らぬモノがある。それを知らねば、いつかあれはその力ゆえに孤独のうちに我が身を滅ぼすだろう」
「闘牙……」
「血を分けた仔等が、互いに殺しあうような修羅を演じるかも知れん。もし、どちらかがどちらかを殺してしまったのなら、それは俺の血が悪かったのだ。そんな血は残しておくべきではない。淘汰されるべきものであろう」
「闘牙、お前は妖怪も『変わるべき時』に来ていると言うのか?」
「ああ。俺の血はより人の側にありたいと、今心からそう思っている。人の世の安寧を守る狛として、それは道を外れたことであろうか?」

 刀々斉のきつい視線が、厳格なまでの闘牙の言葉に緩んでくる。

「なぁ、刀々斉。親と言う生き物は、仔より先に逝かねばならん。ならばその仔らに、何か残してやりたいと俺は思った。それが俺に取っての鉄砕牙であり、天生牙なのだ」
「……どっちの剣をどっちの仔に渡すんだ? 大将」

 詰め寄っていた姿勢を崩し、ついでに酒の入った酒器を何本か自分の方に移動させ、どっかと座り直した刀々斉が直接酒器からぐびぐびぐびっと酒を呷る。

「殺生丸には天生牙を。生まれてくる仔には、鉄砕牙を」

 あの無銘の剣に『天生牙』と名付けた時から、そんな答えが返ってくるだろうと刀々斉は思っていた。

「いいのか? それで。あいつ、以前から力のある剣を欲しがってたみてぇ〜だが。大将に禁じられてたから、あいつにやいやい言われても剣を打つ事はなかったけどよ」
「あいつは自分の中に、闘う為の自分の剣を持っている。他の剣など、他所から助力を請うようなもの。あれには必要ない。むしろ、天生牙こそを使いこなして欲しい」
「天生牙は切れねぇ剣だぜ? あいつが大事にするとも思えねぇが」
「その時はその時だ。俺は、あいつの中の俺の血を信じているがな」

 ぴりぴりとした緊張感が解け、ようやく酒盛りらしい雰囲気になってきた。西国の珍味をつまみに、闘牙も杯を重ねてゆく。

「しかしよぉ、半妖の仔にこの鉄砕牙はちと大物すぎねぇか? なんたって冥道残月破なんて言う、この世のモノとも思えねぇ技まで孕んでやがる。半妖ゆえにその妖力に溺れ、鉄砕牙を振り回したらそれこそ『キチガイに刃物』だぜ?」
「その事だが刀々斉、折角打ち上げたばかりの剣二口だが、今から俺の言うように手を加えてくれないか?」
「はぁ、なんでぇそりゃ?」
「鉄砕牙から冥道残月破を切り離し、天生牙に封印して欲しい。死神鬼から奪った技だが、奪っただけでは死神鬼の技のまま。我等が使うには相応しくない。いつか殺生丸が己の足りない『何か』に気付いた時、使うに相応しい技に育て上げてくれるだろう。そして鉄砕牙には、人間の身を守る結界の力に加えて妖怪の血を封印する力もつけてくれ」
「妖怪の血を? その半妖の仔の妖力を封印するのか?」
「半妖だからこそ、妖怪の血の封印は必要。この場合の妖怪の血とは、人の心を無くした時に発動する力の事だ。それこそ俺の強大な妖力と同じだけの力で暴走する事になる」
「ああ、なるほど。完全な妖怪なら、そんな事にはならねぇからな。よし判った。引き受けた」

 闘牙の想いをしっかりと受け止め、刀々斉は打ち上げたばかりの鉄砕牙と天生牙を布に包むと、また自分の側に置いた。この二口の剣が、それぞれの仔を真っ直ぐ導くように剣に魂を込める。それは古より鍛治翁としてある刀々斉にしか出来ない神技であった。

 翌朝、十六夜が不調な体の具合を押して二人に朝の挨拶をと夜通し飲んでいたであろう座敷に窺ってみると、そこには朝日を浴びて寝ている闘牙の姿だけがあった。

「闘牙様、そんな所で転寝をなさってはお体に障ります。どうぞ、奥に床を延べさせますからあちらでお休みを」
「いや、構わぬ。転寝如きで障る様な、やわな身体はしておらぬ」

 そう言いながら、自分の直ぐ側に座った十六夜の膝を枕にする。

「……良い匂いだな。この膝でなら良い夢が見れそうだ」
「恥ずかしゅうございます。して、刀々斉様はどちらに?」
「一つ仕事を申し付けた。今頃は自分の鍛冶場に戻っておろう」
「まぁ、昨夜仕事を仕上げて戻ってこられたばかりですのに」
「お前の…、いや、その腹の中の仔の為だ。戻ってきたら、十分に労わってやれ」
「はい、闘牙様」

 それは明るい初秋の朝の事。澄み切った青い空を見上げながら二人は、この何でもないような時を享受していた。闘牙の耳に伝わる新しい命の鼓動。それは小さくも逞しい、規則正しい音を刻んでいた。やがて刀々斉も戻り、闘牙の想いを込めた二口の剣は、しばし闘牙の腰に収まる事になる。いずれ仔等に渡すその時まで、一寸暇でもその想いを温もりのように残したい親の心情であった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 十六夜の悪阻も治まり、屋敷に篭ってばかりいてはなにかと気詰まりだろうと、闘牙が初冬の好天を選んで野駈けに十六夜を誘う。朝廷側からの音沙汰は相変わらずないが、武内家への咎もなぁなぁにされている今、実質上の謹慎は解けたも同然であった。ただ、都大路を昼日中大手を振って歩けるものではないのは仕方がないだろう。
 闘牙が十六夜を連れてきたのは、あの林の中だった。竜骨精の毒に焼かれた樹木や草花や大地も、あの時の八幡神の神酒の効力か、元のように命有る様を取り戻していた。

「ここは…、闘牙様」
「俺とお前が始めてであった場所だ。あの時のお前は、まだ本当にあどけない幼い姫君であった。ただし、かなりお転婆であったがな」

 闘牙がますます身の裡の充実で美しくなる妻を、目を細めて優しく見やる。あの時から、どのくらいの時が流れたのだろう? あの時の幼い姫を、我が妻にする日が来ようとはここに瀕死の様で横たわっていた時には思いもしなかった。

「……運命だったのですわ、闘牙様。あの時、天より堕ちる闘牙様をこの目にして、何が何でもここに来なくてはとわたくしは思ったのです」
「十六夜……」

 初めてあった時に見た、十六夜の瞳の中の力強さ。その光を湛えた瞳に愛しさと慕わしさを深め真っ直ぐに闘牙の姿を見つめる。十六夜の言うように、自分と十六夜の出逢いが運命ならば、この十六夜の胎内に宿った命は運命の仔と言う事になるのだろうかと闘牙は思う。この仔はどんな運命を切開いてゆくのだろうかと、どこまで行けるのだろうかと、そんな遥か未来を眩しそうな思いで見透かす。
 がさり、と二人の背後で足音がした。振り返ってみると、今では京中警備の重責を担い滅多に自分の屋敷にも戻って来なくなっていた猛丸の姿があった。

「猛丸……」

 小さく十六夜が呟く。

「十六夜、闘牙殿……」
「久しいな、猛丸」

 猛丸は十六夜の母になろうとしている姿を複雑な表情で一瞬見、そして闘牙に向かいあった。

「ああ。久しぶりに非番になったので子どもの顔を見ようと屋敷に帰ろうと思ったのだが、ふと、あの時の事が思い浮かんでここに足を向けてみたのだ」

 偶然とはいえ考える事は同じなのかと、闘牙の胸にほのぼのと温かいものが滲んでくる。

「まこと十六夜が言うように、我等は運命の糸に導かれているのかも知れんな」

 今ではすっかり大人になった、あの時の幼子たち。
 それぞれの立場は変ってしまっても、この「縁」はこうして続いてゆくのだろう。
 闘牙の言葉に、十六夜がにっこりと笑みを返す。

「なぁ、猛丸。あの時の十六夜はお転婆であったな」

 闘牙の言葉に、猛丸は幼かった十六夜の姿を思い返す。一度言い出したらやり通す芯の強い所や、何よりもあんな大きな犬に、なんの恐れも抱かず拝領物のお神酒をぶっ掛けた十六夜。

「ああ、そうとうお転婆だ。闘牙殿も気をつけた方が良いぞ」
「まぁ、猛丸! それに、闘牙様までっっ!!」

 気の置けない、昔なじみばかりの気安さからか、すっかり大人びておしとやかになっていた十六夜の顔にあの頃の表情が浮かんでいる。

「十六夜。お前は今、幸せか?」

 唐突にそう、猛丸は問いかけた。

「はい、とても。じきにわたくしは闘牙様のお子の母となります。女として、これ以上の幸せがあるでしょうか?」

 眩しい笑顔を向けて、そう猛丸に答える。その笑顔に、ふと闘牙は思う。十六夜には、自分の腹の中の仔が『半妖』である、と言う自覚があるのだろうかと? 愛しく慕う相手の子を産む、ただそれだけと思ってはいないだろうかと微かな不安を感じた。

「この子はとても大事な子です。たとえ、端から見れば不具があろうと、それでもわたくしにとってはわたくしの命に代えても守りたい愛しい子です」

 だが、きっぱりとそう言い切る十六夜の言葉に、闘牙の不安は消えてゆく。十六夜は全てを承知した上で、この新しい命を生み出そうとしているのだ。

「不具などと、そんな縁起でもない事を言うな。大丈夫、お前と闘牙殿との間に生まれる子だ。さぞ立派な者に育つだろう。お前が幸せなら、それが一番だ」

 そうして、猛丸は闘牙に歩み寄る。そして小さな声で、十六夜に聞こえぬよう闘牙に言った。

「……かたじけない、闘牙殿。今となっては俺の手を離れてしまった十六夜だから、十六夜が幸せであれば、もうそれだけで良い」
「ああ。俺も十六夜達のこれからを考え、あの魔物との一件にけりを着けたら、十六夜と生まれた子を伴い西国に下るつもりだ。この子は国元で育てようと思う」
「そうか。それが良いやもしれぬ。都に在れば、朝廷側から咎人のように見られている十六夜達だ。西国にまで下れば、朝廷の眼も気にしなくて済む」

 そんな「これから」を簡単な言葉で二言・三言遣り取りをし、やがて二人は、仲良く郊外の十六夜の屋敷に戻って行った。そんな仲睦まじそうな後姿を一抹の寂しさと安堵感とを感じながら見送り、猛丸も自分の屋敷に戻った。
 誰も居なくなったその場所に、晴れ渡った冬の初めの風が急に冷たく吹き、東の方角から黒い冬の雲が湧き出していた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 猛丸が戻ってみると、屋敷にはいつか十六夜の屋敷の前であった陰陽師が訪ねてきていた。客間に通され、屋敷の主が戻るのを待っている。この陰陽師の訪れは間の悪い訪れで、猛丸の妻である妹宮は生まれた若君とともに宮参りに出かけ留守にしていた。猛丸の父、刹那の大殿は十六夜の父の死後、頭を丸め仏門に入った。今は経を唱え、諸国を行脚している。たまたま急な非番で屋敷に戻る事が出来た猛丸が帰って来なければ、もっと待たされていただろう。

「これは、陰陽師殿。今日はどのようなご用件で参られた」
「本日は猛丸様の奥方でもあらせられる宮様の、兄君の今上帝よりの使いにございます」
「帝からの?」

 使いの陰陽師の言葉に、軽い緊張感を伴いつつすっと姿勢を正す。

「はい。先日お生まれになった宮様のお子に魔除けの呪符をと申されまして」

 そう言いながら、恭しく錦の袱紗に包まれた上和紙で封をされた呪符を取り出した。

「この呪符は、お生まれになったお子の無病息災を願い、健康で利発なお子に育つようにと授けられました」

 猛丸は、陰陽師の言上を聞きながら呪符を手にしようとしたその瞬間、指先に針で突かれた様な痛みを感じ、思わずその手を引いた。

「どうなされました? 猛丸殿」
「いや、今、その呪符が……」

 その様子をじっと見ていた陰陽師が、声を潜めて猛丸に問う。

「……猛丸殿。ここに戻られる前に何かに会いませなんだか?」
「何かとは何だ?」

 陰陽師の眼が、底冷えのするような光を発して猛丸を見据えた。

「そう、その場にそぐわぬ獣のような…。あるいは、人型を取って猛丸殿を誑かしておったやもしれませぬ」
「俺を誑かす?」
「さよう。その何かに会い、猛丸殿に残った邪気妖気の類にこの魔除けの呪符が反応したのだと断じまする」

 沈んだ声で語り続ける陰陽師の声に、猛丸は次第に引き込まれるような感じを覚えた。

「いや、俺は別に怪しいものなどには出くわさなかったぞ」
「本当ですかな? 屋敷に戻るまで、人っ子一人、猫の仔一匹にも会わなかったと?」
「いや、そうは言わぬが……」
「この呪符は、帝が特に妹宮の事を思い、念を凝らした特別魔除けの力が強い呪府。これが反応した以上、何かはあったはず」

 重々しく言葉を選び、少しずつ猛丸の心を自分の思うように扱ってゆく。持参した呪符そのものは、陰陽師に化けた竜骨精が作ったもの。一時的な効果ではあるが、触れる者皆を痺れさすような毒を仕込んでいる。しかし、そんな事など猛丸が知る術はない。妖しい眸の光と、重々しい身体の芯に響くような声に猛丸の心に不安が宿る。

「まさか、あの十六夜が……」

 思わず、その名が口をつく。あんなに幸せそうにしていた十六夜が、実は妖や魔物が化けていたとは考えたくはない。

「十六夜とは、あの屋敷に住む姫の名前。やはり、あの姫には妖が憑いていたのですな」

 そのような事を、この前十六夜の屋敷の前であった時も、この陰陽師は口にしていた。

「俺が先ほどあった十六夜は、その妖が化けていたのだろうか?」
「……否。姫はすでに妖に篭絡され、その妖の思いのままにされている。猛丸殿が会われた姫は、まさしく本人。なんと不幸な事だ」
「そんな、馬鹿な!! 十六夜は俺が幼い頃から知っている、父上達も懇意にしていた者の妻となって幸せに暮らしている。もうじき子も生まれる!」
「ほぅ、そんなにも長い時をかけて、あなた方を欺き誑かし続けていたのですか、あれは」

 ちらりと仄暗い感情がその声の中に揺らめいた気がしたが、それよりも陰陽師の言った言葉の内容の方に猛丸は気を取られた。

「陰陽師殿! あなたは闘牙殿が人間ではないと言われるのかっっ!?」
「さよう。あれは人ではない。先年、この都に禍をもたらした妖怪ですぞ」
「妖怪っっ!?」

 猛丸の動揺を見て取って、竜骨精の化けた陰陽師はここぞとばかりに言葉を続ける。

「竜の魔物がこの都に棲みついているのは、私も存じております。この都に禍をもたらしたその妖怪は、一回目は猛丸殿が幼い頃他国より飛来し、竜の魔物に勝負を挑んだ。結果は返り討ち」
「俺が幼い頃…、返り討ちに……」

 それはまさしく、先ほどのあの場で思い返していた事。
 竜の毒で瀕死の巨犬を助けた。
 では、あの犬が妖怪?

 ……ならば、あの犬の飼い主だと名乗って現れた闘牙は ――――

 はっとして、先ほどのほのぼのとした会話の一つが猛丸の胸に突き刺さる。

( ―― !! どうして、あの場に居なかった闘牙殿があの時の十六夜の振る舞いを知っている!? 間違いなく、闘牙殿は『あの時』と言った…… )

 幼い時に自分が抱いていた闘牙への警戒心の正体を、今理解した。
 そうそれは、人でないものへの警戒心。

「そして事もあろうに、先の魔物征伐の折にも人間に混じって参戦し、姑息にも人間の力を利用して再び勝負を仕掛けた。しかし、それも失敗に終わり、あの二年前の惨事に繋がった」

 あの時、どうして闘牙が無傷で戻って来れたかが判った。
 何故、闘牙がああまでも魔物退治に執念を燃やしているか、その理由も。

「おぞましい事ですな。人でないモノの妻となり、そのモノの仔を胎内に宿すなどとは。人としてはあってはならぬ事ですぞ? 畜生と交わるよりも、もっとおぞましい!!」

 先ほど見た幸せそうな二人の姿が、どす黒い憎悪の炎の中で燃え灰になってゆく。

「……俺は、どうすれば……」

 呆けた様に動けぬ猛丸の側に張り付くように竜骨精は摺り寄り、更に言葉の毒を猛丸の心に流してゆく。

「姫は人間でありながら妖怪との色欲に身を任せ、自ら悪鬼のようなものと成り果てた。このままでは本当に姫は醜悪でおぞましいモノとなってしまうであろう」
「………………………」
「―――― 退治ることですな、猛丸殿。姫はあの妖怪に誑かされております。まずはその正体を姫の前で暴き、腹の中の汚らしい妖怪の赤子を始末させる。その後に、姫共々あの妖怪を討てば良かろう」
「だが、陰陽師殿。十六夜は闘牙をあれほどに慕い愛している。あれに、そんな事が出来ようか?」

 ふっと、なんとも言えない蔑笑のようなものをその顔に浮かべせ、竜骨精は言い放つ。

「あの姫は、なかなか気骨のあるご性分と聞き及びまする。なればこそ、自分を騙し偽り、我が身を陵辱したばかりか、妖怪の仔など孕まされたと知れば、自ら刃を向けることくらいなさるのでは?」
「陰陽師殿……」

 確かに曲がった事が嫌いで、楚々とした風情に反し、いざ動かねばならぬ時の気持ちの強さや怯みの無さは、幼い頃から共に育ってきた猛丸には良く判る事だった。
 そう、『騙された上での事』であれば、あの十六夜ならばやりかねない。
 そしてそれがまた、竜骨精の狙いでもあった。

 闘牙、十六夜、猛丸。

 この三人は,竜骨精に取ってどうも面白くない三人である。闘牙の事は言うまでもないが、幼い時この二人が闘牙を助けなければ、あの二度目の襲撃はなかっのだ。二度目の襲撃の際は、闘牙の妖怪らしからぬ『情の篤さ』ゆえ、止めを刺されずにすんだと云う屈辱感を味合わされた。それはなんとしても、闘牙に何倍にしても返したもの。

 その方法として、あの時の幼い二人に闘牙を討たせる。

 最初は闘牙が可愛がっている人間の女を、その闘牙の目の前で引き裂いてやるのも面白かろうと思ったが、それよりも今では想いを交わし、情を交わし、その胎内では闘牙の仔を育んでさえいる女から受ける刃は、どれほど闘牙の心を切り刻む事だろう。そう考えると、黒く底の無い笑みが竜骨精の腹の底から沸いて来るのだった。

 しかし、竜骨精も猛丸も知らなかった。
 十六夜が、全てを知った上で闘牙を愛し受け入れた事を。
 我が身に宿ったその証を、本当に心待ちにしている事を。

「……何か理由をつけて、姫をあの屋敷から連れ出されよ。姫の屋敷にはあの妖怪の妖力がかかっている。それではなにかと不都合と言うもの。正体を暴こうにも上手くは行くまい」
「わ、判った。何か手を打とう」
「仔の始末は、今となっては姫の腹の中の仔を流す事も出来ぬゆえ、姫の腹を割いて取り出すか生れ落ちたその時に息の根を止めねばならん。後々の禍根を残さぬためにもな」
「あ、ああ……」
「姫から妖怪を引き離す段取りは、こちらでつけよう。姫が屋敷を出たのを確かめて動くでな」
「うむ。よろしく頼む」

 こうして猛丸の心にしっかりと『不信』と言う毒を流し込み、竜骨精は猛丸の屋敷から出て行った。夜になり冬の風は更に寒さを増した。東の空から湧き出していた黒雲が全天を覆ったのか、月も星もない暗闇夜。その夜の帳に溶け込むように陰陽師姿の竜骨精が捩れた侮蔑の笑みを顔に刻みながら歩いてる。竜骨精はそろそろ人間の姿でいるのにも飽き、本性を現す間合いを計っていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 翌朝明るくなってから、妹宮は屋敷に戻ってきた。この日が宮参りに良い日と、懇意にしている陰陽師に教えてもらい吉方の神社に参ったその帰り、その神社の宮司から今日この神社から猛丸の屋敷へ帰るのは、方角が悪い泊まってゆかれよと引き止められたのだと伝えた。
 自分の留守中に、義母兄である今上帝からの魔除けの呪符を授かったと渡そうとしたところ、急に妹宮が抱いていた赤子がぐずりだした。

「初めてのお出かけに、知らぬ場所で泊まったせいか、若の機嫌が悪いようです。あちらで休ませて参りますね」

 優しい母の顔を見せて妹宮は中座する。渡しそびれた呪符を猛丸は、また元のように袱紗に包んで床の間の違い棚とことにしまった。なかなか戻ってこない妹宮に、そういえば今回の非番は子どもの顔を見に戻ったのだったと思い出し、自ら母子の部屋に足を運ぶ。妹宮が小さな声で口ずさむ子守唄に、ようやく赤子が寝付いたような気配を感じた。

「どうだ。様子は?」
「お腹も空いていたようです。乳を与えて今、寝かしつけたところです」

 微笑みながら我が子を見つめる妹宮の慈愛に満ちた美しさに、昨日会った十六夜の面影が重なる。

「……母に取って我が子とは、どんな存在であろうか?」
「それは宝ですわ、猛丸様。母に限らず父に取っても、ではないでしょうか?」

 当たり前の事を聞く、とでも言うように小首を傾げて妹宮は答えた。

「……その子が望まぬ子であってもか?」
「望まぬ子?」

 妹宮の顔に、さっと不安の色が広がる。それを見て取り、慌てて猛丸が言葉を補った。

「騙されて孕まされたような場合だ。そんな場合でも、女は腹の子を愛せるものだろうか? それとも騙した相手の血を引く、憎いものと見なすのだろうか?」
「それは、どうでしょうか? その方のご気性にも寄るでしょうし、どのような理由があって騙し騙されたのかが判らねば答えようもありませぬ」

 怪訝な表情はそう変えぬまま、妹宮は答えた。妹宮と十六夜の親交の深さは知っている。十六夜を助けるためとは言え、今幸せの絶頂にいる十六夜を悲しみの底に落すような事をする自分には、かける慰めの言葉もない。そんな時、せめて妹宮が十六夜の側にあれば、少しは心を強く持てるのではないだろうかと猛丸は考えた。ならば、妹宮にも全てを話しておく必要があるのではと。

「……昨日、十六夜に会った。直に母になる身で、幸せそうであった」
「まぁ!」

 嬉しそうな声が妹宮の口から上がる。十六夜の決心の程を目の当たりにしていた妹宮だから、その十六夜の想いが叶ったのは自分の事のように嬉しい。

「あ、でも、先ほど猛丸様は騙されて孕まされたと仰っていましたが、もしや、それは十六夜様の事なのですか?」
「ああ、そうだ。この俺も、そして父上達も騙されていた」
「……それは、十六夜様が慕っておられる闘牙様と言うお方が?」

 猛丸は、昨日の二人の姿を思い起こし苦々しそうな表情を浮かべた。

「猛丸様は、それをどこでお知りになったのですか? その闘牙様と言う人物が十六夜様を騙している現場を見られたとか?」
「……昨日、屋敷に来た帝よりの使者である陰陽師が言っていた。その陰陽師は、以前にも同じような事を言っていたのだ。陰陽師の話には、一つ一つ思い当たる事が有る。十六夜を騙しているだけではなく、闘牙は妖怪だとも。十六夜を、そんな穢らわしい血を引くモノの母とすることなどできぬ!!」
「人ではない? 信じられませぬ。あの聡明な十六夜様が、そんな怪しげなモノに惑わされる事があろうはずもありませぬ。むしろ、その陰陽師の方が怪しいのではなりませぬか?」
「宮よ、なぜそう思う」

 そう猛丸に問われ、妹宮は俯いた。

「……その陰陽師が、帝からの使者だからです。先の騒動で十六夜様は閉門の沙汰にあっております。が、十六夜様の想い人である闘牙様は、そんな朝廷の力などなんとも思わぬようなお方。それが面白くないのかもしれません」

 自分の妻の言い分も、理にかなった話。
 思い悩む夫を見て、妹宮はこんな提案を出した。

「十六夜様の産屋を、わたくしが準備致しましょう。話に聞けば、妖怪と人との間に生まれる子は明らかに人とは違う異形に生まれると聞き及びます。それを確認した上でも、事に及ぶのは遅くないのではないでしょう」

 落ち着き払った妹宮の様子。これが母なるものの落ち着きであろうか。

「口の堅い侍女や産婆をつけ、産屋の警護も同様に。十六夜様には私から、このような諌言がなされたと伝えておきましょう。時満ちて、人の子をご出産なされば、なんの問題も無い事。ここで早まって、十六夜様やそのお腹の子を傷つけるような事があれば、それこそその闘牙様の怒りを買う事になるでしょう」
「もし十六夜の産んだ子が人にあらざねば、その時は……」
「……その子は死産であったと十六夜様に伝え、闇に葬りまする。そして、出来る事ならば十六夜様の元を去ったような形で、その妖怪を退治する事ができればと思っております」
「十六夜を悲しませないためか……」
「はい。子を亡くし夫にも去られた妻である方が、悲しみは深くても傷は浅くて済むでしょう。妖怪と契った、人でない行為をしたと知るよりは」

 思慮深い妻の申し出に、猛丸は今心からありがたいと感じていた。
 そんな妻の為にも、なんとしても十六夜を助け出したいと、改めて思うのだった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 日、一日と十六夜の出産の時が近付いてきていた。
 暫く十六夜の許に入り浸りだった闘牙が、珍しく狛妃の住む天空城を訪れた。

「おや、闘牙。しばらく顔を見なかったが、息災かえ?」

 相変わらず頓着の無い狛妃。妃ほどの大妖であれば、闘牙の身体に残る残り香で大抵の情報はつかめるのだ。今、闘牙と暮らしている十六夜の様子までも。

「ああ。今日はちょっとお前にも頼みごとがあって参った。もう一人、呼んでいるモノがいるのだが……」
「もう一人、誰だ?」
「来れば判る」

 そんな二人の会話の間にも、城の宮女が甲斐甲斐しく酒の用意を整えている。
 闘牙は当たり前のように妃の隣の席に座り、宮女に酌をさせながら杯を空けてゆく。それに相伴するように、狛妃も杯を重ね始めた。

「そろそろのようだな、闘牙」
「何がだ? 妃」
「ん? 生まれるのであろう? お前とあの人間の姫との間の仔が」
「……本当に、お前には隠し事は出来ぬな」

 口の端だけで笑いながら闘牙は、この状態に寛ぐものを感じていた。
 十六夜の許に居るのも好ましいが、あそこは人間の世界。十六夜とその母には己の正体を明らかにしたが、それでも他の者には本性を隠しておかねばならない息苦しさはあるのだ。妖怪には妖怪の世界の気が一番合うのは当然の話。

「強い仔だと良いな。上手く逃げ交わせば、殺生丸に殺されずにすむやもしれぬ」
「……半妖だと、はやりあれは嫌うだろうか?」
「ああ、嫌うだろうな。同じ血を引くだけに」

 くいっと旨そうに杯の酒を空けながら、上機嫌で狛妃は言った。

「血、か。強すぎる血も、我が身を滅ばすだけだと思うが……」
「それをお前が言うか。おかしなものだな、お前こそ強い力を求めて、あの死神鬼とまでやりあったというのに」
「見ていたのか?」
「くくく。わたくしは千里眼ぞ?」
「そう言うお前はどうなのだ? やはり十六夜が生む仔は憎らしいか?」
「憎らしい? なぜ、半妖ごときをそこまで気にかけねばならぬ? あれは、わたくしとはこれっぽちも繋がりのないモノであろう」
「お前の息子の義母弟だが……」

 あまりにも『情』が希薄な、妃の答え。

「だが、わたくしの仔ではない。だから、有体に言えばあれがどうなろうとわたくしの知った事ではないな」

 それもまた、この妃らしい言葉。
 そこに、闘牙に呼ばれたものが到着したと知らせが入った。雅やかな宮女に案内されて来たのは、妖の宝玉を作り出す宝仙鬼だった。二人の大妖を前に宝仙鬼は恭しく傅き、頭を下げた。

「堅苦しいのは抜きだ、宝仙鬼。頼みの物、持ってきて貰えたか?」

 闘牙の言葉に、宝仙鬼は紫の絹の台座の上に二つの宝珠を並べて差し出した。
 一つは大人の掌大の黒水晶を黄金の台座に嵌め、鳩の卵ほどの大きさの極上の白珠を数珠のように繋いだもので首にかける事が出来るようになっていた。もう一つは、その傍らに青豆程の大きさの黒真珠がそのまま置かれている。闘牙は黒水晶を手にすると、それを狛妃の首にかけた。

「なんだ、これは? 今更、わたくしのご機嫌取りか?」
「そう思うのか?」

 くすっと、面白そうな笑みが妃の口元に浮かぶ。

「な訳はないな。こんな物騒なものを、このわたくしに寄越して」

 言うなり妃は黒水晶の首飾りを首から外し、手に取ると高く翳した。

「出よ!!」

 妃の声に答えるように、黒水晶の中から一匹の巨大な黒犬が現れた。

「さすがだな、妃。使い方を心得ている」
「狛のお妃様よ、その石は冥道石と申すもの。この世で唯一、冥道の中を見る事ができ、冥界の生き物を呼び出すことが出来る。オマケに冥道と現界を繋ぐ事まで出来ちゃう優れもの〜〜」

 美人揃いの宮女達の酌で、すっかり出来上がりつつある宝仙鬼が上機嫌で説明する。

「面白い。悪くは無いな。して、これをわたくしに渡す、その真意はなんじゃ?」
「……いつかは判らぬが、もし殺生丸が冥道の事で尋ねてくる事があったならば、お前が道を指し示してやってくれ。まぁそれを使うとなれば、ちょっと大変な事になるやもしれぬが、お前ならそつなくこなす事だろう」
「何故、お前が教えてやらぬ?」

 ……それは、本能的な予知のようなものだったのかもしれない。

「あれが俺に教えを請うようなことはせぬと、そんな気がするのだ。人間である十六夜を妻にした俺の事を、あれは嫌うだろうしな。それに……」
「それに、なんだ?」
「いや、何でもない」

 珍しく言葉を濁した闘牙を訝りながら妃は、残りの宝珠である黒真珠を取り上げた。

「これは、どうする? これにも、あの世とこの世とを繋ぐ力が込められているようだが」
「……備えあれば、愁い無しという。この中に、俺の墓を用意した」
「墓とな。辛気臭い話よ」
「あ〜、それとな妃。その冥道石と交換と言う訳ではないのだが、お前の蔵にある火鼠の赤衣を譲ってはもらえないだろうか?」
「火鼠の? おお、構わぬ。まだ幼き殺生丸に稚児の格好でもさせようと、その緋袴用に用意したものだがあやつめ、さっさと逃げ出したからのぅ。無用の長物になっておる」

 パンパンと手を打ち鳴らし、別の宮女を呼び寄せると火鼠の赤衣を持ってくるように言いつけた。蔵に行きかけたその宮女に、闘牙が更になにか付け足すように言いつける。やがて宮女は伽羅の板盆の上に赤い衣と、紫の布に包まれ闘牙の妖力の篭った白銀の毛髪を紐に編んだもので縛り上げられた、細長い包みを持って戻ってきた。

「……どうするのだ、あのようなものを持ち出して」
「うむ。いい加減あれを処分しておこうと思ってな。後々まで残しておくのは、禍のタネになりそうだ」

 久しぶりに、妃や妖怪の仲間と共に気兼ねない酒を酌み交わした闘牙が天空の城を後にする。その背には叢雲牙を背負い、懐には火鼠の衣と黒真珠。肩にノミ妖怪の冥加を伴っての帰還であった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 闘牙が戻ってみると、なにやら屋敷の中が慌しい。何かと思って、十六夜の部屋に向かうと、最近は見かけたことの無い困惑気な表情を浮かべた十六夜の姿があった。

「どうしたのだ、十六夜」
「闘牙様、どうしたら良いのでしょう? 私の初産の手伝いをしたいと宮様よりの知らせが参りました」
「手伝い?」
「はい。産屋の準備が整ったので今のうちに、お越しくださいと」
「産屋、か。この屋敷内でこの仔は取り上げるゆえ、好意はありがたく頂戴するも産屋を使わせて頂くのは辞退する、と申し送れば良いのでは?」
「それが…、その……」

 普段はっきり物を言う十六夜が、端切れの悪い物言いをする。

「宮様の文に、こうも書かれていたのです。ある陰陽師の諌言で、私には邪なる妖が取り憑いている、身籠った仔もその妖の仔。この世に生まれさせてはならぬと。宮様が仰るには、これは朝廷側の嫌がらせではないかと思う。わたくしとお腹の仔の安全の為にも、自分の手の者で守り固めている産屋を使われるようにとの、お心遣いなのです」
「まさか、俺の正体を見破ったものがいる……?」

 妹宮の文に書かれていた文言に、全身凍りつくような緊張感が走る。

「……判りません。わたくし達はもともと、あの竜の魔物の呪いを受けた身。そのわたくしを中傷するのに、妖の仔を孕んだと噂したのかも知れません。ただそれが、根も葉もない噂ではない事に、困惑いたしております」

 真剣な眼差しで状況を打破しようと考え込む十六夜の表情に、闘牙は胸を突かれた。

「……十六夜、お前は後悔しているのか?」
「まさか、闘牙様!! わたくしをそんな女だとお思いなのですか!?」

 こんな時でもちらりと垣間見える、十六夜の芯の強さ。

「宮様のお申し出をお断りすれば、またもっと酷い事を言われかねません。中傷如き、わたくしには何程の事でもないのです。しかし、もしそれで闘牙様のお身の上が明らかになるのは……。かと言って、産屋をお借りすれば、生れ落ちた仔を他の人間達に見れてしまいます。そうなれば、この仔の命が危ない。私はどうすれば良いのか、判らなくなってしまったのです」

 闘牙は眉を寄せしばし考えていたが、決断したように十六夜に告げた。

「産屋は使わせてもらおう。お前の出産の時には、必ず俺が立ち会う。生れ落ちた瞬間、その場にいた者達には俺が生まれた仔は死産であったと術をかける。そして葬る為に俺が連れ出したと言う事にする。もともと、この仔は俺の棲みかである西国で育てようと思っていた。一足早いが、先に俺の屋敷に連れて行こう」
「闘牙様……」
「お前も、産後の肥立ちさえ良ければ直ぐにでも連れて行ってやる。だから、心配はするな」

 迷いの無い闘牙の言葉を聞き、十六夜の顔に安堵の色が浮かんだ。
 半妖という重たい宿命を背負う、今はまだ生まれ出ぬ仔は、確かに二親の深い愛情の元に宿った命であった。


2010.7.12

【 奇縁7に続く 】



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