【 奇縁 −くすしきえにし− 7 】



 妹宮の好意で、十六夜はやんごとなき身分の女性が代々使ってきた産屋を使う事になった。今は猛丸の元に降嫁した妹宮も、その妹宮を産んだ今上帝の守役であった女官もこの産屋を使った。

 天皇家縁の地所に立つその屋敷は、冬に尚、青々とした竹林の奥にあった。竹林の中、ふっと開けたその目の前に、立派な白壁をぐるりと巡らした風情の有る屋敷。門構えもどっしりとした、由緒有る屋敷だと一目で判る。ただしこの屋敷は、やんごとない身分と言っても、その姿を衆目に晒す事はない立場の女性たちの為のものでもあった。
 何時の時代でも、子を宿してもそれを公言できぬ立場の者もいるということ。余りにも身分が違い過ぎるとか、夫なるものもいないまま密かに身籠ってしまった姫や道ならぬ恋の果ての結果などの為に。
 高貴な血筋を継ぎながらも、ひっそりと生れ落ち人知れず遠方の寺社などに引き取られて行く者も少なくは無かったのだ。
 妹宮と猛丸の指示で、屋敷の内外の警戒振りは尋常ではなかった。お産に関わる侍女や産婆、侍医は当然として、屋敷の中庭にまで武士の姿がある。

「あの、随分と物々しい様子なのですが……」

 自分達の前を案内しながら歩く侍女に、十六夜の母が声をかけた。その母の後ろには闘牙に付き添われた十六夜の姿。

「はい。奥方様と猛丸様のお言いつけで、十六夜様のお身をお守りする為に、特に厳重な警備を整えてございます」

 軽く会釈しながらの侍女の説明。しかし、その厳重さが十六夜の胸に不安の漣を立てていた。

「闘牙様……」

 陣痛も始まり不安な心を、闘牙の手を強く握る事で押さえ込もうとする。
 周りには聞こえぬくらいの声で、闘牙が十六夜の耳に囁いた。

「心配するな。この俺の名にかけて、お前と生まれてくる仔は必ず守る」

 十六夜の小さな頭がこくりと頷いた。


 一方、産屋の塀の外には猛丸と竜骨精が化けた陰陽師の姿がある。

「陰陽師殿。そなたの言われるとおり、十六夜をあの屋敷から連れ出したぞ」
「そのようですな。あの姫を、何と言って連れ出された?」

 そこで猛丸は、十六夜の懐妊にあたり不穏な噂がある。朝廷を何ほどにも思わぬ闘牙殿の振る舞いと、先年の武内殿の失態を快く思わぬ朝廷側の嫌がらせやもしれぬ。この大事な時期に何かあっては大変だろうから、こちらの産屋に身を寄せられよ、と伝えたのだと説明する。

「なんと、馬鹿正直な……」

 くくくっと、喉の奥で竜骨精が笑う。今、この時点においても猛丸は、目の前にいるのが十六夜の父の仇であり、長年都に禍をもたらしていた魔物だとは気付いていない。

「陰陽師殿?」
「丁度良い具合に、あやつめも一緒か。では、化け物を炙りだすとしよう」
「どうやるのだ?」
「……少し辺りが騒がしくなりまするが、その点はご容赦を。私の使う式鬼は少しばかり荒っぽい。それをあの竜の魔物に仕立ててあ奴の鼻先に晒してくれよう。きっと目の色を変えて食いついてきますぞ」

 そうしたり顔で説明する間も、竜骨精はぞくぞくするような快感に身を震わせていた。闘牙を信頼している十六夜や猛丸の目の前で、闘牙を正体を暴く。騙された怒りで、産み落としたばかりの薄汚い半妖の赤子を、その母自らの手で始末させる。そして、その刃は闘牙にも向けられる。あの二人が闘牙を殺すか、それとも闘牙があの二人を殺すか。
 人間に裏切られ、我が仔を殺された事を恨んで都を修羅場と化すほど暴れれば良い。そうなれば、今の自分の気持ちも判るだろう。

( 闘牙よ、お前の白銀の体が人間どもの血肉の色で彩られる様は、さぞ見事な事であろうな。怒りで猛り狂った禍々しいほどに美しいお前を、是非見たい )

「猛丸殿、離れられよ。今、式鬼を出しまする」

 竜骨精の声が響く。あたりに妖しげな靄が立ち込め、陰陽師姿の竜骨精を包んだ。その靄が火山の噴煙が沸くようにぶわっと周りを白い闇に塗り替えた。闘牙に気取られぬよう殺した陰陽師の生皮を被っていた竜骨精が、その皮を脱ぎ去り白い闇の中で本性である竜態を現した。

「これは、本当に式鬼なのか? まるで、本物の様だ」
「下がっておられよ。この式鬼はあの魔物と同じ力を持っております。側にいると巻き添えを食いますぞ」

 猛丸の頭の上の方から、その声は聞こえた。

「陰陽師殿! どちらにおられる!!」
「私は、この式鬼と共じゃ。私が操らねばならんのでな」

 その時、白い靄が晴れ冬の暗い夜空にその巨体を晒しだした。初めて間近に見る姿に、猛丸の心に言い知れぬ恐怖が沸いて来る。正しい事をしているはずなのに、どこかで誤ったような、そんな重苦しいものを感じていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 十六夜に付き従い、廊下を歩いていた闘牙の足が止まる。産毛の一本一本までが逆立つような、凶悪で邪気塗れの妖気の塊。

「闘牙様……」

 父譲りの霊力を持つ十六夜も、この異変を感じ取り闘牙の身体に縋りついている。

「あやつめ、この時を狙っていたのか……」

 ぎりっと闘牙が牙を噛み締めた。そうしているうちにも、屋敷の白壁越しに竜骨精の巨体が迫る。

「おお、狗臭い。負け狗の臭いがするぞ!!」
「竜骨精、貴様っっ!!」

 互いの「人でないモノ」の眸が、倒すべき相手をその眼に写し出す。

「やはりそこにおったか、闘牙。妖怪のくせに人間の女に入れあげ、あげく妖怪からも人間からも忌み嫌われる半妖を孕ませるとは、まったく妖怪の風上にもおけぬ奴。三度目の正直、後腐れないようお前と人間の身でありながら妖怪の女になったそこの姫、そして腹の中の半妖の赤子もろとも引き裂いてくれよう!!」

 竜骨精の言葉に、十六夜の側にいた者達が身を引く。密かに流れていた闘牙は『人でないモノ』と言う噂が本当なのではと思わせるモノが、闘牙の全身からも溢れ出していた。

「いつまでそんな人型のままでいるつもりだ? 闘牙。過去に二度、お前と立ち会った時には、お前も妖怪の本性である巨狗の姿ではなかったか」

 狗(いぬ)と聞いて、昔から刹那家に使えていた侍女の幾人かが、はっとしたような顔をして十六夜の姿を見、闘牙の姿を見る。かつて十六夜がまだ幼い姫であった頃に、一匹の大きな犬を助けた事があった事を知っている侍女達だった。
 その犬を助けた事が縁で、この闘牙と言う武士との交流が始まったと聞いていた。

「……まさか、本当に十六夜様は妖の、狗の仔を身籠っておられるのか?」

 一人の侍女の口から、思わずおぞましげにそんな言葉が零れ落ちた。 

 竜骨精はそんな人々の反応を楽しげに禍々しい眸で見つめ、毒の爪を繰り出し闘牙達目掛けて竜の腕を振り上げる。警備についていた武士たちは、猛丸の合図なしでは攻撃せぬよう言い渡されていた。このありえぬ様な状況で、ただただ魔物と屈強な武士との対立を見守るのみ。
 反撃できぬ闘牙達をここで自分が屠っても構わぬのだが、出来れば自分が守ろうとした人間達の手で殺させたいという、どす黒く歪んだ願望もある。そんな思いがあるせいか、振り下ろした腕も、必殺のものではなかった。闘牙は廊下から中庭に降り立ち、封印していた叢雲牙を抜き放った。

「退けっっ!! 巻き添えを食うぞっっ!」

 闘牙は叫ぶなり、叢雲牙から竜骨精の巨体目掛けて獄龍破を放った。獄龍破の波動を受けた辺りは一斉に生が枯れ果て、賽の河原の様な有様に変わってしまった。人の腕前では、到底描き出す事は出来ない修羅図。それが猛丸の猜疑心を確信に変えた。

「……あのような妖剣を操り、怖ろしき技を繰り出す。はやり、闘牙殿は人ではないモノ」

 目の前で繰り広げられている光景に、半ば放心しつつ猛丸は十六夜の事を思っていた。信頼し身を託した相手が、『人でないモノ』であった事実。そして、そのようなモノの仔を孕んでしまったおぞましい現実。どれほど十六夜の心は、衝撃で打ち震えていることだろう。内密で事を運びたかった猛丸は、なにもかも曝け出してしまった陰陽師のやり方にも、そして妖怪であった闘牙にも、言い知れぬ怒りを感じていた。
 誰よりも幸せになって欲しかった十六夜を、幸せの頂点から深い絶望の底に叩き込んだ事に。

( ふむ、闘牙の正体を暴くのはもう十分だな。ではそろそろ、この場から闘牙を引き離すか。その間に、人間達があの姫の腹の中の仔を殺す。もしかしたら姫自身も。そうなれば、さぞ面白かろうな。人間達の加勢をするためにも、闘牙にも手負いになってもらわねばな )

「ほぅ、それが噂に聞く叢雲牙か。なかなかの威力だが、巻き添えを食わさぬように放たれたような技では、私は倒せぬ。いや、獣妖でありながら、そのような剣で闘うお前に、最初から勝ち目などはないな」
「なにっ!?」
「私と闘うのであれば、己の牙と爪でもって立ち向かえ! そのような、冥土の邪念塗れな剣の助力を請わねば、お前は私を倒せぬのかっっ!?」
「……………っっ!」

 確かに竜骨精の言葉も真理、ましてや今の波立つ心の闘牙に、隙あれば取り憑きその身を操ろうとする叢雲牙は諸刃の剣過ぎる。

「お前の正体は、ここに居る者全てにばれてしまったぞ? いまさら、そのような人型に拘る必要も有るまい。それともお前は、この地を地獄に変える覚悟で叢雲牙を振るうつもりか」

 竜骨精も、かつては神の眷属。この呪われた邪剣の事は知っている。一度、この世で剣を振るえば、生有るものは命枯れ果て土地も水も風も瘴気漂う地獄絵図と化す。その地獄で苦役に就かせる奴隷として、屍を生なきまま動かすことも出来る。生者を死者に、死者を屍鬼に、そしてこの世を死が支配する世界に。

 それが、この叢雲牙の力。

「それも面白いな、闘牙。私は蟻の様にわらわらと湧いてくる、この欲深く自我の塊で醜い人間どもが嫌いだ。お前のその剣の一振りで、人間どもが粛清されるのであれば、さぞ我等にとって住みやすい世界となろうな」

 竜骨精の巧みな挑発に、闘牙は牙を噛み締め喉で低く獣声を唸らせる。抜き放った叢雲牙を鞘に収めると、ゆらりと自分の身に纏っている妖気を大きく揺らめかせた。

「あなたっっ!!」

 十六夜が廊下から走り下りらんばかりの勢いで、闘牙の方へ来ようとした。闘牙が何をしようとしているか、それが判っていたからだった。

「来るな!、十六夜っっ!!」
「でも……」

 闘牙の輪郭が妖光に包まれ曖昧になりかけている。

「俺は、約束は違えん! 必ずお前の元に戻る!!」

 そう言い終わらぬ内に闘牙の姿は、高く夜空へと飛翔した。群雲にから差し込む月の光に、白銀の巨体が照らし出される。

「ほぅ、ようやく本気を出したな闘牙」
「これで満足か、竜骨精。ここは死合うには狭すぎる。ついて来い」
「良かろう。誰にも邪魔をされずに、思い切りお前と闘えるのは楽しみだ。先の二度の様な手加減などするなよ!!」

 緊迫した気を巻き上げて、二つの妖光が東の空へと翔け去っていった。

「狗……? あれは、もしや狛犬なのでは……」

 十六夜の側にいた、昔から刹那家に仕えている年嵩の侍女が呟く。十六夜は、夜闇に消えてしまった光の軌跡をいつまでも追っていた。

「十六夜……」

 玉砂利を踏む音とかけられたその声で、十六夜は視線を空から地上へと戻した。十六夜の眸に映った猛丸はひどく悲しそうな、それでいてふつふつと沸き立つ何かを秘めているように十六夜には感じられた。

「猛丸……」
「……酷い事だ。だが、俺はお前が心の強い姫だと知っている。お前はあの妖怪に騙されただけなのだ。そんなお前を誰が責めよう。お前の為に、すぐにもその腹の仔を始末し、戻ってきた妖怪を打ち倒して身の潔白を証明せねば。さすれば、朝廷側も今以上の咎は与えぬだろう」
「……騙された? この仔を始末する……」
「そうだ、十六夜。全てを無かった事にするのだ。今は、お前の命だけでも助かればそれで良い」

 おそらく、この一件の後は十六夜達は遠くの寺社に幽閉される事になるだろう。竜の魔物の呪いを受け、今また別の妖怪と情を交え妖怪の仔を孕んだ十六夜は、この都のどこにも身を寄せる場所がない。
 亡き十六夜の父の霊験の高さゆえ、直接手を下す訳にもゆかぬ。となれば ――――

「……わたくしは、騙されてなどおりませぬ」
「十六夜?」

 十六夜の凛とした声の調子と、その言葉。我が身に突如降りかかったおぞましい出来事に、悲しさと怒りで震えているかと思っていた猛丸には、その言葉が信じられなかった。十六夜は幼い頃から大事にしてきた、闘牙と出逢った時に愛犬を助けてもらった礼だと貰った手鏡をお守りの様に握り締め、はっきりと次の言葉を口にする。

「存じておりました。闘牙様が『人でないモノ』で在る事などは。それを承知で、契りを交わしたのです」
「十六夜っっ!! お前は、何と言う事を! 人の道を踏み外し、邪恋の上に畜生道にまで堕ちたのか!」

 誰よりも、幸せにしたかった。
 後ろ指を指される事無く、嘲りや蔑まされることなく、ただただ平穏な日々を暮らして欲しかった。
 それだけを願って、闘牙に十六夜を託したのだ。

 猛丸のその信頼は、双方からこんな手酷い現実を突きつけられて裏切られた。

 闘牙は妖怪。
 それを知っていながら、妖怪の妻となった十六夜。

 猛丸の胸には、悲しいほどの怒りしか残っていなかった。

「うっ、くっ……」

 気丈な表情で猛丸の顔を見ていた十六夜が、急に表情を歪め下腹に手を当ててうずくまる。

「十六夜!!」
「痛みが…、強くなって……」

 こんな状況でも、出産は進む。
 いや、今でないと間に合わない事を、十六夜の胎内にいる仔は知っていたのかもしれない。

「どういたしましょうか? 猛丸様」

 お産の手伝いの為に来ていた侍女の中で、一番の年長者が猛丸に伺いを立てる。

「最初の予定通り、十六夜の出産を手伝ってやれ。生まれてくる半妖などはどうでもいい。十六夜の身さえ無事であればな」
「猛丸……」

 そう言うなり踵を返し、十六夜の前から立ち去る猛丸。十六夜は、言葉足らなくて自分の真意を猛丸に伝えられなかった事を、とても悲しく思っていた。
 中庭で配下の武士達にこれからの指示を出し、さらに援軍として弓兵を補強するよう伝令を出す。まだ竜骨精に謀れたとは気付いていない猛丸は、本性を現した竜骨精を式鬼だと思っている。となれば、陰陽師が使役する式鬼くらいでは、あの闘牙は倒せまいと踏んでいた。せめて、手傷の一つでも負わせてくれていたら恩の字だと思いながら、屋敷の警備を合戦並みに強化した。

「……闘牙は必ず戻ってくる。俺がこの手で、その首を取り十六夜の目を覚まさせるのだ」

 妖光が飛び去った東の方を、暗い焔を眸に揺らめかせ睨みつけていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 闘牙と竜骨精は疾風の様な速さで空を翔け、東国の切り立つ岩山が連なる場所に着いた。そこは闘牙が武者修行中に見つけた、人のいない場所。高温の湯と共に噴出す蒸気に毒気があるのか、植物も生えず動物も寄り付かないような場所であった。

「ここがお前の死に場所か、闘牙」
「いや。ここはお前の為に見つけた場所だ。ここであれば、我等がいくら闘おうとも、周りに大きな被害は出まい」

 闘気を漲らせ、口唇をめくり上げて牙を見せながら唸り上げる。そこに折れた牙のあとを見つけ、竜骨精が嘲笑う。

「なんだ、闘牙! その牙の抜けた、間抜けな面は!! そんな様で、この私に敵うと思っているのか!?」
「牙なら有る。そのままの姿であるよりも、さらに強い力をつけてな。だが竜骨精、今のお前にはこの爪だけで十分だ!」
「吼えたな、闘牙。では互いが死ぬまで、殺り合おうか」

 竜骨精は、闘いへの狂喜と人の心に流した毒の効果を楽しみ、まさにこれ以上の娯楽はないと言わんばかりの機嫌で闘牙に襲い掛かった。鋭い毒の爪で闘牙の肉を引き裂こうと掴みかかるが、ひらりと軽い身のこなしでその攻撃をかわす闘牙。自分の牙から鉄砕牙と天生牙を打ち出し、それを使いこなす為に修行の旅に出ていた成果は、こんな形でも現れていた。
 かわすだけではなく、やはり弱点である竜頭の額に有る人面を狙って攻撃をかけてくる。素早さを増した闘牙の攻撃が竜骨精の身体に爪痕を幾筋も残している。

「闘牙、貴様……」
「俺が自分の牙から打ち出した剣と共に旅に出ていたことは、お前も知っていた。行く先々で、相手を切り伏せてきた事も。それでもお前はまだ俺より強いと驕っていたのだな」

 竜骨精の身体に肉薄する闘牙の爪の鋭さは、鉄砕牙の刃の鋭さと同じであった。
 そして竜骨精の方にも、押される原因はあった。猛丸や十六夜から刃を向けられ、絶望し憎悪で歪む闘牙の顔を見たい、止めは闘牙が信頼していた人間達に刺させたい。自分で闘牙に止めを刺そうという気持ちが希薄なのも影響していた。

「そこまでするのは何故だ!? 妖怪の血がそうさせるのか? 己が一番強いのだと、覇者であると、知らしめたいのか!!」
「違う」
「では、狛犬の使命感か? 禍を振りまく者を粛すためか。ならば、とんだお笑い種だな!!」
「笑えるのか、竜骨精」

 重々しい闘牙の声。そこには揺らぎの無い信念に満ちた、強固な意思が滲んでいた。ようやく竜骨精も、ここは本気を出さねば自分の命が危ないと言う事に気が付いた。

「人間どもの言う禍は、私から言わせれば神罰だ! 心醜く荒れ果てた人間が呼び込んだ、結果だ」
「……お前が東の守護神として必要と判じ、それしか方法が無かった場合であれば、そう言えるかも知れぬ。だがお前のは、お前の悦楽の為の禍にしか過ぎない!!」

 もう一振り、大きく爪を振りかざして竜骨精の胸元を抉る。その抉った腕を竜骨精は両手でしっかりと拘束した。

「……私を見くびるな。今までは、お前を殺さぬよう手加減していただけ。だが、もう良い。お前はやはり、私が殺すことにする。その後で都に取って返し、お前の血を受けた半妖の赤子を引き裂き、お前を助けたあの女を始め周りの人間ども全てを血祭りにしてやる!!」

 拘束した腕に毒爪を打ち込み、簾の様に何本もの筋を刻む。毒に焼かれ、闘牙の腕の肉がじゅうじゅうと嫌な音を立てる。掴まれた腕を勢いをつけて上に振り上げ、その拘束を解く。そのせいで、闘牙の腕には縦横の爪痕が刻まれた。

「竜骨精、お前は先ほど俺が闘うのは何故だと聞いたな? 確かに、狛としての使命感もある。だが、今この胸の中にある想いは、『守りたい者を守る』。ただそれだけだ」

 竜骨精の腕を振りほどき、体勢を立て直そうと少し飛び退こうとしたところを、竜の尾で胸を強打される。

「はっ! 守りたい者だと? それはあの愚かしく脆弱な、虫けらのような人間の事か!? 力ある者だけが価値の有る、存在すべき意味のあるこの世界で、あれらは無くても構わぬもの。むしろ、滅した方が余程良い!!」

 強打された事で肋骨が折れたか肺を損傷したのか、口元から血を吐き出しながらも、闘牙の眸に燃える闘志は勢いを増す。

「守る意味は己で見つけ出すもの!! それあってこその狛であり、青龍であろうがっっ!!」
「煩い!! 吠え立てるな、負け狗!!」
「最後の最後に勝てば、それは負けではない。俺はこれをお前との最後の闘いにする」

 人里遠く、生から希薄なその場で、壮絶なる死闘が繰り広げられていた。獣妖同士の闘いは、その本性を曝け出し牙と爪で闘うのが本能。喰らい付き、咬み裂き、食い千切る。骨も肉も相手からより多く奪ったものが勝ちを収める。
 竜骨精の爪から注がれる毒が、闘牙の肉を焼く。かつてこの毒で、闘牙は命を落しかけた。その体験が闘牙の身体を竜骨精の毒を慣らしたのか、あの時ほどの即効性はない。それでも闘牙が動けば動くほど、その毒は全身を巡り闘牙の肉を臓腑を骨を焼き腐らせていくのは間違いない。

「……毒の利きが遅いようだ。それでもお前の様な牙の折れたモノに、この私が負ける訳がない。残念だな、闘牙。このような死闘を演じるつもりは、私にはなかったのだが」
「まだ言うか、竜骨精」

 闘志の衰えは見えぬものの、闘牙の肉体は確実に毒に冒されていた。それは少しずつ月を隠す黒い影の様に、闘牙の身体を染めてゆく。

「くくく、良いのか闘牙。早く私を倒さねば、お前の生まれてくる仔が人間どもに、いやあの猛丸の手で殺されるぞ? そればかりか、あの女の身も無事では済むまいな」
「なに!?」

 十六夜の身の安全を思ってあの屋敷を用意してくれた猛丸が、と闘牙は戸惑う。

「あの男は、人の道を踏み外しお前の妻になった女に深く執心している。お前を人間だと信じていたからこそ、あの女が人として幸せになれるならと、その醜いまでの愛執を押さえ込んできたのだ」
「……………………」

 気持ちの上で優位に立った余裕が、ほんの僅か竜骨精の語調に現れていた。

「それなのに、その大事な女は妖怪であるお前に陵辱された。あまつさえ忌まわしい妖怪の血を引く赤子まで孕まされ、今まさに半妖の母になろうとしている。そのような汚らわしくおぞましい事を、あの男が許せるはずもなかろう」

 勝ち誇ったように竜骨精は、毒に満ちた言葉を闘牙に浴びせる。確かに猛丸の心に流した毒は、猛丸の心を妬き妄執で本当に大事な思いさえ腐らせていた。

「……言いたい事はそれだけか」

 ひどく落ち着いた、重々しい声が闘牙の喉から絞り出される。

「何だ、まだ私の言う事が理解出来ないのか? 本当に愚かだな、闘牙」

 明らかに竜骨精の嵩に掛かったような物言い。それは、ほんの一刹那の隙だった。
 光が駆け抜けたと思った瞬間、パキリという硬質なものが折れる音と鮮血が飛沫いた。飛び散る血玉がゆっくりと目の前を横切ってゆくような、そんな錯覚を覚えるほどの神速さであった。

「な…んだ? 一体、なに… が……」

 竜骨精は背中に固い岩盤の感触を覚えながら、身動きが出来ないことに驚愕の表情を浮かべていた。驚きの色に染まった竜骨精の眸には、満身創痍の闘牙の前足にまた一つ、傷が増えているのが映った。人差し指の半ばまでの肉を引き裂いて、鋭い爪が深々と竜骨精の心臓に突き刺さっている。自ら生爪を剥がす様にして爪を折り取り、竜骨精を崖に縫い止めていた。

「止めを刺したいところだが。今は時がない。向こうを片付けたら、この牙でお前との決着をつける! それまで、そこでそうしていろ!!」

 怒号の様な声で吠え立て、闘牙は急ぎ都へと駈け戻る。爪から闘牙の妖力である封印の効果が竜骨精の身体に染み込み、竜骨精を岩の様に変化させ深い眠りにつかせた。竜骨精が再び目覚めるのは、それから二百年後。闘牙が残した言葉通り、その『牙』で討たれる事となる。

 立ち去る闘牙の後姿を、一人の僧形の男の姿が見送っていた。死闘の痕も生々しいその現場を見つめ、感慨深く誰に聞かせるともなく呟く。

「……異様なまでの妖気を感じ、様子を伺っていたがあの狛はあの者に間違いない。神にも近しいものが、あれほどの想いを我等に注いでくれていたのか」

 今では石化した竜の魔物をその目で確かめ、その僧形の男も急ぎ西へと向かった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 冬の夜空を翔け戻る闘牙の前に、良く知っている大きな妖気の塊が近付いてきていた。

「……殺生丸か」

 闘牙は小さく口の中で呟き、急く想いとある想いの狭間で瞬時躊躇い、やがて誰も居ない冬の海岸に降り立った。闘牙の後に続く、もう一つの妖気。それが砂を踏む音を背中で聞きながら、夜空に掛かる影に覆われそうな満月を見上げる。満月の夜と満ち潮の時に、新しい命はこの世に生れ落ちる。この常ならぬ満月の夜は、半妖で有る闘牙の仔が生れ落ちるのに相応しい夜かもしれない。

「……そのような様で、あの人間の女のところに行かれるのか。父上」

 冷たい、血のつながった親子とも思えぬほど冷たい声。父である闘牙のこれまでの振る舞いを、妖怪として許せぬ思いで殺生丸は見つめていた。誇り高い殺生丸の、魂まで凍えてしまいそうな怒りに満ちた言葉であった。

「俺は、約束は違えぬ。必ず戻ると約束したのだ」

 人間の女などに関わった挙句に、無様な瀕死の様相を呈している西国王・闘牙。生れ落ちた時から稀代の大妖怪と誉めそやされてきた殺生丸にとって、唯一の目標であり名実共に妖怪の中の大妖怪である父。妖怪の頂点にならんとするためには、いつかこの父をこの手で越えて見せるとの、大いなる願望を抱いていた。それが ――――

「浅はかな人間どもが、父上を討たんと待ち構えております。ましてや、その傷では父上の命、そう長くは持ちますまい」
「……………………」
「大妖怪として、人間の手に掛かるはあまりにも屈辱的。ならば、今ここでこの殺生丸が父上を殺し、父上の牙の剣である鉄砕牙を貰い受ける!」
「為らぬ、殺生丸」

 隠れ行く月を見上げたまま、闘牙は静かに言葉を発した。

「今の俺には、この牙がどうしても必要なのだ」
「それは、あの人間を助ける為に……」

 妖怪である我が子より、非力で矮小な虫けらのような人間の女の方が大事と言われたような気がして、殺生丸の殺気が大きく揺らめく。

「殺生丸。お前に守るものはあるか?」
「守るもの? 守らなくてはならないほど脆弱なものなど、私には不要!!」
「この剣は、守るものを守るための剣。今のお前には扱えぬ」

 闘牙の言葉に今一歩詰め寄ろうとした殺生丸は、闘牙の全身から放たれる覇気に思わず気圧された。今から死に行くものとも思えぬほど烈風な気概。


 ―――― それほどに、あれは『守りたいもの』なのか。 


 父と子の今生の別れを終え、闘牙は再び妖犬の姿と変化し、ほぼ黒い月となった夜空を流星のように駆け抜けていった。心細い星の光に照らされて、黒紺色の空から風花がひとひらふたひら微かな白さを見せて海の波間に儚く消えてゆく。それはまるで生き急ぐ、命の儚さを映すように。


 同じ頃、月食で月の隠れた空を見上げ、仄暗い情念にも似た闘志を滾らせている者がいた。

「月食か。妖怪退治には相応しい夜よ」

 兜の緒を締め直しながら、配下の者への指示や配備などの確認に余念がない。一方、産屋に入った十六夜の様子も気にしている。このような騒動の原因は、すべてあの闘牙のせい。十六夜に降りかかった禍も何も、すべてはあの男のせい。

「十六夜、俺は……」

 この名状しがたいほどの、熱い想いはなんだろう?
 十六夜への恋慕か?
 それとも闘牙への嫉妬か?

 いや、違う!!
 俺は十六夜を助けたいのだ。
 他人に蔑まされ、後ろ指を指される様な『人でないモノと情を交わした女』などにしたくない。十六夜は自らその身を妖怪に与えたのではなく、騙され陵辱され仔を孕まされた悲劇の姫なのだ。だから、十六夜の腹の仔を殺し、その父でもあるあの妖怪を殺して十六夜を開放する。

 それが、『人の倫』。

「猛丸様、十六夜様が……」

 産屋に入っていた年嵩の侍女がそっと猛丸に言葉をかけてきた。

「どうした」
「はい。十六夜様が今、お子を産み落とされました」
「十六夜の様子は、どうだ?」
「母子共に、健康にございます。ただ、生まれたお子の髪と耳が……」
「人のモノではない、と」
「はい、左様にございます」

 侍女が頭を下げ、そう主に告げた。猛丸は断りもせずに、十六夜が身体を休める産屋の建具を大きく引き開けた。入ってきた者が誰か認めて、十六夜が床から声をかける。

「猛丸、この屋敷から兵を引き上げ、あなたも早く立ち去りなさい。あの方に刃向かっては、あなたの命もありません。一刻も早く、立ち去るのです!!」
「十六夜、貴女は……」

 十六夜の腕に中には、生まれたばかりのまだ名もない半妖の赤子が大事そうに抱かかえられていた。手も足も顔つきも愛らしい赤子。そのふさふさとした白銀の髪と頭に生えている犬耳、金色の獣眸でさえなかったなら、本当に貴族の若君らしい赤子であった。

「その薄汚い半妖を俺に渡せ。その半妖とあの妖怪を始末すれば、後はいくらでも言い繕える。お前をまだ、『人』として生かせる事が出来るのだ」
「嫌です、猛丸!! この仔はわたくしと闘牙様との間に授かった大事な仔。母として、この仔の命はわたくしが守ります!」

 強い光を瞳に湛え、今まで猛丸に向けた事の無い色を浮かべて十六夜は猛丸を見た。十六夜の瞳に浮かぶ敵意を感じ取り、猛丸の狂気が炸裂した。

「ならば、十六夜。貴女も死ね!! いずれ愛しい我が子やあの妖怪も冥土に送ってやる。あの世で親子仲良く暮らすが良い!」
「猛丸っっ!!」

 猛丸の凶行を止め様とした十六夜の母を突き飛ばし、猛丸の剣が十六夜の胸を刺し貫く。傍らで、生まれたばかりの赤子が隠しもせぬ殺意に炙られ、大きな泣き声を上げていた。次の目標と、剣先を赤子の上に置こうとした時、外から配下の兵士の声が聞こえた。

「妖怪だ! 犬の妖怪が屋敷の外にっっ!!」

 その声を耳にし、猛丸の口元に酷薄な笑みが浮かぶ。赤子の上に翳した剣を下げ踵を返す。

「来たか、闘牙。今、お前も十六夜の元に送ってやるぞ」

 母の死を感じ取ったのか、泣き止まぬ赤子を残し猛丸は産屋を後にした。屋敷の中庭は、まるで戦場の様な様相を呈し、パチパチとはぜる火の粉と燻り火の手をあげる屋敷の火影が大きく揺らめいていた。屋敷の門から塀にかけて大きく崩れ、地面には何かが奔ったような抉れた軌跡が描かれている。
 その火影に浮かぶ、人影の様な物。それは満身創痍の闘牙であった。

「猛丸、十六夜はどこだ? まさか、お前……」
「安心しろ、闘牙。一足先にあの世に送って差し上げた。だから、お前も速く逝けっっ!!」

 燃え盛る屋敷を背景に、二つの影が対峙する。意地も想いも命すらかけて、渾身の一撃を打ち込む。

 時間が無かった。

 今にも命の焔が尽きそうな己と、不幸な巡り会わせで死出の旅路に送られた十六夜と。もう一刻の猶予も無い。手心を加えて猛丸を制するだけの余力も想いも。

 猛丸の剣が闘牙の身体を深々と刺し貫き、猛丸は闘牙の剣で横に薙ぎ払われ左腕を切り飛ばされていた。互いの傷口からは、血潮が激しく飛沫上げどう見ても両方助かる見込みはない。
 地面に倒れ臥した猛丸の遺体を見下ろし闘牙は、最後の気力を振り絞って十六夜の元へとすでに感覚を失い鉛の様に重たく感じる足を引き摺りながら、燃え盛る屋敷の中に入っていった。天まで焦がさんばかりの業火の中、必死で泣き続ける赤子の声が闘牙を十六夜の元へと導く。
 絶命した十六夜の周りを、あの世の使いが嬉しそうに跳ね回っている。それを見ると闘牙は、背中の天生牙を十六夜の遺体の上で一閃させた。

「十六夜、戻って来い!! 俺はここだ、お前の側にいるぞ!」

 死相が浮かび始めていた十六夜の顔に血の気が戻り、猛丸に刺された傷も消えた。こほっと小さく苦しげに息を吐くと、十六夜は瞳の輝きもそのままに蘇生した。

「ああ、あなた! あなたっっ!!」

 迫り来る炎の中で十六夜は、愛しい夫の姿を認め細い腕でしっかりと抱き締めた。

「あなたのお子です。どうか、抱いてあげて……」

 生まれたばかりの赤子を、闘牙の前に差し出す。大きな泣き声は、その赤子の命の強さを示すように感じられた。

( ……殺生丸は生れ落ちた時も、泣かぬ仔であったな。ただ、ただ怜悧な眸で親である俺を見つめていた )

 おそらく、これが最初で最後の親としての抱擁であろうと闘牙は感じていた。自分の命が尽きるこの場で、自分の命を引き継ぐ新しい命に触れる。この命と、この命を無事に生み出してくれた十六夜に、胸が熱くなり言葉も詰まる。

 だが、時間は無い。

「良く頑張ったな、十六夜。立派な仔だ。名をつけねばな」
「あなた……」
「この仔の名は、犬夜叉」
「犬夜叉……。あなたに似て、強い仔になりますわ」

 犬夜叉と名付けられた赤子を見つめる二親の眼には、人と妖の違いはあれど我が子に注ぐ溢れんばかりの慈愛に光に満ちていた。
 そんな親子の背後で、屋敷が燃え崩れる音がする。猛丸に突き飛ばされ気を失った十六夜の母の衣にも炎が取り付いていた。

「さぁ、十六夜。お前は犬夜叉を連れて、早くここから逃げろ!!」
「あなたは?」

 闘牙は優しい笑みを浮かべ、懐から狛妃より譲り受けた火鼠の赤衣を十六夜の頭に被らせた。

「俺はもう助からぬ。だから俺の事は置いてゆけ。そして、何が何でもお前達は生き抜いて欲しい。それが、俺の最後の言葉だ」
「あなたっっ!!」
「行け、十六夜!! 犬夜叉を頼む!」

 十六夜を身体に残った最後の力で部屋の外へと押しやり、中庭へと逃す。庭に逃れ振り返って見た十六夜の眼に、炎の中で微笑んで見送る闘牙の姿があった。その姿も、次の大きな炎の幕に包まれ焼け崩れた屋敷の瓦礫の煙幕に掻き消されてしまった。

「ああぁ、あなた、あなた……」

 母の悲しみが伝わるのか、十六夜の腕の中の犬夜叉は、ただ幼く泣くだけだった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 十六夜は再び咎人として、都で朝廷側の裁きを受ける事となった。

 妖怪との戦いで戦死した、都の警備役の要であった猛丸の死に関しても、天皇家に縁のある屋敷を焼失させた事についても、そして何よりも重い咎は今十六夜の腕の中にある『人でないモノ』の仔を生んだ事に対してであった。

 妖怪は人の世に禍を撒く忌み嫌われるものであり、滅せねばならぬモノである。そんなモノと情を交わし、あまつさえ半妖などを産み落とすとは、人として許されぬ行い。厳罰に処されても仕方が無い事であると、朝廷側の高官皆が口々に十六夜を責め立てる。

「武内の姫よ。そなたの行いはあまりにも人の倫に外れた行い。獣と交わるよりも、もっとおぞましい行為ですぞ!! 父の武内殿は竜の魔物の怒りを買い、都に大きな禍を招いた。その姫は、妖怪と交わりそのように忌まわしい半妖を産み落とした。穢れを払い厄災いを落す為にも、そなたらは死してその身を神仏の浄化の炎で焼き清めねば為らん!!」

 聞けば身の毛もよだつような裁定を下されても、十六夜は臆する事無く気丈に顔を上げ澄んだ瞳で口々にそう言い募る貴族達の顔を見つめていた。
 深く穏やかな瞳の色のその奥に、何人にも侵されぬ強い意思を秘めてこれからの自分の未来を見据えている。
 そんな十六夜の様子に気づいたのか、かつて十六夜に好意を寄せていた一人の貴族が責めではない言葉をかけた。

「十六夜姫は情が深く聡明な姫と聞いておる。そのような姫がこのような淫行に走るとは、私には思えぬ。相手が妖怪であれば、か弱い姫がどれほど抵抗したところで、どうなるものでもあるまい。その結果、その半妖を身籠ったのだとすれば、姫もまた被害者であろうと私は思うのだが、如何であろうか?」

 十六夜を助けたいと思う者がここにもいる。
 しかし、その言葉が含む意味は……。

「うむ、そう言われれば確かに。ならば、その半妖をこちらで始末し、姫は尼寺に幽閉と言う沙汰でどうであろうか?」

 十六夜の亡き父の霊力を鑑みても、あまり無残な死をこの姫に賜るのは危険なような気がしたのか、そう譲歩する貴族まで出てきた。

 そんな形ででも、十六夜に差し伸べられた救いの手。
 その手を十六夜は、潔い態度で拒絶した。

「わたくしを助けようとのお心からのお言葉、深く身にしみてございます。しかし、そのお言葉には異を唱えまする」
「異とな? 姫よ、そちは助かりたくは無いのか?」
「わたくしは陵辱されたのではありませぬ。確かに闘牙様は人でこそありませぬが、それは深くわたくし達の事を思い身を厭わぬほどに尽くしてくれておりました。その高潔な魂に触れ、わたくしは自分の意思で闘牙様の妻になったのです。この腕の中の仔も、望み宿った命でございます。この仔を手離す事など、わたくしには出来ませぬ!」

 きっぱりと、そう言い切る。その態度は、一点の曇りも躊躇いも無い堂々としたもの。あまりにも毅然とした、揺ぎ無い自信に満ちた十六夜の姿に査問の貴族達の方に罰の悪い思いが湧いてくる。
 悪政が続いた事による人民の心の荒みが、竜の魔物を跋扈させる遠因になっていると薄々感じていながらそれを改めず、その魔物退治の貧乏くじを十六夜の父に引かせたのは自分達だ。そのせいで、残された家族に竜の呪いがかかり、このような巡り合せになったのかもしれないのに、それを棚上げにして一番の被害者である十六夜を責めている。
 それでもここで十六夜に下手な温情をかけては、あの魔物退治の折、生き残った兵士たちを焼き殺した事への言い訳が立たなくなる。何がなんでも十六夜と生まれたばかりの犬夜叉を殺さねば、立場が悪くなる貴族達だった。

「ええい!! 妖怪の女などに成り下がったものの命を救うなどは、あってはならぬこと! すぐに処刑の準備を整えよっっ!!」

 十六夜は赤子の犬夜叉をぎゅっと抱き締め、隙あらば逃げ出す覚悟で辺りを見回していた。追っ手がかかり、住む所も着る物も食べる物にも事欠く事になっても、たとえ乞食に身を落としても、闘牙の最後の言葉を守るため生きる道を見出そうとしていた。


 遥か高い空の上の居城から、狛妃はこの騒動の一切を静かな眸で見つめていた。筋を通せと闘牙を送り出したのも、次の仔を欲していた闘牙を止めなかったのも妃自身。
 それ故に、ただただ傍観者として、ことの成り行きをじっと見守っていた。

 その妃が、ついに動いた。

 今まさに刑場へと引き立てられようとした十六夜。その裁きの庭に紫の妖雲がかかり、幾筋もの雷光が庭の白州に落ちた。その中で、一際大きな光が閃き、轟音が辺りの音を掻き消す。その音と光が和らぎ靄が晴れた中に立つ、、威光を放つ一人の貴婦人。

 異国の衣で仕立てた着物を纏い、柔らかな上品な毛皮を羽織り、すっくとその場に降り立ったその貴婦人の髪の色は闘牙と同じ白銀色。金水晶のように透き通った獣眸に、白磁のような肌理の整った頬には一筋の妖線が化粧の様に浮かび、それがまたその貴婦人の美しさに華を添えている。
 十六夜にはその貴婦人が、闘牙から聞いていた国元の正妃であると一目見て理解した。

「このお方は……」

 口の中で小さく十六夜は呟いた。
 この方がここに降り立つ理由など、唯一つしかない。闘牙の死を知り、その原因となった自分を責めに来たのだろう。人間からだけではなく、こうして妖からも糾弾されるのかと、十六夜は自分の選んだ道の険しさを思わずにはいられない。

「……浅ましいものよな、人間は。このような者達の為に闘牙は、命を投げ出しおったのか。愚かな男よ」

 感情の見えぬその声には、深い怒りが秘められているのを十六夜を始め回りの人間達は感じ取った。

「お前も妖怪かっっ!? 誰か早くこの妖怪を討ち取れ!!」
「なりませぬっっ!! このお方は、わたくし達人間などが刃向かってはならぬお方です!!」

 十六夜は狛妃と自分を責めている貴族達の間に、犬夜叉を抱いたまま割り込んだ。

「ほぅ、そこな姫は妾が何者か、存じておるようだな」
「はい。貴女様は闘牙様のご正室様であられましょう。ここに参られたのは、わたくしを裁くため」
「なぜ、そう思う?」

 狛妃の眸がすっと眇められた。

「わたくし達に関わった為に、闘牙様を命を落とされてしまいました。その事をお妃様に問われれば、わたくしになんの申し開きもできませぬゆえ」
「良い覚悟だな。では、この場で妾に引き裂かれても構わぬというのだな」

 ぐっと十六夜は、言葉に詰まる。闘牙の最後の言葉を守る事は出来ないが、ここで心無い貴族達になぶり殺しにされるよりは、このお方の手に掛かるほうが余程筋が通ると考えた。

「……わたくしの存在が、お妃様のお心を悩ませてしまった罪は償わねば為りません。ですが、もしお妃様にお慈悲を願えるものであれば、せめて闘牙様の血を引くこの仔だけは救い上げて欲しいのです」

 心の底からそう思い、深々と頭を下げる。深く身を折った為か、十六夜の懐から、あの手鏡が転がり落ちた。それは、ころころと転がって狛妃の足元で止まった。

「あっ……」

 すっと狛妃がそれを拾い上げる。妖の鏡は、そこに映ったものの想いを刻む。その手鏡から伝わる十六夜の闘牙への感謝と信頼、そして身を焦がすほどの恋慕の情。

「大事にしてくれていたのだな」

 手鏡を持って十六夜の側に歩み寄り、その鏡を十六夜に渡す。

「これは妾から闘牙に、助けてもらった礼に渡すようにと譲ったもの。お前の存在が、妾の心を悩ませた事はない。だから安堵せよ」
「お妃様……」

 ほんの少し目元を和らげて微笑みかけたその表情は、闘牙にも似ているような気がした。十六夜を庇うようにその身体を自分の後ろに回し、狛妃はくるりと振り返ると居並ぶ貴族たちを睨み付けた。

「己等の悪しき心の有り様に、国が乱れ人心が荒廃した。その非を認めず、故なき者等を無為に死に至らしめた罪は重い。妾は狛の対の片割れ、守護の任を負う者。なれど、そのような心持ちの者らを守る必要も無い。この都に配されている守護を全て解除せしめ、悪霊悪鬼の蹂躙するがままに任せよう」
「な、なんとっっ!!」

 絶句したような悲鳴が貴族達の間から沸きあがる。あの竜の魔物一匹だけでもこの有様なのに、これ以上の禍が都を覆うと言うのだ。

「……いや、そこな妖怪。お前が本当に守護の力を持つものかどうか確かめる術もない我等には、お前もその悪霊悪鬼と変わらぬ。そこの妖怪の女に成り下がった者共々討ち取るだけ!!」

 一番の強硬派である貴族が、声を張り上げ恐怖を打ち消すように叫んだ。
 今まさに、狛妃と貴族達の間に一戦始まろうとしていた。そこに、飛び込んできた僧形の男がそれこそ雷の様な大声で、双方の間に入ってきた。

「どこまで盲いているのだ!! お歴々方っっ! このお方が守護獣の狛犬であられることになぜ気付かれぬ!? ワシはこの目で、闘牙殿が竜の魔物を岩山に封印するのを見てきたのだ!!」

 それは、あの岩山の影で闘牙と竜骨精の闘いを見守っていた僧形の男。親友である十六夜の父の死を悼み、生きて戻りながらも魔物の機嫌を取るため人間達の手で殺された兵士達の無念の思いを弔う為に出家した刹那の大殿であった。

「刹那の大殿様……」
「魔物を封印してくれた闘牙殿に感謝こそすれ、その妻と仔に死を賜るなど、どこまで自分勝手で愚かなのだっっ!! いい加減に目を覚まされよっっ!」
「ほほぅ。人間の中にも、筋の分かる者もいるようだな」

 どんな時にでも、面白味を見出すのがこの狛妃の享楽性。刹那の大殿の気質は狛妃の気に入ったようだった。

「初めてご挨拶申し上げる。闘牙殿からお聞きしていた国元のご正室とは貴女様の事ですな。自分には出来すぎた奥方だと、闘牙殿が常々話されておりました」
「妾も聞いておるぞ。闘牙が嬉しそうに話しておったわ。人間の友が出来たと、大事にしたい友人達だとな」

 口調は柔らかく、目元にも微かな笑みが浮かんではいるが、その背後に揺らめく妖気には怒りの色がはっきりと滲んだままである。

「ではどうか! どうか、そのお怒りをお鎮めください!! 亡き親友の遺児である姫とお子、このワシが一命に替えても守りまする!!」

 あの時の竜骨精の言葉から察すれば、猛丸が瀕死の闘牙と闘ったであろう事は事実。それが闘牙の死を早めたであろうことも。そんな思いも込め必死な姿勢は、狛妃の心を動かすのに十分であった。

「分かった。この者らの身の安全を誓うなら、此度の怒りは鎮めてやろう。否と言えば、早晩にもこの都の人間は帝や貴族に限らず、下人にいたるまで全て、魑魅魍魎どもに食い殺される事であろう」

 あたりを圧する威厳と迫力を滲ませて、狛妃は淡々と言い放つ。
 こうして十六夜と犬夜叉は刹那家の預かりとなり、あれほどの大騒動の渦中の人物であったにもかかわらず、都中に戻り貴族としての暮らしを取り戻す事したのだ。刹那家では妹宮の産んだ子が跡目を継ぐことなり、夫を亡くした未亡人同士密やかな日々を過ごすこととなる。
 後日、全国の力有る神社仏閣からの糾弾を受け今上帝は退位を余儀なくされ、次の帝に帝位を譲った。それに伴い、己の保身と利権だけを求めていた貴族達も排斥された。貴族の勢力が衰え、武士の力が台頭してくるそんな狭間な時代の出来事であった。

 貴族らしい暮らしを送れるようになったとはいえ、十六夜と犬夜叉はまるで腫れ物を扱うように接されていた。

 人でないモノの妻と半妖。

 人の倫を踏み外したように見えるそれらの者を受け入れるのは、人の心も時代もまだ早かったのだろう。その見えない心の壁は、幼い犬夜叉に深い孤独感を与えた。人とも妖とも異なるモノゆえに、どこにも身の置き所の無い犬夜叉。
 それ故に、十六夜亡き後犬夜叉は屋敷を飛び出した。人の子の年齢で言えばまだ五歳にも満たぬ幼さで、弱肉強食の厳しい掟に晒され無間の孤独に自ら飛び込んでいった。


 完全な妖怪で在るが故に、周囲の者を受け入れる事が出来ず孤高を囲う兄、殺生丸。
 半妖で在るが故に、周囲の者に受け入れられる事無く蔑みと孤独を背負う弟、犬夜叉。


 兄弟の、孤独が開放されるときは ――――――



  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 狛妃は長い長い物思いから、ようやく醒めた。
 天空城の階段を下っていった殺生丸達の後ろ姿はもう見えない。

「ふふふ、本当に変な所が似てしまったものよ。しかし、殺生丸。お前は、あの父の様には決してなるのではないぞ。妻と子を残して、先に死ぬるようなことには」

 殺生丸を変えたあの人間の小娘が、闘牙にとっての十六夜のようになるかどうかはまだなんとも言えない。あの二人が出逢った、その頃のような二人だから。


 守りたい者 ――――
 幸せにしたい者 ――――


 無償の情愛でも、形ある愛情でもどちらでも構わないと、狛妃は思う。
 その答えを、これから見つけるのは他の誰でもない殺生丸自身。

「のぅ、殺生丸。お前が本当にあの父を越えるのは、お前が思う『守りたい者を守り切った』その時であろうな。闘牙の知らぬ、最愛にして絶対無二のもの無くす、その辛さに打ち勝った時こそが」

 それを見届けるまでが、己の務めと狛妃は思うのだった。




  それからさらに、年月は流れ ――――

「長い間、本当にお世話になりました。楓様。そして、犬夜叉様やかごめ様、法師様に珊瑚様も、どうぞこれからもお変わりなくお過ごしください」

 奈落との闘いの終結後、楓の元に預けられていたりんが今日旅立つ。

「りん、お前本当にあいつについて行くのか?」
「はい。りんがお側にいたいのは殺生丸様をおいて他にありませんから」

 すっかり娘らしくなったりんが、ほんの少し頬を赤らめてそう告げる。楓の村で暮らした数年間でりんは色んな事を学び、身につけた。人と関わり、暮らしてゆく術も。それでもりんが選んだのは、殺生丸と共に歩む道であった。

「今までみたいに、殺生丸が村に通ってくるって形じゃだめなの?」

 あの人間嫌いだった殺生丸が、りんの為に度々この村に通ってくるのは周知の事実。今では廃れこそしたが、『通い婚』でも良いのではないかとかごめは思う。せっかくりんが手に入れた、『里の暮らし』なのだ。ここならば友達もいるし、姉代わりの自分や珊瑚もいる。祖母の様な楓だって。歳若い娘に取って、これほど心強いものはないだろう。
 それらを全て捨てて、りんは漂泊の大妖怪・殺生丸の元に嫁ぐと言うのだ。

「……今ままで、そんな殺生丸様の優しさに甘えてきたりんです。本来なら、人間の村に足を向ける事など有り得ないお方なのですから。妖怪である殺生丸様には、妖怪らし生き方をなさって欲しい。だから、これはりんの望みでもあるのです」
「人が妖怪の生き方に合わせるのは、とても苦労を伴うものだと思いますが……」

 静かに、諭すように弥勒が言葉をかける。

「法師様。大変な事が多いとか苦労が多い人は、だからと言って必ずしも不幸なのではないでしょう? りんはそんなに弱くはありません。それにりんの前には、ちゃんとお手本もいらっしゃいました」
「お手本?」

 首を傾げる様な仕草で、珊瑚が問う。それは犬夜叉とかごめの事だろうかと。

「犬夜叉様の母上様です。冥加様にお聞きした事があります。貴族のお姫様だった犬夜叉様の母上様は、殺生丸様と犬夜叉様の父上様が妖怪である事を承知の上で、そのお心に惹かれて嫁がれたとか。その為、都の偉い方々にどんなに責められても、ご自分の信念を貫かれたと聞きました」
「りん…、その話は……」

 犬夜叉の脳裏に不意に幼少の頃の、辛い思い出が蘇ってくる。

「りんにはそれがどのくらいお辛いものかは、想像もできません。でも、今の犬夜叉様を見ていて、りんは大丈夫だと思ったのです。自分を偽る事無く貫き通した信念は、きっと幸せに繋がっているって」
「りんちゃん……」
「だって、犬夜叉様とかごめ様は今、お幸せなのでしょう?」

 にっこり笑ってりんは、かごめの腕に抱かれた赤子に優しい眼差しを向けた。

「……周りから見てそれが幸せに見えなくても、りんに取って幸せなら、なんの問題もないのです」
 
 りんには、犬夜叉達が口にしない事まで判っている。
 かごめのように浄化の力の無いりん、半妖の犬夜叉と違い完全なる大妖怪の殺生丸の身に満ちる妖気と毒気の強さ。それらがりんの身を蝕む事も、重なる時の短さも全て承知して。
 それでもそう言い切る強さは、あの十六夜と同じもの。
 遥か古の、なんの繋がりも無いこの二人を結びつける、この縁。

 奇縁(くすきえにし)に結ばれて ――――

 かつての二人が残した軌跡から、ほんの僅か逸れながら螺旋を描くようにめぐり巡って未来に向かう。

「それじゃ、りん行くね!」

 明るい声を響かせて、りんは村はずれで待つ殺生丸の元へ駈けて行く。
 あの大妖が、この村を訪れることはもうない。
 切ない色を浮かべた優しい眼差し達が、二人の門出を見送っていた。


【完】
2010.8.2



= あとがき =

私が本格的に殺りんにハマったのが、この犬映画第三弾「天下覇道の剣」を見てからでした。もともと犬夜叉の両親の姿は、殺生丸とりんちゃんの未来だろうなぁとは思っていただけに、殆ど本編では描かれなかった十六夜さんと闘牙王の関係が描かれていて、うひょ〜〜♪♪ と思ったのです。
それでもオリジナル脚本の関係もあり、端折られたようなやっぱり描かれていない部分も沢山あるように当時感じたのでした。

それを5年以上も過ぎた今、ようやく形にする事が出来ましたv
時期外れも良いところですが、書きたい時に書くマイペースさが信条。
これからも、こんな風に思いついたままを形にしてゆきたいです。
 



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