【 奇縁 −くすしきえにし− 5 】
闘牙が十六夜の屋敷を出て、早二年。
修行の為、諸国を放浪する闘牙は八咫烏を使って刀々斉に時折消息を伝え、また屋敷の様子も同じようにして知らせてもらっていた。それによると竜骨精も遠方での闘牙の動きに注意を引かれ、すっかり刃向かう意思をなくした都の人間たちに関心が薄くなったのも幸いして、今のところ都には平安が訪れていると記されていた。その知らせを聞き、ならば今はまだ都に帰る時ではないと、闘牙はさらに修行の旅を続ける。
そうまでして修行の旅を続ける闘牙には、どうしても得たい力があった。それはこの世の『理(ことわり)』に逆らう力と判っていても、求めずにはいられない。十六夜と出会い、人間と関わった事で闘牙の中に生まれた妖怪らしからぬ想いが、その力を求め闘う度により強く鉄砕牙に宿ってゆく。妖気とは違うそれは、すでに霊気・神気に近しいものにまで昇華されつつあった。
( まだだ、まだ戻れん。守りたい者を守るには、敵を斬るだけでは駄目なのだ。不慮の死を蒙った死すべきではない者をも救う、それが出来ぬうちは! )
この二年間で力が強いだけの妖怪はあらかた倒し、その妖力を奪ってきた。力のない者は、闘牙の気配を感じただけで隠れてしまう。残った知恵のある強大な妖怪との対決の一戦一戦は、まさに死闘の一言に尽きた。今も道返大岩(みちかえしおおいわ)に背を預け、斬り捨てた無数の醜いモノたちとの闘いを思う。下手をすれば、自分が黄泉に堕ちる闘い。伝え聞く古の英神の後跡を辿ってみたが、自分の求めるものが我が身を助ける力ではないだけに、何かが違う、何かが足りないとそれしか分からなかった。
「……十六夜。俺はまだ、お前の許に帰る事は出来そうに無い。俺の腕の中で死んでいったあの子どもの顔に、お前の顔が重なる今は ―――― 」
父親を、自分を狙う妖怪達との戦いの巻き添えで殺された人間の子ども。
惨たらしい死体を見た時の、子どもの目に浮かんだ強い恐怖。
そして、自ら死を選んだ深い絶望。
それら全てが十六夜の身の上と重なってしまう。
死んではならん、死んではならんと、胸が張り裂けるほどに叫んでいる。
刀々斉はそんな闘牙の苦悩を、八咫烏が伝える伝言の端々から感じ取っていた。
夜の闇に伝言の烏を放すと、ふと刀々斉は考えた。そして一見平穏そうに見える今の状況に、暫くの間なら屋敷を留守にしても大丈夫だと判断し、刀々斉の晩酌に琴を爪弾き興を添えてくれていた十六夜に声をかけた。
「姫様よぉ、ワシぁちっと出かけようと思う。じゃから、ワシの留守中はくれぐれも用心しておいてくれ」
「お出かけですか? 刀々斉様。どちらへ?」
「ん〜、まぁ、ちょっとな」
と、刀々斉は言葉を濁す。
旅に出たきり戻ってこない闘牙を待って想いを募らせ愁いを抱く日々が、十六夜をますます臈たけた美しい姫に成長させていた。儚げな美しさと楚々とした風情に隠されがちだが、生来の気丈さは変わりがない。もしここで刀々斉が闘牙のところに行くと言えば、自分もついて行くと言い出しかねない十六夜だ。
「あ〜、流石に二年近くもここに滞在したからな、ちょっと自分の鍛冶場の事が気になってなぁ」
「……申し訳ございません。わたくしどもの為に ―――― 」
「いやいや、ここはまるで極楽だからよ、ほんっ〜とは行きたくねぇんだが。まぁ、そうも言ってられんしな」
気まずそうに白髪の頭をポリポリ掻く刀々斉の様子に、十六夜はあまり深く触れぬのが分を弁えた振る舞いだと直感した。
「では、お早いお帰りをお持ちいたしております」
「おぅよ。じゃ、ちょっくら行ってくるぜ」
「まぁ、今からですか?」
「ああ、さっと行ってすぐ帰ってくる。美味い酒の続きも飲みたいし」
おどけたようにそう言うと刀々斉は十六夜に見送られ、夜闇に浮かぶ木扉の外へと出て行った。人目の無い事を確認し、愛牛の猛々を呼び寄せると、夜陰に紛れ空を風の速さで闘牙のところへと翔け急ぐ。おどけた様は掻き消え、引き締まった表情は、夜の闇よりも暗い何かが刀々斉の胸に忍び寄っていたことを物語っていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
その頃では、洛外に追放された十六夜達の事を思い出す者も稀になり、いつしか都の役人も足を運ばなくなっていた。唯一気にかけてくれるのは、猛丸の妻となった妹宮だけ。屋敷内は闘牙の家人達が良く立ち働き、何不自由のない生活を送っている。家人達は良く躾けられているのか、決して十六夜達と私語を交わすことは無かった。
刀々斉が一抹の不安を抱え闘牙の所へ赴いた次の日、たまたま十六夜の屋敷の近くを通った他国の商人はその屋敷の立派さに目を丸くした。人の眼を誤魔化す為に施していた妖術が、大妖二人が留守にした事で解けかけていた。
「不思議なこともあるものだ、つい先頃までは、ここは今にも崩れ落ちそうなぼろ屋敷だったはず」
そう呟きながら商人は、洛内でも外れに位置する、贔屓にしてもらっているある武家屋敷の裏木戸に回る。前に来た時に頼まれていた品々を持って厨(くりや)に通されると、微かに膨らみが目立つようになった自分の下腹部を愛しそうに撫でさすりながら屋敷の奥方が現れた。持ってきた産着や晒しなどを見ていたその屋敷の奥方に、商人は先ほど目にした屋敷の立派さを、商売のついでの話のタネにと話しだした。
「奥方様はご存知でしたか? 今まで気付かなかったんですが、都の外れに立派なお屋敷がございますなぁ。どちらのお方様のお住まいなのでしょう?」
「都の外れ?」
「はい。前に来た時にもその前を通ったのですが、その時は気付きませんでした。以前聞いた時には、やんごとなき貴族のお姫様と奥方が罪に問われて、閉門されていると伺いましたが」
「…………………」
商人からその話を聞いた武家の奥方、それは十六夜とも旧知のあの妹宮。その妹宮の顔に、なにやら思案の色が浮かぶ。
「奥方様、いかがなさいました?」
「あ、いえ…。そうですか、そのような事が……。ええ、わたくしも良くは知らないのです。でも、この話は他所ではなさならい方が良いでしょう。もし、その閉門中の方々の事ならば、それを口にするのは都ではご法度です」
すでに忘れかけられている存在ではあるが、この商人の話が十六夜達の禍の種にならぬよう、そう口止めをする。役人の耳にでも入れば、また厄介なことになるだろう。
しかし、と妹宮は考えた。そんなに立派な暮らしをしていると言う事は、誰か有力な者が十六夜の許に通っていると言う事ではないだろうか?
それならば自分が猛丸の許に降嫁してきて以来抱え続けているこの胸の内を、本当の想いを伝える時ではないだろうかと妹宮は考えた。そう思うと妹宮は居ても立ってもおられぬような心地になり、昔から自分に仕えてくれている一番信用している者を共に、お忍びで屋敷を出たのだった。
繋がりがある事が判れば夫である猛丸にどんな災厄が降りかかるかわからぬと、影で十六夜を援助していた妹宮も今まで十六夜の屋敷を訪ねた事はなかった。十六夜への使いは、この供をしている古くからの侍女にだけ頼んでいた。
「宮様、先ほどの商人の言葉は本当でしょうか? わたくしはつい先頃、宮様のお使いで訪ねたばかりでございますが、やはり哀れなまでに軒の傾いた荒れ果てた様子で御座いました」
「……お前は屋敷の中に入ったの?」
「いえ、やはり、その……。閉まらぬ木扉の隙から、届けただけにございます」
人目を避け、小声で話しながら洛外への道を急ぐ。
「もしあの商人の話が本当なら、とても慎重な方の配慮で外側だけ荒れさせたままにして、内は住みやすく建て直していたのかもしれません。そしてもう頃合かと、外回りも整えさせたのでは……」
「頃合とは、十六夜様の咎を問う者もいなくなったと?」
「ええ、おそらく。十六夜様はあの魔物の呪いをものともせぬような、そんな力の有る方の庇護を受けているのではないでしょうか」
「では、今は十六夜姫様も立派な殿方を夫に迎えられたという事なのですか?」
「お会いしないことには判りませんが、それで十六夜様がお幸せなら、わたくしの願いもお許し頂けるかと……」
「宮様……」
妹宮の想いを内裏に住んでいた時から知っている侍女は、妹宮の胸中を思い言葉を控えた。
そう、どれだけ妹宮が猛丸の事を慕い、親愛の情深い十六夜との間で思い煩っていたかを。
そんな二人の目の前に、今まで闘牙と刀々斉の結界で隠されていた十六夜の屋敷の全容が晒されていた。あまりに見事な、まるで帝の別邸のような威容さえ誇るその屋敷に、魔物の呪いや洛中を追放された咎人の持つ不吉さや暗さは無い。住んでいる者まで変ってしまったような、そんな気がする。その考えに気付き、妹宮の胸は不安で苦しくなる。
「……もしや十六夜様方はとうの昔にここから去られて、今は本当に別の方が住んでおられるのでは」
「それでは、十六夜様は一体どちらに……」
自分の知らないうちに十六夜達が都落ちしていたとしたら、それを知った猛丸の悲しみはどれ程だろうと妹宮は心を重くした。もしそうならば、自分は十六夜に対しこの心の重さを抱えたまま生きてゆかなくてはならない。そんな沈みかけた妹宮の耳に、優しくも切ない琴の音が届く。微かな甘やかさと情感深いその音色。
「これは…?」
「……耳にした事があります。この琴の音は,十六夜様の手によるもの!」
琴の音に惹かれ妹宮は、屋敷の中に入っていった。屋敷の中は貴人の住まいに相応しく、風雅で気品高く良く手入れされていた。屋敷の奥から聞こえる琴の音が、妹宮を導いてゆく。この屋敷の、一番庭が美しく見える部屋で十六夜は闘牙を想って琴を爪弾いていた。誰も訪れる者もない庭に、不意に差す人影。はっと驚いたように顔を上げた十六夜の眼に、自分より幼かった妹宮の、妻となりやがて母になろうとする艶めいた美しさが映った。
「宮様、なぜここに……」
「……お屋敷の様相が変られたと聞いて、十六夜様の身に何かあったのではと思い来てしまいました」
妹宮の眼にも、十六夜の姿は愁いを帯びて美しく映っている。
「庭先での立ち話はお体に障ります。どうぞ座敷にお上がりくださいませ」
十六夜は弾いていた琴を脇に避け自分も下がり、妹宮に場所を譲る。十六夜の動きを読んだかのように物静かな女中が唐衣に真綿を入れた座布団を用意し、茶の支度をして現れた。
「さぁさ、そちらのお付のお方も」
上座に妹宮の座を作り、香りの良い藺草に綿を詰めた物をお付の侍女に勧め脇に付かせ、十六夜は下座に正座した。
「お久しゅうございます、宮様。わたくしの事を忘れること無いお心遣い、深く感謝いたしております」
「本当に久しゅうございます、十六夜様」
賓客二人の前に置かれた白磁の茶碗から、甘い匂いの湯気が立っている。
必要な時だけ物を言う屋敷付きの女中が、何事か小さく十六夜に伝えた。
「牛車や駕籠が見当たらぬとの事。お屋敷からここまでお忍びで歩いて来られたのでしょう。どうぞ喉を潤して下さいませ」
妹宮は十六夜の言葉に目の前の茶器を取り、口元に運ぶ。薄甘いお茶が喉に優しく流れ込み、ほっとしたような気持ちになってくる。ゆっくりとお茶を頂きながら、座敷の様子や十六夜の身なりなどを見てみる。それは溜息が出るほど贅を凝らし、それでいて華美にならぬよう心配られた最上級の物ばかりだった。
「宮様にはお幸せなご様子、嬉しく思います」
十六夜が姉のような優しい視線で、新たな命が宿った妹宮の姿を見つめている。
「十六夜様もお幸せなご様子です。良きお方を迎えられたのですね」
「……幸せ? そうですね、今のこの暮らしを不幸だと言うのはあまりにも申し訳ありません。でも ―――― 」
そう言って、十六夜は言葉を濁した。
猛丸の妻として、自分の目の前にいる妹宮に比べ今の自分は、余りにも中途半端な存在。
闘牙の娘でもなく、妻でもない、今の自分。
大事にされているのは判る。
好意を抱いてくれているのも。
だけど、その闘牙を求めようと伸ばした腕の先に、闘牙の姿は無い。
自分の為、亡き父の為に、あの魔物を倒すべく修行の旅に出ている。
それが、辛かった ――――
今、ここに居てくれないのが。
「わたくしに夫はおりません。とても良い方の庇護の下におりますが……」
「十六夜様。それでは……」
一瞬、妹宮の脳裏に十六夜が財で囲われた愛妾のような扱いを受けているのかという思いが浮かぶ。
今では猛丸の正妻として誰憚る事の無い自分と、陽影に隠れるように暮らさねばならない十六夜。妹宮の胸に、深く重いものが溢れてくる。
「いえ、やはり幸せです。待つほどに、想いも募るというもの」
にっこり微笑みかける十六夜を見、妹宮は上座を外していきなり頭を下げた。その様子にびっくりしたのは十六夜や侍女。
「どうなさったのですっっ!? 宮様! どうぞ、頭を上げてくださいませ!!」
側に近付き、肩を抱くようにして十六夜は妹宮の頭を上げさせようとした。下から十六夜を見上げるような妹宮の潤んだ瞳。
「許してください、十六夜様。わたくしはあれほど猛丸様と十六夜様に約束していたのに、その約束を守れそうにないのです!」
「約束……」
「はい、わたくしはお二人の仲を昔から知っております。猛丸様のお身を慮って仮初の妻として降嫁したわたくしは、時至ればこの身を引く覚悟でございました!!」
「宮様……」
そこで妹宮は申し訳無さそうに、だがきっぱりと自分の想いを十六夜に告げた。
「……わたくしも、猛丸様がずっと好きでした。猛丸様が十六夜様の事しか目に入らなくても、それは構いませんでした。ですが、あのような事態になり猛丸様の身に禍の火の粉が降りかかりそうになった時、わたくしなら払えると、そう思ってしまったのです」
「……………………」
「大好きなお二人の役に立つのなら、と……。でも、仮初でも猛丸様の妻となり、猛丸様の子を宿した今は、もう……」
泣き崩れ、十六夜に縋りつく妹宮。そんな妹宮の背中をあやすように優しく撫でさする十六夜。
「……宮様は、本当に猛丸の事を愛していらっしゃるのですね。どうか泣かないでください。わたくしと猛丸との間は、もう終ったのです」
「十六夜様……。でもわたくしが猛丸様の妻になったばかりに、十六夜様の場を奪ってしまったのでは……」
なにか誤解がありそうな妹宮を前に、十六夜はそれこそ仲の良い姉妹の打ち明け話をする時のような笑顔を見せた。
「恥ずかしながらわたくし、未だに殿方というものを知りません。わたくしたち母娘を庇護してくださるお方には、国元に奥方様も跡取り様もいらっしゃるようなお方。ましてや、幼い頃よりわたくしを可愛がってくださったお方でもあります。だからかも知れません、わたくしを望んでくださらないのは」
「では。では、あの……」
いくら既婚者であるとはいえ、そうそう口にできるような内容ではない。真っ赤になって口ごもる妹宮に十六夜は、ただにっこりと微笑みかける。
「あのお方には、わたくしも猛丸もまだ子どもの様にしか映っていないのでしょう。あれからもう随分と時が流れたと言うのに」
「そのお方は、十六夜様と猛丸様の事をご存知なのですか?」
「ええ。わたくし達の幼い頃からをご存知のお方です」
「では、その方は十六夜様を娘のように思っておられる……?」
妹宮の問い掛けに、十六夜は返す答えに迷う。
が、十六夜の中では心はもう決まっていた。
「―――― それは判りません。ですがわたくしは、宮様に勇気を頂きました。わたくしも、そのお方が戻ってこられたら心を込めて伝えようと思います。闘牙様の妻にして欲しいと」
「十六夜様、それはそのお方の側室に上がるという事ですか?」
十六夜は、少し首を傾げた。それから真っ直ぐ前を見据えた強い瞳のきらめきを妹宮に向ける。
「世間で既に奥方のおられる方の側に上がるのを、比べてあれこれ言われるのも存じております。ですが、心の底からお側にいたいと思える殿方の元に行くのに、何を引け目に感じることがあるのでしょう? わたくしが選んだわたくしの道なのですから」
「闘牙様と仰るのですか? 十六夜様の思い人は」
「はい、今は修行の旅の空の下。いつお戻りかは判りませぬが、戻ってこられたら否応も無くわたくしの方から」
どんなに愁いを秘めた美姫に長じようと、芯の強さ気丈さは変らない。
「十六夜様ったら……」
十六夜の一言で、辺りの空気の色が変った。
「ですから宮様、お戻りになったら猛丸に伝えてください。わたくしは闘牙様の妻になります、と。そしてわたくしからも末永く宮様と仲睦まじくお過ごしくださいと」
長い間、妹宮の胸にあった重たいものが霧散していた。妹宮は、晴れて猛丸の妻になったのだと実感できたのだった。屋敷に戻った妹宮から今の十六夜の様子を聞き、十六夜の言葉を伝えた聞いた猛丸は、あの時闘牙が言った『十六夜に選ばせる』と言った言葉の意味を噛み締めていた。
これで本当に自分と十六夜の間は終ったのだと思い知った瞬間、迷いがふっと消えたような気がした。そして自分だけを慕ってくる妹宮の姿を改めて目に留める。今まで仮初でしかなかった妻の姿が、その身に宿る命と共に自分のものだとはっきり感じられた。猛丸は迷いの替わりに、なにかほんのりと甘やかなものが胸に染み渡ってくるのを感じていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「ひでぇー様だな、犬の大将」
烏の伝令から感じた不安に刀々斉が闘牙の妖気を追ってみれば、そこには無数の真円を穿たれた岩山の影で肩で息をついている満身創痍な闘牙がいた。
「刀々斉か…。何の用だ」
「何の用って、大将が無茶をしているのを止めさせようと思ってな。今回はどうやらくたばらずに済んだみてーだが、次もそう行くとは限らんぞ」
「無茶、か」
「ああ、無茶だ。大将ほどのモノが、いくら強力な武器だとしても自分の牙から打ち出した剣を馴染ませるのに、二年も掛かる訳ゃねぇ。なんか無茶をやってるなとは思っていたが、とうとう死神鬼とまで死合いやがって! 竜骨精を倒す前に、死神鬼の冥道残月破で冥界送りにされっちまうぜ」
刀々斉の言葉に闘牙は、口元に謎めいたものを浮かべ手にした鉄砕牙を鞘から引き抜いた。鞘から引き抜かれた鉄砕牙は、たちまちの内に漆黒の刃へと変化した。
「これは……」
「あいつから奪った冥道残月破だ。でも、これも違う! 俺が欲しいものとはっっ!!」
闘牙の感情の昂ぶりを映して、黒い刃の鉄砕牙がびりびりと小さく震える。刀々斉はその黒い刃の中に、微かに一点の光を見つけた。それは鉄砕牙の斬る性質とも冥道残月破の冥界を開く力とも相反するもの。
「闘牙よ、お前が欲しいものはなんだ? 随分と鉄砕牙に無理をさせやがって、こいつ今にも内から砕けそうだぜ」
「俺が欲しいのは、命を繋ぐ力だ。そのままでは敵に殺されてしまうかも知れぬ命は、鉄砕牙の一振りで助ける事が出来る。だが死んでしまった命には、あまりにも無力だ」
他者の命を救うために、自分の命さえ賭ける ――――
闘牙の激しくも優しい思いが、鉄砕牙の中に光を生み出した。しかし、その光は鉄砕牙自身をも砕くほどの力。決して共にあってはならぬもの。
「なぁ、鉄砕牙。お前の主はとんだ間抜けだな。ちゃんとお前の中にあるものに気付いていねぇんだからよ。そのせいで、今にもお前が砕けそうにぎしぎし言ってるのも聞こえていねぇんだぜ」
「刀々斉……」
「鉄砕牙は斬った相手の力を吸収する剣。お前がこの世のものではない力を求めて彷徨い闘い続けた結果、確かに鉄砕牙はこの世のものではない力を帯びるようになった。そして今、死神鬼から冥道を開く技すら手に入れた」
「……………………」
「しかし、お前はその『この世のものではない力』を鉄砕牙の本来の性質である『斬る力』としては望んでいない。おかげで鉄砕牙が力を持て余し、暴走する寸前だ」
「どう言う事だ、刀々斉」
「ごちゃごちゃ説明するのも面倒だ。ほら、この鉄砕牙を持ってお前等の戦いのとばっちりで死んでしまった動物達を見てみろ」
ふらつく身体でようやく立ち上がり、刀々斉の言われた通り岩山の動物達の死体を眺める。大きな闘いの有るところでは、人間だけでなくこうして動物までもが被害を蒙る。どれも皆、一つきりの命だというのに。申し訳ない気持ちで死体を見ていると、その死体の側の空間が歪み、その中心から餓鬼のような忌まわしいモノたちがわらわらと現れてきた。
「刀々斉、これは……」
「見えたか、闘牙。あれが、あの世の使いだ。まずは冥道残月破で斬ってみろ」
刀々斉の指示通り、あの世の使いにむかって冥道残月破を放つ。黒い刃はあの世の使い達の身体をすり抜けた。
「……斬れん。なぜだ!?」
「鉄砕牙が斬れるのは、この世のモノだけ。今度は、これで試してみろ」
刀々斉が黒い刃の中の光を指で押さえ、それを引き出すように剣先まで指を動かした。瞬間、黒い刃が霊気を放つ光の刃に変る。鉄砕牙に操られるように闘牙は、再び鉄砕牙をあの世の使いの上に振るった。りん、っと澄んだ音と共にあの世の使い達は光の刃に斬られ消滅した。それと同時に、冥道残月破の流れ玉に当り肉を抉られて死んでいた動物達が元の姿に戻り息を吹き返した。
「こ、これは…! この力はっっ!!」
闘牙の身体の震えよりも、手にした鉄砕牙の震えの方が激しい。今にも中から砕けそうなほどの波動を起こしている。
「闘牙! 早く鉄砕牙を鞘に収めろっっ!!」
刀々斉の怒声が飛び、闘牙は慌てて鉄砕牙を鞘に収めた。鞘に収める事により砕けそうな鳴動は鎮まったものの、鞘ごと震える小さな振動は止まらない。
「欲しかったのは今の力だろう? 闘牙」
「ああ、そうだ。失われた命をこの世に繋ぐ力。凄いものだな、鉄砕牙は!!」
「だから、無茶しやがってと言ったんだ。見ろ、次に闘いの為に鉄砕牙を鞘から引き抜いたが最後、鉄砕牙はワシでも打ち直しが出来ねぇくらいに粉々に砕け散ってしまうぜ」
「では、どうすれば……?」
刀々斉は、大きな溜息をついた。
「貸してみな。今ならまだ、間に合う。ワシが打ち直して、力を分けよう。そうすれば、鉄砕牙は砕けずに済む」
「出来るのか、そんな事が」
「大将が一口の剣に二口分と言わねぇ相反する妖力を溜め込んじまったのが原因だからな。一本の剣の中で力を振り分けて、一気に二つに叩き折った剣をもう一度それぞれ鍛え直せば、どうにかなるだろ」
やれやれと、刀々斉はこれからの大仕事を思い浮かべて軽く脱力していた。
「打ち直しが済むまでは、お前も旅を休め。十六夜が寂しそうにしていたぞ。あれからどれだけの時が経っていると思うんだ?」
「ああ。でも竜骨精を倒さぬうちはなぁ……」
「人間の持ちうる時は、ワシら妖怪の時に比べて遥かに短い。十六夜がお前に見せたい一番美しい時期が過ぎてしまうぞ」
「俺は若かろうと老いていようと、十六夜が十六夜だから気に入っているのだ」
「だからお前は女心が判らんと言うのだ。悪い事は言わん、早く帰ってやれ。ワシもお前もおらぬでは、屋敷が手薄すぎるからな」
そう言うと刀々斉はピィィと口笛を吹き、一羽の鳩を呼び寄せた。懐からごそごそと矢立を取り出し、細く切った和紙にさらさらと何か書き付けると紙縒りのように撚ったその和紙を鳩の足に結び付けて空に放した。
「なんだ、あれは?」
「お前が帰ってくると十六夜に知らせてやったのだ。女は身支度に時間が掛かるからな、お前も二・三日頃合を見計って屋敷に戻れ。まさに見頃の花のようだぞ」
こうして刀々斉の段取りで闘牙は二年ぶりに,十六夜の待つ屋敷へと戻ることになったのだ。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
あの悲惨な出来事から二年、咎人としての立場は変らぬがそれでも十六夜の気持ちは晴れやかなものに変化していった。都にあれから大きな禍が降りかからないでいる事も大きいが、自分の気持ちがはっきりと定まった事も大きかった。大事な幼馴染や友人の幸せを願い、そうなりつつある姿を喜ぶ事が出来る。あとは闘牙の帰還を待って、自分の気持ちを伝えるだけだと考えていた。
( ……闘牙様がお帰りになったら、なんとお声をかけてくださるのだろう? まだ闘牙様の眼には、わたくしは子どものようにしか見えないのでしょうか? )
刀々斉からの知らせを受け、十六夜は屋敷の中を念入りに片付けさせ、自分も出来るだけ大人っぽく美しく装った。夫の訪れを待つ妻はこんな心地なのだろうかと思いながら、その想像にほんのりと頬を染める十六夜でもあった。
闘牙と刀々斉、二人がいることで完成していた結界は刀々斉が不在となり、結界に闘牙の痕跡がありありと表れてきた。人間に対して門を閉じていなかったこともあり、その外見のまやかしが切れるのは思ったより早かった。それでも妖怪達に対しての結界力は磐石で、それだけに尚闘牙の存在が目立ってしまったのだ。
遠方で暴れまわっている闘牙の噂に竜骨精も時折東の国まで出かけ、こちらも手薄になっていたのは否めない。これもやはり因縁なのか、闘牙が帰京しようとした前後に竜骨精もまた、都に戻ってきていた。自分が留守の間に平安を取り戻しつつある都の様子に、嘲笑を浮かべる。
「喉元過ぎれば…、だな。さて、どうやって都を荒らしてやろうか? 本性を露わにして暴れまわるばかりでは芸がない」
帝よりの厳命で、今の竜骨精は『触らぬ神』扱い。何人も、その逆鱗に触れぬよう暮らしている。いくら気に入らぬ目障りな人間達を殺したい残虐心に揺さぶられても、些細な言いがかりをつけての暴虐はあまりにも器の小さな話。それは自尊心の高い竜骨精の気に入る方法ではなかった。
都の様子が伺える洛外の崖の上で気配を消し佇んでいると、弟子を連れた陰陽師が通りがかった。並みの陰陽師であれば命拾いしたかも知れぬが、いささか力が有る事が禍した。隠していた竜骨精の気配に気付き、崖を仰ぎ見たのが致命傷。竜骨精の姿に気付いた瞬間、弟子共々瞬殺されていた。
「うむ、人間に化けるのも面白そうだ。人間に紛れ、心の毒を流してやろう。疑心暗鬼で人間同士殺しあうのも面白いだろう。まこと人間の心根が正しきものならば、私が流す毒などに染まろう筈も無い」
そう面白そうに呟くと竜骨精は、今殺したばかりの陰陽師に化けて都に潜り込んだ。殺した陰陽師はかなりの実力者で都中の貴族達から尊敬を集める人物であった。そうやって人間達の中に紛れ込み、都大路を大手を振って闊歩する。それで今まで気付かずにいた洛外の闘牙の結界に気付き、そこに住む者があの自分に矢を射掛けた武内の娘であり、宿敵の闘牙の庇護を受けているものだと知ったのだった。
「ほぅ、私に刃向かう者同士つるんでいるのか。闘牙は妖怪の癖に妙な情を持つ。あ奴の目の前であの娘を引き裂いてやれば、さぞ見物だろう」
夕暮れの空に黒々と浮かぶ十六夜の屋敷を外から眺め、竜骨精は面白い玩具を見つけたと言わんばかりに、冷血な眸に残虐な笑みを浮かべた。
「陰陽師殿、この屋敷に何か不審な気配でもあるのか?」
そんな竜骨精を不審に思ったのか、京中警備の武士が声をかけてきた。一瞬鋭い爪を出しかけたが、京中で殺傷沙汰は相手に警戒心を持たせると判断し爪を潜ませ、もっともらしい顔つきでこう述べた。
「……この屋敷より、何やら禍々しい気配が蠢いております。この屋敷は確か――――」
「ああ、この屋敷には先の大変の時に咎を受けた武内家縁の者が住んでおる。だが最近では呪いの効果が薄まったのか元の貴族らしい暮らしに戻ったと聞いて安堵していたのだが……。そうか、今でもやはり魔物の呪いが続いているのか」
「厄災を呼び込む性質の姫かもしれませぬ。魔物の呪いの他にも、なにやら妖しげな気配が纏わりついておりまする」
「なんだとっ!?」
「貴方様は、こちらの姫のお知り合いでございますか?」
「うむ、古くからのな」
「姫様を妖しいモノの眷属に引き込まれぬよう、お気を付けくださいませ。徳の高い聖であっても、色欲に心乱され鬼に変じた事もございます。うら若い美しい姫であればこそ、狙われてしまうものです」
「…………………」
「人であったものが、人でないモノになる。これ以上におぞましいものはないでしょう。どうかここの姫様をそんな目に合わせぬ様、お気を付けくださりませ」
竜骨精の化けた陰陽師はそう心配げな口調で警備の武士に告げると、夕陽で真っ赤に染まった道に黒い影を蛇のように長く残しその場から立ち去った。
「十六夜……」
不安げな表情を浮かべ、今となっては訪ねる事が出来ない屋敷の門を見る。その武士は宮中警備の一軍をも指揮すようになった猛丸であった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
刀々斉の指示で帰京を二・三日遅らせた闘牙が、二年ぶりで都に戻ってきた。結界の効果が薄れ、本当の屋敷の様子が外からでも伺える状態を見て軽く顔を顰める。都人達に妙な噂が立たねば良いがと思いながら、それでもいつまでも十六夜達を屋敷内に軟禁状態で留めるのも良くはないと考えていた。
( ……十六夜達が良ければ、西国に連れて下るか )
それは自分が竜骨精を倒した後か、それとも先かをしばし考える。そんな考え込んでいた闘牙に、声をかけてきたものがいた。
「闘牙殿、お戻りか!」
配下の武士を連れ、夜の京中警備に回っていた猛丸である。
「猛丸か、ずいぶん立派になったな」
「闘牙殿こそ、修行の旅に出ていたと伺った」
そう言うと猛丸は周りを憚り、闘牙の側に寄ると小声で言葉を続けた。
「……あの魔物を倒す為の、と。して、目処は立たれたのか?」
「五分五分、と言う所か。更に剣を鍛えに出している。それで納得の行くまで剣技を修めたら、あいつを都の外におびき出し討ち果たそうと思っている」
「都の外?」
「ああ、都の人々をまたあのような目に合わせる訳にはゆかぬからな。あくまでも、今度のこれは俺とあの魔物の果し合いなのだ」
重々しく力強い言葉。その言葉を裏付けるように壮年の闘牙の姿には、この二年間で増えた傷と逞しさの様な物を、猛丸は感じた。
「陰陽寮の陰陽師が言うっておった。十六夜にはあの魔物以外の禍々しい気配がすると。あの魔物の呪いが誘い水のようになって、良からぬモノが纏わりついてくるのやもしれぬ」
「うむ」
「俺からも頼む。どうか十六夜を守り幸せにしてやってくれ」
意外な猛丸の言葉が、闘牙の気を引く。
「ほぅ、お前らしからぬ言葉だな。守るのは当然として、十六夜を幸せにしてやってくれとは、どう言う意味だ?」
昔日の会話を思い起こせば、猛丸がそうそう簡単に口にしない言葉である。
「……十六夜が心を決めた。闘牙殿、貴方の妻になりたいと。だから、俺も宮と仲睦まじく幸せになってくれと言われた」
「十六夜が……」
「ああ。貴方には西国に妻も子もあると、全てを承知しての事。あれは一度言い出したら、後には引かぬ性格ゆえ」
幼馴染であればこその、その言葉。
「……全てを承知して、か。本当にそうだろうか」
「闘牙殿! 十六夜に二心はない!! 貴方は十六夜の何を疑われるっ!?」
その一言で、猛丸は今でも十六夜の事を大事に思っているのだと知る。
男と女としてでなく、幼き時を共に過ごした大事な幼馴染としての深い情愛。
「……判った。あれがそう望むのなら」
そう答えて闘牙は屋敷の門を潜った。その後姿を見つめながら自分の手の中にあった大事なものを託した、そんな空虚感を猛丸は覚えていた。
十六夜の爪弾く琴の音が聞こえる。猛丸に咎められたあの言葉の真意は、十六夜にではなく自分の方にある。まだ十六夜の知らない、もう一つの自分の顔。勿論、この屋敷に初めて来た時から覚悟はしていた。十六夜が自分を選んでくれたのなら、その時には自分の正体を明かす。それで十六夜がその言葉を翻そうとも、恨みはしない。約束も果たす。今までとなんら変らぬ加護を十六夜達に与え、竜骨精を倒すと。
はた、と琴の音が止まる。廊下を小走りに駆け寄る小さな足音が聞こえた。闘牙が庭に差し掛かる前に、美しく装った十六夜が、それこそ夜空を照らす月の如き笑顔で闘牙を出迎えた。
「お帰りなさいませ、闘牙様」
闘牙の姿を見つけ,その場に座ると三つ指をついて頭を下げた。
「今戻ったぞ。長く留守にした」
「はい。刀々斉様より知らせを受けて,いつお戻りになっても良いように準備いたしておりました」
「うむ。そうか」
「あの、刀々斉様はご一緒ではないのですか?」
「ああ。あやつは自分の鍛冶場に戻って仕事をしている。その間は俺もしばし休もうと思う」
その答えが、十六夜には嬉しかった。
「お食事の支度も、湯の支度も出来ております」
「そうか、ではまず湯を浴びたい」
「承知いたしました」
屋敷を建て直した際に、深く地を掘り湯脈を引いた。その場に檜の小屋をかけ湯殿としていた。十六夜も闘牙と共に湯殿へと行き、湯浴みの支度を手伝う。湯殿番の下女に指示し、新しい着替えを持ってこさせるよう手配した。闘牙が晒の浴衣姿になったのを見て、十六夜も小袿や袴を脱ぎ単姿になり紐で袖を結わえた。
「十六夜、なんだその格好は」
とても上級貴族の姫らしからぬ姿に、闘牙が驚きの声を上げる。
「湯女の真似事でございます。恥ずかしき姿ではありますが、闘牙様のこの二年間のご苦労を思えば、せめてお背中を流させていただきたく」
「十六夜……」
そうして単姿になった十六夜の、若々しくも女らしくなった肢体の線を眩しそうに見つめた。
十六夜の心の内を汲み、闘牙は湯殿の椅子に腰掛けると背中を十六夜に預けた。腰まで浴衣を肌蹴た広い背中に心地よい湯が注がれる。その後を十六夜のほっそりとした手に握られた糠袋が、ゆっくりと闘牙の背中を流し始めた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
思いがけない十六夜の歓待に、闘牙の気持ちも高揚してくる。十六夜が闘牙の背中を流し終わった頃、十六夜の母が闘牙の着替えを持って現れた。
「闘牙様、お着替えの支度が整っております。どうそ、お上がりを」
十六夜の母の言葉に、浴衣を羽織りなおし闘牙が立ち上がる。
「十六夜、お前はどうする? 一緒に上がるか」
「いえ、このようなみっともない姿では恥ずかしゅうございます。わたくしも湯を使い、身支度を整えてお側に上がりたいと思います」
そう言って、湯殿でも指をついて見送られる。闘牙は十六夜の母の待つ脱衣所に行く。手際の良い着付けは、亡き夫の着替えの手伝いをしていたからだろう。あっという間に、さっぱりとした様子に出来上がっていた。
「座敷にご帰還を祝う膳をご用意して御座います。十六夜もすぐに上がらせますので、どうぞお先に」
そう促され、座敷に向かう。十六夜の母の酌で杯を空けているうちに身支度を整えた十六夜が、新たな装いで座敷に入ってきた。濡らさぬよう気をつけていたのだろうが、髪の先が湯に浸かったのか十六夜の匂いと髪に付ける香油の艶かしい匂いが立ち上ってくる。純白の地に鮮やかな赤で吉祥紋が縫い取られた小袿に着替え、うっすらと施された化粧が十六夜の清楚な美しさを引き立てていた。
闘牙の横で酌ををしていた十六夜の母が、すっと闘牙の側を離れ十六夜とともに闘牙の前に額づいた。頭を下げていた十六夜が、決意を瞳に宿らせて闘牙の顔を見上げる。その様子には、なにか凛と張り詰めたものがあった。
「……女の身でかような申し出は、はなはだはしたなき振る舞いと存じております。互いに文を交わした事も無く、ましてやわたくしは闘牙様の加護を受ける身。このような申し出は、闘牙様のお気に障るやもしれぬと思いつつも、今 言わねば言うべき時を見失ってしまいます」
「十六夜……」
「どうかわたくしを、闘牙様の妻にしてくだされませ! 伏してお願い申し上げます」
再び頭を下げる十六夜とその母。この時代、まさか女性側からの求婚など、そうそうあるものではない。闘牙も猛丸から十六夜の気持ちは聞いていたとは言え、こちらから水を向けるつもりだっただけに思わず眼を剥いてしまった。
「……俺には国に妻や子がある、それは承知か?」
「はい、存じております」
「お前は、決してその者らとは同列にはなれぬ,日陰の身となるがそれでも良いのだな?」
「構いませぬ。私が添いたい殿方は、闘牙様をおいて他におりませぬ。正妻の地位欲しさに、好きでもない殿方に我が身を託すような、そんな不誠実な真似はしたくありません」
猛丸が言うように、十六夜の決心は固い。闘牙とて、十六夜が愛しくない訳は無い。だからこそ……。
「俺がどんなモノであっても、お前は俺に添いたいと、そう申すのか?」
「それは心から」
闘牙の指がパチリと合図を送ると、屋敷の端女達が一斉に座敷の建具を立て始めたちまちのうちに座敷内と庭が隔てられた。外からは座敷の中を窺うことは出来ない。
「……最初に言っておこう。お前の態度がどう変ろうと、俺の気持ちは変らない。お前達を守り、武内殿の仇を取る。それは、信じて欲しい」
「言うまでもないこと。わたくしたちは、闘牙様を信じております」
「そうか。その言葉、この姿を見ても言ってもらえれば嬉しいがな」
手にした杯を置き、いささか自嘲気味に呟くと、かっと眼を見開く。闘牙の体から放たれる気なのか、一瞬辺りが眩しく感じられ、十六夜と母は目を伏せた。光がやんだような気がして視線を闘牙の方へと向けるとそこには……。
「い、犬っ!?」
驚いたような声を出したのは十六夜の母。
二人の目の前には、白銀の毛並みを豊かにそよがせた金色の眸の大きな犬がいた。
「闘牙様、そのお姿はあの時の……」
小さく呟くのは十六夜。
「そうだ。俺はあの時、お前に助けられた狛犬だ。あの時俺は都で暴れるあの魔物、竜骨精を鎮めるために都にやってきた。そして命を落しかけたのを十六夜、お前に助けられた」
「……闘牙様があの時の狛犬だったのですね。ああ、だから初めて闘牙様にお会いした時、どこかでお会いしたように感じたのでしょう。今にして思えば、闘牙様が初めてこの屋敷にこられた夜、寝入ったわたくしを狛犬姿で温めてくださっていたのではないのですか?」
十六夜は闘牙の正体を知っても、愛しげに言葉を続ける。
「十六夜の母君よ。俺は見てのとおり『人で無いモノ』。そのようなモノに娘をやっても悔いはせぬか?」
闘牙の言葉に,十六夜の母は背をしゃんと伸ばしこう答えた。
「娘はもう、貴方様に嫁ぐつもりでおります。闘牙様の心根は、わたくしどもには痛いほど判っております。どれほど誠実にわたくしどもを大事に思ってくださっているかは。ならば、わたくしからは何も申す事はありませぬ」
「本当に良いのだな?」
「はい。ああ見えても娘は強情な性質ですし。それに狛は高麗とも書き表します。なれば、この武内の家とも縁がないといえますまい。妖しきは神しきと同義でもございます。神に仕えるのは,光栄な事にござります」
この時、この場には妖と人間とのあいだを隔てるものはないもなかった。
あるのは互いを信じあう、真心だけ。
そしてこの夜から十六夜は、闘牙の妻となった。
【
奇縁6に続く 】
2010.7.1
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