【 奇縁 −くすしきえにし− 4 】




 「闘牙様……」

 暗がりの中で、十六夜の眼には紛れもなく闘牙の姿が仄かに光っていた。十六夜は眩しそうに少し瞳を眇め、そしてその表情に嬉しさを浮かべた。頬には自然に溢れた涙が一条、流れ零れ落ちる。

「酷い所だな、ここは。臥せっている母君のお体にも触るであろう。明日の朝からでも俺の手の者に修繕させよう」

 こんな大変な時でも、平素と変らぬ落ち着いた態度と現実的な対処に十六夜は何よりも安心感を感じた。それと同時に今ここに闘牙いることそのものが、大きな意味を持って十六夜の胸を占めていた。

「ああ、良かった! 闘牙様もご無事だったのですね。父上の葬儀の後からお姿をお見かけしなくなり、もしや帝の命で捕らえられてしまったのではと、怖ろしく思っておりました」

 我が身の事を心配し、まだ涙で濡れた瞳で見上げてくる十六夜の姿に闘牙は、今まで感じた事の無いくすぐったさにも似た甘やかな熱さを感じる。

「帝の追っ手など、少しも怖れる事は無い。只人が、俺に手をかけようとするのは無理な話だからな。俺がお前の前から身を隠していたのはまた別の理由からだが、その理由も無くなった。今からは俺が十六夜、お前と母君を守る。否の返事はないぞ」
「でも、わたくしたちはあの魔物の呪いを受けております。闘牙様に、その禍が降りかかっては……」
「何を今更……。俺はあいつの眼の前で,弓を引いた者。呪いも禍もお前と同じように受けている。だからこそ、俺たちは負ける訳には行かぬ!」

 力強い闘牙の言葉が、十六夜の心を満たしてゆく。父を亡くし母は心労のあまり床に臥した。屋敷は取り上げられ、味方してくれる者は四散し、心ならずも累が及ぶのを恐れ振り切った手もある。心細さを隠し気丈に振舞ってきた十六夜が、今ようやく心の拠り所を得たのだった。

「あ、ありがとうございます。ありがとうございます、闘牙様」

 闘牙の前に手を付き、深く頭を下げて十六夜が礼を述べる。その傍らで、心労で衰弱した十六夜の母も床より這い出て同じように深々と頭を下げていた。

「十六夜も母君も頭を上げてくれ。明日になれば必要な物を運び込むが、今はこれを飲んで休まれよ」

 そう言って闘牙は懐から一本の竹筒を取り出した。それは天空の城を出る時に、持ち出したもの。万病に効く百薬の長である薬酒が入っていた。

「これは……?」
「蜂蜜と酒で棗と高麗人参を漬けたものだ。気を鎮め衰弱した体力を補う」

 西国を領国とする闘牙らしい答えに、十六夜は差し出された竹筒を受け取ると、母へとそれを渡した。十六夜の母はもう一度、闘牙に深く頭を下げると竹筒の中の薬酒を時間をかけてゆっくりと飲み込んだ。半分ほど飲んだかと思われる頃、十六夜の母はそっと竹筒から口元を外した。

「母上様、お加減は如何ですか?」
「頂いた薬酒のお陰でしょう。身体の中から温かくなってきました。重たかった身体が軽くなったような心地もします」

 そう話しながら、十六夜の手に竹筒を返す。話す声の調子も張りが戻っているような気がした。何より、蝋より白かった頬に、赤味が差しているのが十六夜には嬉しい。人間の薬師が調合したものではなく、妃の御殿医が調合した特別な薬酒。その利き目は迅速でもあった。

「久しぶりに薬酒とは言えお酒を頂いたからでしょうか? ふんわりとした眠気が差して参りました」
「おお、それは上々。良い眠りは、何よりの良薬。今宵からは俺が寝ずの番を務める故、安心して休まれるが良い」

 退屈しがちの妃の憂さを晴らすのが目的で作られた薬酒の効果で、沈んでいた十六夜の母の気持ちも軽くなったのだろう。十六夜の母はその言葉に、甘えるように微笑み軽く会釈して床についた。夫を亡くしてから初めて、魘されることのない眠りにつくことが出来たのである。

「重ね重ねありがとうございます、闘牙様。こんなに安らかなお顔で眠っている母上様のお顔を見るのは、もう随分と久しぶりです」
「……夫を亡くし、さぞお辛かった事だろう。十六夜、お前と言う者が側に在る事が、母上の唯一の縁(よすが)であったのだな」
「……わたくしのような女の身では、どれほどの事が出来ましょう。このような事になり、何度男であればと思ったことか」

 張り詰めた気丈さでは無く、十六夜らしい生来の気丈さが戻っていた。

「もし、今お前が男だったらまず間違いなく、有無も言わさず殺されていたであろう。女だったから良かったのだ。将来へと繋ぐ手段が残されたということだからな」
「闘牙様……」
「お前も疲れただろう。それを飲んでお前も休め」

 闘牙は視線で十六夜の手の中の竹筒を指し、それから十六夜達がいた室内をその獣眼で見回した。人間と違い夜目の利く闘牙の視界に映る室内の様子は、あまりにも貧窮を極めていた。十六夜の母が横になっている床は、十六夜がこの屋敷の中を探し回って集めてきたのだろう襤褸を、幾枚も重ねた上に母と自分の上着を掛けていた。

「……お前の寝床が見当たらんな」
「わたくしは良いのです。夜中も起きておりましたので」

 季節は初夏を迎えるとは言え、そろそろ梅雨に入り雨寒い夜もある。夜中に起きていても、寒いものは寒いだろう。この数年の人間に化けての暮らしで、人間は良く食べ、良く眠り、心に憂さのない暮らしをせねばすぐ身体を壊す事を知った。妖怪の自分では、有り得ぬことばかりだった。

「何か探してこよう」
「大丈夫です、闘牙様。この薬酒は身体を温めてくれるとか。季節も真冬でもありませんし、わたくしなら平気です」

 思わず十六夜の口をついて出たその言葉は、闘牙にここにいて欲しい気持ちの表れ。にっこり微笑んで竹筒を口に当てと、小さな喉元をこくこくと上下させて薬酒を飲み下していった。

「薬酒とは思えない、とても美味しいお酒ですね。もうおなかの中から温かくなってきました」

 飲み干してしまったのか竹筒を下ろし、ほんのりと目元を桜色に染め潤みを増した眼差しで闘牙を見つめた。おそらく空腹の所に口当たりは良いとはいえ、かなり強い薬酒を飲んだせいか早い勢いで酔いが回ったようだった。ふらっと十六夜が微笑んだまま、倒れ込んで来る。闘牙はその身体を受け止め、少し困ったような顔をした。このままでは身動きが取れない、十六夜の為に何か掛けるものでも探してこようと思っていたのに、自分の腕の中で寝入ってしまった十六夜。
 耳を澄ませば、安らかな二つの寝息。おそらく朝まで起きてくる事はないだろう。そう判断した闘牙の眸が暗闇で金色に光る。十六夜を抱えたまま闘牙はぶるりと身震いをすると、その姿はあの十六夜と初めて会った時の狛犬姿に変化していた。前足で十六夜の肩を抱かかえ、温かく柔らかな腹毛で優しく包み込む。
 ぐっすり寝入った十六夜の、寝息の芳しさと楽の音ように聞こえるとくんとくんと打つ鼓動。自分を心配げに見上げた濡れた瞳を見た時に感じた熱さが、また蘇ってくる。

( 誰かに心配してもらうなど今まであったこともなく、もしそうなれば恥でしかないと思っていたが、これも悪くはないものだな。あんな顔で誰かが俺を心配することなどなかっただけに、こんな気持ちがある事に気が付かなかった )

 妖怪の世界での番(つがい)は、共に力の釣り合う相手を選ぶ事が多い。それは情愛よりも、自分の血を確実に残すための本能。弱い相手との間に生まれた仔では、他との争いで淘汰されるからだ。妃とは、まさしくその関係。後は相性だけが決め手となる。
 人間と交流するようになって、人間の世界ではまた違うやり方があるのだと知った。人間の世界でも、釣り合いを重視しているように思えるが、力の釣り合いよりも相手をどれだけ気に入るかが重要になる場合もある。力のある男なら、相手の女は力が無くても構わないように思えた。
 自分の気に入った女の衣食住に渡る経済的な世話をする代わりに、男は気に入った女を自分のものに出来る。与えるから与えられる。それも人間世界での婚姻のあり方の一つだと思っていた。そういう理解の下に、闘牙は猛丸に十六夜を妻にすると言ったのだった。自分は十六夜を気に入っているし、十六夜さえその気であれば。

 だけど胸に抱いた十六夜の存在感が大きくなるほどに、そんなものではないと自分の中の何かが囁く。それが何かは、まだ判らない闘牙だった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 荒れた屋敷のすすけた建具の隙間から、金色の満月の光が優しく差し込んでくる。その光の中に浮かぶ影は、大事な宝物を守るように佇む大きな狛と麗しき姫君。
 ゆらゆらと、光の波にたゆたうように。

 ぐっすり眠ったのは、もう何日ぶりだろう? 
 
 十六夜は、いつもより明るく感じる朝の光を瞼の裏に感じ、心地よく夢と現の境でまどろんでいた。とても楽しい夢を見ていたような気がする。どこか知らない野の原を、気持ちよく駆け回り疲れてそのまま草原に倒れ込む。草の匂いと陽の暖かさ、風が気持ちよく吹き抜け、なんだか嬉しくなって大地をその手でぎゅっと抱き締めた。その感触は柔らかな毛並みに変わり、太陽の暖かさは何かの生き物の体温の温かさに変わる。草の匂いはどこか知っているような匂いのような気もし、そよ風は誰かの吐息のような……。

( ……夢? でも、この感じは確か、どこかで ―――― )

 くん、と自分の近くで身じろく感触があった。そしてそっと自分の身が床に横たえられたのも感じる。

( わたくし、今までどう休んでいたの? 温かくて柔らかいものに包まれていたような気がするのだけど…… )

 そんな疑問が先に立ち、とうとう十六夜は瞳を開いてしまった。目の前には、朝の光に照らされる荒れ果てた屋敷の室内。ここ最近は、もうそんな光景にもどこか心が凍ったようになって何も感じなくなっていたのに、今朝は違う。その光に中に立つ、闘牙の姿があったから。

「……お恥ずかしいばかりです。あまりにもみすぼらしすぎて ―――― 」
「何を恥じ入ることがあろうか。お前達に落ち度があってこうなった訳ではない。お前達を困窮の極みに追いやって、父君の後でも追わせようという腹だろう。自分達の手を汚さずに済むようにな」
「闘牙様……」
「だからこそ、お前達は何があっても生き抜かねばならん。その手伝いは、俺がしてやる」

 力強い、その言葉。物静かだった父とも違う、血気盛んな若い猛丸とも違う。落ち着きと自信、そして人を動かす熱さ。初めて十六夜は闘牙を、一人の異性として見つめていた。
 見惚れたように闘牙の顔を見つめていた十六夜の視線に気付き、照れたように闘牙の表情が崩れた。

「十六夜、お前のその大きな瞳でそんなに見つめられたら、穴があいてしまう。そんなに俺はいい男か?」

 この状況で、そんな軽口。思わず十六夜はあの夜から初めて、明るい笑い声を立てた。

「はい。闘牙様はとても良い男ぶりでございます。それに今まで気付かなかったわたくしの眼は、なんと節穴だったことでしょう」

 朝の小鳥のさえずりのように、高く低く楽しげな笑いの二重奏。その笑い声で目覚めた十六夜の母も、そっと微笑んでいた。荒れ果て陰鬱だった屋敷内が、そっと息を吹き返したような気がした。その気配をさらに強くしたのは、屋敷の奥から漂って来た、朝餉の香り。粥を炊く匂いと、それに合わせる醤を焼いたような香ばしい匂い。朝の膳には珍しい魚や肉を焼く匂いも漂っている。

「これは……」
「ああ、俺の家人を屋敷に入れた。まずは腹ごしらえからだ。腹が減っては戦は出来ぬからな」

 その言葉に十六夜が周りを見回すと屋敷のどこそこ、庭の植え込みや木の枝の影やらから、立ち動く人影が見える。

「まぁ、こんなに沢山の人が」
「今、庭を片付けさせて仮屋を建てさせている。こちらの屋敷は大々的に手を入れねばならんだろう。まぁ、見ていろ。びっくりさせてやるからな」

 豪放磊落なその言葉が頼もしい。そして言葉だけでなく、有言実行なその姿勢も十六夜の心を大きく動かす。十六夜は、「好き」と「魅かれる」の違いをまじまじと体感していた。

「ん? あれは……」

 闘牙の表情が動き、荒れた庭の中でも一際大きな藪になっている辺りに視線を送った。

「あの、なにか……」
「いや、なんでもない」

 丁度その時、立ち居振る舞いの行き届いた端女(はしため)が、黒漆塗りの膳に朝餉の支度をして静かに入ってきた。

「少し早いが、今まで碌な物は食ってないのだろう? 母君にもしっかり食べてもらって、元気になってもらわねばな」
「闘牙様。何から何まで細やかなお心配り、なんとお礼を申し上げても足りませぬ。何も持たぬ身ですが、お望みが有りますれば喜んでお応えしたいと存じます」
「十六夜……」

 一瞬、妻と言う名の女を財で囲うかと、そんな思いが頭を過ぎる。
 今の十六夜なら、決して拒む事は無いだろうと。
 だが、それは嫌だと、自分の内なる声が闘牙の思いを引き止める。

「ならば、お前が爪弾く琴の音が聞きたい」
「琴?」
「ああ、お前が爪弾く琴ならば、亡き武内殿の良い供養にもなろう」
「……ですが、ここには琴が御座いませぬ」
「判っている。琴であろうと笛であろうと、お前達の生活に必要なものが揃った時で構わぬ。また、それを揃えるのも、俺の楽しみだ」
「闘牙様……」

 そう言って十六夜に笑いかけた笑顔は、まるで太陽が笑っているようであった。
 その笑顔に促されたように、十六夜と母は食事を始めた。おだやかに談笑しながら箸を進める母娘二人の姿を目の端に留め、先ほど感じた気配の元へ闘牙は歩み寄って行った。茂みの影に座り込んでいたモノ。着ている着物は枯れ草色、頭は灰色でこれも枯れた色、何よりその全身が枯れ木のような老人だった。

「……お前か、刀々斉」
「おぅよ、俺だ。猛々に乗って空を飛んでたら久しぶりに天空城を見かけたもんだから、ちょっと寄ってみたんだがよぉ」

 刀々斉の口元が、にやりと言う風に引き上げられる。

「お前の上様(かみさん)に会ったらよ、お前が人間の女に入れあげているって話を聞いてなぁ。そんならと、ちょっと鼻の下を伸ばしたお前ぇのツラを見に来たって訳さ」

 肩に長い柄の金槌を担ぎ、ひょろりとした痩躯にぎょろりとした目玉、着流しと言うよりも粗末なという方が近いような風体の老人は、威風堂々とした闘牙を前にしても少しも動じる風はない。

「そうか、鼻の下が伸びているか、俺は?」
「いや。そこまでは伸びてないが、やけに甘い顔してるぜ? 上様には見せられねぇツラだな」
「相変わらず、口の悪い奴だ。どころで刀々斉、お前この状況をどう見る?」

 いきなり振られたその言葉に、ぎょろりとした目を半眼にして刀々斉はあたりを見回した。

「……なんか、いや〜なモンの恨みを買った風な気配だな。悪しき気が、全てこの屋敷に流れ込んでこようとしているみてぇな。だからだろう? お前が屋敷の周囲に結界を張ってるのはよ」
「ああ、そうだ。竜骨精の恨みを俺共々に買ってしまってな。特にこの屋敷の姫には、命を助けられた恩もある。神の位にありながら人間への恨みで堕ちてしまったようなモノに、殺させる訳にはいかんのだ」
「そりゃ、大変な話だな。だけどよ、お前がここを守っている間に他の所で竜骨精が暴れたらどうすんだぁ? いくらお前の命の恩人とは言え、一人二人の人間とその他大勢の人間の命、天秤にかける訳にはいくめぇ?」
「……それは、考えている。いや、そうか。丁度良い、刀々斉。お前がここに来てくれたのはまさしく天の配剤」
「あ、なんでぇ、それはよ?」

 聞き返す刀々斉の目の前で闘牙は、自分の左の牙に手をかけると渾身の力を込めて牙を折り取った。

「なっっ!? なんて事をしやがる、闘牙!! 犬妖のお前にとってはその牙は、妖力の源じゃねぇか!!」
「これで、刀を打ってくれ刀々斉。なに、心配せずともいずれ生えてくる」
「馬鹿を言え!! 牙を折ってもすぐ生えてくるのは、まだガキの犬妖だけだろうがっっ!! お前ほどの大妖ともなれば、その場所にはそれ相応の力のあるものしか受付ねぇ。その牙は、お前が生きてきた長い年月かけて鍛え蓄えてきた妖力が詰まってる訳だ。いくらお前でも、そうそう簡単に同じだけの力を持った牙を生やすなんて芸当できねーだろうがっっ!!」

 闘牙を食ったような態度をしていた刀々斉の、この慌てぶりを見れば闘牙の取った行動の異常さの程が窺い知れる。

「そうは言っても、もう折ってしまったものは元には戻せん。だから、これでお前に取って一世一代の刀を打て」
「いやいや、ワシの腕ならその牙を差し歯にしてつなぐ事くらい出来るぞ」

 真剣な顔で、ずいっと闘牙に迫ってくる。

「お前みたいな爺に迫られても、嬉しくはないな。それに差し歯の犬妖の方がよほど物笑いのタネだ。なぁ、頼むよ、刀々斉。これで人間を妖怪から守れる剣を作って欲しい」
「妖怪から人間を守る……? 人間の『守り刀』か? それが、お前の出した答えか」
「ああ。それなら俺がいない時でも、守りたい者を守ってくれるだろう」

 それは最初に竜骨精と闘い、命を落しかけた時に思ったことへの答えでもあった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

  
 刀々斉が闘牙の勢いに押され、自分の山に篭り刀を打つこと半月。闘牙の牙は一本の剣へと姿を変えた。

「まぁ〜たく、てこずらせやがって。だが、これならあの犬の大将も文句はあるめぇ」

 久々の会心の出来に刀々斉は上機嫌だった。その剣を抱え猛々に乗ると、都の外れ目指して自分の塒を出発する。闘牙が逗留している荒れ屋敷に着いてみると、傾ききちんと閉められない門前の木扉のあたりだけそのままにして、半月前とは大違いな立派な屋敷に生まれ変わっていた。
 萱が生い茂り枯れた木や枝葉が伸び放題だった庭木も綺麗に刈り取られ剪定されて、貴族の庭らしい明るい様相を見せていた。壁土が剥がれ落ち床板や柱も腐り傷んでいた屋敷内も、檜の香りも清々しく、塗りたての漆喰壁の白さがさらに明るさを増す。建具や御簾なども新調され、細工の見事さは都中のどの貴族の屋敷の物と比べても勝っているだろう。どこを見ても新築のそれであるが、屋根瓦の黒緑が落ち着きを与えていた。耳を澄ませば、雅なる琴の音とそれに合わせる笛の音が聞こえる。

「すげーもんだな。半月前のあのぼろ屋敷がこんなになっちまってよ」

 闘牙の結界越しに見れば屋敷は、あの頃のままの荒れ屋敷。妖怪だけを遮断する結界であるが、刀々斉のような闘牙馴染みの妖怪には障害にならない。人間も出入り出来るが、都を荒らした魔物の呪いを受けている者の所に通うものも無く、ましてや人間の眼には今にも崩れ落ちそうなぼろ屋敷にしか映っていない。何か用事があろうとも、崩れかけた門前の扉の隙間から投げ込んで行くだけである。
 刀々斉が琴の音に導かれ、屋敷の奥に続く庭を歩く。庭は屋敷の奥になるほど花の種類も増え、美しく咲き揃い艶やかさを競っている。新鮮な水の匂いに、しっとりとした気も漂う。

「ほう。池と築山にも手を入れたのか。こりゃ、まるで別天地だな」

 池に咲く睡蓮と泳ぐ金色の鯉が描く水紋の妙美に感心しつつ、この庭が一番良く見える部屋で昼日中から二人の美女に楽の音を奏でさせ、酒を呷っている闘牙の姿を見つけた。

「待たせたな、闘牙。ほらよ、頼まれた品だ」

 庭に向かって開かれた間口の前の磨かれた廊下から座敷にあがり、紫の布に包まれたものを差し出した。楽を奏でていた十六夜と母が手を止め、その様子を伺っている。差し出されたのは一本の長剣。二人の様子を伺う視線に気付き、闘牙が言葉をかける。

「そう言えば、お前達にはまだ引き合わせていなかったな。これは俺の古くからの知り合いで刀鍛治の刀々斉と言う。俺のたっての頼みで剣を一口、鍛えてもらったのだ」

 たっての頼みで剣を一口、と言う言葉に十六夜は不安な気持ちを抱いた。闘牙は武士、その腰には年代を経た重みのある剣を帯刀している。しかし以前、父たちとの酒の席で闘牙は闘いに剣は使わぬと言っていたのを覚えていた。この剣は、使ってはならぬ剣。自分はこの剣の監視役に過ぎぬ、いつか消滅させねばならぬのだがそれが難しくてな、と笑っていた。

 そんな闘牙が剣を求める、その理由は――――

「闘牙様、その剣はもしやあの魔物を討つ為のものなのでは……」
「ああ、あのまま野放しにしていては、余りにも害が大きすぎる」
「ですが帝の命により、もう一切危害を加えてはならぬと。それに闘牙様も都の役人に追われているのでは……」
「帝や都の役人・武士などなにものぞ。それに都の外での事ならば、帝といえどそう抑えようもあるまい」

 さらに十六夜の不安を煽る言葉が、闘牙の口から出された。

「……今、闘牙様は都の外での事ならばと申されました。もしや闘牙様は、あの魔物を討つために都を離れ、遠くに行かれるおつもりなのですか?」

 せっかく今こうして一緒に過ごす事が出来ているのに、また離れねばならぬのかとそう思うと、不安だけではない何かが十六夜の胸に押し寄せてくる。それにまた、あの死闘が繰り返されるかと考えると、恐ろしさで身も震えてくる。確かにあの魔物は滅せねばならないと思う。思うが、それをなぜ闘牙だけでやれねばならないのか? 
 十六夜の胸に物苦しい思いと不安と怖ろしい予想が浮かび、瞳が涙で潤んでくる。

「そんな顔をするな、十六夜。これはまだ出来たばかりの剣。使いこなすには、修行が必要であろう? お前とて、優れた腕前を持ち、良い琴が手元にあったとて練習をし自分の手と琴を合わせねば、最初から最も良い音は爪弾けまい」
「では……」
「俺がいくら無謀でも、まだ手に馴染みもせぬ剣を振りかざして、あやつに立ち向かうほど阿呆ではないぞ? この屋敷を根城にして、修行の旅に出ようと思う。時期が熟すその時までな」

 最悪の予想は外れ、少し十六夜の顔から不安の色は薄くなった。それでも、いつかまたあの魔物と対峙でねばならぬのかと思うと、父を亡くしたようにこの闘牙もという思いを消す事は出来なかった。
 そんな十六夜の胸の中を汲み取ったのか、闘牙が十六夜の細い手首を取り引き寄せると、幼子の頭を撫でてあやしてやるように十六夜の艶やかで美しい髪を撫でた。

「俺は強いぞ、十六夜。だからそんな情けない顔するな。まるで初めてあった頃の女童のようだ」
「まぁ、わたくしはもう子どもではありませぬ!! 一人前の女として心配しているので御座います!」

 そんな十六夜の様子に、闘牙は声を上げて陽気に笑う。

「そして、もっと強くなる。これはその為の剣、魔物や妖怪などから人間を守る為の守り刀」
「闘牙様……」
「だからお前は俺を信じて、いつも笑っていろ」

 十六夜は引き寄せられた身を離し、偉大なものを見上げるように闘牙の顔を見上げた。
 闘牙を見つめる十六夜の瞳は、まさしく恋する女のもの。

「刀々斉、この剣の銘はなんと言う?」
「へっ、それはお前ぇが付けな、大将。その剣は使いこなせれば、一振りで百の命を救う事も出来るぜ」

 刀々斉はちゃっかりと、闘牙の前に座り込み膳の上の酒を器から直にぐびぐび飲んでいた。

「そうか…、よし! ならばこの剣の銘は、鉄砕牙!! 鉄をも砕く鋭い牙で禍の根を断ち切ってやる」
「鉄砕牙……」

 小さく口の中でその名を呟く十六夜。

「大将、良い銘だな。打ったワシも気に入った」

 膳にあった酒を全部飲み干し、懐手で痩せこけた自分の胸板をぼりぼり掻きながら、刀々斉も頷いた。

「あの、でも修行の旅に出るとなれば長らくお戻りにはなれないのでしょうか?」

 十六夜のその言葉を、自分が不在の間の心許なさの為と闘牙は受け取った。

「安心せよ、十六夜。俺の家人はそれなりに強いし俺の留守中は、この刀々斉を置いておく。見かけはこうだが、こいつもなかなかに強いぞ」
「いえ、そう言う事では……」

 と言い掛けた十六夜の言葉は、夏の太陽のようにあっけらかんとした闘牙の笑い声に掻き消されてしまった。

「その剣はなぁ、闘牙。闘った相手の技を吸収する。手っ取り早く強くしたかったら、そーゆー相手を選べ」

 どうやら暫くはここに逗留する事になると判断した刀々斉が、その場でごろんと横になった。ふぁぁぁぁ〜と大きな欠伸をする。

「そいつを鍛える為に、この半月寝ずに打ち続けたからな。さしものワシもちと疲れた」

 行儀も悪く、怪しげな風体。貴族の姫君として深窓で育ってきた十六夜の母は、そんな刀々斉を不審に思い警戒しているような気配。しかし、十六夜はこっくりこっくりと船をこぎ始めた刀々斉に、自分が着ていた上着を脱いで掛けてやる。そっと触れた十六夜の『気』に、目を閉じたまま刀々斉は舌を巻いた。

( ほぅ、これは人間にしては凄い気の持ち主だな。真っ直ぐだが、柔軟で強い。真を捉えることの出来る姫だ。闘牙が気に入る訳だ )

 こうして十六夜の屋敷の食客として、刀々斉は滞在することとなった。何も知らぬ人間の貴婦人とその姫、それからその世界では名を知らぬものはいない大妖二匹との奇妙な同居生活が始まった。闘牙の場合と違い、十六夜の母の刀々斉への警戒心は中々薄らがなかったが、十六夜の方はもうすっかり打ち解けていた。そんな日が幾日か続き、そろそろ闘牙の腰が落ち着かぬ気だなと刀々斉が見て取った頃、刀々斉は夜明け前に闘牙に呼び出された。

「行くのか、闘牙」
「ああ、後は頼む」
「どこへ行く?」
「そうだな、取り敢えずは北から行ってみるか」
「その心は?」
「北の方で派手に妖怪同士の喧嘩をやれば、あいつが出てくるかも知れん。出来るだけ、竜骨精を都から引っ張り出したいのでな」
「ふん。どーせそんなこったろうと思ったぜ」

 お互い腹の内は判っている。

「闘牙、行く前にちょっとそれを貸してみろ」

 刀々斉は闘牙が手にした鉄砕牙を指差し、そう言った。

「なんだ? 刀々斉」
「念の為に、結界を施しておこうと思ってな」
「結界?」
「そう、結界。お前以外の妖怪には、手も触れる事が出来ねぇようになぁ。うかつに力だけが強い妖怪の手にでも渡れば、それこそとんでもねぇ事になる。そう、お前の腰にある叢雲牙のように」
「……そうだな。これは『人の守り刀』。いかなる妖怪も触れることが叶わぬよう、特に強い結界を頼む」
「これを手に出来るのは、人間とお前の『想い』を汲み事が出来る者のみ。血縁よりも強く、な」

 鉄砕牙を目の高さに捧げ持つと刀々斉は、自分の持てる妖力を一時的に全放出させ鉄砕牙に強力な妖怪避けの結界を施した。

「これでよし。闘牙、鉄砕牙を抜いてみろ」

 刀々斉の言葉に、鉄砕牙を鞘から引き抜く、引き抜かれた鉄砕牙は、どこからどう見てもただの錆びたオンボロ刀に見えた。

「刀々斉、これは……」
「ついでだから人間用の細工も施した。結界の利かない人間の手で無益な殺生をせぬように、真の使い手が『人を守る』その信念に触れた時だけ、あるいは鉄砕牙は己の使い手と認めた相手だけに本当の姿を見せる」
「……俺はこいつに使い手と認められていないのか?」
「そいつぁ、お前の牙だ。そう思って振ってみろ」

 刀々斉の言葉通り、闘牙が鉄砕牙を一振りすると鉄砕牙は本来の大刀の姿になった。鍔は闘牙の妖犬姿の面影を残したふさふさとした毛皮で、骨太な気骨を表して幅広な刀身に。

「ああ、これが俺の牙、鉄砕牙か。改めて礼を言うぞ、刀々斉」

 結界を施された鉄砕牙を刀身を鞘に収め腰に携え、闘牙は朝日が早く昇る地へと旅に出たのだった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 自分の寝所で休んでいた十六夜は不意に覚えた胸騒ぎで起き出し、じっと夜闇の気配を窺っていた。胸騒ぎが収まらず、そっと寝所から出ると足音を潜ませ庭を巡る回廊へと歩んでいった。あともう半時もすれば夜が明ける、そう思っていた十六夜の耳に聞こえた闘牙と刀々斉の会話。
 女の自分の出る場ではないと、着物の端を握り締め声が出そうな自分を必死で弁えさせる。

 遠ざかる足音に、身体中の力が抜けてゆくような気がした。夜明け前に旅立った闘牙を想い、十六夜は切なそうな顔で北の方角を見やった。あまりに強い愁いの気に刀々斉は、目玉を少し動かし視界の端で悲しみを抑えようとしている十六夜の姿を捉え、闘牙がどれだけこの姫の気持ちに気付いているのだろうかと考えていた。
 おそらくは、両名共にまだはっきりとは自覚していないだろう、その気持ち。互いに抱いている『好意』が、どんなものであるかは。
 自分以外に、そんな十六夜の姿を見つめている視線に気付き刀々斉は、そちらへと視線を移した。刀々斉のどんぐり眼に映る、部屋に掛かる御簾の端から心配そうな表情でわが娘を見る母の姿。そっと歩み寄り、声をかける。

「聞いていたのか? 母君様も心配そうな顔してるな。なに、大将は約束は違えねぇよ。ちゃんと戻ってくるから安心しな」

 自分の事を警戒している相手だが、闘牙に留守を頼まれた以上やるべき事はちゃんとやる。
 
「……立ち聞きなど、はしたない事はいたしませぬ。ただ、闘牙様がご出立される姿を見送っていただけにございます」

 硬い声の調子、十六夜の母の頑なな態度に、ちょっと困ったように刀々斉は頭をぽりぽりと掻いた。

「……ワシの人相の悪いのは勘弁してくれ。だけどそんなに警戒して気を張ってたら、また寝込んじまうぜ?」

 そう言われ、はっとしたように十六夜の母は表情を変えた。

「申し訳ございませぬ、刀々斉様。あなた様がお悪い訳では有りませぬが、あなた様と闘牙様と日頃の遣り取りを聞いておりますと、つい……」

 思わず知らず出てしまう自分の刀々斉への態度を、十六夜の母は頭を下げて詫びた。

「……わたくしはほんの先頃、最愛の夫を亡くしました。それはもう、酷い亡くなり方だったのでございます。その同じ思いを、姫にもさせるのかと思うと気持ちが治まらず、その先触れのような刀々斉様を恨んでしまいそうで……」
「母君様、さっきもワシが言ったろう? 大将は強い、必ず戻るってな。それよりも聞き捨てならねぇのは、夫を亡くした母君と同じ思いを姫にさせるかもって、それはもしや大将と姫はもう出来ちまってるのか!?」

 自分がここに来てからなら、そんな事はなかったと言い切れる。
 あれだけ大きな妖気の持ち主、こんな狭い屋敷の中なら今どこにいるのかなど見ずとも解る。そして、十六夜姫の気配も。食客と滞在している自分は、日がな一日座敷で酒を飲んでいる。この二つの「気」が、一つに交じり合うのを察知出来ないほど酔いつぶれたこともない。

「いいえ、そんな事はありませぬ。闘牙様は本当に礼儀正しい方で、十六夜には父親のように接してくださいます。ですが、わたくしは……」

 言い淀み、微かに恥らうような様子に十六夜の母の心中を察する。

「母君は、大将が姫を妻にしても構わないと考えているってことか? 歳の差もあれば、大将には西国に本妻も跡取りもいるぜ?」
「……歳の差ならば、わたくしと亡くなった夫との間も親子のように離れておりました。ですから互いに惹かれあうものならば障害にもなりえませぬ。しかし母として、可愛いわたくしの娘が側妾の身になるのは辛いのです」

 闘牙の存在の大きさに、すっかり心を許している母娘である。娘の心の内も母なればこそ解るものがある。今の現状を考えれば、愛する娘を託すに一番相応しい相手だとも思う。だけど、その相手には ――――

 十六夜の母もまた、複雑な想いを胸に抱いて戸惑っていた。

「はぁぁ、めんどくせーもんだな、色恋沙汰って奴ぁよ。好きなら好き、欲しいなら欲しいって、はっきり言やぁ良いじゃねぇか。大将ほどの奴が女の一人や二人、捌き切れねぇ訳は無い。大将は嫌がる相手に無理強いはしねぇ。だけどよ、自分が必要だって求められれば、きっとその願いに応えようとする奴だぜ」
「それは、姫の方から求愛せよと、そう申されるのか?」
「ああ、姫にそれだけの覚悟があるのならな」

 そんな二人の会話を、物陰に佇んで十六夜は聞いていた。十六夜の胸にあるこの想いが、闘牙への恋慕だと十六夜自身薄々気付いてはいた。だけど闘牙は亡き父の友人であり、幼き頃より我が身の成長を見守ってきてくれた人物でもある。ましてや領国には正妻も跡取りもおられるようなお方。自分がこんな風に思ってしまうのは、猛丸との婚姻が破談となり心の寂しさを埋めようとしているだけではないかと。

 自分から言い出し清算した猛丸との関係。
 でも猛丸があの時の言葉通りその約束を守る時が来た時に、それを受け入られない身になっていたとしたら、それはあまりにも浅ましいではないか。

「……闘牙様、猛丸……。わたくしは、どうしたら良いのでしょうか……?」

 十六夜がその『覚悟』を決めるまで、まだ今しばらくの時が必要であった。
 闘牙が鉄砕牙を自分のものとする修行の旅に出たように、十六夜も自分の魂に問い続ける心の旅に出る。真実の答えを見つけ出す、その時まで。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 天空の狛妃が地上でのごたごたを忘れかけた頃、珍しくも殺生丸が城に戻ってきた。

「珍しいな、殺生丸。どんな風の吹き回しだ?」

 闘牙を送り出してからこちら、とんと変化のない日々を過ごしすっかり退屈していた妃の眸がきらりと光る。

「……噂を聞いた。西国の大妖が獲物を持って、北の地で暴れていると」
「ほぅ。それで?」

 金色の光を浮かべた眸を微かに細め、面白そうな予感に両端が上がる口元を手にした鳳凰の扇で隠しながら、先を促した。

「……獲物とはなんだ? 叢雲牙のことか」
「それを聞いてどうする、殺生丸」
「叢雲牙は冥界の剣、生きとし生きるものの世界では振るってはならぬと聞いている。それを現世で使うとなれば、父上が叢雲牙に操られているのかと」
「だとしたら、どうする?」

 ますます面白くなりそうな雲行きに、妃の眸の光は強さを増す。

「冥界の魔剣に操られるような妖怪ならば、私が倒し叢雲牙の使い手になる」

 吐き出す台詞は剣呑なもののその佇まいは未だ青年の域には達してはおらず、闘牙同様大妖怪である妃にはその有様がおかしくも愛おしくさえある。

「殺生丸、お前もあちらこちらで暴れまわっていたようだが、とうとう叩き伏せる相手がいなくなったのか? 故に物狂った闘牙を倒し、叢雲牙を己のものにしようと?」
「ああ、そうだ。妖怪に取っては強さが何よりの真実」

 微かに幼さの残る表情で、不遜なまでのその態度。

「残念だったな、殺生丸。あれは叢雲牙ではない、闘牙が刀々斉に己の牙を打たせたものじゃ」
「父上が、ご自分の牙を?」

 殺生丸は今まで剣を持とうとはしなかった父の、その心境の変化を訝る。

「わたくしが口添えしたからかも知れぬな。お前を自分の後継者と思うのならば、剣の一口も与えてみよ、と」
「母上、それは……」
「まぁ、本当のところはどんなつもりであるか、わたくしにも判らぬがな」

 普段無表情である殺生丸の顔に微かに浮かんだものがなんであるか察し、さらに妃は眸を細めた。そんな自分の表情を読まれたのを不快に思ったのか、殺生丸が踵を返して妃の前から去ろうとしている。

「もう、行くのか?」
「……得るものはないゆえ」
「折角、久々に帰ってきたのだ。もう少し、この母にその顔を見せてくれても良かろうものを」

 今度は、そう嘯く妃の顔に冷ややかな視線を投げかける殺生丸。

「……心にも無い事を。必要であれば戻る。母上であろうと、差し出口は一切無用!」

 一言、そう言い捨て殺生丸は狛妃の城を後にした。中空で殺生丸は北の空に視線を投げかけ、それから南西の空へと翔けて行く。

「父上……」

 そう、自分でも聞こえぬくらい小さく呟いていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 そのころ闘牙は刀々斉の忠告に従い、その地で一番力の強い妖怪を選んでは切り伏せる闘いを続けていた。人々に禍をなす大蜘蛛が変化した大章魚を皮切りに、次々に大物の妖怪を倒していった。その度ごとに鉄砕牙は相手の妖力を吸い取り強くなってゆく。一日でも早く、あの竜骨精を倒す事を目標に。

 少し下った東北の地で鉄砕牙を振るう闘牙の噂を聞き、周辺の力ある妖怪が集まってきていた。殺生丸が言うように、妖怪の世界は力こそが絶対のもの。ましてや力ある妖怪を倒し殺した場合など、その血肉を喰らって自分の妖力にするのは下賤な妖怪達の間では当たり前の事だった。いや妖怪達が喰らうのは、倒した妖怪の屍肉だけではなく生きている牛馬のような家畜や人間の生肉でも貪り喰らう。そんな妖怪達の耳に流れた闘牙の噂が、ある村に悲劇を招いていた。
 空を行く闘牙の嗅覚に、夥しい人間の血の臭いが届いた。その方向は、自分の行く手の少し先。闘牙は丁度その方角に感じた妖気の塊の元に行こうとしていたところだった。異変に胸を騒がせ急ぎ駆けつけてみると、足元は無数の肉塊が転がる屠殺場のようになっていた。山間の村が一つ、妖怪どもに蹂躙されていた。

「ようやく来たか、西の化け犬がっっ!! 余所者が我等が縄張りを荒らすとは良い度胸だ! お前の体を引き裂いて、このように貪り喰ろうてやるわ!!」

 上空の闘牙を見つけ、雷のような大音声で喚きたてる一匹の妖怪。
 その姿は小山ほどの身体の半分が顔、顔は三つ目で鋭い牙の生えた口が耳まで裂けている。足は短く、その代わり腕は驚くほど長い。槍のように尖った爪で牛や馬を突き刺し、そのまま大きな口の中に放り込む。そんな妖怪が村の中に何匹も群を成していた。村の最後の生き残りか、物陰に隠れていた父子が妖怪の一匹に見つかり、引きずり出される。父は敵わぬまでも必死で鍬を振るい、我が子を守ろうとしていた。そんな父親を抓みあげ逆さ吊りにすると左右の足を持ち、ばりばりと身体の真ん中から左右に父親の身体をそのまま引き裂いた。父親の断末魔の叫びと子の絶叫が闘牙の耳を打つ。

「お前達っっ!!」

 引き裂いた父親の死体をまるで塵くずのように捨て、闘牙を挑発する。

「人間は牛や馬より不味いからなぁ。それでもまだ子どものうちなら喰えんこともないが、歳を取った男では殺して遊ぶ他楽しみ方が無い」
「お前が来るのが遅かったから、この村一つ潰してしもうた。まぁ、人間なんぞ、我等のエサにもならん虫けらだから良いがのぅ」

 闘牙は自分のせいで、殺されなくても良い人間たちが殺された事を知った。それは闘牙の怒りを呼ぶには十分で、すでに風の傷を会得していた鉄砕牙は、この妖怪の群が発する妖気の渦を巻き込み、怒りで莫大に膨れ上がった自分の妖気と共に相手に叩き込む爆流破をも身につけた。
 村を蹂躙し村人を殺しまわった妖怪達の群は、全て跡形も無く片付けた。そんな闘牙の耳に、あの残された子どもの悲痛な声だけが響く。一瞬にして家族を、村の皆を、そして故郷さえ失ってしまった人間の子ども。かける言葉も無く、近付こうとした闘牙の目の前でその子は、足元に落ちていた鎌で自分の首を掻き切った。

「馬鹿なっっ!!」

 慌てて駆け寄り、その子を腕に抱く。

「……さっきま…で、オラ達み……んな笑…、畑…仕事して……ただけなのに……」
「しっかりしろっっ!! 死んではならん!」

 抱えた闘牙の腕が、子どもの流した血潮で真っ赤に染まる。

「……オラ、一人は… いや……。オラ…も…… みんな、とこ………」

 最後は言葉にもならず、首をかくりと落すと、その子どもは息絶えた。腕の中から子どもの熱が失われてゆくのを闘牙は心が凍る思いで感じていた。

 ―――― 鉄砕牙は、一振りで百の命を救う剣。

 そう、刀々斉は言った。
 確かに、あの妖怪達からはあの子どもを救う事は出来た。だが結局、子どもを死なせてしまった。
 救えてはいないではないかと、死んでしまった者に自分はあまりにも無力だと闘牙は思う。
 『命』の重さを知った闘牙には、そのままにしておくにはいかないほどの重く大きな想いであった。

 やがてそんな闘牙の想いを鉄砕牙が受け止め、斬る剣である己が特性と相反するモノを宿すようになってゆく。
 それが新たな形を得るのは、もう間近であった。


奇縁5に続く
2010.5.26






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