【 奇縁 −くすしきえにし− 3 】




 十六夜の父の葬儀の準備が、秘めやかに行われている。表立てないのは今回の魔物降伏に失敗したからだけではなく、間違いなくその魔物の呪いを受けたであろうと考えられたからだった。片足を失ったとはいえ、まだ人の姿を留めておけた十六夜の父はずっとましで、そのまま魔物の谷に討ち捨てられたままの死体や、命からがら逃げ帰ったものの魔物の瘴気を浴び、気が触れた者やじわじわと体が腐り結局死んでしまう者も出ていた。
 
「少祐殿はこうなる事を察して、ワシの同道を断ったのだな」

 昔からの友である十六夜の父を亡くし、猛丸の父は短い間にすっかり老いた様になっていた。十六夜の母も夫の無残な姿を見てからすっかり床についてしまっている。十六夜は寝ずにそんな母の枕元についていた。

「十六夜……」

 屋敷に仕える古参の家人が何事か十六夜に報告しては、承諾を得て下がってゆく。今ではまだ年若い十六夜が気丈にも屋敷を取り仕切っていた。そんな十六夜に、猛丸がそっと声をかけた。

「無理はするな。お前まで倒れてしまう」
「わたくしは武内の血を引く者として、父上の為にも無様な様子を晒す訳には参りません。父上を笑いものにしてはならないのです」

 だが無理をしているのは誰の目にも明らかで、朗らかな頬の色は褪せ歳に合わぬやつれを浮かべていた。今また、十六夜を呼ぶ屋敷の者の声に振り返ろうとしてよろめくその身体を、慌てて猛丸が抱き支える。

「それでも、もしお前までどうにかなってしまったらこの家はどうなる? 亡くなった父上だけではなく、残った母上まで生きてはおれなくなるぞ」
「猛丸……」

 猛丸は抱き支えた腕に力を込めて、十六夜を自分の胸に引き寄せた。

「十六夜がそんな事になれば、俺だって……」

 皆までは言わず、ただただその想いを腕の力に込める。

 そんな二人の様子を見、闘牙はそっと屋敷の中を抜け裏庭に出た。狛犬の自分を助けてくれた幼い日の二人が今、大きな危険の前に晒されているのを感じている。あの時、手負いだった自分に関わった因縁かとさえ思えるほどはっきりと、竜骨精は自分を傷つけた者に縁ある者として十六夜やその周りの人間を付け狙うだろう。

 幸せになって欲しい二人である。
 今は亡き十六夜の父の願いでもある。

 そして、重く闘牙の心を占める思いは ――――

( 俺がもっと早く、竜骨精を討っていれば…… )

 「人」が死んだらどうなるのか、それは妖怪として生きてきた闘牙には分からない出来事。
 勿論、妖怪だとて死ぬ事は有る。しかしそれは大抵が闘いの最中での死であることが多く、負けて死んだものは一顧だにされない。勝った上での死であれば、これもまた悲しむものなどいない。
 闘牙は「死」を悼むと言う体験を、「友」を亡くして初めて味わっていた。

 すでに日が暮れた東の空を見上げた闘牙の眸には、その空は不吉な色を滲ませて何者かが蠢こうとしているようだった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「十六夜」

 目の端で闘牙の姿を追っていた猛丸は、その姿が視界から消えたのを確認して十六夜の耳に囁いた。

「なんでしょう? 猛丸」
「……なぜ、あの男は無事なんだ? 十六夜の父上を始め魔物を討ちに行った者達の多くが悲惨な有様だというのに」
「それは…、どういう意味ですか?」

 猛丸に身を預けていた十六夜が、きっとした表情で猛丸の顔を見返しその身を離した。猛丸の言葉の響きに、不穏なものを感じ取ったのだ。

「怖い眼をするのだな、十六夜。お前は、あいつの事を……」

 その言葉は十六夜の心をさらに怒らせた。

「猛丸はわたくしがそんな女だとでもっっ!? わたくしは猛丸の妻になる者。そんなにわたくしの事が信用ならないのですか?」

 一点の曇りも無い、そして怒りを湛えた十六夜の瞳の力に猛丸は押される。

「闘牙様が無傷であられるのは、私は父上のお力だと思っています。父上の側にあって父上を補佐してくださっていた。だから父上が闘いで怪我をされても、すぐ対処してくださった」
「…………………」
「闘牙様が父上に同道される訳を聞きました。あの時、闘牙様の愛犬が瀕死の傷を負ったのも、この魔物に襲われたから。なれば、他の方々よりも注意深かったのではと」
「十六夜……」
「父上は目立つ事を好まれるご気性ではないため影に控えておられますが、そのお力は名高い陰陽師の方々とも引けを取りませぬ」
「しかし、それではなぜ十六夜の父上は怪我を……」
「不思議な力を持ってはいても、生身の人ですからその力を常に使い続ける事は出来ません。その隙を狙われたのでしょう」

 ああ、と猛丸は温厚そうな笑みを浮かべる初老の十六夜の父の姿を思い浮かべた。

「父上が魔物の毒に倒れた時、闘牙様が間髪入れずに毒で冒された足を切り落としてくださったからこそ、わたくし達は父上の死に目に合う事も遺体を荼毘に伏す事もできたのです。それまで、父上が闘牙様をその力でお守りしていたとすれば、なんら不思議ではございません」

 十六夜ははっきりと、そう言い切る。

「お前はあの男をそこまで信用しているのか?」
「わたくしはあの方を信じる事が出来ると思う自分を、信じているだけです」

 わずか十二歳になったばかりの十六夜の言葉は、まっすぐな気性の強さそのままを表していた。十六夜の気性は幼い頃から知っている。今までの十六夜の言葉に、嘘偽りは一片たりも混じってはいないだろう。
 だからこそ……

 わたくしは猛丸の妻になる者 ――――

 そう十六夜が明言した今こそ、その時。
 聡明な十六夜は、添うべき相手への情愛と信じることの出来る相手への信頼を、取り違える事も迷うことも無いだろう。自分に取っては今でも「胡散臭い男」であるが、相手は十六夜もその父も己の父も篤く信を置く相手。ならば、自分も信じてみようと思う。そう思えたのは、闘牙を訝る気持ちの中に、幼い頃から抱いていた妬心を自覚していたからでもあった。

「……解った、俺も闘牙殿を信じよう。そして十六夜、お前の父上の喪が明けたら十六夜の父上が望んでおられたようにお前を俺の妻とする。いいな」
「もとよりそのつもり。ですが、今は父上の葬儀を」
「ああ、そうだな」

 迷いの無い十六夜の返事に、胸の中をなでおろす。
 そんな歳若い二人を、更なる凶事が襲う。
 それは闘牙が予見した通りに。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 十六夜の屋敷で弔いの準備が進んでいる頃、魔物の… いや竜骨精の住処である東の山からおどろおどろしい黒雲が沸き都の一部を被っていた。
 そしてその黒雲の中から現れた竜骨精が傷を負わされた恨みとばかりに都を荒し始めたのだ。怖ろしい巨体で建物を破壊し、毒の息で逃げ惑う都人を悶絶させ踏みにじる。まだ息のある人々の上に業火を吐きかけ生きたまま焼き殺し、その炎は破壊された建物をたちまちの内に紅蓮の炎で包んだ。

 都を守備する武士達が一斉に攻撃を仕掛けたが、大火を前に柄杓で水をかけるようなもの。竜の尾で薙ぎ払われ、竜の毒爪にかかり引き裂かれてしまう。決して少なくは無い武士の一団が竜骨精の足元で物言わぬ肉片と成り果てていた。
 緊急の令で禁中に集まった朝廷の重臣達も、どうして良いか解らず右往左往するばかりである。竜骨精は紫宸殿の前の庭に巨体を現し、重臣達の前で雷鳴のような声で言い放った。

「此度の傷の礼はさせてもらった。だが、もしまた私を討とうなどと馬鹿げた事を考えるのなら、その時はこの都を滅ぼす! もちろん都人は只の一人も生かしてはおかぬ!!」

 大音声に耳を押さえ、吐き出される毒気にむせる。

「また我に弓を引いた者は、その末代まで禍を受けるであろう。その者に組するものも同様に」

 言い終わると同時に竜骨精の爪先が光り風を切る音がした。ひゅっと言う音と共に、帝の直ぐ側についていた大臣の一人が絶叫をあげてその場に倒れ伏した。見れば腹の所の衣が割けしゅうしゅうと物が溶ける音といやな臭いが立ち上っていた。見る間にその大臣は衣もろともグズグズに腐り溶けてしまった。

「そうなりたくなくば、私の邪魔をするな! 次は手加減などせぬ!!」

 竜骨精の恫喝に、五感が凍てついていた帝を始め重臣達が大きく息を吐き出したのは、庭から竜骨精の姿が消えて随分経った後の事。この時の報復で、都の四分の一が焼け野原となり多くの都人が死んだ。
 力の強大さ・邪悪さを見せ付けられた帝達は、今後一切この魔物に関わらぬ事と厳しく取り決めた。我が身可愛さもあり、まさしく竜骨精の取り扱いは「触らぬ神に祟りなし」となったのだった。
 朝廷はすぐさま此度の都での異変に対し民人に緘口令を敷き、魔物の名を忌み名として封印させた。強いものに巻かれ切ったそんな弱腰な朝廷の姿勢が、都内に渦巻いていた人々の怨嗟の声をさらに煽る。この先の禍を思い気が荒み、現帝への不平不満が溢れ出していた。このままでは、いつ乱が起こるか判らない。確かな策もないままに、竜骨精討伐を勅命した失策を隠す為にも、実際に都を危機に晒した責任を誰かに取らせねば収まりのつかない事態となっている。
 人々の気持ちを鎮めるためと竜骨精の禍を断つために、この討伐隊に加わった者全てを粛清の対象とし、そして死人に口なしとはこの事かと思われるほどあからさまに、今回の討伐隊の指揮者であった十六夜の父がその咎の全てを背負わされた。

 民人の声に押されたような形で執り行なわれた竜骨精を鎮める為の護摩供養の場で、討伐隊の生き残りは護摩祈祷の炎の中に投げ込まれ、自分たちが守ろうとした人々の手で焼き殺された。残された家族は皆、家財全てを没収された都から追放された。この残虐非道な行いに恐れを感じ、また自分達の声がそんな風に朝廷を動かしたのだという罪悪感からか表立って朝廷を批難する声は小さくなったが、朝廷を恨む想いはより深くそれこそ地獄の業火のように人々の心を焼き尽くす。心を焼かれた人間は、やがてその心に『鬼』を棲まわせるようになっていった。

 友軍として同道した闘牙は、朝廷側で正式に把握されていなかった為追求の手が緩く、この難を逃れることが出来たが、それでも暫くは都に近付くことが出来なくなってしまった。

 さすがにこの一件の責任を死んだ十六夜の父に被せた朝廷側だが、それでも歴代の帝を陰で支えてきた宿禰の末裔だけに、自分達の手で焼き殺した武人達の家族のような扱いをするのは躊躇われた。

「此度の始末で、どうやら民草の不穏な気を静められたようだが、一部では討伐隊の指揮者であった武内殿の家になんの沙汰も下されていないと、不満に思っている者もいるようじゃ」
「当の本人が亡くなっておりますからなぁ、他の家族のように武内殿の家族も都から追放してしまうほうがよいじゃろうか?」

 帝の御前で、無責任な会議。

「いやいや、そんな事をすれば今度は武内殿に祟られましょうぞ。穏やかな御仁であったが、その力は当代の陰陽師の誰にも引けをとらぬ。先年の右大臣殿の前例もありまする。祟り神を増やすのは得策ではありますまい」
「ふむ、ならば自然と武内の家が絶えれば良いのだな?」
「あの魔物が言う『末代まで』を無くせば良いというお考えか! それは妙案!!」

 賑やかしい声が上がり、その案は可決された。

「では、武内殿の屋敷に下す沙汰は領地没収の上、洛外への屋敷替え。確かあの家は身体の弱い奥方と姫が一人きりであったな。出家させて尼にでもさせれば丁度良い」
「……しかしその姫、刹那殿の嫡男と許婚のはず。武内殿の喪が明ければ婚儀と聞き及びますが」
「婚儀? そんなもの、破談じゃ! 破談!! 否と言うのであれば、有力な武人の家であろうと新興勢力に過ぎぬ。武内の家を潰すより簡単じゃわい!」
「中納言殿。刹那の家を潰すなどと、そんな言葉が宮様の耳に入れば、睨まれますぞ」
「ああ、そうであったな。猛丸殿は宮様のお気に入りゆえ、今回の始末での余波を受けぬよう石上に送ったのであったな」
「刹那殿は宮様のお陰で命拾いしたようなもの。それを盾にすれば、呑むしかありますまい」

 こんなにも身勝手無責任な愚かしい人間達の手で、猛丸と十六夜の未来は捻じ曲げられた。
 こうして人の心に毒を流し、互いに諍いあい憎しみや恨みを増大させ、殺し合わせることこそが竜骨精の報復だったのである。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 十六夜の父の葬儀が終る間もなく、刹那家の当主と猛丸は朝廷からの有無を言わせぬ勅命を受け、大和の国の石上神宮での精進潔斎を命じられた。それは十六夜の父と親しくしていた事による、この魔物からの穢れを落すための仕儀と強く言われ、それを拒めば命の保障はないとまで言われた。
 そんな半軟禁状態の日々を三七日(みなのか)続け、ようやく帰還の命が下されるや否や猛丸は急ぎ都に取って帰った。父を亡くし、後ろ盾に成らねばならない自分たちからも引き離され、そのような状態で十六夜たちの身辺が安全なものではないだろう事ぐらい察しはついていた。
 通い慣れた十六夜の屋敷に来て見れば、そこは四方を注連縄で封印され、中の建物は火をかけられたのだろう、すでに黒く焼け焦げ炭になって崩れ落ちていた。

「な、なんだっっ!? この有様は!! 十六夜、十六夜はいるかっっ!」

 焼け落ちた屋敷の跡に、虚しく猛丸の声が響く。そんな猛丸の姿に気付いたのか、物陰から小さな影が近付いてきた。

「これは猛丸様、ご無事で在られたのですね! ご葬儀の後からお姿を見る事がなくなり、猛丸様も刹那の大殿様も他の方々と同様に処刑されてしまったのかと……」

 そう語りかけてきたのは、十六夜の屋敷に長らく勤めていた一人の女中だった。

「処刑……? なんのことだ、それは?」

 怖ろしいほどの胸騒ぎが猛丸の声を震わせる。もしや、十六夜も……。

「魔物を征伐に行かれた方々の事でございます。魔物の恨みを晴らし怒りを鎮めるために、帝の命により皆様焼き殺されてしまったのです」
「なんだとっっ!?」

 猛丸の背中を駆け上る、怒りと恐怖。そして思い出す、あの理不尽な石上神宮での精進潔斎の意味を。

( ……勅命に沿わねば、命の保障は無いといったのは、この意味か )

 討伐隊の一員ではなかったものの、討伐隊を指揮していた者と懇意にしていたからと言う理由だろう。
 しかし猛丸は知らなかったのだがこの時、自分たちも同じように焼き殺されかねない状況だったのだ。それを三七日にわたる精進潔斎で済ませられたのは、ひとえに猛丸に好意を寄せていた今上帝の異母妹姫の取り成しがあってこそであった。

「……まさか、十六夜も……」
「いいえ、姫様達は都の外に居られます。荒れた屋敷に母上様とお二人で。他のお侍様のご遺族の方は都を追われてしまいましたが、長年帝に仕えてきた武内の血統を蔑ろには出来なかったのでしょう」 
「そうか、無事か。それが分かればそれでいい」

 ほっと胸を撫で下ろす。それにしても、余りな朝廷のやり方に溢れる憤りは収まりようも無い。他にも、色んな恨みを買っていそうだと、猛丸は思った。

「住む場所など、都の外と内の違いぐらいなんとでもない。むしろ格式ばって息苦しい都での暮らしより、かえって野に近い方が十六夜には良いかも知れぬ。今でこそ貴族のお姫様然としているが、幼き頃は相当なお転婆であったからな」
「猛丸様……」
「それに、都の外の方が俺も通いやすい。いずれほとぼりが冷めたころに、わが屋敷に母上共々迎え入れれば良いのだ」

 こんな時だからこそ、自分は十六夜の側にいなくてはならないと強く思う。

「して、十六夜が居るのは都の外のどちらだ?」

 もう気持ちは、十六夜の元へとひた走っている。
 ざくり、と足音がした。

「刹那の猛丸殿、どちらへ行かれる?」

 その声は、猛丸と刹那の当主を大和の国へ行くように勅命を届けに来た者だった。

「妻になる者の元へ行くのに、許しを請わねばならぬのか」
「妻であろうと、親兄弟であろうと、帝の命であれば縁を切らねばならぬ事も有ります故」
「なにっ!?」

 あまりな言葉に、思わず猛丸は刀の柄に手をかけた。

「短気は損気、まずは刹那の当主共々参内なされよ。話はそれからじゃ」

 それだけを言い置くと、使いの者は猛丸を残し内裏に続く大通りへと待たせていた馬に乗り去っていった。その行く先に、猛丸を待ち構えている大きな何かの存在を猛丸は感じずにはいられなかった。
 十六夜の顔を見たい気持ちをぐっと堪え、自分の屋敷に戻ると参内するための身支度を整え父親共々宮中へ向かう。建礼門、承明門を潜り紫宸殿前の庭の玉砂利の上で幾重にも重なった御簾に向かって額ずく。猛丸の父が、参内の挨拶を述べた。

「此度の命、滞りなく果たして都に戻りましてございます」

 帝の両脇に侍っている大納言が、帝に代わり言葉をかけた。

「無事、精進潔斎を済まされ帰京の段、上々である。その方らも知っていると思うが、武内殿の失態により都は大きな禍を受けた。それを浄化するには、ああするしかなかったのだ」

 自分達を都から引き離している間に行った残虐な行為に対して、先にこんな形で釘を刺す。

「その方らも、直接の穢れは受けてはいないものと分かってはいたが、なにぶんにも猛丸殿は宮中警備の次期要。宮様の信頼も篤い。父の刹那殿も、弱体化した武家衆の建て直しに尽力して欲しい」
「はは、その言葉、重く受けとめてございます」

 二人はさらに頭を低くして、その言葉を賜った。

「そのような重責を担うその方らを、穢れさせたままにしておく訳にはゆかぬでな。ここまで言えば察せようが、魔物の呪いを被った様な者を身内にする愚は犯さぬであろうな?」
「……それは、どのような意味でしょうか」

 猛丸の手が怒りでぶるぶる震えているのをそっと自分の手で押さえ、刹那の大殿は静かな声で聞き返した。

「猛丸殿の許婚である十六夜姫のことじゃ。武内殿の息女であれば、当然あの魔物の呪いを被っておる。そのような者と猛丸殿の婚儀を認めることは出来ぬ」
「……もとより、無理難題を武内殿に押し付けたのはどなたであられましょうか」

 我慢が出来なくなった猛丸が、押し殺したような声でそう問う。

「猛丸っっ!!」

 小さな声で、それでも鋭く刹那の大殿が叱責する。
 そんな険悪な雰囲気を察したのか、御簾の中で小柄な影が帝に何をか進言する様が窺えた。帝がその影に向かって頷き、手にした尺を上下に振って大納言に合図を送る。

「帝は本当に猛丸殿をとても高く評価されておる。その証に、御妹宮を降嫁させようとのお申し出じゃ。まさか、この申し出を断るような不忠者ではあるまいな?」
「なっっ!?」

 二の句が継げないとは、まさにこの事。
 御妹宮は今上帝とは腹違い。その生母は身分の低い中臈女房で、幼い時の帝のお気に入りの遊び相手だった。それが前帝のお手がつき、やがて妹宮を産むことになったのだ。宮廷での身分は決して高いものではないが、今上帝がこの妹を気に入っており、可愛がっている今では断りようも無い話である。

「まぁ、そのような愚を犯すとも思えぬが、もしそのような返答をしようものならば、その方ら二人その場で即刻切り捨てる。勿論、武内の姫もな」

 その一言が猛丸の首を縦に振らせた。
 重い心を抱いたまま、洛外の十六夜の屋敷を訪ねる。洛内にあった屋敷と比べれば、屋敷の壁は崩れ、屋根も落ちかけている。庭は荒れ放題で萱が丈高く生い茂り、手入れされていない庭木の枝は伸び放題に伸びて鬱蒼とした影を屋敷に投げかけている。

「十六夜、いるのか十六夜」

 屋敷の門も片方は外れ落ちかかり、開く事も閉める事もままならない。きちんと閉まらぬ門扉では、洛外のような治安の悪い場所では危険極まりない事だろう。取り次ぐ家人の影もなく、猛丸は声をかけながら雑草の生い茂る庭に足を踏み入れた。かたりと、屋敷の奥から足音が聞こえた。襖紙の破れた建具を開き、暗い室内から十六夜が顔を見せた。

「猛丸……。知らせて頂いたように、本当に無事だったのですね」

 猛丸の顔を見て、ほっとした表情の十六夜のその言葉に訝しいものを感じる。

「知らせて…? 誰が」
「宮様にございます。わたくしと御妹宮様は親しくさせていただいておりますれば」
「十六夜……」

 その妹宮が自分に降嫁すると、どう伝えるべきかと猛丸は言葉を探す。いや、あの妹宮はこのような事態を期待していたのかもしれないとすら、勘ぐってしまうのだ。

「……父上があのように亡くなってしまい、都に大きな禍が降りかかってしまいました。そのせいで、我家とも懇意にしていた刹那の家も厄禍に巻き込まれてしまうのではと、心配いたしておりました」

 十六夜は、袂から丁寧に折りたたまれた書状を取り出した。

「父の葬儀の直ぐ後に、宮様から届いた文です。帝が罪人狩りをされる由、その罪が猛丸やお父上に及ばぬよう、都から出すとの旨が認められておりました」
「宮様が……」
「宮様は、わたくしと猛丸との事もご存知の上で、猛丸の事を慕っております。それでもお気持ちの高潔な方で、こんな事態にならねば、わたくしたちの婚儀にも祝いを贈って下さると約束もしてくださっていました」
「宮様が……」
「はい。猛丸の身を案じ、自分の力で何か出来るのならば、何も厭いはしないとまで認められておりました。その気持ちはわたくしも同様です」

 そこで猛丸は、はっと気付いた。

「……お前は、俺が帝から何を言われたか知っているのだな?」

 十六夜が小さく頷く。

「わたくしでは、猛丸に取って厄災にしかなりません。宮様が降嫁されることで、猛丸の立場は安泰になるでしょう。わたくしも、宮様も猛丸の身を思えばこそです」
「俺の身の為……?」
「もうこれ以上、誰も酷い目に会わせたくないのです」

 ……今更猛丸が言うべき言葉は、何もなかった。

「そうか。お前も承知してのことだったのか。では俺の気持ちなど、埒外なのだな。お前以外の女など妻になどと思った事の無い、俺の気持ちを」
「解ってください、猛丸。宮様は、こうも書いてくださっておりました。今はこのような事態であろうとも、流れの変わらぬ事もない。それまでを、どうか耐えて下さる様にと」
「それは、いずれ俺とお前が、と言う事か? 宮様は、俺の立場を守る為に仮初の妻で在る事すら、厭わぬと言う事か?」
「はい。仮初でも恋い慕う殿方の妻になれるのなら、それで本望。いずれ自分は顔も知らぬどこそこかに嫁がされる身であれば、と」

 そこまでの思いを十六夜と宮様に決意させて、その上で男である自分がぐずぐずするのはなんと情けない事だろう。

「お前の為にも、今は宮様の力をお借りしよう。朝廷で誰にも負けぬほどの力を手にして、今のお前の境遇を救ってみせる! 武内殿の汚名を必ず雪ぐ!!」
「その為にも、猛丸はもうここに来てはなりません。わたくしと猛丸の関係は何もなかったものとして生きてゆきましょう。二心ありと朝廷に見られては、猛丸の為に降嫁された宮様のお立場も悪くなります。二兎追うものは一兎をも得ず、と申します。まずは、その一兎を追う事に専念なさいませ」

 そう言い切る、十六夜の瞳に宿る強い光。

「……十六夜、お前は強いのだな」
「猛丸の気持ちを思えば、強く在らねばなりますまい」

 十六夜の強い意思は、猛丸の自分を想う気持ちを思い切るためにも必要な強さだった。

「お互い好き合った、その気持ちだけで物事が運ぶものではないということだな」
「互いに、今出来る最善を尽くしましょう」
「ああ、そうだな」

 後ろ髪引かれる思いを断ち切って、猛丸は十六夜の屋敷を後にする。それ以降、猛丸がこの屋敷を訪れることはなかった。
 やがて、急な話であったにも関わらず妹宮が刹那家に降嫁されたのだった。その事によって猛丸の朝廷での地位も上がった。やんごとなき生まれでありながら宮様は心根の本当に優しい方で、常に友である十六夜の身を気にかけこっそりとその暮らしを支え、また猛丸には武人の妻として精一杯仕え様としている姿がいじらしくもあった。

 そのいじらしさに、いつしか猛丸も心を動かされ始めていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 闘牙も十六夜の父の葬儀後、都を荒らした竜骨精を怖れた帝の手の者であの時同道した者達が次々に狩り出されるのを目の当たりにした。当然、自分にも行く人かの追っ手がかかったが、闘牙はそれを巧に躱しこう言い放つ。

「俺を捉えたくば、西国の宇佐の総本宮の許可を得てからにしろ!!」

 人間に化けている間の闘牙の身分は、西国の宇佐神宮の警備長官。宇佐の社は全国に数多有る八幡神社の総本山。伊勢に継ぐ第二の宗廟である。迂闊に手出し出来ない後ろ盾を持っていることになる。扱いかねている追っ手側の思惑と、都に留まっていてはいらぬ面倒を引き起こしそうで、なによりも己が「人でないモノ」であると知れることの危険を察知して、闘牙は暫く身を潜める事とした。
 そう考え闘牙は天空城を訪れた。普段は能天気な、時に激昂する事も有るが基本的に妖怪としては『陽』な気質の闘牙が、ひどく落ち込んでいるように、狛妃の眸には映った。享楽なこの妃が、軽口も利けぬほど深夜に闘牙が訪ねて来た時の覇気は低かった。

「お前らしくもないな、闘牙」
「妃……」

 夜が明けても、闘牙の様子に変わりは無い。そんならしくない鬱陶しさに小さく頭を振り、侍女に言いつけ酒の用意をさせる。侍女が持って来た銀盆の上の水晶で出来た杯と酒器を手に取り自ら注ぎ、その酒の杯を闘牙の手に持たせる。

「地上で何があった? お前をそこまで凹ませる様な事か?」
「…………………」

 無言のまま手にした杯の酒を呷り、小さく息を吐く。

「俺のせいで、死ななくてもよい者を死なせてしまった」
「なんだ、そんな事。生きている者は、みな死に逝く。それはお前だろうとわたくしであろうと、変わらぬ事よ。違いは早いか遅いか、ただそれだけ」
「ああ、俺もそう思っていたさ。今まで、この手でどれだけの妖怪を殺してきたか解らんからな。力ないものは、死ぬ。それはもう、自然の摂理だ」
「それが解っておって、なぜにそう落ち込む。妖怪らしくもない」
「それが解れば、俺もこうしてはいない」

 力なく笑う闘牙に軽いいらつきを覚え、妃は闘牙の手の中で弄ばれていた杯を取ると、手酌で酒を満たし一気に呷った。

「わたくしにはちっとも話が見えぬ! 話す気もなく、鬱陶しい顔を見せるだけならば、一刻も早くこの場から去れ!!」

 つっけんどんな物言いの中に、妃らしからぬ優しさのようなものを感じた。

「……聞いてくれるのか、妃」
「話すか話さぬのか、はっきりさせよ。うだうだしいのは、わたくしは嫌いじゃ」

 半ば脅しのような文句で、中々言い出せずにいた闘牙の胸の中を曝け出させる。

「俺が竜骨精を仕留めそこなったばかりに、関係の無い多くの人間を死なせてしまった。その中に……」
「その死んだ中に何者がいたかは知らぬが、それは由々しき事じゃな。守護獣である狛犬の大将が、一度ばかりか二度までも災禍振りまく毒蛇如きに負けを喫するとは」
「お前はそれしか思わぬのか? 勝ち負けだけが、強さだけがお前の価値か?」
「それが、なんだ? わたくしは生粋の妖怪、強くなければ意味が無い。それは闘牙、お前もそうであろう? 思いを貫くのも、強さがなくてはどうしようもあるまい」

 さらに妃は杯に酒を注ぎ、飲み干した。

「……人間の屋敷に通うようになって、随分とお前も人間臭くなったものよ。いや、それを止めよとは、わたくしは言わぬ。言っても聞く耳を持たぬお前だからな。ならばこそ、その人間臭いやり方を貫き通せと言うのだ」
「妃……」
「相手を叩き伏せる強さではなく、その人間臭い『情』とやらで強さを見せてみろと言っている」
「お前は俺に何をさせようというのか?」

 妃の言葉の中に、答えを見つけようと真剣な眸でその美しい顔を見つめる。

「この世の『理』を守る守護獣として闘って二度も負けたのなら、今度はお前の『大事な者』を守る為に命を賭けて闘いに挑めと言っているのだ」
「大事な者……」

 そう妃に言われて闘牙の頭に浮かんだのは、十六夜の笑顔だった。
 初めて会った時の幼い笑顔、屋敷に通うようになってだんだんと貴族の姫らしくたおやかな笑みを浮かべるようになった十六夜の姿 ――――

「お前はそれで良いのか?」
「馬鹿な事を聞く。妖怪であるわたくしと、命短く非力な人間。お前が『大事な者』と想いをかけたとしても、その相手をわたくしが思い出す頃には、とっくに骨になっているであろうよ」
「一時の、気の迷いと?」
「……われらの持ち得る時は、あまりにも永い。その永い時を、変わらぬただ一つの『想い』だけを抱えて生きてゆくのは、あまりにも重たすぎるからのぅ。安心せよ。わたくしとて、お前の事をしょっちゅう忘れておるわ」

 ころころと涼やかな鈴の音が転がるような笑い声でにこやかに微笑み、美味しそうに手にした杯の酒を飲む。その様子に、闘牙は心が軽くなるのを感じた。

「妃よ。俺は自分の妻がお前である事をこれほど誇りに思うことはない。お前以上に俺と同等に並べる者はいないと、そう断言できる。お前がそこに居るからこそ、俺は俺でいられるのだな」
「ふふふ、お前らしくもない。さぁ早く、後ろ盾を無くし心細い思いをしている姫のところに戻るが良い」

 大妖怪の驕りは、慈愛にも似ているのかもしれない。
 その強大な力と、はるか先まで見通している眼力を持てば。
 この妃の胸の中に、人間の女が抱く相手を恨むような卑小な嫉妬心など生まれようもないのだった。

 妃の城の中庭に、四季を問わずに蓮の咲く池がある。この池の水面は、水鏡として見る者の望む情景を映し出すことが出来た。天空の城にあって闘牙は、都の様子をその水鏡に映し出していた。竜骨精が荒らした都の様子や、そんな竜骨精に怖れた人間達の浅ましい行いなども全て。あの時同道した武士の家族が都を追われるのも見たし、十六夜が洛外に屋敷替えされたのも。十六夜の身に何かあるのならば、直ぐにも駆けつけようと思っていたが、今はまだじっと様子を伺うのみ。
 妃は直ぐにでも十六夜の元へ行けと言ったが、それは本来ならば自分の役目ではないと闘牙は自重していた。父を亡くしはしたが、十六夜にはまだ猛丸がいる。猛丸が十六夜を守り、その二人に危険が及びそうな時にこそ、自分の出番だと考えていた。そしてなによりも考えなくてはならないのは、いかにあの竜骨精を自分が倒すかであった。

「おや、ゆっくりだな。闘牙」
「ああ、お前がああ言ってくれたからな。だからこそ俺は、自分の本分を見失わずにすんだ」

 そう言いながら水鏡を覗き込んだ闘牙の眸が、訝しげに光る。
 水面には、猛丸と見知らぬ女が映っていた。

「あれは……」
「あの女がお前を助けたとか言う姫か? 話に聞くよりも大人しげな女だな」
「いや、違う。だが、猛丸のあの様子は一体……」

 闘牙は座っていた椅子から立つと雲を呼び、それを纏って地上へと降りていった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 日が暮れ、非番で自分の屋敷に戻る途中で猛丸は、以前の十六夜の屋敷の崩れた壁にもたれかかってこちらを見ている人影に気が付いた。黄昏時と言う言葉どおり、弱くなった日の光では目で見ての識別や表情の様子などは解らぬが、発する気配で、それが誰だか解っていた。

「闘牙殿……」
「お前も息災であったようだな、猛丸」

 声をかけながら、壁から身を起こす。

「今までどこへ行っていた」
「都の中が落ち着くまで、西国に。武内殿が亡くなったとしても、姫にはお前がいる。俺のようなものがしゃしゃり出ては不味かろうと、様子を見ていた」
「…………………」
「どうして姫は洛外の荒れ屋敷に、家人もなく母君と二人でひっそりと暮らしているのだ? 姫が暮らすのはお前の所ではないのか?」

 その言葉に、責めの響きを聞く。
 だからこそ、言わねばならないと猛丸は思った。

「十六夜は、亡き父上の咎により洛外に放逸された。朝廷に睨まれている今の状態で救いの手を差し伸べるのは、双方にとって無益なことなのだ」
「ふ…む。では、今お前の側に居る見知らぬ女は誰だ?」

 ぴくりと猛丸の体が震えた。

「……あれは、今上帝の妹宮」
「そんな女がなぜお前の所にいる」
「……俺の妻にと、降嫁された」

 うっすらと、背中に汗をかいている。違えては為らぬ約束を、違えたときの様な心地の悪さに猛丸は支配される。

「……十六夜から乗り換えたのか、お前は」

 静かな声だが、秘めた怒りを感じた。

「違う。双方共に、十六夜も宮も承知しての事。俺だとて、十六夜との約束を違える様な真似はしたくなかった! 流れが変わるまでは、俺がもっと力を得るまでは仕方がないのだ!!」
「………………」
「必ず十六夜を妻にする! 宮もそれまでの仮初の妻で在る事を承知している。だから……」
「だから、なんだ?」
「それまで、十六夜を守ってほしい」
「それを、俺に頼むのか」
「闘牙殿、貴方しかいない」

 猛丸も必死だった。
 朝廷側のあの大粛清により、生前十六夜の父君に何かと世話になり恩義も受けていた者達すら四散した。自分たちとて危うい所を、妹宮の好意で救われた立場。さすがに長年帝に仕えてきた旧家でもあり、隠れていたと言え当世屈指の霊力を持つ亡き十六夜の父君の祟りを受けたくないとの思いから、直接危害を加える事無く最低限の暮らしで放置されたのだ。
 本当なら、闘牙に頼むのは業腹な事。どこか気が許せないものを幼少の頃から感じていた。それでも、亡き十六夜の父も自分の父も、そして十六夜自身も全幅の信頼を寄せている相手。他に、これ以上に十六夜を託せる相手はいない。

「なぜ?」
「貴方なら、朝廷側の追っ手を退け、十六夜を守ってくれるとそう思える。今の十六夜には、誰か協力な後ろ盾が必要なのだ。最低限の暮らしは宮様の配慮でどうにか立ってはいるが、それも真に心許ない。病身の母上は床に伏せたまま、家人もおらぬ廃屋同然の屋敷で十六夜が一人で頑張っている」
「ふむ、十六夜を守ると言う事は、十六夜の世話をせよと言う事か? つまり、十六夜の元にへ通えと」
「……出来る事ならば」

 この時代、男が女の下に通うのは男女の契りを結ぶも同然だった。

「本当にお前はそれで良いのだな? 俺が十六夜を妻にし、その身の安全のためには西国に連れ帰ってもかまわぬと」
「十六夜を妻に? それはならぬ。闘牙殿こそ、西国に奥方とお子がおられる。ましてや親子ほどに歳も離れているではないか!」
「それがなんだ? 歳の差など、十六夜の両親もそうであろう。国に妻子があろうと、それを踏まえてそれでもと互いが望めば、俺は十六夜を国に連れ帰るだけの覚悟は有るぞ!!」
「闘牙殿!! 十六夜はそれがしの許婚。頭を下げて十六夜を守ってくれるよう頼みはするが、十六夜の夫になってくれとは言ってはおらぬっっ!」

 妹宮の温情に甘えながらも、十六夜を忘れる事など出来ない猛丸である。
 それがどんなに自分勝手な言い分であっても、偽らざる気持ちでもあった。

「虫の良い話だな。そうしてお前の地位が安泰になり、武内殿の汚名が雪がれればお前は今の妻を離縁して、十六夜を正式な妻として迎えるというのか? それまでは、亡き武内殿の代わりをこの俺に務めろと!?」
「闘牙殿!! 貴方の眼には十六夜はどう映っているのかっ!? 娘のようなものではなかったのか? それとも女として見ておられたのか!!」
「そう、最初は娘のようにも思っていたやもしれぬ。しかし、今は十六夜は十六夜。その他の何者でもない」
「闘牙殿……」

 闘牙の眼には、今の猛丸が色んな柵に雁字搦めにされ、どこか本来の自分を見失いつつあるような気がした。
 十六夜同様、幼い時からの猛丸を知るだけに痛ましいものすら闘牙は感じた。

「十六夜が俺を父のようにしか見ぬなら、そう振舞おう。しかしもし俺を十六夜が男として求めるのであれば、そのつもりでも構わぬ。とっくにその覚悟は出来ているからな」
「……貴方はそれで良いのか?」
「ああ、こうして共に在れるのも些細な間のこと。ならば、互いにとって最良であれと」
「些細の間のこと……?」

 どこか世俗離れした物言いに、ふと猛丸は引っかかるものを覚えた。

「十六夜に選ばせよう。その結果には、互いに口出しは無用。それでいいな?」

 そう言い置くと闘牙は崩れかけた壁から離れ、暮れなずむ東の空を一瞥すると夜の闇へと歩始めた。猛丸は、抗いがたい大きな歯車の歯の一つになったように、もう自分の想いだけでは動けぬ自分に気付いていた。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 洛外へと悠然とした足取りで闘牙は歩いていった。天上より十六夜の屋敷の場所は把握していたから、迷いもしない。歩いているうちに、深まる宵闇の奥からなんとも芳しい良い花の香りが闘牙の鼻をくすぐる。月星の光を受けて、濃い緑の葉の中に清楚な白い六弁の花が幾つも咲いている。

「ほう、十六夜に似合いそうな花だな。一枝貰ってゆこう」

 壮年の男の無骨な手で、そっと木そのものは傷つけぬよう蕾の付いた枝を一枝折り取る。その枝を手土産に、闘牙は十六夜の屋敷を訪ねた。

 灯かりすらない荒れた屋敷の中で、十六夜はあの時より寝込んでしまった母の世話をしていた。食も細り、最近では水さえろくろく喉を通らなくなった十六夜の母。高価な薬草を煎じ飲ませるのは無理でも、せめて蜂蜜の一匙でも舐めさせる事が出来ればもう少し身体に力が付くかもしれないと、十六夜は妹宮から頂いた米で作った重湯を母の口に含ませながら、何の力も無い自分を恥じていた。

 この屋敷は、あの魔物の呪いを受けた者が住む屋敷。それ故に、誰も近付かずまた十六夜も屋敷の外に出ることはしなかった。日々の糧は朝廷で働くもっとも下層の役人が、まるで家畜か畜生に投げ与えるように屋敷内に投げ込んでゆくものを口にするだけ。そんな下層の役人でさえ見向きもしない粗末な食糧でも、十六夜とその母に取っては命の綱。生まれて初めて口にするような食事を十六夜は、誰恨む事無く受け入れていた。時折こっそり妹宮が届けてくれる人並みの食材がなければ、粗末さだけではなくその量の少なさからも早晩二人は衰弱死していたかもしれない。
 夜風が傾いた屋敷内を吹き通る物音に、ここに来た当初十六夜は恐ろしさで一睡も出来なかった。今では、風の音か洛外をうろつく野良犬や野良猫の立てる音か、あるいは稀に屋敷内を覗き込む物好きな酔っ払いの足音かは区別がつくようになったいた。女二人だけの暮らしとはいえ、奪うものは何もなく、ましてや魔物の呪いのかかった者との噂は都中に知れ渡り、盗賊の類でさえ手を出そうとしなかったのだ。

 遠く、門前のあたりで何かが軋るような音がしたと十六夜は思った。母に飲ませるための重湯を掬った手を止め、少し耳を傾ける。

「……夜風の音ではないようだけど、また犬か猫でも入り込んだのでしょうか?」

 ふっと十六夜の前を風が抜けた。その風の中に、とても良い花の香りを感じる。

「ここは暗いな。お陰で、何度か床を踏み抜きそうになったぞ」
「―― !! ――」

 暗闇の中から、聞きなれた頼もしい声が聞こえる。

「この花に劣らぬお前の良い匂いが導いてくれたがな」

 そう言いながら十六夜の前に、白いクチナシの花の枝を差し出す闘牙。
 屋敷の中には灯かりすらなかったにも関わらず、十六夜の眼には一条の光が灯ったように見えた。



4に続く
2010.5.17



 

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