【 奇縁 −くすしきえにし− 2 】



「おや、珍しい。闘牙、お前がこの城を訪ねるのは幾年ぶりか?」

 闘牙の正妃でもあり天空城の主である妖艶な女妖が、目元だけを細めて自分の夫を迎え入れた。

「そんな事は忘れた。そう言うお前こそ変わり無いな」

 そっけない会話だが、それがこの二人には相応しい。
 けっして険悪な仲と言う訳ではなく、むしろお互いに判るすぎる程に分かり合える相手。
 共に何か縛られるのを厭う性分も同じだけに、夫であり妻であってもそこにははっきりとした『個』があった。

「ふふ、そうか。前に会った時より老けたと言われたら、例え西国一の大妖怪と讃えられしお前でも無事ではすまぬからのぅ」
「お前の美しさと強さは変わらぬ。だから俺も安心して留守に出来るのだ」
「わたくしが闘牙を裏切らぬと? 闘牙の留守にお前以上の男前な妖怪を引き込むかも知れんぞ?」
「お前が他の奴を引き込む事を、俺は裏切りとは思わぬからなぁ。俺以上の者であればお前の眼の確かさを流石と思うだけだし、そうでなければお前も眼力が落ちたなと俺から笑われるだけだ」
「……笑われたくは無いな。お前以上の相手をと思うと、なかなかおらぬ。難しいものよ」

 大仰に溜息をついて見せ、ぞくりとするような流し目を闘牙に送る。

「お前に焦がれる妖は、山ほどいよう。衆目の場で、そんな目付きはするなよ」
「それは焼き餅かえ?」
「いや、俺の知らぬ所で知らぬ奴の恨みは買いたくないと言う事だ」

 久しぶりに妻の柔肌に触れたい衝動が沸き起こる。
 乱暴にその美しい顔に自分の顔を寄せ、口づけようとしたら ――――

「……どこで何をしていたのか知らぬが、わたくしに触れるのなら、まず御身を清めて参られよ。毒と八幡神の酒の匂いと人間の子どもの臭いがする」

 と冷たく言われ、するりと身をかわされた。

「良く利く鼻だ。お前に隠し事など何一つ出来ぬ」
「それはお互い様。隠し事など出来ぬからこその信頼であろう?」

 先ほどの妖艶で背筋がぞくぞくするような眼差しと打って変わり、狛妃の眸には夫を労わる光がある。

「……窶れが見える。私が精を注いでやるほどに、早く湯屋に行かれよ」
「すまんな」

 何も話さずとも闘牙の妻は、全てを引き受け受け入れる。それが出来るほどの大女妖だからこそ、闘牙は西国一の大妖怪で在る事が出来たのかもしれない。闘牙は天空城の主しか浸からぬ清浄な湯泉に疲れ切った体を浸す。じんわりとした湯の温かさが心地よく、穢れを濯ぐ湯泉が湯殿底から湧いてはゆたゆたと闘牙の肌に触れ流れさっていった。

 あの後、十六夜に助けられた夜。
 十六夜と猛丸の二人を見送った後、闘牙もその場を翔け去った。自分の無事が竜骨精に知られれば、また争う事になるだろう。あの場でそんな事になれば、自分を助けてくれた幼い二人を巻き込んでしまう。闘牙は、それを避けたかった。
 夜に天翔けて、この天空城に来たのもそういう理由もあった。この城に手を出そうという神妖は、まずいない。それほどにこの城の主は敵に回すと怖ろしい存在なのだ。

「十六夜…、か」

 人間の子どもなど、今まで関わった事はなかった。
 いや、自分の子どもである殺生丸でさえ、どれほど関わってきたであろうか?
 聡明に生まれ付き、両親を上回るであろう妖力をその身に蔵し、あまりにも手がかからなさ過ぎる我が息子。振り返って我が身を見れば、放浪の気質止み難く常に次の獲物を追っている。たまにこうして狛妃の城に戻った時くらいか、顔を合わせるのは。

「殺生丸の顔も見ておくか」

 そう呟くと闘牙は湯殿を出て夜衣を着流しに身につけると、閨の間に足を進めた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 白くしなやかな指が、背筋を撫でる。温かく柔らかな胸に顔を埋め、力強い鼓動を聞くと酷く安心した。隆々とした肉の流れが逞しい足と、とろりとした透き通る白さのめりはりのある足が絡む様が艶かしく、安心して今ひと時の眠りを求める闘牙の頭を胸に抱きかかえる妃の眸の光が優しい。
 濃密な情交の時を過ごし、互いに軽い疲れと共にその体内に大きな活力を得ていた。
 『気』が滾るとでも言うのか、すがすがしさと荒々しさに満ちた活性感。

「闘牙、あまり色んな事に首を突っ込むな。いつか命を落すぞ」

 背中を撫でていた指先が、闘牙の長い髪を弄ぶ。
 閨での、枕語り。
 竜骨精の毒で命を落としかけ、人間の貴族の小さな姫君に助けられた事までを語って聞かせた。呆れられたような小さな溜息を相づちに。

「……生きとし生けるもの、いづれは皆死ぬ。我等とて例外ではない」
「天命を全うせずそうなったとしても、お前はそう言うのか?」
「俺が死ぬ時は、それが俺の寿命だったと思っている」

 つん、と指に絡めた闘牙の頭髪を引く。

「どうせ、止めても聞く男ではないからな」

 痛みで眠気が飛んでしまった闘牙が苦笑う。

「物好きな姫であったな。身体を小さくしていたとは言え、そこいらにいる犬よりはずっと巨大で手負いの怖ろしい形(なり)であったのに」
「子どもだからであろうな。まだ何が怖ろしく、何が危険かを分からぬ愚かしい子ども」

 愚かしい子どもと言い捨てた妃の言葉に、ふっと軽い反発を覚える。あの姫の心の強さしなやかさを愚かしいの一言で片付けてしまうのが、自分の中でひっかかる。

「だが、ああいうのも悪くない。殺生丸はおよそ子どもらしい所がなかった」
「わたくしたちの仔を、人間如きと比べるのはおかしかろう。あれは最強となるもの。儚き人間如きと比べられた聞いたら、どれほど荒れましょうや」

 もう一度、闘牙の髪をつんと引いた。

「これ、妃。痛いではないか。でも、娘も悪くは無いな」
「闘牙?」

 ざわりと闘牙の気が騒ぎ、狛妃は合わせた肌越しに闘牙が滾るのを感じた。

「息子はもう殺生丸がいるから良かろう。だから……」

 そう言いながら、妃を押さえ込もうとする。それを妃は下からしなやかな足をなめらかな下腹に引きつけ、膝頭を鋭く闘牙の鳩尾に打ち込んだ。

「闘牙は殺生丸がどんな妖怪か解ってはおらぬ! いや、我等二人の仔がどういう存在か、それが判っていない!!」

 体勢が僅かに崩れた隙を突き、妃は閨の寝台からするりと抜け出し、側に置いていた衣を纏う。

「……殺生丸は、我等を越えて最強の妖怪に育つ。なぜならわたくしたち二人の血がそうさせる。ここでもう一人仔を作れば、それもそうなる」
「妃……」

 今まで見た事の無い光が狛妃の眸にある。

「最強の名を持つ者は、ただ一人。それが何を意味するか、闘牙お前も判るだろう? 息子であろうが娘であろうが関係はない」
「血を分けた者同士で殺しあう、か……」
「いくらわたくしが享楽な性でも、腹を痛めて産んだ仔同士が殺し合いをするのを見たいと思う訳もない。お前がどれほど望もうと、わたくしが生むのはただ一人、殺生丸だけじゃ」

 それはこの狛妃にしては珍しい言葉。普段は親子の情など垣間見せぬ妃であるだけに、闘牙の眼にも常ならぬ様に見えた。

「そんなに怒るな。俺が悪かった」
「気をつけよ、闘牙。この狛の血は、お前が望まぬ限りは仔を成さぬ。幾ら抱かれようともな」

 もうすっかりその気が失せてしまったのか、狛妃は侍女を呼ぶと自分の身支度を任せる。

「またお前がその気になっても、妖力の釣り合いが取れねばお前の精で相手の女を焼くだけだ。しかし、わたくしは違う。相性も良ければ力も互角、いつでも孕む事が出来る故に隙は見せぬ」
「俺が仔をもう一人と、願うのは無理な話か」

 身支度を整えた妃と寝台の上に裸体を晒している闘牙では、どこか闘牙の方が精彩に欠ける。

「欲しいのならば、他の女妖にでも産ませれば良い。お前は稀代の大妖怪故に、釣り合う女を探すのも難しいであろうがな」
「お前はそれで構わぬのか?」

 あまりにもさらりとした物言いに、思わず闘牙が問い返す。。

「先ほどの闘牙の言葉を返したまで。それに……」

 狛妃は言葉を淀ませ、剣呑な光を眸に灯す。

「自分が産んだ仔でなければ、殺生丸に殺されようとも少しも痛まぬでな」
「妃っっ!!」

 かくあるは、狛妃が妖怪の中の妖怪である証。
 そう、「ヒト」とは違う。

「闘牙、お前とてそんな惰弱な仔は恥であろう? 強くなければ存在する意味は無い」
「…………………」

 冷酷なまでの妃の言葉に、闘牙は今までと異なる想いを抱き始めていた。

 百を救う為の一の粛清 ――――

 あの時、闘牙は竜骨精にそう言い放った。
 その為にも絶対の『強さ』は必要であり、我が子殺生丸はその器だと確信している。
 だが、自分達の進むべき道はこれで良いのか? 
 「強さ」だけが全てなのか ―――――

 もちろん、強くなければ守護獣としての務めは果たせぬ。
 必要であれば、どんな強敵でも倒さねばならぬ。
 しかしそれが「何のためであるか」、それを忘れてしまっては本来の狛犬としての存在意義を失ってしまうだろう。
 それでも、この一件で二人の間が気まずくなる事もなく、当たり障りのない時間が過ぎてゆく。
 その間、殺生丸の姿を見ることは無かった。

「退屈そうだな、闘牙」

 どこか手持ち無沙汰気味な闘牙を見、狛妃が声をかけた。

「ああ、俺はどうにもこう一つ処に落ち着くのは性に合わん。西国でも屋敷に落ち着いたことがないからな」
「この城が全ての空が領分の、自由気ままな城であっても?」
「城や屋敷に納まるのが合わぬのだろう。何かあれば直ぐにでも西国に取って返すが、それまでは屋敷守に任せ切りだ」

 くすくすと妃が笑う。

「わたくしも西国の屋敷など気にも留めてはおらぬ。奔放さにかけては闘牙、お前より上だろう。この城で、どこへでも自由に飛び回るからな」
「俺たちについている者たちは大変だな。それはそうと、殺生丸の姿が見えぬが?」
「ああ、あれならば力試しにあちらこちらをふらつているようじゃ。そんな所はお前に良く似ておる」
「力試し?」

 訝しげに、その言葉を問い返す。

「どれくらい自分が強いのか、それを知りたいのだろう。力の強そうな妖怪の噂を聞いては、血祭りに上げておる」

 僅かに闘牙の眉が顰められる。

「無益な事だな、要らぬ恨みを買いそうだ」
「無理も無かろう? 最強の称号を手に入れる妖怪ならば、その足元に数多の妖怪どもの骸(むくろ)が転がるのは」

 そう話す妃の眸には、機嫌良さそうな光が浮かんでいる。

「………………………」
「そうそう、殺生丸が言うておったな。いずれお前が持つ叢雲牙を譲り受けたいと」
「だめだ、あの剣は持つ者によっては大きな禍を呼ぶ邪剣。誰に譲るつもりもない、時が来たら完全に封印しなくてはならぬ物」

 それこそけんもほろろの返答に、いささか呆れたように妃は問い掛けた。

「闘牙よ、お前は殺生丸の事をどう思っておる?」
「無論、俺の後を継ぐものだ」
「ならば、剣の一口でも与えてみてはどうだ?」
「剣…、か」

 いつよりかもう昔の事なので忘れたが、封印代わりに選ばれてこの叢雲牙を任された。これを『武器』として使ったことは無い。平時に置いては人型を取っていても、臨戦態勢になれば本性である妖犬姿で闘う。己の牙と爪が武器、剣などは無用の物。
 それでも、あの『死』を感じた時に思った

 ―――― 自分が死した後、「何が残せるか?」

 それが答えになるような気がした。 

「そう言えば闘牙は、人間の小娘に借りを作ってしまったのだったな」

 先ほどの妃の言葉を考えていた闘牙に、ふいにそんな方向違いの言葉をかけてくる。その言葉で、あどけなくも自分の意思をしっかりと持った十六夜姫の事を思い出す。

「借り? ああ、そうなるか……」
「下賎な人間に悪しく思われるのは、気分が悪い。借りたものは返してしまえ」
「そうは言っても、何を返せば……?」

 解らぬ気な表情の闘牙にどこか悪戯気な眸を向け狛妃は、袂より小さな鏡を取り出した。磨き上げられた鏡面の裏に白金が被せられ、そこに紫水晶や赤瑪瑙・青瑪瑙・緑柱石などで小花模様を象嵌で施した掌大の銅鏡であった。

「話に聞けば、七つ程の女童とか。ならば、この鏡が良かろう。わたくしが生まれた時に『魔除け』として授けられた物らしいが、このわたくしにそのようなもの必要ないからのぅ。今まで無用の長物であった」
「良いのか? 妃」
「構わぬ。要らぬものゆえ、それを片付けるだけのこと」

 情が薄いように見えても、狛妃は良く闘牙の事を理解していた。
 数日間、この城内で過ごしただけでもうここには飽いてしまっていることに。
 本当に一つ処に収まらぬ、それだけ器の大きな存在。
 気持ちの赴くまま、自由に駆け回るのが闘牙の在り方。
 妃の先ほどの言葉は、闘牙をここから発たせる口実でもあった。

「お前は、俺には過ぎた妻だな」
「闘牙らしくもない。自由気ままは我等の信条、さぁ、行かれよ」

 縛り付けないから、戻ってくる。
 それを良く知っている妃であった。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ようやく都の悪疫が鎮まりかけ、屋敷の病人たちも床から起き上がれるようになってきた。十六夜姫が都の自分の屋敷に戻ったのは、丁度そんな時分だった。

「ただいま戻りました、父上様、母上様」

 両親の前で頭を下げる十六夜姫の横には、屋敷まで無事送り届けにきた猛丸の姿がある。

「猛丸殿、無事姫を送り届けてくださりありがたく存じます。都での悪疫の流行、我が屋敷には子はこの十六夜ただ一人。病に罹らせる訳には参りませんでした」

 線の細い貴族の姫君の中でも特にそう思わせる、まだ若い女人が十六夜の生母。
 その姫よりも随分と年上ではあるがやはり大人しげな容貌の神祇官を務める父君。
 愛妻家で都でも評判のこの父君は、正妻一筋で他の貴族達からは無粋人扱いを受けていた。愛妻に歌を詠み、その愛妻の手による琴の音を聞くのが至上の楽しみであり、幸せでもあるおしどり夫婦。
 そんな大人しそうな二人から、美しさや貴族の姫としての気品を引き継いだのは当然としても、あの頑固にも近い気持ちの強さはどこから来たものだろうと猛丸は思う。

「猛丸殿、くれぐれも刹那の大殿には此度の事、難を逃れることが出来た感謝の程をお伝えくだされ」
「十六夜は、猛丸殿のお屋敷でわがままは言いませなんだか? 時に、とても頑固な所のある姫ですから……」

 さすがは母親だと、猛丸は思う。十六夜の見た目は潤んだような大きな黒い瞳が儚げで、線の細さは母君譲り、大人しげな雰囲気は父君譲りで、誰がどこから見てもなおやかな頼りなげな姫にしか見えぬのだから。

「いえ、そのような事はございませぬ。それに姫の頑固に思われるご気性も、武家の妻となる身であれば美点にございます。なおやかなだけでは武士の妻は勤まらぬ、十六夜姫は刹那家にとっても申し分のない姫だと父も申しておりました」

 刹那家の嫡男として、先の義父母となる十六夜姫の両親にそう言上する。その横で十六夜姫は、ほんの少し口元に笑みを浮かべ、その実瞳には強い光を宿らせあの事は口外無用と猛丸に無言の圧力をかけていた。
 
 遅くなったので、今宵は泊まって行かれてはとの申し出を、猛丸は丁寧に断り屋敷から下がる。そこは猛丸九歳、十六夜姫七歳、もう子どもだからとなんの区別もなく戯れる歳では無いと言う自覚を持っていた。今回のようによほどの事がない限り、許婚であっても会うには、それなりの手順を踏まねばならない。文を交わし歌を交わし、後見人を伴い催事の時でもないと顔を見ることも難しくなる。その間でも猛丸は、武士としての地位も上げておかねばならぬ。猛丸に取っては、子どもの時代が終ろうとしていた。

「猛丸殿のお屋敷はどうであった、十六夜」

 十六夜姫が屋敷に戻ったその夜に、母がそう姫に尋ねた。

「はい。皆様、とても良くしてくださり、大殿様にも可愛がっていただきました」
「そう、それは良かった事。いずれあちらのお屋敷がお前の家になるのですからね。あちらのご家中の方々に気に入ってもらえるのが一番です」
「あの、でも……。わたくしが猛丸の元に嫁いでしまったら、このお家はどうなるのですか? 後を継ぐものがおりませぬ」
「それはお前と猛丸殿の間に生まれた子に継いでもらいます。ですから、この母のように一人児で終らせてはいけませんよ」

 そう言うと十六夜姫の母は、少し悲しげに笑って見せた。

 都の屋敷に戻り、退屈な日々が十日ほど過ぎた頃、十六夜姫は意外な来訪者を迎えた。
 庭が見える部屋で筆を取り和紙に和歌の手習いをしていたその時、庭先で門番の悲鳴のような声が聞こえて来たのだ。

「ゆ、弓でも槍でも何でも良い、早く持ってきてくれ!! だ、だれぞこの大犬を追い払え!」

 十六夜姫の耳が、門番の大犬と言う言葉に反応した。

( ……大犬? まさか、あの時の犬では…… )

 手習い中の筆を置き、そっと庭に下りてみる。門番の叫び声に、屋敷の中からもばらばらと人が集まり始めていた。その大人越しに十六夜姫が門の外を見てみると ――――

「あっ! お前は…… 」

 十六夜姫の胸がどきんとした。門の前には行儀良く両足を揃え、頭をくんと持ち上げたきれいな姿勢で待っている、あの時の白銀の大犬がいた。大犬は十六夜姫を見つけると、嬉しそうにうぉんと鳴き、きちんと揃えた前足の間から、何か布に包まれた物を押し出した。
 それに気づいた十六夜姫が周りが止めるのも聞かず大犬の前に行き、包みを手にする。

「これをわたくしに?」

 十六夜姫の問い掛けに、また小さくわぉんと答える。
 手にした包みを開いてみると、そこには立派な細工の手鏡が一つ。

「姫様、この大犬は一体!?」
「危のうございます! 近付いてはなりません」

 屋敷の者達が口々に言うのを制し、十六夜姫が口を開く。

「怖がらなくても大丈夫です。この犬は神様のご加護を受けた犬、わたくしが怪我の手当てをしたので、その礼に参ったのでしょう」

 十六夜姫の言葉に犬は頷き、立ち上がるや否や軽い身のこなし風のような速さで屋敷の角を曲がって行ってしまった。
 その鮮やかな去り際に、皆一瞬動きが止まる。それからはっと我に返ったように、十六夜姫の手の中にある鏡を見つめた。

「……姫様、これはとても立派な鏡です。ですが、それでもどこか得体の知れぬ犬の持ってきた物。何か障りがあってはなりません。どうぞ、こちらにお渡し下さい」

 十六夜姫付きの侍女がそう言う。
 大丈夫だと、十六夜姫の直感はそう告げているのに、それを周りの大人に解らせる方法が無い。困った顔をしているところに、見知らぬ男の声が聞こえた。

「こちらのお屋敷に、俺の犬を手当てしてくれた方がおられると思うのだが……」

 突然の言葉、
 重く腹に響く、壮年の男の声。声のした方を見てみれば、そこには大陸渡り風な意匠を施した装束を纏った屈強そうな武士が一人立っていた。艶の有る黒い髪を高く一つに束ね、薄墨色の眸には周りを圧倒する強い光を宿している。強面な雰囲気とは裏腹にその表情はとてもにこやかで人懐っこい笑みが浮かんでいる。凛々しく端麗な容貌に、年頃の侍女が顔を赤らめていた。

( あら…? このお方にはどこかであったような気がする )

 十六夜姫の胸に宿る不思議な思い。この感じはあの犬と別れた時に感じたものに似ているような気がした。

「お前は何者だ!」

 大犬に腰を抜かしていた門番が、ようやく自分の勤めを思い出す。

「私は西国に荘を持つ闘牙と言うものだ。先日俺の犬が都の外れで大怪我をし、死に掛けていた所を助けてもらった。その恩人に礼を言いたくて探していたところ、俺の犬が礼の品を咥えいきなり走り出した。急いで後を追ってこの辺りまで来て見たら、こちらの屋敷の前が騒がしかったので、もしやと声をかけた次第」

 堂々とした態度で、そう話す。その態度には、少しも怪しさを感じさせる所はない。

「……それでは、あの犬は貴方様の犬なのですね?」

 十六夜姫が一歩前に出て、そう尋ねた。十六夜姫の胸に宿った不思議な思いが、どきどきと息づき始める。

「ああ、そうだ。おや? 姫が手にしている鏡は、私が犬の恩人に差し上げようと用意したもの。あの犬は自分で姫に礼を言いたかったのだな」

 十六夜姫の顔を見つめながら、闘牙はそれこそ見惚れそうな笑顔を見せた。その笑顔は、姫の周りにいた者達をも虜にする。
 
「門番殿、申し訳ないが屋敷の主殿に取次ぎを頼めまいか? 私の犬が戻ってきた時、犬の傷からは酒の匂いがした。おそらく、傷を清めんと姫がどこかから酒を持ち出しのではないかと思うのだが、そのままでは姫が責められよう。替わりの酒を納めさせて貰えまいか」

 そう言うと闘牙は、手に提げた酒樽を捧げ上げて見せた。
 それは都に戻る前に寄った宇佐の祭神から分けてもらった酒だった。

 それからが屋敷はてんやわんやの大騒ぎになった。門番に呼ばれ、丁度在宅中だった十六夜の父は闘牙の姿を一目見るなり顔を緊張で強張らせた。しかし闘牙に改めて礼の言葉を貰った十六夜姫が、仕方なく黙っていた猛丸の屋敷での事の次第を全て話した。その話を聞いた十六夜の父は、話の内容と闘牙の顔を見て深く頷いた。
 十六夜の母は子どもの身で、しかも武家の軍神縁の神酒を貰いうけ、それで犬の傷口を洗ったと聞き、姫のお転婆ぶりに溜息をついていた。そんな母娘の様子を、闘牙は微笑ましげに見ている

「姫のお陰で、犬は一命を取り留めた。これはどれほど言葉を尽くしても、尽くせるものではない。せめてもの感謝の印として、これらの物を納めさせて欲しい」

 いつの間にか屋敷の門前に、立派な黒牛に引かせた車が横付けられていた。車の上には十六夜姫があの時の大犬の傷を清めたのに使った神酒の数倍もの酒樽と、それに見合うだけの食物も積まれていた。

「姫の怖いもの知らずの性格も、こうして何方かの御為になることもあるのですな。お申し出の品々、ありがたくお納めさせていただきましょう」

 姫の父が、闘牙に深々と頭を垂れる。それから知らなかった事とは言えと、急ぎ猛丸の屋敷に使いを出し十六夜姫の不始末を詫び、その上で犬の飼い主が現れ、両家に礼を言いたいから急遽その為の宴を開くことにしたと知らせた。

 十六夜姫の屋敷では珍しい、それは賑やかな宴が始まった。
 闘牙が提供した酒肴は都では見た事も無いような山海の珍味に美酒の数々、南方異国の香り高い果物や大陸渡りの菓子の数々。食物を入れていた器も趣向が凝らしてあり、そう大きくはない神社の神祇官で少祐の地位くらいでは開けぬような宴。
 その席に刹那の大殿と一緒に、猛丸も同席していた。猛丸の父は姫に与えた神酒の代わりを受け取り、それに加えて銘こそ入ってはいないが優美な曲線を描く細身の小太刀まで貰い受けていた。珍しい酒肴を前に、この闘牙という客人と話が弾む両家の主。武家の猛丸の父と話が合うのは武士同士として当然でも、文官である十六夜姫の父とも大いに語らっていた。闘牙の話は古今の事柄に造詣深く、また西国の郷士である故か大陸からの文物にも明るかった。

 闘牙も人間であるこの二人の父親の気性を好ましく思った。刹那の当主が十六夜姫に神酒を授けなかったら、今 ここに自分は居なかったと思っている。幼い姫の申し出を、真摯に受け止めその鷹揚な心根で受け入れてくれた。また十六夜姫の父には姫をこのような気性に育ててくれた、その感謝の念を込めて二人の父親に接する。それはまた、闘牙自身が父親であるからでもあった。

 十六夜姫と猛丸の前には、珍しい果物や菓子が並べられている。子どもが食べても大丈夫そうな、今まで食べたことの無いようなご馳走も。それらを時々口に運びながら、猛丸が自分の父親と楽しそうに語らう闘牙を見ていた。

「……あの犬も胡散臭い犬だったけど、その飼い主も胡散臭そうだな」
「まぁ、猛丸! 父君方のご友人となられたお方をそんな風に言うなんて!! あの犬も闘牙様も見慣れぬからそう思うだけ。どちらも気持ちの良い方たちではありませんか」

 まるで自分の事を言われたように憤慨する十六夜姫。
 猛丸は、姫のそんな反応が面白くないのだ。いくら姫が好意を示しても、相手は犬だったり子どもの相手などしそうもないような大人だったりしている。それなのに、なぜか面白くなさが胸に沸き起こる。闘牙と名乗った者は歳の差はあれどまだ判るとして、その闘牙の飼い犬にまで焼き餅を焼いている自分の妬心の強さに、猛丸自身が驚いていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 煌く陽光、爽やかな風が吹き抜ける皐月の空を真白い雲を衣のように纏い、狛妃の天空城は気ままに漂っていた。その城の階段を一人の男がゆっくり登ってゆく。男の姿を見た衛士が深々と頭を垂れ、すぐさま上階へ伝令を出す。
 久しぶりに闘牙は、天空の妃の許を訪れた。人間の小娘に借りを返して来いと言われた時から、半年ばかりが過ぎていた。その間闘牙は、たびたび十六夜の屋敷に土産を持って訪ねていた。十六夜へ礼をする為人間に化けたが、その時交流を持った両家の主との付き合いが楽しく、また行くたびに懐いてくれる十六夜が可愛くもあった。娘が欲しいと妃に言って、一刀両断に断られた事がまだ尾を引いているのかもしれない。

 自分に取って『女』と認めたのが狛妃以外におらぬ闘牙には、その可愛さがどんな意味を持つものか判ってはいなかった。

 伝令が闘牙の来訪を狛妃に伝えるのとほぼ同じく、闘牙は最上階の広場に姿を表した。

「うん? ついこの間会ったような気がするが……?」

 それが半年振りに会った夫への、妻からの言葉。

「俺もそんな気がするが、もう人間の時で半年ばかり経っているぞ」
「そうか、まぁ、時の流れなどあまり関係ないがのぅ」

 ふぁさぁと極楽鳥の羽で出来た扇をあおぐ。優雅に妃の前鬢の後れ毛がそよいだ。

「お前の言うとおり、借りは返してきたぞ」
「……返しただけではなさそうじゃな」

 扇で半分顔を隠し、流し目に近い横目使いで闘牙を見る。
 妃の言葉に、闘牙が軽い笑みを浮かべた。

「ああ、まったくお前に隠し事は出来ぬ。人間のふりも面白いものだ。言葉を交わせば、話も通じる相手がいる」
「道理で闘牙の身体から人間の臭いがするはずじゃ。色んな人間の臭いがするが、一番強いのは乳臭い子どもの匂い」

 そう言われ、闘牙は僅かに表情を変えた。
 ここに来る前にも十六夜の屋敷を訪ね、十六夜にねだられて高い枝の先に実っていた山桜の実を抱きかかえて採らせてやったのだ。その時の、十六夜の残り香だろう。

「人間の子どもを娘代わりにしているのか? 滑稽じゃな」
「……別に娘代わりしている訳ではない。請われたから受けたまでの事」

 おや? と妃は微かに訝った。
 今まで闘牙がいくら人間贔屓でも、こんなに近しく人間と触れ合ったことはなかったと思い起こしていた。

「で、今日はどのような用向きでここに来たのじゃ?」

 自分自身に用が有るかどうかは、その雰囲気で察せられる。
 伊達に夫婦はやっていない。

「あ〜、まぁ、ちょっと……。またお前の要らないモノでもあれば、貰い受けたいと思ってな」

 バツの悪そうな笑顔を浮かべているのは、自分でもらしくない事をしていると判っているからだろう。十六夜は最初に渡した鏡をとても気に入り、大事にしている。その鏡に自分の顔を映す時、とても嬉しそうな笑顔を映すのだ。闘牙はそれをもっと見てみたいと思ってしまった。

「わたくしに取っては子供騙しのガラクタでも役に立つと言う事か。持ってこさせてやるから、自分で選べばよい」

 音高く手を打ち鳴らし女官を呼び寄せると、何事か言いつける。女官はすぐさま一礼をして下がり、ほど無く二人がかりで堅牢な作りの黒檀の箱を持ってきた。中を開けると、そこには様々な女児向けと思われる小物が入っていた。櫛に匂い袋に装飾を施した筆に模様を梳き込んだ上質な和紙に小柄まで、それはもう幾種類も幾つも。

「……これは全てお前の幼き時の物か?」

 こんな妃の一面など見たことも無い闘牙は、昔日の面影を探るようにその小物を面白そうに見ていた。

「生憎だが、それはわたくしの物ではない。折角用意してやったのに、あれは使いもせなんだでな」

 ぷぃっとした仕草で、そう言い捨てる。箱の中身をよくよく見てみれば、女児向けの仕様で有るが、遊びに使うようなあるいはただ見て楽しむ装飾的なものはただの一つもなく、大変実用的な物しか入ってはいなかった。櫛の歯は細く丈夫で髪を梳る事も出来るが、使い方によっては鋭い歯先で皮一枚くらいなら切り裂ける。匂い袋も、その中身は万能の効能を発揮する薬草。筆や紙はそのままでも実用品、小柄にいたっては説明するまでもない。

「これは、もしや殺生丸に使わせるつもりで用意したものか?」
「ああ。わたくしは美しいものが好きだからな。だからあれに与えようとしたのに、無視しおった!」

 さらに闘牙が箱の底を探ると、月に花影を蒔絵で描いた黒漆塗りで出来た掌にすっぽり収まる位の小さな器を見つけた。中を開けてみると、とても良い香りのする艶やかな紅が入っていた。

「おい、妃……」

 幼い時から強大な妖力を持ち、成長の暁にはこの二親をも凌ぐだろうと言われている西国の妖犬族の総領息子の、女装趣味とも取られかねないあのいでたちはこの妃の仕組んだ事だったのだ。

「わたくしも飾り甲斐のある、わたくしに似た娘も悪くはないと思ってはおりました」
「…………………」

 自分が思う以前より、妃はそう思っていたのだろう。それをあえて押さえて、今日まで来たのだ。

「まぁ、飾り甲斐のあるわたくしに良く似た息子ですから、それで十分ですけど」
「妃……」

 闘牙の声から気力が抜けていた。ともに自由気まますぎるこんな父母であれば、殺生丸があんな風に育ってしまったのも無理はないだろう。

「では、いくつか貰ってゆくぞ」
「どうぞ、ご自由に」

 どこまでも捌けた感じの夫婦であった。

 
  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 狛妃の城と、人間の屋敷とを行き来するようになって早四・五年が過ぎようとしていた。今では両家の父等とはすっかり旧知の仲のように打ち解け、西国の土産を肴に宴を開く事も通常化していた。
 その間、闘牙は見事に「人間」に化けきっていた。一度も自分の正体を疑われた事はない。都より遠い西国の郷士と言う身分は、屋敷を訪ねるたびに持参する物品で証明され、宇佐の社の者が口裏を合わせてくれたのか、西国での任は神宮警備の長と言う事になっていた。

「……気紛れも、随分と続いているようじゃな」

 いささか呆れ気味に、またも何やら城から持ち出してゆく闘牙の後ろ姿に声をかける。

「なんだ、気になるのか?」

 ふと振り返り、妃を見る闘牙。

「移り変わる子どもの匂いで、その成長ぶりが伺える。いつまでも、子どもではいまいに」
「ほぅ、お前らしくもない。人間の、それも年端も行かぬ娘の存在を気にしているのか?」

 闘牙の言葉に、狛妃は馬鹿らしいとそっぽを向く。
 なんの思惑も計算もなくただ、十六夜や猛丸の父らとの交流が楽しい。
 訪ねるたびに大きく美しく成長している十六夜の姿が、丹精込めた花の苗に蕾がついたようで、いつ花開くかそれを待つ楽しさもある。

「じき十六夜は猛丸の許に嫁ぐ。それを機に、俺も屋敷に通うのを控えようと思っている。人間の真似事は中々楽しかったが、引き際は肝心だからな」
「それが良御座いましょう。自分の父が人間の真似事をしていると、殺生丸がずっと機嫌を悪くしておりますから」

 父親同様、滅多にこの城を訪ねては来ない殺生丸が訪ねて来るたびに、今の父親の行状に荒れた気を振りまくのを妃ははなはだ迷惑に感じていた。

「そう言えば、もう随分と殺生丸の顔を見ていないな。たまにはゆっくり親子で酒でも酌み交わしたいものだ」
「ふふ、あれも気難しい性質。思うところが色々あり、素直に闘牙の前に出たくはないのかも知れぬ」
「……嫌われているのか、俺は?」
「さぁ、どうであろう?」

 物好きな父と素直ではない気難しい息子との間で、享楽な性の妃はそれすらも娯楽の一つのように眺めていた。

 ひょんな事から人間のふりをして闘牙が人間と交流を持った数年は、「人」の時の流れの速さを実感するまたとない機会でもあった。初めてあったころは子ども子どもしていた十六夜も猛丸も、今では十分大きくなった。十六夜は貴族の姫らしく優雅にしとやかに育ち、まだ幾分か幼さは残しているもののその姿は、年頃の男心を惹く存在になりつつあった。
 また猛丸も刹那の総領息子に相応しい武人に育ち、朝廷に上がり早くも近衛の将曹になっていた。この破格の昇進は、朝廷に上がったばかりの頃に宮中内の護衛についた今上帝の異母妹姫の、格段の引き立てがあっての事だった。
 
「早いものですな、子どもが大きくなるのは」

 御所警護についている猛丸は欠席しがちになっていたが、月に二度ばかりの十六夜の屋敷を訪ねての酒宴ももう数え切れぬほどの回数を数えた。闘牙のその言葉に、十六夜と猛丸の父等が大きく頷く。酒宴に興を添えるのは、十六夜が爪弾く琴の音色。その音色の妙なる調べは、最近では都でも噂になっている。闘牙の耳にも、愛らしかった音色に艶が加わってきたと感じていた。

「まったくですな。子どもだ子どもだと思っていても、気がつけばいつの間にか自分が追い越されているのに気付く次第」

 そう言ったのは、刹那の当主。嫡男の猛丸は皇族の方の引き立てを受け、順調に出世の道を歩んでいる。猛丸が身を固めたら、自分は家督を譲り隠居でもしようかと考えていた。

「闘牙殿も西国に奥方とお子がおられると聞いているが、お幾つぐらいなのであろうか?」

 あまり自分の身上は詳しく話さずにいたが、何かの時にぽろりと零した言葉を覚えていたらしい。

「……猛丸殿と変わらぬ年頃か、手はかからぬが周りと馴染まぬ者で修行の旅に出ておる」

 まさか殺生丸の本当の年齢を言う訳にもゆかず、また随分と長い事あっていない事もあって言葉を濁した。

「修行の旅とは心強い。闘牙殿が壮健で有るゆえに、安心して旅に出ておられるのだろう。まぁ、家に居つかせたいのなら、善き妻を迎えさせ家を構えさせる事であろうな」
「おや。それは猛丸殿と十六夜姫の話でござるか?」

 闘牙が出遭った時から、許婚同士だった猛丸と十六夜。貴族の姫君の輿入れは、十三・四が適齢期。それを考えれば、今から準備して丁度良い頃合になるだろう。

「はい。そろそろ善き日を占ってもらい、十六夜姫と猛丸の婚礼の日取りを決めようかと思っておりまする」

 にこやかな笑顔の十六夜の父。猛丸の父よりも年嵩で、この屋敷で唯一の男であれば、これから先、自分より随分と若い妻や娘の行く末が心配で、だからこそこの縁組で刹那家と縁続きになれば、いざ自分に何かあった時も心強いと考えていた。

「そうか。そのハレの日には、俺からも是非贈り物を届けさせよう」

 気持ちよく杯を空けながら、闘牙は二人の父親達に約束をする。その約束を果たした時に、この友人等とは縁を遠くしようと決めていた。縁を切るのではなく、「人」と「妖」の立場を弁えるのならば、と。その日までを、こうして幼かった子ども達の成長を喜び、気兼ねない友人たちと過ごす事を大切にしたいと思いながら。

「その前に、一つ大きな仕事をせねばなりませぬが……」

 十六夜の父がそっと溜息をつきつつ、気重な風を漂わせて言葉を零した。

「少祐殿? 大きな仕事とは……」

 闘牙はその様子に、不安を感じ事の次第を尋ねてみる。

「闘牙殿も都に来られて、もう四・五年になられるか。ならば都の東方に棲む悪鬼魔物の噂を聞かれた事はあるまいか?」
「東の魔物……」

 忘れもしない、忘れるはずもない竜骨精の存在。

 その存在がなければ都に来る事もなく、そしてこうして人と交わる事もなかった。禍福糾う縄の如き因縁である。

「……都に悪疫が流行ったり、戦乱が止まぬのはこの魔物の呪いとの宣託が出たのです。飢饉や天変地異なども続き、民の心はすっかり疲れ果て荒れ果てております」
「少祐殿……」

 ざわりと、嫌な予感が闘牙の背中を走る。

「帝より、魔物調伏の命が出されました。その任をこの私が受けたのです」
「なぜ、少祐殿がっ!? 本来そのような仕事は陰陽師の役目であろう!」
「止めておけ! 少祐殿っっ!! あれは人の手に負えるモノではない!」

 その陰陽師達が度々打ち負かされ、今に至っているのである。この中で闘牙ほど、人間の力では叶う相手ではないと言う事を知っている者はいない。

「……受けねば勅命に逆らったとして、処分されるであろう。そうなれば、刹那殿にも迷惑をかける。私がやらねばなるまい」

 どこか諦めに似た表情を浮かべ、十六夜の父は言葉を切った。

「なぜ、貴族である少祐殿にそのような任が下される? 務めておられる社もそう大きな物でもなく神祇官という文官でしかない少祐殿が?」
「……血筋でしょうなぁ。遥か古の武内の血統を継ぐ者故に」
「少祐殿!!」

 闘牙は初めて十六夜の父の本当の姿を見たような気がした。ゆらりと立ち上る霊気は深く穏やかで、静かに物事の真実を見極める光を放っている。

「伝説に聞く祖霊のような力はなくとも、せめて都の人々の為わが子の為、力及ばずとも精一杯勅命に殉じましょう」
「待たれよ、少祐殿。その言葉は、己の一命を賭してもと聞こえまする。御身は死地に向かわれる覚悟であられるか」

 刹那の当主が声を荒げる。

「……どのような結果になるか、私にも判りませぬ。故にお二方に、これからの事をお頼み申す次第。無事私が戻れば良し、そうでない時はどうか十六夜と妻の事をお願いいたします」

 少祐の穏やかだが瞳の強い光が闘牙を射抜く。

( ……もしや少祐殿は、俺の正体に気付いておられたのか? 気付いておりながら、今までそれを気取られる事なく親しく付き合ってくださっていたのか ―――― )
  
 十六夜姫のあの気性は、この父譲りであったのであろう。

「待て! そこまで少祐殿が心を決めておられるのなら、このわしも同行しよう」
「それはなりませぬ、刹那殿。あの魔物に関われば、刹那殿とて只では済みますまい。どちらともが斃れてしまっては、両家が立ち行かなくなりまする」

 闘牙の心が騒ぐ。今の闘牙に、竜骨精を倒せる自信はない。いくら油断していたとは言え、絶命寸前にまで追い込まれた相手。それでも ――――

「……刹那殿の代りに俺が行こう。お二方には良くしていただいた。その礼も兼ねて、微力ながら俺も助成いたそう」
「いや、闘牙殿。そこもとの領地は遥か遠くの西国にある。都での待遇は遊客扱い、なんの命も受けておられぬのに、そのような危険を冒すことはない」
「……因縁がないと言えば嘘になる。その魔物に犬を殺されかけた。これはその仇を討てと言う事だろう」

 ぎりと、闘牙は牙を噛みしめた。かつては神の位にあったものであっても、今は世に災厄を撒き散らす邪なる妖怪にと成り下がったモノ。どれほど強敵であっても、己の狛の本分としても、打ち倒さねばならぬ相手であった。


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 十六夜の父を先頭に立て、竜骨精討伐の一行二百余名は都の東の山奥に分け入っていた。竜骨精の邪気に蝕まれているせいか、山奥に入るほどに木々は立ち枯れ大気に穢れが増してくる。それを十六夜の父は、口の中で言呪を唱えながら浄化しつつ先へ進む。
 己の領域に人間が踏み込んだのを察知した竜骨精が、突如一行の前にその巨体を現した。

「私の領域に踏み込むとは、命知らずな人間どもよ。道を誤った己の愚かしさを呪うがいい」

 討伐の一行を恫喝する大音声とともに、息苦しいほどの邪気を吹き付けてくる。邪気に焼かれ、一行の着ていた物や騎乗していた馬の肌がぼろぼろと劣化した。

「……道を誤ったのではない。都で起こる数々の災厄はお前の仕業と判っている。これ以上の災厄を起こさせない為に、我等はお前を討ちにきたのだ!」

 十六夜の父の声が凛と響く。

「人間如きが、この私を討つ? これは面白い!! 出来るものなら、その手並みを拝見しよう!」

 傲慢さをそのままに、竜骨精は居丈高に姿を一行の前に大きく晒した。十六夜の父の手が上がり、振り下ろされる。先攻の百名ばかりが、霊木で作られ加持祈祷でさらに浄化の力を増した弓に聖火を灯し、火矢として一斉に放つ。先攻の矢の射掛けが終ると直ぐに後攻の矢が射掛けられる。その攻撃は射手の矢筒の矢が尽きるまで、途切れる事無く続けられた。
 火矢の燃える音、煙、炎の勢い、それら全てが浄化の力を持つ。轟々と燃え盛る炎と煙に包まれ、巨体の竜骨精の姿も見えなくなっていた。

「少祐殿、これでこの魔物は退治られたのでしょうか?」

 十六夜の父の補佐についていた、射手の束ねの武官がそう尋ねる。十六夜の父の表情では、どちらとも判じがたい。火勢が鎮まり、煙が薄れてきた。

「……来るぞ! 少祐殿っっ!!」

 十六夜の父の脇騎としてついていた闘牙が叫ぶ。
 煙が晴れた瞬間、討伐隊の面前に竜骨精の巨体。巨大な腕で横なぎに射手を払い、強靭な尾で岩に叩きつける。吐き出す邪気はますます毒性を強め、邪気を吸った射手の幾人もが肺を焼かれてばたばたと倒れてゆく。
 闘牙の咄嗟の判断で、辛うじて難を逃れた十六夜の父は味方を助けるため、全力を振り絞って辺りを浄化し始めた。肺を焼き尽くされる寸前だった射手がその場から、よろめきながら岩陰へと身を潜めるのを見届ける。

「なんだ、これでもう終わりか? 手応えのない相手ばかりで、面白くもない。もっと強い者はおらぬのかっっ!」

 天地が揺れ動くような怒声が、討伐隊の上に響き渡る。その恐ろしさに、まだ動ける者たちは堰を切った水のように元来た道をよろめきはいずりながらでも逃げ始めた。その人間達を悠々と追い、僅かな躊躇いもなくその巨体で踏み潰してゆく。討伐隊が壊滅するのは、ほんの一瞬であった。

「少祐殿、今はあなただけでも引かれよ。この場は俺が食い止める!!」
「何を言う、闘牙殿っっ! あなたお一人で、どう立ち向かわれると言われるのかっっ!?」

 このような時にでも、自分の身を案じてくれる「友」の存在を、闘牙は嬉しいと思った。この「友」になら、自分の本性を見せても構わないとそう判断した。

「少祐殿、あなたは俺が「人」で無い事に気付いておいでではなかったのか?」
「闘牙殿……」
「俺は少祐殿の娘、十六夜姫に助けられた『狛−いぬ』だ。ここであなたをを助けることが、その恩に報いる一番の方法だろう」

 闘牙はそう言うと、ぶるりと身体を大きく震わせた。今まで「人間」に化けて押さえ込んでいた妖気が、渦のように湧き上がり闘牙の身体を覆ってゆく。妖気の渦に巻き上げられてきらきらとした白銀色の物が見えた。その渦が収まった時、そこには竜骨精とも引けを取らない、強大な大狛の姿があった。

「闘牙殿……」

 十六夜の父は怖ろしい今の状況を忘れ、神々しいばかりの狛犬姿の闘牙を見つめた。

「ほほぅ、やはりお前か。人間の臭いに混じって狗の臭いがすると思えば……」
「竜骨精、お前こそどこまで堕ちるつもりなのだ。災厄を撒き散らし、人々を苦しめてそれが楽しいのかっ!?」

 対峙する二つの「ひとでないモノ」達。

「……それが楽しいのだろうな、人間どもは。私のしている事は、人間の行いを鏡のように映してみたもの。戦乱で人間が人間を殺し、家々を焼き、弔われもせず野晒しになった死体から病が湧く。それを私のせいだと人間どもが罵るから、本当の事にしたまで」

 冷淡な調子で、そう言い捨てる。

「それでも、お前は東の守護であったものであろう!? それを、なぜ……」
「繰言か? 闘牙。 先年の事も忘れ、また私に刃向かうつもりか。卑怯にも、此度は人間の手を借りてまで私を倒そうとなど、浅はかだな」
「俺が今、ここに有るのは大恩を返すためだ。俺の筋を通す為だ!!」
「馬鹿なことだな、今のお前にこの私を倒す事など、出来ようはずもなかろう。今度こそ止めを刺してやる」

 生き残った人間への興味は薄れ、竜骨精は闘牙を倒すべく体勢を変えた。その間にわずかに生き残った者が、その場から逃げ出していた。が、十六夜の父だけは、未だその場に留まり続けている。

「少祐殿! 早く逃げろっっ!!」
「あなたが私を置いて逃げることをしないのに、私があなたを置いて逃げてしまっては、私は私の道を踏み外す事になります。私もまだ、闘える!」

 その言葉が竜骨精の気に障ったのか、十六夜の父のいるところを横から腕で薙ぎ払う。岩に叩きつけられなくとも、その毒爪にかかれば只の人である十六夜の父などあっという間に毒の冒され息絶えてしまうだろう。薙ぎ払った腕が岩にあたり、ばらばらと十六夜の父の上に落ちていった。

「少祐殿っっ!!」

 闘牙が叫ぶ。

「人間の一匹や二匹、死んだところで何も変わらぬ。それよりも、この間よりも私を楽しませろ、闘牙」

 言うなり闘牙に掴みかかろうと毒爪のついた腕を伸ばしてくる。闘牙はそれを後ずさって避け、知らず知らずのうちに楔形の谷の奥に追い込まれていた。

「さあ、もう後はない。どうする? 闘牙」

 自分の巨体で出口を塞いだような形で、闘牙を挑発する。この体勢で闘牙が攻撃を仕掛けてくるとしたら、壁を蹴り中空に飛び上がって巨体を飛び越しながらの後ろ蹴り。真正面からの頭を下げての攻撃はないものと、竜骨精は予想する。そんな事をすれば、急所である首の後ろを晒してしまう。ここに重たく鋭い一撃を喰らえば、即死は免れない。それよりも体勢の反転と攻撃の両方が出来るこちらの手の方を選ぶだろう。ならば、飛び越える際の伸び切り無防備な腹を下からこの腕で貫いてやる。竜骨精は狂眼を見開き、今か今かと闘牙が攻撃を仕掛けてくるのを待っていた。

 形勢有利であったがために、油断が生まれたのは竜骨精の方だった。

 ひゅんと、闘牙の頭の上から風を切る音がした。続けてもう一本、もう二本。風を切ったのは、破魔の矢であった。闘牙の後方、崖の上には着慣れぬ狩衣を肩肌脱ぎにし、竜骨精の眼に破魔の矢を射込む十六夜の父。放たれた破魔の矢のうち一本が、竜骨精の左目を射抜いていた。眼を潰された竜骨精が思わず体勢を崩した隙を突き、頭突きでその巨体を押し飛ばすと、首の後ろを取ろうと背後に回り込む。首筋をしっかりと牙で突き刺し、地面に顔面を何度も叩きつける。竜骨精の額に有る人面が一番の急所、ここを攻め続ければ倒す事が出来る。窮地に追い込まれた竜骨精は、苦し紛れに自分の毒爪を崖の上に向かって飛ばした。

「危ない、少祐殿!!」

 闘牙の叫びに身体をかわした十六夜の父だが、ほんの僅かにその身体を竜骨精の毒爪がかすっていった。たちまちその場に倒れ込む十六夜の父。その姿を見て闘牙は竜骨精を放し、十六夜の父の元に駆け寄る。眼を潰された竜骨精はその隙に、その場から逃走した。

 人型に戻り、十六夜の父を助け起こす。

「しっかりしろ! こんな所で死んではならぬ!!」

 毒爪がかすったのは左ふくらはぎ。このままでは間違いなく毒が全身に回り、腐り果てて死んでしまう。荒療治ではあったが、闘牙は十六夜の父の左足をその付け根を少し残して刀で切り落とした。切られた左足からは既に毒に冒された黒い血が、残った方の切り口にも黒い血がついていたが、溢れ出る大量の血で毒を流し去る。
 
「と、とう、が殿……」
「喋るな、少祐殿! 今、毒を流している。血の色が変わったら止血するから、それまでがんばってくれ!!」

 闘牙は自分の髪結いに使っていた紐を解き、それできつく足の付け根を縛り上げた。あまりも大量出血の為、命の大半を流してしまったかのように抱え上げた十六夜の父の身体は軽かった。

「……惜し…かった、で……、と、が殿」
「無理をするな。俺が屋敷まで少祐殿を連れて帰る故」

 人型では高速の移動は出来ない。重体で命の危険もある十六夜の父を闘牙は狛犬姿に戻り、そっと口で咥えると空へと舞い上がった。

「もう、少し… 倒せ……た……」

 振り絞るように言葉を吐き出す十六夜の父の言葉に、闘牙は頷くことも出来ないまま天翔ける。屋敷に戻る直前で人型に戻り、十六夜の父を屋敷内に担ぎこんだ。夫の変わり果てた姿に十六夜の母は気を失い、十六夜は真っ青な顔をしてそんな父母を見つめていた。

「済まない、十六夜姫。姫の大事な父君を、こんな目に合わせてしまった」
「…いい……え。わたくしも、都での噂は知っております。父上は貧乏くじを引かされたのだと。おそらく、生きて帰っては来れないだろうと」

 十二歳になるかならないかの幼い姫の言葉とも思えぬ、この落ち着き。

「姫は此度の父君の事、存じておられたのか? 少祐殿はそれを言い置かれて屋敷を出られたのか?」
「父上は、このお役目を終えたらわたくしの婚礼の準備に入る、それを楽しみに待っておれと仰っていました」

 気丈に語る姫の瞳に、涙が珠の様に湧いていた。

「父上の、この足は魔物に食われてしまったのでしょうか?」
「いや、毒にやられたのだ。全身に毒が回らぬようにする為には、早いうちに切り離さねばならなかった」
「魔物の毒…、あの全ての物を腐らせる怖ろしい毒……」

 十六夜姫は、昔助けた犬の傷を思い出していた。
 二人が会話を交わしている間に、屋敷の者の手で十六夜の父は床に寝かせられた。急ぎ医者と刹那家の屋敷に使いが出され、後は祈るような気持ちで待つ。神仏の加護があらん事を。
 弱々しい声で十六夜の父が、姫と闘牙を呼んだ。

「……礼を…、こう…し… 姫の顔… 見ら……」
「父上!!」
「頼み… 闘……牙、姫を……」
「少祐殿……」

 息を苦しいのか、くぅぅと身体を仰け反らせるようにして大きく十六夜の父の胸が動いた。
 そして、ふっと全ての苦痛から開放されたような笑みを青く血の気の無くなった顔に浮かべた。

「……人と、闘牙……殿の… よう…な……、力を… 合わせれ……、叶う、こと………」

 その言葉を最後に、すうぅと眠るように十六夜の父は事切れた。遅れてきた医者が脈を取り、何も言わずに首を横に振る。さらに遅れて刹那家の当主と猛丸も駆けつけた。
 大事な友を亡くし、くぐもった嗚咽を漏らす刹那家の当主。変わり果てた姿の十六夜の父と、無傷の闘牙を見比べ、訝しげな光を瞳に宿す猛丸。

 闘牙は十六夜の父の、最期の言葉を胸のうちで反芻していた。


 人と「妖」が、力を合わせる事が出来れば ――――


 この時、運命の輪は大きく新たな方向に向け回り始めていた。


【 奇縁 −くすしきえにし− 3】に続く

2010.1.25

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