【 鬼棲樹 −やどりぎ− 3 】
─── 私なのです。あの隠れ里を落武者達に知らせてしまったのは。
勿論、裏切るつもりなど毛頭ございませんでした。
ただ…、恋に目が眩(くら)んでいたかも知れません。
私の家はお館様の命により、村と里とを繋ぐ伝令の役目を仰せつかっておりました。里の者が直接外部の者と接触しないですむように、又、村の者に余計な負担を掛けさせないようにとのご配慮です。
落武者達は、村と里を結ぶ山間の森の中に潜んでおりました。深い森は、そこここに隠れた小さな崖が行く手を阻む、天然の要塞でございます。道に慣れた者でなければ、あの獣道を巡る事は出来ないでしょう。
私がその者と出会った時、その者は崖の下に倒れておりました。下生えの草に隠されていた崖から足を滑らせたのです。
関わってはならぬ、と引き留める声に逆らって匿い傷の手当てを致しました。まだ若い、凛々しい顔だちをした若侍でございました。
幾日か手当てに通ううち、互いに打ち解け色々な話をするようになり…。
その者は生まれた時からの戦暮らしを倦み、血で血を洗う日々を忌諱しておりました。出来る事ならどんな山奥でも構わぬ、ひっそりと心穏やかに暮らしたいとそう申したのです。
私は、その言葉を信じたのです。
信じて、私にとっても宝物であるあの隠れ里へ案内したのです。
許しを得た訳ではありませんから里の中に入る事は致しませんが、小高い崖の上から、里の様子を見せたのです。若侍は、ひどく心を動かされたようでした。そして、彼は真剣に私との行く末の事を考えてくれているようでした。
ただ、私達の仲はまだ誰も知らぬもの。
私も、どうこの事を父上に伝えようかと、思案に暮れておりました。
ある夜の事です。
父上は里へ戻り、私が森の番小屋で一人留守居を守っていると、彼が匿っている潜み場所から私を訪ねてきたのです。
父に会いに来た、と。
先に許しを請うてから、一族の者に別れを告げる、と。
私の喜びは如何ばかりか。
言葉に表す事は出来ません。
その夜、私達は契りを結んだのです。
夜半すぎ、彼は必ず迎えに来るからと言い残し、番小屋を出てゆきました。この日の夜明け程、長く感じた事はございません。
朝になって父上がお戻りになれば、彼が私をもらい受けに来てくれると、そう信じて疑いもしてはおりませんでした。
─── が、いつまで待っても父上は里より戻りません。
心配になって彼の元を訪ねますと、彼の姿もまた消えておりました。
言い知れぬ不安と疑念で、急ぎ里へと戻った私が見た光景は、目を覆うばかりの惨状でした。
焼け落ちた館址、くすぶる家々。
その周りには無惨にも切り殺された落武者達の骸(むくろ)が転がり、その数と同じか、それ以上の野盗の死骸も転がっておりました。
もとより、殺生をなにより忌まれていたお館様のこと。
もしこの里が襲われる事あらば、潔く自決なさるおつもりである事は、里の者皆承知の事でした。
その上で、生きる者は生きよ、と。
私は、里を落ち延びた者がいるのではないかと、生き残った野盗どもの話を盗み聞きいたしておりました。お館様が一身を睹して作った機会を捉え、業火の中逃げ延びた者が居るはずだと。しかし、私の耳に入るのは悲惨な報ばかり。
山に逃げ延びた者たちの多くはまだ幼子を連れた若い母親や、将来(さき)のある少年や少女。この者達を逃がす為、父や祖父母たちは敵の目を欺く為、宝である里に火をかけた。
それなのに父や祖父母たちの、宝にも優る者達が次々と山から野盗どもに狩り出されてくる。
隠れ潜む私の目の前で幼子やその兄達は虫けらのように殺され、幼子の母や年端もゆかぬ少女まで嬲りに嬲り、責め殺してしまったのです。
目の前にいるのは、人の姿をしてはいてもその性(さが)は悪鬼・羅刹。
人がこんなにもおぞましいものだと、初めて思い知りました。
かごめは耳を塞ぎたくなる気持ちをぐっと堪(こら)え、庵主の言葉を聞いていた。目の前には阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵図がまざまざと浮かび上がる。
「…それじゃ、お姫様たちもそんな風に殺されたの? やっぱり、この樹をこんな鬼の棲む樹にしたのは、お姫様達の無念の想いなの?」
かごめは自分の足元に横たわる姫君たちの亡骸を見ながら、そう言った。
姫君の死に顔にも、ご家来衆の顔にも人を恨んで死んでいった者特有の苦悶の表情はない。むしろ、泰然と己の運命を受け入れた潔ささえ感じられる。
( …いいえ、姫様もお供のご家来衆にも無念の想いはございません。殿のお言葉通り、生きられるだけ【ご自分の生】を生き抜いたのですから。たとえ姫の命を助けるからと言われ、お味方同志で酷い殺し合いをさせられようとも…、です。)
かごめの胸に、【生きる】とはどう言う事かとの自問の声が響く。
【命】を投げ出す生き方は容易(たやす)いのかも知れない。その身が滅しても尚、生きるものがあるとしたらそれは【心】ではないだろうか。
もしそうなのなら、【命】とか【心】とか【魂】、これらのものはどこから来て、どこへ還るのだろうか?
( ─── わからない。だけど一つだけ言える事は、私たちの中には、私たち自身知らない大きなものがあるって事なのね。 )
かごめにも姫君達が財宝を取り損なった野盗どもの腹いせに、仲間同士で殺し合いをさせられ、その挙げ句、姫君まで桜の枝を瞳に突き立てられて殺された事は判っている。
だが最後の最後まで姫君達は己が信念に『心』に従って、生き抜いた。
そんな姫君達が、この樹を変妖させる訳がない!!
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
―――― 今まで犬夜叉達の周りを取り巻いていた怪しげな靄は、この怪異の元凶であるあの妖桜の大樹の周りに纏わりついているだけになっていた。まだ幾ばくかの距離があるが、その靄の中に…
「犬夜叉――っっ!!!」
桜樹の太い幹に縛められているのは、紛れもなく かごめ!
「かごめっっ――!!」
かごめを人質に取った優位性でか妖樹はその枝をしなやかな鞭のように変化させ、犬夜叉達を襲う。その間にも人質に取ったかごめの体を樹体の中に取り込もうとしている。
「犬夜叉! 犬夜叉っっ―――!!!」
かごめの犬夜叉を呼ぶ声にも、苦痛の色が滲む。
「犬夜叉! 何をしとるんじゃっっ!! 早くかごめを助けねば、あの樹に食われてしまうぞっっ!!!」
辺りには犬夜叉の五感を奪うかのようの頻りと血色の花弁が降り注ぎ視界を遮り、枝なり葉ずれの音が汐の声の様に犬夜叉の耳に木霊する。
地に落ちた血色の花弁は瞬く間に腐り果て、甘く腐った血と花の匂いを漂わせ、犬夜叉を苦しめる。
「珊瑚! 飛来骨であの鞭のような枝を薙ぎ払えますか!?」
「ああ。わかった! やって見るよ、法師様!!」
「犬夜叉っっ! お前は私とその間にあの樹の側まで行き、かごめ様を救い出す、走るぞっっ!!」
珊瑚が投げた飛来骨の下を追うように、犬夜叉と弥勒はかごめの許へ駈け寄ろうとした。が――
何本かの枝を打ち払った所で珊瑚の飛来骨は上から振り下ろされた太い枝に地面に叩き付けられ、犬夜叉達の足元に突き刺さる。
「ちっ!」
足の止まった所を狙い澄まし、何本もの枝が突きかかる!
「急げ! 犬夜叉!! かごめの体が半分飲み込まれとるっっ!!」
「このまま突っ込むぞ! 弥勒!!」
「犬夜叉っっ!!」
僅かな間にも妖樹の攻撃は緩む事もなく、間断無く犬夜叉達を襲ってくる。行くも退くも敵わず…
「犬夜叉ー、法師様!! 伏せてっっ!!!」
珊瑚の声と共に、雲母の吐く火炎が二人の頭上を薙いだ。
「今のうちだよっ! 一旦、下がって!!」
珊瑚の声に一瞬で反応し取り敢えず、体勢を立て直せる場まで退く。
「どうするっっ、弥勒!!」
体力的なものよりも、気持ちの焦りの方が大きく、その思いがその叫びに現れていた。
「…のう、あの樹はかごめを喰らって如何するつもりじゃろう?」
「馬鹿っ!! 誰が喰らわせるか!!」
七宝の頭に拳を落とし、今だ視界を遮る花弁越しに妖樹を、それに囚われたかごめを見やる。
( ふむ…、この林に踏み入ってからの、この違和感はなんだ? )
伊達に妖怪どもと渡り合って来た訳ではない。
態勢の悪さはあるがそんな状態でも弥勒は、ずっと胸に蟠(わだかま)っていた思いを噛み締めていた。
気持ちの悪い【気】に満ちた、この妖林。
明らかに【変異】をもたらしているのはこの目の前の、今 かごめを捕らえている赤い桜樹には違いないのだか、それにしても…。そんな思考は、ほんの一瞬の事。
犬夜叉と弥勒が下がったのに気付いたのか、二人を狙って延ばしていた枝々を引き戻し、更にかごめを締め上げて行く。
かごめの華奢な体が無惨な程締め上げられ、その口許からは赤い糸が一条、締め上げている枝の上に落ちる。
「かごめっっ―――!!!」
犬夜叉は無我夢中で鉄砕牙に手を掛け、大きく上段に構えた。
「なっ、何をするんじゃ〜っっ!!! かごめを、斬るつもりかっっ!!」
「ばかやろ!! んな事、するかっっ!! あの木の上の方だけ、吹き飛ばすだけだっっ!!!」
叫ぶが早いか、言い終わらぬうちに鉄砕牙は振り下ろされ、その妖気の風を追うように、犬夜叉は走り出していた。威力を押さえたとは言え、その破壊力は並みではない。おそらく、この樹の上半分は粉々に砕け散る筈。砕けた枝々がかごめの上に降り注がないうちに、助け出さなければ大怪我をするのは目に見えていた。いや、怪我だけですめば良いが……
一瞬の神業の様に犬夜叉はかごめの許に駈け寄り、いまだかごめの体を縛めている妖樹の枝を引き剥がした。ばらばらと崩れ落ちてくる樹の残骸がかごめの体に突き刺さらない様、火鼠の衣を被せると間一髪、崩れ落ちた樹の残骸をかわして皆の所へ戻った。
「大丈夫か? かごめ!」
「…うん、ごめんね。油断しちゃって…」
申し訳なさそうに、小さくかごめは呟いた。
逃げる時に降りかかる残骸で、その足に怪我を負っている。
「…痛くはないか? かごめ。もう、大丈夫じゃぞ」
「ありがとう、七宝ちゃん。心配かけて、ごめんね」
かごめと七宝が言葉を交わしている間に、手早く珊瑚が足の傷の手当てをしていた。
「…まだ、のようですね」
「ああ。【根】の方が残ってるからな!」
油断なく、犬夜叉と弥勒は半分に砕かれた妖樹に目を光らせていた。
林全体の【気】が、ザワリと今までになく禍禍しいものに変化し、それはどこか歓喜を含んだおぞましいものを感じさせる。
ぐわっ、と大きく妖樹が内裡(うち)から【邪気】と【妖気】を吹きつけて来た。辺りが、毒々しい赤い花霞に包まれ、息苦しい花の香りに息が詰まる。
【声】にならぬ、【声】を聞いたような気がした。
今、目覚める【モノ】 ――――
「ね、ねぇ… なんだか様子がおかしいよ。犬夜叉に樹体の上半分吹っ飛ばされたのに、前より勢いが増してるよ!」
それは珊瑚が言うよりも皆が皆、感じていた。
「あっ、痛!」
「大丈夫か? かごめ」
怪我を押して立ち上がろうとしたかごめの口から洩れる、小さな呻き。
「う、うん、大丈夫。早く、あの樹を倒さなきゃ」
「ああ、判ってる! お前さえ取り戻せばあんな奴、風の傷一発で仕留めてやる!!」
再び鉄砕牙を構えなおそうとした時に、妖樹は大地に張り巡らせたその根を地中から大蛇のようにうねらせ、犬夜叉達の足元をすくった。咄嗟に珊瑚は七宝を懐にねじ込んだ弥勒ともども雲母に飛び乗り、犬夜叉はかごめをいつものように背負うと、枯れた公孫樹の大木の枝に足場を求めた。
先ほどまでは感じなかった【妖気】が、膨れ上がるように強くなる。その【妖気】に結界の中のこの得体の知れない嫌な【気】が流れ込み、ますますその力を強くしている。
打ち砕かれた枝々の代りに、その根を凶器に変えて襲ってくる。辺りの白骨のような公孫樹の木々を打ち砕き、錐のような鋭利な枝を滝のように降らせてくる。
それを避けて弥勒と珊瑚は結界の中、雲母を上空に退避させたが、思うような足場を得られない犬夜叉とかごめはその凶器の雨の中を、間一髪でかわし続けていた。
結界の外に出て体勢を立て直すべきかとも弥勒は思ったが、ここから出るには犬夜叉の赤い鉄砕牙の力が必要になるだろう。生身のまま、無理にこの結界を出ようとすれば…、弥勒は自分の左手を見た。
そして何よりも、この中に溢れているこの禍禍しい【モノ】を外に出す訳には行かないだろうと思う。
「ね、犬夜叉。あの樹、どうにかして倒せない?」
背中でかごめが声をかけてくる。
「ああ、あいつを倒さねぇ事には、ここから出られねぇからな!!」
「どうするの?」
「ほんのちょっとの間でいい。風の傷を打つ間だけ、足場が出来りゃ、それでケリ着けてやる!」
相変わらず得体の知れない嫌な相手だが、【妖怪】として見た場合、大した事はないほんの雑魚妖怪。嫌な感じは、ここに入ってからずっと付き纏っている釈然としない違和感の所為。
「うん、犬夜叉強いもんね」
……いつも闘っている時に感じる不安は、かごめの事。
かごめは強い。
それは犬夜叉も知っている。
それでも…、やはり【守って】やりたいと。
だから、今 背中に感じるかごめの暖かさと柔らかさ、甘い匂いは何よりも犬夜叉の気持ちを奮わせる。
「 ――― ? なんだか、こっちへの攻撃が手薄になったね」
「そうですね、こちらはある程度の高さで待機出来る分、犬夜叉たちよりも攻撃しにくいのでしょう。では、そろそろ行きますか」
「行くとは、どう言う事じゃ」
「犬夜叉の加勢です。珊瑚、雲母をこの高さのままで犬夜叉達の左角手になるように着けてください」
「ああ、判った」
「風穴を開いて、足場を確保します!」
足元で轟き渡る轟音に負けずと、声を張り上げる。
「犬夜叉ー!! 今から、風穴を開いてその樹の動きを止めます!」
「判った!! 後は任せておけ!」
背中のかごめが、ぎゅっと犬夜叉にしがみつく。修羅場になる程度胸がつくかごめには珍しい。犬夜叉の背中に当たる、かごめの胸の柔らかさに何故か顔が赤らむ。
「犬夜叉…」
「心配すんな。いつもみたいにでーんと構えてろ」
こんな状態で、ついそんな不遜な事を思った自分を誤魔化すように犬夜叉は、殊更ぶっきらぼうにそう言った。
共に数多くの修羅場を潜りぬけて来た仲間である。その攻撃の【間】もぴったりと息のあったもので、多少梃子摺りはしたがこの目の前の妖樹の命運ももう決まったようなものである。
「犬夜叉っっっー!!」
弥勒が風穴を開き、あたりの木っ端も土塊も木の根もすべての物が風穴の中の【無】に飲み込まれて行く。それに引き込まれまいと、妖樹は攻撃に出ていた根をしっかりと大地の突き刺し激しく抵抗する。
「よし! 今だ!!」
犬夜叉が構えた鉄砕牙から、妖気の塊である風の傷が唸りを上げ始める。
一発、必殺。それは、間違いなく ――――
それを、嬉々として待ち受ける【モノ】
その【モノ】の北叟笑みに ――――
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
―――― 散々梃子摺らされたが、結末はあっけなかった。
犬夜叉渾身の【風の傷】を受けた妖樹は、激しい妖風にそれこそ木っ端となって崩れ去った。その様を、思案深げに弥勒が見詰めている。
「…終わったね、犬夜叉」
犬夜叉の背の【かごめ】が、その犬耳に甘く囁きかけるように呟いた。
「あ、ああ…」
そう答えはしたものの、釈然としないものが蟠っている。
確かに、目の前の妖樹は倒した。しかし、晴れるどころかますます濃密になってくるこの【妖気】はなんだ?
そう…だ。
最初から、おかしかったのだ。
この【場】に結界を張っているものは、この妖樹ではない。
また何か、【別】のモノ。
結界の中は、【邪気】が渦巻いてはいたが【妖気】はなかった。
別のモノの【気】はあったが、それは【妖気】ではない。
ま、まさか!?
犬夜叉の胸に、消し様の無い疑念が湧いてくる。
「犬夜叉…」
心配そうに背中のかごめが、覗き込むようにその顔を犬夜叉の顔に近付けた。故意か、偶然か?
かごめの柔らかな唇が犬夜叉の項に触れた。
ほんの一瞬、ちりっと痛みにも似た熱さを感じ…。
甘い、甘い、かごめの匂い。
その匂いの中に、【女】を潜ませ ――――
弾かれたように犬夜叉は背中のかごめを振りほどいた!
「な! 何をする、犬夜叉っ!! かごめは怪我をしておるんじゃぞ!!」
「へっ! 俺ともあろう者が、すっかり騙されたぜ!! 結界の中をこの胸糞悪い匂いで満たされて、【鼻】を潰されていたとは言えなっ!!」
「な、なに…? 何を言ってるの…、犬夜叉」
痛めた足を引き摺りながら、なおやかにかごめが犬夜叉に近付く。
二人の異変に弥勒も珊瑚も身構える。
「…手前ぇ、誰だ? よりにもよってかごめに化けやがって!!」
はっとしたように弥勒が犬夜叉の顔を見、かごめを見る。
低く喉声を発し、金の獣眼を光らせる犬夜叉。
弥勒もまた、纏わり付いて離れなかった【違和感】の正体に気がついた。
「…いやだ、犬夜叉。私、かごめよ? もっと、良く見て!」
「ふん! 見るまでもねぇさ!! もう、隠し様もねぇだろ、その胸糞悪い匂いはっっ!!!」
「犬夜叉っっ!!」
泣き出しそうな表情で、【かごめ】が叫ぶ。
「…いい加減、正体を顕わせっっ! いつまでも、かごめの顔と声で俺を呼ぶな!!」
「犬夜叉…」
「…かごめは、お前みたいな厭な匂いはしねぇんだよ! お前みたいな、甘ったるくて腐った、【男】を誘うような匂いはなっっ!!」
犬夜叉と、【かごめ】に似た何者かが対峙する。
「そう言う訳だったのですね。と、すると…」
弥勒の表情も強張ったものになる。
「…な、なんじゃ? 一体、何が起こっとるんじゃ!」
オロオロと対峙する二人の顔を見比べながら、訳が判らず混乱する七宝。
「ね、ねぇ…、法師様。もしかして、【風の傷】は拙かったんじゃ…」
「ええ、どうしてこの【場】に足を踏み入れた時、あんなにも【違和感】を感じたのか。そう、ここには【妖気】というものがまるで感じられない」
「ああ、そうだね。どんな所にでも人に【障り】がない程度には、妖気の欠片くらいはあるもんさ。聖域でもない限りね」
「でも、ここは聖域ではないじゃろう? むしろ、息苦しい程に邪気が渦巻いておる」
重苦しい空気の中、それぞれが形を取り始める考えの恐ろしさに身震いする。
「…この結界を張ったものは、この場に妖気が侵入するのを必死で防いでいたんです。そして、この中に居る【モノ】が外に出る事も」
「だ、だけど、オラ達は入れたぞ?」
七宝は、自分と雲母、そして犬夜叉を見た。
「それは…、多分 かごめ様が【何者】かに呼ばれたからでしょう」
「そのかごめちゃんを呼んだのも、あいつじゃないのかい?」
そう言って珊瑚は、かごめと見分けの付かない【何者】かを見た。
「いえ、違うと思います。あいつが呼び寄せたかったのは、必要だったのは…、【妖力】を持つ者…」
「法師様…」
「そうです。その【妖気】・【妖力】を核に、この場に渦巻く【邪気】を取り込んで、自分が本物の【妖怪】になる為に!!」
「そ、それじゃ…!!」
「…かごめ様は巫女の力を、それも並々ならぬ御力を持ってます。あいつに取っては、邪魔な存在です」
ざわり、と嫌な風が吹く。
犬夜叉と対峙していたモノが、【かごめ】の顔の下から本性を顕わしてくる。
禍禍しい、その表情!
「へっ! やっと正体を顕わしやがったか!! だけど、お前もバカだな! 俺の【風の傷】の妖気を取り込んで変化したばっかりの奴にやられるような俺じゃねぇ!!」
( ソレハ、ドウカナ? )
聞こえてきた【声】はもう、かごめの声ではなかった。
いや、すでに【声】でさえなく、直接頭の中に悪意に満ちた思念が流れ込む。
( クックックッ…、アノ娘ガドウナッタカ気ニナラナイノカ? )
「 ―――― まさか!!」
みるみる犬夜叉の顔が蒼ざめる。
( ソウ、ダ。オ前ガ殺シタ。私ノ【枷】ト共ニナ )
耳を覆っても、勝ち誇ったような妖怪の嘲笑が頭の芯に響き渡る。
今では、はっきりと妖怪に変化した白骨樹林が、結界を内から破ろうと至る所で妖光を煌かせていた。
「枷!?」
その言葉が、大きく犬夜叉達の胸に圧し掛かる。
つまり ―――――
この怪異を引き起こしていた【モノ】を【風の傷】で本物の妖怪にしてしまった上に、どんな理由かは判らないがこの【モノ】を縛めていたらしい妖しげな【樹】を薙ぎ払ってしまった事で、ますます事態を悪化させてしまったのだ。
何よりも、この【モノ】が吐き捨てた、あの一言!
―――― オ前ガ、殺シタ
( 馬鹿なっ! そんな事があってたまるかっっ!! )
だが、もしあの樹体の中にかごめが捕らえられていたら……
【風の傷】で切り刻んでしまったかもしれない。犬夜叉だけではなく、誰の胸の中にもその恐ろしい考えが墨を零したように黒く重苦しさを伴って広がって行く。
かごめの姿をしていたものは、もうそんな必要はないと感じたのだろう。その姿を変化させ正体を露にした。それは、この林に入る前に見かけた村人と良く似た奇怪な、【魎(こだま)】そのもの。捩くれた枝々がその性格を現しているかのようで、おぞましさと不快さを煽る。
「忌々シイ事ニ、我ハアノ尼トコノ公孫樹ノ木霊達ノ【力】デ、コノ林ノ中ニ封印サレテオッタ」
自由の身になれた事が嬉しいのか、その樹妖は嬉々とした声音で話し続ける。
「何ヨリモ、我ノ依リ代デアッタアノ桜樹ガ我ニトッテノ枷デモアッタ」
「…良くしゃべりやがるな、手前ぇ!! かごめの助けを借りたいと呼び寄せた尼さんごと二人を樹の中に閉じ込めやがって、俺に斬らせたな!!」
「…尼ヲ喰ロウタノハ我ダガ、巫女ヲ呼ビ込ンダハ、ソノ尼ノ仕業。丁度良カッタガナ」
「くっっ…!」
犬夜叉の、鉄砕牙を握る手に力が篭る。
「まさか、かごめちゃん…」
今まで硬直したようにその場に立ち尽くしていた珊瑚の口から、搾り出したように声が漏れる。
「ま、まさか、かごめ…、死んでしもうたんかっ!?」
七宝の顔は今にも泣き崩れんばかり。
緊張した面持ちであるが、弥勒が瓦礫と化した桜樹の方へ視線を走らせる。まさに犬夜叉が樹妖に打ち掛かろうとした、その瞬間!
瓦礫の中から紫白の光の軌跡を描いて、一本の矢が樹妖に突き刺さる!!
「かごめ様…」
緊張を解きながら、弥勒の顔に小さく笑みが浮かぶ。
そこには…
破魔の弓を構えたかごめと、傍らに尼僧の姿。
そして、その後ろに控えているのはその昔、野盗どもに無惨にも同士討ちをさせられて殺された深山の家臣達とその姫君。
その者らの【魂】の力か、かごめの体は強力な結界に守られていた。
「――― 勝手に殺さないでちょうだい! 私はこの通り、大丈夫!!」
「かごめ―――!!」
「かごめちゃん!」
かごめの無事な姿を見て、なおその手に力を込める犬夜叉。
「手前ぇなんかに殺られるほど、かごめはやわじゃねぇ! だがな、さんざん俺達を振り回しやがったツケは、この俺がきっちり着けてやらぁ!!」
言うが早いか、かごめの破魔の矢を受けてもまだ浄化され切っていない樹妖を袈裟懸けに切り捨てた。切り裂かれた樹妖の体がかごめの浄化の力に押され、粉々の灰になってゆく。
「…コレデ、終ワッ……タ…ト思ウナ……ヨ…」
不敵な笑みとともに、その言葉を残し。
それでも、皆は斬られ者の戯言と受け流し。
そんな言葉よりも、かごめの無事な姿の方が何よりで。
―――― 密かに根を張りつつある魔手に、まだ誰も気付いてはいなかった。
4へ
TOPへ 作品目次へ