【 鬼棲樹−やどりぎ− 4 】




 今度こそ、今度こそ決着がついたと、だれもがそう思った。そうして、かごめの後ろに控えている者達に犬夜叉達は改めて目を向けた。そこには控えめに頭を下げた尼僧と小さな女の子を中心に周りを固めるように立っている五・六人の武者達。

「…貴女がかごめ様を呼ばれたのですね?」

 そう声をかけたのは同じ僧形の弥勒。

「はい…。大変不躾な事ではありましたが、もう一刻の猶予も御座いませなんだ故」

 尼僧を始めかごめの後ろに控えている者達は、もう既にこの世の者ではないのだが、亡者にありがちな忌まわしさは感じられなかった。

「あの、さ…。もう少しあたし達にも判る様に話してもらっても良いかな?」

 恐る恐ると言うか、こんな形で亡者との対話をする事などなかった珊瑚が、それでも事の経緯ははっきりさせたいという珊瑚らしい生真面目さで話に加わる。

「…私が話すわ」

 重たい口を開きかけた尼僧を留めて、かごめが言葉を繋いだ。

「かごめちゃん…」
「かごめ…」

 一呼吸おいて、ゆっくりとかごめが話し始めた。



  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 ―――― この公孫樹林の怪異の全ては、【弔い】の想いから始まった事。

 事の起こりは三十年ほど前の野盗と落ち武者と深山の一族との三つ巴の争いにある。隠れ里が襲われたのは、ここにいる尼僧の所為。教えてはならぬ掟を破り、落ち武者の若侍に隠れ里の在り所を教えたから。
 勿論、この尼僧にもその若侍にも、里を襲うつもりなど毛頭なかった。若侍はこの尼僧であった娘と二世を契った後、仲間の所に別れを告げに戻ったのだろう。

 それを律儀と取るか短慮と取るか…、若侍の態度を不審に思った仲間の手で加えられた凄惨な責めは想像に難くない。

「……その若侍が、裏切った訳じゃないのか?」

 疑わしげな目つきで犬夜叉が口を挟む。その犬夜叉の言葉を受け、尼僧が消え入りそうな声でかごめの後を続ける。

「いいえ、それはありませぬ。彼の者は里の入り口近くで切り殺されておりました。満身創痍で、それでも必死で留め様としたのでしょう。里に背を向け両手を広げた姿で…」

 この尼僧がその骸(むくろ)を見つけたのは、野盗達に蹂躙される里人の姿を見るに耐えなくなり、そっと引き返そうとした時だった。野盗に襲われた訳ではないと見たのは、切り殺されてはいたが身包みを剥されてはいなかった。こんな言い方は不遜だろうが、【きれいな】骸。
 そして知った、己達の欲の為には身内の者でさえ手にかける浅ましさ。その報いは、野盗達に嬲り殺され、武士でありながらその首を晒された事であろう。

「わたくしは、せめて落ち延びたはずの姫君主従と同道せねばと、村への道を取って返したのです。もし、生きておられるのなら、村へ立ち寄る筈だと」

 しかし、その思いも一足違いですれ違う。
 ――― 尼僧が追いついた時、全ての事は終わっていた。

 この公孫樹林の白い樹体を家人衆の血潮で赤く染め、幼い姫は皆を抱くように小さな両手で血の涙を流しながら覆いかぶさっていた。

 全てが、遅すぎた。
 たった一人、自分だけを残して ――――

「…わたくしが、姫様達をここに葬ったのです。姫様のお命を奪った桜の枝を抜こうとしましたが、どうしても抜けずそのままに ―――― 」
「では、その姫の無念さがあの妖の正体か?」

 先を急いで、七宝も口を出す。

「ううん、そうじゃないの。あのお姫様達は、自分達の信念に従って殉じられたの。だから、それはないわ」
「じゃ、一体何がそうさせたんだ?」

 見えそうで見えない真相に、短気な犬夜叉が苛つき始める。
 何か、自分の【なか】でざわつくものがある。

「…わたくしは姫君達を葬った後、仏門に入りました。他に償う術はないと…。そして姫君達の潔い、清い魂はこの公孫樹林の木霊達の【心】をも動かしたのです」

 訥々と尼僧が言葉を続ける。

「せめてもの手向けにと、木霊達は血に染まった桜の枝に樹精を注ぎ、見る間に大木へと育て上げたのです。そう、姫君達の墓標となるように」

 今にも、尼僧の姿は消え入りそうだ。すでに、もう【この世】の者ではないこの尼僧は、生前の己の罪の意識からこの地に戻り、この桜樹の下に庵を結んで供養に努めたのだろう。

「ですが、それは村の者たちに取っては【怪異】だったのです。【罪】の意識にさい悩まされ花が咲く度に怖れ、やがて【悪しき気】の道をこの樹に作ってしまったのです」

 かごめが頷き、弥勒は得心が行ったと表情を浮かべる。

「…では、この林に満ちているこの【気】は人間の負の想念」
「はい…。ありとあらゆる所からの悪しき想念の吹き溜まり。それが【醜心−おに−】を生じさせたのです」


 ――― クックックックッ


「姫君達の墓標であるこの桜樹には、最初から二つの【念】が宿っておりました。潔い最期を迎えられた姫君御家来衆の清い魂。その姫君達を非業の死に追いやった野盗どもの邪悪な念」

 静かに、さらに話は続く。

「…木霊達が注いだ樹精は、その邪悪な念を核にした【醜心】をあのようなものに変化させてしまいました」
「ねぇ…、普通はさ、もうその時点で【妖怪】に変化してるんじゃないのかい? あんな中途半端な化け物じゃなくさ」

 妖怪退治屋としての、それはあまりにも正当な意見。

「はい、そう… 普通の状態であれば。ただ【醜心】が依り代にしたこの桜樹には姫君達もおられました。そして何よりもこの林が年月を重ねた公孫樹の木霊達の住処だったという事です」
「…判りました。木霊達がこの林に結界を張った。【醜心】が林の外に出ぬように。ここはある意味、【聖域】だったのですね」

 【醜心】の変化は、依り代の桜樹がなくては【貌−かたち】を取る事が出来なかった。しかし、その為にまたこの樹に縛り付けられていたとも言える。【自由】になる体を欲して最初は、公孫樹の雌の樹の樹勢を借りて、自ら分身を生み出そうとした。そして、その結果は失敗だった。公孫樹の雌達がそれを拒み、枯れていったからだ。

 次は人間に取り憑こうと考えた。それが、先の神隠しの真相。しかし、人間如き生身の器ではもう、この【醜心】を納める事は出来なくなっていた。木霊達が結界を張ったのもこの辺りの事。それまでは、惧れを抱きながらも村人とこの林は共存していたのだ。

「…わたくしがこの地に参ったのが丁度その頃の事です。これもきっと姫君達のお導きと、この桜樹の下に庵を結び、微々たる力ですが木霊達の加勢しておりました」

 残った力を振り絞って話している尼僧の苦しげな様子に、その後をまたかごめが引き継ぐ。

「…人間の【心の力】ってとっても大きいのね。それが善きにしろ悪しきにしろ。ましてや今はこんな時代。一回出来てしまった【気の道】を、霊達も庵主様も絶つ事が出来なくなっていたの」
「それじゃ、結界が破裂してしまうんじゃないのか? かごめ」
「そうよ、七宝ちゃん。それがこの林の近くに広がっていたあの奇病の正体よ。結界の小さな裂け目から零れた【醜心】が魎(こだま)に変化し、取り憑いた姿。そしてね、木霊達も【醜心】に操られつつあったの」

 【醜心】は直接、心を操る。体に加えられる攻撃よりも、心に与える攻撃の方が人間を傷付け【壊す】のに有効だと知っている。傷付けられた心がまた新たな【醜心】を生み出してゆく。

 もし、あそこで犬夜叉がこの結界を切り裂いていたとしたら…。
 取り返しのつかない事になる所だったのだ。

「そういう事だったのですね。かごめ様が祓っても祓い切れない筈です。およそこの世に生きている生き物の中で人間ほど、貪欲な生き物はいないでしょうから」

 皆の話を聞きながら、珊瑚が何をか考え込んでいる。
 恐ろしい予想を胸に秘め ――――

「一つ気になる事があるんだけれど…、木霊達が結界を張ったもう一つの理由は、【妖気・妖力】を持った者を近づかせない為もあったんだよね? 今度の場合は、かごめちゃんの【浄化の力】が必要だったから犬夜叉や七宝なんかもここに入れたって事だよね」
「珊瑚…」
「珊瑚ちゃん…」
「…【醜心】が犬夜叉にあの桜樹を斬らせたって事は、依り代の替わりを見つけたって事じゃないのかい?」


 ―――― !! ――――


 【醜心】が【鬼】になるのに必要なもの ――――
 【妖気・妖力】と自由になる【身体】


「…ま、まさか、犬…夜叉………」

 青ざめた顔でかごめが犬夜叉の顔を見る。

「へっ、枷…か…よ……」

 苦しげに眉を顰め、じっとりと脂汗を滲ませている。
 その首筋に ――――
 白銀の髪を押しのけて、忌まわしいものが芽吹いていた。


 ―――― 男の握り拳大ほどの、それは醜悪な頭。


 先ほどまでかごめに化けていた、あの妖樹の【醜心】の変化と同じ顔。その醜い顔が勝ち誇ったように、甲高い人の気持ちを逆撫でにするような声で喚き散らす。

「ひぃぃぃっっっひひ、我の勝ちじゃぁぁ〜。もう、この身体は我のもの。我の糧となれ、取り込んでしまおうぞ」

 足を怪我したと思い、背負っていた偽のかごめ。本当の目的はこれだったのだ。分身を作る事も出来ず、人間に取り憑かせた魎(こだま)では人間の身体は朽木のように変化してしまい、自由が利かぬ。最後の手段として【醜心】は念を凝らし、己を芽吹かせる為の【種】を作り出したのだ。

 この桜樹があるかぎり、己は自由にはなれない。自由になる為に、この【醜心】は【種】に相応しい【苗床】をずっと待っていた。強大な【妖力】を持つ妖怪を。【種】はその妖怪の妖力を身体を喰らいながら根をはり、枝葉を伸ばすように己の身体を作ってゆく。苗床にされた妖怪の全てを喰らい尽くした時、そこには新たな一匹の妖怪が生まれる。

 数多ある人間の【負】の心を妖力の源とする、妖怪 ――――

 一度生まれてしまえば、どれほどの勢いで増えて行く事か。最初に生まれた妖怪が強ければ強いほど、容易い事。より強い種をより多く、他の妖怪どもに植え付け芽吹かせる。この世に善人だけの国でも出来ない限り、この妖怪達の力は尽きない。犬夜叉の耳元近くで蠢く【醜心】を、犬夜叉は力任せに引き抜こうとした。

「ぐっ! がはっ!! くくっ…、つっっ!」

 僅かばかりに引き抜かれた【醜心】の根は犬夜叉の肉を食み、溢れる鮮血に塗れていた。その血を求めて根は新たな根を伸ばし、犬夜叉の皮膚の下を這いずり回る。

「くくくっ。旨いな、お前。待っていた甲斐があったというもの。こんな極上な身体が喰えるとは」

 気のせいではなく、犬夜叉の首に生えた頭が一回り大きくなった。
 犬夜叉は半妖とは言え、父・闘牙王より並々ならぬ妖力を受け継いでいる。その力を糧にされたら、どんな事になるか。

「法師様! あいつだけ、封印とか出来ないの?」

 青ざめた顔で、かごめが弥勒に助けを求める。沈痛な面持ちで、弥勒は破魔の札を構えた。

「…封印は、出来るかもしれません。しかし、あいつだけと言う訳には…」
「法師様…」
「犬夜叉とあいつが【別】なら、出来ましょう。しかし同体、と言う事になれば……」

 見る間にその首は、犬夜叉の首と変わらないくらいに【成長】している。

「弥勒っっ!! ぐだぐだ言ってねぇで、さっさとやれっっ!!  手遅れになっちまうっっ!!!」

 身体の内裡(うち)から喰われてゆくおぞましい感触に必死で耐えつつ、犬夜叉が叫ぶ。

「ならばっっ!!」

 弥勒は手にかざした破魔の札を飛ばした。
 札は狙い違わず、【醜心】の頭に幾重にも張り付く。この世のものとも思えぬ悲鳴があがる。しかし、それは犬夜叉も同様であった。札の威力に締め上げられ、苦しそうにもがいている。

 っと、その苦悶の叫びが、止まる。

 【醜心】の頭に張り付いた札が青白い炎を上げて燃え上がり、一片の灰になって剥がれ落ちる。

「…たいした妖力だな、小僧。僅かに喰らっただけで、この【力】。早く、お前の全てを喰らい尽くしたいものだ」

 顔色を失くしかけている犬夜叉に対し、【醜心の首】は朽木のような肌色だったものに、うっすらと生色が見え始め艶も出始めた。頭の大きさはもうそれほど大きくはならず、少しずつ見てくれを【人間】っぽく作り始めている。忌々しい事にそれはどこか犬夜叉にも似ているように見え、かごめ達の心をさらに傷付ける。

「さ…、珊…瑚っ!お…お前の、飛来……骨で、こいつの… 首…… 飛ば…せっっ!!」
「出来る訳、ないよっっ!! そんな事したら、犬夜叉 あんたの首まで飛んじまう!」
「か、構わねぇ…!! 弥勒っ! …お前、でも…… 風穴…っを!!」
「犬夜叉っっ!!」

 他に方法(て)はないのか!
 犬夜叉は、既に己の身を捨てる事さえ覚悟していた。自分のこの身体を妖力を糧に生まれてくる妖怪のおぞましさを考えれば…。

 力のない妖怪は全てこの【鬼棲樹−やどりぎ−】の苗床にされてしまい、新たに生まれた【鬼】達の放つ魎(こだま)に取り憑かれた人間はあの生きる屍のような無惨な姿されてしまう。あんな状態でも死んではなかったのは、【心の負の力】を搾り取る為。

 そんな事はさせない!
 この身に替えても、絶対にっっ!!

 ますます犬夜叉の顔色は悪くなり、白銀の髪の輝きもくすみ灰色がかってくる。強気な色を湛える金の眸も暗く沈み…


「…私が、やる」


 静かに、しかしきっぱりとかごめが言った。

「かごめちゃんっ!?」
「かごめ様、しかしそれでは…」
「かごめ…」

 かごめはきりきりと破魔の矢を番えた弓を引き絞っていた。

「だ、だめですっ! かごめ様っっ!! 同体なのです、あれと犬夜叉は! かごめ様があの頭を浄化すると言う事は、犬夜叉も浄化すると言う事!!」

 かごめの【巫女の力】の凄さは先ほどの【鳴弦の法】でも、良く判っている。今度は祓うべき相手もはっきりしている。かごめが【その気】ならば、浄化は出来るだろう。犬夜叉を永遠に失って。

「ねぇ、弥勒様。【浄化の力】って、何なのかしら? そこにあるもの全て、消してしまう事? 私は、違うと思うの」
「かごめ様…」
「…いくべきものをいくべき所へ導く力じゃないかと。だから…」
「かごめ…」
「淀んでしまってはダメなのよ、流れなければ。過ちを忘れろとは言わない、でも同じ過ちを繰り返さない。やり直せると、そう思う気持ちが流れを作る」
「かごめちゃん…」

 わざとだろう、犬夜叉に似た造作を整えつつ、邪悪な笑みを浮かべながら【鬼棲樹】はかごめを挑発する。

「出来るものなら、やってみるがいい。お前の好きなこの男は、お前が矢を放ったが最後、我とともに消滅するぞ!」

 【鬼棲樹】は桜樹の中にかごめが居た時にその心を読み、密かに根をかごめの姿に仕立てて犬夜叉に接触させた時に、犬夜叉の心を読んだ。互いが互いを思いあっている事を。

「―――― そんな事、しない。させない」
「娘、お前…」
「ここでは、【想い】が力になる。ならば、皆、力を貸してっっ!! 全ての【枷】からの開放をっっ!!!」

 昔、見殺しにした領主への慙愧の念から、村人は罪悪感と領主達への怖れを枷とし負の思いを募らせ、惨殺された姫君たちは、その骸を縫いとめた桜樹こそが枷となり、またそこに宿った【醜心】も枷で、この地を離れる事が出来なかった。
 【醜心】にも清い魂を宿したこの桜樹は枷。この桜樹を弔いの思いで育てた花守の公孫樹達にも【醜心】が枷。そして今、【鬼棲樹】にとっては喰らい尽くすまでは、犬夜叉が【枷】

 今までにない程に破魔の矢に光が集まる。

 放たれたその瞬間、それは清らかな澄んだ音を響かせて辺りの空間を震わせた。まるで、【鳴弦の法】のように。
 その矢は、真っ直ぐで揺ぎ無いかごめの【御光−ひかり−】を乗せて、迷いもなく【鬼棲樹】の頭を射抜いた。そして、頭を貫きそのまま花守の結界を消滅させる。結界中は眩いばかりの光に満ち、光の奔流に流れ去っていった。

( …流石に、きついな。でも、お前が決めた事なら、文句もねぇ。俺は、かごめ お前を信じる!! )


 犬夜叉の身体の中を光が奔る。
 この感じは…、ああ、そうか。
 桔梗に封印された、あの時と…… ?


 いや、違う!


 犬夜叉の身体の隅々までに伸ばされた【鬼棲樹】の根が、犬夜叉の身体の中を奔る光に焼き尽くされ、ほろほろと消滅して行くのを感じる。
 痛いようなびりびりするような光の刺激は、犬夜叉を【拘束】するものではなくむしろ【賦活】させるような、そんな感じ。


 力が、漲る ――――


( かごめ!! )

 風が吹き抜ける。
 犬夜叉の身体を、閉ざされたこの花守の公孫樹林を ――――


 全てが、光と共に!!


「犬夜叉っっー!!」

 色彩さえ奪う光の奔流の後で、ぐらりと体勢を崩した犬夜叉にかごめが叫びながら駆け寄った。

 その身体には、あの忌まわしい【鬼】の姿は無く ―――
 かごめの見ている目の前で、犬夜叉に寄生していた痕も掻き消えて行く。

「犬夜叉っっ!! 犬夜叉、大丈夫っっ!?」

 駆け寄ったかごめの手を握り締めながら、身体を支える。
 身体中、全ての【力】を出し切ったあとのような酷い疲労感が残っているが、清々しい。

「…お前、やっぱりすげー奴だな」
「犬夜叉…」

 白骨樹林のようだった公孫樹林が、清浄な月の光の下、さらさらと銀の砂のように崩れ去って行く。

 その向こうに ――――

( 姫っっ!! )
( 父上っっ! )

 愛娘の囚われたままの魂を案じて、未だこの世を彷徨っていた深山の領主の魂。

( 殿っっ! 申し訳御座いませぬ、姫をお守りする事叶わず… )
( 良い。そちたちも大儀であった。今まで良く、我が姫を守ってくれた。礼を言うぞ )

 慈愛深き領主と信義に篤き家臣との歓合の時。
 その傍らで在りし日の娘姿に戻った庵主が、愛しい者の腕の中に還って行く。今まで封印され蟠っていたものがあるべき姿に戻り、昇天してゆく。その顔に笑みを浮かべ、新たな輪廻の輪の中へ。

「ふぅぅ、今度こそ、終りましたな」
「大丈夫、かごめちゃん? 疲れたんじゃない?」
「ううん、私は大丈夫。それより、七宝ちゃんや雲母は?」
「うん? オラはなんとも無いぞ。あれは、【鳴弦の法】とはまた別の術なんじゃな」

 かごめに支えられていた犬夜叉は、半分強がりでかごめの手を離すと、七宝の頭をぐりぐりと押さえつけた。

「ばーか。かごめが俺達を苦しめるような真似をする訳ねーだろ。なぁ、かごめ!」

 そう、犬夜叉の笑顔を向けられたかごめはちょっと困ったような顔して、苦笑した。

「…私にも良く判らないの。さっきの矢の力と、鳴弦の法の違いなんて。ただ、ね…」
「ただ…?」

 かごめがその瞳を昇天していった深山の一族の後を追うように、きららかな星空に向けた。

「力で消し去るんじゃないんだと思ったの。皆、良くなって欲しい。私の力で犬夜叉や七宝ちゃんや雲母を傷付けたくないって。そう、思ったの」

 当たり前だからこそ、一番強い【思い】なのかも知れない。
 出来そうで出来ない事をやってのける、かごめ。
 かごめだからこそ!

「ああ、もう 夜も明けるね」

 珊瑚が東の空を見詰めそう呟いた、星空の下に、うっすらと薄明の兆し。

「これでもう二度と、この村を怪異が襲う事も、【醜心】が蟠る事もないでしょう」

 新しい朝が、訪れようとしていた。



  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



「法師様、なんとお礼を言えば良いのか…」

 村長の屋敷に戻り、事の次第を告げる。
 屋敷に帰る途中、立ち寄った村はずれの家々では、魎(こだま)の呪縛から開放された人々が少しずつ元の姿に戻ってきていた。

「村長殿。此度の怪異の元凶は何であるか、ご存知か?」

 もう座敷には上がらず庭先で事を済ませようと言う一行の前に、縁側で腰を低く頭を下げていた村長。その姿を認めて、静かな口調で弥勒がそう切り出した。

「…野盗どもに滅ぼされた、深山の一族の怨念なのでは……」

 暗い表情で、消え入りそうにそれだけを答える。

「なんじゃ、全然判っとりはせんじゃないか!」

 七宝が腕を組み、小さな頬を膨らませる。

「…村長さん。深山の人たちはこの村の人の事をちっとも怨んではいなかったわ。こんな時代だから、いつでもその覚悟は出来てたって」
「そ、それでは……」

 困惑しきった表情で一行を見上げる村長に、冷たく厳しい目付きで珊瑚が一言、斬り付ける。

「あんた達だよ、あの怪異を呼び込んだ元凶はねっ! あんた達、自分達のした事が後ろ暗かったんだろ? 恨まれていると、祟られても仕方がないと、そう思っていたんだろ?」

 きつい珊瑚の物言いに、村長の影が小さくなる。

「…巡り会わせもあったと思うの。あの公孫樹林は木霊達の住処でもあったから。深山のお姫様達への弔いの念が、あなた達には怪異に見えてしまったのね」
「……………………」

 ゆらり、と犬夜叉の影が大きく村長の上に落ちる。

「…自分達では何もせず、そのしなかった事の責任も取らず、ただ胸の内に昏い想いだけを抱き続けて、あの化け物を育てたんだ!!」

 叩きつけるような、激しい口調。
 村長は本当に切りつけられたように、血の気を失くしていた。

「今更、出来なかった事を責めはしますまい。こんなご時世です、何の力もないあなた達が保身に心を砕くのも、致し方ないでしょう。ならばせめて、深山のご一族の冥福を祈り手を合わせて欲しかった」
「法師様…」
「ご自分達の取った行いをちゃんと次の世代にも伝え、同じ過ちをせぬように、もし同じ事態に遭遇したらもっと良い方法が取れるようにと、そう心がけて欲しかった」
「あ、ああぁぁぁ…」

 背を丸め、床に突っ伏し嗚咽を上げる。

「…とても優しいご領主様だったんでしょ。それを祟りだとか忌まわしいもののように言っちゃ、可哀想だわ」
「…手前ぇの間違いや弱さを認めるのは、そりゃ恐ろしいさ。忘れる事も出来ねぇで、手前ぇの胸の内で溢れる【想い】が墓標だった桜樹に【醜心】の気の道を付けちまった。そう言う事だ」

 そう言った犬夜叉の言葉を契機に、一行は村長に背を向け歩き出した。
 ふと、弥勒が立ち止まり柔和な顔を村長に向けた。

「村長殿。もう、あそこには何もありません。そう、木霊達の住処であった公孫樹林も、深山の姫君たちの墓標で【醜心】が宿っていた桜樹も。もし、もう二度とあのような怪異を呼び込みたくなくば、あなた達の手で塚を建て、弔って差し上げなさい。深山の一族がどれほど素晴らしい心根の持ち主であったか、どうして滅びてしまったか。何一つ隠す事無く、孫子の代にも伝えて」

 弥勒がシャラン、と錫杖の金輪の涼やかな音を響かせる。その音の余韻の中、立ち去る一行をいつまでも村長は伏し拝んでいた。



  * * * * * * * * * * * * * * * * *



 犬夜叉の二日酔いで出遅れた旅は、振り出しに戻った。


 あの時、大丈夫といったかごめだったがやはり気力も体力も使い果たしていたし、また犬夜叉も体力の消耗が激しかった。楓の村までは雲母に送ってもらい、二人で井戸を潜る。
 井戸を潜って、かごめを【現代】に送って来ると感じる、圧倒的な重く濃密な【人間】の臭い。

「…何時も思うけど、なんだってこんなに人間が溢れてるんだ?」
「それだけ、この世界が平和だって事よ」


 そう、確かに【平和】 ――――
 ここだけ見れば。


「ねぇ、犬夜叉。ご飯、食べてくでしょ?」
「ああ、そうだな。そう言えば、腹減ったな」
「ふふ、食べられかけたんだもんね。その分、お腹も空いたでしょ」

 茶目っぽく微笑むかごめに、心が和む。

「お前さぁ、やっぱり凄いな」
「うん?」
「よくあんな場面で、落ち着いていられたな。もし、俺が…」
「だって、私 信じてるもん、犬夜叉の事。犬夜叉なら大丈夫だって!」
「なっ!? 何を根拠にお前…」

 まだ何か言い募ろうとしている犬夜叉を置いて、かごめが母屋に向かう。朝には遅く、昼にはまだ早いそんな時間。柔らかな秋の太陽の光が境内いっぱいに、溢れている。

 その光の中で、かごめが振り返る。何か、企んだような表情で。

「…あの時ね、犬夜叉。あんた、【人間】に変化しかけてたの。【鬼棲樹】に妖力を喰われてたせいだと思うけど…。だから私、いけるっっ!!って思ったの」
「かごめ……」

 後の言葉は悔しいからか、口にする事はなかったが。


( ああ、やっぱりお前ぇの度胸には度肝を抜かれる、敵わねぇな。 )


「まぁ、いらっしゃい、犬夜叉君」

 にこやかに微笑みながらかごめの母が二人を迎える。

「ママ、お腹が空いたの。何か食べるもの、ある?」
「ええ、ええ! すぐ用意するから、沢山食べて頂戴v」

 二人を食卓に座らせると、台所から慌しくそれでも何処か楽しげに調理する音が響く。食事にありつくにはもう少し時間がかかりそうだ。何気にテレビのスィッチを犬夜叉が入れた。

 テレビの画面にはどこかの田園風景。
 今、注目を浴びているスローフード、スローライフの実践者へのインタビュー番組。

 その人物を見た途端 ―――

「「あああっっっ〜!!!」」

 ふたりの声がハモる。
 インタビュアーの質問にその人物が答え…

『ええ、私たちは【百姓】だと、胸を張って答えています。百姓は【百生】。沢山の命を育む事の出来る素晴らしい生き方をここで実践しているのです。心強い仲間にも恵まれましたし』

 そう答えた壮年の男性は、腕に抱えた愛娘に笑顔を見せる。
 その後ろにはこの男性の考えに賛同した仲間達。初々しいカップルも見て取れて ――――

「こ、この顔…」
「そうよ、深山のお殿様とお姫様。それに庵主様やご家臣の方たち ―― 」


 【想い】は叶う ―――
 道を誤りさえしなければ。


「なぁ、かごめ。なんか、こーゆーのって良いよな」
「うん、そうだね」

 くすくすと笑いあう二人を目にし、かごめの母もにっこり笑っている。

「ほらほら、もう食事だから、テレビは消してママにも向こうの話を聞かせて頂戴」

 かごめの母の言葉に、犬夜叉が手を伸ばしスイッチを切る。
 切られる寸前に流れ始めたニュースは中東での…



 一番恐ろしい【魔物】



 それは、【人の心】かもしれない。
 良くも悪くも、それ次第。



 ……人は、【疑心暗鬼】という鬼を心に飼っている生き物なのだから。





【完】

2005.07.28



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